聖都の昼と夜 1




 その日の夜。

 ディエラード公爵邸のイシュルの部屋で、ミラはじろっとイシュルを睨みるつけると言った。

「この銀の指輪が、サロモンさまから下賜された毒見の指輪ですね?」

 イシュルの右手の薬指にはまっている、銀の片草模様が彫られた指輪がそれだ。

 イシュルがぎくっ、となって思わず右手を引っ込めようとすると、イシュルの右手を握っていたミラがぎゅっと力を込めてきた。

 ……ゔっ。逃げられない。

 ミラがにーっと薄く笑みを浮かべて、イシュルを上目に睨んでくる。

「毒見の魔法具程度でしたら、わたくしにおっしゃってくださればどうにかしましたのに」

「ほんとに? な、ならミラに頼めばよかった」

 イシュルはとても愛想よくミラに言った。だがその笑みは見事に引きつっている。

「イシュルさま」

 ミラが少し、顔を近づけてくる。

 イシュルの奥の部屋、居間には今はふたりしかいない。

「おからだが震えておりますわ」

「はは」

 イシュルはただ強ばった笑顔を向けるだけ。何も言えなかった。

 なんだか背中を気持ち悪い汗が流れる。 

 ミラに黙ってサロモンと王城の太陽神の塔へ行ったのも、もうだいぶ日にちが経っているのに……。

「女はみな、こういうことはしつこいのですわ。折を見て何度でも釘をさしておきませんと。殿方はすぐに忘れてしまいますから」

 あ〜はは。

 もうどうしようもないな。これは。

「……」

 愛想笑いのままこくこくと頷いたイシュルに、ミラは柔らかな笑みになって言った。

「でも、今晩はイシュルさまの大事な指輪のお話が聞けて、わたし、とてもうれしかったですわ」

 イシュルの眸が見開かれる。

「うん」

 イシュルは小さく頷いた。

 



 公爵邸に到着するとイシュルは自室にミラだけを呼び、総神官長との会見について説明した。

 もちろんウルトゥーロに内密に、と念を押されたことも幾つかはミラに話した。

 イシュルはミラと、彼女を神の魔法具探しに同道することを、神の魔法具にまつわる神秘を共有することを約束している。

 イシュルはウルトゥーロの個人的なこと、彼が総神官長にふさわしい人物になるために、長年別の人格を育んできたこと以外はあらかたミラに話した。

「総神官長から預かったこの虹色石の魔法具なんだけど、実は死んだ母さんの持っていた変わり身の……命の指輪にも同じ石がはまっていたんだ。だから懐かしくて、なんだか不思議な気持ちがするんだ」

「まぁ……」

 ミラが両手を胸の前で組んでイシュルに身を寄せてきた。

 ふたりは居間の長椅子に並んで座っている。

「この指輪の台座が母の指輪なんだ」

 イシュルはミラに、ブリガール男爵によって滅ぼされたベルシュ村に帰ってきた時のことを話した。

「……その時、母さんの指輪からは石が消えていた。おそらく一回か二回か、使い切りの魔法具なんだったと思う。俺は母さんの指輪の形を憶えていた。だから」

 イシュルはそこで言い淀み、ごくりと唾を飲み込むと微かに声を震わせ続けて言った。

「母さんと、その横にもうひとつあった遺体が弟のルセルだとわかったんだ」

「うううっ」

 ミラは早くも泣きはじめている。

「それで今、母さんの指輪にはまっている青い石が、ベルシュ家に伝わっていた魔法具の首飾りから抜き取った石だ。一旦ブリガールに奪われたんだけど、取り返したわけさ」

 イシュルはやさしく微笑み、ミラの頬を流れる涙を指先でそっとぬぐった。しかし、ブリガールの名を出す時には唇を歪め、冷たい笑みを浮かべた。

「母さんの指輪とベルシュ家の魔法具の本体、それをひとつにしたんだ。俺の大切なひとたちの形見だ」

 イシュルの笑みがまたやさしい感じに戻る。彼の顔に儚げな色がさす。

「イシュルさま!」

 ミラが感極まって抱きついてきた。

 うっ。

 彼女から漂う甘い薫り、彼女の柔らかなからだの感触……。

「ミラ……」

 イシュルはミラのきらびやかな巻き毛を、そっとなぜた。

 ミラの両手はイシュルの胸にそえられている。彼女の温もりがイシュルの心に染み込んでくる。

 夕方、馬車の中で彼女の眸に映っていた夕陽の光彩……。

 俺は何を見ていたのか。

 それは多分、彼女から伝わってくるこの温もりと同じものだ。

 母、ルーシの指輪に残された彼女の愛、消えてしまった虹色石が今、自分の首にかかっている。それはウルトゥーロが弟子に抱いた愛情だ。俺はあの時、何かに縋るように、確かめたくて、ミラの眸の奥に浮かぶ同じものを見つけようとした。

