風の神殿の少女


 

 風神イヴェダの主神殿は、聖都の北東、街はずれにあった。

 ミラの口ぶりではすぐ近く、歩いていけるような距離では? と思ったのだが、それは違った。

「ほら、あそこに見える神殿がそうですわ」

 ミラの声が弾んでいる。

 彼女は風に広がった巻き毛をきらきらと揺らめかし、その青い眸も負けじと輝かし、すこぶる機嫌が良い。

 ミラはイシュルの背中に腕をまわし、自身のからだをイシュルにしっかり密着させている。

 イシュルはミラを横抱き、お姫さまだっこにして聖都の上空を北東に向かって飛んでいた。

 イシュルはミラに微笑んでみせると、のんびりと眼下に広がる景色を見渡した。

 王城の北側を流れるアニエーレ川は、垂直に交わるルグーベル運河の先から急激に北方へ屈曲していく。その北岸にも聖都の市街は広がっているが、王城の北側周辺では、木々の茂みがところどころ点在する草地になっていて、大きな建物はもちろん、家々の姿も見あたらない。

 城塞に隣接する市街の建物は時に、攻城側にとって有効な防御陣地となる場合がある。アニエーレ川を挟んだ王城の北側に建物の姿が見えないのは、おそらく城の防衛上の処置かと思われた。

 その王城の真北、アニエーレ川北岸に伸びる市街地の途切れる辺りに、白く陽光を反射する神殿の建物が見える。

 ミラが明るい声で指差したのがそれだ。

 イシュルはその神殿、風の主神殿に向かって高度を落としていった。

 ざざっと、風を切る音が急に大きく鳴り響いた。


 風の主神殿は複数の角柱に三角の屋根、ややくすんだ明灰色の石造りの建物で、ラディス王国の神殿と変わらない、ありふれた外観をしていた。その奥に角張った塔がひとつ、ぽつんと立っているのは、紫尖晶聖堂とよく似た、聖都の大きな神殿によく見られる形式である。

 風の神殿前の広場には大きな構えの商店、宿屋、貴族らしき邸宅などが面し、その建物の間からは、陽射しに輝く木立の緑がこぼれんばかりに盛り上がって見える。

 広場を歩くひとの姿はまばらで、隅の方では子供たちが何組かに固まって遊んでいた。

 イシュルとミラは神殿前の広場に降り立つと、神殿の正面入口に向かって歩き出した。

 広場を歩くひとも、遊ぶ子供たちも、誰も空から降りてきたイシュルたちに気づかなかった。

 ふたりは陽の光の煌めきの中にあった。聖都の空は、夏の目映い陽光で満ち満ちていた。

「風の神殿のどなたか、神官さまにおことわりを入れてから、アレハンドロさまのお住まいに参りましょう」

 ミラの声が妙に高く、澄んで聞こえた。

 神殿の正面入口から中に入ると、暗がりに祈りを捧げている者がちらほら。奥にうっすら、風神の大きな石像が見える。

 ミラが中にいた神官のひとりに声をかけ、一度神殿の外に出て、その脇の小道を裏手の方へ向かう。脇から枝葉を差し出す木々からは、蝉の元気に鳴く声が聞こえてくる。

 木漏れ日の小道を抜けると、左手には神殿裏の宿舎や倉庫、右手には木立の点在する草地が広がっていた。正面にはその合間に家庭菜園のような小さな畑が、色鮮やかな花々の咲いているのがちらちらと見える。

 “聖堂の天つ刃風”の終の住み処であった小さな屋敷はその奥に、豊かな緑の中にあった。

 くすんだオレンジ色の屋根に、ところどころ蔦のからまった白い壁の家はどこも窓が開いていて、誰かまだ、住むひとがいることがわかる。

 風合いのある敷石をたどって屋敷の玄関の前に立つ。途中、門に類するものも、塀も見なかった。

 イシュルは古くくたびれた木製の扉のノッカーを鳴らすと、左手に見える庭の方に目をやった。

 手前に紫陽花や桔梗、奥に向日葵、そのさらに奥にはおそらくブナの木が見える。木々の裏には小川でも流れているのか、庭に咲く花々の間には小さな池がこしらえてある。

「花がいっぱい。いいお庭ですわ」

 ミラが眸を細め、花々の香りを味わうように言う。

 花々はたくさん咲いているが、その間には雑草も生えていて特に手入れもされていない、どうということもない庭である。

 だがミラの言う通りか、素朴で明るい、何か独特の趣きのある感じもする。

 イシュルは扉の方へ視線を戻した。 

 扉の奥でひとの近づく気配がする。

「はーい」

 その声に、イシュルとミラは互いに顔を見合わせた。

 高い、女の声だった。

 今はこの家には、故ベントゥラ・アレハンドロの管財人ひとりしか住んでいない筈である。

 がちゃ、と音を立てて扉が開かれる。

「……」

 イシュルは思わず後ろへ仰け反り、その少女を見た。

「どなた、かな?」

 そこには白っぽい明るい金髪に青い眸の、生成りの裾の長い、ゆったりとしたワンピースを着た少女が、いや、女がいた。


   


