雨よ、止むことなかれ 1



 

 聖堂教会の頂点に立つ男が目前に迫ってくる。

「イシュルさま」

 ミラが下から袖を引っ張ってくる。

 イシュルは一瞬、からだが硬直して棒立ちになった。

 まさか総神官長本人が来るとは。

「猊下。此度のご来臨、まことに恐懼に堪えません。当家においては……」

 ルフィッツオがウルトゥーロの前に出て跪き、何事か話している。

「イシュルさま」

「ああ……」

 イシュルは呆然としたまま、腰を落とし跪いた。

 目の前に映る石畳の岩肌。

 あるところはすり減り、あるところはひび割れた、細かく荒い色相が視界を埋め尽くす。

 ウルトゥーロは決断したのだ。いや、正義派はサロモンと同心すると、運命をともにすると決定したのだ。

 ふたつに割れる、といったのはリバルだったか。

 そんなことは誰でもすぐに思いつくことだ。だが総神官長本人が今、この場に訪れると誰が予測できたろうか。

 イシュルは喉を鳴らした。

 ウルトゥーロは攻勢に出たのか。それとも鉄壁の防御を敷くことにしたのか。

 サロモンという重要な駒を得て。

 だがサロモンはその分、危険な存在でもある。いや、だからか。危険な存在だから、素早く先手を打ったのだ。彼を頑強な鎖で縛りつけて、裏切ることができないように……。

「そなたかな? ベルシュ家の生き残り、イヴェダさまの加護を受けし者とは」

 ルフィッツオの言上はいつの間に終わったのか、イシュルの頭上に突如、老人の声が降ってきた。

 やさしい声音だ。だがこれほど重厚で神々しい声もなかろう。この大陸の人びとにとって。

 イシュルは頭上にのしかかってくるその重い気配にあらがうように、首筋を細かく震わし苦しげに頭を上げた。

「はい。イシュル・ベルシュと申します。猊下」

「うむ」

 総神官長は笑みを崩さず小さく頷いた。

 そして右手を胸に当てて跪くイシュルに頭を下げてきた。

 老人の右手の先に触れるもの。真珠を繊細な金の金具で繋いだ三重の首輪の部分に、複雑な細工の金の円盤型のヘッド。その中心に輝く小さな紅玉石と、周りを囲む青い四つの宝石。おそらくサファイヤとルビーの組み合わせ。

 その五つの宝石が “ヘレスの首飾り”の本体だろう。

 イシュルは総神官長の指先がその五つの宝石に触れた時、微かに、だが恍惚とする魔力の煌めきを感じた。

 ウルトゥーロは頭を下げると思わぬことを言った。イシュルの傍にいる者しか聞こえない、小さな声だった。

「教会は貴殿の聖都への来臨を歓迎致す」

 イシュルは思わず、総神官長の顔を凝視した。

 ウルトゥーロは笑顔を変えない。その窄められた眸と視線が合う。

「……」

 総神官長は無言で頷くと言った。

「後日、あらためて貴殿とお会いしたい。詳しくはデシオに聞いてくだされ」

 今度はイシュルが無言で小さく頷いた。

 隣で跪いているミラが身じろぎするのがわかる。彼女はウルトゥーロの言葉に驚いたのだろうか。感激しているのだろうか。

 ウルトゥーロの好好爺然とした顔が離れていく。総神官長は下げていた頭を上げ、笑顔をより深くして周囲を見渡した。

 みな声ひとつ上げず辺りは静寂に包まれたままだが、総神官長がイシュルに頭を下げたことで、少し緊張した異様な空気が流れている。

 イシュルは跪いたまま隣のミラに顔を向けた。

「……」

 イシュルの片方の眉がすっと上げられる。

 ミラは俯きながら、満面に笑顔をたたえていた。口許を微かに震わし、「おほほほ」と声に出してしまうのをじっと堪えているようにみえた。

 このミラの表情は何だろう。俺を聖都に連れてきて総神官長と引き合わせ、彼に「歓迎する」と言わしめてしてやったり、思惑どおりにいって得意満面、といった感じだろうか。

 ん?

 イシュルは屋敷の方にひとの気配を感じて振り向いた。

 横に並ぶ二つの両観音の扉が開かれた公爵邸の正面玄関、その中からサロモンが深い青色のマントをなびかせ颯爽と姿を現した。

 ミラの下の兄ロメオを横に、後ろに昨日の剣士や従者、早朝に紅玉石を見せた時にいた魔法使いの女も見える。

 サロモンはウルトゥーロに向かって微笑むと、濃い青いマントの裾を払いその場に跪いた。彼の後ろの従者たちも、ロメオもいっせいに跪く。

 絶妙な曲線を描いて広がるサロモンのマント。彼はただ跪いただけなのに、その所作は異様に美しく華麗だった。

 ……まるで劇場空間にいるようだ。確かに今日は聖王国史でも特筆される一日になるのだろう。

「これはこれは。サロモン殿下自らのお出迎え……」

 ウルトゥーロの声が頭上から聞こえてくる。

 今日は総神官長と聖王家第一王子の歴史的な会談の日。俺は脇役のひとりでしかない。主役はウルトゥーロとサロモンだ。

 だが、総神官長は俺に後日会いたいと言ってきた。

「……」

 イシュルは俯いた顔に笑みを浮かべた。

 確かに正義派のこと、国王派とどう戦っていくのか、彼と話すのは重要なことであろう。

 だが俺には彼に他にどうしても聞きたいことがあるのだ。

 “ヘレスの首飾り”と太陽神の座のこと。そして赤帝龍が言ったあのこと、“名の知れぬ神”、“名もなき神”。おそらくヘレスよりも高位に位置する、正体不明の神だ。

 これは今までミラにもデシオにも、ナヤルをはじめ召喚した大精霊にも、誰にも話していないことだ。

 総神官長であれば何事か知っていよう。

 主神に道筋を与え力をもたらす存在を。

 


 その後ウルトゥーロとサロモンは、聖神官のピエルとサロモン王子派のルフィッツオのふたりだけを同席させ、四者による会談に入った。

 場所はイシュルとミラが早朝にサロモンに面会した部屋、晩餐室で行われた。部屋の前の側廊にはサロモンの護衛の剣士が、中庭には朝に会った女魔導師が警戒に立ち、ピエルの契約精霊だろうか、部屋の周囲にそれほど強力なものではないが、魔力を遮る防御結界が張られた。

 魔法使いの襲撃や、何らかの魔法使用による盗聴に対する備えと思われた。

「秘密会談だな」

 イシュルは今、ミラとともに自らが滞在する部屋の次の間にいる。昨夜、明け方にミラに詰られた食堂である。

「秘密……会談、ですか? それはそうでしょうが……」

 ミラは、ネリーとルシアから総神官長自らお出ましになった委細を聞くと、ルシアにラベナや双子の居室やその他諸々の手配を命じ、イシュルに彼の部屋でウルトゥーロとサロモンの会談が終わるまで待機しましょう、と提案してきた。

 イシュルが同意すると、彼女はイシュルの部屋の控えの間にネリーを取り次ぎ兼護衛役として残し、イシュルを誘い次の間に腰を落ち着けた。

 ネリーとルシアの話によれば、大聖堂の賓客用の宿舎の別棟に宿泊していた彼女らに、朝になって突如デシオからの使者が訪れ、ディエラード家の二台の馬車を大聖堂の前に移動、馭者ともども待機させておくよう言いつけられたという。

 午後になると公爵邸を包囲していた第三騎士団が撤退したことを知らされ、間もなく多くの神官らを従えた総神官長本人が現れた。そこではじめて、デシオから総神官長のディエラード公爵邸訪問を知らされたという。

「ふたりが会談したこと自体は、王宮にも街の方にもあっという間に知れ渡るだろう。そして誰もがその会談の内容をほぼ正確に予測するだろう。だがこれが秘密会談、であることには違いない。わざとその体裁をとっていることに意味がある」

 イシュルはミラに念を押すように言った。

 ウルトゥーロとサロモンの会談を外に漏れないよう、配慮した風を装うことが、国王派の者たち、その他の者たちに、その誰にでも予測がつく会談の内容をより信憑性の高いものへと印象づけることになる。

