鳴動




 瞼の内側が薄らと明るい。

 眠りの中にじんわりと光が滲み込み、意識を浸食していく。

 どうやら朝になったらしい……。

 そこへ甘い薫りとともに影がさした。ひとの気配だ。

 それも近い。すぐ目の前だ。きっと。

「……」

 イシュルは瞼を開いた。真正面にミラの顔があった。

 長い睫毛が綴じられている。柔らかい朝の光にほんのりと浮き立つミラの美しい面差し。

 だが彼女の唇がその麗しい顔をだいなしにしている。

 ちゅ〜と窄め、前に突き出された彼女の唇が向かってくる。俺の口許へ。

「おはよう。ミラ」

「きゃっ」

 ミラが飛び上がった。ベッドの脇に立って、両手を握って捏ねくり回し、ぶんぶん振っている。

 面白いなぁ。ミラは。

 イシュルはゆっくりと上半身を起こした。

「お、おおお、おはようございます。イシュルさま」

 ミラの声が裏返っている。

「うん。でもなんか、ずいぶんと早いね」

 イシュルは視線を窓に向けて言った。まだ少し呂律が回らない。

 外はまだ、明け方の藍色に少しずつ、朝の陽の明るい暖色が混ざりはじめた頃合いだ。

 俺に朝の目覚めのキスをしようとしたこと、彼女に何か言った方がいいだろうか。

 もちろん咎めるなんてことはしない。でもちょっとからかってやりたい。

 イシュルはミラの顔を見つめた。ミラは踊りはやめたが、まるでゆでダコのように顔を真っ赤にしている。

 とりあえず昨晩のあれ、は引きずっていないようだ。

「もう少し素早く、手際良くやれば成功したのに。ミラ」

 イシュルは顔をほころばせて言った。

 眠りが深かったからかな。彼女がすぐ傍まで近寄ってきたのにぜんぜん気づかなかった。ミラが相手じゃクラウも警戒しないし、俺の寝ている部屋に入っても制止したりしないだろう。

「恥ずかしかったのかな? やっぱり眠ったふり、していれば良かったかな?」

「あ、あっあううう」

 ミラはまたあたふたしはじめた。

「イシュルさまは意地悪ですわ」

 ミラは俯くとイシュルを横目で睨んできた。ミラの眸が潤んでいる。

「ごめんごめん」

 イシュルはベッドから出るとミラの正面に立ち、彼女の額にそっと触れるようなキスをした。揺れる彼女の両肩に手を置き微笑みかける。

「……」

 ミラは俯き加減に、おそるおそるイシュルを見上げてくる。

 彼女の眸に明るい色が差している。彼女の唇が微笑もうとしている。

「イシュルさま……」

 彼女が吐息まじりに囁く。彼女の声はあまりに小さくて、その甘い息に溶けて消えてしまいそうだ。

「……で、なんで俺をこんなに早く起こしたの?」

 イシュルは自分の眸に微かに硬い色を忍ばせ言った。

「……」

 ミラがはっとした顔になる。

 ミラは恥ずかしそうに、少し苦しそうな顔になって言った。

「ほんとうにイシュルさまは意地悪……」


 

 

 イシュルはミラから話を聞くと屋敷の西側、二つ目の大きな部屋、晩餐室へ向かった。サロモンが昨日陣取り、ルフィツオやロメオと酒を酌み交わした部屋である。サロモンがその部屋でイシュルを待っているという。

 イシュルを朝早く起こすよう、ミラに言いつけたのはサロモンだった。昨晩、太陽神の塔に同道し帰ってきてからたいして時間が経っていない。それなのに早くも再度のお呼び出しである。

「こんどはいったい何だ……」と、ため息まじりに呟いたイシュルにミラは、「殿下はイシュルさまの左手の紅玉石を見たい、との仰せです」と言った。

 イシュルは、はっとした顔になってミラの顔を見つめた。

 紅玉石はつまりは特大のルビーである。サロモンにその真贋などわかろう筈もないが、彼の明るい陽のもとで見たいという気持ちはわからないでもない。

 早朝の呼び出しも、他の者たち、雑音のない場でじっくりと俺の左手の甲に貼りついた石を見たい、俺の話を聞きたい、との彼の思惑もあるのかもしれない。

「わたくしも同席いたしますわ」

 ミラはイシュルの視線をしっかり受け止め言った。

「セルダの一件、バルディ伯爵が国王派の罠に落ちたことを殿下にお話しなければなりません」

 セルダの父が聖王家の公金に手をつけ、それをビオナートにつけこまれたことが、「国王派の罠」と言えるかどうかは置くとして、昨晩、サロモンにその話を早めに伝えた方が良い、とミラに話したのはイシュルだ。

 あの夜はあれから、イシュルはまるで死刑台に引っ立てられる罪人のようにして、ミラとサロモンとともに公爵邸に帰ってきた。

 当然、あの時のミラの怒りは恐るべきもので、サロモンは我知らず関せずで逃げをうち、イシュルはひとり“必死”の覚悟を決めた。

 だが屋敷の中に入り、「ではイシュルさま。委細はイシュルさまのお部屋で伺いましょう」と、シャルカとともにイシュルを連行しようとするミラに、サロモンの言ったひと言が思わぬ効果を及ぼした。