「どうぞそこに座って。今お茶を入れるから」

 長い髪をさらさらとはためかせ、白い服を着た女は踊るような足運びで扉の奥に消えた。

 聖都随一と言われた風の大魔導師の管財人は、まだ若い女性だった。

 ミラが呆然とイシュルを見つめてくる。

「あの方が管財人なのでしょうか」

「うん……」

 イシュルはあいまいに頷くとミラから視線を逸らし、部屋の中を見回した。

 屋敷の中へ入ってすぐの部屋は、奥の方にベンチのような長椅子とテーブルのひとセット、向かって右に籐椅子、家具らしいものはそれだけ。床は年季の入った木板で味わいがあるが、部屋の中に装飾品らしきもの、小物類も一切、何もない。部屋全体が殺風景で、妙な空疎感がある。

 家主が亡くなり遺産はすべて遺族などに分配、処理された後の、何もない空き家——そんな感じがする。

 ミラの言うこの場合の“管財人”とは当然、王家だとか教会などから差し遣わされた公的な存在ではない。かの大魔導師が生前に指名した、あるいは彼の死後に弟子や一族から指名されたあくまで私的な存在の筈である。例えばベントゥラ・アレハンドロが王家の魔法具を借りて使っていた、王家所有の何かを借用、運用していた、という状況でなければ王家が管財人を指定することはない。それに管財人とは言うが、正確にはアレハンドロ家遺産管理人、とでも表した方がいいだろう。

 この家が表にある風の神殿の所有であるならば、奥に消えたさきほどの女性はいったい何を管理しているというのか。この部屋の感じからすると、金目の物はもう何も残ってなさそうである。やはり残されたものはただひとつ、それはミラの言った通り、魔法具や魔道書の類い、ということになるのか。

 がしゃん、どん、と奥の部屋に続く扉が少し乱暴に開かれ、さきほどの女性がティーセットを載せたトレーを両手に持って現れた。

「ん? さぁ、座って座って」

 彼女が明るい声で言う。

「あ、どうも」

「失礼いたしますわ」

 イシュルとミラが揃って腰掛けると、向かいに管財人? の女が座ってお茶を小さなカップに注いでいく。あまり手慣れた感じではない。

 イシュルはやや俯き加減の彼女の顔をそれとなく観察する。 

 見た目の第一印象は自分より年下に見えたが、目許の感じ、表情は年上に見える。

「どうぞ」

 女がお茶の入ったカップをイシュルとミラの前に置いた。指でつまむ小さな取っ手のついた白い陶器だ。

 何か、香りが漂ってくる。よくわからないが、おそらくカモミールのような香草がブレンドされている。これはハーブティーだろう。この大陸、特に都市部では珍しいお茶だ。

 サロモンからもらった毒見の指輪は反応しない。

 もしお茶に何か毒物が入っていれば、それの色や香りが本来とはまったく違ったものになるとか、指輪が締まったり、急に気分が悪くなったり、何らかの方法で知らせてくる筈である。

