消えた国王



 サロモンは芝居がかった仕草でそっと右手を胸に当てると、イシュルにゆっくりと頭を下げてきた。

「馬上から失礼」

 決して大きな声ではない。だが辺りを覆う静寂に、彼の声ははっきりとイシュルの許まで届いた。

「さぁ、行かれよ、王宮へ」

 サロモンは左手を王宮の方へ差し伸ばすと言った。

「どうか我が友の窮地を救いたまえ」

 ミラが門前からイシュルの方へ歩いて来る。騎士団長のバスケスはイシュルの横で口をあんぐり開けて、ただ呆然と佇んでいる。

 シャルカは相変わらずの無表情だが、目線はしっかりミラとサロモンを捉えていた。

「バスケス!」

 サロモンは未だひとり芝居を続けた。今度は右手を上げて騎士団長を指差した。

「わたしがディエラード邸にいる限り、たとえ王命であろうとそなたは何もできぬ。何も叶わぬ」

 そして右手を天に向けてさし出すと、その指先を追うように顔を仰向け激しく笑い出した。

 世にも美しい男の哄笑が、周りのすべてを飲み込むようにして覆い被さってくる。

 イシュルだけでない、背後のディエラード邸の者たち、正面の聖堂第三騎士団の騎士ら、周りの者すべてが彼の観客だった。

「ははっ……ふふ」

 彼は笑い終えると途端に素に戻り、一瞬、鋭い視線をイシュルに向けてきた。

「ルフィッツオを連れて戻ったら話したいことがある」

 そして表情をやわらげるとイシュルに向かって微笑んでみせ、いきなり背を向けた。

 サロモンは馬首をめぐらすとお付きの者どもを引き連れ、ゆっくりとディエラード家本邸の方へ進んで行った。

 ミラの次兄ロメオをはじめ、ディエラード家の者がみな一斉にサロモンに跪く。

「さあ、王宮へまいりましょう。イシュルさま」

 ミラがイシュルの前に来て言った。

 ミラは苦笑の入り混じった複雑な表情をしている。それはサロモンの芝居がかった言動に辟易しているようにも見えた。

 確かにあれは三文芝居だろう。だが演者の身分も、そして外見も、ただの役者ですまされない。演ずる者の格が違えば、陳腐な台詞も演技もまったく違って見えてくる。

 イシュルにはどうしても、サロモンの演技をただの三文芝居と断ずることはできなかった。

 サロモンの決断は聖都にどれほどの衝撃と変化をもたらすだろうか。その重い事実が彼の哄笑に渦巻き絡みついていた。

 ……とんでもないことになった。

 イシュルは馬上の王子の後ろ姿に目をやった。

「シャルカ、ではあなたはわたしたちの屋敷に残って、殿下もいっしょにお守りしなさい」

 横からミラの声が聞こえてくる。

 サロモンの後ろ姿がディエラード家の者たちの中に消えていく。門の向こうからはまばらながら歓声さえ上がっていた。

 彼は正義派にとって強力な味方になるのか、それとも正義派を滅ぼす悪魔になるのか……。

 イシュルの眸が微かに窄められた。

 ディエラード公爵邸に、聖王家の旗が高く翻った。




 公爵邸の門を跳躍し飛び越えていくシャルカの後ろ姿が視界に入ってきた。

 イシュルははっとして表情を緩め、視線を逸らし首を何度か横に振った。

 ……今はまだ駄目だ。考えるのは後にしよう。その前にやらなきゃいけないことがある。

「イシュルさま?」

 ミラの柔らかい声が横から聞こえてくる。

 振り向くとミラは頬を染めて、恥ずかしそうにこちらを見てくる。

「ああ、ごめん。では行こう」

 ミラの上の兄さん、ルフィッツオを宮廷から救い出さなければならない。

「はい……」

 ミラは顔を俯け、戸惑うような表情になると、両手を差し出してきた。

 へっ?

