【幕間】 堕ちた神の欠片



「ナヤルルシュク・バルトゥドシェク、ナヤルルシュク・バルトゥドシェク、ナヤルルシュク・バルトゥドシェク……、カルリルトス・アルルツァリ、カルリルトス・アルルツァリ、カルリルトス・アルルツァリ……」

 イシュルは何事か小声で口ずさみながら、巻紙にせっせと羽ペンを走らせている。

 緻密な彫刻がなされ柔らかな曲線を描く長椅子とお揃いのテーブル。長椅子にはイシュルがやや前のめりになって座り、テーブルの上には巻紙が広げられている。薄茶の紙は細かな文字でびっしりと埋まっていた。

「次だ」

 イシュルは頭を上げると満足げな顔つきで何度か頷き、また何事か呟きながらペンを走らせた。

「クラウディオス・ヘススクエレルバス、クラウディオス・ヘススクエレルバス、クラウディオス・ヘススクエレルバス……」

 イシュルはペンを置くと背筋を伸ばし、胸の前に腕を組んでこれもまた満足げに何度も首肯した。

「ふむ」

 イシュルはそこで突然、ペンをテーブルに放り投げると長椅子に倒れ込み、足を前に投げ出した。そして両腕を後ろに伸ばしぶるぶると震わした。

「だ、め、だぁ……。とてもじゃないがこんな複雑な名前、憶えられない」

 しかも三人もだぞ。俺にはひとの、じゃない、精霊の名前を憶える才能が、記憶力がまったくないらしい。

「はぁああああ」

 ディエラード公爵邸二階の東南角部屋、賓客用の最も豪華な部屋に、イシュルの悲しく叫ぶ声があがった。 


 イシュルがディエラード公爵邸に腰を落ちつかせてしばらく経った頃、聖堂教会の聖神官、デシオ・ブニエルからある書物が届けられた。

 それは以前、イシュルがデシオに恥を忍んでお願いした、神学校の幼年クラスで使われる副読本で、古くから伝わる伝承、特に神話を主に、子ども向けにやさしく書き記されたものだった。

 デシオはさらにもう一冊、子ども向けではない大聖堂所蔵の書物を寄越してきた。その本は細い紐で綴じられた和綴じに似た形で製本され、薄い灰色に染められた表紙には、「古代ウルク王国正史・付(覚書)」と、仰々しい書体で記された題名があった。

 イシュルが手にした二冊の書物にはところどころ、色とりどりの美しい組紐の栞(しおり)のようなものが挟まれていた。

 神学校の副読本にはナヤルやクラウの登場するページに、もう一冊の方には一ヶ所だけ、組紐の栞が挟まれていた。二冊の書物にはさらに、「神学校の副読本を読んでから、ウルク王国史覚書の所定の項を読むように」との伝言が書かれた紙片が添えられていた。

 さすがは総神官長の秘書役、細かいところまで行き届いたデシオの気配りに、イシュルは心のなかで苦い笑いを浮かべた。

 だが、神学校の副読本から先に読め、との指示はそれとはまた別の話だろう。当然、そこには何か彼の意図するものが、理由がある筈だ。

 イシュルはデシオの指示どおりに副読本の、栞の挟んである説話の方から読みはじめた。

 まず最初の栞が挟んであった項、それは以前にクレンベルで、デシオとカルノ・バルリオレから聞かされた水神と風神の口論にナヤルが的確な助言をした話だった。なるほど、その文中にはナヤルの名がフルネームで記されてあった。

 次は風神イヴェダが火神バルヘルにクラウを使者として遣わした話、そこにもクラウの名が正確に記されてあった。そしてそれは以前にマーヤが教えてくれた、ともに赤帝龍と戦ったカルリルトスが、火神を狂わした月神の熾した青い炎を、その剛力で見事消し去ったあの話だった。もちろん、カルリルトスの名もフルネームで、正確に記されてあった。