「あら、いい香りですわ」

 とカップを手に持ち、ミラ。

「……」

 だが、女はただ無言で微笑むだけだ。

 彼女の顔、鼻梁のまわりに微かにそばかすがあるのが見てとれる。

「俺はイシュル、こちらはミラ・ディエラード。あなたの名前は?」

 さりげなく、くだけた感じで相手の名を聞く。かた苦しい、型にはまった挨拶は無用、そんな気持ちにさせる女性だ。身分や育ちがさっぱりわからない。

 服装や立ち振る舞いからすると高位の貴族ではないだろう、それくらいしかわからない。

「……レニ。わたしの名はレニよ。よろしく」

 少し間があいた。彼女は名乗る前に一瞬、あらぬ方へ視線を泳がせた。

 そしてミラの家名、ディエラードにも特に反応は示さなかった。

「こちらこそ。よろしく」

 イシュルは薄く笑みを浮かべるとレニの顔を見た。

「レニ、と呼んでも?」

「ああ、うん。イシュル。イシュルに」

 レニはイシュルの顔を見、笑顔になった。そしてミラを見た。

「それに、ミラ」

「はい、よろしくお願いいたしますわ。レニさん」

 ミラは微笑みを浮かべ、普通に応対している。

 ミラの家名を聞いているのに、レニの無反応は聖都では珍しい。彼女は俺と同じ異国か、聖王国内の山奥か南の方か、地方の出身なのだろう。

「レニさんがベントゥラ・アレハンドロさまの管財人でいらっしゃるのね? 風魔法を遣われるのでしょう?」

「……ああ、うん。そう」

 レニはにこにこしながら何度も首を縦にふる。

「でも、お爺さんの魔法具とかはみな、お弟子さんに分け与えてしまって、今はもう残ってないよ」 

「えっ」

 無駄足だったか。

 ミラも顔を強ばらせている。

 この部屋が妙に殺風景なのもやはりそういうことなのだ。ベントゥラ・アレハンドロの遺産は何も残されていないのか。それなら彼女は……。

「あっ。でも魔道書が一冊だけ、残ってるよ」

「!!」

 おう、あったか! よし……。

「でも……」

 だが、レニが表情を曇らし、黙りこんでしまう。

「実は俺も風の魔法を遣うんだ。もしよかったらレニ、俺にその魔道書を見せてくれないか」

 ここはずばり、単刀直入にお願いしてみる。ふつうは門外不出で、などと断られるのだろうが……。

「それはだめだよ」

 レニはやはり断ってきた。

 彼女は眸を大きく見開いて、大仰な、子供みたいな顔をする。

 さっきまではちょっと大人っぽい、すました顔をしていたのに。……口調も子供っぽいところがあるし、ほんとうに彼女の歳が読めない。

 ミラをちらっと見るとなぜか機嫌がいいのか、にこにこしている。

「そう。……それなら俺がきみの弟子になるのはどう? 俺をきみの弟子にしてもらえないかな?」

 大陸では職人の技、剣士の技、などは弟子以外には秘匿され、表にでてこない傾向がある。魔法使いもそうである。以前に、フロンテーラの魔法具屋の女主人が言った、“大もの”の魔法具、五系統を主とする魔法具を使いこなすには、経験のある魔法使いに弟子入りして、魔道書を読み呪文を覚え、個別に指導を受ける必要がある。

 彼女が俺の弟子入りを受け入れてくれれば、その一冊だけ残った、風の大魔道師の魔道書を読ませてもらえるだろう。

 ミラは相変わらずにこにことお茶を啜っている。レニがどれほどの魔法使いなのかわからないのに、ミラは俺がレニに弟子入りしたい、と言っても、文句も何も口を挟もうとしない。

 ミラは俺に、聖都でも名の知れた、実力のある風の魔法使いを紹介したいのではなかったか。それともミラはレニの名をそれ、つまり名の知れた風の魔法使いとして以前から知っていたのだろうか。

「ん〜」

 レニはしばらく、視線を明後日の方へ向けて考えていたが、いきなりさっと、素早くこちらに笑顔を向けてきた。

「いいよ、イシュル。あなたをわたしの弟子にしてあげる」

「あ、ああ。ありがとう」

「……」

 ミラは笑顔のまま。一度頷いただけで何も言わない。

「イシュルは風の魔道書が見たいって言ったよね。ではさっそく見せてあげる」

「えっ、うん。あの、契約書、……証文を書いたりとかは? え、えっと、謝礼とか契約金とか、月謝みたいなものは……」

「べつにいいけど……」

 と不思議そうな顔のレニ。

「よろしいですわよ。そんなもの。レニさんが弟子にしてくださる、というのなら、それはそれでよろしいのですわ。個人のことですから、レニさんとイシュルさまの間で決めればよろしいのです」

 ミラが横から言ってくる。

 そんなものなのか?

