風鳴り
「……!!」
誰か。ミラかラベナか。
後ろで声にならない叫び声が上がる。
イシュルが振り向くとみな軒下から顔を出し夜空を見回している。
「霧……」
ミラが呟く。
「全部で九名だ」
イシュルはフードを後ろにやり、雨に打たれながら虚ろな微笑みを浮かべた。
「アデールの周りを張っていたやつらだ」
イシュルも夜空を見上げた。
やつらは多分、俺たちとシビル・ベークの接触を確認するのが主任務だった筈だ。殺意は薄く、大きな得物を所持している者はいなかった。
「あの霧がそうだ。やつらは霧になって消えた」
「……」
皆呆然とイシュルの顔を見つめた。
イシュルの頬を雨の雫が落ちていく。
彼の顔は笑いながら、泣いているように見えた。
ラベナが言った道を左に曲がると確かに右手に、数件ほど先からアデール聖堂の白い壁が続いているのが、夜闇にぼんやりと浮き立って見えた。
その壁にそって少し歩くと、上部が半円状に美しい曲線を描く、これも白い門扉が見えてきた。その奥に小さな通用口があり、その壁に接するようにして、裏側に石造りの建物が立っている。
道の方から見る限り窓もない、倉庫のような味気ない建物だ。
「あれが詰め所ですわ」
ラベナが指差し言ってくる。
ん?
眼球の奥に煌めく白い光。
イシュルたちはちょうど正門の前にさしかかっていた。
その正門の曲線上にアデリアーヌが現れた。
「イシュル……」
気のせいか、アデリアーヌが少し甘い声音でイシュルの名を口にする。
「今晩は、アデリアーヌ。ひさしぶり」
「おまえ、かわった魔法を使ったな。風に水をたくさん巻き込んだ」
水の精霊はミラたちを無視して、イシュルとだけ話を進めた。
「そうかな?」
「おまえの魔力は特別だから。水だろうと土だろうと、ごく限られた精霊でないと干渉もできない」
それは大精霊でも特別に強いやつでないと、ということなんだろう。
「……ところで、今晩はこの神殿の神殿長のシビル・ベーク殿に会いに来たんだ。アデリアーヌが知らせてくれないか?」
「ふむ、わかった。……そういえばそこの風の魔女、以前アデールにいたな」
アデリアーヌはイシュルに一度頷くとラベナの方を見て言った。
精霊にしてはめずらしく、アデリアーヌは以前同じ聖堂にいたラベナの顔を憶えていた。彼女の言うとおりラベナは風の魔法を遣うから、なんとか記憶に残っていた、という感じになるのか。
「お久しぶりです、アデリアーヌさま」
ラベナはかるく腰を落として頭を下げた。
「うむ。ではイシュル、シビルを呼んできてやる」
アデリアーヌはやはり高位の精霊らしく、イシュル以外には高邁な態度を表してきた。
「イシュルさま、あれがアデール聖堂を守護する精霊ですか。とても強そうな精霊ですわ」
ミラはアデリアーヌが消えると、イシュルに話しかけてきた。
「それも女性の。なかなか美しいお方ですわ」
「……!!」
ええっ?
このパターンはまさか。相手は精霊じゃないか。
イシュルはミラの顔を横目に見た。恐すぎてまっすぐ見れなかった。
「か、彼女は精霊だよ? し、しかもこの場所から離れられないんじゃないかな」
「ただ一度しかお会いしてないのですよね? それなのに。精霊なのに。あんなに親しくなさっているだなんて……」
「そ、それは仕方ない。彼女とはし、しっかりと、信頼関係を結んでおくひ、必要がある」
「イシュルさまは女にとてもモテるのですわね? 女を振り向かせるのがとてもお上手なご様子。まさかこれほどとは」
「ヘ? い、いや、そんなことはぜ、ぜんぜん」
「そんなことは、ですって? この前、わたくしいいましたわよね? もっと自覚をもて、と」
「は? い、い、いや。それとこれとは……」
「じゃあ、なんでそんなに吃っているのです! 何かやましいことがおありなのでしょう!」
「ひっ」
もうだめだ。……相手は精霊じゃないか。まさかミラがこんなに強く出てくるとは。
……リスクが。リスク管理ができてない。
「くくくくっ」
低い声のする方を見ると、苦笑を浮かべ固まっているラベナの後ろに、ダリオが顔を横に向け笑っている。
こいつ……。色恋沙汰で公私混同するようなやつに。
イシュルはつん、と顔を横向けお冠(かんむり)のミラに視線を移した。
まぁ、あれだ。俺も傍目から見れば、公私混同してるように見えないこともないか。
アデリアーヌとよしみを通じておくのは重要なことだが、彼女のあの態度は確かにちょっと違う。彼女と仲良くなれるかも、とは踏んでいたが、あそこまで効果があるとはちょっと計算外だった。彼女に特別な好意? を持たれるほどのことまでする必要はなかったのだ。
つまり俺のやったことも、結果から見れば個人的な思惑があったのではないかと、邪推されてもしょうがないのだろう。ミラもそう感じたということだ。
やり方を間違えたかな……。
イシュルが幾つかの見込み違いになかば愕然と佇んでいると、門の横の通用口が開いて、先日ディエラード邸を訪れたカトカが姿を現した。
「お待たせしました、みなさま。……あら」
カトカはイシュルたちを見渡し、彼らに漂う微妙な空気に戸惑った顔をした。
鉄枠で締めた木板に、薄く叩いた鉄板で覆われた通用口の扉をくぐる。と、そこはいきなり薄暗い、控えの間になっていた。むきだしの石壁に組末な椅子が数脚、テーブルがあるだけ。カトカはランプをぶら下げその部屋の奥に進んで行き、正面にある扉を開けた。
するとそこから、びっくりするほどの明るい灯りが漏れてきた。
カトカに続き中に入ると、白塗りの壁に控え部屋より少し豪華な椅子とテーブルのセット。古めかしい模様のある衝立を挟んで奥には幾つかの机と椅子が並び、無理矢理書類入れにでも使っているのか、端の方には古いチェストが積み上げられている。
室内は壁にはランタンが掛けられ、テーブルや机には複数の燭台、蝋燭にはみな火がつけられていた。
衝立の向こうにはひとの気配がひとり、ある。
「神殿長、お客さまがお見えになりました」
カトカがその人物に声をかける。
「はいはい」
柔らかい明るい声だ。
その人物が衝立の影から顔を出した。机に向かって帳簿でも見ていたのか、この世界ではなかなか珍しい、片眼鏡をつけている。
「今晩は。よくお越しくださいました」
シビルが椅子から立って衝立の裏から姿を現した。
細い金筋一本の神官服に身を包んだ、小柄でややふくよかな体形に瓜実顔、白髪の混じった銀髪を後ろに縛っている。
ややたれ目のひとの良さそうな顔は、にこにこと微笑んでいる。
「はじめまして。わたしがシビルです。よろしく、みなさん」
イシュルは自分の顔に微かに苦笑が浮かぶのがわかった。
人は見かけによらない、とはこのことか。この人物があの海千山千の紫尖晶の長(おさ)、フレード・オーヘンをして「面白い女子(おなご)」と云わしめた策略家なのだ。
「こちらこそはじめまして。イシュルです。どうか以後、お見知りおきを」
イシュルは腰を低くしてシビルに挨拶をした。下げた頭を戻しながらミラを横目に見る。さきほどの、ミラにやり込められた時の視線とはまったく違う。
「わたくしはミラ・ヴィドラータ・ナ・ルクス・ディエラード。よろしくお願いいたしますわ。神官長さま」
続いてダリオが名乗ると、シビルはイシュルとミラの顔を見て小さく頷いた。そしてラベナの顔を見て笑みを大きくした。
「久しぶりね。ラベナ」
「はい。ご無沙汰しております。シビルさま」
ラベナが柔らかく腰を折って左手を胸にやり、シビルにお辞儀する。
「紫に行ってから心配していたのだけれど、今はディエラード公爵さまに仕えているのね。良かったわ」
シビルにはラベナの件も先日の手紙で知らせてある。
「はい。シビルさま。それで、こちらが本日持参した紫の長(おさ)の紹介状です」