 そして副読本に挟まった最後の栞、その項にあった神話は風神や、ナヤルやクラウら風の大精霊が誰ひとりとして登場しない、まったく関係のない話だった。

「ふむ。なんだろう」

 イシュルは長椅子にからだを横たえ、ゆったりくつろいだ姿勢でその話を読みはじめると、ぼそっと呟くように言った。

 この話が、デシオが副読本を先に読め、と言ってきたことと何か関係しているのだろうか。

 イシュルは長椅子の向かいのテーブルに置かれたもうひとつの本、「古代ウルク王国正史・付(覚書)」の灰色の表紙にちらっと目をやった。

 まずはこの物語を最後まで読んでから、だな。

 イシュルは手に持つ副読本に視線を戻した。

 その物語のタイトルには「くだけた神のかけら」とあった。




 主神ヘレスは天上にあって、いつもいつも、毎日のようにくり返される火の神バルヘルと水の神フィオアのいさかいに、常日頃から心をいため悩んでいました。

 火の神と水の神はともに正反対の性格をもち、考えることも、ものの好きずきも、なにもかもが正反対で、ことあるたびにいい争い、けんかばかりしていました。

「こまった、こまった、どうしたらいいだろう」

 悩むヘレスに、月の女神レーリアがいいました。

「わたくしに良い考えがございます」

 レーリアはヘレスに、ふたりの神それぞれに、はじめからぜったいに相手を憎んだり、きらったりしない弟と妹をつくってやり、火の神と水の神がどうしても会わねばならないときには、その弟と妹をかわりにつかわすようにすればよい、といいました。

 神々の間にはもちろん、たとえりっぱな精霊であろうと、使者のやりとりではすまないこともあります。そのときは、神々自身が相見えてことを進めなければなりませんでした。火の神と水の神のいさかいは、そのときにきまって起きていました。

 月の女神レーリアはいいました。そうであれば精霊とはちがう、火の神や水の神の代理となる神々を生み出せばよいでしょう。火の神や水の神とかわらぬ神力をもち、一方で火と水の力を弱めた兄弟神をつくって、その神々に代わりに話し合ってもらえばよいのです。火と水の力を互いに弱めれば、いさかいを起こすこともなくなるでしょう。

「なるほど、それはよい考えです」

 ヘレスは月の神の言を聞き入れ、火の神バルヘルにバルタルという名の弟を、水の神フィオアには×××××という名の妹を生み出してやりました。

 その後火の神と水の神が会うときは、彼らの兄弟であるバルタルと×××××が代わりをつとめることになりました。

 そしていつの頃からか、バルタルと×××××はなんどもなんども会ううちに、おたがいに深く愛し合うようになりました。

 愛し合うふたりの仲睦まじい様子は、やがて主神ヘレスにまで知られることになりました。

 ヘレスはその話をほかの神々や精霊どもから聞くと、激しく怒りました。

「火と水、風、土、金(かね)はぜったいに混ざりあい、ひとつになることは許されぬ」

 バルタルと×××××のふたりはヘレスに呼ばれ、ヘレスからたがいに愛し合うことをやめ、別れるようにいいつけられました。

「仕方がない。おれはヘレスのいうことをきく。主神にはさからえない」

 バルタルはおおいに苦しみながらも、ヘレスの命を受け入れることにしました。

 しかし、×××××はヘレスのいうことを聞き入れませんでした。

「バルタル、たとえあなたがわたしを愛することをやめても、わたしはけっしてあなたを愛することをやめない。永遠にあなたを愛し続ける」

 ×××××はバルタルに向かって叫びました。

 ヘレスはなんども×××××にバルタルをあきらめるよう説得しましたが、×××××は最後までヘレスに従おうとしませんでした。

「バルタルを愛することが許されないのなら、なにもかもすべてがむなしい。それならヘレスさま、どうかあなたの力でわたしを滅ぼしください」

 ヘレスは悲しげな顔で×××××を見つめました。そして静かにいいました。

「仕方がありません。それではあなたの願いどおりにしましょう」

 ヘレスは×××××を改心させることをあきらめ、×××××から名を奪い、神の世から追放しました。

 ×××××は地上におちると、無数のかけらとなって砕け散りました。

 そのかけらはあるものは愛、あるものは憎しみ、あるものは喜び、あるものは悲しみ、あるものは希望、あるものは絶望、それに善と悪、記憶と忘却、勇気と恐れ、魔力やからだの断片となって山や海に散り散りになって広がりました。