「内務卿の正体に疑惑あり。そのことに関しては正義派も周知しておいた方がよかろう。詳しくはイシュル君から聞きたまえ」

 両目を見開き、顔つきをさっとあらためたミラに、サロモンは微笑を浮かべ「ではおやすみ」と言うと、イシュルにねぎらいの言葉をかけて自室に戻っていった。

 ミラの顔から怒りが消え、替わりに不審な表情が浮かんでいる。イシュルに向けてくる視線も変わった。

 少し不安気な、問いかけるような目つきだ。

 おお、殿下!! 素晴らしいお言葉です……。

 いったい何の神か知れないが、イシュルは心の中で神に感謝の祈りを捧げた。逃げをうった、と思われたサロモンは最後にイシュルを援護してくれたのだった。

 ミラによるイシュルの尋問は、彼の起居する部屋の次の間、主に食堂として使われる部屋で行われた。

 部屋の真ん中には、十人ほども座れる大きなテーブルが置かれているが、ミラはテーブルを挟んだイシュルの向かいには座らず、イシュルの隣の椅子を横に回して座った。

 ミラの顔が近い。彼女の背後にはいつもの無表情でシャルカが立っている。

 シャルカから、いつもより強く威圧感を感じるのはなぜだろうか。

「……あの、シャルカは外で見張りをしなくていいのかな?」

「イシュルさまの大精霊が屋敷全体を見張っているのでございましょう? でしたら何の問題もありませんわ」

 ミラはイシュルの眸をずっと見つめたまま、睨みすえたまま言った。

「あっ、そうだね」

 しまった。失言だったかな? サロモンの言ったことで、少なからず動揺していた彼女の表情が硬いものになる。彼女の眉がくいっとあがった。

「で、イシュルさまはサロモン殿下と、王城の何処へいらっしゃっていたのですか?」

「そのまえに、どうして俺と殿下がいない、って気づいたの?」

「シャルカが、イシュルさまの魔法らしき気配を屋敷の外の空の方で感じると、わたしの元に知らせてくれたのです。はじめは半信半疑でしたが、そのうちお城の方から轟音が聞こえてきましたので」

「なるほど」

 それなりに派手な展開になってしまったからな。あれでは確かに、ここら辺まで爆発音とかも聞こえてきただろう。

「当家の者にも、外にいる第三騎士団の者にも、何事かと騒いでいる者がおりましたわ」

 はは。……俺は莫迦だ。

 それからイシュルは、サロモンに頼まれて太陽神の塔に行ったことをミラに説明した。一部始終、すべてを。

 ミラは土の宮廷魔導師アナベル・バルロードが現れた話にも、眉間にかるく皺を寄せて頷いただけで、特に口を挟んではこなかった。

「……で、王城を出たところで、ミラのお出迎えを受けた、ということだ」

「その陛下が持ち出した変わり身の魔法具と、イルベズの聖盾の組み合わせが問題だということなのですね? イシュルさまにも察知できないと……。そして国王陛下が内務卿に化けている可能性があると?」

 ミラがはじめてイシュルから視線をはずし、やや俯き加減に手を口許にやり考える仕草をする。

 よし、よし! いいぞ。いい傾向だ。このままミラの怒りを逸らし続けてやる!

「ですが、紫尖晶の影の者が一応、内務卿や国王派の大神官の方々を見張っているのですよね?」

「ああ。だが紫尖晶の長(おさ)はあまり人は割けないと言っていた。彼らには専門の護衛の者も張りついているだろうし、常に監視するのはなかなか厳しいだろう。だが殿下の言ったことで、内務卿の身辺を探ることが最も重要であることがわかった。監視する人員を内務卿に集中してもいいんじゃないかな」

 イシュルはそこで、王宮に禁足されたミラの兄、ルフィッツオを助け出した後、強引に面会した内務卿が実はビオナートが化けていたのではないか、という疑惑を話した。

「!! ……当然、考えられることですわね」

 ミラは真剣な顔でイシュルを見てきた。

 そうだ。いいぞ。いい感じだ。

 イシュルは重々しく頷いてみせた。

「それで俺は明日の昼前にでも、もう一度内務卿に会ってこようと思う」

 内務卿が登城する時間帯、彼が確実に王宮で執務している時間帯をねらう。登城していなければそれはそれで別に構わない。おとなしく引き下がるだけだ。

「でも、もしそれが事実なら……。そんなことをしたら、わたしたちが感づいたことを陛下に悟られてしまうのでは?」

 ミラはこちらが、ビオナートが内務卿に化けている、あるいは本物の内務卿とビオナートがたびたび入れ替わっているかもしれない、ことに感づいたことを、彼らに気づかれてしまうのではないかと心配している。

「それは大丈夫だ。俺は内務卿に総神官長の仲裁があったか、第三騎士団に囲みを解く命令を下したか、それを確認しに訪問した風を装う。もしその時、ビオナートが内務卿に化けてるのがわかればその場で拘束する。それが一番手っ取り早いからな」