 彼女といつまでもこうしていたい。……でも、それは許されない。

 ごめんよ、ミラ。

「ミラ、あの、それで相談があるんだが」

 彼女の意見を聞きたい。

 いつ、どのタイミングでクレンベルに行くべきか。いつ、カルノを聖都に連れ出し、あるいは彼からもうひとつの太陽神の首飾りを借り受けるか。とても重要なことだ。

「はっ。すいません、イシュルさま。わたくし……」

 ミラが離れ、顔を背ける。彼女の頬が紅く染まり、涙に濡れている。

 長い睫毛に隠されて、彼女の眸の色がわからない。

「ごめん、ミラ。いやありがとう。俺の話を聞いてくれて」

「いえ。そんな」

 ミラの顔が正面を向く。彼女は素早くそっと、触れるようにして口づけしてきた。

 ほんの一瞬だった。

 ミラの顔に笑顔が広がった。


「ほんとうはわたくしもともに参りたいのですが……、イシュルさまおひとりでしたら、クレンベルまで二日とかかりませんでしょう?」

「ああ、往復で丸一日、ってところかな」

 クレンベルまでは直線で約四百里(スカール、約二百六十km)、途中小休止をはさんでも半日とはかからない。もちろん空を飛んでいくことになる。

 だが、まさかここから聖都、王城の上空を飛んで一直線に向かうわけにもいかない。

 クラウがいるし、国王派に悟られなければ一日や二日くらい、俺が公爵邸にいなくても問題はないだろう。もし俺の不在が敵方に知られても、クラウにミラとシャルカ、ルフィッツオとロメオら公爵家の人びとと同騎士団、そしてサロモン王子と彼の護衛——は、相当な戦力だし、それに聖都及び聖都近郊のサロモン王子派の貴族、領主たちが加わるとなれば、国王側もそう簡単には手出しできないだろう。

 それよりも、俺がクレンベルに向かったことを知られる方がよほどまずい。数年前に起こったウルトゥーロとカルノの決別は多くの者の知るところであるが、大聖堂の正義派と緊密な関係にあり、ウルトゥーロ本人とも直接会談を持った俺が急遽クレンベルに向かうとなれば、決裂したウルトゥーロとカルノの関係に何かあったのかと相手方に勘ぐられることになる。

「ただ、それは聖都からまっすぐクレンベルに向かった場合だ」

「はい、その通りですわ」

 イシュルの危惧していることは当然、ミラも考えていた。

 カルノがもうひとつの太陽神の首飾りを持っていること、それはその事実の糸口となりえるものさえ、断じて知られてはならない。

「まずは聖都の南か北に進路をとり、一切の監視を振り切ってから西のクレンベルへ向かうのがよろしいでしょう。問題はイシュルさまのおっしゃる通り、いつ、カルノさまに会われるかですが……」

 イシュルは表情を厳しくして頷いた。

「早すぎても、遅すぎてもよくない」

「そうですわね」

 ミラも表情を引き締めて頷く。

 もしクレンベルに行くのなら、それは明日でもいい。だがあまり早く動けば、聖冠の儀までに多くの日数、時間が生まれ、その間にどこからか俺がクレンベルに向かったこと、俺とカルノが接触したことが、聖都まで漏れ伝わってしまう可能性が出てくる。

 クレンベルの主神殿にはカルノの他にも数名の神官と、多くの見習い神官の少年や下働きの者がいる。住む込みのマレナ婆さんたちだけでなく、下の街から通ってくる者もいる。彼らに誰ひとり見られずにカルノに直接会うには、ひと工夫する必要がある。

