雨よ、止むことなかれ 2



 

「シビルに渡せばいいんだな」

 水の魔力と何か関係があるのだろうか。

 アデリアーヌの輝きはしっとりと柔らかい煌めきだ。

「な、なんだ。……そ、そんなに見つめるな」

 見る者を魅了せずにいられない、そんな輝きだ。

「いや」

 イシュルは笑みを浮かべ言った。

「アデール聖堂の名前はきみの名がもとになっているんだな」

 アデリアーヌは微かに頷いた。

 そして彼女はシビル・ベークとかなり親しいのかもしれない。神殿長を名前で呼ぶのだから。

 彼女はシビルと契約しているわけではない。彼女はかつては初代神殿長と、今はアデール聖堂、この神殿のある場所と契約している状況にある。

「ではシビル・ベーク殿によろしく」

 イシュルは空中でかるく腰を落とし頭を下げた。

「承った」

 アデリアーヌは一瞬、表情を引き締めた。

「じゃあな、アデリアーヌ。いい夜を」

 イシュルは少しずつ水の精霊から離れていく。

「早く神殿に戻ったらいい。月の光が消える前に」

 イシュルは頭上を見上げ言った。円形にぽっかり開いた空を再び雨雲が覆いはじめている。

「ま、また会えるだろうか……」

 アデリアーヌは身を乗り出すようにしてイシュルを見た。

「もちろん」

 イシュルは笑顔で答えた。

 しとしとと、雨音が静かに鳴りはじめた。


 イシュルは公爵邸の屋敷の前に降り立った。

 未だ小雨は止まない。その中、屋敷の出入り口、正面玄関前には両脇に篝火が焚かれている。

 篝火の火は雨にその焰を悶えるように歪ませている。中に入るとすぐ、同じ両脇に公爵家の衛兵が立っていた。彼らはイシュルの顔を知っているのか、誰何はもちろん、目を合わせてもこなかった。

 ディエラード公爵邸の本邸玄関、門前にも普段は衛兵が立つことはないだろう。屋敷は王城の以前の外郭部にあり、大聖堂も近い。治安の悪い場所ではない。

 今は国王と対立する第一王子がいる。正義派もいる。ここは反国王派の牙城となったわけだ。王城の外縁部に位置し王宮からも近いのに。

 自室に戻ろうと玄関ホールの階段を上っていくと、二階の廊下の端にルシアが立っていた。

「今晩は。ルシア」

「お帰りなさいませ。イシュルさま」

「ああ、そうか。ただいま。ルシア」

 イシュルはルシアにあらめて挨拶し直し、苦笑を浮かべた。

「ミラお嬢さまがイシュルさまのお部屋でお待ちですわ」

「わかった」 

 ルシアがイシュルの先に立って館の東の廊下を歩き出す。

「あのさ」

 イシュルはルシアの横に並び声をかけた。

「ピルサとピューリのことなんだけど」

 ルシアがイシュルを見てにやーっと笑った。

「うっ」

 ルフィッツオとロメオが暴走した、いろんなことがあった先日の慰労会。あのとき双子が、「イシュルはいいの?」と言ったことがずっと気にかかっていた。

 俺はあそこで戸惑い、自身に降りかかった惨事に思わず逃げてしまった。

 双子は確かに俺に懐いていた。俺のことを信頼だってしてくれていたかもしれない。でも俺は……。

 まさか彼女たちは俺のことを……。

 俺は彼女たちを傷つけてしまったのか。

「ルフィッツオさんとかはまぁいいんだ。男の方は。ピルサとピューリはどうしてる? どんな感じ?」

「大丈夫ですよ。イシュルさま。彼女たちはいつも通りです。ルフィッツオさまとロメオさまには戸惑いつつも、悪い気はしてないようです」

 ルシアの笑顔から嫌味な感じが消えている。

「それはよかった」

「きっと……あの子たちは今まであんな下にも置かない、どこかのお姫さまのような扱いを受けたことがなかったのでしょう」

 ルシアが笑顔を消して言う。

「そうかもな」

「あそこでイシュルさまに声をかけてきたのも、びっくりして、不安だったからですわ」

「う、うん」

 そうなのだ。それを俺は……。

「でもあの子たちはイシュルさまのことも、自分たちのこともちゃんとわかっていたと思います。からかい半分で、イシュルさまを困らせてやろう、とも思っていたかもしれません」

「えっ……」

 なんてことだ。

 イシュルは表情を歪ませた。

 それがほんとだったら、とんだ小悪魔だ。

「女心とは複雑で難しいものです。それに気まぐれで時に移ろいやすい……」

 ルシアは顔を正面に向けて指先をそっと自身の唇に当てた。彼女の眸はどこか遠くを見ている。

 まさに気まぐれ、とはピルサとピューリのためにあるような言葉だ。

 彼女たちの気持ちも移ろいゆく、そうであればいいのだが……。

「でもひたすら一途で一生懸命、頑固な時だってあります」

 ルシアはまたイシュルに顔を向け、にやーっとしてきた。

「ミラお嬢さまのように」


 そのミラはイシュルの部屋の控えの間で待っていた。

 窓際にある長椅子に行儀良く腰掛け、ゆったり優雅な姿でお茶を飲んでいた。めずらしくシャルカも椅子に座っている。

「いかがでした? イシュルさま」

 イシュルをその女心とやらでか、どぎまぎとさせ弄んだルシアが控えの間から下がると、早速ミラが声をかけてきた。

 イシュルはさっきのルシアとのやりとりを思い出したか、にっこりと笑顔を浮かべて言った。

「それよりただいま。ミラ」

「はっ」

 ミラは、はっとした顔になって頬に片手を当てるとお茶をテーブルに置き、立ち上がってイシュルに頭を下げて言った。

「お帰りなさいませ。イシュルさま」

「……」

 一瞬イシュルの笑顔が固まる。

 わざわざ立たなくてもいいのに……。

「アデール聖堂の精霊とはうまく会えたよ」

 イシュルは、テーブルを挟んだミラの向かいの椅子に座りながら言った。

「なかなか強い精霊だったと思う。あれは好都合だ」

 イシュルは口の端を僅かに歪ませた。微かに笑みを浮かべる。

 イシュルは、ただシビル・ベークに水の精霊を通じて手紙を渡しに行っただけではない。アデリアーヌと実際に戦ってみて、彼女の実力、要はアデール聖堂の防御力を確認してきたのだ。

