聖都の終わらない夜



 イシュルは呆然とクート、いや、紫尖晶の長(おさ)フレード・オーヘンの哄笑を見つめた。

 その男の影が目の前に広がる薄暗い壁で狂態を演じるさまを、光と影が互いに絡みつき踊り狂うさまをただ呆然と見つめた。

「ふふふ、……ちなみにどうやってツアフの病気を直したのだ?」

 顔を上向けひとしきり笑うと、フレードはイシュルに訊いてきた。

「……」

 だがイシュルはすぐに答えず、足を組み楽な姿勢になると、片手をあげて自身の顎をゆっくりとさすりはじめた。その眸は僅かに細められ、何かの微かな表情が浮かんでいる。

 それは自嘲か、何かの諧謔か、それとも相手に対する揶揄か。

「そういうことか。あんたがな」

 イシュルの唇が歪む。

 イシュルはフレードの問いにすぐには答えなかった。

「世間は狭いもんだ。……ほんとに」

 イシュルが続けて言ったひと言に、フレードはその笑みを消して硬い顔つきになった。

 その何でもない台詞にはイシュルの前世からの記憶が重ねられたものか、長く生きて来たフレードでさえも皆目見当がつかない、不可解な、得体の知れない何かが含まれているように感じられた。

 イシュルはただ呆然としているように見えて、フレードが哄笑している間に自身の驚愕と動揺からすでに立ち直っていた。音と光が地下室を激しく揺らめき交錯するその幻惑が、イシュルの心をむしろ逆に静かに落ちつかせていった。

「ツアフの病気をどうやって直したか、だったな?」

 イシュルは頭をこころもち傾け、フレードを斜めに見て言った。

 いつまでも動揺などしていられない。この程度のことで。

 でなければ、この初老の男にいいようにつけ込まれる。こいつは今は“クート”じゃない。

「殺したんだよ」

 イシュルの唇がさらに歪んでいく。眸にも何かを面白がる色が浮かび、はっきりとした笑みになった。

「ツアフに巣くうステナの人格をな」

「ステナのじんかく……」

 フレードが目を鋭くして、だがどこか惚けたように呟いた。

「俺は神官でも医師でも薬師でもない。当てずっぽうでやったことがたまたまうまくいっただけで、またいつか再発するかもしれんぞ」

 イシュルはやや真面目な顔になって、半ばフレードを脅すように言った。

「深く傷ついた人間の心は多分一生直らない。時間という薄い膜を幾重にも被せて、糊塗していくしかない」

 あの時モーラは、フレードが当時、ツアフの心の病を直すために聖堂教の総本山、つまり大聖堂から精神系統の治癒能力を持つ神官を手配した、と言っていた。おそらく何かの伝手を頼って、デシオのような聖神官クラスの者を呼んだのだろう。

「そうか。そうだろうな」

 フレードは感情を消した顔で小さな声で言った。

「過去の記憶を薄れさせるために、ツアフにとって何か、もっといい事をしてやればいいかもしれない。例えばモーラにいい男を見つけて結婚してもらい、孫を産んでもらうとか。とにかく本人や家族が幸せになるようなことだ。あるいは過去の記憶と対決できるような、新たな何か強い使命感を本人に持たせるか。……俺にはそれくらいしか思いつかないな」

「なるほど……」

「大事な孫娘のために動いてやったらいいじゃないか。あんたが」

 微かに頷くフレードに、イシュルは再び歪んだ笑みを浮かべた。

「それで、俺をわざわざ今日、いきなりこんな時間に呼び出したのはなんだ? 俺に恩を返してくれるってことでいいのかな? いい話でもあるのか? 爺さん」

 イシュルは唇の端をひん曲げてフレードを見やった。

「ふん。小僧のくせに食えないやつよ」

 フレードはかるく息を吐くと表情を引き締め、その力のある視線をイシュルにしっかりと定めた。

「貴公に恩を返す、それはやぶさかではないが、今日呼んだのは違う件だ」

 イシュルを睨んだまま、フレードは少し間を置いた。

「今日、貴公は禁足されているディエラード家の長男を助け出しに、王宮に行ったな? その時内務卿と、第二王子に会ったというのは本当か」

「……」

 イシュルは無言で、さらに首を横に傾けた。

 こいつは紫尖晶の長(おさ)だ。当然ディエラード家を包囲した聖堂第三騎士団の動きも、サロモンの動向も知っているだろう。それはいずれも聖都を、聖王国を揺るがす大事件だ。街中の一般の住民にも、もうかなり話が広まっているかもしれない。

 そして俺が王宮に足を踏み入れ、内務卿と第二王子に会った、ビオナートのくそったれな影武者と対面し、一杯食わされた件は貴族の各派、影働きの連中にとっては最重要ではなくても、とても気になる情報だろう。

 今日のこの時点では、さすがに紫尖晶でもはっきりとは把握できていないわけだ。

「知りたいか? 紫尖晶の長(おさ)殿」

 イシュルは一応、意地悪く言ってみた。

「これでも俺は忙しいんだ。あんたもご存知の通り、公爵邸があの状況だからな。それをわざわざ呼びつけて、都合良く情報を引き出すだけか?」

「むっ……」

 フレードの眉が僅かに上がる。

「話してやってもいいが、その前に誓え。俺を、正義派を助けると。それも全力でだ。一応あんたも正義派なんだろ? ツアフの件の貸しもそれでチャラにしてやるよ。爺さん」

「……」

 フレードは大きく息を吐くと腕を組んだ。もうその仕草のどこにもクートの面影はない。

「だめだ。貴公が話す方が先だ。その後でなら交渉に乗ってやる」

「いやだね。俺の用件の方が先だ。誓えよ。俺に」

 フレードはもちろん、イシュルも一歩も退かない。

 両者は視線鋭くしばし睨み合った。

「……とんでもないやつだ」

 フレードは表情を柔らげたが視線だけは鋭いまま、ふてぶてしさは変わらない。

「いいだろう。全力、というのはさておき貴公の力にはなってやる。それは誓おう」

 フレードはひとつ頷きそう言った。

 だが、ただでは引き下がらなかった。

「貴公にどう加勢するか、その話をする前に、まずわしの質問に先に答えてもらおうか」

「わかった」

 イシュルもひとつ頷くと言った。

 フレードからとりあえず言質はとれた。

 この世界、大陸では身分の高い者ほどその言動は重く、それも一度口に出して「誓った」など言った場合、後になって単に口約束だからと逃げることは許されない、という考え方が一般常識として存在する。もちろんそれは絶対で例外はない、というわけではないが。

 イシュルはフレードに、ミラを伴い王宮に乗り込んでからの出来事を一通り話した。

「……で結局、ビオナートはろくでもない偽者だったし、第二王子を抱き込むこともできなかった。収穫らしきものといったら、ルフレイドと内務卿がどんな人物か、うっすらとわかった程度だ」