「じゃあ、イシュルは奥の部屋へ来て。ミラには見せられないけど……」

「ええ。もしよろしければ、お庭の方を見せていただけるかしら? レニさん」

「いいよ」

 レニはミラに頷くと席を立ち、奥の扉を開けた。


「よいしょ、うっ」

 奥の部屋も大きめの机に椅子が二脚、何もない空の書棚、チェストが幾つか。それしかない、殺風景な部屋だった。

 イシュルは机に向かい椅子に座っていたが、横にせり出した壁の奥から聞こえてくるレニの、少し苦しそうな声に思わず腰を浮かした。

「手伝おう」

 壁の奥ではレニが、チェストからとても大きな本を一冊、取り出そうとしていた。

「うん、ありがとう」

 チェストの中には他に、頭に風神の姿が彫刻されたステッキ、錆びた青銅の香炉のようなもの、幾つかの巻紙などが入っていた。

 みな何かを感じる。おそらくどれもが魔法具やそれに類するものだ。

 イシュルはレニが持ち上げようとしている書物に手を添えながら言った。

「木箱の中のもの、みな魔法具だね」

「そうだよ」

「レニの使ってる魔法具?」

「そうだよ」

 ふたりで魔道書の両端を持って机まで移動、机の上に慎重に、ゆっくり置く。

 魔道書は厚みはそこそこ、だがやたらと大きく、大男が両手で抱えてやっと持てるような、そんな大きさだった。当然重く、レニひとりで持ち運びするのはちょっと大変だろう。

 木板に黒く染色された布張り、太い紐で製本されたいかにもそれらしい本だ。表紙にはまさか箔押しでもされているのか、金色の文字で「風の魔導書」と印字されている。

 表紙を開くと中表紙に同名タイトル、「イヴェダの祝福があらんことを」みたいな一文が古い言葉で書き添えてある。

「じゃあイシュル、この本は貸出しはできないから、ここで読んでいって」

「えっ、ああ」

 イシュルは顔を上げてレニを見た。

「今日一日では全部読めないでしょ? 好きな時に読みに来ていいよ。わたしはいつもこの家にいるから。わたしが寝ている時以外はいつでもどうぞ」

「ああ、それはありがとう」

 それはとてもありがたいんだが。……レニはどこかに出かけたりしないのだろうか。

 とにかく、こんな大きな本は持ち運びも大変だし、もちろん貴重なものだろうし、貸出しできない、というのは納得できる。

「時々様子を見に来るから、何か質問があったらその時にでもして? ではごゆっくり」

 レニはするすると、音も立てずきれいな足取りでさらに奥の方、おそらく居間や厨房のある方へ姿を消した。

 彼女は裸足だった。




「これは……」

 イシュルはひとり呟き机に肘をついて頭を抱えた。

 風の魔道書はまず最初、簡単な序文から始まり、続いて長々とした概論がいつまでも続いた。

 序文にしても概論にしても聖堂教の聖典と似たような、イシュルにとってはどうでもいいような、捉えどころのない文章が延々と続いていた。


 主神ヘレスは天地を創造するにあたり、まず月神レーリアを生み出し月を、そして火神バルヘルを、続いて水神フィオアを、風神イヴェダを、金神ヴィロドを、最後に地神ウーメオを生み出した。

 それからそれぞれの神に世界の源となる火、水、風、金、土の元素を創らせ、天地に神々の力があまねく行き渡ることとした。

 イヴェダは風の神として天地を覆うようにして風を吹かせ、無から生ずる穢れと怖れを祓い、この世に清浄をもたらし、後にヘレスによって生み出された人と動物、植物を加えた万物に絶えることのない流転をもたらした。


 風の力はイヴェダ神の恩恵であり、風の魔法はイヴェダ神の力を源とする。故にイヴェダ神を崇め奉ることこそ彼の神の力を得る唯一の法である……。


 こんな文章にいったい、何の意味があるのか。

 この世界に生を受けしすべての者にとって、このことは畏怖し、瞠目するに足る価値のあるものかもしれない。

 だがしかし、前世の記憶、異なる世界の記憶を持つ俺にとってはどうでもいいようなことだ。

 この世界にも前の世界のような物理法則、自然の法則は厳然と存在し、この星は前世の地球とほぼ同じ、周りの宇宙の状況も見た限り、そっくり同じだ。

 おそらく前世と同じ大きさ、色温度の太陽、その太陽は東から昇り西に沈み、例えば林檎は下に落ち、無色透明の空気がある。魔法で大きな竜巻を起こすのなら、断然時計回りがやりやすい。

 俺に理系の知識はないが、それでもわかる事柄はある。目に映る様々な事物に色味のおかしいものはない。それは太陽の色温度が同じで、多分、大気の厚さや成分も変わらないからだろう。もちろん、この世界の人間が、前の世界の人間のそれと同じ視覚を持つことを前提とした話だが。

 この地上、この星もおそらく地球と同じくらいの大きさで、同じ速度で自転し、公転している。引力が存在し、この大陸は北半球にある。

 夜になれば天の川が見え、季節によって変わる星座は前世とほとんど同じに見える……。

 空を飛ぶ鳥の羽ばたき。野を渡るそよ風。……小さな風の流れ。

 風の魔力を発現し開放すれば、それは大気の大きな変化となって吹き荒れる風となる。

 魔力は最後には、物理の、自然の、万物の法則に帰結していく。

 一方で魔法には、科学的な見地から説明できないものが存在する。

 ゴルンの夜話に出てきた反射の魔法、辺境伯の執務室にあった魔封陣、黒尖晶の使ってきた精霊神の鏡の魔法具に変わり身の仮面……。

 前の世界の法則に、新たな正体不明の魔法の存在が混じり合い、混在している。神々の力が魔法の源泉であるのなら、この世界とはいったい何なのか。俺から見れば神々こそは元の世界に変容をもたらす異物、むしろ仇なす存在ではないか。