 そして暗く重いものほど海の底へ、そして地の底へと沈んでいきました。

「ちょうどよい」

 ヘレスはその様子を見ていいことを思いつきました。

 ヘレスが創造した地上にはそのころ、たくさんの木々が繁り、花が咲き乱れ、動物がかっぽしていました。

 ヘレスは愛や希望、善や喜びなどのかつて×××××であったかけらを使ってヒトをつくることにしました。

 そこで月の女神レーリアが口をはさんできました。

「愛や希望、善や喜びだけでヒトをつくっても時はまわりません。どうか少しだけでいいから、悪や憎しみ、悲しみや絶望もお使いください。さすれば愛や希望、善や喜びは、ヒトにとってより輝けるものになるでしょう。無数の運命が紡がれることになるでしょう」

「なるほど。そのとおりです」

 ヘレスはレーリアの言葉にうなずきました。

 時がまわらねば夜もこない、何より運命が動かぬ。それでは月の女神もつらかろう。

 ヘレスは善や愛、希望だけでなく、いくつかの悪や憎しみ、絶望などのかけらも使ってヒトをつくることにしました。

 こうして人間が地上に生み出されました。残された悪や絶望などのかけらは、後に魔物になりました。

 自ら望んでもいないのに生まれてしまった魔物たちを統べるために、ヘレスはバルタルを荒神として封じました。

 より深く地の底に沈んでいった暗く重いもの、それはヘレスの目にもとまらず、やがてほかの魔ものを喰らって結びつき、より恐ろしい魔ものになっていきました。

 それは長い間地の底にかくれひそみ、神々と、すべてのものへの憎悪をふくらませていきました。それは力を求め、集め、いつか神々を、すべてのものを滅ぼそうと考えました。

 でも、なぜ滅ぼそうと思うのか、その理由はいくら考えてもそのものにはわかりませんでした。

 地の底に深く沈んでいったもの、それは最初、いったい何だったのでしょうか。




 イシュルは書物から顔を上げ、南側の窓に目をやった。イシュルの部屋からは、手前の濃い緑の木々に隠れ、その向こうにちらちらと石造りの建物が見えている。空は薄雲が広がり霞んで見えるが、陽の光が上から滲みでるように降りそそぎ、思いのほか明るく感じる。

 この物語はヘレスの創世神話の一部、ということなんだろうが、デシオがこの話に栞を挟んできたのはなぜだろうか。

 聖堂教の一般の聖典では主神ヘレスはまず最初に風、火、土、金、水の神々をつくり、次に大地を、そして空と海をつくっていった、ということになっている。特に一日目に他の神々をつくり、二日目に大地を……などと時期を表すような言葉は出てこない。

 この物語、「くだけた神のかけら」によれば、人間は最後に、元は水神フィオアの妹だった神の欠片から生み出されたことになっている。残された欠片は後に魔獣となった。

 人は神の欠片からつくられたから魔法具を扱うことができ、魔獣はより重く大地に沈んだ欠片から直接生まれたから、自身が魔力を持つことになった——と、読み取ることもできるだろう。

 問題は最も深く沈んでいった“暗く重いもの”がより強く強大な魔物になったこと、それとその“暗く重いもの”とは何だろうか、ということだろう。

 より暗く重いもの、それは何だろう? それは憎悪と執念、いや怨念、あたりではないだろうか。

 物語の最後にはその力をつけた魔物は神々をはじめ、生きとし生けるものすべてを憎悪し滅ぼそうとしていることが記されている。

 フィオアの妹だったものの欠片、その“怨念”だけが“魔”となったために、その存在は己の行動理由がわからないでいるのだ。

「ふむ。でもこのことをなぜデシオが……」

 怨念、得体のしれない化け物……。もしかして?

