虹色石




 男らしい、しっかりとした顎から頬骨への曲線。髭は生やしていない。切れ長の目、その眉間に刻まれた夥しい皺。短めの白髪から張り出した額には汗が浮かんでいる。

 七十を過ぎた年齢のわりには若々しいウルトゥーロの顔が、怖れにおののいている。

 イシュルは僅かに顎を引き、射殺す勢いでウルトゥーロを睨みつけた。

「よろしいか。総神官長」

 聖冠の儀で、もうひとつの太陽神の首飾りを用意してビオナートに挑む。

 イシュルはその裁可をウルトゥーロにうながした。

「ううむ……」

 ウルトゥーロの額に玉のような汗が浮かび、頬へと流れ落ちていく。

 なぜこの男はこんなに動揺している?

 もうひとつの太陽神の首飾りの存在を暴露されたから?

 それもあるかもしれない。

 だが、そこには疑問がある。

 ビオナートを聖冠の儀で誅するのなら、俺より先にウルトゥーロ自身が動いた筈、いや、動くべきなのだ。

 なぜ彼はそれをしなかった?

 太陽神の座に被害が及ぶのを避けたかったから。教会の重要な儀式である聖冠の儀で、前例のない荒事を起こすのに躊躇いがあったから。

 もちろんそれもあるだろう。

 だがそれだけではあるまい。

 リベリオ・アダーニはなぜ、彼とカルノ、総神官長とのつながりを俺に教えたのか……。

「カルノさまをわざと遠ざけましたね? ウルトゥーロさま」

 イシュルは鋭い視線をそのまま、僅かに眸を細めた。

「……」

 ウルトゥーロは力なく俯き、肩を落とした。

 人間は歳をとるにしたがい、背を縮めすぼんでみな小さくなっていく。今のウルトゥーロはその年齢にみあった、どこにでもいる老人のように見えた。ただからだをすくませただけではない、彼のまとっていた、その地位にふさわしい威厳が根こそぎこそげ落ちていた。

 ウルトゥーロは下を向き、からだを小刻みに震わしていた。

 彼はしばらくその姿勢のまま何かに耐え、何かと闘っているように見えた。

「……そうだ、イシュル殿。その通りだ」

 声音が、口調が変わっている。より低くしわがれ、固く、しかし微かに皮肉と侮蔑を含んだ口調に。

 その声の諧謔は、皮肉と侮蔑は、おそらく彼自身に向けられている……。

 ウルトゥーロは顔をあげた。


 ウルトゥーロの告白。

 彼は大別してふたつのことを話した。

 ひとつめはカルノ・バルリオレに収賄の罪をでっちあげ、クレンベルに遠ざけたことだ。

 現在リベリオ・アダーニがその地位にいる、総神官長を輔佐する大聖堂のもうひとりの大神官。当時、その地位に就くことが内定していたカルノに、教会に出入りする商人から賄賂を受け取ったという冤罪を着せ、予定どおり大神官に昇進させつつも、同時に罰としてか、大聖堂からクレンベルに追放したのだった。

 今までの慣例からすると、大聖堂で総神官長を輔佐する大神官は後に総神官長となることが多い。総神官長が入札(選挙)によって決まるとしても、だ。つまり聖都の大神官の中でも最も有力な者がその地位に就く。そのことを鑑みればカルノのクレンベル行きは、大神官になれたとはいえ事実上の失脚だったと言える。

 もちろんこの話には裏がある。

 カルノ・バルリオレがクレンベルへ追放されたのは四年ほど前のことだという。前年に病死した聖都の大神官に続き、ふたりめの大神官が病を得て引退、直後に死去した。それからしばらく後のことである。

 ウルトゥーロは、カルノの収賄が明らかになると彼を呼びつけ事情を聞いた。カルノは収賄の事実を否定し、ウルトゥーロはカルノを厳しく叱責した。

 その後のクレンベルへの放逐と併せ、ウルトゥーロが目をかけていたカルノの脱落は、これで衆目の一致するところとなった。

「ちょうどその頃、クレンベルの先代の主神殿長の引退が決まっていての」

 ウルトゥーロは今まで見せなかった、ぎらつく眸でイシュルを見つめてきた。

「その者はわしの後輩で、クレンベルの主神殿長になる前は大聖堂書庫の司書長をしていた。クレンベルの太陽神の座がまだ、完全に朽ち果ててはいないことを突き止めたのはその者であった。彼は司書長であった頃、書庫に奥深く眠る文献を通じて知ったようだ」