「でも、陛下が変わり身の魔法を使っているかどうかは、イシュルさまでもわからないのでしょう?」

「殿下の言うことが正しければね。ただ、内務卿が本物か、偽物かの判断はそれとは関係なしにできるかもしれない」

 イシュルたち三人は日中、内務卿に会っている。その時の会話の内容を蒸し返した時、彼がどういう反応をするか、もし本物の内務卿とビオナートがあの時と入れ替わっていれば、同一人物でなければ、何らかのボロを出す可能性がある。

 ビオナートとベルナール、ふたりの間で緊密な連繋がとれていなければ、うまくやり過ごすことなどとてもできはしない。

 イシュルはそうミラに説明した。

「そしてあの時、内務卿は一番小さな砂時計をひっくり返した。そして俺はその落ちる砂を魔法で止めた。明日もう一度会ったなら、やつは砂時計をもう一度ひっくり返すだろうか? もしひっくり返したら? それは今日と同じ一番小さな砂時計だろうか?」

 ……もし再び砂時計をひっくり返したなら。

 ……もし今日と違う砂時計をひっくり返したなら。

 イシュルはそこで唇を歪めて笑みを浮かべた。

 


「……それと、殿下と変わり身の仮面の話をしたことで、気づいたことがもうひとつある」

 イシュルは真剣な眸をミラに向けて言った。

「セルダのことだ。セルダの父君は確かサロモン王子派だったよね? 彼女の父君のバルディ伯爵が聖王家の公金を横領したことで、セルダがビオナートから脅され正義派を裏切った一件を、サロモン殿下に話すべきだと思う。彼ら兄弟をはじめ、王宮や大聖堂の枢要な地位にある者たちにはもう、ウーメオの舌で何が起こったか、ある程度のことは知られている筈だ。今さら隠す必要はないだろう」

 バルディ伯爵の罪は罪だ。だがサロモンは自派の者が、その家の者がビオナートに利用されたことを決して許さないだろう。

 もし、もしもビオナートがまた奇策を打ってきたら。

 例えばビオナートが逆にルフレイドを廃嫡し、サロモンを次期国王にする、と言ってきたら?

 サロモンがその提案を信じることができる材料を、ビオナートが持っているとしたら?

 ルフレイドだけじゃない。サロモンとビオナートを離間させる工作も、可能な限り継続していかなければならないのだ。

「そうですわね。殿下は大変お怒りになるでしょう。……もう、以前にわたくしたちが計画したことは意味がなくなりましたし」

 ミラが言った“計画”とは、かつて正義派が計画していたこと、ビオナートが総神官長になり、脇腹の幼い娘を女王にして戴冠式を行う時、偽の紅玉石の嵌った宝冠を掴ませて、やつを罠に落とすことだ。

 その計画も、片方の紅玉石がやつの手に渡ったことでご破算になった。

「わかりましたわ。セルダの件はわたくしから直接、サロモン殿下に申し上げましょう」

 ミラはその眸に固い決意を漲らせて言った。

 ミラには国王に対し、親友を貶められた遺恨もあるのだ。

 イシュルは眸を僅かに細めた。

 自分の顔が強ばっていくのがわかる。セルダのことは俺にとっても痛恨事なのだ。

「……」

 イシュルはミラにしっかりと頷いてみせた。

 ……よし。うまくいったかな。

 イシュルはセルダの一件を無理矢理意識の外(ほか)にやり、今目の前にある脅威を完全に消し去ることにした。

 そろそろ終わりにしよう。タイミングが大事だ。今が絶好機の筈だ。

「それじゃあ、もう夜明けも近いし……」

「イシュルさま。まだお話は終わっていませんわ」

 ミラはぴしゃりと、イシュルを遮ってきた。

 げっ。

「サロモンさまといっしょにおでかけしたことですが」

 ああっ。失敗した。万事休す、駄目だったよ……。

 イシュルの目論みは完全に外れた。愚かな企てはすべて、なんの意味もなさなかった。

「ひゃっ、ひゃい。じゃなくて、はい」

 イシュルはあまりに情けない声を発した。

 自分でも肩を落とし落胆を隠せないのがわかる。ついでに背中を冷たい汗が流れ落ちるのがわかる。

「サロモンさまはなぜ未だご結婚なさらないか、ご存知でしょうか? イシュルさま」

 ミラの眸にさきほどとは違う色の炎が燃え立つ。

 冷たく、触れれば何ものをも切り裂く鋭利な声だ。

「な、なんでしょうか……」

「たまたま国内外に、殿下に見合う年頃のお相手がいなかった、というのがまずひとつありますが、他にも隠れた理由がございますの」

 ミラが薄く笑みを浮かべる。

「サロモンさまは今まで多くの方々と浮き名を流してきましたが、彼女たちが納得できる、彼女たちを黙らせるお相手でないと、すぐに暗殺されてしまうだろう、という見方があるのですわ」

