王城の塔、真夜中の冒険



 イシュルは寝室の東側の窓を開けると控え目に、少しずつ風の魔力を降ろし、窓の外に板状にした風の魔力の塊を設置した。

そして窓から外へ、その魔力の板の上に飛び乗った。

「どうぞ。殿下も」

 イシュルは外から部屋の中を覗き込み、サロモンに声をかけた。

 板状の魔力の塊はほぼ無色透明で、部屋の中から見るとイシュルは何もない空中に立っているように見える。

「ふっ」

 サロモンは小さく笑うと、悪戯っぽい顔で窓枠に片足をかけかるく跳躍し、身軽な動きでイシュルの横に立った。

 イシュルの目の前を一瞬、月明かりに鈍く光る銀色のマントが派手に翻って視界を覆った。

 やることなすこと、どれもこれもが絵になるひとだ。……ただこれからお忍びで王家の塔、太陽神の塔に行くのに銀色のマントはどうかと思うんだが。

「これからふたりきりで真夜中の冒険だね」

 サロモンがイシュルに顔を近づけてきて囁く。

「……」

 イシュルは苦い顔になって、美貌の王子の決め台詞(せりふ)? を聞き流した。

 そのふたりきりっての、やめてほしいんですが。

「クラウ、後はたのむ」

 イシュルはサロモンとは反対側を向いて言った。

 風の精霊はいつの間に部屋の外にいて、今はイシュルの斜め上にいる。

「うむ。気をつけたまえ。あの城にある塔には何か、嫌な感じのするものがある。剣殿でも用心した方がよかろう」

 クラウは王城の方に顔を向けて言った。

「特に夜は」

「……」

 イシュルはゆっくり、無言で頷いた。

 俺が昼間感じたもの、それをクラウも感じるのだ。

「このまま、五百長歩(スカル三百m強)ほど垂直に上昇します」

 イシュルはサロモンに向き直り、館の東側、木々の間に見え隠れする篝火の方にちらっと目をやって言った。

「なるほど」

 サロモンもイシュルの視線の先を追い、即座に頷いた。

 東の木々の向こうに見える篝火は、ディエラード公爵邸を包囲する聖堂第三騎士団のものだ。邸内でも松明を掲げた公爵家の騎士団の者が巡回している。

 彼らに見つからないよう、この場である程度の高度まで上昇してから王城へ向かった方がいい。

「では」

 イシュルはサロモンに一声かけると、夜空を垂直に、ゆっくりと上りはじめた。クラウに挨拶がわりに頷いてみせ、顔を少し上げると周囲に感知の網を広げていく。

 公爵邸の内外で人々の動く僅かな気配、他には何も感じない。他に魔力の使われている形跡もない。

「すばらしい……」

 ふたりは夜空を垂直に上昇している。遮蔽するものの何もない、周囲がすべて見えるエレベーターに乗っているような感じだ。

 サロモンは少しずつ視点が上がっていき、広がっていく夜の聖都の眺望に小さく感嘆の声をあげた。

 エストフォルは大陸でも屈指の大きな街だ。おそらく歓楽街あたりだろう、深夜になっても無数の灯のともる、明るい街区が幾つか点在して見える。そして何かの儀式を行っているのか、屋外で夜会でも催しているのか、神殿や貴族の屋敷と思われる小さく強く輝く建物が幾つか見える。

 視線をさらに遠くへやると、街の南北を流れる河がほのかに月明かりを反射させ、暗く沈む地平に消えていく。その先にはところどころ、山並みの稜線が暗い影となって夜空の底に見え隠れしている。

 天上は薄く灰色に輝く雲で斑に覆われ、ゆっくり南西に流れている。

 辺りは時折風が微かに鳴る音だけ。静かだ。エストフォルに散らばる不夜城からも、人びとの遊び騒ぐ喧騒など一切聞こえてこない。

 イシュルは、おおよそ目標の高度に到達したと思われるところで、王城に向けゆっくりと進みはじめた。

「俺の肩に片手をかるくのせてください」

 イシュルは空をゆっくりと移動しながらサロモンの前にまわり背を向けて言った。

「わかった」

 サロモンの右手がイシュルの左肩に添えられる。

 イシュルは僅かに息を吐くと、視線を王城の方に向けた。

 手前に石造りの建物の蝟集するその奥に、南北に伸びる二重の城壁の影、その内郭、やや南側に王宮がある。その先に空に向かって伸びるひときわ高く大きな塔の影、あれが太陽神の塔だ。

 からだの奥底には深くねっとりと、うねるような疲れが溜まっている。

 イシュルはそのまま、速度は無理に上げずゆっくりと夜空を進んでいった。

「ルフィッツオから聞いたよ」

 サロモンが後ろから声をかけてくる。

「きみはルフレイドを助けようと、随分と力を尽くしてくれたようだね」

 サロモンはイシュルに顔を近づけてきた。

 周囲にはまだ強力な魔力の障壁は降ろしていない。耳許を時折、風の音が高く鳴る。

「ほんとうにありがとう。わたしもきみに心から感謝している」

 イシュルは顔を少しだけ横に向けサロモンに言った。

「いいえ。ひとりの人間の命が失われることが既にわかっているのに、それを見過ごすのはおかしいだろう、と思っただけです」

 そこでイシュルは微かに皮肉な笑みを浮かべた。

「もちろん、第二王子を助ければ正義派にとって都合がいい。本当はそちらの方が主な目的ですがね」

「……ふむ。だがルフィッツオの話ではきみは随分と、ルフレイドの怒りを買うことも恐れず、しつこく食い下がったそうじゃないか」

 サロモンが美しい微笑を向けてくる。

「ありがとう……イシュル君」

 サロモンの聞こえるか聞こえないか、小さく呟く声が聞こえてきた。

 ルフレイドをビオナートから引き離すのが何より大事、そう思っていたのは確かだ。だがこちらはそのために彼に何の利を食わせることも、あるいは脅して従わせることもできなかった。何の交渉材料も持ち合わせてはいなかった。それならもう、後は自分の気持ちをただぶつけるしかない、腹を割って見せ、心をこめて話すしか方法がなかった。