 ウルトゥーロはそこで間をおき、舌で唇を嘗め、歪めた。

 今度はイシュルが驚愕する番だった。

 これがこの男の真の姿なのか。今までの総神官長とは違う。これはまるで……。

「わしの持つ太陽神の首飾りとカルノが持つ首飾りは違う。聖堂教会の太陽神の首飾りはただひとつ。それは単独でも強力な光系統の魔法具として使用できるものだ。だが、クレンベルの主神殿長が代々受け継いできた首飾りは単なる飾り物、宝飾品で魔法具ではないと今まで思われてきた。だがそれは違った。クレンベルの太陽神の座はまだ生きており、単なる宝飾品と思われたクレンベルの首飾りは、少なくとも太陽神の座を起動させうる能力を持つことがわかった。このことを知る者は教会ではわしと、カルノ、リベリオの三人だけじゃ。クレンベルの先代の主神殿長は引退後、故郷に帰った。他の大神官も、聖王家でも知る者はおらん。わしはカルノをクレンベルに遠ざけビオナートの魔の手から守ると同時に、我らが敗北した場合、太陽神の座を起動できるもうひとつの首飾りをもつ者として、彼に最後の希望を託そうとしたのだ」

 今のウルトゥーロには、聖堂教会の頂点に立つ者としての清廉、高潔さが皆無だ。

 善悪併せ持つただの市井の人、どこにでもいるただの老人でしかない、ように見える。

 さきほど彼の示した驚愕と怖れが、この老人から聖職者の仮面を剥ぎ取ったのか。

 教会で、聖王国で、自身を含め四名しか知らないことをよそ者の俺が知っていたのだ。彼の驚きと怖れがどれほどのものかは容易に想像がつく。

「カルノもうすうすとは気づいているかもしれん。だがわしの口からこのことをカルノに話すことはまだできぬ」

 ウルトゥーロの顔に今までとは違う、生臭い笑みが広がる。

 カルノがうすうすと気づいている、というのは、ウルトゥーロがカルノを禍中から遠ざけるために、わざと収賄の冤罪をでっちあげたことだ。

「イシュル殿はふたつ目の太陽神の首飾りのこと、わしとカルノの関係を誰から聞いたかの? リベリオからかの」 

「……」

 イシュルは小さく息を吐いただけ。無言でウルトゥーロに冷たい視線を向けるのみだ。

 カルノをクレンベルに遠ざけたことははっきりいって俺の当てずっぽう、粗雑な推理でしかない。総神官長とカルノの関係については、別にリベリオの名を出しても構わないのだろうが……。

「まぁ、よい。そなたはカルノの言ったとおり、神に選ばれた者なのだ。無用な詮索は控えるべきだろう」

「カルノ・バルリオレはクレンベルの太陽神の座を俺に使ってきたのですよ。彼は太陽神の座を使って俺を殺そうとした、いや俺のことを試したのです。むろん他にもありますが、そのことが俺にもうひとつの太陽神の首飾りの存在を気づかせる、きっかけとなった」

「むう……」

 ウルトゥーロは小さく唸り声をあげた。

「カルノはやはりわしのしたことを、そしてそなたの可能性を、わかっておったのかの」

「そうかもしれません。だがあのお方も先々の多くのことを見通しながらも、迷い、悩んでいるように見えました」

 俺とミラに太陽神の座を使ってきた後、神殿へ去っていく彼の後ろ姿が脳裡に浮かぶ。

「総神官長」

 イシュルは顎を引いて何度目か、ウルトゥーロを鋭く睨みつけた。

「あなたこそ、紅玉石の片方がビオナートに奪われたと知った時点で、聖冠の儀の時にカルノさまを聖都に呼びつけようと考えていたのではありませんか」

「ううう……」

 ウルトゥーロは苦しげに呻いた。


 ウルトゥーロの告白、ふたつめ。

 それは、彼が総神官長になるまで葛藤を積み重ねてきた、その心の軌跡である。

 ウルトゥーロは自身の出自や能力から聖堂教会において昇進していくに従い、長年苦しんできたことがあった。それは自分自身に教会の上に立つ者としての、聖職者を束ねる者としての資質があるか、という疑念だった。

