太陽神の首飾り
クラウは大聖堂の真上、数百長歩(スカル、約二五十〜三百m)ほどの高さにあって南を向いている。
彼の左側、東側の建物の影から飛び出した火球は全部で十数個。すべてがクラウに向かって一直線に上昇していく。
無数の魔力の閃光が大聖堂の周りを瞬く。
火球の大気を引き裂く轟音が、クラウから少し離れて後方にいるイシュルの耳許まで響いてくる。
クラウの右側、西側の運河から盛り上がった水の塊は、首長竜のような形になって細く伸び上がっていく。
正面の閃光は何か? まだ手前の建物の影に隠れてその正体はわからない。
クラウは両腕を胸の前に組み、不動。慌てた様子は一切見えない。
その彼の周りで風の魔力が現れ、消え、流れるようにして渦を巻きはじめる。辺りの空を風が舞う。
クラウに向かって突っ込む火球がその渦に触れた。
と、すべての火球がいっせいに彗星のように後方に尾を引く。
その瞬間、変形した火球はすべて音も無く消滅した。
あっという間だった。
あれは……。
はじめて目にする、何度目かの風の精霊の技。クラウは風の魔力を彼の世界から引き出し、戻しながら自身の周囲で回転させている。
その自然に風が吹き、消えていくような流麗な動き……。
凄いじゃないか。
イシュルはクラウの技に瞠目した。
風の魔力を異界から引き出しそのまま回転し続ければ、それはやがて周囲に竜巻のような暴風を生み出すだろう。開放すれば周囲の建物や人々にも大きな被害が出るだろう。
クラウは魔力を抑えながら、自身の周囲を効率よく防御している。
「さすがだクラウ。イヴェダの使者役も伊達ではないな」
イシュルの呟きに、キキーンと甲高い咆哮が重なる。
運河の水面から首を伸ばした水の精霊は、夥しい魔力を発しその顎から矢のように鋭い水の塊を吐き出した。
あれは水の矢だ。
水の塊は細長く伸びて先が尖り、その先端に高密度の魔力が固まっている。
イシュルは高空にある風の魔力の塊はそのまま、クラウの防御陣の外側に新たな魔力を集め、彼に向かって吹き飛ぶ水矢にぶつけ粉砕する。
水神の矢はざざっ、と音を立て、空中に平たく潰れた水煙りとなって消えていく。
「!!」
その時西方、遠くから、空を引き裂く魔力が瞬いた。機銃の曳光弾のように聖都の街並を横一文字に飛翔する何か。
これも……!
新たな水神の矢は瞬きする間もなく聖都を縦断、運河から首を伸ばした化け物に命中する。
一瞬、キーンと高い音が響くと同時、首長竜がきれいな円盤状に潰れ、巨大な水煙となって飛散していく。
アデリアーヌか!
イシュルがアデール聖堂の方に目をやると、その上空を清廉な魔力が煌めき瞬いている。
あいつ、あの距離から水矢を放ってきたのだ。
しかもとても強力なやつを、あの早さで。
先日に彼女が言っていたこと、火急の時には公爵邸に向かって水矢を射つ、との言に偽りはなかった。
……っていうか、あんな強力な水矢を公爵邸に射たれたら、大騒動になりかねない。
イシュルは呆然とする間もなくクラウの方へ視線を戻した。
いつの間に現れたのか、風の大精霊の下で何者かの精霊が一体、喘ぐように消えていく。
あれはあまり強い精霊ではないようだ。クラウの周りを覆う風の魔力の圧力に、抗しきれなかったのだろう。
精霊の姿が消えると同時、今度は広場の南側の建物の影から、赤く光る紡錘形の金属の塊が空中を誘導弾のような曲線を描いて飛び出してきた。その数は全部で六。
さきほどクラウの正面で起こった魔力の閃光がそれだろう。
金(かね)系統の魔導師もいるのか……。
クラウは自身に向かってくる金属の飛翔体に構わず、広場の東から南にかけて建物の影に隠れ潜む魔導師たちを始末していく。大聖堂広場を囲む建物の影から垂直に、灰色の煙りが次々と吹き上がっていく。
クラウに迫る金属の飛翔体は、彼の周りを回転する風の魔力の防御陣に突き刺さるとその動きを止め、ぶるぶると震えると真南へ、もの凄いスピードで吹き飛ばされた。
それは聖都の街の彼方に瞬間、朝日にきらりと光ると視界から消え去った。
イシュルは上空に待機させていた風の魔力の塊のひとつを細分化、威力を弱め、大聖堂の西側、運河の対岸を中心に突き刺して水の魔導師の位置を探った。あの首長竜のような精霊を遣ってきた者だ。
ほぼ同時に運河の上空に大型の水球が三つ、姿を現す。敵は次の攻撃に移ろうとしている。
……風の魔力で探索するまでもなかった。
イシュルは水の魔導師の位置を即座に特定、その者に細分化した魔力を集め粉砕した。
対岸に並ぶ大小の船舶、その舟の上から呆然と大聖堂広場の異変を見つめる人夫たち。その中にひとつ、ぼっと赤茶と灰色の混じった煙が立ち上る。
側にいた人夫たちが腰を抜かして座り込むのが見て取れた。
イシュルは視線を逸らし、クラウの後ろ姿に目をやった。
彼の落着いた様子は変わらない。
大聖堂の周囲に配置された魔導師か、影の者か、魔法を遣う者はあらかた始末され、辺りには大聖堂広場の、ふだんの早朝の静寂が漂いはじめている。
ふむ。そろそろお終いかな。
後は土系統の地下からの攻撃があるか、だが……。
大聖堂の周囲にも秘密の地下通路みたいなものはあるだろう。
サロモンと太陽神の塔に行った時、地中から襲ってきたアナベル・バルロード、あの女魔導師のようなやつが、大聖堂の地下にも潜んでいないか。
「それはないか」
イシュルは何事かと、広場にちらちらと姿を現しはじめた神官兵らの姿に目をやった。
大聖堂の地下には主神の間、太陽神の座がある。もし大聖堂の地下で土魔法を使い、主神の間に被害が及ぶようなことがあれば、それはビオナートの首ひとつで済む問題ではなくなる。聖堂教会と聖王国全体を揺るがす大事になるだろう。
ん?
