白路は歓喜か、絶望か



 王宮の北側に出ると、王城の東の方へ長く伸びる石畳の道がある。

 相変わらず周囲には、路上にも人影が見当たらない。

 道の両側を覆う下草と、辺りに疎らに生える木々の間を城の奥の方へ歩いていくと、南側にある後宮を過ぎた辺り、道の北側に東西に長く伸びる白亜の宮殿が姿を現した。

 濃い緑の木々の間に白壁が浮き立つ二階建ての瀟洒な建物だ。遠く、東の奥の方にも似たような建物が並んでいる。

「……ん?」

 イシュルは微かに両目を窄めた。

 手前の小宮殿からは複数の人の気配がする。宮殿の出入り口になっているのか、南側に突き出た建物と、周囲に生える木々が影になってその姿は確認できない。

「手前の館は白路宮と、奥は白磁宮と呼ばれています」

 ミラが横から話しかけてきた。

「白路宮はサロモンさまとルフレイドさまの居館となっています。奥の白磁宮は遠方からいらしたお客さまが滞在されます。迎賓館ですわね」

「はくろきゅう? 白い路、って書くの?」

「はい、そうです」

 ミラが首を傾け微笑んでくる。

 白路。White Way、か……。

 イシュルは視線を左右に走らせ林檎の木を探した。道を挟んで宮殿の右側に、ちらちらと白い花を咲かせた木々が見える。

 エストフォルは前世なら南仏あたりの緯度になるだろうか。大陸の東の山岳部にやや近く、標高もそこそこあるだろうから、林檎の木も問題なく育つのかもしれない。今は確かに林檎の木が花を咲かす時期だ。

 白路宮の建物は南に面して西側、中央、東側と出入り口があった。

 イシュルたちが西側の出入り口の前にさしかかるとひとが数名、中から出てきた。

 イシュルは彼らをちらっと見ると、白路宮の奥の、東の方へ目を向けた。

 百長歩(スカル、約六〜七十m)ほど離れた、白路宮の東の出入り口の方にもひとの気配がある。あちらの方が人数が多い。建物と木々の枝葉に隠れて七、八名の人びとの姿が見え隠れする。栗毛の馬も一頭、見える。

「ビシュー!」

 イシュルの左横でルフィッツオが叫び声をあげた。

「おお、ルフィッツオさま!」

 イシュルたちの真横、西側の出入り口から出てきたビシューという名の男は、サロモン王子の執事長だった。

 薄くなった灰色の頭髪を後ろになでつけ、ごつい鼻に丸い目、少し腹は出ているが上背があってがっしりした体格をしている。焦げ茶の上着に明るい黄色のスカーフの組み合わせ、下は黒いズボンで執事っぽい服装はしていない。下級貴族や富商の一般的な外出着、といった感じだ。

「で、殿下はご無事でしょうか。御家に向かってから連絡がないもので」

 ビシューは顔色を曇らせ、吃りながらルフィッツオに言ってきた。

 後ろには少し離れて彼の部下だろうか。若い男がふたり、愛想の良い顔でおとなしく控えている。

「殿下のことなんだが——」

 ルフィッツオが事の顛末をビシューに説明している間、イシュルはちらちらと東の出入り口の方の人だかりに目をやった。

 あの中にひょっとしてルフレイドがいるのではないか。

「林檎の花がきれいですわね。白路宮とよく合っていますわ」

 ミラが何を思ったか、そんなことを言ってきた。

 俺は恐い顔をしていたろうか。ルフレイドを説得してなんとか王城から出でてもらう、それはとても重要なことなのだ。

「ああ」

 ミラの視線を追って、緑の木々の中に点々と浮かぶ白い花々へ視線を巡らす。

「この宮殿にまさか、赤毛の少女が住んでいたりするのかな」

「はい?」

 何気に呟いたイシュルのひと言に、ミラは不思議そうな顔になった。

「住み込みのメイドも大勢いるでしょうから、赤毛の子もいるかも知れませんが……」

 彼女が真正直に答えてくる。

 俺だって知ってる話だ。彼女が名づけた“歓喜の白路”。

 果たしてこの宮殿に住む者に“歓喜”は訪れるだろうか。

 ……ふたりの王子に。




「それは大変なことになりました。……よろしいですかな? 殿下がしばらく滞在されるのなら、御家に殿下の護衛や使用人を連れて行き、お召し物など身の回りの物を運び入れなければなりません」

 サロモンの執事であるビシューとルフィッツオが話している。

 ビシューはサロモンが襲われ、その後彼のとった行動に最初は仰天したものの、驚くべき早さで平静を取り戻し、主人のために何をすべきか考えを巡らしはじめた。

「それはもちろんかまわないが……」

「確かに、問題があるかもしれないですね。城を出る時に国王派が邪魔してくるかもしれない」

 イシュルはおせっかいでは、と思いながらもふたりの後ろから口を挟んだ。

「こちらのお方は?」

 ビシューがイシュルの顔を見、ルフィッツオに質問した。

「こちらが、イシュルさまですわ」

 ミラがすかさず割り込んでくる。

 ミラ。……またか。また「イシュルさまです」だけか。

「これはミラお嬢さま。お久しゅうございます」

 ビシューは左手を胸に当て、頭を深く下げてミラに丁寧な挨拶をすると、イシュルに顔を向け、いささか大げさに驚いてみせた。

「おお、貴殿が……」

 ビシューもイシュルのことを知っていた。

 彼の仕草にわざとらしさはあっても嫌味な感じがしないのは、彼の執事としてのプロ意識の高さ故、だからだろうか。

「ふーむ。あなたさまが我が主を……いや、わたくしからも御礼申し上げる」

 彼はルフィッツオからサロモン襲撃阻止にイシュルが一役かった話を聞き、イシュルに礼を述べると、うんうんと何度も頷いた。

「……なるほど、それで殿下がディエラードさまのお屋敷に。相変わらず機を見るに敏なお方だ」

 さすがにあの王子の執事を務める男ということか、なかなか頭が回るらしい。ビシューは主人の意外な行動の理由について、すぐに納得したようだった。

「ところでビシュー。確かにイシュル君の言う通り、殿下の家人や持ち物を城外に移すのは難しいかもしれない。どうしようか……」

 ルフィッツオが顎に手をやり考え込みながら言った。

「ふむ」

 ビシューも顔を俯かせ考え込む仕草をしたが、すぐに何か思いついたのか、顔を上げ、自身の掌をもう片方の手で打って言った。

「いい手がありますぞ」

 ビシューが言うには、隣の奥の白磁宮に現在、聖王国の南西部に大領を持つカレスティナ伯爵家夫人とその娘が滞在しているのだという。聖都近郊の某貴族家と伯爵家の娘の縁談話が持ち上がり、そのためわざわざ遠方から聖都に出てきたということだった。

「そのカレスティナ家がここ数日中に都(みやこ)を発つことになっております。我々も御一行の車列に混ぜてもらうとしましょう。伯爵家の執事とは懇意にしております故」

 ビシューは口髭をうごめかして言った。

 確かにそれではビオナートも手を出せない。カレスティナ伯爵家というのは辺境伯と似たような存在で、いわば大きな力を持つ外様大名みたいなものだ。

「それはいい」

 ルフィッツオが笑顔になって頷くと、ビシューも笑顔で両手を合わせさすりながら、「さて、これは忙しくなりましたぞ」とうれしそうに声をあげた。

 そしてルフィッツオやミラはもちろん、イシュルにまで慇懃極まる挨拶をし、後ろに控えていた若者たちをどやしつけながら宮殿の中に引っ込んで行った。

「すまない、イシュル君。思わぬ時間をとられた」

 詫びをいれてきたルフィッツオに、イシュルは「いいえ」と答え、顔を白路宮の奥、東の出入り口の方へ向けた。

「ちょうどいいところでした」

 イシュルの予想した通り、人びとの固まりから赤いマントに派手な金糸の刺繍のチュニック、黒いベルトにズボン、ブーツ姿の若い男がひとり飛び出し、イシュルたちの方へ向かってきた。