 イシュルはサロモンから顔を背け、前を向いた。

 サロモンは人並みに弟のルフレイドを愛している。ルフレイドも、別に兄であるサロモンを嫌っているようには見えなかった。

 それが王位をめぐって対立、相争う関係になってしまっている。

 サロモンとルフレイド、どちらかが死に、兄弟を喪う。近い将来、きっとそうなるだろう。兄弟ともに死んでしまうことだってあり得る。俺も弟のルセルを亡くしている。エミリア姉妹のことだってある。身近でそんなことが起きるのは、それが赤の他人であっても辛いことだ。

 だから俺は、ルフレイドの説得にあんなにも必死になったのかもしれない。

 イシュルは王城の外郭の城壁の前まで来ると静止し、昼間、ルフィッツオを助け出しに侵入した時と同じように、三重の風の魔力の壁で身の周りを覆った。

「……ほう」

 サロモンが小さく感嘆の声を上げるのが背後から聞こえてくる。

 イシュルはサロモンに振り向くと言った。

「殿下。王城に侵入する前に、お聞きしたいことが幾つかあります」

「どうぞ。なんなりと」

 サロモンはイシュルの肩から右手を離すとイシュルの前に広げかるく腰を落として言った。

 サロモンには風の魔力の壁が、流れがそれとなくわかるようだ。足許に不安を感じていない。

「まずひとつ。太陽神の塔にはどんな仕掛けがありますか?」

 イシュルの質問にサロモンはかるく苦笑を浮かべて答えた。

「魔封と迷い、だ。魔封は塔の中から、王家の者のみが塔の外側に対し一定の範囲で発動できる。迷いの魔法は外部から発動できる。塔の上部に魔法陣があって、主に中位以上の精霊をその場に送って発動させる形だ」

「そうですか……」

 聖王家の魔法具を収納しているのだから当然なんだろうが、やはり太陽神の塔はしっかりと防御されていた。昼間は何度か空中から、地上でも近寄ったが、それほど強い魔力は感じなかった。

「塔の地階、下層部までは内務卿が管理する鍵さえあれば誰でも入れるが、二階から上、中層部は王家の者でなければ入れない。塔の上層部はさきほど話したとおり、精霊が出入りできるのだから一応開放されていると言える」

 やはり魔法具を収蔵している場所は入れないのか。

「……ああ、きみもわたしといっしょならもちろん、中には入れるよ?」

 サロモンはイシュルの落胆を敏感に感じとったか、そうつけ加えてきた。

「俺も中が見れるならうれしいですが……。いいんですか? 外部の者にそんなに話してしまって」

「聞いてきたのはきみじゃないか」

 サロモンはまた苦笑を浮かべて言った。

「かまわないさ。きみに隠し事などしてもしょうがない。どうせあの中にある魔法具など、きみにとってはガラクタ同然だしね」

「……」

 今度はイシュルが苦笑を浮かべた。

 そんなことはけっしてないんだが。俺にはまだわからないことがたくさんある。

「では次です。殿下は今どんな魔法具をお持ちで? 差し支えなければ教えていただきたい」

「うむ」

 サロモンはひとつ頷くと、両手の甲をイシュルに向けて差し上げ、あっさり、何の屈託もなく説明しはじめた。サロモンの両手には左手の薬指と中指に銀製の指輪が、右手の薬指に翡翠だろうか、小さな石のはまった指輪がはめられていた。そして両手首に銀と瑪瑙(めのう)? だろうか、ひとつずつ腕輪をしている。

「左の指輪は毒見に気読み(きよみ)、右は身代わり……」

「ちょっと待ってください。気読みというのは? どういう魔法具ですか?」

 毒見はいい。身代わりの指輪もいい。それはかつて母が持っていた、今俺がはめているベルシュ家の指輪の台座の部分——と同じだろう。確か命の指輪、とも言う筈だ。一度きりかわからないが、おそらく絶体絶命時、死にそうな時にその危機から逃れることができる指輪だ。

 問題は気読みの指輪だ。はじめて見聞きするものだ。どんなものか、だいたいの予想はつくが……。

「うむ。気読みの指輪は兆しの指輪とも言う。自身に殺気をはらんだ危険な物や、魔法が放たれれば気づくことができる。だが近い距離でないと反応しない。まぁ、主に出会い頭の暗殺、とかを防ぐものだね」

 なるほど……。いかにも王族とかが所持していそうな魔法具だ。

 もちろんその指輪では、セリオが空から撃ってきた火球にすぐに反応はできない。だがその直後に近距離から剣を抜き放ってきた刺客に、サロモンは大きな反応は示さなかった。側には加速の魔法を遣う剣士らが控えていたから、彼らに任せていたのだろうが……。

「わかりました。ありがとうございます」

「うむ。それに右が武神の腕輪、左が火魔法の腕輪だ。それと……」

 武神の腕輪? ならば加速や硬化、膂力を向上させる魔法だ。

 それならサロモンはあの刺客に反応を示さなかった、というよりは、対応を従者にまかせ、たいして気にもとめていなかった、反応する必要もなかった、ということになる。サロモンは武術、たぶん剣術ができるのだろう。

 サロモンは腰に差している長剣の柄を握ると言った。

「この剣だ。麒麟封じの剣、と呼ばれる聖王家に伝わる主要な宝具のひとつだ」

「きりん……」

 この世界の言語感覚からすると麒麟とキマイラ、キメラはほぼ同義である。

「この剣にはキメラ型の無系統の精霊、いや、悪霊が封じられている。聖王家初代か三代目あたりの王が封じたと言われているね。聖王家の血で継承されるものだが、他に特に魔法が使えるわけではないんだ。キメラの悪霊を封じる以前はどんな魔法具だったのか、ただの剣だったのか、それはわからない」