 聖堂教会における総神官長は聖者でなければならない。教会に所属する神官たちはそう教えられ、信じ、見なしている。

 ウルトゥーロは自分自身がどんな人間か、とても聖者と呼ばれるような存在ではないことをよくわかっていた。

 彼は自身が信仰心がうすく、我欲と怖れを断ち切れない愚か者であると信じて疑わなかった。

「それでわたしは仮に、もうひとつのわたし自身を、人格をつくることにしたのだ」

 ウルトゥーロのそのひと言に、イシュルは一瞬目眩に襲われ、上半身を僅かに揺らした。

 この男……、こいつもか。

 俺がふたつめの太陽神の首飾りのことを指摘した時から、がらりと変わった総神官長の雰囲気はまるで紫の長、フレード・オーヘンの時のようだ。フレードも長年、影働きのクートとひとり二役を演じてきたのだ。そして何の因果か、彼の息子であるツアフも……。

「わたしはあらゆる欲を捨て、あらゆる悪心を捨て、文字通り聖者の人格を育てていった」

 ウルトゥーロは最も模範的な聖職者としての仮の人格を何十年と、長い時間を費やして形づくっていった。

「聖者になるということは、この世から遠く離れた場所に身を置くということだ。人としての生を捨てるということだ。それは人間の感情の大半を捨て去った、羽毛のようにかるく、空疎な存在だ。わたしは総神官長になった時点で本来の自分を捨て、新たに育てた人格だけで生きていこうとした」

 とたんに力を失い、虚ろな視線を向けるイシュルに、ウルトゥーロは彼の変化に気づいたのかそうでないのか、柔和な眸で見返した。

 その顔には突然、電撃的に公爵邸を訪れたときの、あの顔面に張りついた、だが自然な笑みを浮かべている。

 ウルトゥーロは話を続けながら、少しずつ、そのもうひつとの聖者の人格を取り戻そうとしている。

「だが、そううまくはいかなかった。ビオナートが動きはじめると、わたしは再び、怖れ、嫌悪していたもとの人格を身に纏わなければならなくなった」

 イシュルは何かの深い想念に沈んでいる。ウルトゥーロはイシュルを見てはいない。

 彼の独白が続く。

「聖者のままではとても彼とは戦えぬ。わたしは時に本来の己に立ち戻って国王との争闘に臨もうとした。だがそこでわたしはさらに思い悩むことになった。それは将来を嘱望されていた、わたしの教え子たちのことだ」

 ウルトゥーロはイシュルの眸の奥のもっと先、何かを見つめていた。

「カルノとリベリオはわたしのかわいい教え子だ。だから彼らの命が国王派との争いで失われるようなことは何としても避けたかった。……だが、同時に彼らの助けなくして国王派と戦うことはできぬ。彼らを巻き込みたくない、教会の将来のため彼らを失うわけにはいかない。いや、彼らの力を借りたい……その相反する思いは元のわたしと、総神官長として振る舞うもうひとりのわたしの、ふたつの人格の相克でもあった。わたしは本来の自分と、総神官長としての己と、ふたつの存在の間で揺れた。現在のカルノの処遇は、わたしがそのどちらにも成りきれなっかった結果、ということだ」

 イシュルは彷徨わせていた視線を一瞬、総神官長に向けた。そして顎を引き、俯いた。

 ウルトゥーロの異様な脅え。

 それは俺が正義派の中枢のみが知る秘密の核心に触れたから、だけではなかった。それは彼の人格の裏側をえぐりだす行為、でもあったのだ。

 その時、イシュルの眸に自分の両手が映った。

 左手の紅玉石と、石のない右手の甲……。

 ウルトゥーロのふたつの人格、ふたりの人間を演じるフレード、そしてふたつでひとつの紅玉石。

 ……そうか。

 イシュルは顔を上げ、今は復活した総神官長にふさわしい、柔らかく暖かみのある、それでいて威厳も感じさせるその顔を見やり、視線をその先へと彷徨わせた。

 エミリアとエンドラの夢と終末……。

 ピルサとピューリの双子、ルフィッツオとロメオの双子の戸惑いと恋。

 王位をめぐるサロモンとルフレイドの愛憎。

 ミラ・ディエラードとセルダ・バルディの生と死。

 正義派と国王派の闘争。

 聖堂教会と聖王国の、権威と権力。

 大聖堂とクレンベルの太陽神の座。ウルトゥーロとカルノの太陽神の首飾り。

 ……そしてふたつの、紅玉石。

 イシュルはウルトゥーロから顔を背け、窓の外に塗り込められた青空を見やった。

 ふたりの人物、ふたりの心、ふたつの……、幾つもの相反する、相関するふたつの事象。

 あれもそうじゃないか。これもそうじゃないか。あげればきりがない。

 みなふたつ、ふたつ、ふたつ。

 心のなかを、俺の周りを、その無数の“ふたつ”が渦となって吹き荒れる。

 これはまさか、おまえの仕業か。月の神よ。

 おまえがウーメオの舌で介入してきて、エミリアたちは死んでしまった。

 そこから始まったのか?