「ルフィッツオにミラ、ディエラード家の者か」

 微風に赤いマントがふわりとなびいた。くせっ毛の明るい金髪の毛先が微かに揺れる。

 爽やかな面立ちの青年がイシュルたちの前に立った。

 ルフィッツオとミラが素早く腰を落とし跪く。イシュルは後ろから立ったまま、右手を胸に当て頭を下げた。

 ルフレイドはあまり兄とは似ていなかった。サロモンと似ているのは白い肌と髪の毛の色くらい、深い青色の大きな眸に卵型の顔、まだ僅かに幼さが残る顔立ちは、サロモンと同じ兄弟には見えない。

「そなたは?」

 ひとり立ったままのイシュルにルフレイドが鋭く誰何した。

「イシュル・ベルシュと申します。殿下」

 イシュルはルフレイドの目をしっかり見て言った。

「ほう……そなたが、か。なるほど、父が姿をくらますわけだ」

 ルフレイドはかるく周囲を見回し、薄く笑った。

 彼の顔から少年らしい幼さが消えている。口調も外見の印象とは違い、随分と大人びたものだった。

「敵方についたイヴェダの剣が王城に現れたのなら、仕方がないな」

 ルフレイドの笑みが深くなる。同時に、跪くミラの肩が強ばっていく。

「それで兄上はうまくバスケスを説得できたのかな?」

 ルフレイドは視線を遠く、ディエラード公爵邸のある方にやって言った。

「それが大変なことになりまして……」

 ルフィッツオが顔を上げ、ルフレイドに説明をはじめた。

 弟の方は兄とだいぶ違う……、外見でなく、中身も。彼からはサロモンとは正反対と言ってもいい、手堅く、実直そうな印象を受ける。

 イシュルは、ルフィッツオの説明に耳を傾けるルフレイドの姿をそれとなく観察した。

 この人を何としても王城から出して、ビオナートとの分断を図らねばならないのだ。できれば完全に、だ。

 正義派と兄王子派が結びつけば、やつはサロモンを廃嫡し、目の前の次男を次期国王に指名するのではないか。

 ルフレイドは、ビオナートが国王の座を降りてから総神官長になるまでの短い間、聖王国の王となるかもしれない。そしてビオナートは自らが総神官長に選出されれば、早々にルフレイドを殺してしまうだろう。その後、まだ幼い妾腹の娘を次代の王にするのだ。

 このままではルフレイドの未来には死しかない。ルフレイドが次期国王に指名され、国王派と弟王子派が結びつけば、聖王国の政情は合体した正義派と兄王子派、同じくひとつになった国王派と弟王子派の大きな二つの勢力に整理統合され、その争いはより先鋭化するだろう。

 そしてルフレイドが短期間でも暫定でも次の国王となれば、正義派とサロモンは著しく不利な状況に追い込まれてしまう。

 ルフィッツオと話すルフレイドは顔を俯かせている。弟王子は今どんな顔をしているのか。その心のうちを覗き見ることはできない。

 彼にビオナートに従いながらもやつの力を削ぎ、自らの命を守る知略があるだろうか。それもただビオナートに対して面従腹背であるだけではだめなのだ。たとえ暫定であろうと国王になったなら、逆にビオナートを殺し、退けるくらいのことをしてもらわなければ、サロモンも正義派も厳しい状態に置かれるのは避けられない。

 もちろん、ビオナートが総神官長に選ばれ、やつが“聖冠の儀”を執り行うために大聖堂の主神の間に姿を現すその時まで、ルフレイドが殺されないでいる可能性はある。

 それに弟王子派はともかく、国王派に多少の勢いがあった方が、ビオナートが確実に総神官長に選ばれ、本人も“聖冠の儀”で気分よく主神の間に姿を現してくれるだろう。

 しかしいずれにしても各派が二派に集約され、派閥争いが激化するのは避けた方がいいのだ。争いが激化すれば、聖都で何か不測の事態が起きる可能性も出てくる。もし何か事が起きれば、例えば聖都に両派諸候の軍勢が集結するような事態になれば、正義派はほぼ間違いなく、いわば賊軍側になってしまうのだ。

「……そうきたか。兄上がな」

 ルフィッツオはイシュルが自ら話そうと思っていた、サロモン王子襲撃のことも話した。彼の話がサロモンがディエラード公爵邸に腰を落ち着けた段までくると、ルフレイドはイシュルの顔をじっと見つめてきた。

「確かに聖都で今、一番安全な場所はディエラード邸かもしれんな」

 そして僅かに唇を歪めた。

「サロモンさまのお話では、殿下も当家を助けようとしてくだされたとか」

 いよいよイシュルが口を開き、サロモン襲撃についてルフレイドに疑義を投げかけようとした時、ミラが先に王子に問いかけた。

「ああ。ジレーが、きみらの屋敷に向かうのは父か内務卿から一筆もらってからの方が良い、と言ったのでね。わたしもその方がいいと考えて当たってみたんだが、父がつかまらない、ベルナールは首を縦に振らない……」

 ジレーとは誰だろう。ルフレイドの後ろで幾分間をあけ、こちらをじっと注視してくる王子のお付きの者たちに目をやる。彼らは主人に言いつけられたのか、こちらから一定の距離をとって近づいてはこない。  

 あの中にその者はいるのか。ルフレイドの執事か彼の派閥の誰かだろうか。その人物はさきほどのビシューあたりの口車に乗せられたか、兄王子派に内通している可能性がある。

 サロモンが「ルフレイドを足止めした」と言ったのがおそらくこの件だろう。

「それがどうやら兄に一杯食わされたらしい。それで今回、きみらの力になるのはあきらめたわけだが」

 ルフレイドはミラに微笑んでみせると顔を上げ、イシュルを見てきた。

「殿下。サロモン王子襲撃を誰が命じたか、心当たりはおありでしょうか」

 ルフレイドが俺を見てきた。俺が質問したことは彼が話したかったこと、あるいは聞きたかったこととは違うかもしれない。

 だがとにかくこれは話さねばならない。

 イシュルは喉を鳴らした。思わず肩に力が入る。

 これは切所だ。ルフレイドをビオナートから切り離せるか、できないか。

 ルフレイドにはおそらく、王城を出る気はないだろう。彼は彼でサロモンの動きを逆手に取り、むしろ父に接近し利用しようと考えているのではないだろうか。

 なんとかしてルフレイドを説得しなければならない。俺たちのために。彼自身のために。

 ……さあ、はじめるぞ。

「それは」

 イシュルの問いかけに、ルフレイドは途端に顔色を曇らせた。

 サロモンもルフレイドも、ビオナートの真の狙いまでは知らなかったのではないか。それとなく、噂程度には耳に入れていたかもしれないが、ふたりともどちらかが聖王国の王に、どちらかが聖堂教会の総神官長になり、父の傀儡となる——その、国内外の要路にある多くの者たちの見立て以上のことは、まともに考えていなかった筈だ。

 もし仮に正義派の危惧する国王の企みをすべて知っていたとしても、王子たちはそれを荒唐無稽な与太話と断じ、深く考慮してこなかったろう。父王が自分たちを駒にして、政教ともに間接支配しようとすることは現実的にありえそうな話だが、聖王国と聖堂教会を直接支配下に置き、その力をもって大陸全土を統一し、聖堂教の巨大な教化によって万民の至福を達成する、そして最後にその偉業をもって神の座にのぼる——などという父王の企みは確かに荒唐無稽で、彼らが一顧だにしなかったとしてもそれは仕方がなかったかもしれない。

 サロモンもルフレイドも、かつて大聖堂の見習い神官だったビオナート少年の理想を直接聞いた筈もなく、ここ数年の間に死んだ大神官たち、最近妾腹の弟が病死した事に関し疑念を抱いたとしても、それが自分たちの暗殺に直結するものとは思わなかったろう。ただ単に、父王が自分たち兄弟を傀儡として、聖王国と聖堂教会の両極に据え置くための工作だろう、としか考えなかったのではないか。