 サロモンは薄く笑みを浮かべ剣の柄をさすって言った。

「封印を解くのも封ずるのも自由自在、わたしの命令に忠実に従う。一端封を解いて麒麟を解き放てば、半ば実体化して攻防ともに強力な力を発揮する」

「それは……、凄いですね」

「まぁ、魔法具とも呼べない代物だが。わたしは気に入っているんだ」

 サロモンの笑みが深くなる。

 確かにはじめて見聞きするものだ。相当珍しいものなのだろう。

「そうですか……」

 やはりサロモンは魔法使いというよりは剣士、の方に近いのだろう。

 ふとリフィアの美貌が目に浮かぶ。彼女も同じだ。だがサロモンの方がやや魔法に寄っているか。

「どうしたかな? 険しい顔して」

「いえ……」

 イシュルは気を取り直して言った。

「では最後の質問です。今晩、今現在太陽神の塔は、どれほどの戦力で守られているでしょうか?」

「ふむ。きみからしたらたいしたことはないと思うが。通常は衛兵に尖晶聖堂の影働きが数名、魔導師が二、三名といったところだ。その魔導師のうちひとりは、塔上部にある迷いの魔法陣を発動できる精霊と契約している者になる。見張りの魔導師たちは大抵、塔の南側にある城門の門塔に詰めている。衛兵は塔の鉄扉の前、影働きは、まぁ、塔の周囲に適当に……と言ったところか」

 サロモンはそこで視線を太陽神の塔に向け、その眸に皮肉な色を浮かべた。

「だが今宵はもっと護衛の者を増やしているだろう。塔に近づけば、たとえそれがわたしだとしても容赦なく攻撃してくる可能性がある。……それできみに付いてきてもらったのだが」

 サロモンは視線を城からイシュルに向けると面白そうな顔をしてみせた。

 理由はわかるよね?

 とでも言ってる感じだ。

 サロモンはビオナートにとって、ルフレイドとともに時期を見てただ殺すだけの駒、障害物から完全な敵側となったわけだ。

「きみはまだ年若いのに随分としっかりしている……」

 サロモンがその面白そうな表情を変えずに言ってくる。

「それで、どうしようか? 他にまだ知りたいことはないかね?」

 ……わたしは何も隠すことなくきみに教えてあげた。それはなぜか、わかるよね?

 サロモンはそう言っている。

「これからまっすぐ太陽神の塔に突っ込むのかな? きみなら力づくでも問題ないか。きみの考えを聞かせてくれないか?」 

 ……だからおまえの作戦を言ってみろ。是が非か、わたしが判定してやろう。

 サロモンはつまり、そう言っている。

 サロモンの唇の両端が上がり、美しく弧を描いた。

「わたしは間違っていなかった。きみとはうまくやっていけそうだ」


 イシュルはサロモンを後ろにやり、城の外郭の城壁を素早く越えると高度を落とし、内郭の城門や城壁、王宮近くの城塔に配置された城兵らを、風の魔力を練り込んだ空気魂で頭部を殴り昏倒させた。

 そして内郭南側の城壁の側に着地し、ふたりの周囲を覆っていた風の魔力の壁を消した。そこから夜間でもさらに深い暗闇になっている、建物や木々の影を選んで徒歩で王宮に接近し、王宮の西側の屋根に飛び上がった。

 サロモンとともに屋根の斜面に身を潜め、王宮の正面、東側に聳える太陽神の塔、その奥に繁る木々と後宮に注意を向ける。

 足下の王宮内部に若干名のひとの気配、これは不寝番の下役人か衛兵だろう。後宮内部からはたくさんの人びとの気配。後宮に住む王家の女性たち、女官やメイドたちだろうが、多くの者は気配が希薄で、みな寝ているようだ。

 そして太陽神の塔と後宮を隔てる木々の繁りと、イシュルの右手にある太陽神の塔の南側正面にある内郭城門、その二ヶ所に数名の注意すべきひとの気配がある。ただ今のところ魔法を使っている様子はない。

「衛兵がいないな」

 横からサロモンが小声で言ってきた。

「通常は出入り口の鉄扉の両脇に衛兵が立っている」

「そうですか……」

 間違いなく罠か、何かの仕掛けがあるのだ。

 なんの役にも立たず、ただ巻き込まれて死んでしまうような一般の衛兵は役目からはずしたのだろう。

「あぶないぞ。どうする?」

 サロモンも同じ考えのようだ。

「強行します」

 またの機会に、などとは言ってられない。時間が、日数が経てばビオナートやルフレイドに、塔の中の聖王家の有力な魔法具を先に取られてしまう。もちろんビオナートがどんな魔法具を持ち去ったか、そのこともあやふやになってしまう。

「では行きます」

 さきほど王城の手前の空中で、サロモンとおおよその打ち合わせはしてある。

 イシュルはサロモンに作戦、というほど大げさなものではないが、一応の段取りは話した。

 まず、王城の内郭に侵入したら、なるべく魔力を使わずに太陽神の塔に接近、王宮の屋根に上がって辺りの気配を窺う。さらに細分化した風の魔力の塊を周囲一帯に照射し、怪しい者はいればその場で始末し、状況により敵側への魔法対策をして塔の正面に突入、鉄扉を破壊して速やかに塔の地階内部に入り込む。太陽神の塔の内部に入ってしまえばもう外から攻撃してくる者はいないし、もちろん内部に入ってくる者もいないので、一応の安全は確保できる。

 例のごとくサロモンは太陽神の塔そのものの破壊と、宮廷魔導師のむやみな殺害は禁じてきたが、イシュルは首を縦に振らなかった。

「危険なやつは排除します」

 イシュルはその時アナベル・バルロードの顔を思い浮かべた。宮廷魔導師の中にはああいうずる賢い奴もいる。

 サロモンはイシュルのにべない返事に苦笑を浮かべ了承した。

 イシュルは太陽神の塔を中心に自身のすぐ前から後宮の方まで、密度を薄めた風の魔力の塊を細い柱状に細分化し、地上へ無数に突き刺した。

 この魔力の照射は外は問題ないとしても、建物の内部ではその感度が落ちる。空気の流れがない完全な密室や、地下室のような間に岩や土の幅のある遮蔽物が存在するとほとんど何も感知できなくなってしまう。だから王宮や後宮の地下室や隠し部屋の存在、太陽の塔の内部の様子などは、はっきりとはわからない。