シビルはラベナから巻紙を受け取ると中身にさっと目を通し、手紙をカトカに渡すと右手を差し出して言った。
「ではみなさん、そちらの椅子におすわりになって。詳しくお話を伺いましょうか」
シビルは終始、福々しい笑顔を崩さなかった。
イシュルの隣にミラ、その隣にラベナ。ダリオはカトカに誘われ別室に移動した。
イシュルは向かいに座るシビルに、何気ない表情で取り繕った視線を向けた。
ビオナートの野望、正義派の目的、今までの各派の動きなどをミラがシビルに説明している間、対するシビルは時折うんうんと頷き、あるいは驚きの表情を浮かべるものの、終始笑顔を絶やすことがなかった。
彼女にとって、笑顔は内心を隠すのに最も適した表情なのだろう。
そういうひとは世間に数多くいる。ただその多くのひとと違うのは、彼女の笑顔が深く、薄く、さまざまに細かく変わり、たくさんの表情を持っていることだ。そのことが、たいがいは心の内を糊塗するだけに過ぎない、ただのつくり笑いと違う自然なものに見せている。
めずらしいタイプなのかもしれない。本人は白尖晶にいた頃からこの陽性で謀(はがりごと)をめぐらし、配下の者を動かし、時に自分自身も動いてきたのだろう。
「……で、ウーメオの舌では黒尖晶を中心に国王派を一掃しましたが、肝心の紅玉石の片方は、その時すでに国王派の手に渡っていたのです」
聖石鉱山での一件はミラに代わってイシュルが説明した。
「そう……。バルディ家のお嬢さんが裏切ったの」
シビルは何かを確かめるふうにセルダのことを口にし、口許に手をやり考え込んだ。彼女の顔から笑みが消える。
「でも、イシュルさんは鉱山村を大精霊に見張らせていたのでしょう?」
……ふふ。
イシュルは苦笑を浮かべた。
なるほど。さすがに鋭い。だがあそこで月神の関与があったことを話すわけにはいかない。
「黒尖晶は何度か、魔封の結界を異なる方法で使ってきました。あの時、イシュルさまの大精霊も一時、魔封の結界に囚われたのだと思いますわ」
横からミラが割って入り説明した。
ミラの説明は事実と違うが至極もっとも、説得力がある。誰でもそう考えるだろう。
「……そうね」
シビルは再び笑顔になってイシュルを見てきた。
「さきほど神殿の周りで煌めいた風の魔法、わたしにも感じられたけど、何人ほど仕留めたのかしら」
「九名ですね。その前に、こちらへ向かう途中で襲ってきたのが三名です」
「そう。なかなかの釣果ね。あなたは本当に恐ろしい遣い手だわ。黒がやられたのも頷ける。紅玉石の受け渡しの時、細かい手配もあなたが決めたのでしょう? まだ若くていらっしゃるのに、たいしたものだわ。影働きの経験もないでしょうに」
「いえ……」
イシュルの苦笑が引きつったものになる。
話がなんだかあまり面白くない方にいきだした。俺に探りを入れて、俺がどんな人間か見定めようとしているのか。
「イシュルさまは天才ですわ。神殿長もご存知でしょう。ラディス王国のブリガール男爵とベーム辺境伯のことは」
と、横からミラ。
あー、フォローしてくれるのはうれしいんだが。天才、とかはやめてほしい。
「ええ、知っています。でもあなたは自分でやる気はないのね? 紫の長(おさ)とも繋がりがあるのに」
「はい。所詮、俺はよそ者ですから。この大きな街のことも、王城のことも、人々のことも、知らないことばかりなので」
そんなこと、わかりきってたことなのに。なぜわざわざ言わせるのか。
「……あなたは他にやることがあるのね? そちらに専念したい、ということかしら」
イシュルは苦笑を、さらに歪めた。
そちらか。ほんとに鋭い……。
まだビオナートをどうやって誅殺するか、そのことは話していない。ミラはやつの野望を潰し、紅玉石と禁書を取り戻す、正義派の目的しか話していない。シビルはそのことを詳しく知りたいのだ。確かにそれを知ってからでないと、引き受けるも引き受けないも、判断ができない。
ただ彼女にはもう、俺たちがいつ、どこでビオナートを殺るか、おおよその見当がついているようだ。
「そのことはいまの段階では詳しく話せません。でもあなたの読みは正しい。ビオナートの排除自体は俺自身がやるつもりです」
イシュルは何か言おうとするミラを制し、少し苦しげな笑みをつくって言った。
ビオナートを聖冠の儀で殺すか捕らえる。そのことはもちろん、シビルが味方になってくれなければ話すことはできない。たとえ彼女がそのことにすでに気づいているとしても。
それを教えずに、それでもシビルに受けてもらうには、だから金か、ビオナートを葬ることの意義を説くしかない。
「本物の陛下が、禁書と紅玉石を持ってお出ましになる時を狙っているのね」
シビルの優しげな眸が細められ、笑顔が深くなる。
やはりすでにお見通しか……。
「紅玉石は持ってくるかわかりませんがね」
イシュルは苦笑を消すことができない。
「わたしは持ってくると思いますよ」
シビルの笑顔に混ざる、危険な色。
そうか。確かにやつは持って来るかもしれない。やつも俺と同じく、聖冠の儀で勝負をつけようと考えているのなら。
聖冠の儀はやつにとっても俺を殺す絶好機なのだ。主神の座が起動すれば風の魔法具は使えなくなる。主神の座で力まかせで暴れることはできないのだ。そして俺を殺して紅玉石を奪い、ふたつ揃えて我がものとする。やつはあわよくば、風の魔法具さえも手に入れようと考えているかもしれない。
「……確かに、あの聖なる場所で陛下を捕らえるのは大変そうだわ。あなたでないとできないかもしれない。そのことがあるから、あなた方はわたしに力を貸してほしい、とおっしゃるのね」
シビルは、俺がそちらに専念するために、裏の謀略戦の仕切りをお願いしに来た、と考えているようだ。
それはそれでいいんだが……。
「どうでしょう。神殿長さま。わたくしどもにお力添えいただけませんでしょうか」
ミラがやや身を乗り出して言った。
「そうね……」
シビルが頬に手を当てやや俯き加減にする。
「神殿長さま。もしお受けしていただけるのでしたら、当家としてもアデール聖堂に援助は惜しみませんわ。いろいろなことでお力になれると思いますのよ」
ミラが切り札を出してくる。
「いや」
イシュルはそこで割って入った。
ミラとは彼女が寄進の話をし、俺が途中からビオナートを退けることの道理を説く、という形でシビルを説得することを、前もって示し合わせてある。ちょっと早すぎるタイミングだが、もう話をはじめてしまおう。
もしここで、金の話だけで彼女が承諾してしまったら?
それはあまりよくない。
「神殿長はどのようにお考えでしょうか? 国王のやろうとしていることに」
イシュルは真剣な視線をシビルに向けた。
確かに彼女は自身の栄達に興味がなさそうだ。そしてさらに、アデール聖堂の運営のための資金は必要であっても、個人としてはあまり強い金銭欲ももっていなさそうである。
ならばやはり正義派に味方することの意義を、ビオナートの野望に未来がないことを、むしろ寄進の話より先に説明してしまった方がいいだろう。
当然金ではなく、道理で、情理で納得してもらう方が良いのだ。それも俺が独自に考えていることを、俺の言葉で説いて。
一通りのことはすでに、さきほどのミラの説明で話してある。
「国王が政、教、軍を合体し、大陸諸国の統一に乗り出せば——」
イシュルもミラと並ぶようにして身を乗り出し、話しはじめた時だった。
シビルの座る右側の空間に、魔力の煌めきが滲み出るように生まれると、それがひとの形になり、アデリアーヌが姿を現した。
彼女はいつもの無色、半透明の姿だが、室内の照明を浴びてその輝きを増している。
「シビル。イシュルの願いを聞いてやれ」
はっ?