イシュルの足下、昨晩ビルドたちを助け出した辺り、建物の影から地面の上を滑るようにして黒い影が漂いでてくる。
まだいたか。
黒い影は人間の腕のような突起を前に伸ばし、大聖堂の建物の方へ近づいてく。
イシュルはすぐに攻撃せずその黒い影を観察する。
魔封陣を仕込まれた闇の精霊か。
その黒い影は、朝日に塗り込められた建物の影を縫うようにして広場に辿り着くと、四方に拡散し魔封陣を展開しはじめる。
大聖堂広場に長く伸びる建物の影、その影の中をさらに深く黒い染みが、幾何学的な模様を描くようにして広がっていく。
あの魔法陣が完成し発動すれば、その上空にいるクラウもその結界に囚われる可能性がある。
なるほど……。下の建物の影からこっそり、っといった感じか。
ばればれだがな。
イシュルは早くもその影に気づいたクラウに、「待て」と心の内で声をかけると、自ら魔力の塊の一部を降ろして魔封陣を寸断、運河の方へ向かって開放し吹き飛ばした。
運河を一瞬強風が吹き渡り、波が立って船が揺れる。
闇の精霊を放った者は、駆け足で大聖堂北側に密集する大小の建物の中に紛れ込み、逃げようとしている。
イシュルはその者を風の魔力の壁で囲って閉じ込めると、空中から急ぎ降下、その魔力の壁の上に降り立った。
閉じ込められた者はベージュのマントを羽織り、フードをかぶって顔を隠している。体格からすると大人の男、中年くらいかもしれない。右手には赤銅色の金属製のステッキ。おそらく魔法具だろう。それも闇系統の。
男は周囲を見渡し、もう魔法も使えず逃げられないと悟ったか、おもむろにこちらを見上げてきた。
男のフード越しに視線が合う。
ほんの一瞬、エミリアにはじめて会ったときの記憶が蘇る。あれはリフィアとゾーラ村へ向かって森の中を歩いている時だった。
「……」
灰色の眸。男は無言でいる。
日に焼けた肌に無精髭、マントの下から見える衣服はありきたり、あまり高そうなものではない。
こいつ、宮廷魔導師じゃないな……。
着てる服はごまかせても、その顔の感じは貴族のものではない。
「おまえ……」
イシュルが男に声をかけようとした時、後方から複数のひとが駆け寄ってくる気配がした。
イシュルと男は大聖堂の敷地のすぐ隣、運河沿いの道から東に伸びた細い路地にいる。ひとの気配は大聖堂の方からだ。
イシュルが顔をあげる。
「おい」
「いたぞ!」
石畳を蹴る複数の足音とともに、運河沿いの表の道から数名の神官兵が姿を現した。
「イシュル殿が捕らえた男、やはり傭兵だった」
後ろで神官兵と話していたデシオがイシュルの横にきて、囁くような小声で言った。
「ミエバの傭兵ギルドで集められたらしい。腕利きの魔法使い限定で、報酬もかなりの高額だったようだ」
ミエバは聖都の南、徒歩で三日ほどの距離にあるそこそこの大きさの街だ。
「依頼主は誰です? 内容は?」
「依頼内容は大聖堂の守護。依頼主は聖都の貴族らしい、とだけ。当人も詳しく知らされていないようだ。ミエバの傭兵ギルドが依頼主に買収された可能性が高い」
「……」
……大聖堂周囲での荒事だ。露見した場合のことを考え、国王派は宮廷魔導師らを使いたくなかったのだろう。影働きであれだけの五系統の魔法、火、水、金(かね)の魔法を使える者はそれほど多くはいない筈だ。それで、腕利きの流しの魔法使いを高額で集めたのだろう。
傭兵であれば依頼主が誰か、それが明らかにならなければ、国王派がやったことだと決めつけ、追及できない。
それにもう、一定数の宮廷魔導師を投入してもこちらに歯が立たないことは相手も知っている。
顎に手をやり考えはじめたイシュルに、デシオがさらに声を落として言った。
「ただ彼らの中には闇系統の、それも魔封陣を使う者がいた。流しの魔法使いで魔封陣を発動できる悪霊、つまり闇の精霊と契約している者など聖王国内でも数えるほどしかいない。おそらく尖晶聖堂の影働きが流しの魔法使いとして身分を偽り、わざわざミエバの傭兵ギルドの募集を通して襲撃に加わった、ということになる」
「そうですね」
イシュルも声を潜めて小さく頷いた。
これからミエバの傭兵ギルドに照会し、当ギルドや、その依頼主とかいう貴族の捜査をしていたら、いったいどれほどの日数がかかるかわからない。その間に感謝祭も終わってしまうかもしれない。
「詳しくはベルシュ殿にも後で知らせよう。まだ捕らえた者の尋問も進んでいない」
今度はピエル・バハルがイシュルたちに近づいてきて言った。
「それにそろそろ公爵家から馬車が到着する頃合いだ。ベルシュ殿は絨毯の先の方へ移動してくれ。みな貴殿を見ている。背筋を伸ばして、堂々とな」
ピエルが少し表情を崩す。デシオも小さく笑みを浮かべた。
イシュルはじろっとピエルを睨むと俯きため息をついた。
イシュルの足許には深紅の絨毯が広げられている。周囲にはデシオやピエル以外の聖神官、神官ら十数名、大聖堂主塔の東側入口から伸ばされた絨毯の両脇には、神官服の上に金色の胴鎧、篭手などを装着し大剣を抱えた神官兵、つまり儀仗兵が並んでいる。
広場には遠巻きに神学校の生徒や周辺の施設の使用人ら、イシュルの位置からはあまり見えないが、大聖堂西側、運河の対岸には、街の住民が鈴なりになって皆こちらを凝視していた。
群衆の立てるざわめきが、途切れることなく波のようにイシュルたちの方へ押し寄せてくる。