 今になって考えれば、カルノとウルトゥーロの関係を考慮すれば、クレンベルの主神殿の関係者に、以前から国王派の密偵が潜んでいた可能性は高い、と言えるかもしれない。

 ならばその情報が聖都に伝わり、ビオナートの耳に入る日数を逆算して、聖冠の儀の前にやつがその情報を入手することのない、ぎりぎりのタイミングでクレンベルに向かうのが良い、ということになる。

 正義派の尖晶聖堂を動かしてクレンベルから聖都へ向かう密使を捕らえ妨害する、という手もあるが、完全にできるわけではないし、むしろ相手に気取られる結果になるかもしれない。

 あとはその“ひと工夫”だが、これは単純に、夜遅くに誰にも気づかれずに、主神殿のカルノの私室に忍び込んでしまおう、ということである。

 もちろんこれにもリスクがある。個人の部屋にいきなり、しかも夜中に侵入するなどまるで泥棒同然、明らかにカルノの気分を害する、大神官に対し著しく礼儀を欠く、非常識極まる行為であることは間違いない。

 だがそれが一番確実だろう。

 クレンベルの市街であれ神殿であれ、よほどの者でない限り、誰にも気づかれずに主神殿の中に入り、カルノの私室に潜入する自信はある。カルノの部屋は以前に何度も出入りしているから、神殿内で迷うことがないのはもちろん、室内の様子や扉の鍵の形式もわかっている。

 それなら、ぎりぎりのタイミングでクレンベルに向かうことに固執することはないのだが……。

 イシュルはミラの顔を見やった。

 ミラも口許に手をやり、視線をあらぬ方に固定して考え込んでいる。

「本来なら聖冠の儀の一日、二日前あたりにカルノさまに会われるのが一番よろしいのですが……」

 イシュルは僅かに顔をほころばすと無言で頷いた。

 やはりミラも同じようなことを考えている。

「でも、それでは何かまずい事があったら、カルノさまの説得に時間がかかってしまったら、間に合わなくなってしまいます」

 ミラの言う通りだ。もし聖冠の儀の一日前にカルノに会うのであれば、敵方がそれに気づいて、クレンベルから聖都へ早馬を出したとしても間に合わない。

 道中馬をできるだけ駆けさせ要所要所でこまめに乗り替えれば、一日あれば余裕で聖都に到着できるだろうが、ビオナート本人に情報が届くのはそこからさらに時間を要するだろう。王城か街中か、やつが隠れ、誰かに化けて潜んでいる以上は、書簡のやりとりなどそう迅速にできるものではない。

 もしやつがもうひとつの太陽神の首飾りの存在まで知ったとしても、時間がぎりぎり、土壇場で対策する余裕はないだろう。まさか聖冠の儀への出席を取りやめるわけにもいくまい。

 だが、聖冠の儀直前のクレンベル行きは確かに危険である。ミラの言う通り、カルノの説得に時間がかかるかもしれないし、たまたま神殿に賓客が訪れ、本人が多忙であるかもしれない。さらに彼がクレンベル近郊の他の神殿や領主の元に出かけていて不在である、という可能性もまったくない、とは言えない。

 俺ひとりならともかく、カルノ本人も聖都に乗り込むことになれば、その時大雨や強風など天候が悪いと帰りの道中、かなり難儀することになるかもしれない。

「俺はカルノさまの私室も知っているし、失礼を承知で人目につかないよう、夜間秘かにお会いするしかないな」

「はい、それがよろしかろうかと。イシュルさまなら誰にも見つからずにカルノさまにお会いできるでしょう。イシュルさまにできないことなどありませんわ」

 ミラが胸の前で両手を握って言ってくる。

「い、いや……」

 ミラ……、きみは賢い子なのに。なんだか時々ちょっと残念な言動が……。

 イシュルは笑顔を引きつらせて話をすすめた。

「いずれにしろ、ビオナートが次期総神官長に選ばれた後、になるだろう。総神官長を選ぶ入札日はまだ決まってないよね?」

「はい。でも前例からすると、感謝祭の二十日からひと月ほど前に行われると思います。もし候補者がひとりの場合は信任か否かを入札で決めます。わたしの知る限りでは過去に例がありませんが、候補者がひとりも出ない場合は総神官長の指名になります」