「な、なるほど……」

 ああ、恋する女の恐ろしさよ。

 イシュルはこくこくと頷いた。

 ミラよ。きみもか。きみもなのか。

「それに」

 ミラの酷薄な笑みが深くなる。

「サロモンさまには美しい、まだ年若い男、少年を特に好んで愛でる、という噂もございますのよ」

「はっ、はひ」

 イシュルは喉を鳴らした。

 とうとうきたか。そっちの方に。

「イシュルさまもお気をつけあそばせ」

 ミラはぴしっと言い放った。

 ぐはっ……。

 イシュルに目に見えない鋭い刃が突き刺さった。

「お、お、俺はそっちの方の趣味はないから……そ、それに、お、俺は美しくないし……」

「甘いですわ!」

 ひっ。

 ミラの眸が燃え盛る。

「イシュルさまはもう少し、ご自身のことにも注意を向けなければなりません。自覚が足りませんわ!」

 ひいっ。

 イシュルはミラの勢いに首をすくめた。

「イシュルさまは時に、いい大人顔負けの厳しいことを言われます。誰も考えもしなかったことを誰も知らないような難しい言葉を使って話されます。普段はやさしいお顔なのに、その時は一瞬だけ、とても恐い顔をされます。その様変わりされるご様子が周りにいる女たちの目にどのように映るか、お考えになったことがございますか?」

「……」

 いや。そんなこと俺、知らないし。

 だがそれは、いわゆるギャップ萌……。

「これからは、お気をつけなさいませ」

 ミラは眸を閉じるとその小さな顎をくいっ、と上げて言った。

「は、い……」

 イシュルは聞こえるか聞こえないかの、小さな声で答えた。

 するとミラは今度は両目を大きく見開き、イシュルをじっと見つめてくる。

「えっ……」

 そしてミラは全身を細かく震わすと、いきなりその眸を涙で揺らめかせた。

「イシュルさま、イシュルさまはわたくしと約束したではありませんか」

 ミラは可愛らしく鼻を鳴らした。

「あなたさまの見るものを、感じるものを。今まで誰も見ることのかなわなかった神々の姿を、この世の神秘をわたくしにも見せてくれると、感じさせてくれると。お忘れですか?」

「いや……」

 あの、クレンベル近くの名もない山の頂でミラと約束したこと。……忘れる筈もないことだ。

「けっして忘れたりしないさ」

 ただ、サロモンといっしょに行った場所、それは確かに“太陽神の塔”だが、特に神々の神秘も、途方もない未知な何かも、そんな大仰なものとは無縁な場所だったと思うのだが……。

 それにクレンベルの主神殿、太陽神の座でヘレスらしき女と会うことができたわけだし……。

「本当ですわね?」

 とうとうミラの眸から涙がこぼれ落ちる。

 ミラが念押ししているのはそれだけではないのだ。彼女は日常も、冒険も、何かするならいつでも、少しでも俺といっしょにいたいのだ。

「ああ」

 イシュルが頷いてみせるとミラが抱きついてきた。

「……」

 ミラのからだが細かく震えている。

 イシュルはそっと彼女の頭をなぜた。彼女の煌びやかな巻き毛も揺れている。

 今夜のことなんて、そんな気にすることじゃないのに……。

 でも今はしばし、この少女の感傷につき合おう。彼女の悲しみを癒そう。

 イシュルは思わぬ展開にさらに重くなった疲労感を、心の片隅に押しやった。




 翌早朝、サロモンとの面会は昨晩と同じ、屋敷の西側次の間、晩餐室で行われた。

 室内に照明は一切ない。北側に並ぶ窓からは、青い光に僅かに暖色の混じった朝の光が輝き溢れている。だがその光は広い室内の奥までは届かない。部屋の南側の壁は影が澱みより暗く沈み込んでいる。

 サロモンは室内の中央に並べられた大きな食卓の一番奥、昨日と同じ席に座っていた。昨日、彼の前に散らばっていた銀製の燭台やティーセット、筆記具や紙類はすべて片づけられている。

「お早う。ミラ、イシュル君」

 サロモンは部屋の奥から静かに声をかけてきた。

 イシュルがあらためてサロモンに目をむけると、彼の右側、向かって左側の壁に溶け込むようにして、美しい栗色の長い髪の女が立っていた。なぜか入った瞬間、すぐに彼女の存在に気づけなかった。

 女は壁の色に溶け込むような焦げ茶のローブを着ている。昨日、サロモンの後ろにいた魔法使いとおぼしき女だった。

 女は微かな笑みを浮かべ、こちらに穏やかな視線を向けてくる。

「どうぞこちらへ、わたしの側に座りたまえ」

 サロモンが食卓の右側、北側の席を指し示して言ってくる。

 イシュルは食卓の角を挟んで、サロモンの斜め向かいに座った。ミラはイシュルの後ろに立ったままだ。

 サロモンはやや腰を前にずらし、長い足を組んでくつろいだ姿勢で座っていた。ミラには座れとも何とも声をかけない。

 サロモンは僅かに顎をしゃくって言った。

「では見せてくれないか。きみの左手に輝くものを」 

 イシュルは無言で頷くと左手の穴開き手袋をとり、サロモンの前に手の甲を上にして差し出した。

「ほう……」

 サロモンは小さく感嘆の声を上げると、前のめりになってイシュルの左手に両手をそえてきた。

「!!」

 ほんの少し遅れて、サロモンの後ろでひとの大きく身じろぎする気配がした。

 イシュルがサロモンの頭越しに視線を向けると、彼の右手、少し離れて壁側に立っていた魔法使いの女がからだを幾分後ろにそらし、驚愕の表情を浮かべてイシュルの左手を見つめていた。