広場に群がる人びとからも、周りにいる神官たちからも、イシュルに好奇の視線が注がれている。いや、神官たちの中にはイシュルに対し明らかに羨望や尊敬の眼差しを向ける者もいた。風の大精霊であるクラウの活躍が効いている。
「……」
こういうのはやりにくい……。
イシュルは顔を上げると僅かに顔を歪ませ、辺りに視線を彷徨わせた。
闇の精霊を放った男を捕らえ、その男を神官兵らに引き渡すと、イシュルはクラウに周囲の見張りを続けるよう頼み、彼らとともに大聖堂に向かった。大聖堂に着くとイシュルは中には入らず神官兵らにデシオを呼んでもらい、彼が外に出てくるとその場で朝の、さきほどまでの魔法使いらとの戦闘を説明した。
デシオも大聖堂の塔の中から周りの状況の一部を見ていて、詳しく説明する必要はなかったが、その間に他の神官らも集まってきて、挨拶やら自己紹介やらやりとりをしているうちに時が過ぎ、公爵邸に帰る時間がなくなってしまった。
「さあ」
デシオらに背中を押され、イシュルはとぼとぼと広場の東側に伸ばされた絨毯の縁まで歩いて行く。
これは仕方がない。このことは実情はともかく、表向き聖堂教会が、正義派が俺を味方につけたことを聖王国全土に、国王派に知らしめるための演出なのだ。
俺が正義派に加担している以上、断るわけにはいかない。これから後、ウルトゥーロとの謁見がひかえている。彼にはどうしても聞きたいことがある。この見え見えの演出にもつき合わなければならない。
イシュルが真っ赤な絨毯の先、並んで立てられたふたつの金色のポールの横に立つと、周囲の群衆のざわめきがひときわ大きくなった。
金色のポールの頭部には、聖堂教で最もよくつかわれる印である、光り輝く太陽を図案化した飾りがついている。何か、著しく既視感をもよおす光景である。
この広場が空港で、深紅の絨毯の先には旅客機が止まり、タラップから某国の元首が降りてくる……。昔何かで見た光景が脳裡に浮かぶ。
そしてその時、イシュルがレッドカーペットの前に立つのをまるで計ったかのように、規則正しい馬蹄と馬車の車輪の回る音が大聖堂の西側、運河の方から響いてくる。
大聖堂から公爵邸に差し遣わされた馬車が近づいてきているのだ。その馬車にはミラとネリーが乗っている筈である。本来はイシュルも同乗する予定だった。
周囲の群衆のざわめきが大きくなる。大聖堂の西側から広場を回り込んで四騎の騎馬、続いて真っ白の馬車が姿を現す。二頭立てだが曳く馬は二頭とも白馬だ。馬車にはところどころ、金色の飾りがついている。
白と金は聖王国と聖堂教会が好んで使う、なかば指定された配色だ。ミラたちの乗って来た馬車は、大聖堂の総神官長や大神官が乗る特別なものだった。
先導の騎馬が奥の方へ通り過ぎ、馬車が赤い絨毯の前に止まる。馭者台に座っていた神官兵が飛び降り馬車の扉を明けて跪く。
ミラはいつもの赤いドレスだろうか。赤い絨毯に赤いドレス、あまりよくないな。
などと考えていたら、ミラはいつぞやの、聖石神授の時に着ていた神官服に白いマント、足許はサンダルの服装で現れた。右手には先端をポールと同じ太陽の輝く形にした金属製の杖を持っている。おそらく例のハルバートの先端の形を魔法で変えているのだろう。ハルバートを大聖堂の中に持ち込むわけにはいかない、ということか。
続いて馬車から降りてきたネリーは上下ともに黒ずくめで細身の長剣、普段の服装と変わらない。
イシュルはミラが絨毯の上に降り立つと側により、彼女の手を取った。
「まあ、イシュルさま。駄目ですわ。今日はイシュルさまが主役。わたくしは添え物でしてよ」
ミラがにっこり微笑みかける。
「それよりもイシュルさまの大精霊のお働き、素晴らしかったですわ。屋敷からも美しい風魔法の煌めきがよく見えましたの。本来ならば、わたくしどもとて滅多に目にすることのない大精霊が、そのお姿を明らかにして大聖堂を守護する……これほどの慶事が他にありましょうか」
ミラはとてもご機嫌である。
「そ、そうだね」
だがイシュルは僅かに顔を引きつらせて、何かをごまかすように笑みを返した。
ミラの言は周りの人びとの反応からも明らかだ。確かに昨日、彼女が言ったとおりになった。大精霊が現れ大聖堂を守護する。それは教会や信徒たちにとって大きな喜びをもたらすことなのだろう。
このまま何事もなく終われば、国王派は仕掛けた末に見事、ババを引いたことになるのだが……。
多分そう簡単には終わらないだろう。まだ時間はある。この後、聖都の大神官が集合する聖パタンデール館で、やつらは臆面もなく再び何か仕掛けてくるのではないか。
今朝のひと騒動は陽動、ということになるのか。
「……」
ミラの後ろからネリーがにやりとイシュルを一瞥し、レッドカーペットの両脇に立つ儀仗兵の右側後ろに回り込み、絨毯から外れて大聖堂主塔の入口の方へ移動していく。
「今日こそは大陸全土にイシュルさまの威名をとどろかす晴れの日。さあ、参りましょう、イシュルさま」
ミラの手がイシュルの手にそっと触れる。
ふたりは横に並んで真っ赤な絨毯を歩きはじめた。
イシュルも今はミラと同じように、焦げ茶のズボンに白いシャツ、の普段着の上に、白いマントを羽織っている。
教会から身につけるよう、さきほど渡されたものだ。
気恥ずかしいが、仕方がない。
この一連の行事は、正義派にとって政治的に意義のあることなのだから。