 上はビオナートから下は街の一住民まで、聖都のすべての者たちが、聖堂教会のトップがサロモンを次代の国王として推挙することを決定したと、“確信”するだろう。わざわざ“秘密の会談”を行ったのだから。

 光の精霊が現れたからか、居室に向かう途中、クラウがイシュルに会談の行われている晩餐室の方を指し示し、「どうする?」といった感じのジェスチャーをしてきたが、イシュルは黙って首を横に振った。

 イシュルはクラウに「手出しは無用、気にするな」と伝えたわけだが、クラウは察し良く笑みを浮かべ頷くと、すぐに姿を消した。

 イヴェダの使者役を務めるクラウは聖都の人間どもの事情を、各派の確執をしっかり、すでに理解しているようだった。

 イシュルはミラに今回の“秘密会談”が故意に演出された理由を説明すると、次の話題に移った。

「これで国王派は表向き、サロモン殿下だけでなく我々にも手出しすることができなくなるわけだが……」

「そうですわね。聖都には国王派の大神官が何人もいらっしゃいます。陛下は大聖堂にも揺さぶりをかけてくるでしょう」

 ミラは言葉を濁したイシュルに、一足飛びに幾つかの段階を省いた話をしてきた。

 今行われている秘密会談は、総神官長が重要な決定を下したことを示すのと同時に、彼がサロモンを次期国王として推戴することを聖都に広く、早期に周知させるのも目的のひとつである。ウルトゥーロは数日中に聖都に、国内外のすべての神殿にサロモン推戴を正式に布告するだろう。

 総神官長が公式に支持を表明したサロモン、そして彼を保護するディエラード家に対し、ビオナートが実力行使することは事実上不可能になった、と考えていいだろう。

 いくら国王といえども、総神官長が支持し擁護する対象に軍事行動をとることはできない。そんなことをすれば、聖堂教会の保護を国是とする聖王家の存在意義が消滅してしまう。

 だがそこでビオナートが手をこまねき、事態を傍観することはあり得ない。彼の野望を達成するためには、どうしてもサロモンとルフレイドを排除、つまりふたりの王子を亡き者にしなければならない。

 武力行使がだめなら後は裏の、影の戦いと駆け引き、そして表の政治上の争いになる。

 国王が総神官長の保護対象を表立って攻撃できないのと同様に、聖王国の政(まつりごと)は聖王家の専権事項であり、聖堂教会は基本的に関与できない。正確に言えば教会はそれを控えてきた。聖堂教会はウルク王国の滅亡と同じ轍を踏まぬために長年、聖王国の政治と軍事に干渉することを怖れ、避けてきたのである。

 長い歴史のなかで、聖堂教会が聖王家の継承問題に干渉した事例は数えるほどしかない。それは聖王国全体が大きく乱れかねない、危険な事態に陥ったときにのみ行われてきた。ウルトゥーロは今がその時と判断したのであろうが、王位継承自体は基本、聖王家の専権事項である。ビオナートは政治上の対応であれば、この件に関しウルトゥーロに対する反撃を問題なく行うことができる。

 そこでビオナートがサロモンを廃嫡し、弟王子のルフレイドを次期国王に内定する、という話がでてくる。

「確か聖堂教会は国王に対しても、審問や査問を行うことができるのだったか」

 イシュルが少し難しい顔になってミラに質問すると、ミラは笑顔になって答えた。

「はい、その通りです。今後陛下と教会がどう動くか、おそらくイシュルさまの考えていらっしゃることで合っていますわ」

 聖堂教会の行う審問や査問は、要は中世期のキリスト教会における異端審問などと同じである。

 ただそれほど過激なものではなく、開かれる頻度も少ない。聖王国で国王が破門になったことは今まで一度もない筈だ。だがもちろん、聖堂教会が聖王国の国王に対し、教会査問会を開いた事例は過去に何例か存在する。それは先ほどの王位継承に関することや、王の悪政や聖王家の醜聞などが対象となった。

 過去に破門になった国王がいないとは言え、査問会を開かれるだけで当人の権威が著しく損なわれるのは、過去の事例からしても明らかである。教会査問会の対象となり、何らかの勧告を受けた王たちは皆、以後しばらくして暗殺、追放、退位等に追い込まれている。

 カノッサの屈辱ではないが、聖堂教会はいざとなれば聖王家の死命を制する、伝家の宝刀を持っていると言える。

 ミラはイシュルににこにこと笑顔を向けているが、彼女は相当に物騒なことを言っている。

 つまりミラにとって、ルフレイドを擁立するビオナートに対しウルトゥーロが教会査問会を開くことは、すでに決定事項となっているわけだ。

「ウルトゥーロさまは陛下のご決定を査問会にかけようとするでしょうが、大聖堂の教会査問会に出席できるのは総神官長と聖都にいる大神官だけです」

「聖都にいる大神官は……」

「聖都には太陽神の神殿でもある大聖堂を中心に、他の十柱の神々の神殿が主神殿として存在します。その神殿長は大神官が務めます。それに総神官長を輔佐する大神官が大聖堂に一名おり、聖都にいる大神官は計十一名です」

「その十一名のうち国王派が過半を占める、というわけか」

「はい。十一名のうち五名が純然たる国王派、四名が国王派寄り、中立が一名、特に王子派と呼べる方はおりません。ウルトゥーロさまと大聖堂にいる大神官、リベリオ・アダーニさまのおふたりだけが正義派ですわ」

 正義派はたったふたりだけ……。

「……」

 イシュルは呆然とミラの顔を見つめた。だがミラの顔からはまだ、笑みが消えていない。

 確かにふたりのうちひとりは、聖堂教会のトップである総神官長なのだが……。

 そんな厳しい情勢だったとは。

「その状況では教会査問会を開いてもしょうがないな」

 正義派の動きが活発化しビオナートが強硬な手段をとりだしたのも、ここら辺の事情が関係しているのだろう。決して俺が正義派に加わったから、ただそれだけが理由ではないのだ。

 この情勢では、ウルトゥーロがいくら査問会を開いてもすべて否決されてしまい、何の意味もない。査問会の議決も、通常は参加する大神官らの入札、投票によって決まる筈だ。査問会はビオナートに対し破門はもちろん、勧告さえ出せない。

「ふふ」

 ミラはより難しい顔になったイシュルを見て小さく笑い声をあげた。

「イシュルさまのご心配はとてもよくわかりますが、それは大丈夫ですわ」

 ミラは身を乗り出してイシュルに顔を近づけた。

「わたくしどもにはイシュルさまがいらっしゃいますもの」

「ん?」

 イシュルは首をかしげた。

 それは……。

「査問会だろうと何だろうと、大聖堂に大神官の方々がお集りになったら、皆さまにイシュルさまをご紹介すればよろしいのです。正義派の守護者として。少なくとも風と土の大神官はイシュルさまにひれ伏すでしょう。風神と地神の加護を受けた者に背くことなど、できる筈がありません」

 昨日、デシオがちらっと強気なことを言っていたのはこれか。

「ふむ……」

 イシュルは顎に手を当て考える仕草をした。

 ミラはそんなイシュルをじっと見つめている。

 俺はさしずめ、葵の御紋の印籠といったところか。

「それでどうなるかな? 査問会の議決は。風と土以外の大神官はどう動く?」

「地の大神官は国王派。風は国王派寄り、と言われております。月が中立で……」

 ミラは口許に人差し指を当てて視線を彷徨わせた。

「例えば国王派及び国王派寄りの方々中から、さらにひとりが正義派に、ひとりが中立派に回れば、ウルトゥーロさまを加え正義派が五名、中立が二名、国王派が五名、となります」

「もしそうなれば同数で割れるね。中立のふたりは棄権するとして、その場合は再議決? それとも否決になるのかな?」

「再議決ですわ。でも」

 ミラはそこで笑みを深くする。

「ウルトゥーロさまは教会査問会を実際に招集する必要はありませんわ。陛下に査問会を設置するぞ、と脅しつけるだけでいいのです。査問会がどう議決するか予想がつきにくくなりますから、陛下はそこで矛をおさめる、ウルトーロさまと交渉し何事か妥協するしかなくなりますわ」