「そうか……」

 感謝祭は秋の一月(十月)中旬からはじまる。まだ時間はある。カルノとの面会を今は急ぐ必要はない。

 だが、ビオナートが次期総神官長に決まれば、その後はルフレイドの身を守ることに心を砕かねばならない。

 クレンベルにカルノ・バルリオレを訪い、サロモンやルフレイド王子派の暴発を防ぐためにルフレイドの命を守り、安全を確保する。

 これはなかなか、難しい……。

「まだお時間はありますわ。その件はゆっくり考えましょう」

 ミラがひとつ、ゆっくり頷き柔らかな笑顔を見せる。

「そうだな」

 イシュルも頷き、ミラに笑顔を返した。

 俺を安心させようとするミラの心づかいが少し、面映(おもはゆ)かった。


「それで、イシュルさまのお母さまと一族の形見の指輪はどんな魔法具なのでしょう。お聞きしても?」

 ミラはさきほどからずっと気になっていたのだろう、再びイシュルに身を寄せ、両手で下から捧げもつようにしてイシュルの左手を持ち上げた。

「うん、そう……」

 イシュルは一瞬、言い淀む。

 ベルシュ家の指輪は槍剣や弓矢などの攻撃を撹乱する魔法具だ。サロモンは揺動の魔法具、と言っていた。ただサロモンの「揺動の深き青のマント」は魔法攻撃にも対応できるが、俺の指輪は魔法攻撃には対応できない。

「一応、無系統の防御系、ということで……」

 だんだんと多くの魔導師、魔法使いと知り合うことになってわかってきたことだが、基本的に他人の持つ魔法具がどんな系統か、どんな力を持つかなどをこちらから質問するのは御法度、礼儀に反することのようである。魔法具によってはそれを知られるだけで対策されてしまう場合もあるわけで、それは当然、と言えばまったくその通りである。

 そんなわけでミラも今まで聞いてこなかったわけだが、さきほどウルトゥーロから預かった虹色石の首飾りの件を説明した時、話が母とベルシュ家の形見の指輪のことに及んだので、彼女も俺の持つ魔法具のことを聞いてもよい、と判断したのだろう。

 だがベルシュ家の指輪、揺動の魔法具は、先日のサロモンの口ぶりからするとわりと希少な部類に入るもののようだし、一方、この魔法は範囲攻撃をすれば容易に破ることができる、知られると対策が容易なものでもある。

 ミラには申し訳ないが、すべてを明らかにするのは今はやめておくことにする。

「……では、そのとなりの中指にはめている翡翠の指輪はどんな魔法具なんでしょうか? この指輪も魔法具ですわよね」

 ミラはイシュルの答えにただ微笑むだけで頷き、次の質問をしてきた。

「これは早見の指輪だ」

 早見の魔法具に関しては話してもいいだろう。これはたとえ敵方に知られても、警戒はされても対策のしようがあまりない。

 イシュルはミラに、フロンテーラの魔法具屋で店主の老婆から特別なはからいで、無料で、何の代価もなしに譲り受けたことを話した。

「本当ですか!?」

 ミラは眉をそびやかし、驚いた顔になって言った。

「ああ。俺は風の魔法具を持っているから特別に、ってことでね。縁故をつくりたかったみたいだな」

「……そうですか」

 ミラは額に指先をそわして俯き、考えこむ仕草をした。

「確かにイシュルさまは特別なお方。魔法具屋の店主の言った通りかもしれませんが……」

 ミラが厳しい、鋭い視線を向けてくる。

 なんだか場違いな、意外な感じがするんだが。

「フロンテーラはアンティオス大公が治める地。そして今の大公は王弟であるヘンリク。裏でラディス王家の意向が働いてる可能性がありますわね」

「はっ?」

「いくらイシュルさまが特別だからといって、いきなり早見の魔法具を無償で譲渡してくるのも少しおかしな話です」

「ああ、やっぱりそう、かな?」

 まぁ、あの時は確かに少し、不自然な気もしたが。

「フロンテーラの魔法具屋がその時持っていた魔法具の中で、赤帝龍と戦うのに最も有用な魔法具をイシュルさまに手配したのではないでしょうか」

「なるほど」

 ミラ……。さすが鋭い。たまに残念な時もあるけれど。

 イシュルは自らの左手、早見の指輪に目を落とした。

 裏でヘンリクの指図があったのだろうか。あの魔法具屋の老婆に。

 あの時見せられた魔法具はすべて指輪で、守り、命、隠れ身、そして早見だ。

 守りの指輪は確かダメージの緩和、命の指輪は一回だけ使い切りの、一度だけ死を免れる魔法具だ。

 後は隠れ身に早見。守りの指輪の効果はそこそこだとあの老婆は言っていたから、赤帝龍相手では通用しないだろう。命の指輪も即死するような場合はうまく働かない、みたいなことを言っていたから、これも赤帝龍相手では効果がない。