 だが、さきほどのサロモン王子襲撃ですべてがみな、きれいにひっくり返されてしまった。

「もしディエラード公爵邸に仲裁に赴いたのがサロモン王子ではなく、殿下、あなたであったのなら、襲撃はなかったでしょうか?」

 ルフレイドは厳しい表情になってイシュルを見つめてきた。対するイシュルも視線鋭く、ルフレイドを見つめる。

「……それはわたしでも、同じことが起きたろう」

 随分と間を置き、ルフレイドは仕方なく、といった感じでその言を口にした。

 イシュルは無言で小さく頷いた。

 サロモンとルフレイド、ふたりの王子もビオナートの暗殺リストにしっかり刻まれているのは、すでに明らかなのだ。

「殿下は正義派の目的をご存知か?」

 イシュルは低い声で言った。

 ルフレイドの双眸が見開かれる。

 ミラが顔を上げイシュルを見た。ルフィッツオは心持ち頭を上げ、ルフレイドの方を見たままだ。だが彼の背中にははっきりとわかる緊張が走った。

「これでサロモン王子も殿下も、正義派が主張する彼の御方の陰謀を、根拠のない、荒唐無稽な夢物語と切って捨てることはできなくなった。違いますか?」

「イシュルさま!」

「イシュル君。やめるんだ」

 ミラとルフィッツオから小さな悲鳴が上がる。

 それはビオナートの名を出してはならぬ、彼の陰謀を口に出してはならぬ、という警告の意味だったろうか。それともルフレイドに挑み、刺激するようなこれ以上の言動は不敬である、という戒めであったろうか。

「そなた……」

 ルフレイドが顎を引いてイシュルを睨みつけてくる。

「このままでは」

 イシュルも顎を引きルフレイドを睨みつけた。 

「殺されますぞ。殿下」

 イシュルは低く短く、周りの空気を抉るようにして言った。

 辺りの木々からいっせいに、無数の鳥がざざっと飛び立った。イシュルから無意識に魔力が、殺気が放たれたのだろうか。薄曇りの王城の空に、彼らの戦慄く鳴き声が響き渡った。

「……!」

 ミラとルフィッツオも再び、声にならない悲鳴を上げた。

「くっ……」

 ルフレイドの顔が苦悩に歪んだ。

「イシュル君、やめろ」

 ルフィッツオが跪いたままイシュルに振り返り、手を伸ばしてきた。

 ルフィッツオの眸の色は、言葉を選べ、それは脅しではないか、そうイシュルに訴えかけているように見えた。

「お願いです!」

 だがイシュルはミラにもルフィッツオにも目をくれず、ルフレイドに向かっていきなり跪いた。

 頭(こうべ)を地につくように低く垂らし、叫ぶように言った。

「どうか、どうか。わたくしどもとともに、今すぐ王城から退去していただきたい」

 イシュルは蒼白になった顔を上げ、下からルフレイドを睨めつけた。

「御身のためです。王家の、聖王国のためですぞ」

 イシュルの目は血走っていた。

 ここは切所だ。

 不敬だ、派閥だ、正義派のためだ、などという問題ではないのだ。

 聖都が乱れることだってありうるのだ。

 そして何より、あんたの命がかかってるんだよ。

 多くの人間の運命を背負った、とても重たい命が。

 俺にはわかる。人ひとりの命を守ることがどれだけ大変なことか。

 俺にはわかるんだ。多くの人びとの命を奪い、多くの身近なひとたちの命を失ってきたのだから。

 イシュルの血走った眸と、怒気をはらんだルフレイドの眸がぶつかった。

「……」

 だが、身を切るような緊張は一瞬で終わった。

 ルフレイドは肩の力を抜き、なぜか表情をやわらげ笑顔になった。

「ありがとう、イシュル殿」

「それでは……」

 イシュルの顔に喜色が浮かぶ。

「だが、わたしは城から出るわけにはいかない」

 ルフレイドはすぐに笑顔を引っ込め、厳しい表情になった。

「陛下がご不例の今、王城に王家の男子がひとりもいなくなるなど、あってはならないことだ。もってのほかだ」

 ルフレイドはイシュルたちを、周りの宮殿や城塔を見渡した。

「だからわたしは城を出ることはできない」

 そんな……。

 イシュルの頭が下がっていく。肩が落ちていく。

「イシュルさま!」

 ミラが横から飛びついてくる。

 確かに今、ここにはビオナートはいない。やつは行方知れずだ。

 ルフレイドが王城を出れば、聖都の王宮に王家の男子がひとりもいない、などということになれば、そしてそれが国内外に知れ渡れば、それならそれで何らかの不測の事態が起きるかもしれない。

「心配は無用だ。イシュル殿」

 ルフレイドは再び口調をやわらげ言った。

「父が不例と偽り姿を消したのはイシュル殿、何もそなただけを恐れたわけではない。兄やわたしをも恐れたからだ。ふたり同時に討てなかったのなら、今度は己がやられる番だからな」

 ルフレイドはそこで小さくため息をつき、王宮の方へ目をやった。

「それでも父はわたしを懐柔し、手駒として使おうとしてくるだろう。わたしはそれに乗ってやろうかと思う」

 そこで彼はイシュルに視線を落とし、酷薄な笑みを浮かべた。

「その間はわたしも生きていられるし、それなら逆に彼を殺すこともできよう」

 ルフレイドはそう呟くと赤いマントを翻し、イシュルたちに背を向けた。

「そなたの赤心、うれしかったぞ」

 ルフレイドは去り際、イシュルに横顔を見せて言った。

 イシュルは立ち上がり、そのルフレイドに声をかけた。

「彼の御方が次の総神官長に選ばれた時、その直後が一番危ない。気をつけられよ」

 ルフレイドは前を向いた。彼はそのまま、イシュルに向けてかるく片手を上げた。

 

「イシュルさま……」

 ミラが何をいいたいのかわからずに、それでもイシュルに声をかけてくる。

 ルフィッツオはただ難しい顔をして、ルフレイドの消えた白路宮の東の出入り口の方を見ている。

 イシュルは白路宮から、道を挟んで林檎の白い花がまばらに見える、右手の木立の方へ視線を移した。

 もう孤児の少女の物語がどうの、という状況ではなくなった。白路といえば、すなわち白い道は、俺にとってはただ血塗れた、苦悩に満ちたものだった。

 あの、“白い路”に住む青年はどうなるだろうか。

 確かにそこに、まさかあの運命神、月の女神レーリアが手を出してくることはないだろう。

 レーリアは俺以外の人間に何か、直接介入してきたりはしない。だがだからと言って、彼の“白路”が絶望に終わらずに済む、とはとても思えなかった。

 ルフレイド、あんたに“歓喜”のあらんことを、祈ってるよ。

 今はもうそれしか、俺にできることはない。

「行きましょうか」

 イシュルはミラとルフィッツオに声をかけた。

 ミラはどうしてか、いつの間にかその眸に涙を浮かべていた。

 ルフィッツオは寂しく微笑を浮かべ、無言で頷いた。

 彼らの姿を、地の底に落ちはじめた夕陽が真っ赤に染め上げた。


 

 

 イシュルはミラを抱きかかえ、ルフィッツオには自分の肩に手を置いてもらって、ディエラード邸まで一気に空を飛んで帰ってきた。

 公爵邸の前で、シャルカが仁王立ちで外の騎士団を睨みつけている、そのすぐ前に降り立った。 

 周囲にはシャルカを取り囲むようにして、ディエラード公爵家の騎士や家人らが集まっていた。後方には鉄製の篝籠が幾つか並べられ、篝火が焚かれようとしている。公爵邸に降り立つ前、公爵邸を包囲する聖堂騎士団の側でも、篝火の用意がされていた。