「これは凄い……」

 サロモンはそう呟くと薄く笑い、自身の右手をおもむろに上げた。

 女は驚きの表情をなんとか押さえ込むと、サロモンに無言でお辞儀をして部屋から出て行った。

 あの女魔導師がどうしても見たいとサロモンにせがんだのか、あるいは何かの意図があって、わざと 直接見せたのだろうか。

 イシュルの手の甲にある紅玉石は、窓から射し込む朝の光を真横から受け、明暗の角を鋭く浮き立たせている。

 その手の甲をサロモンの指先がすーっとすべって赤い石にあたった。

 その指先が石の上をなぞっていく。

「……魔力はほとんど感じられない。だがこれはただ大きいだけの宝石ではないのだ……」

 サロモンはひとり言のように小さな声を連ねていく。

「それが証拠に、この石は人間の手の甲に浮き出すようにして貼りついている」

 サロモンの薄く青い眸がイシュルに向けられる。

「痛みは? 魔力は?」

「どちらもほとんど何も。左手を握ったり開いたりした時に、少し違和感を感じるくらいです」

「……そうか」

 サロモンの眸が再び紅玉石に落とされる。サロモンの指の動きが止まった。

「ありがとう。もういいよ」

 官能的なサロモンの指の動きは一瞬だった。彼はイシュルから両手を離すと言った。

「わたしがはじめてだろうな」

 サロモンは視線を北の窓の方にやって呟くように言った。

「聖堂教会の、そして我が王国の秘宝、地神の紅玉石がいよいよその本体、地神の杖を顕現する一歩手前まで来ているのだ。……何百年と続く聖王家の者で、これを直に目にした者はわたしがはじめてだろう」

 サロモンはイシュルの顔を見、ミラの顔を見て言った。

「イシュル君。もちろん王家はきみのことを詳細に調べている。だがわからないな。なぜきみはディエラード家に味方した? きみが正義派につくのはわからんでもない。一部の者たちの間で囁かれていた父の本当の目的、それが真実であったことはここしばらくの国王派の動き、わたしにしてきたことで確信がもてた。神々は決して父には微笑まないだろう。もし仮に父が神々の祝福を受けようとも、それは断じて起こしてはならない、大陸全土を覆う戦乱を起こすなどとんでもない話だ。その通りだとわたしも思う。だがきみがクレンベルに滞在していたから、そこへミラ・ディエラードが聖石神授の査察司として訪れたから、ミラのきみを勧誘する手腕が優れていたから、ただそれだけではあるまい」