イシュルは、一同も、呆然と宙に浮くアデリアーヌを見つめた。
アデリアーヌはイシュルたちの目の前に現れると開口一番、いきなりびっくりするようなことを言ってきた。
「この男の言う通りにしろ。わたしはイシュルの力になってやりたいのだ」
俺の隣の空気が怪しい。いや、恐い。
「アデリアーヌが決めたことなら、わたしは逆らえないわ」
シビル・ベークはそう言って微笑んだ。
「彼女はここアデールの、初代神殿長の契約精霊だから。何かあれば歴代の神殿長はみな、アデリアーヌと相談して決めてきたの」
アデール聖堂はアデリアーヌとともに歩んできたのだ。行き場を失った女たちを守るために。
「……申し訳ない」
イシュルはシビルに頭を下げた。
シビルを仲間に引き込むということは、この女たちの聖堂をも危険に巻き込む、ということである。
「いいのよ。もし、陛下が聖王家と教会の両権を手にして戦(いくさ)をはじめてしまえば、一番困るのはわたしたちなのだし」
シビルはその笑みを悲しげなものに変えた。
確かに戦争になれば、ここ聖都も、夫や父親を亡くした女子供であふれかえることになるだろう。
正義派に味方しても、あるいは政争に加わらず傍観に徹しても、もし国王派が勝利すれば、いずれにしてもアデール聖堂には災厄が訪れることになる。ならどちらがいいか。シビル・ベークはそんなことを考えているのかもしれない。
その後はミラもシビルの言に悋気を抑え、ディエラード家の寄進の話や、大聖堂の聖神官、デシオやピエルにシビルが会って詳細を詰めること、彼女とイシュルやミラとの連絡をどうするかなど、様々な事を話し合った。
「神殿長は聖堂から外にあまり出ない方がよろしいでしょう。話し合いにはデシオさまやピエルさまにこちらへいらしていただきましょう。わたくしの方からデシオさまの方に話しておきますわ」
と、ミラ。
ただ日中の移動であれば、シビルが大聖堂に出向いても問題はない筈だ。それはデシオたちも同じ、病死や事故死に見せかけた暗殺ならともかく、昼日中から街中で神殿長や聖神官が襲撃され、殺されたらそれこそ査問会ものである。
話し合いが終わった後、イシュルはシビルにアデリアーヌのことで質問した。
「アデリアーヌとこの聖堂の契約とはどんなものなんですか」
「神殿の祭壇の奥に石板に刻まれた魔法陣があるわ。それは初代神殿長の立ち会いのもと、アデリアーヌが自ら刻んだものなの。その時に彼女がこの聖堂を守護する契約がなされたのよ」
ふむ……。
「イシュル、おまえたち人間の言葉でいうと、“水精の十世守護魔法陣”というのだ」
話し合いの途中から姿を消していたアデリアーヌが再び現れ、説明してくれた。
「十世、というのは……」
「この場合は十世代、という意味だ」
「だいたい五百年くらいね。わたしは昔、十代目の神殿長の代まで守護する意味かと考えていたんだけど」
「なるほど」
なぜだか知らないが、アデリアーヌが両手を腰に当て、どうだ、と言わんばかりに自慢げにしている。
おそらく、そんな特殊な魔法陣を描ける精霊はなかなかいないぞ、わたしは凄いんだぞ。という感じだろうか。
その石板に刻まれた魔法陣がアデリアーヌをこの神殿に縛りつけ、その魔法陣から彼女に魔力が供給されているのだろう。もちろん召喚精霊自身も魔力を持っているが、このひとの世に長期間存在し続け魔法を奮うには、魔法具などを介してそれを所持する魔法使いや、あの異界、精霊界からの魔力供給が必要になる。精霊にどれだけの魔力を供給できるか、できないかはその魔法具の能力、性能性質や魔法使いと精霊の相性などによって違ってくる。
ただいずれにしろ、あまりに強力な魔法を一気に使えば、精霊はこちら側に存在できなくなる。おそらく供給も間に合わない状態になるのだろう。アデリアーヌの場合は一定時間、活動休止状態になるのではないか。
「では、わたしからもイシュルさんにお願いがあります」
シビルはその口調も含め、柔らかい物腰を崩さない。
「あなたの紅玉石を見せてください」
イシュルが左手の手袋を取り手の甲を上にして差し出すと、シビルは右手をイシュルの左手に添え、左手で片眼鏡を持ち上げ、上からじっと赤く光る石を見入った。
まるで手相見のおばさんのようだ。
「これは……。ありがとう、凄いものを見せていただいたわ」
シビルは笑顔はそのまま。それほどの感動も表に出さず、どこか気の抜けたほのぼのとした口調で言った。
「なるほど。あなたなら大聖堂で、主神の間で風の魔法を使っても教会は黙認するでしょう」
だが次の台詞で笑顔を消し、声音をがらっと変えてきた。
「でも、油断してはだめよ。陛下が主神の間に姿を現してからが勝負。かの御方は子供の頃、主神の間で見習いをしていたから、周囲の隠し部屋や隠し通路もよく知っていると思うわ。主神の間に入る直前まで、変わり身の魔法具を持った替え玉が陛下の代わりを務めるでしょう」
「……」
イシュルは無言で頷いた。
シビルはやはり、正義派の狙っていることをすでに見抜いていた。
「ではイシュル。またな。わたしはこの神殿からあまり離れることができない。おまえの方で来てくれよ」
アデリアーヌは長い髪の女性らしい柔らかな顔立ちの精霊だ。それが男っぽい口調で話してくるから、そのギャップにちょっとくるものがある。
「……」
横にいるミラから、またまたただならぬ空気が伝わってくる。
「わ、わかった」
ミラから押し寄せるプレッシャーに、イシュルが少し吃りながら返事すると、アデリアーヌはさきほどのシビルとの打ち合わせの一部始終もしっかり聞いていたのか、緊急時の連絡方法を提案してきた。
「火急の時には、わたしからおまえの住まいの方へ水矢を射とう」
アデリアーヌはミラの態度に気づかないのか、問題視していないのか、構わずイシュルだけに話しかけてくる。
「ここから公爵邸まで届くのか」
イシュルは公爵邸のある王城の方を見た。今イシュルたちは聖堂の門前にいる。
アデール聖堂からディエラード公爵邸までは直線でも数里(スカール、一里は約六〜七百m)はある。
「もちろん。夜だろうと雨が降っていようと気づく筈だ。それにあの辺りには強い精霊の存在を感じる。その者はわたしの放った矢を見逃さないだろう」
クラウのことか。
「ではな。イシュル。またおまえと会うのを楽しみにしている」
アデリアーヌはミラのことなど歯牙にもかけぬ、という感じでイシュルだけに再び別れの言葉を言うと、背景の夜闇に姿を消した。
雨はもう、ほとんど止んでいる。
門前まで見送りに来たカトカと挨拶を交わし、公爵邸へと道を引き返し歩きはじめると、さっそくミラがイシュルに話しかけてきた。
「イシュルさま」
「はい」
消え入るようなか細い声でイシュルが返事をすると、横からダリオが言ってきた。
「帰り道も何事かあるかもしれません。ミラお嬢さま、ベルシュ殿とのお話は屋敷に戻ってからにしてください」
「……」
ミラはつんと横を向いて返事をしない。だが、その後は無言になったので、一応はダリオの言を受け入れたようだ。
「ふふ、イシュルさんは大変ね。でもミラお嬢さまにはやさしくして差し上げないと」
後ろからラベナが言ってくる。
あんな場面であっても、ミラは女の子なんだから気を遣えと、ラベナはそう言ってるわけだ。だがしかし、それでもアデリアーヌを邪険に扱うわけにはいかない。アデリアーヌのひと言が、今回シビルの協力を取りつける決め手になったのだ。
「はは、そうですな。ラベナ殿」
ダリオが調子良く、ラベナに相槌を打っている。
何がラベナ、殿、だよ。
ミラは相変わらず前を向き、つまりイシュルの横を向いたまま、つんつんしている。
はああっ……。屋敷に帰るのが恐ろしい。
ん!