 ルフィッツオとミラが帰還すると周囲からは歓声が沸き起こり、彼らはディエラード家の者たちに取り囲まれた。

「シャルカ、ご苦労さま」

 ミラはその輪からいちはやく出て来るとシャルカに声をかけ、イシュルに聞いてきた。

「第三騎士団の方でも篝火を焚くようですが、大丈夫でしょうか」

「心配ないと思う。やつらは火矢は射ってこないだろう。サロモン王子がいるからね」

 誰が命じたかわからないさきほどのサロモン襲撃と違い、彼が中にいることが明々白々な今の状況で、公爵邸を火攻めする命令はいくらビオナートでも出せないだろう。たとえ第三騎士団長の独断で火矢を射ったということにしても、聖都のどの派閥の者も、誰もそんなことは信じない。

 聖王家に対し明確に反逆したわけではない、その嫌疑も不十分な現在の状況で、ディエラード公爵家を火攻めしサロモン王子を殺害すれば、ビオナートの方がまずい立場に追い込まれるのではないか。

「俺もミラもシャルカも、今は邸内にいる。それに水魔法を使えるきみの兄君もいる。俺たちが外にいた時とは状況が違う。たいして気にする必要はないだろう」

「うむ、心配ないさ。イシュル君の言うとおりだ。殿下が我が屋敷におられる以上、陛下は強引な命令はだせなくなった。今はね」

 ミラに続き、ディエラード家の者たちの集団から出てきたルフィッツオが横から言ってきた。

 彼はそれから声を落として、

「ルフレイド殿下と国王陛下が手を結べばどうなるか、先のことはわからないが」

 とつけ加えた。

「そうですね」

 イシュルは神妙に頷いた。ミラも顔を曇らす。

「みなさま。サロモン殿下とロメオさまが中でお待ちです」

 周りの人だかりの中から黒服を着た執事らしい初老の男が出てきた。

 イシュルたちはディエラード家の執事に導かれ、邸内に入った。

 ディエラード公爵邸の正面玄関も、観音開きの大きな扉が横にふたつ並んでいた。扉は両方とも開かれている。

 三段ほどの階段を上り屋敷の中に足を踏み入れると、公爵邸のメインホールは二階へと続く幅広の大きな階段が中央奥にでん、と構えていた。

 全体にくすんだ灰色から白の色調で渋くまとめられ、大理石等の石材がふんだんに使われている。

 天井からは鎖で多数の蝋燭の立てられたシャンデリアが吊り下げられていた。

 ホールの片隅には高い背のついた椅子が幾つかと机が並べられ、そこに銀色の甲冑をつけた数人の騎士や平服の者たちがたむろしている。

 イシュルたちが中に入ってくると、その人びとの中から紺色のマントを羽織った三十過ぎくらいの騎士がひとり、飛び出してきた。黒髪に黒髭、肌も日に焼け浅黒い。

「ルフィッツオさま!」

「ダリオ!」

 ルフィッツオとダリオと呼ばれた騎士が抱き合う。

「彼は?」

「当家の騎士団長ですわ。今は副団長が領地の方におりますの。数年おきに交替しますのよ」

 イシュルがミラに小さな声で訊ねると、ミラも小さな声で教えてくれた。

 以前ミラから聞いた話では、ハルンメルの南方にディエラード公爵領がある、ということだった。

「ベルシュ殿、ルフィッツオさまを助けていただき、ありがとうございます」

 ダリオはルフィッツオと抱擁を交わすとイシュルの正面に立って礼を言ってきた。

「いいえ……」

 イシュルが少しはにかみながら答えるとダリオは笑顔で頷き、ルフィッツオとミラに顔を向けて大きな声で言った。

「さぁ、お二方、殿下がお待ちかねです。ベルシュ殿もこちらへ」

 他の騎士らが右手を胸にお辞儀をする中、執事に代わってダリオが先頭に立ち、屋敷の南側を西に伸びる広い廊下を進んでいく。

 魔法使いらしき者や、文官らしき者が多数詰めている大きなホールを通り過ぎ、次の間、晩餐室らしき部屋にサロモンとロメオがいた。

 サロモンは長い大きなテーブルの一番奥に座り、斜め向かいに座ったミラの次兄、ロメオと顔を突き合わせて小声で話し込んでいた。テーブルの上には銀製の豪華な燭台やティーセット、筆記具一式と羊皮紙など高級な紙の束が置かれていた。

「ルフィッツオ!」

「殿下!」

 サロモンは部屋の中に入ってきたイシュルたち、ルフィッツオの姿を見るとすっと立ち上がり、両手を広げて叫んだ。そして自ら早足でルフィッツオに近づき彼を抱きしめた。

「……」

 満面の笑顔でルフィッツオの無事を喜ぶサロモン、それに答えるルフィッツオ。

 だがイシュルは呆然としてその場に固まった。

 ロメオが赤の上着、ルフィッツオが青の上着、両方ともほぼ同じデザインでただ色が違うだけだ。ふたりは上着の色以外はほぼ同じ格好をしていた。髪型も色も同じ。そして顔も同じだった。

 ロメオを遠目で見、その後にルフィッツオと顔を合わせた時、確かにふたりはよく似ている、と思ったが……。

 同じじゃないか。ふたりとも。顔が。

 ここにも一卵性の双子がいる……。

「ね、ねぇ、ミラ」

 イシュルはミラに声を潜ませ聞いた。

「きみのお兄さま方は双子だったんだ……?」

「ええ。そうですわ。……あら。わたくし、イシュルさまにお話していませんでしたか?」

 ミラが一度浮かべた笑顔を引っ込め、少し気まずそうな表情になって言った。

「……」

 イシュルは無言で首を縦にコクコクと頷いた。

 なぜだかピルサとピューリの姿が目に浮かぶ。

 これはまた……、やりにくい……。

「イシュル君! 兄上を無事救い出してくれてありがとう」

 テーブルの反対側からロメオが声をかけてくる。

「紹介が遅れた。ぼくの名はロメオ・フィオス・ド・ルクス・ディエラードだ。よろしく」

 ロメオは明るい声で言ってきた。双子でも弟の方が少し気さくか。

「ど、どうも、はじめまして。イシュル・ベルシュです。よろしくお願いいたします……」

 イシュルはなんとか笑顔で返した。

 なぜだかからだが強ばる。表情も硬くなってしまってるんじゃないか。

「おお、イシュル君!」

 そこへサロモンが割り込んできた。

「ご活躍だったようだね。詳しくはこれからルフィッツオから聞くとして……」

 サロモンはそう言いながら、テーブルの上から巻紙を取ってイシュルに渡してきた。

 羊皮紙の巻紙は金糸で編んだ飾り紐で結ばれている。

「申し訳ないがこれからすぐ、わたしの手紙を大聖堂に届けて欲しいのだ」

 サロモンは人差し指を自身の顎あたりに沿わせて続けた。

「ウルトゥーロさまにね」

「まぁ、それは……」

 ミラが歌うように声を上げる。

「うむ。此度は総神官長に仲裁をお願いすることにした。それで収まるだろう」

 サロモンがミラに顔を向け言った。

「きみもイシュル君と同道した方が良いだろう。よろしくたのむ」

「かしこまりました。殿下」

 ミラが腰を下げ、優雅にお辞儀をした。ミラの機嫌の良いのがびしびしと伝わってくる。

 イシュルも無言で頭を下げた。

 サロモンはデシオが考えたことと同じことを実行に移してきた。

 だが総神官長に仲裁を願い出る者、それは聖王家の第一王子、そのひとになった。

「わたしがここにいる以上、彼らの撤兵を急ぐ必要はないだろう。多少の時間はかかっても、総神官長の仲裁なら父も内務卿も無下にはできない」

 サロモンはイシュルを見た。

「明日中には第三騎士団も退くだろう。問題はそれからだが……、イシュル君」

 サロモンが微笑を浮かべる。

 目の錯覚ではないだろう。彼の微笑には明らかに紗がかかっている。きらきら輝いてる。

 ……危険だろう、それ。

「それで君が帰ってきたら、皆で話し合う時間を設けたいのだ。今後についてね」

「それはよろしいのですが」

 イシュルはサロモンに視線を合わせて言った。

 彼と視線を合わすには気力がいる。

「実はわたくしとミラ殿はディエラード家異変の報を聞き、聖石神授使節団一行に先行して聖都に参っております。殿下のお手紙を総神官長に届けましたら、儀典長はじめ、ディエラード家の家人らの様子を見に使節団一行の隊列まで戻りたいのです。今頃はもう、彼らも聖都にほど近いところまで達しているでしょう。何者かによる妨害もあるかもしれません。特に夜間は心配です。どうかお許しを」