「ほう……、ルフレイドさまは王宮に残られたか」

「ああ」

 イシュルは、微かに笑みを浮かべたフレードに難しい顔になって頷いた。

「なに、王宮にひとがいなかったおかげで、普段ならまず会えぬ方々に会えたのだ。気にかける必要はあるまい」

 フレードの眸が笑っている。

 この老人はすでにもう、すべてわかっているのではないか。これからの各派の動きを。聖都の揺れ動くさまを。

「ふん」

 イシュルはつまらなそうな顔になるとフレードに言った。

 所詮はひとごとか。

 クートとしては正義派でも、紫尖晶の長(おさ)としてはそうもいかないということか。

「というわけで状況はよろしくない。これから先が思いやられる。俺はあんたに何ができるか、知りたいんだ」

「言ってみろ」

 フレードはイシュルに顎をしゃくって言った。

「……」

 イシュルはフレードの顔を見つめた。

 紫尖晶は神殿内にある組織だが、所属は聖王家だ。表向きの姿は聖堂教会の神殿でありその神官や見習いたちだが、実質は聖堂騎士団と何ら変わるものではないのだ。

「クートと紫尖晶の長(おさ)、どちらが本当のあんたなんだ?」

 イシュルは皮肉に唇を歪め言った。

 この男がツアフのように二重人格であったのなら、都合の悪い方の人格は殺してやりたい、くらいなんだが。

「どちらもわしだ」

 フレードは口の両端を引き上げて言った。少しも笑っているようには見えなかった。

「クートと紫尖晶の長(おさ)、フレードが同一人物だと知る者はどれくらいいるんだ?」

「数えるほどだ。それ以上は言えんな」

 イシュルは無言で頷いた。

 たぶんエミリアたちは知らされてなかったろう……。

「じゃあお願いに移るか。たくさんあるんだが」

 イシュルは一見、屈託のなさそうな笑顔を浮かべた。

 エミリアやエンドラのことを思い出すと、胸の底に冷たいものが流れ出す。

 イシュルはそれをつくりものの笑顔の裏に隠した。

「まず、ビオナートがどこにいるか探し出せるか。いや、やつと裏で繋がってる者たちを炙り出すことはできるかな?」

「まずは国王派の大神官に執政、特に内務卿の身辺から探るのが近道だが……。あまりひとは割けないが、一応は調べてみよう」

 イシュルは少し考え、小さく頷くと次に移った。

「ルフレイドの警護はできるか。あんたにもわかると思うが、ビオナートが次の総神官長に選出されると、その後おそらく彼は殺される」

「殿下を守り通すほどの手練れはいない。いたとしても殿下に張り付かせるわけにはいかん」

「次だ。貴族や神官だけでなく、街の住民らにビオナートが王子たちを殺そうとしていること、紅玉石の片方を聖堂教会から奪った話を広げてほしい」

「それはできるが……」

 フレードの顔にはじめて少し不安気な、不審な表情が浮かんだ。

 対してイシュルは微かに表情を緩めた。

 貴族や神官だけでなく、なぜ街の住民にまで噂を流すのか? という顔だ。

 戦(いくさ)などでは領民、街の住民たちは兵役にも就くし、彼らの動向が戦勢に大きな影響を及ぼす場合もあるが、今回のような支配層のみの覇権争いになぜ彼らが絡んでくるのか、謀略に経験豊富なフレードが不審に思うのも、一理あるかもしれない。

「群衆の、群衆心理の恐さを嘗めてはいけない。街の住民の考えていること、思っていることはすぐに下級貴族や街の神官らに伝播する。富商も同じだ。それはいずれもっと上の方にも伝わり広がっていく」

 イシュルはフレードの眸の奥底まで、まっすぐ見据えて言った。

「国王派に間接的な圧力を加えられるだけじゃない。もしビオナートが街中に潜み隠れるのだとしたら、やつに充分な心理的圧力を加えられる。やつの思考や行動に充分な掣肘を加えることもできるだろう。あるいは物的にも、な」

 フレードはにやりと、不気味な笑みを浮かべると頷いた。

 流言飛語、デマと同じで、手法自体は戦争や外交でさんざん使われてきた単純なものだ。目的がわかれば紫尖晶の長(おさ)なら容易に納得できる話だろう。

「わかった。時間はかかるだろうがしっかりやらせてもらおう」

 今回流布される話はデマなどではない。真実なのだ。だから威力はある筈だ。

「次は黒尖晶の聖堂がどこにあるのか、やつらのアジトはどこにあるのか、だ。やつらはまだ十名くらいは残っている筈だ」

「……それは知らん。もし知っていても口にはできんな」

 フレードの顔に少し辛そうな表情が現れた。

 お役目がら、か。

「調べることも無理かな?」

「うむ」

「なら、こちらから罠を張るしかないな」

 何か、やつらが出張ってきそうなイベントを仕掛けるか……。

「随分とご執心だな。エミリアたちを殺された意趣返しか?」 

「それだけじゃない」

 イシュルは硬い表情になって言った。フレードがそこまで言ってくるのなら自身の感情を隠す必要はない。

「やつらは目障りだ」

 そしてイシュルはわざと視線を緩めてフレードを見た。

「俺の考えていること、あんたにもわかるだろ? ビオナートが総神官長になるまで、やつの命は無理して取りにはいかない。どうせやつの所在がわかったとしても、その者が本物かどうかわからないからな。だが、やつの有用な手足は取り除かなければならない。こちら側を防衛しなければならない。あんたもだぜ? フレード。正義派の役に立つ間は、乞われればあんたの命だって守ってやる。俺にできることは荒事くらいしかないがな」

 フレードは無言で、微かに笑みを浮かべながらイシュルを見つめるだけだ。

「それで次が最後だ」

 イシュルは聖石鉱山で、ウーメオの舌で痛感したことを口にした。

「正義派には影働きを使って組織的な謀略戦をやれる者がいない。それを取り仕切ってやってくれる、経験のある者が欲しい。あんたはやれないか?」

 たぶんこれは、この男が紫尖晶の長(おさ)である限りは無理な話なのだ。だが……。

「お主もわかっているだろうが、それは無理じゃな」

 なぜかはわからない。そこでフレードははじめて少し困惑した表情を見せてきた。

「一か八か、なかなか面白そうな役目じゃがな。国王を完全に裏切る、どころかすっかり敵方にまわる、ということはできぬ」

「そうかな? もうビオナートを裏切ってるも同然じゃないか。あんただってエミリアたちのことは痛恨事だった筈だ」

「だからだ。わしひとりならいい。万が一他の者たちも粛正されるとなると困る。派手にやれば国王派に露見してしまう」

 ふむ。確かにこいつには、紫尖晶の長(おさ)としての重い責任があるのだろう。 

「派手にやればというが、ウーメオの舌での一戦は随分派手だったじゃないか」

「わしも表向きは陛下のために働いておる。貴公との取り決めはわし個人の裁量でやっておる。それにあの夜の戦いでお主が派手な大魔法を使ったおかげで、敵方とともに我ら紫の者が多く関わった証拠もいっしょに吹き飛んでしまった。黒はもちろん、他の尖晶聖堂の者たちにも、陛下にもそこまで詳しいことは知られていない筈だ」

「なるほど。あの時はみんな死んでしまったからな。だがあんたのその言葉、信じていいんだろうな。俺を裏切るなよ」

 イシュルは笑みを浮かべた。

 その笑顔は裏切れば、紫尖晶聖堂丸ごとこの世から消し去ってやるぞと、言外に、明確に語っていた。

「わしにはできぬ。だが当てはある」

 フレードはイシュルの顔を見て額に汗を浮かべ、口を歪ませ言った。イシュルの脅しをなんとかやり過ごした、そんな感じに見えた。

「当て? 誰だ? まさかサロモン殿下、とかじゃないだろうな」

 あの男ならそういうの、得意そうだ。だがたとえサロモンにその能力も知識もあったとしても、彼に仕切らせるのは危険過ぎる。

「ああ、違う」

 フレードは瞑目し、腕を組んだ。

「わしは昔、緑にいた。テオドールによく出張っていたのはその頃のことだ。それから倅のことがあって、短い間だったが白に移った」

 緑と白……。確か別格の黒を除いて、他に黄色があるんだったか。

「ええと、白は確か、聖堂教会内部の非違を探り暴いて、時に誅す、だったか」

 確かエミリアが教えてくれたことだ。

「そうじゃ。わしがその白にいた時、手下に面白い女子(おなご)がいての」

 フレードのその精悍な顔に、僅かな疲れが見えた。

「わしが紫に移った後、その女子(おなご)が当時の白の長(おさ)と仲違いしての、白を止めてアデール聖堂の神官に移ったのだ。つまり影働きを辞めてただの女神官になった。その時はわしが間を取り持ってやったのだ」