 イシュルは目の前におかれたデシオから渡されたもうひとつの書物、「古代ウルク王国正史・付(覚書)」を手にとり、栞の挟んである項を開いた。



 ウルク王国ナレンシャル三世の在位十二年のこと、エストフォールン(現在の聖都エストフォル)にある地神の神殿において、ある重要な儀式が行われた。

 それは時に人を襲い、神殿を襲う凶悪な魔物、“マレフィオア”を強制召喚し、その場にて討ち滅ぼそうとするものだった。

 “マレフィオア”とはウルクの神官が仮に名づけたもので、もともと名のない魔物である。その魔物は「堕ちた神の欠片」に登場する水神フィオアの名を奪われた妹で、その砕け散った欠片から生まれ、神々を、世界のすべてを滅ぼす魔物であると信じられていた。

 その魔物マレフィオアは当初、ブレクタス山塊の奥地、地中深くにあるかつて荒神バルタルを祀った地下神殿に出没するとの報告があり、ウルク王国は腕利きの聖魔法の遣い手と神官兵の一団を派遣したが、彼らはブレクタスの地下神殿に到着したとの報を最後に、その行方を断った。

 ウルクでは同時期、ちょうど地神の大神官、デュドネ・シャールが苦心の末に、マレフィオアを召喚する魔法陣を己が召喚した大精霊とともに完成させた。マレフィオアは大地の奥深く、地下に隠れ潜むと考えられ、その魔物を地上に召喚するには地の聖魔法と精霊がもっとも適しているとされていた。

 ウルク王国はブレクタスの地下神殿に討伐隊を送る作戦を中止し、代わりにデュドネの召喚魔法陣を使ってマレフィオアを強制召喚し討ち滅ぼすことを企図した。

 それは地神の神殿に設けられた魔封陣を中心に強力な戦力を配置し、マレフィオアをその魔封陣に強制召喚すると同時、その魔力を封じ込めて全周から弓矢と槍で間断なく攻撃を加え、弱ったところで魔封陣を解除、聖魔法の連続攻撃で仕留める作戦だった。

 ウルク王国がマレフィオア討滅に拘り急ぐには理由があった。先年、火の神の神殿に一匹の火龍が侵入し、どういうわけか火神バルヘルの宝具と云われる、“永遠に消えることのない燃え盛る火の杯”が奪われてしまった。これはウルク王家はもちろん、すべての神官を震え上がらせる大失態となった。

 ウルクはその大失態を払拭するためにも、それに代わる大きな成果を示さねばならなかった。これ以上王国の威厳が傷つくことは許されなかった。

 マレフィオア討滅の総指揮には、地の神殿の大神官で、マレフィオアを召喚する魔法陣を完成させたデュドネ・シャールが選ばれ、彼の元に、おそらく水系統と思われるマレフィオアに対して強い攻撃力を持つ火の聖魔法を遣う神官が二十名、土の聖魔法を遣う神官が十名、そして地の神殿最強の戦士、ゴデルリエを筆頭とする屈強な神官兵百名あまりが集められた。

 マレフィオア討滅は地の神殿内において、地神の巫女が占った吉日、夏の二度目の新月の夜に行われた……。

 



 夜空が重たく垂れ下がり、辺りは地上にあるものすべてを飲み込むような漆黒の暗闇で覆われている。

「雲が厚いな……」

 地神の大神官、デュドネ・シャールは黒い空を仰いで呟いた。

「準備が整ったようですね。そろそろはじめましょうか」

 横から、今日になって王家から差し遣わされた若い神官が口を出してくる。名前はなんと申したか……。

 夜空は暗く重いが、周囲は無数の篝火が焚かれ昼間のように明るい。

 デュドネは足許に広がる、円盤状の石板に刻まれた魔封陣に視線を落とした。篝火の炎の光が石板上を瞬き、魔封陣の刻まれた縁(ふち)に暗い影を落としてその周囲を浮き上がらせている。