 隠れ身の指輪は逃げ隠れする時でないと使えないから論外だとして、残るは早見の指輪、ということになる。

 実際に赤帝龍と戦ったあの時、敗北を、死を意識した瞬間、結果的に早見の指輪は俺にとって最も有効に働いたのだ。あの時はじめて俺は、あの神の、精霊の住まう異界に手を伸ばすことができたのだから。

 もちろん、四つの指輪から早見を選んだのは俺自身だ。だがそれでも、もしヘンリクが裏で魔法具屋に手をまわしていたのなら、あのひとは間接的にだが俺の命の恩人、ということになる。

 いや、それとももしや、ペトラが……。

 ふむ。

 そういえばペトラは元気でやってるかな?

 最後に大公城の城門で会った、若草色のドレスを来たペトラの姿。確かに見た目の外見だけならそれは、とても可憐な美しい少女の姿だった。

「……」 

 イシュルがふと何かを感じて顔を上げると、目の前にじーっと見つめてくるミラの大きな眼(まなこ)があった。

 うっ……。これはまずい。やばい。

 ……あっと、そう言えば。

「そ、そう言えば、フロンテーラの魔法具屋の婆さんが言ってたな。双子の姉が、ここエストフォルで魔法具屋をやってるって」

 そういえばあの婆さんも双子、だった。

「そうですわね」

 ミラは視線をはずさない。声音もなぜか、冷たく感じる……。

「ど、どこにあるのかな? その魔法具屋」

「王城の月神の塔ですわ」

「へっ?」

 ミラはむっつりとした顔で、だが一応は説明してくれた。

 聖王家に仕える宮廷魔導師の組合や宮廷魔導師長の執務室、魔導師たちの控え部屋などは、月神レーリアの塔に集中して置かれているのだという。

「月神の塔は別に魔導師の塔、とも呼ばれております。その塔に魔法具屋もありますの」

「そ、そう……」

 変わっている。エストフォルにある魔法具屋はつまり宮仕えの魔導師専用、ということになる。

「名前は何と言ったかしら……。でも、あの年老いた店主は聖都の街中にも店を開いている、と言われておりますわ」

「言われている?」

 ミラでもよく知らない、ということか。

「ええ。日ごと、夜ごとにお店の場所が変わるそうです」

 ミラはそこでむっつりとした顔に、僅かに笑みを浮かべた。

「それはなかなか面白い話だけど、そんなんじゃ商売にならないよね……」

 イシュルが幾分声を潜めて言うと、

「それはあらかじめ、あの老婆と魔導師の塔で会うか、手紙か何かで渡りをつけておく、つまり予約が必要、ということですわ。あるいは店主側で会いたい、売りたい、売らせたいと思う者の前に現れるのでしょう」