 文面とは裏腹に、何の意味もないように思える魔道書の言葉の羅列、それが真(まこと)であるならば、この世界は空疎な欺瞞に満ちていないか。

 外から微かに、風が吹き込んでくる……。

 イシュルは抱えていた頭をあげ、部屋の左側にある、開け放たれた窓の外に目をやった。

 草花にあふれたこの屋敷の庭に、ミラの赤いドレスが見え隠れする。

 長く伸びた待宵草(まつよいぐさ)、だろうか。その向こうにミラが踞って桔梗の花に顔を寄せている。

 窓枠に切り取られた一幅の絵画。その中にもうひとりの少女が現れた。レニだ。ミラの赤い色に彼女の服の白い色が混ざり合う。

 レニがミラに何か話しかけると、ミラは笑顔になった。ふたりは花々に目をやり、親しげに語りあっている。

 何を話しているのだろう。

 ふたりの少女のやさしげな姿が草花の間に揺れる。

 背景には深い緑の木々と明るい青空が広がる。

「!!」

 イシュルは呆然と目を見開いた。

 レニがふとミラから視線を逸らし、こちらを見たのだ。

 彼女はそこから、イシュルに笑顔を向けてきた。


「魔道書の前文なんてたいしたこと書いてないよ。イシュル」

 レニがイシュルの前に座っている。

 彼女はイシュルに悪戯っぽい視線を向けると言った。

「その後の、魔法の種類や呪文が書かれているところから読んでいけば?」

「ああ、そうだね」

 イシュルは小さく頷いた。

 あやふやな、はっきりしない返事だ。少し惚けた感じに見える。

 イシュルがレニに言われるまま、適当に魔道書の項をめくると、そこには呪文の構文が記されていた。

 この魔道書には他に原本が存在するのか、写本なのか、本文はすべて手書きで記されている。

 丁寧で繊細な筆致は、元の字の形にかなりの違いはあるものの、どことなく前世の英語等で見かける、black letterと呼ばれる古い書体に雰囲気が似ている。

 美しく威厳に満ちているが、装飾的で読みずらい書体だ。

 

 呪文とは魔法を織り成すものにして人が神に請願する古の聖典の一節なり


 との一文から始まるその項には、呪文の基本的な構文が記されてあった。

 魔法の呪文は、神々など魔力を与えてくれる、魔法を司る対象に呼びかける「呼唱」、自身が何の魔法を使うのか、その名称や目的を唱える「的唱」、最後にその対象に乞い願う「請唱」、の三つの節から成り立っている。

 魔道書には風魔法の最も基本的な魔法、“風神の刃”の呪文を例文にして、呪文構文の基本が解説されていた。

 それは、


 風の神イヴェダよ =呼唱 

 汝(いまし)が風の刃(やいば)を =的唱

 我(わ)に授けたまえ =請唱


 とあった。

 “風神の刃”は、魔道書の魔法の種類解説の一番最初の項に載っていた。それは魔力を帯びた風で鎌鼬(かまいたち)のように対象を切り裂く魔法で、主に近距離で使用する攻撃魔法である。中・遠距離用には“風神の矢”という別名の魔法があった。

「イシュルは風の剣を持ってるんだから、風魔法の種類や呪文を無理して覚える必要はないと思うよ」

 レニが頭を横にして、下から覗き込むようにして言ってくる。

 白っぽく薄い色の金髪が流れるように垂れ下がっている。

「参考程度にしておいた方がいいよ。きみの魔法具で、いちいち呪文を唱えて“風神の刃”を使うだなんて……。なんかせっかくの風の魔法具を無駄遣いしているみたい」

「……そうなんだ」

 レニの言っていることは、何となくわかるような気がする。

 イシュルは頷くと視線を書物に落とし、呪文の項に戻って、その二ページ目を読みはじめた。

 そこには、魔法の呪文は決まった文言だけでなく、自身でより良い言葉を考え差し替えてもかまわない、だがその差し替えた言葉が呪文として成立するかは、各々の持つ魔法具と、自身の魔法に関する知識や感性の善し悪しによる、といった意味のことが記されていた。

 ん?

 部屋の空気がほんの少し、僅かに動く気配。

 イシュルが顔を上げると、レニが掌(てのひら)を前に差し出し、その上に小さな風の渦巻きをつくっていた。

 な、なに!?