 だが今はそれでも構わない。野外に潜んでいる影働きの、武術に優れ加速の魔法を使うような連中を始末するのがまず第一目標だ。

 イシュルは目を瞑り気を静め、意識を前の方へ向けた。

 魔力に触れる木々や下草、小動物の気配。下の方から伝わってくる地面の凹凸、そして空気の揺らぎ……。

 いた。

 ふたり、だ。

 イシュルは太陽神の塔と後宮の間に広がる木々の中に、二名の人間とその位置を特定した。

 そして周囲の魔力をそのふたりに集束しようとした瞬間、かつて幾度となく見たオレンジ色の光線が夜空に空高く、ほんの一瞬だけ鋭く瞬くのを感じた。

 黒だ。

 黒尖晶がいた。

 林間に隠れていたふたりは、おそらく風の魔力の照射に驚き、思わず精霊神の隠れ身の魔法具を発動させてしまったのだろう。俺には隠れ身が効かないのを彼らは知っている筈だ。俺を警戒していたから彼らは最初、隠れ身の魔法を発動していなかった。

 ……これで、黒尖晶の残党をふたり、始末できる。

 イシュルはその顔に冷たい喜色を浮かべると、一気にその二名に魔力を集束、粉砕した。

 正方形を底辺に細長く上へ伸びる石積みの角柱、月明かりに直線的なラインを浮き立たせる太陽神の塔。その背景に二ヶ所、小爆発が起こった。はじけ飛ぶ木の葉や木の枝の影が薄い爆煙の中に浮き立つ。

「ほう……」

 サロモンの微かな感嘆。

 彼には何が起こったか、おおよそでしかわからないだろうが、それ以上は口を閉ざしている。

 イシュルは魔封対策に塔の上空に強力な魔力塊を五つ出現、待機させ、サロモンの腕を取ると跳躍、太陽神の塔の前へ一気に空を飛んだ。

 空中で自分自身とサロモンの周りを再び、三重の魔力の壁で覆う。

 塔の南側、十長歩(スカル、約六〜七m)ほど離れた石畳の道に着地、魔力の覆いの下半分は足下に平面状に変形させる。

「……足が地面から浮いている。これは魔力の塊かね?」

 サロモンが聞いてくる。

「はい、土魔法対策です」

「なるほど。塔の鉄扉を壊せるかね? 内側に吹き飛ばしてもかまわない」

「はい」

 イシュルはまず太陽神の塔の出入り口の周りを魔力の壁で覆い、鉄扉の下部から突き上げるようにして魔力をぶち当て破壊した。観音開きの扉は下部からくの字に凹み、左右同時に手前に倒れてきた。

 ガン、ゴゴンと、思ったよりも随分と小さな音がイシュルの耳に響いてくる。

「風魔法で音を小さくしたのかね?」

 サロモンから再び質問。サロモンは何度も、小さく首を縦に振っている。

「はい」

 イシュルは短く答えるだけ。後宮には多くのひとがいる。ここで大きな音を立てればすぐに大騒ぎになる。

「さすがだね。イシュル君」

 サロモンはイシュルに笑顔を向けると言った。

「では中に入ろう」

 イシュルが前面の魔力の壁を開いた瞬間だった。

「ぐっ」 

 いきなり頭をガン、と横から殴られたような衝撃がきた。

 揺れる。痛みはない。だが。

 ……持っていかれる。

 平衡感覚が喪失する。イシュルはなんとか足を踏ん張った。

 前に出たサロモンは片膝をついて屈んでいる。

 まずい。これはなんだ。

 目の前を無数の光彩が走りだす。

 心が、心が持っていかれる。

 肉体から意識が引き剥がされるような感覚。

「迷いの魔法だ!」

 サロモンの背中が叫ぶ。

 !!

 ……これがだと!?

「ううう……」

 イシュルはぶるぶると震えながら右手を上げた。

 来い!

 空中に待機させていた風の魔力の塊がひとつ、降りてくる。

 くうっ、……回れ、回れ。

 イシュルは歯を食いしばって念じた。

 魔力の塊は拡散しながら太陽神の塔の周囲を回転しはじめる。

 風がひゅーっと高い音をたてて鳴る。木々がさざめき、星が瞬く。

 ふたりの周りを覆っていた迷いの魔法が潰れ、散り散りになって流されていく。

 壊れた迷いの魔法の魔力はリング状になって回転する風の魔力に、飲み込まれるようにして消えていった。

「はぁ、はぁ」

 危なかった。

 塔の周りを回る風の魔力を吹き飛ばす。轟音が鳴り遠くへ消えていく。

 もう異様な感覚はない。

 イシュルはかるく首を左右に振り、僅かに肩を落とした。

 周囲に張っていた風の魔力の壁もいっしょに消えてしまった。

 あんなに強力な迷いの魔法があったとは。マーヤに連れていってもらったフロンテーラの魔法具屋にも同じ結界が張られていたが、こんな暴力的なものではなかった。

 確か塔の上部に魔法陣があるんだったか。おそらくクレンベルのあの主神の座のように、石板にでも刻んであるのだろう。

 ん?