イシュルは思わず足もとの水たまりに足を踏み入れた。跳ねた水滴がイシュルの顔の高さまで飛んでくる。
頬にぱしゃりと水たまりの水がかかる。
どうしてこんな時は早見の魔法が発動しないんだ。効いても魔法を使うわけでなし、どうせ避けられないけど。
早見の魔法は所有者の気力や集中力が足りていないと、反応が鈍くなるらしい。
とほほ。
イシュルはがっくり肩を落とした。
「イシュルさま! 素晴らしいですわ!」
ミラが胸の前で両手を合わせ感動の声を上げた。
場所はイシュルの起居している、公爵邸本邸の東南角二階の最上級の賓客用の部屋。その次の間に当たる晩餐室だ。
会議机として使われることも多いだろう、大きな食卓一面に横長の大きな紙が広げられている。
地に木の繊維の色がまだ残っているのか、やや茶色がかった生成りの紙は、昨日、市街の職人ギルドから直接公爵家に納品されたものだ。
すいたそのまま、裁断されていないのか、紙の端の輪郭は人の指でちぎったような粗雑な形になっている。
この特別な紙が納入された翌日、イシュルは晩餐室の食卓いっぱいにその紙を広げると、ミラに時間を空けてもらい、彼女の説明を聞きながら羽ペンを走らせ、聖都に在住する貴族や大神官らの派閥関係図を書きはじめた。
紙面の右半分中央に正義派と大聖堂、左半分中央にに国王派と王宮の円を描き、主要な人名を記述、そこから線を伸ばして例えばディエラード家の面々の名を、あるいはサロモンやルフレイドの派閥、そこに所属する主要な人物名などを書き込んでいった。
他にも中立の者、その中で国王派寄り、王子派寄り、正義派寄りなどに区分して書き込み、人物によっては爵位や官位の他に、○○金鉱山を所有とか、前外務卿であったとか、あるいは○○公爵家の甥だとか、第一騎士団長の義理の父であるとか、門閥や閨閥に関することなど、重要だと思われる情報を簡単に書き加えていった。
やがて、イシュルがせっせと書き込む人物相関図の全体像が明らかになっていくと、最初は少し不審な、微妙な表情を見せていたミラの顔に驚愕の色が浮かび、そして感嘆の叫び声を上げた。
「これは……。このようなもの、わたくしは今まで見たことがありません」
「そう?」
イシュルはかるく笑みを浮かべた。
ミラたちはいいのだ、聖都で生まれ育った者には。
彼らは相関図の内容程度のことなど、すでに知悉している。それどころかこういった図表では表現できない、聖都の貴族や神官らの微妙な関係、事情、空気感みたいなものもわかっている。
だがよそ者の俺には、こういう図表にしてまずは全体的な概略から頭に入れていくしかない。
「俺のような他国の者が聖都の状況をてっとりばやく把握するには、こうやって絵図面のような形にして、自分自身で書き記していくのがいいんだ」
「素晴らしいですわ……。イシュルさま」
「いやいや。複雑な状況、難題を処理していかなければならない時は、それらの内容、例えば起きたことや今現在起こっていること、原因や問題点とかを自ら書き出してみるといいんだ。頭の中から言葉にして外に出して明確化するわけだ」
この、前世でいえば中世期の時代のような社会では、そうやって問題点を言語化したり視覚化したりして検討、考察して解決していくやり方はまだ、一部の限られた者たちの間でしか行われていないだろう。庶民も含めれば多くの者は文盲である。
「例えばさ」
イシュルは調子づいて、紙の端に小さく正義派の問題点、弱点を二、三書き出し、その文章の右に矢印を書いた。
「正義派には裏工作する者がいない→」、「正義派には貴族の支持者が少ない(政治力がない)→」などである。
それからイシュルはその矢印の右側にそれぞれ「シビル・ベークを手配」、「サロモン王子派と同盟」と書き加えた。
それは、紙の上で
「正義派には裏工作する者がいない→シビル・ベークを手配」
「正義派には貴族の支持者が少ない(政治力がない)→サロモン王子派と同盟」
と記された。
「これは誰でも考えるような問題点とその解決策、あるいは結果だが、こうやって紙面に書き出し、矢印を間に挿入するだけで、その内容をより明確に理解できる。頭の中で考えるだけでなく、こうやって要点を紙に書き出しはっきりと言語化する、“矢印”という記号を間に挿入しその関係を明確化する、この二点がとても大事なんだ」
イシュルはミラににんまりと笑いかけ話を続けた。
「こういったいわば事象を対象化する思考を習慣化することによって、ふだんの生活でも、今回のような特殊な厳しい状況でも、さまざまな局面でより良く対処していくとができるようになると思う」
もちろん、これらのことは人類が言語、文字を獲得した時点で、限られた者たちだけとはいえ、延々と続けられてきたに違いない。
この大陸で知識階級である貴族や神官、商人や職人たちの一部の者たちは、日記をつけたり、覚書、備忘録などを書きためて、日々起こる種々の問題に対処するようなことも行ってきたろう。
「ミラも、特定の日や週間予定などを紙に書き記して覚書とするようなことをやってきたと思う。それとも執事まかせ?」
「いえ。わたくしも忙しい時は執事やメイドを呼び、時には兄たちの予定も直接聞いて自らしたためていますわ」
「そうなんだ」
ミラは真面目でしっかりしてるからな。
「その覚書も、この矢印で結びつけて書いたものと同じようなものだよ。それで予定をうっかり忘れてしまうことも防げるし、どんな準備をすればいいか、どう効率良く用事をこなしていくか、考えることが楽になる」
「そうですわね」
ミラがなるほど、と頷く。
ちなみに大陸の慣習として一週間は五日間、五曜制である。火、水、風、金、土の順に曜日がある。ただ、一般には聖堂教の神事にかかわることと受けとられ、庶民の日常生活にそれほど深く浸透してはいない。
「つまり、俺が書いているこの大きな人物相関図も同じ、覚書の一種だよ」
「それはそうですが……」
ミラが納得がいかない、という顔をする。
「でもイシュルさまは素晴らしいですわ! わたくし、とても勉強になりました」
と、結局笑顔になって最初にもどるミラ。
「……」
イシュルはあやふやな笑顔になって小さく頷いた。
その日も一日、雨がしとしとと降る日だった。
その後、来客も少なかったか、ミラに彼女の兄たち、ルフィッツオとロメオも加わった。イシュルが書いた聖都の人物相関図には、彼らの感嘆の声とともにさらに多くの者の名が書き加えられていった。
夕方には屋敷のどこかで噂を聞きつけたか、サロモンが執事長のビシューを連れてイシュルの部屋にやってきた。
「……これは」
サロモンもミラやルフィッツオらと同じ反応を示した。
サロモンはイシュルを見、いつかのように煌めきに紗のかかったような微笑を浮かべて言った。
「イシュル君、きみの発案かね、これは」
今さら隠しても、嘘をついてごまかしてもしょうがない。いや、最初から隠す気はなかった。多くの者に知れ渡っても、これは自分のために必要なことだった。
イシュルが「はい」と頷くとサロモンは、
「きみの筆跡は独特だね。繊細で美しい……」
と、いささか見当はずれなことを言った。口許に笑みを浮かべていても彼の目は決して笑っていない。
後ろに控えるビシューも難しい顔をして、イシュルの書いた相関図を見つめている。
何か少し緊張した空気に、ミラやルフィッツオ、ロメオも無言でいる。
「いいかな? これを書き写しても」
「はい。それはもちろん」
イシュルも微笑を浮かべサロモンの顔を見やった。
「ビシュー。至急手配しろ」
「ははっ」
ビシューは、サロモンに軍人のような引き締まった声音でかしこまってみせると、そのまま無言で部屋を出ていった。彼はおそらく市中の、紙を扱う商家か職人のもとに遣いでもだすのだろう。
サロモン付きの書記役はすでに屋敷に何人かいて、書写する者を新たに手配する必要はない。
「もしあるのなら朱色のインクを手配して、その後の状況変化を日付とともに書き足していくとよいのですが」
イシュルがビシューの消えた扉に目をやり言うと、
「なるほど……」
サロモンは口許を手で覆って呟き、小さく一度、頷いた。
その眸が鋭くなる。
「この図面はむしろそのための下書きか」