大聖堂のどこからか、鐘が鳴らされる。
イシュルたちが絨毯の上を歩いていくと、儀仗兵ががしゃりと鎧を鳴らして大剣を捧げ持った。
イシュルはちらりと彼らの方に目をやった。
彼らはみな大柄でなかなかの威勢だが、聖堂教会における神官兵はウルクの頃と違い、聖都の教会の守護が主な任務で、兵数も少なく警備兵、といった程度の存在である。聖堂騎士団のような戦力を有しているとは言えない。
イシュルとミラ、ふたりは深紅の絨毯を主塔の入口の方へ進んで行く。
途中、横に並ぶ儀仗兵の列が途切れるとミラは立ち止まり、広場の南側に集まった群衆に向かって手を振った。
群衆の方から大きな歓声が沸き起こる。
凄いな。ミラはまるで王家のお姫さまのようだ。
ビオナートの妾腹のふたりの娘、聖王国の姫君はまだ幼く後宮から外には出てこない。五公家息女のミラはその代わりになっている、王家の姫君に次ぐ存在であるということなのか。いや、まさかアイドルとか女優とか、そちらの方に近いのだろうか。
「街のひとたちは皆ミラのこと、知っているの?」
横からイシュルがミラに問いかけると、
「どうでしょうか。わたくしのことを知っている者もいるとは思いますが」
ミラはさらっと流した。
……はは。さすがミラ。この、衆目に晒される中での振る舞いは天性のものか。
身分の高い深窓のご令嬢が、気安く街の住民に手を振る、なんて慣習などないだろうに。
生まれついての女優、アイドル。そんな感じか。
ふたりが主塔の入口の前に立つと、唐草模様の彫刻のなされた大きな扉が左右に開かれた。
木と鉄の軋む音に、扉の向こう側にはさらに多くの神官らが集まっていた。
その中心に、ひときわ太い金の縁取りのついたトーガをまとう壮年の男がひとり、白いマントに金色の錫杖を持っている。
その男は大聖堂にいるもうひとりの大神官、リベリオ・アダーニだった。
「ベルシュ殿、どうかその左手の手袋を取って我々に見せてくれないか? 聖なる紅玉石を」
リベリオは挨拶も名乗りもそこそこに、彼の、彼らの最も知りたい、見たいことを率直に要求してきた。
イシュルは黒革の指抜き手袋を取った。左手の甲の上に貼りついた紅玉石が、外から射し込む陽光を吸い込むようにして煌めく。
周囲の神官たちに広がる小さなさざめき。主塔に中にいた神官たちには老若男女、さまざまな年齢、世代の者たちが、女神官も混じっている。
「おお……」
リベリオ・アダーニが双眸をこれでもかと見開いて、その神経質そうな鋭角な顔を驚愕に歪ませ近づいてくる。
彼はイシュルの左手を両手にとると顔を近づけしばらく凝視し、押し頂くようにしてその場に跪いた。
「おお、神よ。……これは、地神ウーメオの奇跡がついに成されたのだ」
リベリオの感動にうち震える声に、周りの者がイシュルに向かっていっせいに跪いた。
跪いた神官らの恍惚とした視線はみなイシュルの左手に注がれている。彼らの驚愕と感動もむべなるものかな、地神の紅玉石が明確な反応を示したのは、聖堂教会はじまって以来、今まで一度としてなかったことなのだ。
イシュルは自身に向かって、正確には自身の左手の紅玉石に向かって跪く神官らの姿を見回した。
「……」
微かなため息とともに、自分にはその感動も薄く、彼らから一歩引いて冷静でいられることに小さな安堵感と、一方で微かな寂寥感を、同時に憶えた。
「んーんー」
後ろから何か変な空気を感じて振り返ると、ネリーが青い顔をして後ろからミラを抱きかかえ、観音開きに開かれた大扉の方へ、端の方へ退いていた。ネリーの片手がミラの口を押さえている。
ミラはネリーの腕を振り払おうと、ごそごそともがいている。
「……」
イシュルはふたりの姿を見なかったことにして前に向き直った。
あいつら、こんなところで何をやっているんだ。
あれはあれか。ミラがまたひときわ派手に「おほほほ」とやろうとしたんじゃないのか。ネリーは危険を察知して、ミラの「おほほ」を阻止したのだ。きっと。
確かに教会の神官らにとっては感動、感激の一場面。そこで「おほほほ」とやるのは不謹慎であるかもしれない。俺のこととか、ミラのいろいろと誇りたい、悦に入りたい、その気持ちはわからんでもないが……。
「いや、ベルシュ殿。失礼した。地神の奇跡をわたしはこの目で今、しかと見届けた。ありがとう」
リベリオが立ち上がって礼を言うと、イシュルは愛想よく微笑み小さく頷いた。いささか気の抜けた笑みだった。
「どういたしまして。大神官さま」
それよりミラとネリーの粗相が……。
「で、もう片方の紅玉石は陛下が持っているわけか」
リベリオがイシュルに顔を近づけ小声で言ってきた。
イシュルは今まで面識はなかったが、彼も正義派である。
「はい。なんとかして取り戻さねばなりません」
イシュルは即座に、ミラとネリーの粗相を心のうちから放り出し、視線を鋭くして言った。
「うむ……」
リベリオが小さく、だが重々しく頷く。
その仕草は自然で、嫌味なところがない。声音には暖かみがある。
この大神官は神経質そうな鋭角な顔つきをしているが、外見とは違って、案外とっつきやすいひとかもしれない。
「……おっと」
リベリオは辺りを見回し、周りの神官らの視線が自身に集まっているのに気づくと、イシュルから顔を離し姿勢を正してかるく咳払いをひとつ、とりつくろった声で言った。