「なるほど……」

 聖都にある他の神殿の神殿長、聖神官らの動向も査問会の議決に影響するだろうか。そこら辺の微妙な関係、駆け引きはよくわからないが、とりあえず査問会の結果が不透明になり、ビオナートが総神官長の脅しを無視できない状況になる、つまり総神官長による査問会設置というブラフ、はったりが有効になる、ということだ。

「でも、国王派の大神官の方々すべてを正義派に寝返らせるのは不可能なのです」

 そこでミラは笑みを消し表情を曇らせた。

「それは……」

 イシュルは表情を引き締めた。

 あれか。俺が以前に考えたこと、どうしても裏切れないような大神官たちの弱みをビオナートが握っているのでは? という話になるのだろうか。

 ……セルダのように。

「十一名の大神官のうち、国王派の中核を成す方々は、陛下が少年期に大聖堂の見習い神官をしていた頃、同時期にともに見習い神官だった方々なのです」

 ミラはイシュルをじっと見つめ、小さな声で言った。

 イシュルは目を見張ってミラを見つめ返した。

「それはだめだ」

 違った……。

 国王派の大神官たちはビオナートに弱みを握られているのではなかった。

「彼らはビオナートの理想を、国王と思想を同じにする者たち、ということか」

「はい、その通りですわ」

 苦しげに、呻くように言ったイシュルに、ミラはしっかりと頷いた。

 おそらく彼らは見習い神官だった頃にビオナートとともに過ごし、やつの理想に感化されたのだろう。

 大陸全域を統一支配して、聖堂教による宗教国家のもと万民に至福をもたらす……。

 大聖堂では当時から、その理想に単純に胸を熱くし心を滾らす者がいたということだ。多感な、いや、純粋な少年たちに、同じ仲間だったビオナート少年の語る理想はさぞかし耳に心地よく聞こえたことだろう。

「彼らに工作はきかない」

 彼らはビオナートと同志的な関係にあるのだ。まだ少年だった頃から。

 それでは脅しも買収も効かない。彼らは心情的にも強い絆で結ばれているだろう。だから宗教論や神学で論争をしかけても、相手を説得することは難しいだろう。

「だからイシュルさまなのですわ」

 きっぱりと断言したイシュルに、ミラはまた笑みを浮かべて言った。

「お互いに強い絆で結ばれたあの方々を翻意させる力。それこそは神の御力をおいて他にはないでしょう。それをイシュルさまがお示しになればいいのです。風の大精霊に引き合わせ語らせ、左手の紅玉を見せればよいのですわ」

 そこでミラは両手を合わせてうれしそうに言った。

「そうですわ! クレンベルの太陽神の座で見た主神ヘレスのお話をしてみてはいかがでしょう。あれは同じ大神官のカルノさまが成されたこと。きっとみなさまも……」

「だめだ」

 イシュルは厳しくミラを遮った。

 イシュルの顔から表情が消えている。

「イシュルさま……」

 ミラはイシュルの剣幕に困惑し、顔色を青くしていく。

 その時、こんこん、と控えの間側の扉がノックされる音が響いた。

 ミラが「どうぞ」と返すと扉が開かれ、ネリーが顔を出した。後ろにちらっとメイドや執事らの姿が見える。

 ネリーはミラに一礼し、イシュルを横目に見ると言った。

「ミラお嬢さま、お客さまがお見えです。……イシュル、おまえもだ」

「やあ、おつかれさま。お二方」

 ネリーの後ろからデシオの笑顔が覗いて見えた。





「ウルトゥーロさまのご決断でね。きみたちにひと言もなく、いきなりのことですまなかった」

 デシオは開口一番、総神官長の電撃的な訪問を詫びてきた。

「……」

 ミラはさきほどのイシュルの厳しい態度に動揺して、うまく受け答えができない。

 イシュルはちらっとミラを横目に見やって代わりに答えた。

「いえ。少しびっくりしましたが」

 ミラには可哀想だがこればかりは仕方ない。

 カルノのこと、太陽神の座で起こったことは今は誰にも話してはならない。秘密にしなければならない。

 ヘレスのことではないのだ。

 まだはっきりとはしない。わからない。

 ……だが、カルノとあの朽ちた太陽神の座が、大聖堂主神の間におけるビオナートとの争闘に勝利する、重要な糸口になるかもしれないのだ。

「デシオさまは会議に参加されないのですか」

 イシュルの隣からミラの声がした。

 デシオは食卓を挟んだ向かい側に座っている。

 ミラの声音にはまだ動揺が見える。いきなりの豹変でちょっと可哀想なことをしたかもしれない。後で彼女になぜ厳しく否定したか、きちんと説明した方がいいだろう。

 まだなんの確証もないのだが……。

「きみたちにウルトゥーロさまがご決定されたことを伝えなければ、と思ってね。だから殿下との会談はピエルに任せたのだ」

 そしてデシオはさきほどまで、弟王子派で会談に出席していないミラの次兄、ロメオの付き添いでミラたち兄妹の父親であるディエラード家の当主、オルディーノに伺侯していたと話した。

「オルディーノさまが国王派であるということは存じている。だが、これから殿下にイシュル殿もこの屋敷に滞在することになる。公爵閣下にはウルトゥーロさまのお言葉をお伝えしておいた方がよかろう」

「まぁ。それはご配慮を賜りありがとうございます」

 ミラは少し固い口調で礼をいった。

 ほんとは俺もミラの父親に挨拶した方がいいんだろうが。昨日からごたごた続きでそれもできない。ミラからも何も言われていない。

「で、猊下は決断されたわけですね? サロモン殿下と組むと」

 イシュルの方からデシオに核心に触れる質問をする。

 ミラの心中はまだ決して穏やかではないだろう。この場は俺の方で話を進める。

「うむ。昨晩に続き今日の昼間、王城で発せられた風の大魔法にウルトゥーロさまが驚かれてね。我々も思い切って動くことにした」

 デシオはイシュルを見てにやりと笑みを浮かべた。

「もちろん、昨日のサロモンさまのご決断があってこそ、だが、実は昨日、殿下がウルトゥーロさまに出した陛下とディエラード家との仲裁を乞う書簡に一筆、ぜひ猊下とお会いしたい、とあったのさ」

「なるほど」

 イシュルは頷いた。

 サロモン……。さすがだよ、あんたは。

 昨日のあの時、ディエラード公爵邸に腰を落ち着けようと決断した時点で、彼は正義派と、総神官長と組むことをすでに考えていたのだろう。

 俺という強力な駒を同盟者として手許に置き、正義派の意向に従うかわりに、次期国王として総神官長のお墨付きを得る。

「……ということになる。さすがに殿下も当方を裏切ることはないだろう」

 デシオの説明もほぼ同じ内容だった。

「当分はね」

 だがデシオは最後に気になるひと言をつけ加えた。

「……」

 イシュルは無言で頷いた。隣のミラも小さく頷く。

 聖冠の儀まで山はまだまだある。ルフレイドの次期国王への推戴、次期総神官長を決める入札(選挙)、そしてその後に行われるであろう、ルフレイドの暗殺……。

 ルフレイドの身がこの先、危険な状態になることはサロモンにもわかっている。問題はそれを予想しながらも、実際にルフレイドが殺された時点でサロモンが激発するのではないか、ということだ。

 昨日、ミラが話したような“軍事クーデター”を起こす可能性がない、とは言えない。ルフレイドが殺されたら弟王子派はどう動くだろうか。彼らはビオナートの誅殺を叫び、サロモンに味方し彼を焚きつけるのではないか。そうなればサロモンは自身の憤怒を抑えることをやめるかもしれない……。

 イシュルは小さくため息をつくと気持ちをあらため、どうしても知りたかったことの、まずひとつめをデシオに質問した。

「総神官長は、聖冠の儀でビオナートを仕留めることに了解されましたか」

 ウルトゥーロはサロモンと組む重大な決断をしたのだ。当然、デシオはそのことを総神官長に話している筈だ。

「うむ。だがまだ不安があるようだ。場所が主神の間であるだけに……。ウルトゥーロさまが貴公と会いたいと言われたのも、そのことで確認したいことがあるのだろう」

 ふむ。ウルトゥーロの心配も当然だろう。主神の間で荒事など、聖堂教の神官ならとても受け入れられることではない。だがビオナート本人が人前に出て来る機会は今のところそこしかない。