 その塔、上のあたりで何か感じる。

 イシュルは空を仰ぎ、塔の頂部に目を向けた。

 夜空に黒く浮かぶ塔の最上部から、白く光る精霊が浮き出てくる。

 トーガをゆらゆらと揺らしながら、ふらふらと空を飛ぶ妙齢の女の精霊。

 ……この感じ。風の精霊だ。

 風の精霊は時折その姿を薄く、夜空に溶けるようにして消えそうになっている。飛び方といいとても不安定だ。

 だいぶ消耗しているな。迷いの魔法陣の起動でだいぶ魔力を消耗したのだろう。

「あの精霊を消せ」

 イシュルはサロモンに顔を向けた。

 サロモンはすでに立ち上がっていて、顔を仰向け厳しい表情で精霊を睨んでいる。

 イシュルは空中に待機させていた風の魔力の塊を精霊にぶつけ、開放、爆発させずにそのまま王城の北方へ吹き飛ばした。

 直後、北の空に低くうねるような爆発音が響いた。

 イシュルは後宮の方へ視線を向けた。まだ僅かな数だが、ひとの動き出す気配がある。

「イシュル君。すまなかった。わたしが間違っていたよ」

 サロモンはイシュルをちらっと見ると、その背後の方へ視線を移した。

 イシュルがサロモンの視線を追って後ろを振り返ると、真正面に内郭南門があった。サロモンはおそらく、門の左右から伸びるふたつの門塔を見ている。宮廷魔導師が詰めている、といっていた塔だ。

「!?」

 剣が鞘を滑る音にイシュルが振り向くと、サロモンが剣を抜いていた。細身の刃が銀色に光っている。刃自体が光を発している。

 ……麒麟封じの剣。

「殺れ。グレゴーラ」

 下を向いた剣先が僅かに上がる。

 すると光る刃がぶれ、白く尾を引いた。

 世界が止まる。

 早見の魔法が発動した、と思った時には、それはもう頭上を飛び越えようとしていた。白く光り流れる魔力の塊。確かにそこに、獅子か虎のような後ろ足が見えた。

 なるほどキメラだ。早見の魔法が発動したということは、この魔物は半ば実体化しているということだ。

 頭上の白い奔流が視界から消えると、イシュルは早見の魔法を切った。切るとほぼ同時に後方の城門から爆音が響いてきた。

 再び後ろへ振り向くと、向かって右側の門塔の頂部が煙に覆われている。

 凄い……。破壊力もそうだが、一切の躊躇なく頭から突っ込んで塔ごと対象を葬る、その荒々しさ、凶暴さが恐ろしい。

 さすがに全壊とはいかないが、門塔の屋根は半分ほど崩れ落ち、その下の石の壁と張り出しがぱっくりと抉りとられて塔の内側が露出している。塔の中は粉々になった石や木材で覆われ、人影は見えない。

 ふと魔力を感じ左側を見ると、白く輝くキメラが少し離れてこちらを睨んでいた。低く唸って威嚇してくる。

 かつて伝説の魔獣だった悪霊は南の城門から百長歩(スカル、約六〜七十m)以上の距離を、まるで瞬間移動したかのような早さでサロモンの前まで戻って来た。

「ふふ、面白い。グレゴーラがきみに脅えている」

 サロモンが横から言ってくる。

 イシュルはサロモンに頷いてみせると、グレゴーラという名らしいキメラに再び視線を向けた。

 獅子のからだに龍の頭、羽を生やしている。尻尾は硬そうな鱗で覆われ、先端は細く曲線を描き鞭のようだ。蛇の頭はついていない。

 確かにキメラというよりは、麒麟やグリフォンの方に近いかもしれない。凶悪な魔力をじわじわと発し、見た目といいまさしく伝説の幻獣とはこうだ、といった姿をしている。

 サロモンは光を失った剣をかるく上下に振った。

するとグレゴーラは頭をサロモンに向け、白い奔流となって剣の刃の中に吸い込まれ消えた。

「あの迷いの魔法はいったい……」

 イシュルはサロモンに問いかけた。

 あれは五感を狂わすなんてレベルではない。精神そのものを破壊しかねない、強烈なものだった。

「うむ」

 サロモンは太陽の塔の頂部をちらっと仰ぎ見、視線を彼の正面の南側城門の方へやると言った。

「あれはちょっと特殊でね。魔法をかける範囲を局限まで狭めて発動する仕掛けになっている。迷いの魔法が作用するのは太陽の塔を中心に、王宮と後宮の間の僅かな範囲だ。その分魔力は濃密になり、ひとの心に直接影響を及ぼす強力な結界障壁魔法になる。一部の精霊が使う眠りの魔法の強力なもの、に似ているかもしれない。まぁ、発動範囲を狭めなければ、王宮や後宮の位置がわからなくなってしまうからね、それも仕方がない、のだが」

 そこでサロモンは門塔を見つめる眸を僅かに窄めた。

「わたしの判断が甘かった。まさかあれをわたしに使ってくるとは……」

 塔の最上部にある魔法陣には、聖王家の者以外は外からしか近寄れない。さきほどの威力からして、迷いの魔法陣を発動、連続使用するには相当な魔力を消費するだろう。だから中位以上の精霊が担当することになっているわけだ。精霊以外では空を飛べる風の魔法使い、それもかなり実力のある者でなければ無理だろう。

「わたしはもう完全に、王城の中に戻ることができなくなってしまったようだ」

 サロモンは視線をイシュルの顔に向けると表情を緩めて言った。その薄く笑みを浮かべた顔には、微かに悲しみや後悔のようなものが浮かんでいる。

「では中に入ろう。周りも騒がしくなってきた」

「はい」

 確かに宮廷魔導師の殺害、というよりは右側の門塔の派手な破壊で、後宮やその周囲から人びとの騒ぎはじめた気配が伝わってくる。いずれ他の魔導師や城兵が集まってくるだろう。

「塔の中に入ってしまえば、なんの問題もない」

 サロモンは笑顔になってそう言うと、ひしゃげた倒れた鉄扉を跨いで主神の塔の中へ入っていく。イシュルも少し遅れて塔の出入り口に進みはじめた。

「……!?」

 地面がぐらっと揺れる。

 地震か?