 俺に何をさせる気だ? 

 おまえは何を企んでいる……。

 イシュルは再び自身の、両手を見つめた。

 すべては。

 ふたつの紅玉石に収斂していくのか。





「聖冠の儀の差配はそなたにまかせよう。……そなたがクレンベルに現れ、聖都を訪れたのも神のお導きであろうから」

 ウルトゥーロは前に言った、似たようなことを再び口にした。

 ……神のお導きか。

 イシュルは皮肉な笑みが浮かびそうになるのをぐっと堪えた。

「ただし、もうひとつの太陽神の首飾りのことはもちろん、わしとカルノのことも他の者に知られたくない。わたしはそなたに何もしてやれんが……」

「わかっています」

 イシュルは小さく頷くと言った。

 カルノの持つふたつめの太陽神の首飾りをどうするか。彼を聖都に連れてくるのか、借り受けるのか。

 カルノの了承をどう取りつけるか、総神官長は手助けできない、と言っているのだ。

 総神官長が使者を遣わしたり手紙を出し、罪をきせた事情やおのれの心情を吐露すれば、カルノの協力をとりつけるのは容易だろう。だが、それが万が一外に漏れればどうなるだろう。ウルトゥーロは自分とカルノの仲違いが偽りであることを、ふたりの繋がりが完全に断たれてはいないことを、国王派に知られたくないのだ。……そして、それはカルノ本人にも。

「カルノさまの了解はわたしが取りつけます。ただし」

 イシュルはウルトゥーロの眸を力を込めて見つめた。

「ウルトゥーロさまの本心を、カルノさまに話すことをお許し願いたい」

「ううむ、それは……」

 ウルトゥーロは何度目かの、苦しそうな表情を見せた。

「すべてが終わった後にウルトゥーロさまの本心を知って、果たしてカルノさまは喜ばれるでしょうか。カルノさまはどう思われるでしょうか」

 カルノだって、本来ならば師であるウルトゥーロを、ここ聖都で助けたかったに違いないのだ。

「くっ……」

 老人の全身が軋み、揺れたような気がした。 

 ウルトゥーロの仮面がまた、剥がれ落ちていく。

 彼は突然、その双眸から涙をこぼした。

 イシュルは無言でその有様を見つめる。

 情の厚いひとなのだ。

 そして、真面目なひとなのだ。

 決して本人の言う、総神官長にふさわしくない、そんな人物ではないだろう。

 聖者たらんと、彼なりに長年努力を重ねてきたのだ。それがたとえ自身を偽ることであっても。

 その意志を捨てず貫いてきた、それだけでも立派なことだ。

 誰もがみなその身分に似合った志を持ち、日々努力しているとは言えまい。

 イシュルは窓の外を見た。

 確かにここは静かだ。

 誰もがひれ伏す存在は、普段は孤独を囲う場所に住んでいる。

 たまに下界に降りてくる、だけだ。

 俺がこの老人にできることは限られている。

 下界の者としてただ真心を、当たり前のやさしさを伝えるだけだ。

 ……俺は何のために、聖都にやってきた?