 一方で太陽神の座が起動すれば俺の風の魔法も、他の魔法も完全に封じられる。ビオナートを殺すには剣槍などによる物理攻撃しかなくなる。それに太陽神の座の起動中は不可能だろうが、やつは危険な魔物を召喚する禁書を所有している。

 誰でも儀式が始まり太陽神の座が起動する前に、ビオナートを殺すか捕らえれば良い、と考えるだろうが、そうなればビオナートと俺の魔法の撃ち合いになる。

 赤帝龍にさえ大きなダメージを与えたのだ。俺の風の魔法なら、ビオナートのイルベズの聖盾を破ることは可能だろう。もちろん太陽神の座を傷つけずに、だ。だが禁書から召喚される魔物がどうなるかわからない。倒すことは容易だと思われるが、そちらの方は太陽神の座を傷つける前に倒せるか、自信がもてない。その魔物が大精霊と同等以上の力を持っているというのなら、防御力はともかく攻撃力はビオナートの比ではない。

「俺の方でも聞きたいことがあるのです。デシオさまは聖冠の儀の具体的な式次第をご存知ですか? それを伺いたい」

 イシュルはふたつ目の質問をデシオに向けた。

「ごもっとも。だがそれは本来は秘事なのだが……」

 デシオは一度はっきりと頷きはしたものの、その後しばらくは両腕を組んで黙考し、イシュルたちに話すべきか迷っている様子だった。

 イシュルはミラを横目に見た。ミラはその滑らかな曲線を描く横顔を、やや俯き加減にしてじっと動かずにいる。

 イシュルは右手を食卓の下に忍ばせてミラの左手を握ってやった。

「!!」

 ミラがはっとした顔になってイシュルを見る。

 ミラの顔はみるみるうちに色づき、表情が柔らかく、明るくなっていった。

「デシオさまがご存知なら教えていただきたい。俺の方でも、主神の間で太陽神の魔法陣を傷つけずにどうやってビオナートを捕らえあるいは誅するか、考えていることがあります」

 イシュルは食卓の下でミラの手を握ったまま、話を続けた。

 ミラは今はまた顔を正面に戻し、相変わらず俯き加減にしているが、その頬はほんのり赤く色づき目許に微かに喜色を忍ばせている。

「わかった。君らが知らなければどうしようもないからな」

 デシオは悩んでいた顔を上げて言った。

「聖冠の儀は秋の一月(十月)中旬からはじまる聖堂教感謝祭の四日目、早朝から開始される。参席者は現総神官長、ウルトゥーロさまと次期総神官長、それに総神官長補佐役のリベリオ・アダーニさま、月神の神殿長ヴァンドロ・エレトーレさま、他にウルトゥーロさま付きの聖神官が一名、わたしかピエルになると思う。それと同じウルトゥーロさま付きの見習い神官の少年が二名。それで式次第だが……」

 そこでデシオは話すのを止めひと息おいた。

「わたしも参席したことはないので口伝になる」

「はい」

 イシュルとミラは揃って頷いた。

「まずウルトゥーロさまが太陽神に向け聖典にある感謝の祈りを捧げ、同時に主神の座を発動させる」

「……! 最初から起動されるのですか?」

 イシュルはデシオの言に思わず口を挟んだ。

「うむ。まずはじめに太陽神の加護を主神の間に満たすのだ。それからウルトゥーロさまがヘレスの首飾りを次代の総神官長に手渡す。その時に総神官長とリベリオさま、ヴァンドロさま他僅かな者しか知らされていない、ヘレスの首飾りと身につける者の心の臓を結びつける呪文を伝達する。次期総神官長がヘレスの首飾りを身につけ、呪文を復唱し、続いて太陽神の儀を執り行い聖冠の儀は終了する」

「太陽神の儀というのは……」

「総神官長がヘレスの首飾りを発動して主神ヘレスの魔力を降ろし、新たな魔法具を生み出す儀式だ。年に二回、夏至の日と感謝祭期間中の吉日を選んで行われる」

 なるほど……。どうやって魔法具が生み出されるのか、はじめてはっきりとしたことを耳にした。

「太陽神の儀を執り行う際は、主神の座の中央に選ばれた宝物や武具が置かれる。どの宝物や武具がどんな魔法具となるのか、それはわからない。魔法具にならないものもある。それは総神官長も決めることはできない。それは人の決めることではないのだ」

 デシオは顔を青ざめていた。

「……」

 ミラが微かに息を吐く音が聞こえてくる。

「風の魔法具を得てから長い間、知りたかったことが聞けました」

 イシュルは微笑を浮かべ言った。

 イシュルの顔に怖れの色はなかった。

 魔法具は総神官長がヘレスの首飾りを使って生み出していたのだ。

「……貴公はベルシュ家の出だろう? 何も聞いていなかった?」

「昔、大伯父からそれらしいことは聞いたことがありますが、その内容はあまり合ってはいませんでしたね」

 だがファーロがあの夜、俺が風の魔法具を得てレーネの家から逃げてきた夜、あの時に言ったことはすべてが間違っていたわけではない。ファーロは確か、聖堂教の総本山の奥深くの玉座に、選ばれたただひとりの神官が神を降ろし魔法具を得る、というようなことを話した。玉座を太陽神の座、選ばれた神官を総神官長と置き換えればだいたい合っている。

 ただ……。

「太陽神の儀では実際に主神ヘレスが現れるのですか?」

「いや。歴代の総神官長でその時にヘレスさまのお姿を見た、と主張された方はいたようだが、真偽は不明だ。通常は主神が現れることはないそうだ」

「そうですか」

 イシュルはそこでふと、顔を横に向けた。

 ミラの顔が上気し得意げだ。

 ミラ……。もうちょと抑えてくれないと。

 彼女は俺といっしょに、ヘレスらしき女の姿を一度目にしている。

「デシオさまはご存知かと思いますが、太陽神の座が起動すると、俺の魔法も効かなくなると思います。ですから総神官長がその魔法陣を起動する前に、勝負をつけることになると思いますが……」

 イシュルはミラの興奮をごまかすように言った。

 デシオの注意をこちらに引きつけなければならない。

「そうだね。それしかない。ただ陛下は王位を退いた後もイルベズの聖盾を手放さないだろう。イルベズの聖盾の継承には聖王家の血脈が必要だが、退位すればイルベズの聖盾をその身に宿すことができなくなる、というわけではない。過去には新国王が幼く、前国王が健在だった時、その前国王がイルベズの聖盾を引き続き所持した、という記録がある。貴公ならイルベズの聖盾も破れると思うが……」

「大丈夫ですわ! イシュルさまなら何の問題もございませんわ。あの赤帝龍を撃退したのですから。聖王家のイルベズの聖盾といえど、神の魔法具にはかないませんわ!」

 ミラが叫ぶように言った。

「……」

 イシュルとデシオが苦笑を浮かべ、ミラに向かって頷いてみせた。


 その後イシュルは、昨日大聖堂までデシオたちを護送し、聖石神授使節団が実質解散となった後に何があったか説明した。

 紫尖晶の長(おさ)と接触し、情報収集や影の工作を頼み、一部に関し協力をとりつけたこと、正義派の弱点でもある工作関係に精通し指揮できる者を紹介してもらったこと、などである。

「アデール聖堂のシビル・ベーク、……なるほど」

 デシオは少し難しい顔になって呟いた。

「そのひとのこと、何かご存知ですか」

「いや、アデール聖堂の神殿長に関してはわたしはよく知らないが、あそこが大聖堂の意向とはまた別に独立を保ち、男子禁制を貫いてきたことには、あまり一般には知られていない大きな理由がひとつあるのだ。あの神殿を専門に守護する水の精霊がいて、その精霊がかなり強い。一部では大精霊ではないかと言う者もいて、聖王家や力のある貴族も深く係ることは避けていた。初代の神殿長がその精霊と特殊な契約をして、彼女の死後も引き続きアデール聖堂を守護し続けている、と言われている」