 フレードは視線をどこか遠へ見やった。

 “面白い女子(おなご)”、とフレードが言うのだから、そして俺に紹介しようとしているのだから、その今はふつうの女神官をやっているひとは、相当に“できる”人物だったのだろう。おそらく個人としての影働きの能力よりも、情報収集や謀略戦における指揮官、軍師や参謀としての能力に秀でていたのではないか。

「その者は今、アデール聖堂の神殿長になっておる」

「アデール聖堂というのは?」

「以前にラベナや双子のことで話したじゃろう。女しか入れない神殿じゃ」

 フレードがイシュルに目を合わせてきた。

「ラベナが駆け込んだという……」

 駆け込み寺、あるいは女修道院みたいなところだ。

「そうじゃ。その女子(おなご)の名はシビル・ベークと申す。わしが紹介状を書いてやるから、その者に頼んでみたらどうか。今はアデール聖堂の神殿長だが、白尖晶には未だにあの女子を慕う者もいる」

 フレードはやや顎を引き気味にしてイシュルを見つめてくる。

 フレードの言いたいこと、それは今現在、アデール聖堂の神殿長であるシビル・ベークには直接動かせる駒はない、ように見えるが、実際には古巣の白尖晶には彼女のために動いてくれる者たちがまだいるだろう、ということなのだ。

 そこらへん、どれくらい期待していいかはわからないが、シビル本人の能力が高いのなら、それだけでも充分に重宝する人材であるのは確かだ。彼女を総神官長やデシオたちのブレーンに加えるだけでも、正義派にとっては大きな力になるだろう。

「それじゃあ、たのむ」

「だがあの女子(おなご)は、今は尖晶聖堂から距離を置いている。上とゴタゴタして白尖晶をやめたからの。多少の説得が必要になるかもしれん。彼女に会いに行くのはお主だけでなく、他にもシビルと縁故のある人物を連れていった方がよい」

「じゃああんたが……」

「わしは動けん。表沙汰になれば問題になる、危険だ」

 フレードは感情を消した顔になって言った。

「そこでだが、わしの紹介状はラベナに持たせればよかろう」

「ラベナ?」

 そうか。彼女も駆け込み寺、アデール聖堂に一時身を寄せていたのだ。しかも今は一応、紫尖晶を辞め、公爵家の所属になっている。

「シビルは己と境遇が少し似ていたからか知らんが、ラベナに目をかけていたそうじゃからな。あやつを説得するのにラベナを連れていくといい」

 フレードはイシュルに小さく笑ってみせた。


 


 イシュルの目の前を酔った男たちの影が横切っていく。

 歓楽街を往き来するひとの影が交錯するたびに、背景に浮かぶ店の灯りが掻き消され、眼前を一瞬、暗闇が覆う。

 それが繰り返されるとひとの影はただ動くだけの暗闇となって、その道の一画はただひたすら光と闇の運動が繰り返される、小さな無機質な空間となった。

 イシュルはそこから視線をはずすと、夜更けにもかかわらず酔客で溢れる歓楽街の道をしばらく、静かに、人影に隠れるようにして歩いた。

 フレードはあれから、なるべく早く公爵家と渡りがつくようにしたい、と言ってきた。

「公爵家に出入りする御用商人に、我が手の者を紛れ込ませるようにする。服の仕立て職人や商人などがよかろう。貴公やサロモン王子だけでない、これから多くのひとが公爵邸に集まってくる。注文も増えるじゃろう」

 そしてフレードは続けて言った。

「公爵家の使用人を通じて、貴公かご息女さまに話がきたらその者が訪ねてきた、と思ってくれ。例えばその者が、『お嬢さまから先日、新しいドレスをつくりたいから生地を見せてくれ、と申し付けてられておりまして、本日そのお求めの品を持ってまいりました』などと言ってきても、憶えがないからと断らないように」

 イシュルはそうして紫尖晶正義派との繋ぎを得ることになった。

 そしてフレードと合議を重ね、十日に一度ほど、あるいは何か事件があった時に、イシュルが今日のように紫尖晶聖堂に行き、フレードと情報交換し何らかの打ち合わせを行うことが決められた。

 フレードは最後の最後になって言ってきた。

「くれぐれもわしのことは秘密にな。誰にも話してはならん」

 そして自身ありげな笑みを浮かべた。

「貴公なら心配する必要はなかろうが」

 もうフレードとは一心同体に近い、いわば共犯関係のような間柄にある。老人はこちらが裏切らない、裏切れないと見当がついたところで、彼にとって一番の弱点だった、こちらにとって一番有利に立てたであろう、大きな交渉材料を潰してきた。

 イシュルはフレードとの話し合いが終わると、帰りも来た道をそのまま辿り、歓楽街の通りまでビルドに付き添われて帰ってきた。

 ビルドによると、今イシュルが歩いている道は北オービエ通りと呼ばれ、もうひとつ南を並行して走るオービエ通りとともに、聖都に幾つか点在する大きな歓楽街のひとつ、ということだった。

 イシュルはビルドと別れるとしばらくそのまま北オービエ通りを西に歩き、途中から人気のない裏道に入り、家と家の建物の隙間に入り込んでその家の屋根の上まで跳躍、しばらく屋根づたいに南下、また下に降りて静かな裏道を通り、屋根上に登った。

 イシュルはそこで進路を東に取り、公爵邸に真っすぐ向かおうとしたが何を思ったか真逆の西側、下町の方へ移動をはじめた。

夜の帳が落ちてきた聖都の空を、イシュルの方へ向かってくる者がいる。

 イシュルは下町に入ったあたりの、二階建ての建物の屋根の上で足を止め、その者が近づいてくるのを待った。

 相手は王城の方からやってきたようだ。今のところ敵意は感じない。

 やつはおそらく……。

 その小さな黒い影は細長い魔法の杖に乗っていた。

「おまえだろ? 昼間にディエラード公爵邸の前で騎士団の連中といっしょにいたのは」

 黒い影はまだ十五前、イシュルより三つ四つ下の少年だった。黒いフードつきのローブを着ているが、フードは後ろにやって顔は隠していない。

 おそらく栗色の髪の、眸のきらきら光る少年だ。薄暗く、それ以上のことはわからない。少年は魔法の杖にまたがったまま、夜空にふわりと浮いている。

「それがどうかしたか。セリオ」

 イシュルは屋根の上に立ったまま、いきなり少年の名を口に出した。

 こいつは昼間にサロモンを空から襲撃してきたやつだ。間違いないだろう。

「うっ」

 セリオと呼ばれた少年は狼狽し、空中で全身をふらっと揺らした。

 わかりやすいやつだ。まだ子どもだものな。だがこいつからは、なんとかしてサロモン襲撃を命じた者の名を聞き出さねばならない。

 問題はなぜこの少年の方から俺に近づいてきたか、だが……。

「べ、ベリンが……、使節団にいたみたいなんだけど。なぜだ? あいつは十日以上も前に、魔導師長ら大勢の魔導師と騎士団といっしょに王都を東の方へ向かって出発して行った。おまえ、何か知ってるんだろ? 査察司役のミラさまといっしょだったものな」