 イシュルはこれでもかと両目を見開き、その小さな風の渦を見つめた。

 それは、それは……。

 あの森の魔女、レーネに殺されそうになった日、俺が風の魔法具を手にした日、俺がはじめて風を起こし、はじめて風の魔法を使った時と同じ……。

 あの時、掌に風を集めてつくった小さな風の渦。その突き出された先に欠けた月があった。月神レーリアの横顔が、レニの顔と重なる。

 イシュルは首をぶるぶると横に振った。

「ふふ」

 レニが笑った。

 輝くような、だが悪戯な笑みがイシュルの目前を踊った。



 

「悪い冗談だ」

 風鳴りにイシュルの呟きが飛ばされていく。

「……? 何かおっしゃいました? イシュルさま」

 抱きかかえたミラが下から聞いてくる。 

「いや、何でもないよ」

 陽は西に傾き、聖都の街並が朱に染まる。

 公爵邸の広い敷地が眼下の視界に入ってきた。

 まさかレニが月神だとでも言うのか。

 月の女神は今まで常に俺の失敗を、罪を、想いを嘲笑うかのように、メリリャの姿になって現れた。

 レニの悪戯な、だが親しみのこもった眸。彼女が人間に化けた月神だとはとても思えない。

 レニは自身の掌に小さな風の渦巻きをつくって見せると、呆然と固まる俺に「あれ? どうかした? 大丈夫?」と声をかけ、俺の二の腕に手をおき、やさしく何度もさすってきたのだ。

 その時彼女は満面の笑顔だった。動転した俺をおちつかそうとしていたのか。

 そしてレニはその風の渦巻き、小さいが確かな風の魔法を使ってきた。それも無詠唱でさりげなく、自然に。

 月の女神レーリアは、人や事物の運命を自由に変えることができる、いわば万能の神ともいえる存在であろう。だがいくら彼女でも、風や火などの五系統の魔法を、直接使うことはできない。

 イシュルは後ろを振り向いて風の主神殿の辺りを見た。

「風の神殿はなぜ、あんな辺鄙なところにあるのかな」

 何となく、ひとり言のように言ったイシュルに、ミラがしっかり説明してくれた。

「イシュルさまの故郷のベルシュ村東南、森の中にウルク王国時代の風の神殿があったのはご存知でしょう?」

 イシュルが無言で頷くと、ミラも眼下の聖都の風の主神殿の方に目をやった。

「ベルシュ村の東北方、森の切れた湿原の遥か先には、暖かい潮の流れる海があるそうです。そこから吹き込む風が大陸の冬の寒さを癒し、恵みの雨をもたらしてきました。太古の昔から、その風はイヴェダ神が人にもたらす恩恵だと言われてきました。ですからウルクの頃、風の神殿は王国の東北方、イヴェダ神の風が吹いてくる地に建てられたのです。ここ聖都でもその故事にならって都(みやこ)の東北方に建てられているのです」