 イシュルは最後にサロモンに向かって深く頭を下げた。

 クラウをつけているはいるが、彼らが心配であることに変わりはない。第三騎士団のディエラード家包囲は総神官長の仲裁で事実上、片がついたも同然だし、これから使節団に戻って状況を確認し、護衛についた方がいいだろう。

 ミラもイシュルの考えに賛成なのか、「お願いいたします」とサロモンにお辞儀をしている。

 えらい人がいると、こういうところが面倒くさい。

「おお、そうだったね。まだ使節団は到着していないのか。それではきみらとの語らいは明日にしよう。気をつけて行きたまえ」

 サロモンはまったく気を悪くすることなく、微笑みを絶やすこともなく言った。

 だが顔を上げたイシュルに、その妖しく光る眸を細めてひと言つけ加えてきた。

「きみのその左手のこともその時、詳しく聞かせてもらいたいな」

 サロモンはちらっと、イシュルの黒い指抜き手袋をはめた左手に視線をやると、すぐにイシュルの顔を見、その笑顔を深くした。




「ほら、イシュルさま。見てください。夕陽が地平線に沈んでいきますわ。……とてもきれい」

 ミラが西の空に顔を向け、イシュルに声をかけてくる。

「風が涼しくて、気持ちいい……」

 ミラが頭を上げ、イシュルの顔に近づけて囁いてくる。

「……うん」

 近い! 顔、近いから!

 イシュルはミラを抱き上げ、聖都の夕方の空に浮いている。

 ミラの言う通りに視線を西へ転ずれば、エスフォルの大きな街が夕空に赤と黒の複雑な模様を織りなし、地中に深く沈むようにして広がって見える。

 ディエラード邸から大聖堂まで、直線距離で二里(スカール、約千三百m)ほどしかない。飛び上がればあっという間だ。

 その短い間にミラはしっかりと仕掛けてくる。仕掛けて、でいいのか知らないが……。彼女は今の状況に危機感を抱いていないのか、それとこれとは別なのか。自分のペースを崩さない。

 ミラは聖都の空をイシュルとふたり、束の間の甘い叙情に浸っている。

 イシュルは、夕陽に紅く染まった大聖堂の尖塔の横を嘗めるようにして降下、神殿の南側の広場に降り立った。

 目の前に大きな神殿。その右側、東側に巨大な三つの塔が聳え立つ。手前と奥の塔はやや低く、中央の塔は高い。

 三つの塔の下、広場にはほとんど人影がない。動くものと言えば、広場を囲む聖堂教会のさまざまな施設、その石造りの壮麗な建物にくっつくようにして、数名の神官が広場の端を静かに行き来しているくらいだ。

「行きましょう」

 広場に降り立つと、ミラは大聖堂の尖塔の方へイシュルを誘った。

 塔の下の両観音の鉄扉はまだ開いている。中に入ると、緩やかな曲線を描く高い柱が幾つも並び立つ天井の高い部屋があって、下には今ひとつその場にそぐわない、組末な長椅子が並べられている。その奥には複数の机が並んでいて、数名の神官がおそらく事務仕事をしている。中は薄暗く、仕事をしている神官らの周りだけが燭台やランタンが置かれ明るかった。

 塔の中、地階は神殿というよりは、どこかの役所の窓口のような場所だった。

 聖都に住む住民のお布施を受け付けたり、葬儀の相談を受けたりしているのだろうか。いや、大聖堂はそんなことはしないだろう。エストフォルには街中に無数の大小の神殿がある。おそらく教会の神官専用の、彼らがさまざまな手続きをする窓口になっているのかもしれない。

 ミラは奥の方へ進んでいくと、近くの神官に声をかけた。

「神官殿」

 ミラに呼びかけられた神官は何かの書類をつくっているようだったが、ミラの顔を見ると飛ぶように立ち上がり、彼女の許まで小走りに近寄ってきた。

「聖神官のピエル・バハルさまを呼んでくださいな。ディエラード家のミラが参ったと」

「はっ、わかりました」

 ミラに呼ばれた神官はミラが誰かわかるようだ。彼は来た時と同じように顔を緊張に強ばらせ、小走りになって奥の壁にある扉の向こうに消えた。

「聖神官のピエルさまは、デシオさまと同じく正義派の方ですわ」

 ミラはイシュルに振り向いて、小さな声で言った。

 デシオとピエルが左右から総神官長のウルトゥーロを支える形で、大聖堂の正義派を取り仕切っているという。

「ミラ、明日以降でいいんだが」

 イシュルは以前から考えていたことを実行するために、ミラにここでお願いしておくことにした。

「筆記具と、公爵家にある一番大きな巻紙を手配してくれないか」

「はい、それはかまいませんが……、どなたかにお手紙でも?」

 ミラは眸を開き、かわいらしく首を傾けてくる。

「いや。聖都を中心に各派の人物相関図をつくる」

「じんぶつそうかんず?」

「そうだ。その時はミラから説明して欲しい。聖都の各派にどんな人物がいて、どんな地位や役につき、誰とどんな関係にあるかを図解にして筆記していく。そうするのが一番早く憶えやすい。いろいろな分析、判断もしやすい」

「はぁ、そうなんですか?」

「見ればわかるさ。家系図に少しだけ近いかな」

 いまひとつよくわかっていないミラだが、この世界に家系図や家系書はあっても、本格的な人物相関図はないだろう。古来から人びとはいろいろな物事を時にチャート化して、図表化してきたろうが、天文や神学に関わるようなものはともかく、多くはその場かぎりのメモ書き程度のもので終わった筈だ。

 今日も半日足らずで随分と多くの人びとに会った。ここしばらくはそんな日々が続くだろう。ミラや双子の兄、ディエラード家の人びとやサロモンから「紹介しよう」などと、多くの人びとに引き合わされることになるのではないか。さらにそこに聖堂教会の神官らも加わってくるだろう。

 思ったよりも早急に、聖都における人物と彼らの関係を頭に叩き込んでおく必要がある。

 ん?

 そこでイシュルはふと気になったことをミラに聞いた。

「そういえばミラの父君の姿が見えなかったな」

 あれだけ大事になったのに彼女の父、ディエラード公爵らしき人物の姿が見えなかった。

「父は先年病を得まして。足を悪くして王家のお役目からは退きましたの。当公爵家の当主であるのはそのままですが、そちらの方も実質、兄達に任せておりますわ」

 それでミラの両親は、今は公爵邸の敷地の裏の方に小邸宅を建て、つまり離れの方に住んでいるのだという。

「……それで父はベルナールさまのひとつ前の、内務卿でした」

「そうか……」

 ミラの父親が今も内務卿だったら。随分とやりやすかったろうに。

「でも、父は一応国王派、ということになっておりますの」

「なるほど」

 イシュルはミラの眸を覗き込むようにして言った。

 まぁ、そういうことになるのだろう。これで公爵家は誰がどうころんでも、少なくとも家だけは残される。

「ミラ殿! もう戻られたか」

 そこで奥の方から、大きな声がした。

 イシュルたちが顔を向けると奥の扉から、上背のある神官がひとり、歩いてくる。男の着ている神官服には金の帯が二本。聖神官だ。

「ピエルさま」

「いや、久しぶり。ご無事でよかった。……デシオらの姿が見えないが……」

 デシオと並ぶ正義派の聖神官、ピエルは癖のある短い茶色の髪、同じ癖のある口髭と顎髭を生やした、デシオとはだいぶ違う野趣のある顔立ちをしていた。

 ピエルはミラに、第三騎士団がディエラード公爵邸を包囲していることを知っているかと聞き、ミラの説明でむしろより詳しい事情を知ると、今度は使節団の儀典長である同僚の安否を尋ねてきた。