 と、ミラが笑みを深くして答えた。

「それよりもイシュルさま」

 イシュルが何かしゃべる間もなく、ミラはその笑みのまま、あらためてイシュルを睨みすえた。

「イシュルさまはフロンテーラに滞在している間、アンティオス大公息女、ペトラ・ラディスと何度かお会いしておりますわね?」

 ミラは調べはついておりますわ、と続けた。

 ミラほどイシュルのことを詳しく調べた者はいないだろう。それはおそらく大きな組織力をもつラディス王家、聖王家など他の王家に匹敵するレベルではないか。

「あ、あ、うん」

 イシュルの額を汗が一筋、流れ落ちて行く。

 またか。またなのか。また話を逸らそうとして失敗した。

 寒い。からだが震える。……夏なのに。

「わたくしの耳にも聞こえてきましてよ。イシュルさまが赤帝龍を退けてから、かのお方はイシュルさまを大公家の婿に向かえようと、何か画策しておられるとか」

「い、いや。それはないと——」

「当然ですわ。イシュルさまがラディス王家に取り込まれたら、大陸の他の国々が困ります。我が聖王国も例外ではありません」

 ミラはイシュルが言い終わらぬうちにぴしゃり、と遮ってきた。

 そして冷たい炎にゆらめく眸を、イシュルのしている早見の指輪に向けて言った。

「その指輪は役立ちまして?」

 ミラは赤帝龍と戦うのに役立ったのか、と聞いてきているのだ。

「ああ、とても」

 イシュルはひきつく顔を引き締め真面目に答えた。

 こればかりは、ごまかしてはいられない。

「とても役立ったさ」

「……!」

 イシュルのがらっと変わった真面目な物言いに、ミラがはっとして顔を上げてきた。彼女の眸に浮かぶ冷たい炎がとたんに、淡くゆらめく甘いものに変わった。


 ……しかし、その夜のミラはそれでも引かず、今度はイシュルの右手の薬指にはめられた、毒見の指輪の話題をふってきたのだった。

 だがミラはそこでイシュルにきっちり釘を刺すと、最後はイシュルの魔法の指輪の話が聞けて、イシュルが大事にしている母親とベルシュ家の形見の指輪の話が聞けて良かった、と無心な笑顔を向けてきたのだ。

「……それじゃあ、ちょっと夜も遅くなったけど、これからアデール聖堂に行こうと思うんだが、ミラも行く?」

 できれば今晩中に、大聖堂の早朝の戦いでアデリアーヌに助力してもらったお礼を言いたい。

 ついでにシビル・ベークに会えれば、彼女と情報交換をしておきたかった。

 イシュルはミラに、朝の大聖堂で一戦あった時、アデリアーヌが強烈な水神の矢を敵方の精霊に放って援護してくれたことを話した。

「はい、そういえばわたしも感じましたわ。街中の方から強烈な魔力が一閃するのを。あのアデールの守護精霊はたいへん強力な精霊ですわ」

 椅子から立ち上がったイシュルに、ミラも椅子から立って言った。

「わたくしもイシュルさまにお伴しますわ」

 アデリアーヌと会えば、またミラがへそを曲げるかもしれないが仕方がない。

 アデリアーヌにお礼は言わねばならいし、ミラを置いていくわけにもいかない。それはそれで後が恐いし、シビルと密談するのなら、ミラもいっしょの方がよい。

「では今すぐ行こう」

 イシュルはミラの手をとり居間の窓際まで行くと彼女を抱き上げ、窓からそのまま夜空に舞い上がった。


 


 その夜のさらに遅く、アデール聖堂の門前。

「ありがとう、アデリアーヌ。助かったよ。きみの放った水矢は凄かった」

「うむ。そうだろう、そうだろう」

 アデリアーヌはその白く半透明に輝く姿を門の真上に浮かべ、鼻をうごめかしてうんうんと何度も頷いてみせた。両手を腰に当てて胸を張り、これでもかと得意げにしている。

 ミラはイシュルの横でこめかみを押さえ頭をかるく振っている。

 イシュルは公爵邸の外に出ると一気に一里長(約六百五十m)ほど上昇し、そのまま聖都の南を流れるディレーブ川の辺りまで飛ぶと、そこから急降下し街の家屋の屋根づたいに素早く北西に移動、アデール聖堂までやってきたのだった。

 正義派がアデール聖堂の神殿長、シビル・ベークと繋がっているのは敵側にも知られていることだが、いつ、誰がシビルと接触したか、先日のように自ら囮となって敵方の勢力を削るのでなければ、なるべく知られたくないのは明らかだった。

 ミラはイシュルのジェットコースターのような激しい動きに、少し目眩を憶えたらしかった。

 とりあえずミラには後で謝るとして、今はアデリアーヌが先だ。

「これからもよろしくたのむよ。アデリアーヌ。たよりにしている」

 イシュルがアデリアーヌを見上げ、じっと見つめて言うと、アデリアーヌは面白いほどにどぎまぎと慌て出し、はっと自らの有様に気づくと顔をつーんと横に向けた。

 そして言った。

「ふ、ふん。わたしは決して、おまえのためにやってるんじゃないんだからな!」

 うっ……。なんてベタな。

 イシュルの顔が一瞬、青く固まる。

 宙に向けられた、なかなかに美しいアデリアーヌの横顔。これが人間だったらその顔は真っ赤に染まっていたろう。

 前世ではもう死語ともなりつつあったあれ。この世界でもツンデレって、あるんだな……。

「これ、ですわ……」

 横から目眩がおさまったのか、ミラの呟く声が聞こえてきた。

 ち、ちょっと待て!