 少年はしばらく悩み、逡巡した後、イシュルに聞いてきた。

 ふーん、そういうことね。

「気になるか?」

 イシュルはセリオに笑みを浮かべてみせた。

「ベリンのことが」

「くっ」

 また少年が空中で揺れる。

「いいぜ。教えてやっても」

 だがその前に、おまえに命じたやつが誰か、それを教えてもらわないといけない。

 それに俺も今日一日、目の回るような忙しさで、いろいろな出来事の連続で、ちょっとフラストレーションが溜まってるんだよ。

 だから……。

 おまえはすばしっこそうだし、適格だ。

 イシュルの笑みが深くなる。

「でもその前にちょっと遊ぼうぜ? 俺と」

 イシュルが言うが早いか、聖都の夜空に巨大な風の魔力の壁が出現した。

 魔力の壁はほんのり薄く白く輝き、聖都の上空をドーム状に覆った。 

「!!」

 風の魔法の杖に乗った少年は愕然と夜空を見上げている。

 風の魔力の壁と言っても、魔力を完全に遮断するものではない。物理的な障壁のみ、程度のものだ。

 下に広がる街のどこかで、神殿で、たまたま魔力を使った治療が行われていたら、ちょっとまずいことになる。

 それに完全に遮断してしまったら、“遊べない”。

 ただその前にちょっと、気になることがある。

 セリオはどこかに風の精霊を忍ばせていないか、それだ。

 イシュルはセリオの周囲に視線を向け、ほんの微かに風の魔力を吹きつけた。

 精霊らしき気配は感じられない。

 セリオはまだ若い。年齢的には魔導師見習い、といった感じだろう。ベリンは戦闘時に契約精霊らしきものを使ってきたが、彼はまだ精霊と契約していない可能性がある。

 ふむ……。それでははじめるとするか。

 イシュルは微笑み、少年の頭上に風の魔力の塊をふたつ、静かに浮かべた。

「かるく鬼ごっこでもしようぜ。俺から逃げられたら、おまえの知りたいことになんでも答えてやる。逆に俺がおまえを捕まえたら」

 イシュルはセリオを睨みつけた。

「俺の質問にすべて答えろ」

 イシュルの全身から殺気が魔力となって放たれる。

 セリオは恐怖に顔を強ばらせながらも、杖ごと全身を半時計周りに回転させ、そのまま小さく急降下した。真下の細い路地に突っ込んでいく。

 ほう……。

 イシュルはまずふたつの風の塊をセリオに追尾させ、自身も空中に飛び上がってやや上の高度から、リオの後方、少し距離をおいて追いかけはじめた。

 セリオは下町の細い道を突き進んでいく。

 その路地もやはり飲み屋や小さな娼館が固まっているのか、往き来する人々の影がある。

 セリオは彼らの頭上を西の方へ、かなりの速度で突き進んでいった。

 空を一端、上へ逃げると思ったんだがな。

 イシュルが上空に展開した魔力の壁は地面までは伸びていない。建物を破壊しないよう、聖都の街並みからやや上の部分までで止めている。

 やつならそれを一瞬で見極め、高速の出せる空の上へ上昇し、魔力の壁の外縁部まで突進していくだろう、と予想したのだ。

 それがまさか下を行くとは。

 しかも、やつの選んだコースがなかなかいい。

 両側は建物があるから大きな魔法は使いずらい、風球を飛ばしてぶつけようとしても、はずせば通行人が巻き添えになる。

 なかなか考えている。

 ただ、路地の家の二階部分には、道の両側の家々から洗濯物でも干すのか、無数に紐が渡してある。

 セリオはそれを上に下に巧みに避けて、しかもスピードを落とさずに逃げていた。

 イシュルは上空からセリオの逃げるさまを見て笑みを深くした。

 たいしたもんだ。だが一番いいのは地面に降りてしまって、魔力を切って人混みに紛れ込んでしまうことなんだがな。

 さて、そろそろこちらも仕掛けるか。

 ベリンの時のように、やつの飛ぶ速度に合わせて風の魔力の壁を出現させれば、簡単に捕まえることができる。だが、それで終わらせてしまっては何の面白みもない。

 イシュルはセリオを追尾しながら自身のからだのすぐ近くに風の魔力の塊を出現させた。そして空高く展開した広大なドーム型の風の魔力の壁からその魔力をゆっくり減衰させていく。

 それがだいぶ薄くなったところでイシュルは一気に左横に飛んだ。自分のからだに密着させていた風の魔力の塊はそのまま前方に進ませる。その先を飛んでいたふたつの魔力の塊のひとつの速度と高度を上げ、セリオの頭上に占位させ、彼が頭を上げようとするのを押さえ込むようにした。

 横に飛んだイシュルは、そのまま路地に沿って立つ家の屋根に降り立ち、風の魔力のアシストのみを使って、隣の小道の方へ屋根伝いに駆けていった。

 隣の路地もセリオが逃げる小道と平行に西に伸びている。

 あいつがこちらの動きに気づかなければいいんだが。

 イシュルは足許の屋根を蹴って隣の路地に飛び込むと、自分のからだを前方に吹っ飛ばした。

 前方につらなる紐を避けている時間はない。申し訳ないが、風の魔力を槍のように伸ばしすべて切り落としてしまう。

 下を歩く通行人が垂れてきた紐に気づいて上を見上げたが、その時にはイシュルは道のずっと先を行き、誰も、何の姿形も見えなかった。

 イシュルはセリオの逃げる道の隣の道を、彼よりもはるかに早いスピードで突っ切り、適当なところで目の前に現れた鉄製の看板を両腕で掴み、足を上にしてからだを捻り上げながら飛び上がって、その看板の家の屋根の上に降り立った。

 そしてすかさず腰を落とし、屋根の影に身を潜めながら隣の道を窺った。

 やつはまだ後ろにいる。

 イシュルはそこで、セリオが逃げ込んだ元の道へ戻った。屋根の上を身を屈めて走りながら、イシュルは僅かに口を歪めほくそ笑んだ。

 イシュルが横っ飛びに放った三つ目の風の魔力の塊は、セリオに対するいわば目くらましだった。

 それは逃げるのに必死で後方をしっかり確認する余力のないセリオに、自らも大きな風の魔力を発散するイシュルと誤認、錯覚させるために放った一種のデコイ、ダミーだった。

 一般の魔法使いはイシュルや高位の精霊のような魔法の感知能力を持たない。しかもセリオは逃げるのに必死で、前と後ろにしか注意を向けていない。

 イシュルは横に逸れた時点で自身の魔力の放出を最小限に押さえ、隣の道からセリオに気づかれないように高速で突き進み、彼を追い越し先回りしようと考えた。

 イシュルは元の小路に面した建物の影から、路地の後方を覗き込んだ。セリオがイシュルの方へ向かって飛んでくるのが見える。

 彼は幾分速度を落とし、ちらちらと後ろを窺っている。

 やばいな。そろそろ気づかれるか。

 イシュルは路地に飛び出し、セリオの前から突っ込んだ。目の前に現れた紐の下をくぐり、足許に風の魔力を固めた踏み台を出現させそれを蹴って跳躍、下から突き上げるようにしてセリオに近づいた。