 ピエルはミラから視線をはずし、辺りをぼんやり見回している。イシュルには彼女の従者か護衛の者とでも思っているのか、注意を向けてこない。

 ミラが今現在の推測もまじえた使節団の状況を話すと、ピエルは頷き、やっとイシュルに視線を向けてきた。

「貴公がまさか、あのイヴェダの剣……」

「そうですわ」

 ミラがうれしそうに頷くと、ピエルはイシュルに深く頭を下げてきた。

「お会いできてうれしい、イシュル・ベルシュ殿。風神の恩寵を受けたお方にこうして直接相見えることができようとは……」

「いえ。こちらこそ。ところで総神官長さまは今、わたくしどもにお会いしてくださるでしょうか」

 イシュルはミラを横目でちらっと見ると言った。

「ウルトゥーロさまは今は大神官の方々と例の件で協議中だ。しばらくは……」

 例の件、とは第三騎士団が公爵邸を包囲している件だろう。

 おそらくディエラード家を救うためにさっさと仲裁に動きたいウルトゥーロと、もう少し様子を見るべき、などと引き止め反対している国王派の大神官が、やりあっているのではないか。

 渋い顔になったピエルに、イシュルの視線を敏感に感じ取ったミラが片手に持っていたサロモンの書簡を差し出した。

「サロモン殿下がウルトゥーロさまに宛てた、例の仲裁のご依頼の書簡です」

「おお」

 ピエルが両目を輝かし、その顔に喜色が浮かぶ。

「サロモン殿下は今は御家の屋敷におられるのだったな」

「そうですわ」

 笑顔で頷くミラにピエルも笑顔で頷く。

「これで趨勢は決まったな。殿下の書簡はすぐウルトゥーロさまにお渡ししよう。安心めされよ、ミラ殿。聖堂騎士団は明日にでも御家の囲みを解くだろう」


「行くぞ、ミラ」

 イシュルはミラを抱き上げ言った。

「はい! イシュルさま」

 大聖堂の前から、王城の東の方へ飛び立つ。

 その後イシュルたちはピエルに、遅れて到着する使節団の様子を見にいくと告げ、彼の許から早々に辞した。

 イシュルは速度を上げ、王城の南側上空を飛び抜けた。

 辺りは日がほぼ沈み、かなり暗くなっている。

 夜の城は灯が少なく、なんとなくもの寂しい。

 イシュルは王城に立つ尖塔に目に向けた。十一柱の神々の名が冠せられた十一の塔。その幾つかが、微かに明るさの残る夜空の中に黒く浮き立って見える。

 妖しい……。

 それらの塔の中に、日中にはほんの微かにしか感じられなかった魔法的な何か、得体の知れない何かを、今は強く発し感じさせるものが存在している。

 ふふ、何かあるんだ。

 イシュルは微かに笑みを浮かべた。

 大きな古い城に立つ幾つもの城塔。何もない方がおかしいくらいだ。

 ……剣殿。

 そこへクラウの声が響いてきた。

 ふむ。

 イシュルは左手に広がる王城から顔を前方に向けた。

 使節団はだいぶ急いだらしい。彼らは近くにいる。

「今どこにいるんだ?」

 いきなり声に出したイシュルにミラが驚きの目を向けてくる。

 ……街道の前に立つ城門の前にいる。神官らが城兵に門を開けるように言っているが、城兵が頑に肯んじない。

 クラウの声が頭の中をこだまする。

 もうそこまで来ているのか。昼間話していた、デ・ラロサの神殿に逃げ込むような事態にはならなかったらしい。

「何かあったか? みな無事かな」

 ……うむ、問題ない。みな無事だ。城門はどうする? 壊していいかな?

「いや。それは俺がやる。もう少しで着く」

「イシュルさま……?」

 ミラが聞いてくる。

「クラウと話していたんだ。皆無事だ。今、王城外郭の城門の前にいるらしい」

「まぁ。それはよかったです」

 ミラが顔を上げてくる。眸が光っている。

 イシュルはミラに微笑んで頷くと言った。

「さあ、到着だぞ」

 イシュルは高度を落とし、クレンベル街道を隔てる東側の城門の前に降りた。

 そこには使節団の馬車や荷馬車の車列があった。

 

 ミラがネリーやルシア、ダナやベリンら宮廷魔導師に状況を説明している間、イシュルはデシオら神官たちとリバルら騎士たちに説明した。

「……そうですか。サロモン殿下がディエラード邸に」

 デシオが難しい顔になって言った。

「割れるな。ふたつに」

 リバルも腕を組み、厳しい表情をしている。

「国王とルフレイド王子が結びつけば、兄王子派と正義派は賊軍と見なされるんじゃないでしょうか」

 イシュルがデシオに質問すると、だがデシオは明るい表情になって、強気なことを言ってきた。

「そんなことはさせないさ。我々がね」

 それは聖堂教会、しいては今の総神官長が間に入る、ということか。

「貴公にも協力してもらうよ? イシュル殿」

 デシオは自信ありげに言った。

「その左手のもの、大事にしておきたまえ」

「……」

 風神に加え地神の恩寵も武器にする、ということか?

 イシュルはデシオらに無言で頷いた。

「では、聖都に向かいましょう」

 もうここら一帯も聖都なのだろうが……。

 イシュルはそう言うと上を向きクラウに命令した。

「城門の周囲にいる城兵をみな眠らせてくれ」

 クラウが頷き姿を消す。

 精霊の姿が消えると同時、城門から先に細かく光る粒が一瞬、雪のように舞った。

「みな、耳を塞いで。馬を押さえてくれ。城門の門扉を吹き飛ばす」

 続いてイシュルは周りを見渡し大声で言った。

 ひとり城門の前に進み、正面に立つ。

 王城の南東の門、その門扉は太い丸太の束を鉄枠で固め、表面は繋ぎ合わせた鉄板で覆われている。

 イシュルは右手を前に伸ばし、風の魔力を降ろした。

 前面に押し出すようにして解放、城門の内側の、先の方まで力を及ぼすイメージを浮かべた。

 瞬間、空間がずれるような衝撃が来る。

 王城が悲鳴を上げた。

 爆音が夜空に轟き、地面が激しく揺れた。

 城門の先に、両側を城壁がそそり立ち、木々で覆われた街道が姿を現した。

 吹き飛ばされた門扉はどこに行ったか、遠くばらばらに砕け散ったか、路上にはそのかけらひとつ見当たらなかった。

 

 その後、クラウは使節団の車列が進むごとに、街道沿いの城壁に隠れる城兵たちを眠らせていき、イシュルは南西の城門の門扉も同様に吹き飛ばした。

 使節団は一刻(約二時間)もかからずに大聖堂前の広場に到着、使節団のダナたち魔導師、ルシアたちディエラード家の家人や、最後までついて来た人夫たちも聖堂内の宿舎に一泊することになった。