 イシュルとサロモンが顔を見合わせる。

 続く轟音、大きな震動。

 異変はイシュルの背後で明らかになった。

 イシュルの後ろから少し離れた地面が複数箇所で陥没、もくもくと上がる土煙の中から、太陽神の塔を円形に取り巻くように巨大な石柱が何本も姿を現した。

 大小の石を積み重ね捏ね合わせた醜悪な石の塊。

 下から来たか。

 イシュルは振り返り、背後に並び聳える石柱に厳しい視線を向けた。

 地面の下、地中は風の魔力で感知できない。中に大きな空洞でもあれば話はかわってくるのだが……。

「!!」

 いってんぽ遅れて、今度はイシュルの視界にまばゆい魔力の煌めきが立ち上る。

 地面の揺れとともに浮き上がる魔法陣。

「魔封陣だ! 早く中へ!」

 サロモンが塔の中から叫ぶ。

 いや……、今ならまだ間に合う。このために用意したのだ。

 イシュルは上空に待機させていた風の魔力の塊を地面に叩きつけた。

 魔封の光が霧散し、イシュルの周りの地面が抉られていく。

「石柱が倒れてくるぞ!」

 サロモンが再び叫ぶ。

 わかってるさ。

 イシュルは残りの風の魔力の塊を、塔の周囲に展開、内側に向かって崩れ出した石柱を外側へ吹き飛ばした。

 激しく渦巻く風と轟音、吹き飛ばされた無数の石が王宮や城壁を飛び越え夜空に消えていく。

 遠くで石が落下し地上に激突する低く鈍い音、城壁にぶつかる硬い音、幾つかは後宮や王宮のガラス窓にぶつかり、甲高い音を上げる。

 魔封でこちらの魔法を封じ、周囲の石柱を内側に倒して圧死させる。……そんなところか。太陽神の塔も少し傷つくだろうが、それはかまわないわけか。

 ……なるほどな。

 イシュルは眸を細め、左に顔を向けた。

 王宮の前、芝生で覆われた地面から魔力が漏れ上がってくる。

 そこか。

 イシュルは凶暴な笑みを浮かべると、風の魔力を連続して降ろし、地面に叩きつけていく。

 モグラ叩きだな。 

 芝生が宙に飛び跳ね土煙があがる。その中から黒い影がもの凄いスピードで飛び出し、王宮の屋根の上に立った。

 早い。加速の魔法か。そしてあの異常な跳躍……。

 ローブをはためかし、細い杖を持つ長い髪の……女。

「アナベル・バルロード……」

 塔から外へ飛び出したサロモンが呟く。

 やはりあいつか。あの女、武神の魔法具も持っているのか。

 イシュルは鋭い目つきで宮殿の上に立つ女の影を睨んだ。

 宮殿の一部が吹っ飛んでもかまうものか。

 イシュルが風の魔力を叩きつけようとした瞬間、彼女はふっと姿を消した。

 イシュルの感知にちらちらと、魔力を発しながら高速で離れていく存在がひっかかる。それはあっという間にイシュルの感知範囲から外へ消えていった。

 ……周囲の建物を滅茶苦茶にしてもいいのなら、加速の魔法を使われても逃さないんだが。

 進行方向を予想し、物量でひたすら周囲も丸ごと破壊していけば、何の問題もなく始末できるのに。

 しかし土の魔法具に武神の魔法具か。

 魔法の切れもいい。なかなかの強敵だ。国王の執務室の控えの間での攻防で鋭い反応を示したのも、武神の魔法具を持っていたからだろう。

 無論、加速の魔法と、他の詠唱が必要な魔法を同時に使うことはできない。早見の魔法が起動すると音が存在しなくなる、あるいは聴き取ることができなくなる。詠唱は実質不可能になる。おそらく加速の魔法でも同じ現象が起きている筈だ。それに無詠唱であろうと何だろうと、他の魔法が加速の魔法に“乗っかる”ことはない。加速の魔法は他の魔法を“加速しない”。だが、それ以外の視覚や気配の察知などは問題なく、思考も相対的に早くなる。アナベル・バルロードの素早い反応も、武神の魔法具が影響しているのだろう。

 やつを倒すにはこちらの次元が違う、圧倒的な力を活かせる状況でなければならない……。

 罠を仕掛けるか、おびき出す手立てを何か考えなければならない。

「……」

 イシュルは小さく息を吐くと、サロモンの方に顔を向けた。

「さぁ、行こう、急いで中へ。塔の中へ入ってしまえば誰も手は出せない」

 周囲に響き渡る爆音や地面の震動、そして太陽神の塔の周りは地面が抉られ穴があき悲惨な状況だ。

 もう後宮でもみな目を覚ましているだろう。いずれ他の魔導師や城兵が集まってくる。

「はい」

 イシュルは不機嫌そうな顔で小さく頷いた。


 塔の中に入るとまずは真っ暗な空間。正面に観音開きの鉄扉、左右に上へ上る階段がある。

 サロモンは右の鉄の扉を開いて中に入っていく。内側の鉄扉には鍵がかかっていない。中は一度に数十名は人が入れそうな、大きなホールになっていた。正面には主神ヘレスの彫像、その手前の石の台には燭台があって蝋燭には火がつけられている。周囲は曲線の壁が高く伸び、天井は暗く沈んでいる。

 サロモンは横の壁の下の方からランタンを拾ってイシュルに差し出した。

「蝋燭から火を移してくれたまえ」

 イシュルがランタンを開け火を移している間、サロモンは主神の像に一礼するとその裏に回った。

 主神の像から魔力が煌めく。ガン、と大きな音がして、ホールの向かって左奥の壁が持ち上がる。

 サロモンは武神の魔法具を発動して、床にある何かの出っ張りを蹴飛ばしたか踏みつけたらしい。

 上に持ち上げられた壁、その奥には黒々した鉄の扉があった。その扉の中央には円盤状の鉄の板が打ちつけられ、魔法陣らしきものが彫り込まれている。

 サロモンは剣を少しだけ抜くと、自身の左手の親指を浅く切った。そしてその指先を魔法陣の上部に当てた。同時に小さな声で何事か呪文を唱える。サロモンの血が魔法陣の凹みを下に流れ出すと、扉が一瞬魔力に包まれ、鉄のこすれる音がして扉が開かれた。