「ほう……」

 今度はイシュルが小さな声で呟いた。

 イシュルはちらっとミラを横目に見た。彼女も少し驚いた顔をしている。

 昨日ミラに報告した時にはその話は出てこなかった。彼女は知らなかったのだろう。

 なかなか面白そうな話だ。精霊とそんな契約もできるのか。アデール聖堂の精霊とはどんなもんだろう。今度見に行くか。

「紫尖晶から紹介状が届いたらそのシビル・ベークというひとに会いに行きます。もし彼女が合力してくれるなら、なるべく早くデシオさまに引き合わせるようにします。以後は彼女と相談して進めてください。俺は独自に紫の長(おさ)との連絡を継続し、そちらで動くこともあると思いますが、影働きで力添えが必要な時は、以後なるべく彼女の指揮下に入るようにします」

 イシュルは「俺には裏工作や影働きの経験も専門知識もないので」と続けた。

 シビルというひとの能力とやる気次第では、紫尖晶の正義派の指揮もお願いした方がいいかもしれない。ただ、相手が正規軍、こちらがゲリラ側という位置づけで考えるのなら、指揮命令系統は分散している方がいい。

「わかった。ただイシュル殿には……」

「荒事必至の場合は出向きます。遠慮なく声をおかけください」

 正義派に味方すると言っても、政治にも裏工作にも首を突っ込むことはあっても、どっぷり浸かる気はない。それは各々専門の立場にいる者がやればいいのだ。

 俺の専門は荒事、戦闘だ。

「よろしく頼みます、イシュル殿」

 デシオは珍しく、僅かに歪んだ不敵な笑みを浮かべた。

「ところでイシュル殿がアデール聖堂に出向くという話だが、どうする? 貴公は中に入れないわけだが……」

「使者は別に用意します」

 別の使者とは、シビル・ベークと面識のあるラベナのことだ。

「俺ももちろんついていきますが、俺が——」

 そこでミラがいきなり介入してきた。イシュルとミラの台詞(せりふ)がきれいに重なる。

「心配には及びませんわ。イシュルさまが女装すれば、絶対誰にも露見することなくアデール聖堂の中まで入れます」

「俺がシビル・ベークと話す場合は、申し訳ないが当人に門前まで出て来てもらうようにします」

 うっ。

 イシュルはじろっとミラを横目に見た。

「はは。ミラ殿、それはちょっと……」

 デシオが苦笑を浮かべている。いつもの彼の爽やかに輝く白い歯も、なんとなく霞んで見える。

 イシュルは食卓の下で、ミラの左手の上に置いていた自分の手を離した。

「……!」

 ミラが少し不安気な顔になってイシュルを見てくる。

「ミラ。それは却下、だ」

 イシュルはそんなミラに向かって、厳しく言い放った。


 その後デシオから、サロモンと組むことで彼を支持する多くの貴族や領主を正義派の味方にでき、貴族や領主の支持者が少ない正義派の弱点を補える、その結果国王派との謀略戦においても、表の政治的な駆け引きにおいても、激化する可能性がある一方で、より易く行えるようになるだろうとの説明があった。デシオは、サロモン王子派との共闘で正義派が不利になることはない、悪材料ばかりではない、不安になることはないのだと、イシュルとミラを気遣うようなことを言ってきた。

 それからデシオはミラに今後、ディエラード家にサロモンやイシュルらとの連絡係として、正義派の若手神官を数名常駐させてもらえるよう要請してきた。

 ミラは当然それを受け入れた。ディエラード家に常駐する神官らは、サロモンの動向を監視する目付役も兼ねるのだろう。

 最後に聖冠の儀での謀略は、まだサロモンには秘密にしておくことを申し合わせ、デシオが退室していくと、イシュルはミラに身を寄せ小さな声で話しかけた。

「ミラ、さっきのことだけど」 

「はい。でもわたくしはイシュルさまがどれだけ可愛らしい女の子になるか、それを言いたかっただけで……」

「……」

 イシュルはがっくり、腰を落としそうになった。

「いや、そのことじゃなくて。クレンベルの太陽神の座で起きたことだよ」

「はっ」

 ミラは口に手をやり頬を染めた。

「ごめんなさい、イシュルさま。わたくし、舞い上がってしまって……」

「いや。謝るのは俺の方だ。ちょっときつ過ぎる態度だったと思う。だけど、あのことは誰にも話しちゃ駄目だ。いいかい?  それは……」

「あの時も、イシュルさまは他の者にしゃべるなとおっしゃいましたわよね。失念していたわたくしが悪いのです。あのことは、わたしたちふたりだけの秘密なのに」

 ミラの頬の色がまた違った色に染まっていく。

 いや……。あの、それもちょっと違うんだが。

「うん、それもそうだけどそうじゃなくて」

 イシュルは気合いを入れ直して真剣な目でミラの眸を見つめた。

 彼女の眸に、窓から射し込む午後の陽が映り込んでいる。

「あの出来事には、聖冠の儀でヘレスの首飾りを手にしたビオナートにも勝利できる、重要な鍵が隠されているかもしれないんだ」

 いや、いくつかの疑問を払拭できれば、誰にでもすぐ思いつく、単純明快な答えがきっと明らかになる。

 ミラがちらちらと眸をしばたいた。彼女の顔に微かに不審の表情が現れる。

「だから」

 イシュルはミラの耳許に口を寄せ囁いた。

 今自分が目論んでいるそのことを。

「……!!」

 ミラの双眸が見開かれた。

 その眸は外からの陽に暗く縁取られた、イシュルの大きな影に覆いつくされた。


 

  

 ウルトゥーロとの会談が終わり彼らが大聖堂に帰っていった後、その日の夜にサロモンの主催で夕食会が開かれた。場所はウルトゥーロとの会談が行われ、彼が根城にしている晩餐室である。

 それは参席者がデイエラード家の兄妹たち、ルフィッツオにロメオ、ミラにイシュルが呼ばれ、サロモンも含めた計五名の、ささやかな夕食会だった。

 サロモンは終始機嫌よく、場は彼らの子供の頃の思い出話など、当たり障りのない話題に終始した。

 イシュルは総神官長らが去った後、サロモンからミラとともに呼び出され、正義派の内情など、根掘り葉掘り聞かれ追及されるかと警戒していたが、幸いにそのようなことはなかった。

 サロモンは食事会の終盤になって、参席者全員に語った。

「これから貴家にいろいろと迷惑をかけることになるがよろしく頼む。父は自派の者たちを使ってさまざまな手を打ってくるだろうが、わたしたちにはイシュル君という玉がある。我々がこの闘いに負けることはない」

 演説口調のサロモンにみな、改まった態度というよりはにこにこと笑顔でいる。

 ロメオは弟王子のルフレイドの派閥だが、それはこれ、貴族や領主たちの派閥とはこういうものなのだろう。みな派閥は違えど同じ一族、家族である。ある程度までの秘密なら互いに駄々漏れだし、家が残れば、家族の誰の派閥が勝とうが負けようがたいした問題ではないのだ。

 ただ派閥争いが時に尖鋭化し、家族の仲が悪ければ、それは悲劇的な結末を迎える場合もあるだろう。

「しばらくはわたしも卿らも忙しくなるだろう」

 サロモンの演説が続く。

「多くの者たちと面会し、方々に書簡を送り、使者を遣わすことになる」

 つまり聖都の自派の貴族たちと会い、地方の領主たちに使者や書簡を送って自派につくよう工作するわけだ。明日明後日には、サロモンの執事長であるビシューが従者らを引き連れてこの屋敷に乗り込んでくる。彼らや聖都のサロモンの親派である貴族たちが地方に赴き、派閥の拡大に勤しむのであろう。

「で、イシュル君。きみも参加してもらうよ?」

 最後にサロモンはイシュルに話を振ってきた。

 へっ?

「ミラ。イシュル君には聖都で今一番流行の服を見繕ってくれたまえ。彼を聖都の貴族らにお披露目しなければならない」

「まぁ。それは素晴らしいですわ。喜んでお力添えいたします、サロモンさま」

 げっ。「玉」ってのはそのことか。

 俺はサロモンに彼の派閥の広告塔としてこき使われるのか?