「ではベルシュ殿、こちらへ。貴殿に見せたいものがある」
リベリオは右手に持った錫杖を前方へ掲げて言った。
イシュルたちの正面には、石造りの大きな円筒状の壁、構造物が聳えていた。表面は幾何学模様に縁取られた枠の中に、神話や伝承を題材にしたレリーフが彫られている。
石造りの巨大な円筒は塔内の上へ、かなりの高さまで、中程まで伸びていた。
円筒の最上部は、塔の内壁から伸びた幾つもの梁が複雑に交差する、木組みの天井に隠れている。その上へも円筒の構造物が伸びてるのか、それはここからではわからない。
「この塔は二重構造になっている……」
「そうだ、その通りだ。ベルシュ殿」
ひとり言のように呟いたイシュルの言葉尻をとらえて、リベリオが重々しく頷いた。
大聖堂の主塔は東側に出入り口の巨大な扉があり、入ってすぐに左右に階段、その階段の内側を覆う内壁、中心部に石造りの円筒の構造物がある、つまり主塔の内部にさらにひとまわり小さい塔が存在する、二重構造になっていた。
「こちらだ」
リベリオに誘(いざな)われ円筒の構造物を南側に回る。
主塔の内側の石塔の南側には、観音開きの鉄扉があり、片側が開けられていた。
中に入ると目の前に巨大な鉄製の蓋があった。内部にも腰の高さほどだが石造りの円筒状の構造物があり、鉄製の巨大な蓋はその上に乗せられていた。蓋からは開閉に使うのか、鎖が四本、上部に伸びている。
「……!!」
上へ伸びる鎖を追って顔を上げたイシュルの視界に、主塔の内側遥か上、最頂部までが見渡せた。
内側をめぐる階段の間、各階から光の帯が幾重にも重なり射し込んでいるのが見える。
主塔の内側にある石塔は頂部が開放され、主塔の各階、東西南北の窓から射し込む外光の明かりを下部へ取り込むような構造になっていた。
「朝の二刻頃は太陽の陽が直接射し込み、この場所もかなり明るくなる。特に夏至の日にはな」
「……それは」
驚きをあらわにしたイシュルに、リベリオが笑みを浮かべて再び頷いた。
「そうだ。この鉄の覆いの下に、主神の間がある」
鉄製の蓋には特に装飾らしきものはない。よく磨かれ手入れされているのか、錆が浮いたりなどはしていないが、その表面はただ黒く、ところどころ鈍く輝く光沢があるだけだ。
「……」
イシュルは無言でその鉄板を見つめた。
「太陽神の儀が行われる際にはこの鉄の扉が開かれ、主神の間に陽の光が射し込むことになる。……それほど明るくなるわけではないが」
リベリオが横目でイシュルを見てくる。
「それでも主神の間は地下にある故、その場におればかなり明るい陽が射し込んでくるように感ずる」
「……そうですか」
イシュルは静かに頷いた。
「貴殿にもそれとなく察せられるだろう」
リベリオは辺りを見回し続けた。
「昔はこの背の低い、石積みの塔しかなかったのだ。現在の大聖堂の主塔は後から建て増しされたものなのだ。昔は王城もあのように立派なものではなかったのでな。この石塔の天井の高さでも、東側の丘から昇る太陽の光を充分に取り込むことができた」
「なるほど」
王城は大聖堂の東の丘の上にある。聖王国の発展とともにより高い城壁が造られ、支城が造られ、王城内に神々の名を冠した城塔が建てられるようになった。
儀式の時、主神の間に射し込む陽光をより強くするために、現在の、より高い塔が建て増しされたわけだ。
塔内に射す陽光、それに何らかの意味があるということだろうか。
ただ主神の間を明るくするだけなら、周りの地面を堀り起こすだけでよい筈だ。
まわりの土を取っ払って、地上に完全に露出させてしまってもいいわけだ。クレンベルの太陽神の座のように。
それをしないのはどんな理由があるのか。
太陽神の儀は秘儀であるから、他の者の目に晒すわけにはいかない。地上にあるより地下にある方が魔法陣を維持しやすい、風雪に傷むこともない。暗所、暗闇に太陽の光が射す状況に、何か重要な意味があるのか。
クレンベルの大神官、カルノ・バルリオレに太陽神の座を起動され、正体不明の結界、空間に飛ばされた時、周囲は深い暗闇だった。迫りくる主神ヘレスの彫像を溶かし、あの暗黒の結界を破壊したのは父の剣に反射した太陽の光だった……。
「リベリオさま」
突然、後ろでデシオの声がした。振り向くとデシオが扉の外側に立っている。石塔の内部に入っていたのはイシュルとリベリオだけだった。
デシオや他の神官らは中に入ってこなかった。ミラとネリーも外にいた。
「そろそろ、ウルトゥーロさまの許へ」
「わかった」
リベリオはデシオに答えるとイシュルに顔を向け、また笑顔になって言った。
「では参ろうか。イヴェダの剣殿」
総神官長との謁見は主塔の上階にある、彼の執務室や居室のある一画で行われる、ということだった。
イシュルにリベリオ、聖神官のデシオとピエリ、ミラと護衛のネリー、そして見習い神官の少年が二名、計八名が主塔の東側出入り口入ってすぐの、右側階段から上に昇っていった。
イシュルより五歳は下、まだ子供らしさの残る見習い神官の先導でしばらくの間、両側を壁に囲まれた薄暗い階段を昇って行く。階段は主塔の外壁に沿って造られた石組み、ふたりの人間が余裕を持って横に並び昇降できる幅がある。
石段に当たる靴音が響く中、一同無言で昇っていくと、少しずつ上の方から光が差し明るくなっていき、やがてさきほど下から見上げた石塔の最上部の階に出た。