サロモンめ。さすがに鋭い……。
「無数の軍勢が相見える大きな戦(いくさ)の時も、当地の絵図面を複数用意して、朱色のインクで半刻(一時間)おき、あるいは半日おきに戦況を書き込んでいく、それらを順に並べて俯瞰できるようにすれば、より確実な采配をとることができるでしょう。この人物相関図も、似たようなものです」
サロモンが双眸を大きく見開き、一瞬鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。そしてその顔に歪んだ笑みを見せた。
「ふふ。もったいない。……きみは風神の魔法具を持つ必要などなかったのだ。皮肉な巡り合わせとはこのことだな」
さすがにサロモンは言うことが違う。神の魔法具を持つことがその者にどんな運命をもたらすか、そのことも承知しているかのような物言いだ。サロモンは風の魔法具よりも、俺の知識や頭脳の方がより有用では、と言っているのだ。
だが、俺の能力に関して彼は明らかに見誤っている。買いかぶっている。俺はただの凡人だ。前世の知識、先人が積み上げて来たものをただ、そのまま披露しているだけに過ぎない。
前世では仕事で、普段の生活で、どれほど多くのチャート図やグラフ類をつくり、視覚化された統計に囲まれていたことか。
サロモンに教えたことは、まだこの世界ではほとんど試みられていないのではないか。兵棋演習などもそうだろう。そして軍監と呼ばれる、一部指揮権と監察権を有する軍師のような存在はあっても、近代的な複数の参謀によって構成される組織運営はなく、その教育機関もない。
彼に教えたのはまずかったかもしれないが、優秀な頭脳に美貌、加えて特別な地位にある人物にあのような顔をさせることができたのは少し愉快、ではあるかもしれない。
「ぼくらも書き写させてもらっていいかな」
サロモンが去っていくと、ルフィッツオとロメオも言ってきた。
「はい、もちろん。どうぞ」
イシュルは笑顔で頷いた。
やがて彼らもイシュルの部屋を出て行きミラとふたりきりになると、イシュルは笑顔を消して小声でひと言、
「クラウ」
と、風の精霊を呼んだ。
「剣殿、ここに」
「これはこれは、大精霊さま」
部屋の東側の窓を背に姿を現したクラウに、ミラが椅子から立ち上がって右手を胸に当てお辞儀をする。
「これはこの都(みやこ)に住む、貴族や神官たちの関係図だ。クラウもここに記した人物名と各々の関係を憶えるようにしてくれ。今すぐに憶える必要はない。屋敷の警護の合間合間でかまわない」
「わかった。ざっと見たところ、この屋敷に訪れた者たちの名も散見されるな」
「……そうだな」
イシュルは苦笑を浮かべ頷いた。
クラウは、俺よりもはるかに多くの人物の顔と名前を憶えているのではないか。
大きな食卓いっぱいに広げれた紙面には、聖王家や五公家の主要な人物から、伯爵、子爵、男爵、騎士爵家、彼らのパトロンである富商、さらに大神官から見習い神官まで、活発に動いている人物、中立の者、二百名以上の名前が記されている。クラウはその中で、屋敷で執事らがその名前を口にした訪問者を、その外見もいっしょにしっかり憶えていた、ということになる。
「ところで、ちょっと気になることがあるのだが」
クラウがイシュルに疑問を呈した。片手を顎に伸ばして考え込むような仕草をしている。
「なんだ?」
「この紙には剣殿の名が記されていない。書き入れるならここらへんかな?」
クラウが顎から手を離し、紙面上に書かれたディエラード家の円形の枠の中、ミラの名がある辺りを指さしてくる。
「あら。言われてみれば」
ミラも紙面に、そしてイシュルに顔を向けてきた。
「もし俺の名を書き入れるなら、そう、そこら辺になるかな。でも俺の名はいい」
イシュルは椅子から立ち上がり、紙の上に両手をつき、一度紙面全体を見渡すと言った。
「俺はここにいる。それでいいんだ」
そして自らを指差し微笑んだ。
俺は“紙面の外側”にいるべきだ。……でないといけない。
「シビルはもう動きだしたようじゃな」
蝋燭の揺らめきにフレード・オーヘンの顔が歪む。
「白、を丸ごと取り込むつもりのようだ。今の白尖晶の長(おさ)とはそれほど悪い関係ではないし、サロモン殿下が正義派側についたからな」
「そうか」
サロモン王子派が正義派と組んだことで、確かに情勢は大きく変わった。
それでシビルが白尖晶全体を動かせることになるのなら、それはそれで結構なことだ。
イシュルは小さく頷き、フレードの背後にうごめく彼の影に一瞬、視線をすべらせた。
イシュルとフレードの二度目の会見は前回と同じ、紫尖晶聖堂の秘密の地下室で行われた。イシュルが聖都の人物相関図を書き上げた翌日である。
その日の午後、ミラがアデール聖堂の女神官、カトカをイシュルの部屋に連れてきた。カトカはメイド服を着用していた。カトカは「本日よりイシュルさま付きのメイドとなりました。よろしくお願いいたします」と、何食わぬ顔で、メイドそのものの顔をしてイシュルに挨拶してきた。
シビルの動きは早かった。カトカはイシュルやミラと、シビルの連絡要員として公爵家に派遣されてきたのだった。
二日後にせまった、大聖堂で行われるウルトゥーロ・バリオーニとの謁見、国王派の大神官らが彼に質問状を提出する日、その後数日中にはデシオらがアデール聖堂を訪問することになるだろう。
カトカがイシュルに挨拶しにきた少し後、ミラが注文したイシュルの服の幾つか、早めに仕上がったものが公爵邸に届けられた。届けにきた者はビルドだったか、ルシアを経由してミラからフレードの手紙がイシュルに手渡された。
フレードの手紙には、「今晩、もしくは明晩、前回と同じ時、場所に来られたし」とあった。
イシュルはフレードと顔を会わせるとここ十日あまりの出来事を話し、次にフレードからの報告を受けた。
「内務卿には監視をつけているが、特に怪しいことはない。そもそも貴公が言う通り、陛下が変わり身の魔法具とイルベズの聖盾を併用しているのなら、ふたりが入れ替わる現場を押さえない限り、どうにもならない。まさか内務卿をかっさらってくるわけにもいかない」
はは。内務卿を拉致なんぞしたら、それこそクーデターになる。その重みは、例えば聖王家の第二王子であるルフレイドを王城から拉致するのとたいして変わらないのではないか。
ただもちろん、その内務卿が本人に化けていたビオナートであったなら、話は変わってくる。拉致できるのなら、それをやる価値は充分にある。
「質問がふたつある」
イシュルはフレードの言に頷くと、彼の目を覗き込むようにして言った。
「まず内務卿はどうやって監視している?」
「……常時監視しているわけではない」
フレードはしばらく無言でイシュルを睨み返すと言った。
「内務卿の居城が王城東北の支城、リアード城であることは知っていよう。我々は大抵、大貴族の家内には常日頃から諜者を配っておる。だから彼が自城にいる間は、だいたいの様子は探れる」
フレードは意地の悪そうな笑みを浮かべた。
ふん、ディエラード家にも間者はいるぞ、とでもいいたいのだろう。それくらいのことは俺でも予想がつく。
おそらく何十年も、いや、何代もの間、表向きはその貴族家の家人となって仕え、ひそかに諜報活動を続けるのだろう。幕府隠密とか、そんなものと同じだ。
「監視要員は増やせなかったのか? あんた、前にここで話した時には内務卿がビオナートと特に緊密な関係にある、一応探ってみる、みたいなこと言ってたじゃないか」
イシュルはフレードの笑みにお返しとばかり、意地の悪いことを言った。
「それは無理だった。ともかく貴公の話では、サロモン殿下のご明察もあって、内務卿と陛下が裏でもしっかり繋がっているのがわかったのだから、それでよろしかろう。それ以上は我らでは無理だ」
フレードは笑みを消し真剣な顔になって続けた。
「陛下は守りを固めつつある。後宮はもちろん、内務卿、ルフレイドさま、国王派の大神官らの身辺を中心に影働きの護衛を増やしている。我らではうかつに手出しはできん」
内務卿の住まいは立派な城だ。確かに新たに監視要員をつけるのは大変だろう。
ちなみに、聖王国の草創期、王城の周辺にある支城や出丸に当たる小城に配されたかつての城将が、現在の五令公家の祖となっている。