「うむ。貴殿は後方に下がっておれ。死なれてはわたしが困るからな」

 この男は王家の目付だ。死なすわけにはいかない。

 王家の目付が後方、神殿の中心にあるウーメオの石像の方へ去っていくと、デュドネは笑みを浮かべて、同じく石板の上に佇むゴデルリエに目を向けた。

「どうだゴデルリエ、恐くないか」

「……」

 ゴデルリエはその巌(いわお)のような顔に薄く、不敵な笑みを浮かべると無言で首を横に振った。

 ゴデルリエは神官服の上に胴、肩、脛、篭手など金色の鎧に身を固め、十字槍を右手に持って石板上に立てている。

 デュドネは同じ石板上に立つ他の三名の戦士たちにも顔を向けた。その者たちも余裕の笑みをデュドネに向けてくる。

 デュドネは笑顔を深めると、石板の中央に置かれた羊皮紙に記された召喚魔法陣に目をやった。

 その顔が途端に硬く厳しいものになる。

 そろそろはじめるか。

 デュドネは石板の外縁まで移動し声を張り上げた。

「それではこれからマレフィオア召喚をはじめる。みな心してかかれ」

 周囲からは鎧や盾の鳴る高い音とともに、「応!」と答える神官らの大きな叫声があがった。

 地の神殿の中心、いわばご神体ともいえるウーメオの石像から西に少し距離を置き、魔封陣の刻まれた大きな石板が設置され、その中央にマレフィオアを強制召喚する魔法陣の描かれた羊皮紙が広げられている。その召喚魔法陣はデュドネが考案し、苦労して呼び出した地の大精霊に特別に描かせたものだ。

 石板上には召喚魔法陣を中心にして、ゴデルリエら四名の腕を持って鳴る神官兵が東西南北に立ち、石板のすぐ外側には長槍を構え聖盾を並べ立つ同じ神官兵の円陣、その外側にはウルク王国全土から呼び集められた火の聖魔法の遣い手である神官たちの円陣、さらにその外側には土塊と岩でできたゴーレムを召喚し控えさせた地の神官らの円陣がある。

 デュドネは強固極まる三重円陣を張ってマレフィオア討滅の戦陣とした。

 それも肝心のマレフィオアを引っ張ってこねば話にならないのだが……。こればかりは前もって試すわけにもいかない。

 デュドネは呪文を唱えるまえに何度か息を深く吸い吐き出し、深呼吸を繰り返した。

 いわばこの場は実際にマレフィオアを召喚できるか、実験の場でもあった。成功したらしたで、その神話にも登場する伝説の魔物を確実に仕留めなければならなかった。でなければこの地が想像もできない恐ろしい災厄に見舞われるのは確かだと思われた。

 マレフィオアの召喚魔法陣は、「フィオアの妹」、「バルタル」、そして「破壊」や「略奪」、「欲望」に「力」、「魔法」や「神の宝具」などの言葉を神聖文字で、土の系統を基本とした召喚魔法陣に、闇や精霊神の無系統の同魔法陣の特徴を組み合わせた独自の形式の上に書き記してつくられていた。

「……」

 デュドネは呪文を唱えようとして、ふと背後をふり返った。聖盾をかまえた神官兵、神官やゴーレムの重なる間に、幾つもの石柱に支えられた円形の平たい屋根の下、篝火に赤く光る紅玉石をその目に宿した地神の石像が鎮座していた。

 そしてその前には、王家から差し向けられた目付の若い神官が佇んでいた。

 その神官の表情は暗く、篝火の炎に邪魔されはっきりとは見えない。だがなぜか、彼は笑っているように見えた。

 デュドネはその神官の視線を振り払うようにして前を向いた。

 そしてひと呼吸おいて気持ちを落ちつかせ、自ら考案した魔法陣に視線を向けゆっくりと召喚呪文を唱えはじめた。

「神に名を奪われし悪魔よ。その身を我が前に現したまえ。さすれば汝に偉大なる力を授けよう。さすれば汝に……」

 石板の中央に置かれた羊皮紙が青白い光に包まれた。辺りを吹く微風にわずかに浮き上がる。

 紙の上から何かが現れようとしていた。

「……そしてすべてを喰らいつくすがよい」

 デュドネは呪文を唱え終えると石盤から降りて、側にいる神官に声をかけた。

「魔封陣の起動にかかれ。やつが姿を現した瞬間に発動せよ」

 デュドネに命じられた神官は返事をするとすぐ魔封の呪文を唱えはじめた。

 マレフィオアの召喚魔法陣はいよいよ光を増し、不気味な魔力を吹き上げはじめている。

 デュドネは石盤から背を向けると、所定の位置、周囲を広く見渡せるウーメオの像の前まで早足で退いていった。いよいよマレフィオアが姿を現そうとする石盤、それをじっと見つめる若い目付の神官の側に立った。