「あっ! ……あああ」

 セリオがイシュルに気づく。目をまん丸にして驚いている。

 小路の両側は家、下には人。頭上と後方にはイシュルの放った風の魔力の塊。前方、斜め下からはイシュル自身が。

 セリオは考える間もなく、咄嗟に上へ逃げることを選択した。

 その時、上向くセリオの魔法の杖にイシュルの腕が伸ばされた。

「うっ、うぁあああ」

 魔法の杖から魔力が失われる。セリオが下へずり落ちそうになった。

「ふふ」

 イシュルは上から見下ろし、魔法の杖にしがみつくセリオに笑ってみせた。

 空中にすっと立ち、イシュルが杖の先端を掴んで垂直に持ち上げていた。

 セリオはその杖の下方を両手で握りしめ、足をばたつかせぶらさがっていた。風の魔法使いの少年は、うらめしそうな顔になってイシュルを見上げた。

 セリオの魔法の杖は、イシュルに掴まれ彼の強力な魔力の干渉を受けて、その能力を発揮できなくなっていた。

 イシュルは顎を心持ち上げてセリオを見やった。

「俺の勝ちだな。セリオ」




 イシュルはセリオの風の魔法の杖を夜空にかざすようにして持ち上げた。背景には大聖堂や王城の塔の複雑に折り重なった姿が夜空に薄らと浮き上がって見える。

 ……どこかで感じた似たような心象だ。黒い紙にあいた小さなピンホール。そこから風の魔力が吹きつけてくる。それは今は自分の手の中にあるが、自分のものとは感じない。

 彼らはこれに呪文を当てて魔法を発動しているのか。

 イシュルは杖を握る手にかるく力を込めた。ピンホールが消え、自身の中に吹き付けてくる風の魔力が止まった。イシュルはセリオの魔法の杖から放たれる風の魔力を止めた。その小さな風の魔力にそれほどの違和感は感じなかったが、けっして自身の中から生まれ、沸き上がってくる風の魔力とはいっしょにならないものだ。 

「なるほど。こういうものか」

 イシュルはセリオの風の魔法具を屋根の上に並ぶ洋瓦の上に置き、宙に浮かぶセリオを視界の端に、誰にも聞こえないような小声で呟いた。

「ゔ〜っ」

 セリオが唸り声をあげる。

 イシュルは微笑むと一度王城の方に視線を向け、真面目な顔になってセリオを見上げた。

 今イシュルは大聖堂やディエラード公爵邸にほど近い、運河の対岸に立つ大きな商家の建物の屋根の上にいる。

 セリオは、かつて風の精霊のナヤルがやったような、両手両足首を風の魔力でできた半透明のリング状の拘束具で、大の字になって空中に固定されている。

 イシュルは以前、ナヤルがやってみせた業をすでにものにしていた。

「で、だ。おまえにサロモン王子襲撃の命令を出したのは誰だ? 内務卿か。まさか国王本人じゃないだろうな」 

「それよりこれ、はずしてくれよ」

「痛いか?」

「そんなに。ぜんぜん動かせないけど」

「じゃあ文句をいうな」

 セリオがむっとして頬を膨らませてくる。

「で、誰だ? おまえ、自分が攻撃した相手がサロモン王子だって知ってたのか?」

「俺は偽者だって聞いたけど」

「はあ? それで?」

「……」

「言えないのか」

 セリオは頬を膨らませたまま横を向き答えない。

「じゃあ仕方ないな」

 イシュルは立ち上がると言った。

「ベリンに会わせるのはなしだ。おまえにはここで死んでもらう」

「えっ……」

 セリオがイシュルの顔を見てくる。

 最初は訝しげな視線を向けたセリオだが、イシュルの平然とした態度に、だんだんと恐怖を募らせその顔が歪んでいく。

「誰に、どんな命令を出された? 言え。そんなこと、おまえの命をかけるほどのものなのか」

 イシュルはセリオにも感じ取れるようにわざとゆっくり、精霊の領域から風の魔力を彼の周囲に降ろしていく。

「わ、わかった。話すから。話します」

 セリオは首をまわして辺りを見て、全身を震わせ言った。

「え、えーと。アナベルに、アナベルさんにやれって言われたんだ。ディエラード公爵家が騎士団の包囲を解くために、偽の王子を仕立てて聖王家の御旗を王城から公爵邸に持ってこようとしている、って」

 アナベルか。アナベル・バルロード、国王の執務室の控えの間にいた魔導師長の孫娘だ。二つ名は土系統の魔法使いなのになぜか、“青い魔女”。

「それで」

 イシュルは歪んだ笑みを浮かべ、セリオに向けて顎をしゃくってみせた。

「それで……、聖王家の旗と偽の王子を焼いてしまえって」

「偽の王子さまはまあいい。だが聖王家の旗を焼いてしまっていいのか?」

「非常時だから構わない、って」

 とんでもない命令だ。セリオが子どもだからか知らないが、あまりに馬鹿にしすぎではないか。

「そうか。おまえ、失敗してよかったな。今公爵邸にいるのは本物だぞ。あぶなかったな」

「……え゛」

 セリオは全身を硬直させた。夜目にもわかるほど顔が強ばり青ざめている。

 子どもだからだませる、しかも能力がある、ってことでセリオが選ばれたのだろう。あの高空から雲の上を伝って接近、奇襲する作戦もあの女が考えたのではないか。

 そしてサロモン暗殺が成功しようが失敗しようが、誰が命じたかバレそうになったら、口封じにセリオを殺してしまおうと考えていたのではないだろうか。

 アナベル・バルロード、やつは早めに始末した方がいいだろう。

 いや、できれば捕まえて拷問だな。あの女がビオナートとどう繋がっているのか、誰を介して繋がっているのか、魔導師長が一枚噛んでいるのかいないのか、他に仲間がいるのかいないのか、しっかり吐かせてやる。

 クートあらためフレード・オーヘン、やつに頼んでもいいし、今度紹介してもらえるアデール聖堂の神殿長、シビル・ベークというひとにお願いしてもいい。いずれにしても今後は拷問のプロをしっかり手配できるだろう。

「これからは気をつけるんだな。たとえ気心の知れた先輩、兄弟子だろうが、こういうご時勢ではどんな目に合わされるかわからない。騙されないようにしろ」

「……」

 イシュルが厳しい顔をして言うと、セリオは泣きそうな顔でこくこくと頷いた。

「それじゃあ、ベリンのいるところに連れて行ってやる」

 イシュルはセリオにはめた腕輪と足輪を消し飛ばした。


 イシュルはセリオを連れ、大聖堂の広場に降り立った。

 ダナやベリンら貴族の魔導師が宿泊している建物は、広場の南側に面した石造りの立派な三階建ての建物だ。おそらく賓客の宿泊に使われているものだろう。

 イシュルは自身から、風の魔力を派手に夜空に放った。

 上空で風の鳴る音が轟く。

 途端に灯りのついた幾つかの窓が開け放たれる。窓から顔を出して辺りを見渡す者たちの中から、ダナとベリンの姿を見つけ出したイシュルは背を伸ばし、彼女らに大きく手を振った。

 セリオは風の魔力の壁に囲まれ、イシュルの横で膝をかかえてしょんぼり座っている。

「ああっ、セリオだ!」

 外に出て来たベリンがセリオを見つけ、大きな声で叫ぶように言った。

「あら、セリオもイシュルさんに捕まっちゃったのね」

 ベリンの後ろからダナが続いて言ってくる。

「ふふ。あんたなんかがイシュルさんに勝てるわけないでしょ」

 ベリンはセリオの前で仁王立ちになって、以前に自分も同じ目に合ったことをすっかり忘れ、まるで自分が捕まえたかのような勝ち誇った口ぶりだ。

「うっ……」

 セリオは口ごもってくやしそうな顔でベリンを見上げている。

 イシュルに風の魔力の壁で閉じ込められたセリオは、立ち上がることができないでいる。

「ダナさん、すいませんが彼もベリンといっしょに保護してもらえませんか」

 イシュルはダナに近づいて声を少し落として言った。

「わかったわ」

 ダナが頷くと、イシュルはセリオの方を向いて今度は大きな声で言った。

「もうおまえは王城に近づくな。王宮に出入りするのも禁止だ。たとえ内務卿や魔導師長から呼ばれても行くな」

「えっ」

 イシュルは呆然とするセリオに再び声を落として言った。

「わかるよな? おまえのやったこと。あれはヤバ過ぎる。とてもじゃないが失敗したから良かった、サロモン殿下は無事だった、はいそれでおしまい、では済まされない。下手するとおまえ、口封じにアナベル・バルロードに殺されるぞ」