「空から行きますでしょう? ですから……」

 ミラは眸を潤ませ、顔を真っ赤にしている。唇の端を震わせて、笑顔になるのを必死に堪えているようだ。

 そうか。ミラ自身は空を飛べない。シャルカがいないのなら、俺が彼女を抱き上げて飛ばねばならない。もちろん、風の魔力で包んで彼女単独で空を飛ばすこともできるが、本人に空を飛ぶ能力がないのならそれはやめておいた方がいい。

 聖都の上空に到着した時、王城内には大規模な兵力も多数の魔導師の気配もなかったが、城の内郭、王宮まで行くのなら、途中、何らかの戦闘は避けられないだろう。

 彼女が恥ずかしがっているのはそれか……。

「ああ。わかった」

 イシュルは後ろからミラの肩に手をまわすと抱き寄せ、もう片方の手を彼女の膝裏の方へ伸ばしてさっと抱き上げた。

「あっ」

 ミラが小さく声をあげた。

 華奢で柔らかい、少女のからだの重みが伝わってくる。

 イシュルがミラの顔を見ると、ミラはついに満面の笑顔になって、イシュルの首と背中に両手をまわしてきた。

「イシュルさま」

 少女の夢見るような顔。

 うっ……。

 ミラの声がただ甘いだけでなく、妙に明るい。間近で見る彼女の顔は繊細で完璧な造形だ。

 きみの明るい声がいけないんだ……。

 イシュルも思わず自分の頬が熱くなるのを感じた。

「おっ、こ、ちょっと」

 騎士団長が横から言葉にならない声をあげる。イシュルは風の結界を彼の周囲にまで広げた。

 おじゃま虫? だがむしろ助かった……。

 イシュルは風の結界に固まった騎士団長を横目に見て言った。

「心配するな。もう少しすればこの結界は消える」

 こちらが王城に入ってしまえば視界も塞がり、距離ももちろん感知範囲外になる。その頃には風の結界も消え去るだろう。

 「待て、待ってくれ!」と声を張り上げる騎士団長の声を背後に残し、イシュルはその場から高く飛び上がって東側、視界いっぱいに広がる王城を見渡した。

 空に上がってしまえば巨大な城はすぐ目の前にある。眼下には大小の石造りの建物が木々を挟んで密集している。王宮に出仕する下級貴族の役人や正騎士らの官舎、主に地方の領主の館などが固まっている。

「ミラのお兄さんは王宮にいるかな?」

「はい」

 ミラは返事をしただけで、イシュルの胸に頬ずりするようにして頭を押しつけている。

「えーと……」

 イシュルは南北に伸びる城壁からやや距離を置いて止まり、城をざっと見渡した。

 エストフォル城の西側外郭は、数ヶ所で凸型に張り出した曲輪と、ほぼ等間隔で城壁と連結する小櫓が組み合わさった長大なものだが、城壁自体の高さはそれほどでもない。やや南の方に城壁が大きく凹んだ箇所があり、おそらくそこが城門だろう。外郭には城門にも大きな城塔は立っていない。

 城の西側は外郭からたいした距離もなく内郭の城壁が広がっている。外郭と内郭の間には、木々に囲まれた複数の建物が窮屈そうに密集している。中には騎士団本部なのか、騎士団旗の旗が翻る建物もある。

 聖都付近では何百年もの間、大きな戦乱は起きていない。エストフォル城もその長い間に政庁としての機能に重点を移していったのだろう。城内には建物や木々が多く、実戦向きの城ではなくなっている。

 イシュルは外郭の城門の奥、少し北側にずれて存在する内郭の城門に視線を移した。

 内郭の城門にも大きな城塔は立っていない。だが、内郭の城壁には南と北に大きな尖塔が立っていた。その奥に立つ太陽神の塔、さらに奥、東の方に遠く霞んで見える他の大きな塔と同じく、内郭の西側に面し、南北を固めるふたつの尖塔にも神々の名が冠せられているのだろう。