その階には中央に石塔の頂部、円形の穴が開き、その周りに四名の神官兵が立っていた。外側は回廊になっていて、その回廊の南北に部屋が、東西には大きな格子窓と、階上へと続く階段があった。
「ウルトゥーロさまはさらに上の階におられる」
リベリオが横から声をかけてきた。イシュルはリベリオと横に並んで階段を昇ってきた。
「そういえばベルシュ殿は、クレンベルの主神殿に滞在していたのだったな」
「はい」
上の階へ昇る途中でリベリオが再び話しかけてくる。
「カルノ殿は達者でおられたかな」
「ええ、お元気でしたよ」
イシュルは一瞬強ばった顔の表情を無理に緩め、笑みを浮かべてリベリオに答えた。
カルノのことはイシュルの頭の中から片時も離れることはない。特にここ数日、デシオから聖冠の儀と太陽神の儀の詳細を聞いて以降は。
「カルノ殿は、神学校ではわたしのひとつ上の先輩でね」
リベリオが横で「ほら、大聖堂の裏手にある神学校、あれだよ」などと言っている。
イシュルはやや視線を鋭くしてリベリオの横顔を見つめた。
鋭く、きつい視線になるのを抑えることができなかった。
「そうですか」
イシュルは低い声で言った。
カルノとリベリオは神学校の先輩、後輩の間柄、ということか。
「わたしとカルノ殿はともに、当時神学校の教師だったウルトゥーロさまの教え子なのだ」
「!!」
なんだと……!!
イシュルは思わず足を止め、両目を見開きリベリオを見た。
「……うむ」
リベリオはその尖った細い鼻に顎、鋭い眸の、鋭角な顔に微笑みを浮かべ、ゆっくりと頷いた。
「猊下。恐れながらここから先は、お人払いをお願いしたいのです」
イシュルは不遜なことは百も承知で、それでも鋭い視線を横目にウルトゥーロを見つめた。
「わたくしは猊下だけに、どうしても申し上げたいことがある」
「ま、待ちたまえ」
部屋の向かい側の壁を背に、椅子に座っていたデシオが腰を浮かす。
隣に座っていたピエリは呆然とした顔をして、言葉も出ない。
部屋の端に立つふたりの見習い神官の少年も顔を強ばらせている。
聖石神授で正義派の謀(はかりごと)、特にウルトゥーロが本物のふたつの紅玉石をエミリア姉妹に内密に託したことを、その場にいた見習い神官の少年の誰かが国王派に漏らしていたという疑惑が明らかになった後、すべての総神官長付きの見習い神官が配置換えになったと聞いている。
だが、そんなことは関係ない。彼らだけでなく、今この場にいるデシオとピエリも席をはずして、外に出て行ってもらう。
これから話すことは、彼らにも聞かれたくないことなのだ。
いや。他にひとがいたら、ウルトゥーロは口をつぐんで何も話さないかもしれない。
「……」
総神官長は僅かに俯き、しばらく沈思した。そしておもむろに顔をあげると言った。
「よかろう。そなたの言う通りにしよう」
ウルトゥーロは苦笑を浮かべ、だが穏やかに首肯した。
イシュルたち一行は主塔の最上層近く、総神官長ウルトゥーロ・バリオーニ二世の執務室や居室の占めるフロアに到着すると、ミラ主従とリベリオ・アダーニを控えの間に残し、イシュルとデシオ、ピエリに総神官長の身の回りの世話をする見習い神官の二名が次の間に進み、総神官長との謁見に臨んだ。
次の間は執務室と応接室を兼ねた部屋で、南側に控えの間に通ずる扉、西側が窓、北側は落着いた緑色に塗られた壁が広がり、東側にさらに奥の部屋に続く扉と黒壇の机があった。その横に小さな書棚があり、机の上には燭台と筆記具、呼び鈴、巻紙が何本か。仕事で多忙を極めている——ような感じには見えなかった。
南北の壁には椅子が並び、特に北側には小机を挟んで年季の入った渋い椅子が二脚、並んでいる。
南側の椅子にデシオとピエリが座り、イシュルとウルトゥーロが北側の椅子に座って、互いに横向きで並んで座る形で総神官長の謁見、ふたりの会見がはじまった。
ふたりの間の小机には小さな呼び鈴がひとつあるだけ、他には何もない。見習い神官の少年たちは部屋の南側の壁に並んで立っている。
ウルトゥーロは金糸の荘厳な刺繍の施された神官服を着ていたが、他にガウンも着けず宝冠の類いも冠っていなかった。今はその首にも、太陽神の首飾りをつけていない。
総神官長は跪こうとするイシュルを押し止めると逆に自らが跪き、イシュルの左手の紅玉石に接吻、地神への祈りを捧げた。
着席後は今は雨期である聖都エストフォルの最近の気候、つまり時候、季節に関する会話にはじまり、その後もイシュルが赤帝龍と戦った時の話や森の魔女レーネの話などに終始し、ここふた月ほどの間に起こった正義派と国王派の争闘や、王城から脱出したサロモンの話題など、ウルトゥーロは喫緊の話には一切触れようとしなかった。
「……」
老人らしい落着いた口調で淡々と話すウルトゥーロに笑顔で頷き、イシュルはさきほどから微笑を浮かべ人形のように動かない、デシオとピエリに一瞬、鋭い視線を走らせ横目に見た。
どうやらこの会見は、外に向けた政治的な意義が、つまり風の魔法具を所有し、地神の加護を受けていることも明らかになった少年を聖堂教会のトップが謁見し、親しく言葉を交わしたことを、国王派をはじめとする聖都の主要な勢力に知らしめることが重要であるらしい。
ウルトゥーロをはじめ、デシオら聖堂教会の正義派にとって、それ以外のことは眼中にないのだろう。