「まぁ、イシュルさまったら。アデール聖堂の精霊と戦われたのですね?」

 ミラは困った方、と続けて苦笑を浮かべた。

「大精霊ほどではないと思うが、あの強さなら確かに魔法使いや影働きが集団で仕掛けても、苦戦はまぬがれないだろうな」

「そうですか」

「つまりシビル・ベークはあの神殿の中にいる限りは安全、影働きの指揮も執りやすい、ということだ」

 せっかく彼女の了解を取り付けても、以後本人の安全をどうするか、シビル自身があまり手駒を持っていないのなら、正義派から彼女を守る者を手配しなければならなくなる。

 紫尖晶の長(おさ)、フレード・オーヘンはシビルには白尖晶とまだ繋がりがある、と言っていたが、白尖晶から腕利きの影働きをどれだけ引っ張ってこれるか、彼女の護衛までまわせるかは微妙なところだ。イシュルはそれを危惧していた。

「ミラ、明日の夜にラベナをこの部屋に呼んでくれ。一応、あまり目立たないように」

「わかりましたわ」

 ミラはいつもの輝くような笑顔で頷いた。

 フレードから届けられたシビルへの紹介状はミラに預けてある。イシュル宛の手紙もミラに見せてある。

 フレードの手紙にはシビル宛の紹介状を用意したことと、ここ数日の王宮と大聖堂の激しいやり取りを気にしてか、明日にでも会いたい、と書かれてあったが、イシュルは逆に十日おきと定めれた彼との面談をもう数日、後にずらしたいとビルドに伝えた。

 ビルドにはそのかわり、フレードの都合のいい日に合わせるとも伝えてある。フレードからおそらく数日中には、次の面談の日取りを伝えてくるだろう。

 フレードには書簡を通じ頼んでいることがある。その効果が現れるにはできればあと数日は日にちが欲しい。

 イシュルもミラに笑みを返した。だがその微笑みには薄らと、暗い影がかかっていた。




 翌日朝にようやく、イシュルはミラに連れられ屋敷の離れに住むミラの両親に挨拶した。

 ミラの両親が住む離れは石造りで、前面に円筒型の石柱が並ぶ小宮殿と言っても過言ではない立派な邸宅だった。控えの間に入ると中にはディエラード家のメイド長が待っていた。

「あら、イシュルさん」

 そしてラベナが控えていた。ラベナはミラに胸に左手を当て腰を落とし挨拶すると、イシュルに声をかけてきた。

 ラベナはミラの両親専属の護衛役を任せられていた。

「これはミラお嬢さま。それにベルシュ殿」

 そしてさらに、どういうわけか騎士団長のダリオがいた。

「公爵家の騎士団長がいいんですか」

 こんなところにいて、というのは口に出さず、イシュルはちょっと意地悪く言ってみた。

 ミラは隣でにこにこ笑っている。

「い、いやそれはちょっと。はは」

 ダリオは右手を頭の後ろにやってごしごしと上下に動かした。

「ほほほ」

 驚くべきか、ラベナやミラに留まらずメイド長まで控え目に笑い声をあげた。

 聖石神授ではルシアはもちろん、ネリーでさえ自身の役目には真剣だった。ゆる過ぎでなければ、身分の上下や規律にうるさくないのはいいことだ。まだ若いミラの兄たちが当主代理を務めているせいだろうか。家内の雰囲気も明るく感じる。

 だが、奥の部屋に入りミラの父親、オルディーノに面会すると雰囲気はがらりと変わった。

 オルディーノは後ろに夫人を立たせ、自身は椅子に座り、もう真夏も近いのに膝掛けを足の上に乗せていた。

 今日の天気は曇り。室内の壁は白塗りだが、家具や装飾品は豪華かつ重厚な物が多く、部屋の中は薄暗く重く感じる。 

「ミラ。今の時期、そなたが忙しいのはわかる。だがもう少しこちらにも顔を出しなさい」

 オルディーノは、ミラが正義派として積極的に動いていることを心配しているようだった。彼はイシュルに対してもあまりよく思っていないようだったが、先日デシオと面会し、総神官長の“お言葉”を賜ったということで、それを露骨に表に出すようなことはしてこなかった。

 そんなオルディーノも、イシュルがミラに頼まれ左手の紅玉石を見せると態度を一変させた。

「おお、神よ」

 夫人はもちろん、オルディーノも老人というほどの歳ではない。おそらく五十前後だろう。だが彼はしわがれた重々しい声を出した。

「そなたは神に選ばれた存在なのだ。ウルクのころでさえ、紅玉石は地神の宝具を顕現させることはなかったと、わたしは聞いている」

 イシュルはオルディーノに無言で一礼すると、左手を彼の前から降ろし後ろに下がった。

「ミラ、そなたはおのれの生を……」

 公爵はそこで黙り込んでしまった。

 イシュルには彼の気持ちが痛いほどわかった。

「……」

 彼にかける言葉が見つからない。

 本来なら、この場でミラの命は絶対に守り通してみせます、などと誓ってみせるのが筋なのだろう。だがそれはそんな気安く言えることではない。絶対確実とは言えないことに、俺は誓約などできない。

 クレンベルの名もない山の頂で彼女に約束したこと、それは彼女を神の魔法具探しに連れていくこと、

自分の見るものを彼女にも等しく見せる、ということだ。自分の命でさえどうなるかわからないのに、彼女の身をどうして守り切ることができるのか。それを誓うなど、かえって無責任なことではないのか。

 イシュルは喉をならし、視線を厳しくした。

 それでも……。

「公爵閣下。ご息女殿の身は誓って、わたくしめがお守りしましょう」

 イシュルは対面するふたりに右手を胸に当て、頭を下げて言った。

 それでもこれは言わなければ、誓わねば。でなければ俺はただの馬鹿だ。

「うむ……。そなたにそう言ってもらえるのなら、わたしとしては何も言うことはない。娘はこれから多くの危難に見舞われよう。だがそのような経験のできる者など千年にひとりとしていまい……」