フレードが言ったとおり、内務卿、ベルナール・リアードが現当主のリアード家が王城東北の支城を、同じ五公家のブリオネス家が王城東南の支城を、聖都の西の丘にそびえるサンデリーニ城をサンデリーニ家が居城としている。
ミラたちのディエラード家の場合は王城西北の出丸である小城が一応居城、ということになる。
だが、おなじく王城西南にあった小城は今は第三騎士団の管轄となっている。かつてはディエラード家のように残る五公家の最後の一家、パストーレが城主だったが、三百年前のルグーベル運河建設に猛反発し、時の王の不興をかってパストーレ城の城主を罷免され、市街地の方へ強制的に移住させられた。それは現在も変わらず、パストーレ家は市街の邸宅街のはずれに屋敷を構えている。
これらのほとんどのことは、イシュルも人物相関図を書く際にミラから教えてもらい、すべてを知っていたわけではなかった。
「わしらはしばらくの間、守りを固めた国王派の動向を確認、影の者たちや間者の配置を探ることにする」
「わかった。それでシビルとの連絡だが、なるべく最小限に留めて、あんたはあんたでなるべく独自に動くようにしてくれ。すべての諜報、工作をシビルに集中するのは危険だ。相手への撹乱にもなるし、指揮系統は幾つか分散、独立させておきたい。何か大きく事を起こす時は集中すべきだが、普段は諜報活動や工作が重複し無駄が増えるようなことがあっても、ばらばらに行動する方が良い」
「承知した」
フレードは口許を僅かに歪ませ笑いを含むとゆっくり頷いた。
「それでふたつめの質問だが、ビオナートの変わり身の魔法の魔法具とイルベズの聖盾との関係性をより詳しく知りたい。ちょっと気になる点がある」
「関係性? なんだ? 言ってみろ」
「イルベズの聖盾は魔法も物理攻撃も防ぐ。魔力が通らないから、ビオナートが変わり身の魔法を使っても、俺や高位の精霊でもわからないだろう、という話を聞いたんだが……」
「物理攻撃とはなんだ?」
「剣槍や拳打などによる攻撃のことだ」
「つまり魔法以外の攻撃、ということじゃな」
イシュルが頷くと、フレードは「貴公は難しい言葉を使う……」と呟きため息をついた。
「それで、変わり身の魔力が漏れてこない、魔力が通らないというのなら、そもそもイルベズの聖盾を発動中は他の魔法を一切使えなくなるんじゃないか、と。イルベズの聖盾の発動中は他の攻撃魔法は使えなくなる、とも聞いたし」
「そういうことか」
フレードはやや気のぬけた感じで言った。そこにはほんの少し、影働きの時のクートの顔が垣間見えた。
「わしもイルベズの聖盾のことをそれほど詳しくは知らん。だが貴公の言う通りだと、イルベズの聖盾が働くと、イルベズの聖盾自体も魔力を断たれてしまうことになるのではないか?」
「いや、それは……」
ん? そうか、ということはつまり……。
「イルベズの聖盾が働くのはあくまでその外側であって、使用者本人の使う魔力を断つわけではない。イルベズの聖盾の発動中に他の攻撃魔法が使えないのは、聖盾の外側にその魔法の効果を及ぼせなくなるからだ。聖盾の内側から外側に向かう魔力も防いでしまうからの」
フレードはそこで言葉を切り、ひと息ついて話を続けた。
地下室に反響するフレードの声が、むしろ地下室の静寂をより際立たせている。
「変わり身は聖盾の外側に作用する魔法ではない。使用者本人に作用するものだ。だからイルベズの聖盾の発動中でも変わり身の魔法はその効果を発揮する。ちなみに聖盾の外側とは陛下ご自身のからだの外側、と考えて良かろう」
「なるほど」
イシュルはひとつ頷いた。
つまり変わり身の魔法とは、幻覚を見せるなどして他者の視覚や意識に影響を及ぼす類いの魔法ではない、ということだ。あの白い仮面をかぶった、本人に作用する魔法ということだ。それがどんな仕組みになっているのか、さっぱりわからないが。
この世界の魔法は、俺の知識が不完全で偏っているせいもあるが、是か否か、有か無か、はっきりしている部分もあれば、感覚的、直感的であやふやな部分もあり、複雑で明確な全体像が掴めない。
おそらく魔法具+魔道書の1セットで万事OK、という風にはいかず、師弟制度があるのもそれが原因だからではないだろうか。魔法具を所持すれば誰でも魔法は使えるようになるものの、さまざまな業(わざ)を憶え、応用できるようになるには、ただ魔道書を読み暗記するだけではだめなのだろう。誰か特定の師について修行し、経験を積み重ねることが必要なのだ。
「貴公には魔法に関する知識に偏りがある。だが何でも力まかせに行こうとせず、状況を見てきちんと対応している。その歳で自身の強大な力に溺れず処しているところはたいしたものだ」
フレードが珍しく歯の浮くような台詞を言ってくる。
「何がいいたい」
イシュルは厳しい視線をフレードに向けた。
「明後日にはいよいよウルトゥーロさまと会うのであろう。貴公が表に出れば陛下を支持する大神官も退かざるをえない」
フレードは薄く笑みを浮かべ続ける。
「陛下を追い込み、サロモン殿下が掌中に転がりこんできた。わしとシビルの協力をとりつけ、貴公ならこの後、総神官長の信頼を得ることもできよう。どうだ? すべてうまくいっておるではないか」
「いや。ちっともうまくいってない。ウーメオの舌でエミリアたちを失ったことは、俺にとって他に変えられない痛恨事だ。正義派の勝利以外に彼女らの死が報われることはない」
エミリア姉妹の悲劇を二度と繰り返さないため、俺は戦ってきた。正義派を守ろうとしてきた。
そのために敵側の多くの者たちの命を奪ってきた。
誰かを守れなかったために。これ以上失いたくないから、残された者たちを守るために人殺しを重ねる……。俺はまるで、未だ復讐を続けているかのような境遇に置かれている。何も状況は変わっていないように思える。
これがやつの、月の女神レーリアの謀ったことなのか。これは宿命なのか……。
「ふむ……」
フレードが神妙な顔をして押し黙る。
「次期総神官長の入札(いれふだ)後、ビオナートはルフレイド王子の暗殺を図るだろう。もし彼が殺されたら弟王子派がどう動くかわからない。サロモン王子は弟王子派を取り込んで挙兵するんじゃないか? 今一番の問題はそれだ。ルフレイド王子を何とかして守らなければならない」
ただそれだけではない。ルフレイドの死を回避することが、俺自身をめぐる、この殺し合いの連鎖から抜け出す糸口になりはしないだろうか。
いや……。それですむ問題ではないだろう。どうしても、なんとしても月神と相見える機会をつくりださねばならない。あの運命と冥府の神に問いたださねばならない。
なぜ俺をこの悲しみと苦しみの連鎖に放り込んだのかを。
「お主。その前に、用心しなければならないことがあるぞ。それは……」
フレードの顔に再び、歪んだ笑みが浮かぶ。
考え事にやや顔を俯けていたイシュルがフレードへ向け顔を上げた時だった。
からん、からん……。
地下室のどこかで小さな鐘の鳴る音が響いた。
「……!!」
イシュルとフレードの視線が一瞬、交錯する。
「まずい……」
「なんだ。何が起こった」
小さな声で呻くように言ったフレードにイシュルの厳しい声音が重なる。
イシュルは鐘の音のした方へ意識を向ける。地下室の階段を降りた横の壁、上の方に通気口のような穴がある。その穴は上の地階へと続き、さらに幾つか分岐し、神殿に付随した塔の上の方まで伸びている……。
フレードはイシュルに何か答えようとしたが、続いて階段の上の方で物音がした。誰かが下へ降りてくる。
「神殿長、たいへんです!」
神官服を来た若い男、ビルドと同じ歳くらいの男が階段をばたばたと降りてきてフレードの前に跪いた。
「どうした?」
「大聖堂、ビルドの組が敵方に襲われました。至急救援を」
「なんだと」
フレードが勢い良く立ち上がる。
「大聖堂? どういうことだ」
イシュルは知らせにきた男とフレードの顔を見回しながら言った。特に慌てず、椅子にすわったままだ。
「貴公に話そうとしたら、この様だ……」
フレードは面(おもて)に苦悶の表情を浮かべると、イシュルに事の次第を説明した。