「わたしが猊下のお心をカルノさまに伝えしましょう」

 イシュルは笑みを浮かべた。

「きっとカルノさまも苦しんでおられるのだと思います。それを取り除いてあげましょう。猊下」

 そしてやさしく柔らかく、言った。




 階段を数段昇った先に円柱が並んでいる。その上に、さまざまな絵柄の彫刻のなされた三角形の屋根。隅々が黒く汚れた真っ白の、古い建物。

 聖パタンデール館は大聖堂の東側、広場を挟んだ真正面にあった。広場側から東へ、王城の方へ長く伸びる三階建ての建物である。

「わたくしもこの館の中に入るのははじめてですわ」

 イシュルの横を歩くミラが話しかけてくる。

「この館は聖堂教会の重要な行事や会合の時に使われるのです」

「そうなんだ」

 イシュルはミラと話しながら素早く左右を見た。パタンデール館の周りには十名ほどの神官兵が、適度な間隔を開けて並び立ち、周囲を警戒している。

 イシュルは建物の周囲、敷石の継ぎ目に沿って数本、風の魔力を針のように細くして地面に突き刺した。威力を弱め、魔力を抑えて他の者に気づかれないようにする。

 その針のような魔力を地中へと伸ばしていく。

「……」

 ミラが一瞬立ち止まってイシュルを見てくる。

「パタンデールの地下を探る。やつらは絶対仕掛けてくる。朝のやつは陽動、と考えるべきだ。油断しないようにな、ミラ」

 イシュルはミラに僅かに顔を寄せ、小声で言った。

「わかりましたわ」

 イシュルは続いて首を横に向け、後ろを歩くネリーにも言った。

「おまえも気をつけろよ、ネリー」

「わかった」

 ネリーの端正な顔に微かに笑みが浮かび、唇が僅かに歪んだ。

 大聖堂の神官に導かれ、イシュルたちは正面大扉の脇にある小さな扉から中に入った。

 聖パタンデール館は入ってすぐに周囲を暗い色の木板で囲まれたホール、奥に三階へ昇る階段、地階と三階の南側に館の奥へと続く廊下があった。

 イシュルたちはそのまま地階の奥の廊下へと進み、二つ目の扉、控え室のような部屋に通された。

「大神官会議はひとつ奥の部屋で行われているようだ」

 ここでお待ちを、と言って案内の神官が部屋を出て行くと、イシュルはひとり言のように呟いた。

 となりには大きな空間があり、複数のひとの気配がする。

 ウルトゥーロはイシュルを謁見後、デシオらとともにひと足先に聖パタンデール館に向かい、大神官会議に臨んでいる。今ごろは国王派の大神官らから、ウルトゥーロに提出された意見書に関する審議が行われている筈である。じき、イシュルも呼ばれることになるだろう。

「……」

 何か話そうとするミラを片手を上げて制し、イシュルは聖パタンデール館の周囲の地中に突き刺した風の魔力の先端を、となりの部屋に向けて集中させた。

 真っ黒な何もない空間、実際は館の下の地中——を細い、銀線のような風の魔力が突き進んでいく。

 銀線の先端がとなりの部屋の真下に達すると、イシュルはそれを直角に、あるいは緩やかな曲線を描くように上下左右にランダムに曲げて辺りを探っていった。

「ふふ」

 イシュルは小さく笑ってミラとネリーに顔を向けた。

 ふたりとも室内で立ったまま、イシュルをじっと見つめている。

「見つけた」

 暗闇の中に、ひとが這って何とか通れるほどの空間があった。その先にはもっと大きい、大聖堂から東方、おそらく聖パタンデール館の奥にある神官らの宿舎や、さらにその奥の宮廷の役人らの宿舎の方へと続く地下通路らしき空間があった。

 誰かが地下通路からとなりの部屋の真下あたりまで、闇の精霊を移動させるか、魔封陣を設置できる横穴を掘った、ということだ。

「土の魔導師か」

 さて、では人の気配はどうかな?

 横穴付近の地下通路にはひとの気配はない。あまり強く、手広く魔力を展開するのはまずい。相手に気づかれる。そっと、ゆっくりと探査の手を伸ばして……。 

「いや」

 ここはやつらにわざと魔封陣を発動させて、大神官の方々の面前で処理してみせるのがいいか……。

 顎に手をやりほくそ笑むイシュルに、ミラが真剣な表情で話しかけてきた。

「あの、イシュルさま」

「なに?」

「もしその魔導師がアナベル・バルロードなら、ここはどうか見逃していただけないでしょうか」

「……」

 一瞬、イシュルとミラの視線が交錯する。

「あの女はわたくしの方で決着をつけたいのです。どうか、お目こぼしを」

 ミラとあの“青い魔女”にどんな因縁があるのか。ミラがあの女を嫌っているのは知っていたが……。

「わかった。いいよ」

 イシュルはかるく笑顔になって頷いた。

 アナベル・バルロードが出張ってきているかまではわからない。もし彼女でなければただ見逃すだけになってしまうが、どうせ宮廷魔導師のひとりやふたり、たいした戦力ではない。気にかける必要はない。

 大神官の前で魔封を破ってみせれば、それでいいのだ。

 イシュルは横穴と、その周囲の地下通路に魔力の細い先端を僅かに露出させ、相手の動きを監視することにした。

  