「………、………、………」

 ガラスか水晶、あるいは硬石が割れるような音がそれに近いだろうか。

 甲高く、キンキンとあたりに反響する奇妙な音が聞こえた。

 デュドネが石盤へ振り向くと同時、巨大な大蛇の影がマレフィオアの召喚魔法陣から浮き上がるようにして現れでてきた。

 成功したぞ。

「発動!!」

 デュドネが叫んだ。

 石盤から白く半透明に光る壁が立ち上がり、大蛇の影を包み込む。魔封陣が発動した。

 その中で暗く沈む大蛇の影は、やがてはっきりとその姿を現しはじめた。

「ゴデルリエ!」

 デュドネは続いて、石盤上に腰を落とし槍をかまえた屈強な神官兵の名を叫んだ。

 だがデュドネの叫び声が終わるか終わらぬうちに、盤上の四名の戦士は首をぐるっと振った大蛇に上半身を持っていかれ、あっと言う間に腰から下、石盤から足腰を残すだけの姿になった。

 大蛇は盤上をひと回りすると魔封の結界の上方へ首を伸ばし、その顎を天に向け開き、凶悪な咆哮をあげた。

「………! ………!」

 その魔物の叫び声も、硬い石が粉々に砕けたような奇妙な音の、幾重にも重なりあったものだった。

 大蛇はその頭を魔封の結界の外に出し、その長大なからだをめぐらして外から結界を締め上げた。

 魔封の結界はあっという間に消え去りその力を失った。

「何をしておる、火を放て!」

 デュドネの叫びは、大蛇の咆哮に波のように動揺し打ち鳴らされる鎧の音、人々のさざめきの中に消えていった。

 大蛇は赤、青、黄、緑と極彩色に煌めき色を変える異様な目を下に向けると、首を降ろして周囲に陣を張る神官やゴーレムらを一気にひと薙ぎ、くるっと回転させて吹き飛ばし、粉砕した。