イシュルは笑顔を崩さず、今度は七十過ぎの、高齢の割には若々しいウルトゥーロの顔を、その眸の奥を探るように見つめた。
ただそれだけなら、リベリオはなぜあのような話をしたのだろうか。
リベリオはカルノが太陽神の座の結界をイシュルとミラに発動したことを知っているのだろうか。
カルノは彼の言動からすれば、「国王派寄りの中立」といった位置づけになるだろうか。
だが、リベリオの話からすれば、彼はウルトゥーロの人脈、正義派に属するのがむしろ自然だ。
そしてカルノは、朽ちてその機能の多くを喪失しているとは言え、おそらくこの大陸で大聖堂の他にただひとつだけ現存する、太陽神の座のあるクレンベルの主神殿の神殿長なのだ。
これはひょっとすると……。
俺にとって非常に好都合な展開になるかもしれない……。
リベリオはわざとあの話をしたのだ。もと教師と教え子、先輩後輩の間柄にある三人の関係を。
ここはこちらの当初の思惑どおり、どうしてもウルトゥーロとふたりだけで話す機会をつくらねばならない。強引に、たとえ不敬であろうとも。
名もなき神、名も知れぬ神のことを、そしてもうひとつのことも追及しなければならない。
太陽神の座と、太陽神の首飾りのことを。
イシュルはウルトゥーロとふたりきりになると、窓のある西側を除き、周囲を厚い風の魔力の壁で覆った。
音の振動を遮断し、ふたりの会話を外に漏れないようにする。
「窓は塞がなくてもよいのかの」
ウルトゥーロは辺りを見回すと、イシュルに苦笑を向けて言った。
「ええ」
魔力の壁の密度はかなり高い。全面を覆うとそのうち酸素が不足する状態になるかもしれない。それに窓の外に人も精霊も、他の魔力の気配もない。直下の階にも人の気配はしない。加えてここは地上からかなりの高さにある。
イシュルの座る位置から見える窓の景色は青空と白い雲、それだけだ。
「この部屋は聖都のど真ん中にあるというのに、いつもとても静かだ。下の街の喧騒もほとんど聞こえてこない。早朝に時たま、下の運河を行き来する船から船乗りの怒声が微かに聞こえてくるくらいだ」
ウルトゥーロの視線はイシュルを飛び越え、その背後の窓外に向けられている。
「それがこの風の結界でますます静かになった。そなたも不思議に思うじゃろう。わたしは時々、自分がどこにいるのか、わからなくなる時がある」
ウルトゥーロの視線がイシュルの顔に戻される。老人は力ない笑みを浮かべている。
「いえ。……わたくしもよく存じていますよ。この静寂を」
イシュルも笑みを浮かべてウルトゥーロを見返した。
「魔法で空高く飛ぶと、風のない晴れた日はとても静かなのです」
風雨のない空はとても静かなのだ。あれはあの場所に行ったことのない者でないとわからない。
風の魔法で空を飛んでも風を切る音はする。
飛行機などは論外、気球に乗れば、あるいは近い気分が味わえるかもしれない。
風の魔力のみで、空を漂うように浮かんでみなければ感じとれない静寂なのだ。
世界のほとんど、多くの領域は無音なのだ。……絶望的なほどに。あるいはだから、それは夢と幻想に満ちている。
「……そうか。なるほどの」
イシュルは笑みを消し、静かに首肯した総神官長を見つめた。
「時間がありません。本題に入りましょう。わたくしはウルトゥーロさまに二点、質問したいことがあるのです」
イシュルはウルトゥーロに向けて身を乗り出した。
総神官長の顔が近づく。不遜不敬であろうとかまわない。
ウルトゥーロは無言で首を縦に振る。
「まずひとつめ。総神官長は名もなき神、名も知れぬ神、のことをご存知か」
イシュルはいきなり、その言葉を口にした。聖堂教ではあるいは、人間にとっては禁忌かもしれない存在の名を。
「……むっ」
ウルトゥーロが身を仰け反らす。その顔が苦しげに歪んでいく。
「そ、それは……、そなたはそれをどこで耳にした?」
「赤帝龍からです」
イシュルも全身に緊張を漲らせて言った。
「やつから語りかけてきたのです」
イシュルは赤帝龍が火の魔法具以外の、水、風、金、土の全て神の魔法具を手に入れ、名もなき神によって新たな神の列に連なり、人類を滅ぼし、火龍が地上のすべてを支配する楽園をつくりだそうとしていることを話した。
「……赤帝龍が人の言葉を解することは存じておる。あれはなぜそなたにそのような話をしたのかの」
「俺を挑発したのでしょう。俺が逃げ出さないように、俺が全力で戦うように仕向けたのでしょう。そして俺の力を知りたかったのでしょう」
イシュルはウルトゥーロに顔を寄せたまま、その灰色の眸をじっと見つめた。
「やつにはあの時、俺をあの場で殺し、風の魔法具を奪う自信があったのでしょう」
「……ううむ」
ウルトゥーロは目を瞑り小さく唸った。
「やつはいずれ、俺の方で滅ぼします」
イシュルの口許が微かに歪む。
「赤帝龍を滅ぼす為にも、名もなき神のことを多少なりとも知っておく必要があるかと」
「それは……」
ウルトゥーロは正面を、イシュルから見て横を向き顔を俯け小さく嘆息した。
「名も知れぬ神のことは秘中の秘」
ウルトゥーロは今まで見せてこなかった厳しい表情を面(おもて)に浮かべ、イシュルを直視してきた。
「我々でもそのことを知る者はごく僅かだ。だがウルクの頃はまだ知る者が多くいた。彼らは古い文献や遺物を探し求め、精霊を通じ神々に問い、名も知れぬ神のことをより詳しく知ろうとしていたようじゃ」