 イシュルは素早くミラを見やった。


「そう。……地の紅玉石とイヴェダの剣。それに風の大精霊の効果は絶大ね。大神官の方々のお気持ちがよくわかるわ」

 場所は先日と同じ、アデール聖堂の門の脇にある詰め所だ。

 イシュルは朝から日中、大聖堂であったことをシビルに説明した。

 ただもちろん、もうひとつの太陽神の首飾りやウルトゥーロの告白の件は秘密にした。

 早朝の大聖堂で起きた事件、イシュルがウルトゥーロと謁見したこと、午後の大神官会議で起こったこと、そこでクラウの言ったこと、それらのことはみな、もうすでに聖都の街中を無数の噂話となって駆け巡っているだろうが、世間とは少し離れた環境にあるアデール聖堂にはまだ、今日のことはほとんど何も伝わっていなかった。

「これでは逆に、わたしたちの思惑通りに進まなくなるかもしれないわ……」

 シビルは先日もしていた片眼鏡の縁を持ち上げると、小さく嘆息して言った。

 シビルはイシュルの説明にはじめは喜色を表したものの、すぐに少し困ったような顔になった。

 シビルもイシュルと同じ、次期総神官長選出の入札でビオナートが落選するのではないか、と危惧していた。

「ええ、確かに。風と土の大神官は間違いなく国王派から離れてこちらに、いや、俺につくでしょう。彼らは俺の言うことなら何でも聞いてくれると思います。ですから入札の時には……」

 イシュルはそこから先は言葉を濁し、うすっら笑みを浮かべてシビルを見た。

「ふふ、そうね。簡単なことね」

 シビルはすぐにイシュルのやろうとしてる工作に気づき、笑みを浮かべた。イシュルの隣に座るミラも、その整った顔に薄く皮肉な笑みを浮かべていた。

「でも、ちょっと考えていたことがあるのだけれど、それはやめておいた方がいいわね」

 今度はシビルがイシュルとミラに向かって、思わせぶりなことを言ってきた。

「なんです?」

 イシュルの問いに、シビルは思わぬこと、やや過激な計画を立てていたことを話した。

「王城の地下道を幾つか、潰しておこうと思って……」

 シビルはイシュルの他に数名の土の魔法使い、影の者を加え、王城の王宮や後宮、魔導師の塔、内務卿の居城、リアード城を結ぶ地下通路を潰してしまおうと考えていた。

 聖パタンデール館周辺の地下にも、王城の太陽神の塔の周囲にも地下道はあった。サロモンに頼まれ深夜に太陽神の塔を訪れた時、アナベル・バルロードが地中から仕掛けてきたが、あの襲撃にも途中の段階までは地下道が使われた筈である。彼女ひとりであれだけ広範囲に地中に穴を掘り、罠を張り巡らすのは不可能だろう。

 風系統の魔法使いには探知がやりにくい分、地下からの襲撃はなかなか有効である。

「わたしの方でもすべての秘密の地下通路は把握できていないし、騎士団兵や土系統の宮廷魔導師を動員すれば、どうせひと月ほどで修復できてしまうのだけれど、その間」

 シビルはにっこり、屈託のない笑顔をイシュルたちに向けた。

「彼らは地下通路の修復にかかりきり、になってしまうわ」

「なるほど、それはよろしいお考えですわ」

 イシュルが何か言う前に、ミラがすかさず賛意を示した。

「イシュルさまはご存知ないかもしれませんが、聖都は昔から土系統の魔法使いが多く集まる地だったのです」

 ミラの説明によると、ウルク王国の頃にはエストフォルに地神の神殿があり、また、南北を河川に挟まれ、それでも今も残る王城や街の広がるエストフォルの丘陵地帯は、固い岩盤で覆われた箇所が多く、さまざまな土木工事を行うのに長年、多くの土の魔法使いを必要としてきたのだという。