明後日に迫ったイシュルが総神官長に謁見する日、当日午後には国王派の大神官らがウルトゥーロに質問状を提出する。その際には聖都の大神官がすべて大聖堂に集まることになり、そこで彼らに対しイシュルが風神の魔法具を持つ者、そして紅玉石の片方を左手に宿した者として紹介される手筈になっていた。
フレードはその情報をいち早く入手し、数日前から夜間、半刻に一度ほどの割合で、大聖堂の周辺を紫尖晶の手の者に見廻りさせていた。
「見廻り? 大聖堂を?」
イシュルはフレードの説明に不審の声を上げた。
「そうだ。貴公は大神官の方々に風の魔法か、召喚した大精霊を披露するつもりじゃろう。なら前もって、国王派に対策されぬよう警戒しておかなければならぬ」
「それは……」
フレードは小さく頷くと言った。
「その時に魔封陣など張られたら困るからな」
「まさか、大聖堂でそんなことをしたら……」
「確かに露見したら大変な騒ぎになるが、大神官会議と貴公との会見は大聖堂の主神殿、主塔とは別の建物で行われる筈だ。おそらく主神殿に隣接する聖パタンデール館が使われると思う」
聖パタンデールとは昔の総神官長か、聖堂教草創期の大神官の名だろう。
しかし……。
ちょっと甘かったか、俺が。
「陛下が命令を下さずとも、取り巻きの者が独自に強硬な手段をとることはありえる。貴公にも注意しておこうと思っていたが、どうやらわしの懸念していたとおりになったらしい。とにかく詳しくは後にしよう。もうだめかもしれんが、やつらが生きておるのなら助けにいかねばならん」
「大聖堂周辺、だな? 俺が行く。あんたらはゆっくりでいい」
イシュルはおもむろに立ち上がるとフレードを見、跪く男を見下ろし言った。
「東の二番を使え」とのフレードの指示で、イシュルは凶報を知らせにきた若者に付き従い、地下室からそのまま地下道を通り、紫尖晶聖堂の東南にある富商の屋敷の物置小屋から外に出、そこから空を飛んで大聖堂に直行した。左手に見えるデェラード公爵邸を越えたあたりでクラウの声がした。
「いかがした? 剣殿」
風音に混じり耳から頭の中へ、クラウの声が反響するように響く。
「主神殿の近くで荒事だ。屋敷からそれほど距離はないから、何かあったら支援してくれ」
「了解した。あまり強い魔力は感じなかったが……」
クラウの声が後ろへ遠ざかっていく。大聖堂の大小三つの尖塔の影が夜空に大きく浮き立つ。
公爵邸と大聖堂の距離はクラウと会話できるか、できないか、微妙な距離だ。
イシュルは目の前に迫った尖塔の手前、空中で静止した。
暗い雲で覆われた夜空には霧雨が微かに舞っている。この雨脚では先日のアデール聖堂でやったような芸当はできない。
魔法を使う者はいないか。
イシュルは目を瞑り、頭を上下左右にゆっくりと振った。
魔力の煌めきはない。弱い魔力では集中しないと感じ取ることができない。
脳裡を走る、細く断続的な光線……。
なんだか懐かしいな。これは隠れ身の魔法だ。
だが随分と弱々しい……。
イシュルは目を開き自身の左側、やや後方を見下ろした。
神学校関係の建物と、大聖堂の使用人や神官らの宿舎や倉庫など、大小の建物が密集して立っている辺りだ。
イシュルは夜空に風の魔力を降ろし、幾つかの塊にして配置すると、その弱々しい魔力の閃光目指してゆっくりと降下して行った。
夜風は湿り気の中にほんの少し、冷気を忍ばせている。周囲の建物の中にはひとの気配があるが、外側には何も感じない。
隠れ身の魔力は、南北と西側を石造りの建物で囲まれた狭い空間から放たれている。
これは紫、ビルドじゃないか。
国王派の影働きか魔導師に追われ、逃げ込んだのではないだろうか。そこは隠れ潜み、守りやすい場所だと言える。
ただ、東側を塞がれたら退路はなくなるが。
地上から二十長歩(スカル、約十数メートル)ほどまで降りると、弱々しい隠れ身の魔力が完全に消え去り、地面に沈み込むようにして伏せるふたりのひとの気配が現れた。
「ビルド……」
腹部を黒く濡らした男を横に抱き、足を伸ばして座り込んでいるビルド。彼も片足を血で濡らしている。
イシュルは降下速度を上げて彼らの側に降り立った。
「大丈夫か」
屈んで声を潜める。
「ああ、俺はな。助かったよ。あんただったら隠れ身を使った方がむしろ見つけやすい、と思ってな」
ふたりとも裾の短い薄地のマントにズボンと、腰元を紐で結んだチュニック、街の住民の最もありふれた格好だ。ちょっと違うところはふたりとも腰に短剣をぶらさげ、胸のやや下側に投げナイフを幾つか仕込んでいるあたりか。片方の男はその胸から腹の辺りを血で染めている。
これはまずい状態だ。
「立てるか? 急ごう」
イシュルがそう言って腰を下げ、片膝を地面につけた時だった。
ガラス窓が激しく割れる音がすると、頭上へ何かが飛び出し、その黒い影が渦巻き上に回転しはじめた。
「しまった! 罠だ、あれは……」
ビルドが叫ぶ。
わかってるさ。
イシュルは薄く笑って夜空に渦巻く黒い影を見つめた。
あれは魔封陣を発動しようとしている。
ウーメオの舌で黒尖晶の長(おさ)が使ってきたやつに似ている。
渦巻く影から四方に光線が走り、円形の模様が浮かび上がる。
それならこいつらは黒尖晶の生き残りだ。
周囲の建物の窓ガラスが割れ、鎧窓が吹き飛ばされる。そこから飛び出た黒い影が幾筋か、視界を切り刻む。
「……!!」
ビルドが何事か叫ぶ。幾つもの黒い人影が空中に浮かんだ。
右手を強く、握りしめる。
イシュルは魔封陣が完成するぎりぎり直前で、上空から風の魔力を降ろした。
建物の影を風がつたう。
全身を引き裂くような鋭い風音が一瞬、イシュルたちの頭上に鳴った。
空中にあったすべてが細かな塵となって、暗闇に溶けていく。
雨雲を走る風の音が消え去ると、後にはいつもの夜の、静寂だけが残された。
「囮にされてたのかな? だから生きていられた。運が良かったな、ビルド」
イシュルは雨雲にくすんだ月光の影に、その微笑みを隠して言った。
意識のない深手の男を背負い、ビルドに自身の腰の辺りをつかむように指示して空中に舞い上がると、手前の建物の屋根の上に、数人の男たちが姿を現した。夜間の影働きだというのに、みなお揃いで白い、明るい色のローブをまとっている。
男たちはどこかでイシュルと国王派の戦闘を、彼の魔法を見ていたのか、空中に浮かぶイシュルたちを見ても何の反応もせず、何の動揺も見せずに建物の影に消えて行く。彼らからはなんの殺気も感じられない。少なくとも、イシュルには向けてこない。
最後に残った男がイシュルに向けて会釈をしてきた。
「……?」
呆然とするイシュルに後ろからビルドが声をかけてくる。
「白だ。白尖晶が動きだした」
とするとシビルか。彼女が動きだしたのだ。そして彼女も俺が見逃していた、フレードと同じことを考えたわけだ。
「俺たちを襲ってきたのは黒の残党だった」
夜空を飛ぶ微かな風鳴りの中、ビルドが言った。
「元から住んでる大聖堂の使用人や、神官見習いに混じって隠れていやがった」
「そうだな」
イシュルは眼下に迫る、紫尖晶聖堂近くの歓楽街の灯を見つめながら、後ろのビルドに首を縦に振ってみせた。
やつらも少しは頭を使ったらしい。ビルドの言う通り、屋内の空き部屋や物置に潜んで、宿舎に起居する者たちの気配に紛れ込んでいたのだ。
ビルドたちは数日前から夜間、大聖堂の周りを巡回していた。彼らは俺をおびき寄せるため、囮に使われた可能性がある。
「しかし……」
イシュルはひとり呟いた。
やつらはもう俺が始末した。大聖堂の周りは白尖晶も警戒をはじめた。
当日はクラウにも警戒させ、途中、大神官たちの会見にも参加してもらう。
風の大精霊であるクラウの感知能力は状況によっては俺以上だ。
もうやつらの思うようにはいかない。させない。
イシュルは街の灯の中へと、高度を落としていった。
「イシュルさま!」
長椅子に横になっていたミラは目を覚ますとイシュルに抱きついてきた。
イシュルはその時、ミラのすぐ目の前で床に片膝をつき、彼女の顔を覗き込むようにしていた。
「大丈夫? ミラ」
「はい。それよりイシュルさまは……」
ミラはイシュルの顔を見つめながら、とたんに顔を曇らす。