「それは申し上げられませんわ。サロモン殿下」

 イシュルが当感する間もなく、ミラが素早く答えを返した。

「わたくしは聖王家や教会よりも、より深く真剣にイシュルさまのことを調べ、研究いたしましたのよ」

「イシュル君が栄爵も金も、女も求めないことはわかっているのだ。……それはつまり……」

 サロモンはミラからイシュルの左手に視線を移し、またミラを見た。

 彼はミラの顔を見つめたまま、しばらく無言でいた。

 そして言った。

「ミラ。きみはイシュル君についていくつもりなのか……」

 ミラの俺に対する傾斜と執着は、彼女に近い周りの者には以前から知られていたことだ。そしておそらく彼女が何を願い求めているのかも。

 サロモンはそれに気づいた、のか。

 イシュルも、サロモンの真剣な視線を追うようにして振り返り、背後に立つミラの顔を見上げた。

 ミラは生き生きと、ここが勝負どころと言わんばかりに気合いを入れ、また勝ち誇ったような表情をしていた。

 横から射し込む朝日が、ミラの半身を金色に染めている。

「……」

 サロモンの方へ顔を戻すと、片手を顎に当てて考える風だったサロモンが僅かに眸を見開き、何かを思いついた、何かに気づいたような顔をした。

 サロモンは眸を細めて窓の外を見た。

「そうか……」

 サロモンは視線をそのまま、イシュルを見ずに言った。

「きみは地神の魔法具を手にしたら、再び赤帝龍と闘うつもりかね」

「いずれは」

 イシュルは短く答えた。

「きみもまさか、父と似たようなことを考えているのか?」

 サロモンは小さな声で続けた。

「確かに神々はきみには、微笑みかけるのだろう」

 サロモンはじっと窓の外を見ている。どこか遠くを。

 イシュルはサロモンに向かって言った。

「俺には国王のような野望はありませんよ。でも……神々と直に会って話をしたい、とは思っています」

 イシュルの顔に微笑が浮かんだ。

「ひとりの“人間”として」

 サロモンがイシュルを見た。

「……」

 彼はそっと、無言で小さく頷いた。


 その後話は移り、ミラからセルダの一件を聞いたサロモンは、その美しい顔を僅かに歪め、眉間に微かに皺を寄せて言った。

「聖石鉱山で何が起こったかだいたいは把握していたが、まさかそんなことがあったとはな」

 サロモンは声を低くして続けた。

「あれはやることが美しくない。さっさと誅せられるべきだな」

 その声はむしろ静かで、穏やかだった。

 サロモンはミラに鋭い視線を向けた。

「セルダ穣のことは残念だった。バルディ伯爵家のことはわたしの方で面倒を見させて欲しい」

「お待ちください。セルダはわたくしの……」

「それはわかっている」

 サロモンはミラを遮った。

「バルディ伯爵領に隣接する領主にはわたしを支持する者もいる。そこはわたしにまかせて欲しい」

 サロモンは座り直し姿勢を正すと、なんとミラに向かって頭を下げてきた。

「たのむ」

「あっ、あの……」

 後ろからミラの動揺するさまが伝わってくる。

 これはミラも退かねばならないだろう。

 イシュルは頭を下げたサロモンに、感情を隠した視線を向けた。

 サロモンは内心の怒りを、その激情をぐっと堪えて表に一切ださなかった。静かで穏やかすぎる彼の声音が、彼が内に激怒している何よりの証拠だ。

 そして聖王家の者であるのに、とりわけ誇り高い男であろうに、目下の者にしっかりと頭を下げてくるこのやり方……。

 サロモンの本気の度合いがひしひしと伝わってくる。

 彼の仕草にはいつも演技の、わざとらしさが漂う。だが、ひとの心の機敏がわかっていなければこういうことはやれない。いつもの彼からは思いもつかない意外な言動……。彼の策士たる所以がこれなのか。

 ミラはサロモンの申し出を受け入れ、いざとなった場合、バルディ伯爵家の保護はサロモンが仕切ることになった。



  

「さぁ、イシュルさま。参りましょう」

 ミラの顔が近い。すぐ下から、鈴が鳴るような美しい声で言ってくる。

 ミラの機嫌がすこぶる良い。

「……うん」

 彼女の両手がイシュルの首に回されている。イシュルは胸の前に抱き上げたミラを見下ろし、両手の位置を少し動かし短く答えた。

 イシュルの起居している部屋、その居間に当たる部屋の東側の窓が開け放たれている。イシュルはミラをお姫様だっこしたまま、部屋の中から一気に外に飛び出した。

 時刻は昼前。王宮では最もひとの多い時間帯だ。

 早朝のサロモンとの面会後、イシュルは自室に戻ってかるく仮眠をとり、遅い朝食をとった。

 朝食は本邸一階西側の大部屋に臨時に設置された食堂で、邸内を守る公爵家の騎士団の者や家人らとともに済ませた。彼らは主に正門前と中庭、運河に面した敷地内西北にある小城塞の三ヶ所に集中して見張りや守備につき、正門前には双子の兄のルフィッツオが、中庭は弟のロメオが、小城塞には公爵家騎士団長のダリオが分担して指揮に当たっていた。

 その公爵邸を囲む聖堂第三騎士団では、朝から慌ただしい動きがあった。騎馬や徒歩兵の小集団が頻繁に王城と往き来しはじめたのである。

 さまざまな命令指示や連絡などが、第三騎士団と王宮とで頻繁に取り交わされるのは別におかしいことではない。だが昨日サロモンが総神官長に仲裁を願いでたことが、騎士団の朝からの動きと関係しているのは明らかだと思われた。

「今日の午後には当家に対する囲みが解かれそうですわね」

 ミラが明るい色の眸を向けてくる。

「ああ。つまり彼らの動きからすると、内務卿が王宮にいる可能性が高い、ということだ」

 イシュルは飛び立つと高度をぐんぐん上げて、王城正面から見下ろす位置で静止した。

 今日の空も薄曇りだが、昨日よりは青空が広く見え、幾分明るい。

 王城には城門や騎士団の庁舎と思われる建物付近に、幾つもの色とりどりの旗が掲げられている。

「どうしたんですの?」

 無言で王城を見下ろすイシュルにミラが問いかけてくる。

「昨日と違って今日は城に多くの者が出仕しているようだ」

「そうですわね。陛下や内務卿は今日はイシュルさまはお城にはいらっしゃらない、とお考えなのでしょう」

 そうかもしれない。昨日はルフィッツオを助け出さねばならなかった。

 相手も俺が王宮に侵入してくることを想定していた。いや、やつらは俺の外見や人物を見るためにルフィッツオをわざと軟禁して、つまり餌にしたのかもしれない。

「ミラ、俺にもっとしっかりつかまってくれ」

「はい!」

 ミラは理由も聞かずに両腕に力を込め、顔をぐいっと近づけてくる。

 イシュルは右手をミラのからだから離し上に伸ばした。

 来い!