「アナベル・バルロード? あの女がどうしたの」

 ダナが厳しい顔になって横から聞いてくる。

「セリオにサロモン殿下襲撃を命じたのがその女だそうです」

 イシュルはセリオから聞いた話をダナに話した。ダナたちは城門前で落ち合った時、ミラからサロモン王子襲撃の話をすでに聞いている。

「まったく。あの女ならやりかねないわね」

 ダナはイシュルの説明を聞くと厳しい声で言った。

「セリオ、これからしばらくはダナさんの指示に従って行動しろ。いいな? 気をつけろよ」

「わかったよ」

 イシュルはセリオが頷くと、彼を囲っていた風の魔力の壁を精霊の領域に戻し、消していった。

 そしてセリオの魔法の杖を返してやった。

「では俺はこれで。後はよろしく」

 イシュルがダナにかるく頭をさげてこの場を去ろうとすると、ベリンが声をかけてきた。

「ねぇ、イシュルさん。いつがいいかな?」

「な、なんだよ」

 イシュルが答える前にセリオが割って入ってきた。

「ふ、ふーん」

 ベリンが可愛らしい顎をひゅっと上げて、得意げな顔でベリンを横目に見る。

「わたし、イシュルさんに今度“空中戦”を教わることになってるの」

「くうちゅうせん……」

 セリオの両方の眸が呆然と見開かれる。

「イシュルさんは空での戦い方に凄く詳しいんだよ。さすがはイヴェダの剣ってことかな? わたしもすぐに捕まっちゃった」

 ベリンはセリオをちらちらと横目で見ながら、自慢げに話を続ける。

「今度は、ぜったいに負けないからね!」

 ベリンはセリオにしっかり顔を向けてそう言うと、彼からつん、と顔を逸らしてみせた。

 どうやらベリンは“空中戦”で、セリオにあまり勝てていないようだ。

 ふふ、なんとも微笑ましい。しかしベリンがあんなに空中での戦闘に拘っていたのはこれが理由か。

 これは相思相愛ということか? でも素直になれないふたり……か。

「なあ、俺にも教えてくれよ。その空中戦、ってやつ」

 セリオがイシュルを睨みながら挑戦的な口調で言ってくる。これはそう、恋のライバルに向けてくるような感じか。

 いや、俺は違うから。俺はさ、ベリンの先生どころか、当て馬にされてるんだよ、きっと。おまえのな。

 女の子は子どもでもうまいよね。こういう駆け引きみたいなの。

「好きにしろ」

 イシュルはそんな、内心考えていることをおくびにも出さず、セリオに厳しい口調で返した。

 そしてベリンにも顔を向けて言った。

「公爵邸の今の状況はおまえたちにもわかるだろう。俺のところに来るのはせめて十日ほど後にしてくれ。それから俺を訪ねてくる時に、空から来るような行儀の悪いことはするなよ。今は殿下がいらっしゃる。公爵邸の周囲は俺が召喚した大精霊に常に見張らせているから、いきなり空から侵入してきたら一撃であの世行きだからな」

「大精霊……」

 イシュルの脅しにふたりとも、とくにベリンは顔を青くしている。彼女はクラウの姿をちらちら見ている筈である。

「ちゃんと馬車にでも乗って、正門から入ってこい」

 イシュルがそう言うと、ベリンとセリオはふたりそろって首を縦にカクカクと、何度も振った。

 後ろでダナが笑っていた。


 篝火をさかんに焚き公爵邸の前を陣取る人々を避け、イシュルは少し離れた木立の影に静かに降り立った。

 篝火の炎の瞬きに人影が踊る。その光と影の交差する間隙を縫ってイシュルは屋敷の中に足を踏み入れた。屋敷の内と外を忙しなく行き来する人々は誰も、イシュルに気づかなかった。

 中に入ると視界の正面を覆う、大きな階段がある。吹き抜けの大ホール、その中央に鎮座する幅広の階段だ。

 その階段の中ほど、向かって右端の手すりに左手を置き、ミラが背筋を伸ばして立っていた。

 劇的なシーンだった。ミラは赤いドレスに着替えていた。

「イシュルさま!」

 ミラがドレスの裾を持ち上げ降りてくる。

「ミラ。ごめん、遅くなった」

 イシュルも階段を駆け上り、差し出されたミラの手をとった。

「いいえ……」

 ミラがからだを寄せイシュルを見つめてくる。

 あー、えーと。

 ほんとはここで彼女にそっとキス、なんてのが王道パターンなのだろうが。

「やっぱりミラは、赤が一番似合うんだね。納得だよ」

 はあ、この返しでどうだろうか。ぎりぎり及第点かな。

 とにかくミラの巻かれた豪奢な金髪と白い肌、それに赤がとても似合うのは確かだ。

「まぁ、そんな」

 ミラが恥ずかしそうに目を伏せる。長い睫毛に思わずどきりとしてしまう……。

 ミラはほんとに賢い。階段の立ち位置、赤いドレス、切なげな眸の色……。すべてが俺を迎えるための計算された演出なのだ。しかもそれを邪念なく心を込めてやってくる。

「イシュルさま、お腹がすきましたでしょう? わたくしもまだですの」

 ミラは顔を上げると、顔を微かに横に傾け、笑顔になって言った。

 少しだけ悪戯してみましたの。少しでも疲れがとれましら良かったのですが。……とでも言っているような微笑みだ。

 階段を降りるとミラはイシュルの先に立ち、ホールの右側、公爵家の家来たちが詰める部屋、サロモンがいた部屋とは反対側の東側へ歩き出した。

「お食事は東の、小薔薇の間でとりましょう」

 一瞬立ち止まったイシュルに、ミラが振り向いて言った。

「殿下とお兄さま方は? いいのかな」

 もう遅い時間だからか、ホールにも左右の廊下にも人影が少ない。屋敷の外へ出て行く者、中へ入って来る者、公爵家の家人たちは皆静かに壁に寄って歩いている。西の奥の大きな部屋にいた多くの人々の気配もみな仮眠でもとっているのか、それほど強くは感じられない。

「はい。あの方々は今はお酒を召し上がっていますから。イシュルさまは顔を出さない方がよろしいですわ」

 ミラは“あの方々”と、サロモンはともかく双子の兄をもそう突き放して呼んだ。

「ああ、そう……」

 イシュルは小声で相槌をうった。

 いい大人のみなさんは酒盛りをはじめちゃったのね。まぁ、確かに今はもう、見張りをしっかりやっていれば充分で、危険な状況ではないんだろうが……。

 ミラは東側の主廊を奥へと進み、ふたつ目の部屋にイシュルを招き入れた。

 “小薔薇の間”は、そこそこの規模であれば舞踏会も開けそうな大きな部屋だった。篭城に備えたものか、今は場に似合わない木樽や木箱、丸められたキャンバス地の布や縄などが置かれている。部屋の端には幾つかのテーブルや椅子が並べられていた。