「俺は最初から怪我ひとつしてないよ。服についていた血は、助け出した紫尖晶の影働きのひとのものだ」
イシュルは笑って言うと、少し神妙な顔になって言った。
「すまない、心配かけた。……それとつくってもらった服を早速、だめにしてしまった」
イシュルは負傷していたビルドの相方を背負って運んだために、背中から胸のあたりを血だらけにしていた。屋敷に帰ってきたイシュルを迎えたミラは、それを見てイシュルが大怪我をしたと思い込み、その場で卒倒してしまったのだった。
「よかったですわ、ほんとうに。わたくしの早とちりでしたのね」
ミラはそう言うと、再びイシュルの胸に顔を押しつけすりすりしだした。
彼女はアデール聖堂から帰ってきた後、イシュルをアデリアーヌのことで追及しょうとはせず、その時もただ無言で抱擁を求めてきた。彼女が悋気を抑えたのは何故か、それはわからない。
しつこい嫉妬を繰り返してみせればイシュルにかえって嫌われると考えたのか、アデリアーヌは所詮、ひとつ箇所に縛りつけられた精霊だと割りきったのか、彼女が何を考えているかはわからない。
ただミラは、以前よりもイシュルの傍に寄り添い、からだに触れることに躊躇しなくなった。
「服のことなど、どうでもいいのです……」
そしてミラはイシュルの顔におのれの顔を近づけ、途切れ途切れの甘い声で囁いてきた。
「……」
側に控えていたルシアが薄く頬を染めて、明後日の方を見た。部屋の窓側に立っていたネリーも、頬をぽりぽりやりながら視線をあらぬ方に向けている。
「……あら、あなた方、いたの?」
ミラはイシュルの胸から顔を上げ、ルシアとネリーを見やると低い声でぼそっと言った。
その後、イシュルはミラに大聖堂近辺で起こったことを説明した。白尖晶が正義派側について動きだしたことも話した。紫尖晶のビルドは右足負傷でしばらく影働きはお休み、大怪我をした男の方は五臓をやられ(イシュルの見たところ、肝臓のあたり)、治癒魔法をほどこしても助かるかどうかは五分五分、今日明日がヤマだ、ということだった。
ふたりを救い出し、フレードら紫尖晶の者たちからは感謝されたが、大聖堂の見廻りはイシュルも失念していたことで、手放しで喜ぶ気になれず複雑な気持ちになった。
イシュルはその後、ミラはもちろんルシアやネリーも残したまま、その場でクラウを呼び、彼に明後日に迫ったウルトゥーロとの謁見、大神官らとの会談について説明し、指示を出した。
「今晩のことで、当日も敵側は何かやってくる可能性がでてきた。クラウは公爵邸と大聖堂の中間に位置して双方の警戒に当たってくれ。とりあえずは大聖堂付近で魔封陣の展開に要注意、かな。大神官会議がはじまったら呼ぶ」
ディエラード公爵邸と大聖堂の距離は直線で三里(スカール、約二キロメートル)弱、たいした距離ではない。クラウがその中間にいれば充分に交信はできる。
「俺が呼んだら、ちょっと演出して派手目に登場してくれ。その方が大神官の方々もお喜びになるだろう。この国の高位の神官たちはみな、クラウのことを知っている。どんなことでもいい、俺が本物の風の魔法具を持っていることを彼らに説明してやってくれ」
クラウは風神イヴェダの使者役である。交渉事はもちろん、弁舌にも優れているだろう。イシュルはそのことに細かい指示は出さず、クラウにまかせることにした。
「承知した」
クラウはすこし苦い笑みを浮かべて頷いた。
当日はミラも大聖堂までイシュルに付き添い、ネリーが護衛につくことになった。シャルカとルシアは公爵邸に残り、屋敷の守りを固めることになった。
翌日の昼過ぎ、イシュルは居間にある長椅子に横になり、公爵家の書庫から借りてきた書物を片手に、うつらうつらと気持ち良さげに舟を漕いでいた。
昨夜はあんなことがあって就寝が遅くなった。もちろんそれが主因であるが、他にも彼をうたた寝させる要因があった。
イシュルが手に持つ書物のタイトルは「聖王国外史I」とあった。執筆者、編纂者は不詳で、おそらく昔の学者か誰かの編纂、聖王家や教会が公式にかかわったものではない。だからイシュルは少しは面白い、読めるのではないかと思い手にとったのだが、古い時代のものらしく文体が固く、内容も同様で残念ながら睡魔に打ち克つものとはならなかった。
……ん。
イシュルは屋敷内の何かの気配に、薄く眼(まなこ)を開いた。
今日はめずらしくよく晴れている。聖都エストフォルは大陸の中南部に位置し、夏場は晴天時にはかなり気温が上がる。ただ湿度は低く、陽射しを避ければ比較的過ごしやすい。
かるく観音開きに空けられた東側の窓からは、緑の木々を抜けてきた涼しい風が時折室内に吹き込んでくる。
屋敷内を動く何かの気配はやがて、せわしなく早足で歩くひとの動きになった。
その者が控えの間、次の間と通り抜け、イシュルの部屋に近づいてくる。イシュルは上半身を起こし、書物を側のテーブルに置いた。
「イシュルさま!」
せわしなく動く人物は意外なことに、ミラだった。
「どうしたの」
何があったのか。イシュルは素早い動きで椅子から立ち上がった。ミラの顔は少し上気し、緊張しているように見える。
「それが……申し訳ありません、イシュルさま。わたくし……」
その顔が泣きそうになる。
「ベントゥラ・アレハンドロさまですわ!」
そしてミラはたまらず、叫ぶように言った。
「ベントゥラ・アレハンドロ? ……はあ」
イシュルは力の抜けた、素っ頓狂な声を出した。
なんだ、それ。誰だ? いったいそのひとがどうしたというんだ。
「“聖堂の天つ刃風”ですわ。イシュルさまにご紹介しようとしていた風の大魔導師の」
「あ、ああ」
聖堂の天つ刃風——、確かミラが俺に紹介してくれることになっていた、聖都随一の風の魔法使い、だったか。
だが今はまだ、そのひとに風魔法の教えを乞う状況ではない。ビオナートとの一件が終わってからでいいと思うんだが……。
「それが、ベントゥラ・アレハンドロさまは先日、すでにご逝去されていたのですわ」
ミラは今日、ダナと屋敷で昼食をともにし、ついさきほど、世間話の途中でたまたまそのことを耳にしたのだという。ダナも最近知ったらしいが、聖堂の天つ刃風、ベントゥラ・アレハンドロは聖石神授でミラたちが聖都を留守にしている間に、亡くなっていたらしい。
「ああ、なるほど」
それは確かにとても残念だが……。そのひとはかなりの高齢だったろうから、そういうこともあるだろう。
「でも、それはしょうがないさ。ここは聖都なんだ。他にも名のある風の魔法使いはいるだろうし……」
「でも……」
ミラは何か不満があるらしい。
「イシュルさまにはどうしても、我が王国最高の風の魔導師だった方をご紹介したかったのに……」
「そう思い悩む必要はないさ。今はちょっと、風魔法を学ぶ状況ではないし」
「はい。すいません。イシュルさま……」
ミラがイシュルの傍に近づいてくる。
「ベントゥラ・アレハンドロさまのお住まいには今、ご親戚で風魔法を遣う方が管財人として住んでいるそうです。それほど遠くはありませんし、今日、これからでも言ってみましょう? ね、イシュルさま」
ミラが迫ってくる。
「今、これから?」
まぁ、近いなら、別にいいけど……。
「管財人の方がいらっしゃる、ということは、まだ珍しい、貴重な風の魔道書や魔法具などが残されているかもしれませんわ」
「……!!」
イシュルの双眸が大きく見開かれる。
貴重な風の魔道書!! 風の魔法具の方はともかく、それは確かに今すぐ見たい。とても行きたくなってきた。
「場所はどこ?」
「風神の主神殿の裏手です。アレハンドロさまは晩年、神殿の敷地にある空いた館を借りて住んでいましたの」
「風神の主神殿……」
その時、窓がかたかたと小さな音を立てた。
イシュルの背後の窓から、気持ちのいいそよ風が吹いてくる。
風とともに心のうちを、髪の長い、ゆったりした服を着た少女の影が通り過ぎて行く。
……そんな気がした。
既視感? 誰だ? いや、この風……。どこかで昔……。
イシュルはどこか遠く、記憶の向こうへ視線を彷徨わした。
屋敷の外でまた風が吹いた。
小さな風鳴りがイシュルの耳をくすぐった。
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