 王城の空高く、巨大な魔力の光が走った。一瞬視線を飛ばされるような、不可視の衝撃がくる。

 ウーメオの舌で、クレンベルを出発した翌日、草原で聖王家の魔導師たちや騎士団に使った風の結界——。

 陽の光を吸収しているのか、反射しているのか、微かに黄色く光るほとんど透明の巨大な結界が王城を覆った。

「イシュルさま、……なぜ」

 ミラが辺りを見回し、驚いた顔で見上げてくる。

「示威だよ。城にひとが集まっているのならちょうどいい。彼らに知らしめるのさ。王城の命運を握っているのは俺だと。正義派についた、イヴェダの剣だとな」

 後数日もすれば、同じ目に遭った宮廷魔導師長ら魔導師隊と第二騎士団が聖都に戻ってくる。やがて聖王国の宮廷の隅々まで、風の大魔法の恐怖が広まっていくだろう。

 イシュルはミラの顔を見て微笑んだ。

「心配しなくていいよ。誰も殺さない。王城も破壊しない。結界の魔力は風の精霊界に返す」

「風の精霊界……。それは天界でございますね? イシュルさま」

「ああ、まぁそうだな」

「なんてお力でしょう。イシュルさまはまるで風神そのもののよう。それが神の魔法具を持つということなのですね」

 ミラは眸の光を揺らめかせて見つめてくる。

 彼女は今まで何度も俺の魔法を見てきた筈だが、風の魔力を俺がどのようにして生み出しているのか、それはわからなかったらしい。おそらく通常の魔法使いには、あの異界の存在を感じとることができないのだろう。

「では行こう。内務卿に再び会うために」


 イシュルは風の大結界に穴を穿ち、昨日と同じ王宮の裏側から中に入っていた。三階にある内務卿の執務室まで結界に開けた穴を伸ばしていく。

 王宮の中を行き来するひとびとはみな人形のように止まり、時折奇声を発していた。

「太陽神の塔の周りですが、大変なことになっておりましたわね」

 奇妙な静寂に包まれた王宮の中を歩きながら、ミラが話しかけてくる。

「アナベルはいたか?」

 イシュルは苦笑を浮かべミラに問いかけた。

 王宮に入る前、降下する途中で太陽神の塔の周囲を見ると、地面のいたるところに穴が開き、掘り起こされ、大小の岩が散らばっていた。多くの城兵と、幾人かの土系統の魔導師が修繕に駆り出されていた。

「いませんでしたわね」

 ミラは途端に不機嫌な顔になった。

 イシュルとミラが内務卿の執務室に入ると、ベルナール・リアードは昨日と同じ机に座り、イシュルの張った結界の中で固まっていた。

 昨日と違うのは彼の机の横にひとり、見栄えのする服装の若い男がいたことだ。その貴族と思われる男は内務卿に話しかけるようにして固まっている。おそらくルフィッツオと同じ内務卿の秘書官、取り次ぎ役のひとりだろう。

「おおっ?」

 その男から驚きの声が漏れでてくる。

 イシュルは若い男の口許の魔力の密度を上げ、音の伝達を完全に遮断すると、ベルナールと彼の机だけを結界の外へ出した。

「ごきげんよう。ベルナールさま」

 ミラの品のある声が横から聞こえてくる。

 イシュルは無言でベルナールを見つめた。

「この結界はそなたが張ったのかの」

「風獄の大結界でございますわ。今は王城の西側、半分以上がこの結界で覆われておりますのよ。とても静かでございましょう? ベルナールさま」

 イシュルの前にミラが割って入って答えた。

「風獄の……。まさかそなた、王城の半分をすり潰すつもりか」

 ベルナールは表情の薄い顔を呆然と歪めて言った。

「どうかな」

 イシュルは薄く笑みを浮かべてベルナールの手許を見つめた。ベルナールは机の上に並ぶ砂時計を取らない。

 ふむ……。

「王城を壊されたくなければ答えてくれないか? 内務卿」

 イシュルはベルナールをじっと見つめて言った。視線を一時もはずさない。

「総神官長からの書簡はあんたの手許に届いたかな? どこかに隠れているビオナートにはもう知らせたのか?」

「無礼であろう! 陛下を呼び捨てにするなど」

 ベルナールは昨日よりもやや怒気のこもった声を出した。眉間の皺が深く寄っている。

 ……決まったな。

 少なくとも昨日の内務卿と目の前の内務卿は別人だ。

 昨日、俺が国王の名を呼び捨てにした時も、内務卿は「無礼な」と言った。だが、昨日の内務卿の方がもう少し穏やかな、いや沈んだ感じの言い方だった。それに同一人物なら、今日はもう少し違った反応をしたのではないか。