 扉の先に上り階段が見えた。古い石造りの階段だ。奥へ、緩く曲がっている。

 王家の血と、おそらく秘密の呪文で開かれる扉。これが王家の者しか入れない、ということか。

「では行こう」

 サロモンは何事もなかったかのような顔で言ってきた。

 イシュルは入口の方を指差して言った。

 それなら手前にあった階段はどこに続いているのか。

「手前の階段はどこに?」

「あれはこの部屋の上にある、塔の番人や魔導師の控え部屋につながっている。今は誰もいないがね」

 サロモンは、昔はそれぞれの塔に番人をおいていたのだ、と続けた。

 イシュルたちは壁の奥に現れた螺旋階段を上へ上りはじめた。太陽神の塔は外側は角張った長方体だが、内側は円形になっている。おそらく長方体の中に円筒がある、二重構造になっているのだろう。

 サロモンが先を行き、イシュルはランタンを持ち上げて後ろから足許を照らす。左右を曲折する石積みの壁で覆われた階段は狭く、ひとがふたり横に並んで上り下りできる幅はない。

 周りの空気はひんやりとして、カビの匂いが微かに漂う。

 イシュルは途中、頭上に現れた大きな蜘蛛の巣を取り払おうとした。

 「やめたまえ。それはわたしがはじめて塔の中に入った時からあって、蜘蛛の巣の形もまったく変わっていない」

 サロモンが振り向いて言ってくる。彼は頭を下げて蜘蛛の巣をやり過ごしている。

「下手にはらうと何が起こるかわからない。周りの物にあまり手を触れない方がいい」

「……」

 イシュルは黙って頷いた。

 どれくらい上ったろうか。

 曲折する階段の向こうから、いきなり小部屋が現れた。螺旋階段はこの部屋で終わっている。

 イシュルが手近の燭台の蝋燭に火をつけると、部屋の中央に大きな丸テーブル、その上に宝冠や首飾り、腕輪や濃い赤や紺のきれいな布、大昔の金貨や銀貨、いや何かのメダル、大小の水晶玉などが置かれてあった。部屋の端にはマントが吊るされ、盾や刀剣類が立て掛けられている。

 サロモンは無言で部屋を奥の方へ向かうとイシュルに言った。

「こっちだ。この部屋にあるのはたいした魔法具ではない。上に行こう」

 イシュルはこれも黙って頷いた。

 確かにそうかもしれない。だが水晶玉のあたりからは、気味の悪い魔力が床へ垂れるようにして漏れ出ている。

 部屋の奥にはまた同じような螺旋の階段が続いていた。

 またかなり長い間階段を上ると次の部屋が現れた。サロモンが小声で何事か呟くと彼の頭上に小さな火球が現れる。

 火の魔法だ。

 部屋の中は大小の宝箱が積み重ねられ、端の方には金銀に輝く甲冑が並んでいる。

 イシュルは端のほうからランタンを見つけ出し、火を移して壁に幾つか埋め込まれているランプ掛けに吊るした。

「ふむ」

 サロモンは頭上の火球を消し、手前の蓋が開いた宝箱に覗き込んで言った。

「きみも見たまえ。変わり身の魔法具がない。確か仮面は全部で三つあったんだがな。ひとつも残っていない」

「……変わり身の仮面!!」

 イシュルは鋭い声をあげた。

 セルダだ。セルダがしていた仮面だ。

 そういえばセルダの父、バルディ伯爵はサロモン王子派だった。彼はセルダの父のことや、セルダがビオナートに脅されて正義派を裏切ったことをまだ知らないのではないか。

「おお、きみは知ってるのか? あの仮面のことを」

「ええ……」

 セルダとバルディ伯爵家のことは今は話さない方がいいだろう。それに俺ではなくミラに話してもらった方がいい。

「父はこの魔法具が一番欲しかったろうさ。あれは聖王家の魔法具、イルベズの聖盾をその身に宿している。イルベズの聖盾はもちろん、ほとんどすべての魔法と、剣矢などの攻撃を防ぐ。それは本人から発せられる魔力も遮断するから、変わり身の仮面をつけていても、きみのような大魔法使いや高位の精霊にもばれることがない」

 なるほど……。完璧に、絶対に露見しないように誰かに化けられるわけか。

「その身を隠したい父にとって、今最も役に立つ魔法具だ」

「はい」

 イシュルが頷くと、サロモンは皮肉な笑みを浮かべて言った。

「父が誰に化けるか。街の住民、一商人か。王宮の使用人か。案外ベルナールあたりも怪しいんじゃないか」

「!!」

 イシュルは呆然とサロモンの顔を見つめた。

 ベルナールとは内務卿のことだ。つまりあの時、ミラの長兄のルフィッツオを助け出した後、面会した内務卿はビオナートが化けていた可能性がある。

 いかにもありそうなことだ。やつは俺と直接会って俺の顔を憶え、どんな人間だかおおよその見当がつけられる。時と場合に応じ内務卿と入れ替われば、直接内政に係ることもできる。いろいろな情報も直接、最速で得られる……。