 その手前のテーブルに椅子が向かい合わせに二脚、横にルシアと同じ年頃のメイドが一名、控えていた。生成りの敷布が敷かれたテーブルの上には水差しにグラス、料理の盛られた大きめの皿がふたつ、ナプキンらしき布、その他食器類が載っている。

 イシュルはミラと向かい合って座り、遅い夕食をとった。

「ふむ」

 イシュルは皿の上に載った料理に二股のフォークを当てて言った。

「これはなんていう料理?」

 皿の上には取り分けられた野菜と肉の煮込み、ポトフに、輪切りされたパン、それに木の実の入ったテリーヌらしきものがある。

「ナレーナといいます。これは鶏肉をすり潰したものに木の実を入れて火を通したものですわ。いろいろな種類がありますの。ラディスでも南部の方では似た料理があると思います」

「なるほど」

 それならほぼ前世のテリーヌと同じものだな。

「お屋敷がこんな状況なので……。ろくなおもてなしもできなくて申しわけありません。イシュルさま」

「いや。いいんだよ。ぜんぜん気にしてない。暖かいものが口にできるだけ恵まれているよ。俺の方こそ、気をつかってくれてありがとう。ミラ」

 今の公爵邸の状況は篭城戦と変わらない。それを考えると大変な御馳走だ。

「そういっていただけるとうれしいですわ。イシュルさま」

 ミラはイシュルに笑みを浮かべて言うとメイドにむかって頷いてみせ、彼女を下がらせた。

「それで、紫の方はいかがでした?」

「うん」

 イシュルは膝の上に広げたナプキンを取り上げ口許を拭うと、ミラにフレードと話したことを説明した。

 もちろん、クートが紫尖晶の長(おさ)であったことには触れなかった。

 ミラはイシュルの話が終わると、肝心の紫尖晶がディラード公爵家と繋ぎをつける件は無言で頷くだけでかるく済まし、どういうわけか、謀略戦の指揮者としてフレードが紹介してきたアデール聖堂の神殿長、シビル・ベークには強い関心を示した。

「……そうですか。アデール聖堂の神殿長が……。あそこは特殊な神殿なので聖王家はもちろん、大聖堂からも距離をおいていますから、おそらくどの派閥にも入らず完全な中立でしょう。その方が引き受けてくだされれば心強いですわね」

「そうか。……なるほど」

 フレードが奨めてきた、というのは当然、そういうこともあるわけか。

 だがイシュルが頷くと、ミラが少し顔を曇らし言ってきた。

「でもあそこは男子不入の神殿ですから、イシュルさまは中に入れませんわよ」

「あっ」

 そういえばそうか。神殿長には外に出てきてもらうしかないな。

「ふふふ……。でも、わたしにいい考えがありますわ。イシュルさまならさぞかし可愛らしい……」

 後の方をゴニョゴニョと口を濁し、ミラが少し頬を染めイシュルの顔をじーっと見つめてくる。

「……」

 な、な、なんだろう。凄い、嫌な予感がするんだが。

「ゴホン、えーと、それでミラに聞きたいことがあるんだが」

 イシュルは咳払いすると、話題を変えた。

 危険だ。さっさと次の話に移ろう。ぜったいに女装なんてしないからな。

「サロモン殿下には正義派のこと、秘密にしていることをどこまで話すんだ? こちらが“聖冠の義”でやろうとしていることなんか、とてもじゃないがあのひとには話せないだろ?」

 イシュルは構わず、何かよからぬ妄想に入っているのか、ぼーっとして返事をしないミラに小声で言った。

「それは……」

 ミラは途端にはっとした顔になって口ごもる。

「わたしではとても……。最終的にはウルトゥーロさまにご判断を仰ぎませんと」

 イシュルは厳しい顔になって言った。

「なら今はこちらから殿下にはしゃべらないでおこう。あのひとならもう、うすうす感づいているか、どこからか情報を仕入れているかもしれないが」

「はい」

「まぁ、すべてを知らせて彼に協力させ、同時に裏切りも防ぐのなら、正義派が殿下を次期国王に推す、という手形でも振るしかないだろうな」

「ええ」

 ミラは神妙な顔つきになって言った。

 正義派はビオナートの野望を退けるのが最大の目標であって、次期国王に対する明確な展望は持たない。

「それと……イシュルさま」

 そしてミラはより真剣な表情になって、思わぬことを言ってきた。

「わたくしたちがクレンベルを出発してから国王派がやってきたことは、わたくしもデシオさまも、まったく予想していなかった随分と過激なものでした。我が屋敷を聖堂騎士団を使って囲んできたこともです。あげく今は陛下はお隠れになって、行方が知れません」

 そこでミラは一端言葉を切ると、指先を唇に添えて考え込むような仕草になった。

「もし今後ルフレイド殿下が非命に斃れ、いえ、はっきりと申し上げましょう、ルフレイド殿下が暗殺され、陛下が思わぬ動きにでるようなことがあれば、わたくしたちもサロモンさまという強力な札を得たのですから、今まで考慮してこなかったことも選択肢に加えるべきだと思います」

「それは……、ビオナートが思わぬ動き、と言うのは?」

 確かにやつはこちらの想定外の手を打ってきた。それは当然、今後も起こりえる、ということか。

「例えば、陛下が総神官長を決める入札に立たない、ご自身がお隠れになったままルフレイドさまを亡き者として、サロモン殿下を廃嫡し当家を閉門、御身の退位と同時に幼い王女を即位させ、自らは摂政になり、相変わらず表には出てこない、戴冠式は何らかの理由をつけて先延ばし。当面“聖冠の義”も陛下とは関係がなくなり、こちらはその幼い女王を殺すしか手がなくなる……といったところでしょうか」

 ミラはイシュルに向ける視線に鋭い色を忍ばせ言ってきた。

「そのような事態になれば、こちらも大胆に動く必要があるかもしれません。わたくしが今考えているのは、まず手始めにイシュルさまに王宮を破壊していただき、次にサロモン殿下に当屋敷から白路宮に移っていただきます。そこから殿下に諸候に向けて号令していただくことです。後宮を押さえ執政も新たに任命し、お隠れになった陛下の影響が一切、宮廷に及ばないようにしてしまいます。聖堂騎士団や宮廷魔導師はイシュルさまはじめわたくしたちで抑え、聖都の周囲はサロモン殿下を支持する諸候の軍勢で固めてしまいます」

 それは……。 

 イシュルは愕然とミラの顔を見やった。

 それはつまり軍事クーデターだ。

「もちろん前もって関係する方々に充分な根回しが必要になりますが、大聖堂の国王派の大神官たちを軟禁するなりして教会の中枢も同時に掌握すれば、大事にはならずにすみ、事がうまく運ぶかもしれません」

 ビオナートが表に出ないことを、王宮にいないことを逆手にとるわけだ。サロモンという玉が手許にある状況で。

 ミラめ……。恐ろしい子だ。

 イシュルはすぐに驚きをおさめ、ミラににやりとした。

 俺に王宮の破壊、聖堂騎士団や魔導師たちとの正面対決が許されるなら、それは願ってもないことだ。

 ただ問題はある。ビオナートに渡ったもう片方の紅玉石、やつが隠し持つ聖堂教会の危険な禁書、それらの回収が難しくなる。

 だがそれもサロモンが国王になり、正義派が政権の中枢を握れば、黒の残党も含めたすべての尖晶聖堂を動かせるようになるわけで、ビオナートの探索も、やつを追い込んで炙り出すのもとても楽にできるだろう。