 ディエラード公爵邸はまだ第三騎士団に包囲され、広場前の運河に架かる吊り橋も引き上げられていて、その日はもう降ろされない、ということだった。

「クラウ」

 馬車が広場の奥に消え、使節団の者たちが各々指定された宿舎に散っていくと、イシュルはクラウを呼んだ。

 クラウは微かな魔力の煌めきとともに静かに姿を現した。

「わたしはどうしようか? 剣殿」

 この精霊は察しがいいから助かる……。

 イシュルは笑みを浮かべると言った。

「これから、俺の滞在するミラの家の警護に当たってくれ」

 使節団が大聖堂に到着した以上、もう彼らを護衛する必要はない。

 イシュルはクラウにディエラード公爵邸の場所を説明すると、微かに表情を曇らし言った。

「今夜、話したいことがある。後でまた呼ぶよ」

 そろそろクラウにどれくらいの期間、こちらに留まって助けてもらえるか、話をしなければならない。

「わかった」

 クラウの姿が夜空に消えると、イシュルは再びミラを抱き上げ、空に飛び上がり公爵邸に向かった。

 ルシアにネリー、ラベナや双子も連れてくることはできそうだったが、さすがに荷駄等も運ぶとなると何度か往復しなければならない。さらに公爵家の馬車もとなると、イシュルにとっても難事業に思われた。


「お疲れさまです、イシュルさま。本当に今日は大変な一日でした」

 公爵邸の前に降りると、ミラがイシュルをねぎらってきた。

「いや」

 確かに大変な一日だったが、まだ時刻はそれほど遅くはない。

 屋敷の前に陣取る公爵家の騎士、兵士、家人らに声をかけ、少し話をすると、イシュルとミラは屋敷の建物の方へ歩きはじめた。

「ミラ」

 イシュルは歩きながらミラに声をかけた。

「聖王家の継承争いのことだけど、今日偶然、ふたりの王子と会うことになって、なぜなかなか決着がつかないでいるのか、なんとなくわかった気がするよ」

 聖堂騎士団がディエラード邸を包囲したせいでたまたま、サロモンとルフレイドに直接会って話すことになった。まだ両者とも何度も会って長い間話したわけではない。だがそれでもふたりの兄弟の違いはよくわかった。

「そうですわね。おふた方にはどちらも熱烈な信奉者がいるのです」

 ミラが複雑な笑みを浮かべてイシュルの顔を見てきた。

「どちらも次代の王にふさわしい美質がある。そして多分、欠点もある……」

「……」

 ミラはただ笑みを浮かべて頷くだけだ。

 聖王国の大貴族として、ふたりの王子に対する露骨な批判はできない、ということか。

 いや、そんなことはないだろう。彼女は国王であるビオナートに対してそんな態度はとっていない。  

 俺が何を言うのか待っているのか。

「サロモン王子は策士だろう。機転が良くきくひとだ。対してルフレイド王子も悪くない。兄に比べればそこら辺の能力は劣るだろうが、一本芯の通った真っ当な性格のひとだ。サロモン王子のような危うさがない」

 イシュルはミラから顔を逸らし横目に見て言った。

「もちろんそう単純なものじゃない、あくまで第一印象、ということになるんだろうが」

 サロモンが王になれば、聖王国は他の諸国にとってより扱いにくい強い国になるだろう。中海の都市国家に対する影響力も増していくだろう。それはつまり、聖王国がより繁栄していく、ということだ。

 ルフレイドが王になれば、より忠誠心の高い、清廉な人材が集まるのではないか。聖王国の政情はより安定し、盤石なものになるだろう。それも聖王国がより繁栄していく、ということになる。

「甲乙つけ難し、だな」

「こう、おつ、ですか? イシュルさまは難しいお言葉をご存知ですね。いつも感心いたします」

「あ、いや……」

 またやったか。

「多くの方々がイシュルさまと同じような見方をされていますわ」

 ミラがうんうんと頷きながら言う。

 まぁ、そりゃそうだろうな。

「でも、サロモン殿下をよく知る方からでしょうか、あの方に関しては恐ろしい話も聞こえてきます。それはもしあの方が、陛下のようにお身内に対しても容赦ないことをするような方だったら、今頃は御本人が国王になっているだろう、というお話です」

「……なるほど」

「サロモンさまはああ見えてやさしいお方なのです。でも一方で好悪の差が激しく、疎まれ、敵方と思われると酷い目に合わされるとか」

「ふむ」

 そうだろうな。無用なやさしさも、個人的な好悪を表に出してしまうのも為政者としては欠点になる。むらっ気の多い人物なのだ。

「これから先、サロモンさまの鋭鉾がこちらに向かないようにしなければなりません」

 ミラはサロモンのいる屋敷に目をやりながら言った。

 イシュルもミラと同じ方に目をやり頷いた。

「きっとイシュルさまならでき——」

 そこへ西側の運河の方から何かが飛んでくる感覚。

 公爵邸の西側を囲む城壁を矢が一本飛び越えて来て、いつのまにか立ち止まって話していたふたりの足許に落ちて来た。矢の先に布切れで丸められた錘みたいなものが付いている。

 矢を射ってきた者はおそらく運河の船上か。イシュルは素早く左右を見やってこちらを窺う者がいないか確認すると、

「ミラ、矢を」

 と言って、運河側の城壁の上まで一気に跳躍した。

 運河の対岸には大小の船が繋がれ、岸壁の上の道には、公爵邸の方を見ている野次馬の姿がちらほらと見える。

 船上から低い姿勢で射ってきたか。

 そうすれば対岸の方からも見えない。夜では公爵邸に放たれた矢に気づく者もいないだろう。

 イシュルは船上の荷やたたまれた帆の下の影になった辺りを仔細に観察したが、怪しい者の気配も姿も感じ、見つけられなかった。

「イシュルさま、お手紙ですわね」

 ミラのところに戻ると、彼女は細かく折られた紙を広げてイシュルに渡してきた。

 手紙には、「紫、神殿長、至急お会いしたい、ク」と書かれてあった。

「うーむ」

 イシュルは手紙を見ながら唸った。

 これは……。

「これはクート殿からの手紙ですわね」

 最後にク、とあるからか?

「紫尖晶の魔法使いの方々を引き取った時にいただいた手紙と筆跡が似ておりますわ」

 そうか。あの爺さん、やはり紫尖晶の幹部だったんじゃないか。手紙の文字はなかなかの達筆だ。

 ……じゃなくて。

「これじゃ、暗号文にもならないよなぁ」

 イシュルがぼやくと、ミラが小さく笑い声をあげた。

「ふふ。でも、一応関係者でなければわかりずらい書き方はしてありますわ」

「うん……」

 イシュルは小さく頷くと真面目な顔になって言った。

「しかし急だな。誰かの、何かの罠だろうか」

「それはないと思いますわ」

 ミラは首を横に振り、はっきりと言い切った。

 なぜだろう。

 ラベナや双子の件でミラに届けたクートの手紙に、彼女の態度に関係するようなことが書かれてあったのだろうか。よくわからない。

 とりあえず、行かない手はない。紫尖晶の長(おさ)が会いたい、と言ってきているのだ。

「ちょっと行ってくる。……ところで、紫尖晶聖堂って、どこにあるのかな?」

 イシュルの質問に、ミラはまたくすっと笑った。

 



 エストフォルの市街は、運河と南北を流れるふたつの川沿いの商業地区、収穫祭の時期に巡礼に訪れる信徒たちの滞在に使われる、街の西北に広がるバレーヌ広場を中心とした他の大小の広場、その間に貴族の住む邸宅街や富裕層が多く住む街、宿屋街などが挟まるようにして存在している。さらに市街の南西に下町が広がり、バレーヌ広場の西の丘に大きな支城が立っている。もちろん大小の聖堂教の神殿も街中に数多く存在する。

 特徴的なのはバレーヌ広場から大聖堂へとL字に続く大きな幅広の道である。収穫祭時には大聖堂まで多くの人びとで賑わうのだろう。前世における寺社仏閣の参道とよく似たものだ。

 イシュルは運河を飛び越えるとしばらく街路をふつうに歩き、建物と建物の間から跳躍し街の家々の屋根伝いに移動し、また下に降りて街路を歩き、とジグザグに移動しながらバレーヌ広場に向かった。

 広場は中央を大聖堂から伸びる石畳の道が通り、道端から先はほとんどが草地で、井戸が点在していた。井戸の周囲は石畳になっていて、周囲に凹みがあり、途中から石板で蓋がされ地中に沈み、下水路となっているようだった。