 オルディーノはそこで言葉を切った。

 彼が飲み込んだその後に続く言葉。それは、「そう思って娘をあきらめるしかない。己の心を慰めるしかない」といったところだろうか。

 ミラは彼女の両親にきちんと話してあったのか、ふたりとも彼女の目指すものが何か、すでに知っているようだった。ただ聖都で国王の陰謀を潰すことだけではない、その後のことを。

 公爵の御前を下がる時、イシュルはちらっと公爵夫人の顔を見た。彼女はミラと視線を合わせ、終始浮かべていた微笑みをより深くしていた。彼女はイシュルの視線に気づくとその笑みのまま、イシュルに小さく頭を下げてきた。

「イシュルさま。さきほどは素敵でしたわ」

 公爵夫妻の住む離れから外に出ると、ミラが話しかけてきた。目の前には中庭の濃い緑が広がっている。

 曇り空なのに、木々の枝葉が青く燃えるように浮き立って見える。

 彼女に顔を向けるときらきらと、屈託のない満面の笑顔だった。

 素敵、とは俺がミラの父、公爵に誓ったことだろう。

「……」

 ミラの眸が俺を映し、ほんの僅かに細められる。そこに微かに混ざる悪戯な色。

 ねらい通りか、ミラ。

 公爵夫妻はミラの願いを知っていた。ミラは父親が俺に何を求めてくるか、わかっていたのだろう。その上で俺を彼らの許へ挨拶に連れて行った。

 どうやら俺は公爵にではなく、ミラに言わされたらしい。

 彼女を守り抜くという、誓いの言葉を。

 イシュルも笑顔になった。苦い笑いになった。


 午後になってデシオが三名の神官を連れ、公爵家を訪れた。

 イシュルはミラに呼ばれ、いつもの小薔薇の間でデシオと面会した。

 デシオが連れて来た神官たちは、大聖堂との連絡役として公爵家に滞在する者たちだった。彼らはイシュルとミラに挨拶すると、ディエラード家の執事とともに慌ただしく小薔薇の間から出ていった。

 今はサロモンの執務室と化した、屋敷の東側にある晩餐室の奥に並ぶ控え部屋の一室が、彼らの事務室として使われるということだった。

「イシュル殿。お待たせしたが、やっとウルトゥーロさまとの謁見の日取りが決まった」

 小薔薇の間には今日も聖都の貴族らがちらほらと歓談している。

「その日はちょっと間があいて、七日後になる」

 もちろんそれはあくまで表向き、何らかの謀議が囁かれているのかもしれないが、デシオはそのとても重要なことを声を潜めることもせず、むしろいつもより大きな声で言った。

「それで、その日は一日空けてもらえないだろうか」

「いいですよ。問題ありません」

 むしろ先に伸びる方が都合がいい。その間にシビル・ベークが力を貸してくれるか、はっきりするだろう。

 その結果を当日総神官長やデシオらに報告し、今後のことも話し合える。

「その日の午後に国王派の大神官らが連名で、ウルトゥーロさまに質問状を提出することが決まった。その会合にはきみも出席してもらう」

 めずらしくデシオが歪んだ、悪い笑みを浮かべた。

 イシュルは背後の、周囲の空気が少し変わったような気がした。

 イシュルたちは小薔薇の間の廊下側、出入り口に近いテーブルに座っている。この部屋にいる者たちは皆、こちらへ耳をそばだてている。

「おほほほ。それは素晴らしいですわ」

 ミラが口許に手を当てて笑った。

「質問状をお持ちになった大神官のみなさまは、イシュルさまの左手を目の当たりにして、どうされるのかしら?」

 質問状の主な内容はダナの話によれば確か、俺が本物の風の魔法具を持っているのか、俺の左手の紅玉石は本物か、ほんとうに左手と一体化しているのか、それを問う内容だった筈だ。

 デシオもミラも、わざと周りにも聞こえるよう、意識して話していた。

 これは王宮にも街の貴族たちにも広まるだろう。彼らの質問状はウルトゥーロに提出する以前に、もう何の意味もない代物になってしまったのだ、皆そう決めつけ噂するかもしれない。

 イシュルは顔を俯かせ、またも苦い笑いを浮かべた。


 デシオの乗る馬車が公爵邸の正門を出て行くと、それと入れ替わるようにして、少し傷んだ小さな馬車が入ってきた。

 焦げ茶色の馬車は二頭立てだが、屋敷の正面に乗りつける他の貴族や富商の馬車と比べると、いささか貧相に見える。おそらくあの馬車は市中で借りたものだろう。

 公爵家に出入りする商人や家人は、通常は北側にあるアニエーレ川を小舟で渡り、河岸にある公爵邸の裏門からか、正門から入る場合でも、中に入るとすぐに左に曲がり本邸の西側奥の小城塞と使用人の宿舎の間にある、搬入物などの置かれる小広場へと向かう。そこは馬車どまりとしても使われている。