 ミラは続いて、聖都の他の神々の主神殿も、古代ウルク王国内にあった同神殿の位置を模して建てられている、と説明した。

 ベルシュ村の東北方、あの湿原の遥か先には海があり、暖流が流れているのだ……。

 イシュルたちは、夕陽に赤く色づく公爵邸を前にした中庭に降り立ち、そのまま屋敷の方へ歩きはじめた。

「レニとは随分と親しげに話していたね」

「はい。やさしい、素朴な方でわたくし、好感が持てましたわ。それにあの方はなかなかの風の魔法使い、とお見受けしました。」

 イシュルの何気ない質問に、ミラが少々意外な言葉を返してきた。

 見た目はもちろん、性格や趣味もだいぶ違うように見えるふたりだが、案外に相性がいいのだろうか。

 そして、ミラはレニの何を見て、彼女の実力を推し量ったのだろうか。

 屋敷の中に入ると、中央のホールにルシアがイシュルたちを待っていた。

「大聖堂のデシオ・ブニエルさまがお待ちです」

 ルシアがイシュルたちに告げた。

 小薔薇の間に移動すると、デシオが椅子から立ち上がってイシュルたちを出迎えた。

 薄暗くなった室内には他にひとがいない。

「ごきげんよう。デシオさま」

「お待たせしました」

 ミラとイシュルの挨拶にデシオは無言で頷いた。彼の表情が少し固い。

「シビル・ベーク殿から知らせがあった」

 デシオが声を潜めて言った。

「昨晩、大聖堂の裏手で荒事があったらしいね」

 まずい。そういえばあの夜のこと、デシオに知らせるのを忘れていた。

「すいません、デシオさま。俺の方からも一報、入れておくべきでした」

「うむ。しかし、向こうは随分と手荒なことをする。場所が場所だけに、露見すれば大問題になりかねん」

 難しい顔をするデシオを、イシュルは微かに眸を細めて見やった。

 ちょうどいい。ついでに彼に知らせておこう。

「明日早朝、クラウに大聖堂の周辺を探らせます。何かまずいものがあれば破壊、排除させます」

 魔封陣を持つ闇の精霊が気配を消して隠れていたら……。俺よりもクラウの方がたやすく見つけだせるだろう。俺は後方から支援にまわる方がいい。

 紫に白尖晶が加わって警戒していると言っても、彼らだって完全ではない。見落としもあるだろうし、国王派も対策してくるだろう。

 やつらでも陽が昇りきり、大聖堂の内外を多くの人々が行き来する時間帯に動くのは不可能だ。露見しやすくなるし、その時間帯で大聖堂へ破壊活動したとなれば、さらに大事になる。バレたら国王派の受ける政治的ダメージは絶大だ。

 それならやつらが動ける最後の時間帯、明け方に最後のチェックをさせてもらうのがいいだろう。

 明日は俺もクラウも公爵邸から一時離れる。その間、臨戦態勢を敷くようミラを通じてルフィッツオやロメオ、公爵家騎士団長のダリオ、魔導師長のコレッタにはすでに伝えてある。

 そしてもちろん、公爵家に駐在する大聖堂の神官たちから、明日の進行はすでに知らされている。

 デシオの急な来訪は昨夜のことよりもむしろ、俺がこれから何をしでかすか、心配になったからではないだろうか。

 大聖堂の周囲であまり派手なことをやられるのは困る、ということだろう。

 だが、やらねばならないことは当然、やっておかねばならない。

「大神官会議の開かれる聖パタンデール館には、太陽神の防御魔法陣が設置してある。闇の魔封陣を気にする必要はない」

 イシュルが早朝にクラウを使って、大聖堂周辺の異常を調べると告げると、デシオは浮かない顔をして言った。

「聖パタンデールに設置された光系統の魔法陣は結界の外側からの魔法攻撃を守り、結界の内側に害を成すものではない。ただその結界が起動すれば、クラウディオスさまは入ってこれなくなると思うが……。」

 なるほど。光の結界が外に対する防御、闇の魔封結界はその内側にいる者の攻撃力を奪う、内側に向けられたものだ。光は外へ、闇は内へ。明確な違いがあるわけだ。

「国王派のねらいはそれですね。光の結界を起動させて風の大精霊と大神官たちの対面を邪魔しようとしているわけだ」

 聖パタンデール館の外で大神官たちとクラウを引き合わせるのなら、その時はその場で、闇の魔封結界を使えばよい。

「その光系統の魔法陣の中でなら俺の魔法は使えるだろうから、無理矢理その結界を壊して、クラウを呼び入れることはできそうですがね」

 本当は闇の魔封陣を張られても、俺自身の魔力が途切れることはないのだが。

「いやいやイシュル殿。それはちょっと困る……」

「なら、明け方に大聖堂の周りを調査することをお許し願いたい。その時には大聖堂の上空にクラウの姿をはっきりと見せます。早起きしている大聖堂の神官の方々も大勢、目にすることでしょう」

 敵の反撃があるのなら、クラウには囮として的になってもらう。彼の実力ならなんの問題もないだろう。

「まぁ、おほほっ」

 今まで黙って聞いていたミラが笑い声をあげる。

「イシュルさまの作戦は完璧ですわ。大聖堂の上に風の大精霊が現れ守護する。これは一大事ですわ。聖都でも大きな話題となるでしょう」

 これで決まったな。

 俺にはよくわからないが、やはり大精霊とは神に近い、希少な存在なのだ。

「……わかりました。仕方がない」

 デシオはかるく苦笑を浮かべ頷いた。


 デシオが大聖堂へ帰っていくと、イシュルはルシアにカトカに自室に来るように伝えてくれと頼み、先にひとり、居室に戻った。

 ミラは明日の屋敷の警護に関し、ディエラード家の者たちの会合に顔を出す、ということで運河沿いの小城の方に行っている。

 明日早朝の件はまだカトカに知らせていない。白尖晶と、まだ警戒を続けているのなら紫尖晶の方にも、明日早朝は一旦、大聖堂周辺から離脱してもらうか、魔法を使わず、その場でおとなしく待機していてもらうか、そのことを伝えなければならない。国王派に何かあると勘ぐられても、それはそれでいい。その結果やつらの動きを止められるなら、それで構わない。カトカには白尖晶だけでなく紫の方にも知らせてもらおう。時間はまだある。大丈夫だろう。