 風神と地神の加護を受けた者。風の魔法具を持つ者。他派閥に対する絶対不敗の最終兵器として、大聖堂だけでなくサロモンにも利用されるわけか。

「イシュルさま、わたくしにおまかせください。わたくしがこの身にかえても、イシュルさまに相応しいお召し物を用意致しますわ。うふふふ」

 ミラが満面の笑顔でイシュルに語りかけてくる。

 この身にかえても、って。そんな大げさな。……まぁ、女装よりはまだましか。

 イシュルはがっくり肩を落としてため息をついた。


 その後、屋敷でとんでもない椿事が勃発した。

「ああ、あなたこそは美神がわたしに遣わした申し子であるに違いない。いや、あなたこそはエリューカそのひとであるに違いない!」

 美神エリューカは人間じゃない。

「兄さん……」

 ロメオはルフィッツオにひと言、残念そうに呟いて、目の前に立つもうひとりの少女に向かって朗々と愛の言葉を重ねた。

「きみは月だ。こんこんと冷える夜も、眠れない暑苦しい夜も、この世をあまねく清らかに照らし、ぼくらを夢のような恍惚に導くあの月だ!」

 どうだろうか。ロメオさん、あんたも兄君と五十歩百歩だと思うんだが。

 せめて花束でも用意してあれば良かったのに。

 イシュルは最初の驚愕からどうにか立ち直ると、双子の兄弟にしらけた視線を向けた。

 サロモンとの食事会の後、今度は館の中央東側一階、小薔薇の間で、聖石神授参加者に対する慰労の宴が開かれた。

 イシュルにミラとシャルカ、ネリーやルシアに、新たに家臣扱いでディエラード家の一員となったラベナにピルサとピューリの双子、それにルフィッツオとロメオ、公爵家騎士団長のダリオ、コレッタという同魔導師長の壮年の女性が参加した。

 慰労会は立食形式で行われたが、そこでピルサとピューリの姿を認めたルフィッツオとロメオが突如、奇怪な行動に出たのである。

 彼らはいつものごとく手をつないでいたピルサとピューリの正面に立つと、いきなり両手を差し向けて跪き、愛の言葉を滔々とまくしたて、いや、いきなり求婚しはじめたのだった。

「……まさかこうなるとは。わたしの見込み違いでしたわ」

 ミラは兄たちの様子を見て小さな声で呟いている。

 イシュルは呆然と彼らの有様を見ていたのをふと我に返り、ミラの許へ近づいていった。

「ミラ、それはなんだ?」

 イシュルも声を潜めて言った。

「お兄さま方にあの双子の姉妹を見せればとても気に入るだろう、とは以前から思っていたのです。お兄さま方は彼女たちを護衛として従者に欲しい、と言い出すのではないかとふんでいたのですが、これほどとは……」

「なるほど」

 ルフィッツオとロメオはピルサとピューリを可愛がり、彼女たちの行く末もこれで安泰と……、そうミラは計算していたわけだ。

 イシュルはミラの背後で、いつものごとくおっとり微笑んでふた組の双子の様子を見ているラベナに、必死の形相で語りかけている公爵家騎士団長のダリオを見やった。

「あっちの方でも何か起きてるんだが」

 ミラは後ろを振り向きもせず、薄く笑みを浮かべて言った。

「あちらはずばり、わたしの思惑どおりですわ。ダリオは先年、奥方を出産の時に亡くしているのです」

 ミラはイシュルに視線を向け、にっこり笑みを深くした。

「あのふたりはお似合いではなくて? ね、イシュルさま」

 ミラ……。

 イシュルは引きつった笑いを浮かべた。

 きみはどこかの仲人おばさんか。

「でも、あの二組はどうしましょう。お兄さま方はどちらも本気ですわ。ピルサとピューリは一旦、どこかの貴族家の養女にした方がよろしいですわね……」

 はは。それは凄い。ピルサ、ピューリ、きちたちは将来公爵家夫人となるのか? 凄い出世だね。まるでシンデレラスートリーだ。おめでとう。……で、いいのかな?

 ピルサとピューリは幼く見えるが、おそらく十四、五歳くらいにはなっている筈だ。ミラのお兄さま方は大人びて見えるが二十歳(はたち)過ぎ、二十代前半だろう。多少年の差はあるが、問題視するほどではない。

 イシュルは周囲に視線をまわした。小薔薇の間にいる他の者たち、公爵家魔導師長のコレッタと話し込んでいたネリー、給仕役の同じ年頃のメイドたちと談笑していたルシア、彼女たちも皆呆然と二組の双子の様子を見ている。シャルカもいつもの無表情だが、じっと双子たちの方を見ている。ラベナとダリオは相変わらず。ラベナも双子たちの様子を柔和な表情で見ているが、さかんに横からからんでくるダリオを煙たがっている様子はない。

 ミラは聖石鉱山で彼女らの身柄の保護を了承した時、「わたしに考えがある」と言ったが、もうあの時にはこのことを目論んでいたのだ。

 イシュルがちらちらとラベナとダリオの様子を窺っていると、後ろからピルサとピューリが突然、イシュルに声をかけてきた。

「イシュル」

「イシュル」

 公爵邸に到着してから、双子の少女たちは眉間のすぐ上に水滴形の色を差している。インドのヒンドゥー教徒が額につけるビンディーに近いものだ。火の魔法を使う姉のピルサが赤い色を、水の魔法を使う妹のピューリが水色を差している。たぶん彼女らは以前から普段はそうしていたのだろう。影働きの間は特定されぬよう消していたのかもしれない。

 火の魔法を使うルフィッツオが水のピューリに、水の魔法を使うロメオが火のピルサに愛の告白をしていた。

「な、なに?」

 イシュルはちょっと面食らって双子に答えた。

 双子は少し不安そうな、とまどった顔をしている。

 そりゃそうだろう。彼女らもいきなりの愛の告白、求婚された上に相手が相手だ。

「どうしよう? イシュルはどう思う?」

「イシュルはいいの?」

 はぁああっ? いいって何が。何がだよ!?

 イシュルはあまりの驚愕に飛び上がりそうになった。

「なに!?」

「どういうことだ?」

 ルフィッツオとロメオが敵意の入り混じった視線を向けてくる。

「むっ」

 横からミラが恐ろしい視線を向けてくる。

「なっ、ななな」 

 ピルサ、ピューリ。きみたちはこの場で何て恐ろしいことを……。

 俺はきみらの保護者じゃない。恋人でもない。

 まさか、彼女らと男女の関係にあったとでもいうのか? ……そんなわけないじゃないか!

 イシュルに集まる敵意、怒り、哀願? さまざまな視線。

 ……俺は破滅だ。

 イシュルはその身に降りかかったあまりの不幸に、真っ青になって固まってしまった。

 イシュルにとって椿事どころではない、この上ない悲劇だった。



   

 小雨が降っている。

 イシュルはミラに呼ばれ、正義派やサロモン王子派、彼らだけでなくミラの兄達やミラ自身の友人や知人が集う今はサロンと化した小薔薇の間に姿を現した。

 現在の小薔薇の間には丸テーブルに椅子、部屋の端には座面の低い長椅子や小机などが並べられ、公爵邸を訪れる貴族や王宮の高官らの姿が途絶えることはない。

 今日のこの日も雨が降っているのにもかかわらず、ちらちらと人々の姿がある。

 ミラは窓際のテーブルに宮廷魔導師のダナとベリン、セリオとともに座っていた。

「イシュルさん、ごきげんよう。今日はこのふたりを連れてきたの」

 イシュルが彼女らのテーブルに近づくとダナが声をかけてきた。

「こんにちは」

 イシュルが空いている席に座ると、すかさず公爵家のメイドが近づいてきてお茶を入れてくれる。

「ダナとここ数日のこと、話していましたのよ」

 ミラが笑顔でイシュルに言ってくる。

 ベリンとセリオもイシュルに挨拶してきたが、今日は雨が降っている。イシュルに“空中戦”を教えてもらえないせいか、ふたりはむすっとして機嫌が悪そうだ。彼らにはここ数日で動きのあった聖都の政情のことなど、あまり興味がない、というのもあるかもしれない。