 ひときわ高く聳え立つ太陽神の塔は、内郭の城門の直線上にある。ここからは内郭の城壁に隠れて見えないが、その間に聖王家の王宮がある筈だ。

「行くぞ、ミラ」

 イシュルは低い声で言うと、風の魔力を降ろした。

 自分の周りを覆うように、三重の魔力の壁を張った。

 外郭の城壁を飛び越え、斜めに突っ切るように内郭の城門に接近、イシュルとミラはそのまま内郭の城壁も飛び越えた。眼下に三階建ての石造りの宮殿が見える。前世の古代ギリシアにはコリント式、イオニア式などと呼ばれる建築様式があるが、聖王家の王宮も素人目にはよく似て見える。建物の表側には、聖堂教の一般的な神殿によく見られる縦筋の入った角柱ではなく、シンプルな円柱が等間隔で並び、その奥に大きな格子窓のついた石積みの外壁がある。円柱は明るい灰色、奥の建物の外壁は薄い茶色で、品のある落ちついた色調に見える。確か古代ギリシア文明において、建築物や彫像は派手な原色で彩色されていたらしいが、この世界の大神殿や宮殿、神々の像にはそのような彩色は見られない。

「イシュルさま、なぜ降りないのです?」

 すぐ下でミラが微かに首をかしげ、イシュルに聞いてくる。

「いや、びっくりしちゃって」

 イシュルは鋭い視線で周囲を、眼下を見渡しながら言った。

「なにもやってこない。魔法も弓も射ってこない。大弩弓をどこかに隠して射ってくるかな、と思って三重の防壁を張ったんだが……」

 周囲に城兵や魔導師の気配をまったく感じないわけではない。人数が少ないのは事実だが、誰も姿を見せず、潜み隠れ攻撃をしかけてこない。

「……国王陛下はもう、王宮にはいませんわね。逃げたのでしょう。城内奥深く、国王しか知らない隠し部屋に身を潜めているのか、あるいは隠し道を使って城外に出てしまわれたか。後宮にもいないかもしれません」

 ミラも辺りに目をやりながら言った。

「きっと王城を壊されたくないのでしょう。そして魔導師や騎士団の者たちに損害が出るのも避けているのでしょう」

「ふん」

 イシュルは眼下に広がる宮殿を見下ろしたまま、不機嫌な声を出した。

 聖石鉱山での紅玉石の奪い合いから以降、クレンベルを発ってからビオナートは威嚇、挑発、分断、遅延などの工作を連続して行ってきた。そして、いよいよ俺が王城に足を踏み入れる段になるとあっさり逃亡し、いずこかに姿を消した。

 以前からミラやデシオらが予想していたその通りになったわけだが、この割り切った策謀と行動に、言いようのない怒りと嫌悪感を抱かずにはいられない。やつのすべてが気に喰わない。

 頭の切れるやつなのだ。何をどう考え実行すれば良いのか、やり方がわかっているのだ。

 危険な男だ。だが、こちらがそこまで追い込んだのも確かなことではある。

 次に俺たちがやらねばならないこと、それは宮廷魔導師と、騎士団と、影働きの者たち、そして王宮の執政らと、ビオナートの繋がりを断ち切ることだ。

 だがすべての連絡を遮断してはならない。やつが諦めてしまわないように、やつが総神官長に選出され、“聖冠の儀”を大聖堂の主神の間で行うところまで誘導しなければならない。

 でなければ本物が出てこない。

「どうしました? イシュルさま」

 ミラがそう言って胸元から見上げてくる。

「やつは危険だ。いつも単純明快に物事を考え実行に移す。そういうことができるやつは危険なんだ」

 イシュルは独り言のように言った。

「大丈夫ですわ。イシュルさまだって負けてはおりません」

 ミラはそう言うと顔をイシュルの胸に押しつけてきた。

 い、いや、ちょっと、そうかな……。

「えーと、ミラ。王宮に入ろうか」

 未だに誰ひとり、王宮の前で空に浮かぶイシュルたちを攻撃してくる者がいない。

 イシュルは鋭い視線でもう一度、眼下の王宮を見渡すと正面入り口付近に降りていった。

 王宮の内部に散在する怪しい魔力の存在。あれはほとんどが魔封の結界だろう。辺境伯の執務室にあった仕掛けとよく似た同じ感じがする。

 イシュルは王宮の入口の前に降り立つとミラを降ろした。

「あっ」

 ミラが微かに声をあげる。

 はは。そんなあからさまに残念そうな顔をしなくてもいいのに。

「イシュルさま……」

 ミラは人差し指を唇にそっとあて、イシュルを上目遣いに物欲しそうな顔で見つめてくる。

「衛兵もいないのか」

 イシュルはどぎまぎとミラの顔から視線を逸らし、宮殿の出入り口の方へ目をやった。

 今の彼女は強烈過ぎる。彼女の顔を見ちゃいけない。いろんな意味で危険すぎる。

 イシュルは肩から首筋にかけて、ぐっと力を込めて前を見た。

 正面にある宮殿の出入り口は足許の階段を数段登った先にある。観音開きの大きな扉がふた組横に並んで、両方ともに開け放たれている。本来なら両脇に立っている筈の衛兵の姿がない。