 イシュルが自室に戻ると、薄暗い控えの間に大きなひとの影があった。

 その影が一歩、イシュルの方へ踏み出してくる。

「ベルシュさま」

 大きなひとの影はビシューだった。

「内々にお伝えしたいことが」

「なんです」

 窓を背に立つビシューは逆光になって、イシュルからは彼の顔の表情が見えない。

 イシュルはさりげなく、窓の方へ近寄っていった。

 ビシューの顔に夕陽がさし、深い影をつくっていく。

「殿下にはベルシュさまにお伝えする必要はない、と言われているのですが……」

 ビシューの話によれば、サロモンは聖都近郊に領地を持つ自派の貴族たちに、秘かに挙兵の準備をさせているのだという。

「明日はあなたさまが総神官長に謁見、その後大神官会議に招致、いや実質喚問ですな——される日です。殿下は何事かあらん、と万が一の事態に備え、お味方に兵馬を整えさせているのです」

 イシュルは視線を鋭く、ビシューの顔を見つめた。

「そうですか」

 サロモンには昨日のことは知らせていない。一国の王子にとっては些事でもあろう。彼は彼でその事を知ったのか、あるいは知らなくてもフレードやシビルのように、何か一波乱ある、と考えたのだ。

「さすがはサロモン殿下。そのご慧眼には感服する次第」

 イシュルはかるく頭を下げて言った。

 一応、無難な言動をしておくに越したことはない。

「執事長殿のご配慮にも感謝いたします」

 だが、一応は婉曲に、釘をさしておこう。

 サロモンが本当に挙兵などしたら大変なことになる。ビオナートの所在がわからない以上、決着を急ぐべきではないのだ。

 イシュルは笑顔をつくり、柔らかな口調でビシューに言った。

「殿下はご存知なのですよ。わたしにとって千や二千の軍勢など、それが敵であろうと味方であろうとたいした違いはございません。わたしひとりで千でも万の軍勢でも、どうとでもなる」

 これでサロモンには伝わるだろう。挙兵など無用だと。いや、早急な決着を俺は望んでいないと。

 彼だって軍を起こせばその結果、ビオナートを取り逃がす可能性もあることはわかっているだろう。そして彼自身も確実に父を捕らえ、あるいは殺すことを望んでいる筈なのだ。

 ただ釘をさしつつも、礼儀上言わなければならないことはある。

「とはいえ殿下のご心配もごもっとも、恐れ多いことです。当日は殿下のお手を煩わせることのなきよう、気をつけてまいりましょう」

 イシュルがそう言うと、ビシューは満足げに何度も頷いた。

 横から射し込む夕陽が、彼の笑みに凄みを加えている。

 イシュルは微かに首を傾けた。

 ……このことはサロモンの、あまり暴れて大事にするなよ、という警告だろうか。あるいは、明日は気をつけよ、と注意を促してくれたのか。

 サロモンは挙兵の話をネタに、ただそのことを伝えたかっただけなのか。

 イシュルは扉の向こうに消えていくビシューの背中を、眸を窄めてじっと睨んだ。



 

 朝日に雲の縁が光り輝く。大小の雲が朝日に向かって、東の空に流れていく。

 今日も一日、なんとか晴れそうだ。

 イシュルは今、公爵邸を背後に大聖堂の北側、やや距離をおいてちょうど神学校の校舎の直上、数百長歩(スカル、約二五十〜三百m)の高さに浮かんでいる。

 目の前、やや下方には大聖堂の主塔がそびえ、その真上にクラウが空中に立っている。

 クラウは半ば実体化し、誰にでも視認できる状態だ。

 辺りをそっと吹く微風。頬をなぞる柔らかな風には、魔力が一切感じ取れない。

 クラウは探索をはじめた。

 このさりげなさ、たいしたものだ。

 と、大聖堂の主塔の向こう側、大広場に面した北側の建物の裏手あたりで魔力が煌めき、すとん、と小さな爆発音が響いた。そこからすっと、明るい灰色の煙が一直線に空高く吹き上げられる。

 やったか。まずは隠れていていた、国王派の何者かの闇の契約精霊を始末したらしい。

 今日は影の者だけでなく、魔導師も出張ってきているかもしれない……。

 頭上にたなびく、吹き上げられた白煙。

 それが闘いの狼煙となったか。

 大聖堂の周囲から幾つもの魔力の閃光が煌めいた。

 東側の建物の影から大小の火球が、運河を挟んだ西側の市街地からも魔力の気配、そして運河の水面が突如、盛り上がる。

 ふふ。随分と派手にやってくれるじゃないか。ここは聖堂教会の総本山だというのに。

 クラウは両腕を胸の前に組み、ただ超然と空に浮いている。

 さあ、それでは始めようか。

 イシュルはいつものように頭上、かなりの高度に幾つもの風の魔力の塊を出現させた。


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