「このふたりは今はわたしの屋敷の方で預かっているの」

 ダナがベリンとセリオの方を見やって言った。

「なるほど」

 イシュルは小さく頷いた。

 ふたりとも官舎住まいだったのか、城にも出仕していないのだろう。

 あれから、イシュルが悲劇に見舞われた聖石神授参加者の慰労会の翌日から、聖都で、公爵邸でさまざまな動きがあった。

 慰労会の翌日、朝にはサロモンの執事長であるビシューが馬車、荷馬車の車列を従え、多数の王子の従者らとともに公爵邸に乗り込んできた。そして昼前にはサロモンに面会を求める貴族たちの馬車で公爵邸は門前市を成す状態となった。

 サロモンだけでなく、離れに住む公爵家当主のオルディーノや、ルフィッツオとロメオに面会を求める者も数多くいて、ディエラード家は第三騎士団に包囲、封鎖された時以上の、上を下への大騒ぎになった。

 イシュルは当日、あまりに多くの訪問者に逆にクラウを助ける形で、屋敷の屋根の上や邸内西北に位置する小城塞の城塔に上り公爵邸内外の警戒にあたり、時にサロモンやミラに呼び出され、彼らを支持する貴族たちとの会談に同席し、紹介され、お披露目された。

 この混乱と喧騒は数日間続き、イシュルはミラの父、オルディーノ公爵との面会も、以前から考えていた聖都の権力者たちと各派閥の人物相関図の作成にも取りかかれずにいた。

 その間にイシュルたちを足止めしようとした宮廷魔導師隊と第二騎士団が王城に帰還、途中でイシュルやミラ、デシオらと分離したディエラード公爵家の騎馬隊と従者らの一隊も、クレンベル街道を迂回し別路から聖都に入り公爵邸に到着した。

 そして宮廷魔導師隊と第二騎士団が入城した翌日、王宮で重要な布告がなされた。

 それは第一に国王ビオナート不例の公表と、代理としてルフレイドを摂政とすること、第二に王城から逃亡したサロモンを廃嫡とすること、ラディス王国の住人イシュル・ベルシュを重罪人とし、当人の国外退去もしくは王宮への出頭を命ずるものだった。

 聖王家や大聖堂で重要な布告が出される場合、聖都ではその日の早朝に旗手を伴ったラッパ手が、騎上でラッパを吹きながら街中の大通りを行進してまわる。街の貴族や神官、住民に重要な知らせがあるぞと先触れしてまわるのである。

 そして当日正午に王城や支城の主要な城門前、神殿前の広場などで王宮の下役や神殿の神官らによって布告が読み上げられる。その後布告の写しが街中のすべての神殿、主要なギルドに配布される。

 この聖王家の布告は上は貴族から下は一般の住民にまで、かなり大きな衝撃をもたらしたが、翌日には大聖堂、総神官長ウルトゥーロ・バリオーニ二世により新たな布告が出された。何ら瑕疵のないサロモン王子廃嫡に対する疑義と、神々の加護を受け赤帝龍を撃退した英雄イシュルを重罪人とした国王ビオナートを対象に、聖堂教会大聖堂査問会の設置を予告したのである。査問会で取り上げられる議題は国王がイシュル・ベルシュを重罪人と指定したことに対する背教容疑と、国王の長子であるサロモンを廃嫡した失政に対する弾劾である。

 この布告は聖都をさらに大きく揺るがした。聖王家に対する査問会などここ百年以上もの間開かれていない。

 聖王家か教会か。街の住民や各ギルドなどは大抵教会の方に味方する。実際に査問会が設置されてしまえば、その行方が不透明な以上、ビオナートはどうしてもそれを避けなければならない。

 不例の国王は教会に屈服し、総神官長の布告が出された翌日には、サロモンの廃嫡とイシュルの罪人指定を、王宮内部の手続きに問題があったとして取り消した。

 ウルトゥーロは国王の対応に教会査問会設置を保留することとした。

「まったくの泥試合だね。中立の大貴族や神官の中には、王家と大聖堂のやり合いを見苦しいと思うひとも少なからずいるだろう」

 イシュルは自身が禍中の人物のひとりでもあったのにもかかわらず、まるで他人事のように真っ当すぎる論評を述べた。

「ふふ……」

 ミラとダナが小さく笑い声を上げた。イシュルのわざととぼけた物言いが面白かったのである。

「でも、国王派の大神官の方々が連名で、ウルトゥーロさまに質問状を用意してるそうよ。まだはっきりしないけどイシュルさん、たぶんあなたが本当に神の加護を受けているのか、その真贋を問う内容だと思うわ」

 ダナがイシュルに言ってくる。

「あの方々を風獄陣に閉じ込めてしまえばいいのよ。そうすれば皆さん、いやでも納得されるでしょう」

「……」

 ダナの過激な物言いに、今度はミラは無言で笑みを浮かべた。

 イシュルも無言で笑みを浮かべ、窓の外に目をやった。

 窓の向こうには雨にくすむ公爵邸の中庭が見える。芝生の植えられた広場の先に、花壇や池、形のいい照葉樹が植えられている。その木々の向こうに公爵家当主夫妻の住む離れが見え隠れしている。

 緑濃く重たい木々の枝葉からは、細かい雨のしぶきが霧のように広がって、中庭の方へゆっくりと降りてきている。

 「これからは聖都も雨が多くなりますわ」

 ミラがイシュルの視線の先を追って言った。 

 大陸南部にはその南のベルムラほどではないが、夏の時期に雨期がある。大陸南部寄りにあるここエストフォルでも、夏場は雨の降る日が多くなる。だが日本の梅雨の時ほど頻繁には降らない。

「ベリン、セリオ。外では教えられないけど、かるく講義でもしてやろうか」

 イシュルは窓から顔を逸らすと、つまらなそうにしてお茶を飲んでるベリンとセリオに声をかけた。

「やった! 空中戦の話?」

 ベリンが明るい顔になって元気のいい声を出した。

「その前に、おまえらがどれくらいの時間飛んでいられるか、滞空時間と行動半径の話をしよう」

 イシュルは部屋の奥にいたメイドに声をかけて筆記具と紙を持ってきてくれるように頼んだ。

 空を飛ぶことが得意の風の魔導師の役目はまず偵察や、重要な書簡の送付などだろう。集団戦であればただ空中で戦うだけでなく、周辺一帯の制空、ちょっと大げさだが制空権の確保が重要になる。それなら自身がどれくらいの時間、距離を飛べるか、それを最初に把握しておく必要がある。

「さてと。もうそろそろだからわたし、サロモンさまにお会いしてくるわ。殿下に直接お会いするのは久しぶりだから、とてもうれしいの。それではまた後でね。イシュルさん、ミラ。ごきげんよう」

 ダナが席を立った。部屋の出入り口にサロモンの執事の姿が見える。彼女はイシュルたちに手を振り小薔薇の間から出て行った。

 ダナは部屋を出て行くとき、「目の保養〜、目の保養〜」と小さく節をとりながら呟いていた。

 確かにサロモンの外見は彼女らにとって充分過ぎるほどに目の保養、になるのだろうが、伯爵令嬢のとる態度としてはちょっとはしたない。いただけないものがある。

「ダナは外務卿であるブリオネス公爵の孫娘ですから、サロモンさまも彼女との面談にはかなり時間を割くでしょう」

 ミラは楽しそうなダナの後ろ姿を見ながら言った。

 外務卿はその役目柄もあってか完全な中立派、というより聖都の混乱を怖れ派閥争いを嫌っている。無理に名をつければ早期終息派、憂国派といった感じになるだろうか。今はルフィッツオとロメオに、サロモン王子派の主立った貴族たちはみな王宮に出仕していない。このままでは国政が著しく遅滞する状況になるだろう。サロモンはおそらくダナに早期解決を主張し、外務卿に味方してもらうよう、伝言を頼むのだろう。

「イシュルさん、早く早く!」

 イシュルがメイドから頼んでいた羽ペンにインク、紙を受け取ると、ベリンがはしゃいで言った。

「たいくうじかん……、こうどうはんけい……」

 セリオはさきほどからイシュルの言った言葉を呟きながら考え込んでいる。

「わたくしも後学のためにお聞きしたいですわ」

 ミラもにこにこしている。

「でははじめようか」

 イシュルは広げた紙にまず、同心円を描きはじめた。

  