 その馬車は門を入るとすぐに衛兵の誰何を受け、左の方へは曲がらず屋敷の正面を進んできた。

「……」

 ミラとともに、デシオを見送りに屋敷の前に出ていたイシュルは、ふと足をとめ、中に戻らずその馬車が近づいてくるのをじっと見つめた。

 屋敷の玄関までイシュルの先を歩いていたミラも足を止め、不審な表情をそのみすぼらしい馬車に向けている。

 馬車がイシュルたちの前に止まり、これもらしくない、街中の庶民のような服装の馭者が馬車から降りて扉を開けると、中から女の神官がひとり、降りて来た。

 妙齢の女神官はイシュルとミラの姿を認めると、かるく会釈し声をかけてきた。

「もしやあなたさまはイシュル・ベルシュさまでしょうか。そちらの方は……」

「ミラ・ディエラードですわ。神官さま」

「まぁ、あなたさまが。それはちょうどよろしゅうございました。わたくしはアデール神殿の神官でカトカ、と申します。シビル・ベークの使いで参りました」

 カトカと名乗った女神官はにっこり笑みを浮かべ、首を僅かにかしげた。

「どうも。確かに俺がイシュル・ベルシュです」

 イシュルはそう言うとにやりとした。

 そちらから来たか。しかもこんな真っ昼間から屋敷の正面に堂々と。

 さすがにわかってるじゃないか、シビル・ベーク。市中の借り馬車、というのは少々いただけないが……。

 いや、それはそれで一応は目立っている、と言えないこともない。

「まぁ。それでは中へどうぞ」

 ミラが彼女から少し離れ玄関横に控えていたメイドに目配せする。

「いえいえ。用件はすぐすみますので、こちらでよろしゅうございます。お気遣いありがとうございます、ご息女さま」

 女神官はそこでイシュルの方へ顔を向け、

「神殿長はいつお越しいただいても良いと仰せです。当人曰く、毎日暇してるから、だそうで」

 と言い、口許に手を当てふふ、と小さな声で笑った。

「そうですか」

 イシュルの笑顔が大きくなる。

 アデール聖堂の神殿長さまはだいぶくだけたお方のようだ。それに……。

「……では、四日後の夜、日没二刻(午後十時頃)に伺います。神殿長にはそのようにお伝えを」

 相手が暇、というのなら別に明日でもいいのだが、少し日にちをあけたい。

 そして一応は秘密の面会なので、夜遅い時間を指定する。それは当然シビルも承知していることだ。

 カトカは一瞬、思わせぶりな視線を向けてきた。

 彼女の顔に薄らと笑みが広がった。

 アデール聖堂の女神官はそれだけ、イシュルと彼らの訪問の日取りを決めるとすぐに、公爵邸を去って行った。

 その日の夜になってミラがラベナを連れてイシュルの部屋を訪れた。

 他にシャルカとミラ付きの護衛兼メイドのルシア、イシュルと計五名が控えの間に集った。

 イシュルはラベナに、正義派の工作指揮をアデール聖堂の神殿長に要請することになったと説明し、使者役を務めて欲しいとお願いした。

「紫尖晶の長(おさ)の紹介でね。アデール聖堂の神殿長、シビル・ベーク宛の紹介状も用意した」

「わかりましたわ。イシュルさん」

 ラベナはシビルが白尖晶の出身で、それもかなりのやり手だったと聞かされ、本人は知らなかったか最初は戸惑った表情を見せたが、イシュルの要請に否とは答えなかった。

「それで、シビル・ベーク殿には俺も直接会って話をしたいんだが、行き先の場所が場所だからね。彼女には神殿の門前に出てきてもらうか、やはり近くでどこか、面談する場所を設けた方がいいだろうか」

 聖都では季節がら雨の降る日が多くなっている。わざわざ神殿長に門前まで出てきてもらう上に、当日雨にでもなれば申し訳ないし、非礼に過ぎるだろう。

「それは大丈夫。アデールの正門横には衛兵の詰め所を兼ねた石造りの建物があって、その建物には男性も入ることができます。神殿と取り引きのある商人や、他の神殿の男の神官方との面会も、そこで行われるの」

「そうか。それはよかった」

 まぁ、そうだよな。アデール聖堂と取り引きのある者だけじゃない、中にいる女たちの縁者とかも面会に訪れたりするだろう。神殿の正門側にそういう建物があるのも考えてみれば当然のことだ。

「……」

 ちらっと隣に座っているミラの顔を見ると、彼女は少し唇を尖らしてつまらなそうにしている。

 まだあきらめてないのか。俺の女装のこと。

「なんでございましょう。イシュルさま」

 ミラの視線が少し恐い。

「いや。別に」

 そんなことよりも、……だ。

「ミラ。申しわけないが、少しばかりまとまった金が必要になるかもしれない。俺も聖金貨十枚くらいならすぐに出せるが……」

 イシュルは真面目な顔になってミラに言った。

「アデール聖堂に寄進、してもらうかもしれない」

「え、ええ。それはかまいませんが……」

 今や公爵邸に滞在する者たちはサロモンをはじめ、彼の側近である聖都在住の貴族が数名、その従者たち、それに今日やってきた大聖堂の神官など、イシュルも含め相当な人数になっている。公爵家は聖堂第三騎士団の包囲以降、邸内の糧食備蓄を増やしており、出費がかなりかさんでいる筈だ。

 だが、正義派の勝利はともかくサロモンが次期国王になれば、ディエラード家がその後得る見返りは、そんな出費などどうでもよい程のものになるのは確かだろう。

「今日やってきたシビル・ベークからの使者、彼女が乗って来た馬車を見たろ? あれは市中の借り馬車で、しかもかなり安く借りられるものだ」

 あれは一種のサインと見るべきだろう。女性のための駆け込み寺、女神官になるための教育施設でもあるアデール聖堂は、貴族や住民からの寄進も少なく、経済的にかなり苦しいのではないか。

 シビル・ベークは聖堂に経済的な援助をしてもらえるのなら、こちらの依頼を引き受ける、と言っているのではないか。それは穿った見方に過ぎるだろうか。

「アデール聖堂はかなり貧乏なんじゃないかな。それをわざと見せてきたんだ。シビルは資金援助してくれればこちらの依頼を受ける、と示唆してきたのかもしれない」

「……そうですわね」

 ミラも昼間の光景を思い出しているのか、視線を遠くにやっている。

「わたしがいたころもあまり豊かではなかったわ。他の神殿がどうだかわからないけど」

 と、ラベナ。

「デシオ殿にもお願いしてみよう。さすがに大聖堂は金、持っているだろう」

「……」

 ミラはそこで少し困った顔になってイシュルに微笑んだ。

「単純にお金で請け負います、わたくしたちの事情には忖度しません、ということかもしれませんが」

 確かにそれはある。

 昼間の使者は「神殿長は毎日暇してる」と言ったのだ。そのあけすけな物言いからはシビル・ベークの名誉や地位に興味のない、物事にあまり拘らない性格が窺える。

「ラベナ、神殿長はどんな感じのひと?」

「神殿長はおっとりのんびりした、陽気な方でしたわ」

 イシュルが向かいに座るラベナに質問を向けると、ラベナはそう言って少し間をおき、言葉をつけたした。

「もちろんそれだけではないと思うけど」

「ふむ……」

 金で請け負うわよ。……それは単純でわかりやすい、話もこじれなくて結構だが、一方ではより高額の金を積んだ方に裏切る可能性も、買収される可能性も高い、ということである。