 内務卿とビオナート、それなりに連繋はとれているようだが、完璧に、ではないようだ。

 ……で、昨日と今日の内務卿のどちらが、いや、今目の前にいる老人がビオナートなのかどうかが問題だ。

「答えろよ。どうするつもりなんだ? まさか総神官長の仲裁を無視するわけにもいかないだろう」

「そのようなこと……、そなたらに話す必要はない」

 内務卿はまだ僅かに怒りの色を残している。

「まぁ、いいか。それなら仕方ない。ここはおとなしく帰るとするか」

 イシュルは突然、緊張を緩め、あっさりと引き下がった。

「……」

 隣でミラが困惑するのが伝わってくる。

「だが、あまり俺を怒らすなよ。ビオナートに伝えておけ。でなければ王城が消滅すると」

 イシュルはミラの腕をとって内務卿の部屋から出ていった。

「あれはどっちだ? ミラはわかったか?」

 イシュルは廊下に出ると、その必要がほとんどないのに声を落としてミラに質問した。

「昨日と比べると喋り方や反応に少しだけ違いがあります。今日の内務卿の方がベルナールさまご本人に近い感じがしますが……」

「そうか」

 イシュルは肩を落として言った。

 せっかく昨日と違う人物ではないかと、見当がついたのに……残念だ。

 まぁ、内務卿がビオナートと入れ替わる時がある、と知れただけでも収穫があったと考えるべきか。

「帰ろうミラ。今のがビオナートだったら良かったんだがな」

 イシュルはミラとともに王城を後にした。風の魔法の結界はゆっくりと、静かに空の向こうに消えていった。




 その日の午後、聖堂第三騎士団は公爵邸を半包囲していた兵らを南側広場に集め、撤退を開始した。

 各々五十名ほどで隊列を組み、馬上のバスケスを先頭に順次王城へ帰って行く。

 バスケスの後ろで掲げられた白地に金銀の、交差した剣に大きな盾の旗。第三騎士団の団旗が空にはためき、王城へ消えていった。

 寝室でベッドに横になり、うつらうつらしていたイシュルは、人馬の動く気配にすぐ目を醒し、公爵邸の正門前に出てきた。

 周囲にいた公爵家の人びとはみな、思い思いに歓声をあげていた。

 やはり総神官長の仲裁は強力だな。

 イシュルは門扉の側まで来て、王城の方に目をやった。騎士団の殿(しんがり)の兵士らの隊列が見える。

「うまくいったようだね。きみにも苦労をかけた。ありがとう、イシュル君」

 ルフィッツオがイシュルの横に来てにっこり笑顔で声をかけてくる。

「いえ……」

「イシュルさま!」

 ミラがシャルカを連れて屋敷の方から歩いて来る。

 ……!?

 イシュルはふと反対側、正門の向こうの方に頭を向けた。

 ディエラード公爵邸の南側正面は広場になっていて、中央部には馬に乗った甲冑姿の騎士の彫像がある。

 その向こうから複数の車輛の近づく気配がある。

 馬車だ……。

 馬車は二台。その姿はすぐに広場の南側、運河沿いの道から姿を現した。

 ミラとともに乗ってきたディエラード家の馬車だ。馭者台にはネリーの姿も見える。後方に続くもう一台の馬車はクレンベルで手配したものだ。そちらにはルシアの姿が見える。二台目の馬車にはラベナやピルサとピューリの双子が乗っている筈だ。その他の荷馬車の姿は見えない。

 荷は後回しにして、とりあえずひとの乗る二台の馬車の帰還を優先させたのか。

 門が開けられ、イシュルたちは屋敷の手前まで下がった。

 馬車が邸内に入ってくる。周りの人びとからは、「お帰り」「ごくろうさん」「ルシア!」などとちらちらと声が上がっている。

 だが……、ちょっと変な感じがする。ネリーの顔もルシアの顔も妙に緊張している。

 先頭の馬車の中にはひとの気配がある。誰かが乗っているのだ。

 馬車が止まり馬にひとが取りつくと、ネリーが素早く地面に降りて馬車の横に周り、扉を開ける。彼女は主(あるじ)であるミラにも、ルフィッツオにも一瞥もくれず、馬車の扉の前で頭(ず)を低くして跪いた。

 後ろの馬車からはもうラベナや双子が外に出ていて、ルシアとともに跪いている。

「何だ?」

 イシュルは小さく呟いた。

 馭者は馬車の上に乗ったまま、まったく身動きせず人形のようだ。

 周りにいる者たちも不審に思うのか、みな黙り込んでいる。

 すると一台目の馬車から神官がひとり、おもむろに姿を現した。

 イシュルは眸を鋭くその男を見つめた。

 早い……。

 その神官はデシオだった。

 続いてもうひとり、デシオと同じ聖神官のピエル・バハルが馬車から降りてくる。昨日大聖堂で会った男だ。

 決めたのか。

 正義派を実質取り仕切るふたりの聖神官がディエラード家に乗り込んできた。

 目的は明らかだ。彼らはサロモンに会いに来たのだ。

「……!!」

 周りで息を飲む声が、音にならない驚きの声が上がったような気がした。

 デシオとピエルが馬車の方を向いて跪く。

 馬車にはもうひとり乗っていた。

 白地に複雑な文様のある金の太い筋。その人物はゆっくりと馬車から降り立った。

 神官服の上に赤いガウン、おそらく略式の金色の小さな宝冠。金色の杖。まるで顔面に貼りつけられたような、それでいて自然な微笑。

「イシュルさま……」

 いつの間にか横に来ていたミラが、下から袖を引っぱってくる。

 周囲のすべての者が跪くなか、イシュルだけが愕然とその場に立ち尽くした。

 老人の笑みが迫ってくる。

「ウルトゥーロ……、ウルトゥーロ・バリオーニ二世!!」  

 

    

 

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