 マレフィオアはその巨体を真っ黒な夜空に高く伸ばし、その異様な光彩の双眸をデュドネたちの方へ、地神の像の方へ向けた。

 それはもう一度甲高い叫び声を上げると、固く乾いた声音で言った。人の言葉らしきものを話した。

「イイモノ、見ツケタ……」

 大蛇は首をデュドネたちの方へ伸ばし、その顎を開いた。その暗闇の中から青白い、人の腕に似た、いや人形(ひとがた)の魔獣、悪魔の腕が突き出された。

「!!」

 呆然と佇むデュドネに突然、横から誰かの腕がつきだされ、彼はそのまま吹っ飛ばされた。

 ゴゴン、と激しい轟音。

 気づくと目の前に、青白い大きな腕が伸びていた。

 デュドネは尻餅をついていた。恐怖に全身から力が抜けている。その巨大な腕は、自分がついさっきまで立っていた位置に突き出されていた。

 デュドネは視線をゆっくりと、その腕の伸びた先にやった。柱が、屋根が崩れ落ち、地神の像が破壊されていた。

 マレフィオアの腕は地神の像に食い込んでいた。

 そこへ一瞬、風が吹いた。デュドネの視界が閉ざされ、突如青い空が広がり風が舞った。

 そして青い空は青い光の束に集束し、デュドネの目の前を横切っていった。

 その光線はマレフィオアの青白い腕から突き出されていた。

 剣の形をした青いもの。鋭く尖った青く光る剣先。

「……い、イヴェダの剣……」

「………、………、………」

 デュドネが呟くと同時、マレフィオアから耳の裂けるような甲高い悲鳴があがった。

 手首あたりだろうか。目の前の青白い腕がぶるぶる震えだす。

「………、………、………」

 マレフィオアはもう一度叫ぶと、もの凄い早さでその腕をおのれの顎の中に収め、石盤の上に浮く召喚陣の中に姿を消した。

 遠く、わずかに瞬く篝火の火。

 そして静寂。

 他には何もない。

 恐るべき災厄はあっという間に終わりを告げた。

 多くの者は死に、僅かに生き残った者はみな恐れおののき、暗闇の底にその身を縮み込ませていた。

 デュドネの目の前に、王家から差し遣わされた若い神官が立った。

 彼は青く輝く剣を消し去ると言った。

「大丈夫ですか。大神官殿」

「あ、ああ。貴殿は……ベルシュの家の者……、わざわざ風神の宝具をその身に……」

「たいへんなことになりましたな。ウーメオ神の像が……、紅玉石は大丈夫でしょうか?」

 若い神官はデュドネの言を流し、地神の像に顔を向けて言った。

 デュドネも破壊された地神の像へ、その虚ろな眸を向けた。

 片方の紅玉石は無事だ。だが、もう片方は……、地神の像の顔の右半分は跡形もなく崩れ落ちてしまっている。

 おそらく奪われたのだ。あの化け物に。マレフィオアに。

「紅玉石のことは秘密にしていただきたい。外に漏れれば大変なことになる……」

 デュドネはまだ尻餅をついたまま、若い風神の神官の顔を見上げて言った。

 今まで二対の紅玉石から地神の宝具を顕現させた者はいない。奪われた紅玉石を偽物に換えても、その偽物が本物の宝石であるならば誰も気づかず、問題になることはないのだ。地神の目、二対の紅玉石が本物であるかどうか、それは高位の精霊かごく限られた神官にしか判断できない。しかも精霊に限れば、地神の精霊であれば恐れを抱く代物なのか、彼らはあまり紅玉石に係わりを持とうとしない。

 だが当然、奪われた紅玉石はいつか必ず、あの化け物から取り戻さなければならない。

「いいでしょう。確かにこれ以上、王国の醜聞が続くのはよろしくない。だが」

 若い神官は視線を石盤の方へ向けた。

 今は暗闇の底から微かに、生き残った者、傷を負った者の呻吟する声が聞こえてくる。

「この惨状はとても隠し通せるものではない。王家の方には見た通りに報告させていただきます」

「……わかった。貴殿の配慮に感謝する」

 デュドネは力なく頷いた。

 

 数日後、地神の神殿であるエストフォールンの主神殿は、現存するとは考えられていなかった伝説上の化け物、マレフィオアの大蛇を強制召喚し、深手を負わせて退かせたと、ウルク王国全土に向けて触れを発した。

 その後しばらくしてデュドネは大神官の地位を剥奪され、王国を追放された。デュドネが考案したマレフィオアの召喚魔法陣は写しとられ記録、保存されたが、地の大精霊クラスの精霊でなければ魔力のこもった本物の魔法陣を描くことはできず、その制作の困難さも加わって二度とマレフィオアの召喚が行われることはなかった。

 ウルク王国を追われたデュドネのその後の消息は不明である。一説には、彼は自ら考案したマレフィオアの召喚陣を携え各地を流浪し、後半生のすべてをかけてマレフィオアの真の名、主神に奪われたその名を探し続けたといわれている。

  



 ……こうして地神の神官らは全力をつくし、火と風の神殿の神官たちの加勢も得てマレフィオアの大蛇に深手を負わせ、地の底深くに追い払ったとされる。だが他に、その時はマレフィオアの大蛇に多大な損害を被り、何も出来ずにただ取り逃がしてしまっただけとの伝承もあり、その真偽はさだかでない。

 マレフィオアの大蛇はその身の丈おおよそ二百長歩(スカル、百三十m以上)とも云われ、全身を白く輝かせていた。マレフィオアの大蛇は、名を奪われた水神の妹の欠片から生まれた故か、水神フィオアの使いとされる白蛇とおなじ体色をしていた……。


 イシュルはそこで、呆然と書物から顔をあげた。

 これは……。

 白い蛇とはどういうことだ?

 森の魔女レーネの死体から姿を現した蛇も白蛇だった。やつはその顎から風の魔法具、風の剣を出してきたのだ。

 イシュルは顔を幾分俯かせ、苦しげな表情をみせた。

 ……わからない。

 マレフィオアの大蛇と、レーネの死体から出てきた白い蛇には何か関係があるのか、何も関係がないのか。

 ……レーネは生前、マレフィオアの大蛇と何か係わりがあったのだろうか。

 だがそんな記録は俺の知る限り、残されてはいない。

 イシュルは顎に手をやり、その眸をどこか遠くを見るように彷徨わせた。

 レーネの死体から白い蛇が出てきたことはミラにしか話していない。今度彼女に聞いてみるか。

 それにもうひとつ重要なことがある。

 イシュルは手許の開かれた書物に視線を落とした。

 ビオナートが大聖堂から持ち出した禁書というのは、間違いなくこのマレフィオアの大蛇、伝説上の化け物を召喚する魔法陣が記されたものなのだ。その禁書には当然、ひとの写したものではない、精霊によって魔力を込めて記された、実効性のある本物の魔法陣が載っているのだろう。