「まぁ、後は本人に会ってみてからか」

「そうですわね」

 イシュルはミラに頷き返し、ラベナに顔を向けると笑顔をつくって言った。

「当日は俺もミラも行く。もし万が一、どんな強敵に襲われても、きみの身はしっかり守るから安心してくれ」

 ラベナも風の魔法を遣うし、本来なら心配するほどのことはないのだが……。

「強敵……?」

 ラベナが小さな声で疑問を呈した。

 そういうやつらが出張ってきてくれると、うれしんだがな。

 イシュルは笑顔を歪ませ、ほんの少しだけ、首を縦に振った。




 翌日は雨になった。

 公爵邸の中庭の東側、木立の間を抜けると一面下草に覆われた、広い空き地のような場所が現れる。

 視界の奥はそのまま馬場へと続き、さらに土が多く露出した練兵場になっている。南側は木々に覆われ、北には厩、その奥にはこじんまりとした木造、白い壁の兵舎が立っている。

 練兵場の先にはまた木々が繁り、屋敷の東を囲う鉄柵へと至る。

 それらを眺望におさめ、中庭の東の端、木立の下になかば隠れるようにして小さな東屋がある。屋根はドーム型、真っ白な円筒状の瀟洒な佇まいだが、なぜこの場所に建てられたのか、理由は定かでない。昔は下草に覆われた馬場の辺りに庭園か、池でもあったのかもしれない。

 雨に霞む中、イシュルはひとりその東屋に腰を降ろし、黙然と周囲に視線を彷徨わせていた。

 無数の雨が空間を走る感覚。風を消し、あるいは風に揺れる雨脚。

 アデリアーヌとの一戦で触発されたものがある。

 彼女との魔力のぶつけ合いには、周囲の雨の様子に気を配る必要があった。彼女の水の魔力が雨に力を及ぼせば厄介なことになる。というよりは、彼女の気を惹くあの演出ができなくなる怖れがあった。

 シビル・ベークの協力を得るのなら、あの神殿を守るアデリアーヌとも良い関係をつくっておくにこしたことはない。

 無数に落ちる雨に風の感覚をそわしていくことは、イシュルにとって決して悪いものではなかった。

 雨脚が刻んでいく空間。そして雨が地面に落ち消えていく空間。

 雨は見ない。宙を見る。

 イシュルは足を伸ばしその爪先をぼんやりと見つめた。

 そして目を瞑る。

 空を落ちる雨の行方をひとつひとつ追って、その間を漂っていく。

 雨に当たって枝葉が揺れる。地面に落ちて玉となってはねる。その変化に揺れさざめく空気で満たされた空間。

 どこか、雨音を鳴らす風の吹きだまりがある。

 そこへ感覚を伸ばしていくと小さな光の揺らめきに触れた。

「剣殿」

 小さな光の揺らめきは風の精霊、クラウになった。

 その瞬間、遠くに感じた微かな風の吹きだまりと己の距離が喪失する。

「あまりに美しく繊細な調べだ、剣殿。あなたの存在は我々風の精霊にとっては至上の愉悦だ」

「どうしたんだ? 今日は」

 イシュルは東屋の中、正面斜め上の空間に姿を現したクラウを仰ぎ見た。

「何かを試されていたのかな」

「ああ」

「……風の吹くところ、すべては御身の思いのままに」

 クラウはまるでイヴェダにするようにして腰を折った。

「ああ」

 わかってるさ。そんなこと。

 イシュルは小さく頷いた。

 雨に揺らぐ繊細な空気の、空間の変化。雨が降っていれば風の魔力のアクティブな探知を、こちらから無理に行う必要はないのだ。

 イシュルは視線を外の馬場の方へ向けた。

 東屋の屋根に切り取られた画面に遠く、雨霧に霞む王城の塔が見えた。

 やつらは動くだろうか。

 イシュルは眸を細くして、遠い霧のうねりを見つめた。


「それで、剣殿」

 クラウは音こそ出さなかったが握りこぶしを口に当ててゴホン、とやるポーズをとった。

「以前に申していたことだが」

「どれくらい人の世に留まって俺を助けてくれるか、という話か?」

「そうだ」

「それで? どれくらいの間、助けてもらえるのかな」

「剣殿の望む限り」

 クラウはそう言って笑みを浮かべ頷いた。

「そうか。それは助かる。ありがとう」

 だが……。それでクラウは大丈夫なんだろうか。

 それに何というか、都合が良過ぎる。

「でも大丈夫なのか? あちらの方のお務めは?」

「うむ。それは大丈夫だ」

 クラウは今度は大きく頷いた。

「なんか、なんでもありだな」

「……それで間違ってない。剣殿にもとから都合がいいようになっているのだ」

 ぼそっとひとり言のように呟いたイシュルに、クラウが突然、意外なことを言ってきた。

「へっ? それは」

 イシュルは呆然とクラウを見やる。

「剣殿は赤帝龍と戦う時、どんな精霊を召喚したかな? その次に召喚した精霊は? その次は?」

「そ、それは……」

 待てよ。どういうことだ?

「俺が赤帝龍と戦う時召喚した精霊は……カル、カルリル……」

「カルリルトス・アルルツァリかね?」

「……そうだ」

 うんうんと頷くクラウ。イシュルはクラウから視線をはずすことができない。

「彼の者の剛力は風の精霊の中でもまた格別。次に呼んだのは誰かね?」

「次はナヤルだが……」

「ふ、む。次は?」

 何だ? クラウの言葉が、言葉が少し間があいた。しかも飛ばした?