ウルトゥーロはまたイシュルから視線を逸らし横を向く。
「だがその神の存在は聖典に記されていない。我々の信仰の外にいる神なのだ」
ウルトゥーロの横顔に無念そうな表情が浮かんだ、ような気がした。
イシュルはからだを起こし総神官長からその身を離した。
これですべては決した。名もなき神、名も知れぬ神は聖堂教会において禁忌なのだ。触れてはいけない神なのだ。それは同時に、聖堂教会はこの世界と神々のすべてを把握していない、ということでもある。
「……わかりました」
イシュルは静かに言った。
「そなたがビオナートや赤帝龍のように、己が力で世界を手に入れようとする野心を持っていないことは存じておる。そなたは故郷の、ベルシュ家の人々を神の力によって蘇らせることも望んでいない、と耳にしている」
ウルトゥーロは穏やかな表情になって、その顔をイシュルに向けてきた。
「そなたは何を望んでいるのかの」
「すべてをお話することはできません。俺にはただ、神々に会って聞きたい、どうしても問いただしたいことがあるだけです」
ウルトゥーロの眸に微かに不審な色が混じる。
「教会に害を成すようなことはしませんよ。それだけは誓いましょう。もしそのことが成されれば、もう神の魔法具は俺には必要のないものだ」
「……そのときには当然、そなたは地神の魔法具も手にしていよう。ことが済んだら教会に返していただけるのかな」
ウルトゥーロの口調がさらに柔らかになる。冗談でも言っているような口調だ。
「それはなんとも。地神がそう望めば、またふたつの紅玉石となって大聖堂にその姿を現すのでは?」
「ふふ……、そうかもな」
ウルトゥーロは小さく笑った。
「それで、もうひとつの聞きたいこととは何かな?」
ウルトゥーロの口調はかるいままだ。顔つきも柔和だ。
だが次の質問はより喫緊な問題であるだけに、より厳しいものになるだろう。
イシュルは小さく息を飲むと言った。
「聖冠の儀でビオナートを捕縛するか誅殺する件ですが」
ウルトゥーロは「そのことか……」というような、途端に厳しい顔つきになって小さく頷いた。
「その時は当然、主神の間にある太陽神の座に被害が出るのはまずい。それをうまくやれる方策をひとつ、思いついたのですが」
聖冠の儀でビオナートを仕留めるにはまずふたつ、方法がある。
ひとつは太陽神の座が起動する直前に風の魔力を降ろし、主神の間で他の魔法が使えないようにすることだ。
もうひとつはネリーやダリオのような、武神の魔法具とは別に剣の腕の立つ者を用意することだ。太陽神の座が起動すれば他の一切の魔法は使えなくなる。精霊も干渉できなくなる。
だがそのふたつの策も完全ではない。俺の風の魔力が太陽神の魔力を完全に抑え込めるか、自信はあるが確証が持てないこと、そのふたつの魔力のせめぎ合いで主神の間に被害が及ぶのではないかということ、それと腕利きの剣士を用意できるのは相手も同じだ、ということだ。
「それは何かな」
ウルトゥーロが低い声で問うてくる。
「まず確認しておきたいことがあります」
イシュルは気合いを込めてウルトゥーロの視線をはね返した。
「リベリオさまと」
イシュルはひと息、間をおいた。
「クレンベルの大神官、カルノ・バルリオレさまはともに神学校のご出身で、当時神学校の講師をしていたウルトゥーロさまの教え子であるとか」
「……!!」
ウルトゥーロの顔面を驚愕が走る。
「そ、それは」
「聖堂教会は太陽神の首飾りをもうひとつ所有している」
イシュルはたたみかけるようにして、決定的なことを口にした。
「もうひとつの太陽神の首飾りは、クレンベルの大神官、カルノ・バルリオレが持っている」
あたりは異様な静寂に包まれた。
それは空の上の静寂とは違う、ひとの造り出した濃密な緊張感に満ちた静寂だった。
ふれれば切れる、息もできない、そんな無音の一瞬だ。
「カルノさまは中立、というよりは国王派に近いように思っていたのですが……」
イシュルは唇を歪めて笑みを浮かべた。
そうしてウルトゥーロを追い込んでいく。
「あの方は言ったのです。『君は神に選ばれし者か』と、『聖都に行って、己の信じる正義を成すがよい』と」
そしてナヤルは言ったのだ。
太陽神の設置型の魔法具、太陽神の座はクレンベルの西、聖都エストフォルにも同じものがある、と。
「うううっ……」
ウルトゥーロの額に汗が浮かぶ。苦しそうに顔が歪んでいく。
なぜカルノ・バルリオレはクレンベルに追いやられたのか。
「聖冠の儀にはカルノさまを聖都にお連れします」
イシュルは姿勢をただし、ウルトゥーロを直視した。
「あるいは可能なら、カルノさまからもうひとつの太陽神の首飾りを借り受ける」
ウルトゥーロの眸に怖れが浮かんだ。総神官長の全身が小刻みに震えはじめる。
カルノの持つ太陽神の首飾りは、今はウルトゥーロが持つ太陽神の首飾りとほぼ同じ能力を有している筈だ。もし劣るものであっても、主神の間において太陽神の座の起動を妨害できる力があれば、それで充分だ。
イシュルは短く言った。
「もうひとつの太陽神の首飾りで」
それは正義派の勝利が確定した瞬間だったかもしれない。
「ビオナートと対決します」
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