 その日の午後になって、ディエラード家御用達の仕立て屋が訪ねてきた。ミラがイシュルの着る服を揃えるために呼びつけたのだが、総神官長とサロモンの会談後、公爵邸に貴族らが押し寄せ大混雑したため、今日まで後回しにされていた。

 あれから日にちが経ち、雨が降り、ビオナートがサロモンの廃嫡とイシュルの罪人指定を発表した日でさえ混雑していた公爵邸も、幾分の落ち着きを取り戻していた。

 生地の見本などを入れた木箱などがイシュルの居室の控えの間に運びこまれ、ミラがつきっきりになってイシュルの服を選んでいった。正確に言うと生地と仕上がり見本を見比べ、イシュルに試着させながらミラが仕立て屋に注文していった。

 仕立て屋についてきた見習い職人らしき者の中に、紫尖晶の影働き、ビルドの姿があった。

 ビルドは特に髭を付けたり、髪型を変えたりと変装はしていなかったが、控え目な態度に表情は愛想良くにこにこと、気持ち悪いくらいに顔つきも仕草も変えてきた。

 ミラの洋服選び、イシュルの着せ替えショーが終わる頃合いに、ビルドが一瞬真顔になってイシュルに視線を合わせてきた。イシュルはちらっと横目にミラの顔を見た。

「それでは今日はこれくらいでいいかしら。見積りは後日でいいとして、いつも通り手付けを支払いましょう。わたしといっしょに執事長のところへついてきてくださる?」

「はい。ありがとうございます、お嬢さま。それにお坊ちゃまも」

 仕立て屋の親方なのか、中年、痩身の男はイシュルにも愛想を振りまいて、見習いの者たちに木箱を運ばせ、ミラとともに部屋の外へ出て行った。 

 控えの間にはイシュルと、なぜかビルドだけが残された。

「お坊ちゃまだとよ。笑わせる」

 ビルドはさきほどまでのにこやかな表情を消すと薄く笑い、懐から巻紙をふたつ取り出してきた。

「うちの長(おさ)からだ。片方は紹介状だとかいってたぜ」

 紹介状とはイシュルがフレードに頼んでいた、アデール聖堂の神殿長、シビル・ベークに宛てたものだ。

「ああ、ありがとう。こちらからはこれ、あんたの長(おさ)に渡しておいてくれ」

 イシュルはかわりに、控えの間にある書棚に目立たぬように置いていた巻紙をビルドに渡した。

「わかった」

 ビルドは小さな声で頷くと、イシュルがフレードに宛てた手紙を懐にしまい込んだ。

 紫尖晶と正義派との連絡役にはイシュルに面の割れているビルドが専門に担当するようだ。

「これ、何が書いてあるんだ? あんた、また近々うちらの長(おさ)と会うんだろ」

「たいしたことじゃない」

 イシュルも薄く笑った。


 その日の夜、相変わらず雨は止んでいなかったが、イシュルはシビル・ベーク宛の書面をフレードからの紹介状とは別にしたため、ミラからアデール聖堂の場所を聞き、ひとりで向かった。

 当然ミラもいっしょに行きたいと言ってきたが、イシュルはアデール聖堂を守る水の精霊を調べに行くだけと説明し、なんとかあきらめてもらった。

 屋敷から外に出たイシュルは夜空に浮かびあがり、回りに球体の風の魔力の壁を張ると、聖都の市街地の方へ飛んだ。

 アデール聖堂は街の西側、先日フレードに会いに紫尖晶聖堂に行った時に通った、パレーヌ広場の南側の静かな住宅街にある、ということだった。

 アデール聖堂は四囲を白い石造りの壁で囲まれ、内側にある神殿と大小の建物もみな白い石造りに洋漆喰の木造、明るいグレーの屋根で、雨の降る夜でも周囲から白っぽく浮き立ち遠方からでもすぐに視認できた。

 イシュルは、しとしとと静かに降る雨に白く薄らと光る神殿の上までくると、僅かに殺気を込めてゆっくりと魔力を降ろし固めていった。デシオが強い、と言ったその水の精霊を誘うように。

 雨の中すぐに、自分のものではない魔力の気配が立ち上った。

 それは緩やかなトーガをなびかせた長い髪の女性の姿になった。同時にイシュルの固めた魔力の塊が弾け飛んだ。

 ほう……。

 イシュルは微かに笑みを浮かべた。

 風の魔力の塊を粉砕したのはその長い髪の水の精霊だった。

「やあ、今晩は。俺の名はイシュル。あんたに会いに来たんだ」

 イシュルは正面、夜空に無表情な顔で立つ精霊に向かって言った。

「あんたの力がどれくらいかと思ってな」

 女の精霊は無言でイシュルを睨んだ。

「この、女のための聖堂をずっと守ってるんだろ? あんたの名前を教えてくれないか」

 横風がかるく吹いて雨脚が揺れ、微かに光が踊った。

 横になびく雨脚に寄り添うようにして、精霊の長い髪も横に広がる。

「おまえがこの人間の都(みやこ)に来ているのは知っていた。時折派手な魔力が瞬いていたからな」

 女の精霊がはじめて声をだした。

「名乗れよ」

「わたしはおまえに用はない。だからさっさと去ね」

「……」

 イシュルは視線を鋭くして水の精霊を見つめた。

 ……!!

 雨脚が不自然に揺れさざめき、遠く近く耳障りな音を立てる。

 いきなり魔力と魔力の鍔迫り合いになった。

 水の精霊が両手を下に伸ばし、拳を硬く握りしめる。

 揺れる雨脚に魔力の光輪が走る。

 イシュルと精霊、両者とも魔力のみをぶつけ合い、互いに飲み込もうといている。

「ふふ。雨はわたしにとっては天恵。おまえには不利であろうが」

 水の精霊はなかなか美しい女性の姿をしている。だが口調は男勝りだ。

「どうかな。空は俺の縄張りだ。おまえは俺相手じゃ、雨のひと雫も思いのままにならないよ」

 雨音が大きく小さく、ふたりの周りを駆け巡る。

「くっ……」

 精霊は苦しそうな顔になった。

「つらそうだな」

 対してイシュルは胸の前で腕を組んでいる。笑顔を浮かべている。

 まぁ、こんなもんか。

 イシュルは片方の眉を僅かに持ち上げた。

 その瞬間。ドン、と激しい爆発音が響いた。

 ふたりの周りの雨音が止み、いや、雨が消えた。

 精霊が悔しそうな顔をする。

「最初から手加減していたな」

「名前は?」

 その時、白く輝く女の精霊に月の光が降りそそいだ。

 精霊が夜空を見上げる。

 彼女の頭上の雨雲に大きな穴が開き、満月からやや欠けた月の姿が見えた。

 イシュルは水の精霊の魔力も丸ごと空高く吹き飛ばし、頭上の雨雲を消し去っていた。

 月光が水の精霊を美しく照らしている。

「月の光はあんたのために用意したんだぜ?」

 イシュルは笑顔から殺気を落とし彼女を見つめ言った。

「きみがより美しく輝くために」

「なっ」

 水の精霊は呆然とイシュルを見やった。

 イシュルは初手から精霊の魔力を押さえつけ、わざと魔力どうしがぶつかる鍔迫り合いに持ち込み、それを夜空に吹き飛ばしたのだった。

 イシュルは懐から巻紙を取り出すと精霊に差し出した。

「この手紙をこの神殿の長(おさ)に渡して欲しい。俺はきみたちの敵じゃない」

 イシュルの手紙には、フレードの紹介でラベナを連れて近日中に面会したいこと、都合のいい日を聞きに明日にでも使者を遣わすこと、その他にも重要なことが書かれてあった。

「アデルアデリアーヌ・アングスティアス」

「はっ?」

「名前だ。わたしの」

 月光の降り注ぐ中、水の精霊は俯き、上目遣いにぼそっとおのれの名を口にした。

「アデリアーヌ、と呼んでくれ」

 そしてそっと腕を伸ばし、イシュルの差し出した手紙を受け取った。




    

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