「次はヨーランシェだ」

「ヨーランシェ・イングヴァルェか。彼は弓の名手だ」

「……」

 そうか。それはもしや……。

 イシュルは、目を見開き驚きを隠さなかった。 

 今ならわかる。カルは赤帝龍と戦ったとき、火神の炎環結界を完璧に叩き潰したのだ。それで彼は魔力を使い果たしてしまったが。

 それはつまり、俺が全力で張った風の結界を叩き潰すのと同じようなものではないか。

 俺は彼を召喚するとき、できるだけ強い精霊を、と思った筈だ。

 ヨーランはどうだったろうか。

 彼が弓の名手なら、もしリフィアと戦うとなった場合、有力な間接支援を行える精霊だと言える。

 俺は彼女と二対一で戦うなどとは考え、思ってはいなかったが……。彼女の強さを意識していたのは確かだ。

 ヨーランは結局、彼の得意の弓を使うことはなかったが、辺境伯の執務室の仕掛けを感じとり、大規模な眠りの魔法をしっかり発動した……。

 ナヤルにしても、彼女はくせの強い精霊だったが見事な切れ味の魔法を使い、自動召喚の魔法陣を描き、最後に太陽神の座について重要な話をしてくれた。

 よく考えれば、俺はその場その場で、最も適した精霊を召喚してきたのだ、と考えられなくもない。

「それが剣殿の持つ力なのだ。イヴェダさまの剣であればそのようなことが出来て当然だ」

 そうなのだ。そして今はクラウがいる。

 人間たちの事にも目を配れる、頭脳派の精霊が。

「なるほど……」

 今になってやっとわかった。

 それならこれから精霊を召喚する時は、どんな能力に秀でた精霊を呼ぶか、より明確に考え念じればいいわけだ。

「いや、今まで意識してなかったよ。教えてくれてありがとう、クラウ」

 イシュルはそこでやっと驚いた表情をおさめ、僅かに唇を歪め言った。

「あんたなら教えてくれるかな? なぜ俺は特定の精霊と契約できないのか」

 ここまで教えてくれたのだ。ひょっとすると……。

「……」

 だがクラウはやはり、そこで難しい顔になり黙り込んでしまった。

「そのことはわたしでも口にすることはできない」

 クラウはイシュルから視線をはずし、どこか遠くの方を見つめた。

「だがいずれ近いうちに、剣殿も知る時が来よう」

 近いうちに?

 イシュルはクラウの視線を追った。

 その先には、雨に滴る木々の濃い緑があるばかりだった。 




「ではまいりましょうか。イシュルさま」

 ミラが妖しく微笑んで言った。

 彼女がいつもよりさらに妖艶に見えるのはわけがある。

 今夜のミラは膝下までの赤いドレスに、裏地が真っ赤な黒いマントを羽織い、右手にあの夜、ウーメオの舌でシャルカの体内から出したハルバートを持っている。

 ミラの持つハルバートは柄の部分も金属でできた銀色のやや小ぶりなものだ。

「う、うん」

「はい」

 イシュルはミラの美しさに戸惑いながらぎこちなく、ラベナはいつものおっとりした柔らかい声で返事をした。

 イシュルにミラ、ラベナは今公爵邸の一階中央の玄関ホールにいる。時刻は日没後一刻半。今日はアデール聖堂の神殿長、シビル・ベークに会いに行く日だ。

 シビルの差し遣わした使者に面会の日時を伝えてから四日目、その間は表向き、聖都の政情に大きな変化はなかった。おそらくデシオが伝えてきた、ウルトォーロに拝謁する日、国王派の大神官らが質問状を提出する日まではこの小康状態が続くと思われた。

 イシュルはミラとラベナと屋敷の玄関前に集まってから、ここ数日の間、ビルドからシビル宛の紹介状を入手して以降、秘密にしていたことをふたりに話した。

「実はここ数日中に俺たちがシビル・ベークと接触することを、王宮や街の貴族たち、各尖晶聖堂にわざと漏らし、広まるように紫尖晶の長(おさ)にお願いしたんだ。このことはシビル・ベークにも話してある。まだ五日ほどしか経っていないし、露骨にやるわけにもいかないからそれほど広まっていないだろうが、監視をつけるなど動くところは少なからずあるだろう。特にシビル・ベークの前歴を知っている者たちは、かならず何事か妨害してくるんじゃないだろうか」

 イシュルはミラとラベナの顔を見まわし話を続けた。

「たぶん彼らはアデール聖堂の周辺に監視をつけたり、少数だろうが実力部隊を配置しているかもしれない。自ら仕掛けた罠に飛び込むことになるが、まさに虎穴に入らずんば何とやら、だ。ミラもラベナも俺が全力で守るから、よろしくたのむ」

「こけつ……ですか? 昔のことわざ、でしょうか」

 ミラが不審な表情で言ってくる。

「この前、強敵に襲われても、と言っていたのはこのことだったのね」

 と言ったのはラベナ。

「罠を張ったのでございますね? わたしたちとアデールの神殿長を囮にして。だから神殿長の使者殿が屋敷の正門から堂々と訪問され、そのまま屋外でお話をされた……」

「そうだ。すまない。やれる時にしっかり、敵勢力は削っておきたいからな」

 シビル・ベークの前歴を知っている者、であるなら紫の長(おさ)、フレードのような地位の者や長い経験を持つ者、ということになる。彼ら自身や配下の者を誘蛾灯に群がる羽虫のように集め、一網打尽にする。