「……いませんわね」

 少し残念そうにして、イシュルから顔を前に向けたミラが言った。

「いつもはちゃんといるんだろう?」

「ええ」

「徹底しているな。これもビオナートの命令だろう」

 イシュルは小さくため息をつくと言った。

「イシュルさまに害されるのを恐れた、ということでしょうか」

「そうだろうな」

 イシュルは宮殿の建物の中の方へ視線を走らせた。

 中は大きなホールになっていて、建物の反対側、宮殿の向こう側まで突き抜けている。反対側の出入り口も扉が開かれている。右の壁際にメイド姿の者が三名、箒や黒っぽい鳥の羽毛のハタキを持って掃除をしている。他に人影はない。

 やる時はやる、被害を恐れず戦力を投入する。その逆もしかり。たとえ衛兵だろうと戦力の損失を厭う、……そういうことなのだ。

 嫌なやつだ。

 それならそれで俺も自分のやり方でいかせてもらう。俺はとてもあんたのようにスマートにはやれないが。

「中に入る前に、宮殿のあっちこっちに仕掛けられている邪魔なものを取り除く」

 イシュルはミラに厳しい視線を向けて言った。

「それは……」

「ほとんどが魔封の結界だろうな。他に迷いの結界、眠りやだまし、認識阻害の結界とかも仕掛けられてるんじゃないか?」 

「にんしきそがい、ですか? ……仕方ありませんわ。確かに危険ですから」

 ミラはイシュルの言った聞き慣れない言葉に、首を少し傾け考えるような仕草をしたが、なんとなく意味がわかったのかすぐに頷いた。

「わたしが知ってるのは数えるほどですが、イシュルさまはもっとたくさんあるとおわかりになるのですね」

「なんとなくな。建物の中に風の魔力を通すとよりはっきりとわかる」

 イシュルは目を瞑り、何かを探るように右手を前に上げた。

 壁と壁の間、床下に天井裏に敷き詰められた魔法陣。室内に何気に置いてある香炉や壷、鏡などの装飾品……。

 イシュルは脳裡に浮かんだイメージに従って、風の魔力を走らせた。

 「手」を伸ばし縦横無尽に、破壊していった。

 宮殿の各所から何かが割れ、引き裂かれ折れる、硬く甲高い音が聞こえてきた。

 外壁の一部が剥がれ落ち、幾つかの窓が割れた。周囲にうっすらと埃が舞い上がり、宮殿全体が微かに揺れた。

 ホールの右側奥の方にいたメイドたちがお互いに顔を見合わせて不安気にしている。

 宮殿の中に居残っている人びとの動揺する気配が伝わってくる。

 あまり多くの人数ではない。

 時刻はそろそろ夕方になる。宮廷に出仕している貴族や役人らで未だ残っている者は少ないだろう。王城を警備している衛兵も相変わらず、王宮に異変が起こったのに姿を見せない。

「……」

 イシュルはひとり苦笑を浮かべると言った。

「中に入ろう、ミラ」

「はい、イシュルさま」

 ミラが花のような笑みを向けてくる。なぜかすこぶる機嫌がよい。

 禁足されているお兄さんのことが心配ではないのだろうか。

 それはつまり、ミラは俺がいれば何も心配することはない、と口だけでなく本気でそう思っているということだろう。

 単純にさっきのお姫さまだっこで機嫌がいいのだ、と決めつけたくはない。

 イシュルは複雑な気分でミラの笑顔に頷いてみせた。

 ふたり、横に並んで階段を昇り、王宮の中へ足を踏み入れる。

 メイドたちが不審をあらわにイシュルの方を見てくる。

 しかしすぐに、イシュルといっしょに歩いている少女が誰か気づき、みなそろってミラにお辞儀をしてきた。

 ミラは聖石神授時の服装のまま、イシュルはクレンベルを出る時に黒革の上着を脱いでいる。下のズボンはそのままだが、上は白いシャツに赤茶のベスト、それにクレンベルを出る時、ミラが気を効かして自身の持ち物からワインレッドのスカーフを貸してくれ、彼女自ら首に巻いてくれたが、上着は着ていない。服装からするとかろうじてミラの従者に見えるかどうか、といった感じだ。