 広場の端の方には木々が固まって生えている箇所があり、その周囲には、収穫祭のあるなしに関わらず巡礼に訪れるひとたちか、旅芸人か、貧乏傭兵団か、幾つかテントも張られていた。

 広場の東側、建物が密集して並ぶ、ほぼ正面中央にあたりに見える神殿がおそらく紫尖晶聖堂である。

 イシュルは広場の中央を通る石畳の道から右にそれ、その神殿に向かった。

 紫尖晶聖堂は見た目は少し大きめの普通の神殿と変わらない。ただ神殿の建物の奥に鐘楼を備えているのが少し変わっている。

「おい」

 イシュルが周囲に気を配りながら、神殿に向かってゆっくり歩いていくと、いきなり後ろ斜めからひとの気配が現れ、イシュルに向かって数歩ほど近づくと声をかけてきた。

 殺気も、もちろん魔法の感じもない。

 イシュルが振り向くと、暗がりに浮かぶシルエットに見覚えがある。

「ビルド……」

 イシュルが小さな声でその名を口にすると、人影は無言で頷いた。

 ビルドは聖石鉱山のウーメオの舌と鉱山集落で国王派との戦いがあった時、集落内にあって唯一生き残った紫尖晶の影働きの男だった。

「まっすぐ神殿に入るのは勘弁してくれよ」

 ビルドはイシュルに近づくと小声で言い、イシュルの横を回り込んで彼の真正面に立った。

「俺の後に黙ってついてきてくれ」

 ビルドはそういうと、すたすたと神殿の方ではなく、イシュルの通ってきた街中の方へ歩きだした。

 ビルドについて広場を抜け街中に戻ると、まだ多くの人びとの姿がある歓楽街の一画に入り、道の左側の飲み屋らしき店に入る。客もまばらな店の中を調理場の方へ抜け、そのまま店の裏から外に出、裏道を左に折れるとすぐ斜め向かいの家に裏から入る。その家の裏口は鍵がかかっていず、入ってすぐの長い廊下をそのまま歩いていくと、その家に住む人びとの居間に出た。

 その部屋には中年の男女と少女がひとりいて、男は酒を飲み、母娘はおしゃべりをしている。みな椅子に深く腰掛け、くつろいでいた。

 イシュルはそれを見てぎょっとなったが、ビルドは家の人びとを無視して廊下の先をどんどん歩いていく。家の人びともイシュルとビルドを見ても何の反応も示さない。イシュルも仕方ない、と割り切って彼らを無視してそのままビルドを追いかけた。廊下の先はこの家の主(あるじ)の仕事場になっていて、大小の木材や木屑、木彫りなどが置いてある。この家の主人は木刻を仕事にしているようだった。

 ビルドは仕事場の左隅にある井戸に向かうと、上にかぶせてある木製の蓋を取り、上に縛り付けてある縄をつかんで井戸の下へ降りていった。イシュルも風の魔力のアシストをつけ、続いて降りていく。

 下は奥へ一直線の地下通路になっていて、通路脇に幾つかランタンがかけてある。突き当たりまで行くと壁に鉄の杭が複数、粗雑に横並びに打ち込まれていて、イシュルはビルドの下からその杭を掴み、足を乗せて上に登っていった。

 ビルドは最上部までくると薄く光の漏れる羽目板を横に押して開け、その奥に消えた。

 続いてイシュルが地下通路から外に出てみると、そこは神殿の中だった。イシュルたちは神々の彫像が並んで置かれている台座の羽目板のひとつから出てきたのだった。

 その後イシュルは神殿の裏手にある、神殿長の執務室らしき部屋に案内された。

「じゃあな」

 ビルドは部屋の扉をノックし少しだけ開けると、それだけ言ってイシュルから去って行った。

 イシュルが部屋の中に入ると、中には白い神官服を着たクートがいた。

「久しぶりじゃな。イシュル殿」

「ああ」

 イシュルは返事はしたが、まだあれからそれほど日数が立っているわけではなかった。

 神官長の部屋は大きな書棚に机、椅子、長椅子にテーブル、それに小さな収納の木箱、壁に立て掛けられた巻紙の束などがあり、ごくありきたりな感じだ。

「じゃあ、さっそく長(おさ)に会ってもらおうか」

 クートはそう言うと、机の上に置いてあったランタンを持ち上げた。

 そして無言で頷いたイシュルに、

「ちょっと後ろを向いてくれるかの」

 と声をかけてきた。

 イシュルが怪訝そうな顔になって背を向けると、後ろで書棚から本を動かす気配がして、部屋の奥でガタン、シャシャと、何かが外れ、鎖の走る音がした。

 書棚の上から二段目、右から三冊目? くらいか。

 イシュルが振り返ると、クートが言った。

「あっ、本の場所は変えられるから。意味がないぞ」

 じゃあ、なんでわざわざ俺を後ろに向かしたんだ。こいつ。

 むすっとするイシュルにクートがにやりとした。

 クートの横の書棚が動き、地下へ降りる階段が見えていた。


 クートに続いて下に降りると、幾つかの扉がある、やや広めの地下室があった。地下室には木箱や樽、縄、古い刀剣類などが置いてあり、奥の方には椅子が数脚、粗末な木の机があった。

 クートはその机の側に座り、ランタンを机の上に置いた。

「貴公も適当に座ってくれ」

「ああ」

 イシュルががたがたと音のなる椅子を移動してクートの真向かいに座ると、クートが言った。

「それでははじめようかの」

「いや、紫尖晶の長(おさ)は? まだ呼ばないのか?」

「ふふ」

 クートは薄く笑うと机の上のランタンを奥の方へずらした。

 クートを照らす光が横にまわり、彼の顔の影を細く深く彫りとっていく。

「……!!」

 あの時の顔だ。聖石鉱山に出発した日の夜、黒尖晶の襲撃後にクートが一瞬だけ見せた表情……。

「まだわからんか」

「あ、あんた……」

 クートの顔が変わった。

 もちろん実際に彼の顔貌が、背丈やからだつきが変わったわけではない。だがイシュルには一切が、以前とはまったく違って見えた。

 少しおかしみのある初老の男の顔は、何かをぎらぎらと発散する精悍な壮年の男の顔になった。

 声までも低く、重厚な感じに聞こえた。

「そうだ。実はわしが紫尖晶の長(おさ)よ」

 その男は口を僅かに歪めた。多分、笑っているのだろう。

「わしはクートのほかにもうひとつ名があっての。フレード・オーヘンと申す。よろしく頼む。イシュル殿」

 男の笑いが、さらに大きくなった。

「お、俺はあんたが幹部のひとりだろうとは思っていたんだが……」

 イシュルはごくり、と喉を鳴らした。

 目の前の男の迫力が以前とは全然違う。

「だ、だがどうしてクレンベルまで俺をわざわざ……。やはりあれか、風の魔法具を持っているから……」

「それもある」

 呻くように言うイシュルにフレードはゆっくり頷いた。

「だがそれだけではない。実は年が明けた頃に孫娘から手紙をもらっての」

「孫娘……?」

「そうだ。はじめてな。こんな罪深い年寄りにも、さすがにあれはうれしいものだ」

 フレードは一端間を置き、言った。

「孫娘は今、倅とともにラディス王国のエリスタールに住んでおる」

 イシュルは呆然と両目を見開いた。

「それじゃ、あんた……」

「そうだ。倅の件では世話になったの。モーラはそのことでわしに手紙を寄越してきたのだ。孫の手紙には貴公の名が書かれてあった。あの赤帝龍を追い返した者と同じ名がな」

 紫尖晶の長(おさ)の笑みがまたさらに大きく、深くなった。

 だが目だけは笑っていない。決して笑わない。

 小さな怪物のような男が言った。

「ツアフの病気を直してくれたそうじゃの、ふふ」

 目の前の男が声を出して笑いだした。

「ふぁははははっ」

 男の笑い声が地下室に反響した。その影が地下室の壁を踊り狂った。

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る