 イシュルは暗闇に浮かぶ正門側の篝火に目をやった。

 篝火の火が激しく揺らめきのたうつ。

 外は小雨が降っているのだ。

 どうか、事が終わるまで止まないでくれよ。

 イシュルはゆらめく炎に、雨脚の無数の細かい斜線が影となって浮き上がるさまを見つめた。


 ミラはイシュルからその話を聞くとシャルカを屋敷に残していくことにした。

 イシュルがアデール聖堂のシビル・ベークと接触する、ということが知られたなら、それはつまりイシュルがその間公爵邸にいないことも、敵方に知られるということだ。

 屋敷の防護は公爵家やサロモン付きの魔導師もいるし、クラウだけで充分とも思われたが、イシュルはそれを了承した。

 小雨の降るなか、イシュルたちが外に出ると、門前でたむろする衛兵たちの中から男がひとり、駆け出してきた。

「今晩は、お三方。ところでみなさんはこれからアデール聖堂に行かれるのですな」

 男は公爵家騎士団長のダリオだった。

 イシュルは薄暗い中、ひとしれず笑みをこぼした。彼にもしっかり今日のことが伝わっている。

「ぜひ、ぜひ!」

 ダリオは、ミラが「そうよ」と答えると、全身に緊張を漲らせて言い募った。

「それがしも御一行に加えていただきたい。皆さま方をしっかり護衛させていただく。どうか」

 それがし、とはこれはまた……。

 まぁ、彼も剣士としての腕は確かだろうし、ネリーやルシアのように、疾き風などの武神の魔法具も所持しているのだろう。だが……。

「でも公爵家騎士団長が、持ち場を離れるってのはどうなんですか?」

 ダリオの持ち場は明らかに、当主のオルディーノやルフィッツオらがいる、ここ公爵邸である。

「いいんですかね。それ」

 イシュルはそれと知ってわざと意地悪く言う。

 あんたは任務を差し置いてもラベナを守りたいわけだ。

 ……ああ、恋する男の愛らしさよ。

 じゃなくて、公私混同はよくないよ。

「ベルシュ殿! そこを何とか。ミラお嬢さま、お願いです」

「仕方がありませんわね。いいですわ」

「まぁ、いいんじゃないですか」

「はは、良かった……」 

 イシュルは後ろにいるラベナに振り向いた。

「ラベナは?」

 ラベナは薄やみの中、微笑を浮かべて無言で頷いた。

「おおっ、ラベナさん!」

 ダリオが感激している。

「ではまいりましょうか。イシュルさま」

 ミラがにっこり微笑み言った。


 一行は公爵邸を後にすると、広場の西側、運河沿いにかかっている跳ね橋を渡り市街に入った。

「あれは?」

 橋を渡る途中、イシュルは跳ね橋の橋塔の下、河岸に見える水門のような施設を指差しミラに尋ねた。

「あれは街中の地下を流れる下水道ですわ」

 ミラの話によると、運河沿いには同じような下水道が数本通り、エストフォル南西の低地を経由してディレーブ川の下流に接続しているという。

「なるほど。それで運河の水位を調節しているのか」

 ふたつの河川を繋ぐ運河の水位をどうしているのか、気になっていたのだ。

 聖都の北を流れるアニエーレ川、南を流れるディレーブ川、両方の川の水量が同じである筈もなく、運河の水位の調整はどうしても必要な筈だ。

「この跳ね橋も、もうこの時間だと跳ね上げられて通行できなくなるのですが、今夜は下役の者に心付けをしておいたので大丈夫ですわ」

 イシュルたちは市街地に入ると彼を先頭に次にミラ、ラベナ、最後にダリオの順に進んだ。吊り橋から続く道は、大聖堂とバレーヌ広場を結ぶ大通りのひとつ北側を西に伸びる通りで、馬車が数台横に並んで通れるほどの広い道である。

 人通りは雨で時刻も夜遅くということで、聖都の中心街だがそれほどでもない。周囲は三〜四階建ての石造りの大きな建物が並び、豪商の住まい、本店が多数を占めているようである。ちらちらと頭上に飛び出ている鉄製の飾り看板のマークには、船の絵柄のものが多く、河川運送を生業とする者が多いかもしれない。

 横に交差する道には妙に明るい通りがあり、おそらくそれは歓楽街に続いている。

 歓楽街の近くを通ると歩行者も酔客が多くなってくる。彼らはきまって通り過ぎるイシュルたちに視線をちらちらと向けてくる。

 イシュルたちはみなマントを羽織りフードを降ろしているが、ミラのマントから顔を出すハルバート、同じくラベナの魔法の杖が彼らの目を引きつけているらしい。

 イシュルはアデール聖堂のある街の西の方へとゆっくりと歩きながら、雨脚を辿って周囲の気配を探り、時に彷徨わせて遊んだ。

 無数の水の落下が大気を穿ち、穴を開けては消えていく。地面に落ちた雨は小さく大きく跳ね飛び、何か音のない音楽を奏でているような不思議な節をつくる。

 イシュルはそのひとつひとつを感じようとしながらも、自身はそこから距離をおき、少し離れたところから眺めるような心持ちでいる。そのあまりに複雑で繊細な変化の連続に全身を没入してしまえば、おそらくたいした時間もかからずに心を壊され、発狂するのではないか。

 深く知ろう、見ようとはせずに、この気象が空間に刻む変化の大海を漂うように、自らの感覚を流し遊ばせる。その方が実はより深く、細かく、広く「知る」ことができるだろう。

「来たぞ」 

 イシュルは後ろに声をかけた。

 街の西側、静かな住宅街に入り道が細くなると、早速怪しい気配が雨の中に姿を現した。

 道の先、正面に黒い人影が立つ。左右の脇道からひとりずつこちらへ迫ってくる。

 と、ミラがいきなりイシュルの横に並んで言った。

「正面はわたくしが。ダリオは右を」

「左は俺がやる。ラベナはまだ魔法は発動するな」

 正面の敵がこちらに向かって走り出す。敵は両手に短い刺突武器を持っている。それが魔力を放っている。いつぞやの黒尖晶が持っていたエストックか。

 左右から襲ってくる敵はもう加速の魔法を発動している。イシュルは目の前を横切る雨の一点を見つめた。そのひとつに焦点があった瞬間、早見の魔法が発動する。

 左右の敵は剣士か。すでに抜刀している。ダリオが素早く腰の大剣を抜く。彼ももう加速の魔法を発動している。

 正面の黒い影はふたつのエストックの刃先をすっと、音もなく伸ばしてきた。ミラがハルバートを構え迎撃する。彼女のハルバートはぱくりと三又に分かれ、うち二本がエストックを迎撃、中央の小さな斧がついた穂先が、より遠く伸ばされ黒い影を貫いた。