「ふむ。あったぞ」

 サロモンはイシュルが考えごとをしている間に、他の宝箱を開けて、赤い宝石のついた首飾りを取り出した。

「デマンシオの首飾りだ。聖王家では最も強力な火の魔法具だ」

 デマンシオとは何代か前の聖王国の王の名前だったろうか。

 サロモンは左手の腕輪をはずすとその首飾りを首にかけた。

「それと……」

 サロモンは壁の方に寄り、掛けてあった深い青色のマントを手に取った。

「これだ。揺動の衣。揺動の深き青のマント」

 サロモンは銀色のマントをはずし、青色のマントを身につけた。

「それはつまり……」

「うむ。その名の通り、魔法も含むあらゆる攻撃の標的をずらすマントだ」

 それは俺の持っているベルシュ家の指輪と同じものだ。いや、魔法にも効果があるのなら、さらに一段上の魔法具、ということになる。

「今日はお伴をしてもらったお礼に、きみにも王家の魔法具を何か進呈しよう。重要なものはあげられないが」

「いえ」

 確かに欲しい魔法具はあるが、サロモンに貸しはともかく借りはつくりたくない。

「遠慮しないで。きみにとってはみなガラクタ同然でも、きっと役立つものはあると思うよ」

「……それでは……」

 欲しいのは毒見と加速の魔法具だが。

「毒見の魔法具があれば」

 疾き風の魔法具はやめておこう。こちらの能力を見極める材料にされる可能性がある。

 毒見は精霊を召喚していればほぼ問題はない。なくてもかまわないし、貴族にとってはありふれた魔法具だろう。

「ああ、きみは持っていないのかね?」

 サロモンの眸が細められる。

 やはりね。こちらの能力を、手札を探ってきている。

「いつもは精霊にお願いしてるんですよ」

 イシュルは感情を消した笑顔を浮かべて言った。

「大精霊にわざわざ? ……それはなんというか、凄い。ではこれを」

 サロモンは左手の銀製の指輪をはずし、イシュルの前に差し出した。

「ありがとうございます。でも殿下はいいんですか?」

「ああ、わたしはいい。毒見は従者にも複数持たせてある」

 サロモンの護衛には加速の魔法具を使う剣士に、女の魔法使いもいた。彼らに予備を持たせているのだろう。

「では遠慮なく」

 イシュルは右手の中指に毒見の指輪をはめた。銀の指輪には細く縄目の模様が刻まれている。

 指輪のサイズはイシュルの指にぴたりと合った。

 サロモンは上背があるが、どちらかというと痩身である。まだ成長途中で、大人と比べてやや小柄な俺と変わらない指の太さ……つまりサロモンは指が細いのだ。

「うむ……」

 サロモンは満足そうな笑顔を浮かべた。


 その後ふたりは太陽神の塔をさらに上の方へ上って行った。

 ふう……。

 いつまでも続く螺旋階段を上りながら、イシュルは小さく息を吐き出した。

 さすがに疲れた……。

 太陽神の塔は王城で一番高い塔だ。高さは二百長歩(スカル、約百三十m)以上あるだろう。

 太陽神の塔は二重構造になっている。分厚い石造りの壁を通してだが、塔の下、周りにはもう多くの人びとが集まってきているのがわかる。

 塔の最上部から逃げるしかない。

 と、前を行くサロモンが剣を鞘ごとはずし、頭上の蜘蛛の巣をはらいはじめた。

「いいんですか。そんなことして」

 イシュルが言うと、

「ああ。これは新しい蜘蛛の巣だ。一昨年来たときにはなかったから、問題ないだろう」

 サロモンが前を向いたまま言ってきた。

 ……そうですか。

 イシュルはまた小さく息をついた。

 太陽神の塔、最上部に出る扉は内側からなら何もせずに、普通に開いた。サロモンが扉を閉めると微かな魔力が煌めき、内部で鉄が動く音がして自動で鍵がかかった。この扉にも中央に小さな魔法陣が刻まれたプレートがあった。

 塔の最上部は小さな円形の部屋で、中心部には魔法陣の刻まれた石板が設置されていた。

「これですか」

 これが迷いの結界を生み出す魔法陣か。

 イシュルは視線を石板の上に落とした。

 見たところは魔封の魔法陣や、影働きの者が腕にしている隠れ身の魔法陣の刺青と、あまり違ったようには見えない。

「この魔法陣はね、実は左右が反転してあるんだよ」

「へ?」

 サロモンが機嫌の良い声音で言ってくる。

 なぜだろう。

「つまり、下側に向かって結界が生み出されるようになっている」

「なるほど……」

 つまり今目の前に見えているのは魔法陣の裏側、ということになる。上下が逆になっているのだ。

 それでも起動できるのか……。

「では帰ろうか」

「はい」

 イシュルは周りの東西南北にある窓ガラスと鎧戸の西側の窓を吹き飛ばした。

 ランタンの火を消し、床に置く。

「では俺の肩に手をおいてください」

「……これでいいね?」

 サロモンの右手がイシュルの左肩におかれる。

 イシュルは「はい」と返事をすると外へ飛び出した。

 外へ出た瞬間、風の魔力を異界からおろして周囲を包む。

 視界に夜の王城のパノラマが広がった。

 下を見ると多くの人だかりができている。その中から幾つもの魔法の煌めきが起こった。

 無数の風球、火球、水球、土くれの塊が撃ち出される。

 それらはすべてイシュルの足下で虚しくはじけて消えた。

 イシュルとサロモンは夜空を西へ、ディエラード公爵邸に向かった。

 魔力の壁が一重だからだろうか。速度をややあげたせいだからだろうか。気持ちの良い夜風がふたりに吹きつけてくる。サロモンの紺色のマントがはためく。

 今はイシュルの魔力に包まれ、揺動の魔法は効いていないだろう。だがそのマントのはためく影はひときわ美しく、夜空に踊った。

「ははははっ、愉快、愉快だ」

 わたしはさしずめ王宮を騒がす怪盗、といったところか。

 サロモンはそう言って笑い続けた。

 彼の哄笑が夜空に響き渡った。




 悲劇は最後にイシュルを襲ってきた。

「ひいいいっ」

 王城を越え、聖都の街が眼下に遠く広がる夜空にその姿が浮かび上がると、イシュルは思わず小さな悲鳴を漏らした。

「ふむ? どうしたかな?」

 サロモンが後ろから気の抜けた声をかけてくる。

 夜風に揺れる巻かれた豪奢な金髪。

 もう東の空は僅かに明るくなっているのか、その姿が妙に鮮明にイシュルには見えた。

 空に浮かぶ大柄なメイドの肩に乗って、赤いドレスの裾を風になびかすひとりの少女。

「おお、ミラ・ディエラード。……あああ、残念。これは殺気だ」

 何か後ろで、どうでもいい声がする。

 少女は言った。

「ふたりでお忍びのお出かけですか? こんな夜更けに」

 冷たい、とても冷たい声だった。その声はまだ距離があるのに、なぜかはっきりと聞こえた。

 終わった……。すべてが。

 イシュルは真っ青になってその美しい少女を見つめた。

       

 

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