 宮殿中央のホールは三階まで吹き抜けで大きなものだったが、思ったよりは地味な印象である。古い灰色の大理石の床に、同じ薄茶色の大理石の壁、天井は幾何学模様に唐草の入り混じった真っ白のレリーフで覆われている。

 靴音の高く反響するホールを抜けると、正面外は石畳の道が真っすぐ、太陽神の塔が聳え立つ小さな城館まで伸びている。城館はおそらく三階建て、窓はない。低い尖塔が四方に聳え、中央から大きな太陽神の塔が突き出ている。

 中央の城館の手前にはめずらしい、良く手入れされた芝生が広がり、奥には木々が密集して反対側の後宮はほとんど見えない。城館からは南北にも石畳の道が伸びていた。

 王宮の内側、城館に面した側には三階まで吹き抜けの大きな廊下が、ホールを中心に左右に伸びていた。

「これは……」

 イシュルは周囲を見渡しぼそっと呟いた。

 この宮殿の内側に伸びる吹き抜けの廊下。側廊、もしくは遊歩廊と言ったか。前世で西洋の大きな教会や宮殿にあったものと、ほぼ同じものだ。

「そうか。王宮の表の出入り口はこちら側、内側の方なんだ。さっき入ってきたのは裏口、だったのか」

 イシュルは後ろも見、ミラに顔を向けると言った。

「そうです。王宮も後宮も、太陽神の塔に面した内側が表側になります」

 ミラはイシュルににっこり頷いて言った。

「さすがはイシュルさま。見た瞬間、お気づきになりましたのね」

 イシュルは宮殿の“表口”、太陽神の塔を背にして左右を見渡した。

 宮殿の裏側、イシュルたちが入ってきた中央のホールの両脇には一拍おいて両側に二階、三階へと続く階段があり、その外側も小さなホールになっている。

「王宮はここを中心に左右対称の構造になっておりますの」

 ミラの説明によると、東側に開いた逆コの字型の王宮の縦棒の部分には中央の大ホールや階段、その南北に謁見室や晩餐会、舞踏会などが開かれる中小のホール、控え室や厨房などが並び、南北の横棒の部分は北側が外務関係の政庁、南側が内務関係の政庁となっていて、一階部分は王宮に訪れる聖都内外の貴族や領主、富商らの控え室が並び、二階が下役らが詰める事務室、三階が高位の役に就いている貴族等の詰める個室や、その頂点である内外務卿の執務室、聖王家の国王や王子たちの執務室がある、ということだった。

「しかし、この側廊も人影がないな」

 三階まで吹き抜けの長大な廊下は所々彫像や壷、小さな机や椅子、壁には大きな絵画がなども飾られ壮麗なものだが、部屋を出たり入ったりする役人らしき者や、掃除をしているメイドらの姿をちらほらと見かける程度で閑散としている。

 ただ彼らは皆小走りに動き回り、一様に慌てた様子だった。イシュルが感知した王宮内部の怪しい魔法の仕掛け、魔法陣や魔法具の類いを破壊し、王宮に異変が起きたことを感じたからだろう。彼らはどんな変事が起こったのか、どんな被害が出たか、調べて回っているのかもしれない。