 イシュルは早見を切り、ただ左手を敵方に伸ばした。

 使う魔力は最小。相手の心臓の前面に風の魔力を固めぶつける。

 心臓を後方へ吹っ飛ばされた敵は路面にもんどりうって倒れ込んだ。地面の水溜まりが跳ね飛び、パッシャっと音を立てる。

 右手のダリオはどうか。ダリオは半歩ほど右側に出、相手をその場で迎撃、敵の渾身の突きを余裕でかわし、電光が走るように大剣を振り下ろした。

 どっと衝撃波が来るような重い斬撃だった。

 黒い短いマントに顔を覆うフード。敵は血を吹き上げながらただの肉塊となり、鈍く重い水音を立てて路面に沈んだ。

「……」

 ダリオは剣を正眼に構え辺りに鋭い視線を向けている。

 さすが公爵家の騎士団長を務めるだけのことはある。彼も相当な遣い手だ。

「行こうか。大丈夫だ、敵はいない」

 イシュルは夜空を見上げ雨脚をうかがうと静かに言った。


「イシュルさまの思惑通りにいきそうですわね」

 ミラが横に並び声をかけてくる。

「そうかもな」

 問題はアデールに近づいてから、だ。まだ少し距離はある。今夜は空からはいかない。人数が四人になったのもあるが、いつも空からでは地上での戦闘に勘が鈍る。それにちょっと試したいこともある。建物の屋根や地面に雨が落ちる、その側にいたい。

「ミラのそのハルバートは? シャルカが憑依している鎧の魔法具とは違うもの?」

 イシュルは気になっていたことを聞いてみた。

「これはその鎧とひと組なのです。“鉄神の鎧”はそれが持つハルバートも含んで名づけられたものです。わたくしはひと回り小さくして使っておりますが、これは同じ魔法具の一部で、シャルカの一部、と考えることもできます」

「なるほど……」

 ときどき村の取り次ぎや領主の館に飾ってある甲冑にも、剣を差し槍を持っているものがある。そういう感じか。

「なかなか便利なものだな」

 そういう得物があったからシャルカを屋敷においてこれた、というのもあるかもしれない。

「……、……」

 しばらく皆無言で静かな街並を歩いて行くと、表の家々の裏の方から、誰か女の歌う声が小さく聞こえてきた。

 その歌声は微かな雨音に途切れ途切れで、何かの幻のように儚い。


 雨よ、止まないで

 ならばわたしは歌おう

 きみのために

 雨よ、止まないで

 止んでしまえば

 わたしは……


「旅立つ……、か」

 イシュルは遠く聞こえる歌声を拾ってひとり呟いた。

 

 わたしは旅立つ 

 雨が止めば

 ……そは今生の別れとならん


「どこかのお妾さんが歌っているんだろう。雨が止めば良人が帰ってしまうかもしれないからな」

 ダリオが誰にともなく言った。

「確かもとは、旅の吟遊詩人が雨やどりする話でしたわね」

 都会育ち? のミラも知っていた。

 その話は大陸では誰でも知っているような話だ。

 田舎を旅する吟遊詩人が途中雨に降られ、森の中、村はずれの一軒家で雨宿りする。そこには年若い美しい娘がいて……。

 あるいはその家には老婆と少女が住んでいて、暖かいスープを出してもらった吟遊詩人が、歌にしてふたりにお礼をした、という話だ。

 歌い手は愛するひとに帰って欲しくないのだ。

 それとももう彼は帰ってしまい、雨が降っているのになぜ、と悲しみ歌っているのか。

「ふふ、なかなか風情があるじゃないか」

 イシュルは自嘲を込めて言った。

 もうアデール聖堂は近いのに。


「次の十字路を左に曲がるとすぐ右側にアデール聖堂が見えます」

 ラベナがミラに言った。

 雨脚が弱くなっている。灯りも少ない道の先は薄暗く沈んでいる。

 イシュルは皆に言った。

「軒下に入ってちょっと休もうか?」

 街路のすぐ左側に商家の倉庫らしき建物があり、二階部分が前に張り出している。その下には端の方に木樽が幾つか並んでいる。

 イシュルたちは雨を避け、その軒下に入った。

「あいつ、アナベル・バルロードは出張ってくるかな?」

 イシュルは前を、ぼんやりと視線を彷徨わせながらミラに聞いた。

「街中で火と土の魔法を使うのは一応御法度、ですわ。あの女ならわかりませんが」

 無言でイシュルは頷いた。

 それで充分だ。それにアデール聖堂にはあの水の精霊がいる。彼女が本気になれば、どのみちアナベルでは太刀打ちできない。

「みんな、少しの間、静かにしてくれ」

 イシュルは雨の中、道の真ん中の方に出てきた。

 目を瞑り雨が穿つ空間を辿っていく。広く、少しずつ。

 一、ニ、五、六、八……。

 雨中に潜む怪しい存在を数えていく。

 ある者は廃屋の軒下に潜み、ある者はどこかの家の土壁の影に潜む……。

 みな隠れ身も使わず、息を殺し気配を消している。もう、魔法を使えばすぐにイシュルに気づかれてしまうのがわかっているのだ。

 家屋の中に潜む者までは届かない。だがそれはいい。まとまった数を葬ればそれで効果はある。

 プロのやつらが身を隠すさまは独特だ。雨に、雫に、揺らぐ空気に彼らの気配が伝わってくる……。

 彼らから殺意はうかがえない。やつらは、正義派とシビル・ベークが接触した事実を確認できればいいのだ。

 こちらはなるべく多く殺せばいい。

 近づくな。見るな。さわるな。……邪魔するな。それが伝わればいいのだ。

 イシュルは右手を前に突き出した。

 雨が掌に当たる。

 雨よ、止むことなかれ。

 だが俺には美しい村娘も、やさしい村人もいない。ただやつらがいるだけだ。

 俺は……ただ殺すためだけに祈ってる。

 雨よ、止むな、と。

 イシュルは掌を握りしめた。

 瞬間、街中に幾つもの水煙が立ち上った。

 どこからか、シャーッと水の鳴る音が聞こえてくる。

 風の魔力が雨を巻き込み、おそらくは人間の肉体を細かな塵芥に変えた。

 それはまたたく間に渦を巻く雨水に飲み込まれた。

 街の家々の間から立ち上った水煙はやがて白い霧となり、雨の夜空を淡く霞んで覆った。

 イシュルは空を仰いだ。

 雨が頬を打つ。

 ……ふふ。

 霧と化した者たちとは、雨が止む前に今生の別れとなった。

 あの歌い手もきっと、もう独りだったんだ。

 ……そうに違いない。

 イシュルは静かに、冷たく笑った。

 

 

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