「ミラ、いい手じゃないか。むしろきみの考えをさっさと、今すぐ実行に移してしまった方が楽じゃないか? ルフレイド王子は軟禁してしまえばいいのだし」

「でも、わたくしの話したことはやはり不測の事態が、何か異変が起きやすい、一か八かの賭けだと思います。それにウルトゥーロさまをはじめ、デシオさまやピエルさま大聖堂の正義派の方々が賛成してくださるか、それはちょっと厳しいかもしれません」

 ふむ。確かに大聖堂を説得することとは別に、王宮から完全に排除されたビオナートがどう動くか、国王派の貴族たちがどう動くか、それはよく吟味しなければならない。少なくとも聖都の国王派の貴族、及び周辺の諸候の動きを押さえるためにもう一手、必要になるだろう。ただそれも、ビオナートが表に出てくるのならこちらとしては紅玉石の回収も目鼻がつき、返って都合がいい。

 つまりミラの案は、今後の状況の変化も考えればぜひ残しておくべき、重要な選択肢のひとつであることに変わりはないのだ。

「近いうちに俺は総神官長に呼ばれるんだろう? その時に話してみよう。きみの策は妙案だと思うがな」

「はい……」

 ミラは硬い表情で頷いた。

「それで、気になってることがあるんだけど」

 イシュルはミラとの食事が終わる時、彼女にラベナや双子の引き取りを依頼したクートの手紙の内容がどんなものだったのか、本人に質問してみた。

 屋敷の前で矢文が飛んできた時、クートの誘いをミラが「これは罠ではない」と判断した理由を知りたかった。

「……そうですわね」

 あの時はミラの機嫌がとても悪かったから、しっかり聞けなかった。彼女はクートの手紙を読み終えると燃やしてしまったのだ。

「クート殿ご自身が、実は紫尖晶では責任のある立場にいると明かし、その上で紫尖晶から正式にわたくしにお願いしたい、と書いてきたことがまずひとつ」

 ミラはそこで笑みを浮かべた。

「あともうひとつはわたくしの力でぜひ、彼女たちを幸せにしてやってほしい、と書かれていたからですわ」

 だから、あの矢文が罠でないと思いましたの、とミラは続けた。

 ミラの笑みがこれ以上はないもののように美しい。

 イシュルは幾分肩を落とし、ミラに笑みを返した。

 ラベナや双子の引き取りを依頼したクートの手紙、それを目にしたミラは、彼女なりにクートの人物像を見定めたのだろう。

 あの爺め。

 嘘か真か、ずいぶんと甘いことを書いてきたじゃないか。

 だがもしそれが、モーラの手紙がもたらしたものであったのなら。

 イシュルは微笑むミラの顔をじっと見つめた。

 ミラの美しい笑顔にはきっと、父を救われたモーラの幸せも映しだされているのだ。




「それは少し時間をいただきたい。とりあえずここ数日、この人間の屋敷が落ち着きをとりもどすまでは、わたしもしっかりとお務めしよう」 

 ミラがイシュルに手配した居室は、公爵邸の東南の二階の角部屋、おそらく賓客のための最高の部屋だった。イシュルがしばらく滞在することになった部屋は控えの間、食堂、居間、寝室と四つの部屋が連なり、聖王家の王宮に負けない豪華な内装、家具や調度品で満ちていた。

 イシュルはこんな凄い部屋は困ると、何度も断ったがミラはイシュルの抵抗に首を縦に振らず、結局彼女に押し負けて断念、ミラの意向に従うことにした。

 ミラの話によれば、サロモンは屋敷の一階西側、最奥にある部屋に滞在することになった、ということだった。

 サロモンはディエラード公爵邸の一階西側に並ぶ大小のホール、控え室などを彼の政務、つまりは政治工作のために使用し、そのすぐ側に自室を用意した、ということになる。

 イシュルは寝室に入りひとりになるとクラウを呼んだ。

 イシュルがクラウに後どれほどの日数、自分を助けてくれるか、と聞いた時、クラウは少し意外な返答をしてきた。

「少し時間をいただきたい、というのは?」

 イシュルは寝室にある長椅子に座って宙に浮くクラウを見つめた。

「あとどれくらいの期間、剣殿の側で力になれるか、その返答は残念ながら今すぐはできないのだ。その理由は説明しずらいのだが……。心配は無用だ。まず間違いなく剣殿の願いどおりになるだろう」

 クラウはイシュルにうっすらと笑顔を浮かべ、何度か頷いてみせた。

 何かあるな……。まさかイヴェダの了解をとる時間が欲しい、ということだろうか。

 クラウはそれほどの大精霊、ということなのだろうか。

 人間を個体としてしっかり区別でき、人間側の事情も理解し気づける、そしてこれから重要になってくるだろう、彼の交渉能力や、その頭脳。クラウにはこの後も長期間、こちらに留まって欲しいのだ。

 とにかく、クラウが心配する必要はない、と言ってくれているのだからそれを信じるしかない。

 イシュルは小さくため息をつくと言った。

「わかった。それは仕方がない。結果がわかったら、あんたの方から教えてくれ」

 風神に係ることなら、彼も詳しくはその理由を教えてはくれないだろう。

 イシュルはクラウに顔を向け頷いてみせた。


 天蓋付きのベッド、そのレース編みカーテンが開かれ、誰かの影が立っている。

 その後ろにはクラウらしき精霊の姿まで見える。

 ……イシュル君、イシュル君?

 影が俺を呼ぶ。誰だ?

 イシュルは薄らと目を開けた。その表情はまだ夢現(ゆめうつつ)の中にあるようだ。

 なんだろう……。どうしたんだ、いったい。こんな夜更けに。

 イシュルはベッドに横になったまま、顔をその影の方に向けた。 

 からだを疲労感が捕らえて離さない。

「イシュル君、きみにお願いしたいことがあるのだ。深夜に突然で申しわけないのだが……」

 その影が言う。この声は……サロモン?

「なんでしょう……」

 イシュルは上半身を起こし、顔を影の方に向けた。まだ寝ぼけている。

「この国の王家の者が剣殿にどうしても会いたい、ということなので、寝室まで通したのだが」

 サロモンの後ろからクラウが言ってくる。

 ああ、そう。

「これからきみの力で王宮まで、わたしを連れていってほしいのだ」

 ん? なんだ? もう帰っちゃうのか? 王子さまは。

「わたしを太陽神の塔まで運んで欲しい」

 はっ?

 イシュルは目を醒した。

 呆然とサロモンを見上げる。

 窓から溢(こぼ)れる淡い月明かりが、サロモンの白い顔を妖しく照らしている。

「あそこには聖王家の宝具、魔法具が納められている。なるべく早く確認したいのだ。父が何の魔法具を持ち出し、今何が残されているのか」

 ……!! 何だと?

「わかりました。お伴させていただきます」

 イシュルは鋭い視線をサロモンに向けた。

 イシュルは完全に覚醒した。サロモンの反対側からベッドに出て、側にたてかけてあった父の形見の剣を取る。今はまだ第三騎士団の包囲が続いているので、衣服は昼間のまま、寝間着に着替えたりはしていない。

「たぶん、すんなりとは塔の中に入れないだろう。その時はきみの力添えもお願いしたい」

 サロモンも鋭い視線になって言った。

 その美貌が妖しさを損なうことなく、触れれば切れるような鋭さ増している。

 太陽神の塔には何か仕掛けがあるのだ。あるいは何者か、堅く守護する者がいるのだ。

「……」

 イシュルは微かに笑みを浮かべ、サロモンに無言で頷いた。

 

 

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