「普段なら王宮の一階はこの時刻でも、もっと多くの人びとを見かけるのですが……」

 ミラも人差し指を頬に当てて左右に目をやっている。

「政務関係は午後から休みにしたんだろう。王宮から退かせたのは衛兵らだけじゃない。明らかに計画的だな」

 イシュルは視線を辺りに彷徨わせながらそう言うとミラを見た。

「で、兄君が軟禁されている場所はわかるか?」

「はい。だいたいの見当はつきます。こちらですわ」

 ミラはイシュルを伴い王宮の側廊を南の方へ進んで行った。途中出会った者たちはみな最初はぎょっとした顔をし、ミラが誰だかわかると一礼して足早に離れて行った。

 夕刻が近づき東側に面した側廊は陽が弱く薄暗い。床に染みつくようにして沈む壁や柱の影に、ふたりの影が重なり流れていく。

 カツン、カツン、とイシュルとミラの立てる靴音が、側廊の高い天井に響き渡った。

 宮殿の南側、突き当たりで側廊は東側に直角に曲がる。観音開きの扉が等間隔で並ぶ三つ先に、鉛色のフルプレートアーマーの衛兵がふたり、両脇に立っている扉があった。

「あれだな」

「そのようですわね」

 まわりに他の衛兵の姿はない。あまりにわかりやすい。

 イシュルはその場で風の魔力を降ろし、ふたりの衛兵を固めた。

 衛兵の立つ扉の前まで来ると、イシュルは両観音の木製の扉にかかった鍵を破壊した。風の魔力で鍵の周囲を覆い、魔力を外側に逃げないようにして解放、爆発させる。

「ううっ……うう」

 フルプレートの衛兵は小さめのバトルアクスを垂直に立てて片手に持ったまま、僅かな呻き声をあげるだけで彫像のように微動だにしない。

 扉を開けて中に入ると、長椅子やテーブル、小棚などがある控えの間があった。同じく鍵のかかっている小部屋の奥の扉も破壊し、さらに奥の部屋に入る。

 中は豪華な椅子や机、その他の家具、壷や絵画、鏡などの調度品で溢れかえった広い部屋だった。ただ床や天井、壁のいたる所に亀裂や凹凸ができていた。

 この部屋にも魔封に類する仕掛けがされていたということだ。

 イシュルは部屋の真ん中に立って、呆然と天井を走る亀裂を見上げていた青年を見た。

 ディエラード邸の屋敷の前にいた派手な赤い上着の青年、彼とよく似ている。似たような背格好にくせのある金髪。整った顔立ちに青い眸。

 編み上げに折り返しのついた黒いブーツ、焦げ茶のズボンにフリルのついたシャツ。ただ、目の前の青年の上着は深い青色だ。

「お兄さま!」

「おお、ミラ!」

 ミラがイシュルの脇から飛び出し、青い上着の青年に飛びついた。

「帰ってきたんだね」

 青年がミラに微笑みかける。

「ええ。お兄さまは? お怪我はございませんか?」

「大丈夫。ここに閉じ込められていただけだ」

「マロニーたちは? どこですの」

「従者はお構いなしいうことだったので、先に帰したよ。危険だから屋敷には帰らせず、ラロワの所へ行け、と言ってある」

 マロニーとは彼の従者の名、ラロワというのは彼の同僚か友人、といったところだろうか。

「まぁ。それはようございました」

 ミラはルフィッツオから離れるとイシュルの方を見て言った。

「ありがとうどざいます。イシュルさま。兄は無事でしたわ」

 そしてミラは兄に向かって、次兄のロメオから頼まれてイシュルとともに王宮にルフィッツオを助け出しに来たことを話した。

「それでお兄さま、こちらがそのお方、イシュルさまですわ」

 とミラは話の終わりにイシュルを紹介した。

 イシュルさまです。……って、それだけなのはどうだろう。

 ルフィッツオは笑みを浮かべたままイシュルの前まで来て言った。

「ありがとう。君のおかげで助かったよ」

 そしてイシュルの肩をぽんぽんと叩いた。

「わたしがミラの兄、ルフィッツオ・バルヘーラ・デ・ルクス・ディエラードだ。よろしく、イシュル君」

「はじめまして。ラディス王国、今は王領ベルシュ村の領民、イシュル・ベルシュと申します」

 ルフィッツオが名乗ると、イシュルも右手を胸に当て、かるく頭を下げて名乗った。

 かつてブリガール男爵領だったベルシュ村は今は王領になっている筈だ。

「……ふむ。きみのような少年がな。わたしもミラからさんざん聞かされていてね」

 イシュルが顔をあげるとルフィッツオのじーっと見つめる眼(まなこ)があった。

 敵意はもちろん、値踏みするような感じもないのだが。

 ……はは、なんでしょうか?