 イシュルに老人たちの冷たい、あるいは興味深げな、さまざまな視線が向けられる。 

 老人たちはみな宝冠を冠り、豪奢な神官服に身を包み、部屋の両脇に五人ずつ、背の高い黒く塗装された椅子に座っている。

 ウルトゥーロは彼らの正面に、同じ黒塗りの椅子に座っている。その脇には議長役なのか、リベリオ・アダーニが立っている。

 ふたりの背後には粗末な丸椅子にデシオやピエル、他の聖神官と思われる男たちが座り、室内の奥、脇の方には小机に向かって書記役の神官が二名、座っていた。

 イシュルはその書記から視線を右にずらした。部屋の奥、中央には金色の細長い杖を持った中年の神官がひとり、立っている。

 あの男がこの会議を守護する神官、つまり光系統の防御魔法陣を展開する役目を負っているのだろう。

 イシュルは自身に突き刺さる大神官たちの視線を無視し、室内をそれとなく見渡した。

 大神官会議の行われているこの大きな部屋は、館の名前と同じ、聖パタンデールの間と呼ばれる。

 床は木板、周囲の壁は石積み、天井は三階まで吹き抜けで木材の屋根の梁が露出している。古く、豪華な装飾の類いは一切ない。

 イシュルは聖パタンデールの間に呼ばれ入室すると、かるく総神官長に頭を下げ、いささか殺風景な室内の、南北の壁際に並んで座る大神官らに顔を向けた。

「この者がイシュル・ベルシュ。ラディス王国の森の魔女、レーネの風神の魔法具を受け継いだ者だ」

 ウルトゥーロが重々しい声を出した。

「……」

 誰かの吐息が微か、それだけ。後は無音だ。だが、室内がわずかにざわついたような感じがした。

 老人たちの中には敵意に均しい、厳しい視線を向けてくる者がいる。彼らがおそらくビオナートと同腹、国王派の大神官たちだろう。

「ベルシュ殿、左手の紅玉石を我らに今一度見せてくれぬか」

 リベリオがウルトゥーロの隣から声をかけてくる。

 イシュルは謁見後にはめ直した黒革の手袋を再びはずした。そして左手の甲を老人たちに向けてかざした。

「おおおっ」

「なんと!」

「こ、これは」

 議場が激変した。

 老人たちは叫び、呻くとみないっせいに椅子から立ち上がってイシュルの前へ殺到した。

 イシュルの左手から浮き出た紅玉石。その効果は絶大だった。

 前面に錫杖のレリーフを施された宝冠を冠った老人が、いの一番にイシュルの前に駆けつけ床の上に跪いた。

「おお、神よ!」

 錫杖のレリーフとは地神の杖であろう。ならばこの老人は地神の神殿の大神官なのだ。

「少年よ。どうかわしにその左手を見せておくれ」

 老人は震える声で言った。

「……」

 イシュルは無言で老人に左手を差し出した。

 老人はイシュルの左手の指先を両手で握りしめると、紅玉石に顔を近づけ仔細に検分し、やがて叫び声をあげた。

「これは真(まこと)だ! この紅玉石は本物だ!」

 その声に周りの老人たちが呻き声をあげ、みな一斉にイシュルに、紅玉石に向かって跪いた。

 異様な光景だった。聖堂教会の頂点に立つ権威そのものである老人たちが、ひとりの少年に向かってみなひれ伏したのだった。

「みな……」

 ウルトゥーロが何か、声を発した時だった。

 同時に部屋の奥に立つ、金の錫杖を持った中年の神官が叫んだ。

「ヘレスの名において、光の防御陣を発動します」

「ふふ」

 跪く老人たちを無表情に眺めていたイシュルの顔に、冷たい笑みが浮かんだ。


「まずい……」

 背後で並んで座っていた聖神官らがざわめき、デシオらの声が聞こえてくる。

 地中から魔封陣が発動したのだ。それに対し、光の防御陣が発動された。

 今、足許では煌めきや色やかたちが違うふたつの魔力がぶつかり合っている。

 全身から湧きでるような風の魔法具の力。光の結界は中にいる者の魔法を封じることはない。だが外部からの魔力は防ぐ。精霊も入ってこれない。

 そして俺が精霊の異界から降ろしてくる魔力も遮断される。