 デシオはそれを俺に知らせてきたのだ。

 ビオナートが持ち出した禁書に関しては、確かミラも以前に似たような事を言っていた。

 やつは……。

 ビオナートは確かに危険なものを持っている。切り札、とも呼べるようなものを。

 ただこんな化け物を召喚すれば、やつ自身も生きてはいられないのではないか。

 いや、違う。あいつは聖王家の魔法具、“イルベズの聖盾”を持っている……。

 きっと、やつは次の総神官長になる。そして聖冠の儀で俺たちに、俺に戦いを挑んでくるに違いない。

 ウルトゥーロから引き継いだ“ヘレスの首飾り”でその場、太陽神の座を支配し、魔封の状態でも強力な力を発揮する化け物を召喚するのだ。自らを聖王家の魔法具で守って……。

 やつは来る、かならず。大聖堂の主神の間に。

 イシュルは顔を上げ、南の方、大聖堂のある方を鋭く睨み据えた。

 その時、イシュルの居室の扉をノックする音が響いた。

「イシュルさま」

 イシュルが返事をし中に入ってくるように言うと、扉の向こうからルシアが現れた。

「セリオ・ディージェさまとベリン・イバルラさまが、イシュルさまにお会いしたいそうです」

 ルシアはイシュルの前に立つと微笑を浮かべ、両手をからだの前で合わせ一礼して言った。

「ああ、そう」

 イシュルは長椅子からからだを起こし、読んでいた書物をテーブルの上に置いた。

 またか……、やつらめ。こちらに空き時間があるとわかると、すぐに声をかけてきやがる。

「ところでなぜ、ルシアが?」

 彼女はミラ付きのメイドだ。セリオやベリンの件でイシュルを呼びにくることはない。

「はい、今日はミラさまもごいっしょしたい、とのことで……」

 ルシアはにっこり笑って微かに首を横に傾けた。

「ああ、そうですか」

 これでは断れないな。

 どうするか。もうあいつらに教えるネタがないな。

 イシュルは長椅子からのっそりと立ち上がると、両手を広げ「ふぁあああ」と、大きく伸びをした。

 そうだ。編隊空戦? みたいなのを教えるか。基本中の基本だよね。ふたりでペアを組んでさ。

 これでお互いの恋の成就も、より早まったりしてな。すこしはいがみ合う、いや人前でじゃれ合うのはやめて欲しいものだ。こちらとしてはもうお腹いっぱいだよ。

「イシュルさま、お行儀が悪いですわ。お屋敷の中で、使用人の前でそのようなことはお控えください」

 ルシアがイシュルが伸びをしたのを見てたしなめてくる。

「はいはい」

 イシュルは唇を尖らしぼそっと言った。


 デュドネは故国を追われる前に地神の像を修復し、像の右目には偽の紅玉石をはめた。偽の紅玉石は以前から、戦争や災害などの非常時に本物と差し替えられるように用意されていたものだった。

 偽の紅玉石には、デュドネが呼び出した高位の地の精霊に頼み、石の中に微かな地の魔力を封じてもらった。これで石の鑑定をできる神官や、ほかの精霊にもある程度のごまかしが効く。宝石の中に込められた魔力は長い間消えることはなく、時が立てば立つほど石になじみ、真贋の鑑定は難しくなっていくだろう。

 ただその時デュドネが呼び出した高位の地の精霊は、片方の紅玉石を失った異変に、何か不審なものを感じているようだった。もちろん、デュドネはその精霊に事の顛末を一切話さなかった。

 そして地神の像を修復した石工たちはすべて殺し、口を塞いでしまった。

 こうして、地の神殿が失った片方の紅玉石のことを知る者はデュドネ本人と、ベルシュ家の風の神官らごく一部の限られた者たちだけになり、長い時の移ろいとともにその者たちも死に絶え、事の真相は闇の中に葬られることになった。

 もちろんこの秘密はどの史書にも記されてはいない。語り継ぐ者もいない。

 長い長い間、聖堂教会も、聖王家も、誰も知る者はいなかった。

 イシュルとビオナートが相見えるまで。

 

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