「そういうわけで聖王家の宮廷魔導師も、昔から比較的に土系統の魔導師が多いのです」

「……要は聖王家の宮廷魔導師戦力を地下通路修復に牽引、拘置させておくことができる、ということか」

「そうね。でも、今の状況では国王派をこれ以上追い込み、刺激しない方がいいと思うの」

 シビルが頷く。

 ミラはとなりで「こうち……。イシュルさまはまるで大聖堂の学者さまのよう……」などと少しズレたことを呟いている。

「そうですね……」

 イシュルもシビルの言に同意した。

 シビルの発案は一旦実施せず保留し、しばらく様子を見ることになった。


 続いて翌日明け方。

 イシュルはひとり、自室の晩餐室のテーブルを前に立っていた。

 テーブルの上にはサロモン、ルフィッツオとロメオの兄弟らに貸し出されていた、聖都の各派閥を網羅した特大の巻紙が広げられている。

 ここ数日中に、この人脈図にも大きな変化が現れるだろう……。

「クラウ」

 イシュルは巻紙に視線を落としたまま、クラウディオスを呼びつけた。

 イシュルの頭上、正面に薄らと魔力が煌めき、静かにクラウが現れる。聖パタンデール館で呼び出した時とは大違いだ。

 イシュルはクラウに微笑むと言った。

「今日は、いや、もう昨日か。ごくろうだった。うまくやれたと思う。ありがとう」

 本当はあの時のクラウの登場と発言は効果がありすぎた。だが、彼をしかっりねぎらうのは大事なことだ。

「いやいや。しかし剣殿、あれは少々、やりすぎたかもしれない」

 クラウは苦い笑みを浮かべて言った。

 クラウはしっかり、俺やシビルらと同じことを考えていた。

「ふふ」

 今度は声に出して、イシュルは小さく笑った。



 

 翌日夜。

 聖都の街は夜半から雨になった。

 だが雨脚は半刻ほども経つと徐々に弱まり、次第に細かい霧のような雨が舞う、霧雨になった。

 イシュルは紫尖晶聖堂を訪い、先日大聖堂の裏手で国王派の影働きに襲われ、負傷したビルドの連れを見舞った。

 その男はどうにか峠を乗り越え、落命の危機を脱し、命をとりとめた。翌日になって、大聖堂から腕利きの治癒魔法を使う神官が派遣され、長い間治療に当たったということだった。

 それからイシュルは、雨雲の重く垂れ込む霧雨の中を再びアデール聖堂に赴き、彼の前に即座に現れたアデリアーヌにひとつのお願いをした。

「アデリアーヌ、この霧雨にきみの魔力を通して薄く広げ、王城の方まで伸ばせるかな? できれば半刻(一時間)ほどの間、続けてほしいのだが」

 イシュルは雨霧に霞む東の夜闇の方を、親指で指して言った。

「あの人間の王の城までか」

 アデリアーヌは胸の前で両手を組んで唸った。

 美しい女の精霊がする男っぽい仕草。少し面白い。

「かなり薄く、弱くなってしまうが、それでよければ」

「ああ。それでいい。ありがとう、アデリアーヌ。よろしく」

 イシュルは満面の笑顔でアデリアーヌに礼を言った。アデリアーヌの仕草が面白かった、それもあった。

「ふ、ふん!」

 アデリアーヌは恥ずかしそうな顔になってまたぷいっと、横に逸らした。



「ふふ、いい感じだ」

 イシュルは黒々と空を覆う雨雲のすぐ下をゆっくりと飛びながら呟いた。

 王城の空を、アデリアーヌの施した水の魔力が霧雨に絡みつき、まさしく霧そのものとなって覆っている。

 これはいいジャミングになる。

 深夜の厚い雲に霧雨。こういう天候は魔法使いの感知能力を少なからず減衰させる場合がある。そこにアデリアーヌの薄くなった魔力を広げ、こちらの存在を隠し、見つけにくくする。

 この時間にまだ起きている魔導師の中には、夜空に薄く広がる水の魔力に気づく者もいるだろう。だが不審に思っても、何か行動を起こそうとまでは思わないだろう。

 王城か、街中で修行する水の魔法使いの使った魔法が完全に消えてなくならず、雨に乗って流れてきたか、などと考える筈だ。何の威力もない、意図もわからない魔力なのだ。

 イシュルは王城の上空を、北東寄りにある悪しき魔を統べる神、荒神バルタルの塔へ向かってまっすぐ飛んだ。

 はじめて王城の上空を飛んだ時、不可解な魔力を感じ取ったいくつかの塔。そのひとつが荒神の塔だった。

 あの塔の一番上、塔の最上階には何かがある筈だ。

 イシュルは暗闇の中、荒神バルタルの塔の最頂部を目前に、空中にすっと立ち止まった。その顔に不敵な笑みが浮かんだ。


 

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