 地下には通路が伸びていて、そこそこの広さの空間がある。だから魔導師のひとりやふたり、圧縮した空気球を飛ばしたり、そのまま強風を吹かせて撃退はできるだろうが……。

「風の神イヴェダよ、汝(いまし)が風の刃を我(わ)に授けたまえ」

 イシュルは突然その場で屈み込み、片手を床について、なぜか最も初歩的な風魔法の技、“風神の刃”の呪文を唱えた。

 レニは俺に基本的な風魔法を憶える必要はない、と言った。

 だが、こんな場面ではむしろ、既存の魔法を使う方が都合がいい。

 威力が足りないか? それなら……。

「……我が宝具の力をもって、いと強し刃(やいば)となれ」

 風の大魔導師、故ベントゥラ・アレハンドロの屋敷で、レニに見せてもらった風の魔道書をめくっていた時、呪文解説の最後の方の項に、魔法の技の威力を高める呪文のことが書かれてあった。

 さらっと目を通しただけだが、その方法が二つ記載されていた。ひとつは“連唱”と言って、基本の呪文を何度か繰り返し唱えること、もうひとつは“付唱”と言って、威力を高める新たな呪文を後から付け足す方法である。付唱に定形はなく、魔法具や魔法使いの能力、知識によってその効果は変わってくる、とあった。

 イシュルが聖パタンデール館の周囲、外側から地中に突き刺した風の魔力は、魔封陣の結界に囚われなかった部分がまだ生きている。

 イシュルはその魔力をたどり、“付唱”を唱えて地下通路により強力な風の刃を出現させた。

 だが風の魔法具の力は絶大だ。イシュルは床についた右手に力を込め、途中から逆に、風の刃の巨大化を抑えるようにした。

 風の大精霊カルリルトスはかつて、フゴに現れた五匹の火龍を巨大な風の刃で一気に瞬殺した。

 イシュルの生み出した風の刃も放っておけば、周囲一体を崩落させかねない巨大なものになってしまう。

「……」

 イシュルは視線を足許から前方、東の方へ移していく。

 その時、何かが揺らぐような気配がして地下から展開された魔封陣が消えた。

 地下通路をおそらくふたりの人、魔導師が東方へ移動していく気配がある。

 敵は地下通路に出現した風の刃に気づいたらしい。

 イシュルは風の刃を東に走らせ、逃走するふたりの魔導師を追った。

 突如、ふたりのうち、前をいく者の移動速度が急速に上がる。

 加速の魔法か……。

 逃走するふたりの間隔が空いていくと、その間に何かの塊が現れた。

 土壁だ。

 この、自分だけが助かろうとするやりくち。アナベル・バルロードだ。

 イシュルは風の刃の速度を上げ、後ろに取り残された魔導師ごと土壁を粉砕、先をいくアナベルらしき者を煽るようにしてそのまま風の刃を前進させた。

 視界のない状態で風の魔力が著しく減衰していく、約六百長歩(約四百m)ほど先でイシュルは風の刃をキャンセル、魔力を前方に向けて開放した。

 地中遠く、微かにドスンというくぐもった爆発音と振動がイシュルの足許につたわってきた。

 加速の魔法で逃げるアナベルだが、かるく怪我を負わせるくらいのダメージになったかどうか、というあたりか。だがあの女も慌てたに違いない。やつの肝を冷やすのには充分だったろう。

 イシュルは顔を上げて、呆然と周囲を見わたす大神官らの向こう、部屋の奥に錫杖を持って立つ神官を睨んだ。

 神官は小さく頷くと光の防御結界を解いた。

 イシュルはウルトゥーロらの方を振り向き言った。

「クラウを呼びます」


「おおおっ」

 今度は宝冠に剣に蛇のレリーフのされた大神官が最前列でひれ伏している。風の大神官だ。

 イシュルは少し離れた後方から、彼ら、宙に浮くクラウに向かって跪く大神官らを醒めた視線で見つめた。

 イシュルが「クラウ」とひと言いっただけで、室内に風が巻きイシュルの左横、空中に、夥しい光の煌めきとともにイシュルの召喚した風の大精霊、クラウディオスが現れた。

 クラウは開口一番、「余がイヴェダさまの使者役、クラウディオス・ヘススクエレルバスである」と告げると、大神官らは再び、今度はクラウの足下に殺到し、風の大神官を先頭にみないっせいに跪いた。

「わが主であるイシュル・ベルシュは、この人の都(みやこ)に向かう道中にて、風神の使者たる余を召喚したのである。このことがどういう意味を表すか、そなたらにも理解できよう。かならずイヴェダさまの御心をとり違えなきよう、きつくそなたらに申しおく」

 もう正義派も国王派もなかった。

 大神官ら、そしてデシオら聖神官らからウルトゥーロまで、室内の奥にいた書記や光の結界を張った神官らすべての者が「ははーっ」と、かしこまって跪いた。

 ただひとり、イシュルだけが立ったままでいた。

 これは……。確かにミラの言ったとおりになったわけだが……。

 なんだか、効果がありすぎたのかもしれない。これで国王派の大神官がそろってビオナートから離反することになれば、それはかえってまずいことになる。

 次期総神官長を選出する入札でビオナートが選ばれなければ、聖冠の儀でやつを討ち果たすことができなくなる。

 イシュルは小さくため息をついた。

 その視線が風の大神官と地の大神官に向けられる。

 あのふたりなら、俺の言うことを何でも聞いてくれそうだ。これは後で工作が必要かもしれない……。

 その眸が僅かに窄められた。



 

 馬蹄の音に混じり、馬車の車輪の回る音が、振動が伝わってくる。

 大聖堂からの帰りの馬車の中、イシュルのとなりにはミラが、斜め向かいにはネリーが座っている。

 車内は窓から注ぎ込む夕陽に赤く染まっている。

「大神官の方々が大騒ぎでたいへんだったらしいな」

 ネリーがいつもの皮肉の入り混じった笑みで言ってくる。

「おほほほほ」

 横ではミラが、左手の甲を口許に当てて盛大にやっている。

「これで正義派も安泰、ですわ」

「……そうだな」

 まるでどこかの悪代官か、派閥争いにいそしむ家老か、そんな台詞(せりふ)だが……。ミラの言うことは確かにそうだ。だから逆に、少しまずい状況かもしれない。

 今日のことで聖都の神官らの多くは正義派、というより総神官長側につくだろう。それは尖晶聖堂の影働きにも大きな影響を及ぼす。

 もちろん街の住民も、貴族たちにも。

 あまり国王派を追いつめるのはよろしくない。だが、ビオナートはこれで終わるようなやつではない。やつはあらゆる手を使ってこちらに仕掛けてくるだろう。……いや、違う。少しでも形勢不利となれば、次期総神官長の入札に持てる力のすべてを集中してくる、かもしれない。

 ビオナートは恐ろしく頭の切れる男なのだ……。

 だが、今はむしろそれでいい。

 イシュルは微かに笑みを浮かべると、懐から小さな宝石のはまった首飾りを取り出した。

「それは……」

 ミラが覗き込んでくる。

「これは光系統の魔法具だ」

 銀糸で編まれた紐の先には小さな虹色石、オパールが光っている。白い石にはきらびやかな虹色の輝きが浮かんでいる。

 母のルーシが右手にしていた守りの指輪と同じ石だ。

 だが、この石からは弱いながらも、治癒効果を発揮するであろう、熱く明るい魔力が滲みでるようにして湧き立ち、生まれでてくるのが感じられる。

 この首飾りは謁見の最後に、ウルトゥーロから手渡されたものだ。カルノに会ったら渡してくれ、と。

「わしはあの者に手紙ひとつ書くことができん。だから、この魔法具をそなたに託そう。この首飾りを見れば、カルノもかならずわかってくれる……」

 ウルトゥーロはそう言った。

 それ以上のことは口にしなかった。

 だから詳しいことはわからない。だがこのオパールの首飾りはきっと、ふたりにとって特別なものなのだろう。

 イシュルはその首飾りを自分の首にかけた。

「ミラ。詳しいことは屋敷に帰ってから話そう」

 イシュルはミラに笑みを向け、彼女の眸に浮かぶ、夕陽の赤い煌めきの末(すえ)をたどった。

 これで聖冠の儀でビオナートに勝利する目鼻が立った。

 後はクレンベルに行ってカルノの協力をとりつけること、ビオナートの持つもうひとつの紅玉石と教会の禁書を取り戻すこと、そしてやつが次期総神官長として決まった後、第二王子、ルフレイドの身をどう守るか、だ。

 イシュルは首飾りの虹色石を握りしめた。

 母のしていた指輪の石と同じ石。これも何かの因縁か。

 イシュルはミラの眸の赤い煌めきを、その奥に光る何かを見つめた。


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