 イシュルが困ったような笑顔になると、ミラがルフィッツオの後ろから叫ぶように言った。

「お兄さま!」

 ルフィッツオの肩がぶるっと震える。

「まぁ、こればっかりは仕方ないね……」

 ルフィッツオは小さくため息をつくと呟いた。

「ミラをよろしくたのむよ、イシュル君」

 そしてなんともいえない表情で、イシュルにだけ聞こえるような声で囁いてきた。

 イシュルの笑顔が固まる。

 ゔっ……、それは。なななな、なんでしょうか。

 ど、どういう意味なんでしょうか。

「それでは帰るとするか。急がないとね。まだ第三騎士団が屋敷の周りを囲んでいるんだろう?」

 ルフィッツオがミラに振り向き言った。

「それが……」

 ミラが笑みを消した。


「なんだって……」

 サロモンが仲裁に訪れ、あげくディエラード家に滞在すると宣言したことをミラがかいつまんで説明すると、ルフィッツオは両目を見開き絶句した。

 ルフィッツオがイシュルを見てくる。

「……」

 イシュルが無言で頷くと、ルフィッツオは顎に手をやり考えはじめた。

「サロモン殿下の件はとりあえず後まわしにして、とりあえず俺は内務卿に会いたいんですが」

 イシュルがルフィッツオに言うと、彼は顔をイシュルに向けてきた。

「それは?」

「内務卿に国王に会わせるよう願い出ます。もしビオナートがまだこの宮殿にいるのなら、捕らえて無理矢理にでも撤兵の命令を出させます。そのまま身柄を拘束して、大聖堂に連れていきます」

 イシュルはそこで間を置き、皮肉な笑みを浮かべると言葉を続けた。

「まぁ、ビオナートはどこかに隠れてもう捕まらないでしょうから、内務卿に第三騎士団を退かせるよう、圧力をかけようかと思っています」

「ふむ。……内務卿ももう、下城されているかもしれないが」

「今の内務卿はベルナール・リアード、わたくしどもと同じ、五公家のリアード公爵家の当主です」

 イシュルがミラを見ると、彼女が即座に説明してきた。

 クレンベルから聖都への道中で、聖王家の王子たちや執政に五公家、そして聖都にいる大神官あたりまでの話はミラから聞いておこうと思ったが、二日目から宮廷魔導師らと第二騎士団の待ち伏せに合い、その後は帰還を急いだのでそれどころではなくなってしまった。

「もう城中にいないのなら、リアード公爵家邸まで押し掛けましょう」

「うむ、それは……。とにかくベルナールさまの執務室まで行ってみよう。上の、三階にある」

 ルフィッツオは一瞬難しい顔になったが、すぐにイシュルに頷いてみせた。

 イシュルはルフィッツオが閉じ込められていた部屋から出ると、扉の両脇に立つ衛兵を固めていた魔力を彼らを傷つけないよう、ゆっくりと少しずつ薄めて解放した。

 側廊を風が吹き、外側に並ぶ窓ガラスがガタガタとなった。衛兵はイシュルたちを追いかけてこなかった。


 階段を三階まで上ると、広間の東側、中央にまっすぐ伸びる廊下があった。両脇に円柱に屋根の荘厳な装飾の成された扉が並んでいる。奥にある広間の正面にはさらに華美な装飾の観音扉が見える。

 あれが国王の執務室なのだろう。王宮の北側も同じ構造になっている筈だが、そちらにも同様に国王の執務室があるのだろうか。

 これも一階のルフィッツオの閉じ込められていた部屋と同じ、やや奥の方の扉に衛兵がひと組、立っている。他に人影は見えない。

 イシュルはさっさとその衛兵も風の魔力で固めてしまった。

「……」

 横でルフィッツオが息を飲む音が聞こえてくる。

 定番の分厚い赤い絨毯の上を音も無く歩き、固まった衛兵の立つ扉の前に立つとイシュルはルフィッツオに言った。

「押し通ります」

 同時に扉の鍵を破壊し中に入る。控えの間を抜け、大きな長い机がある会議室のような部屋に出る。

「奥が内務卿の執務室だ」

 横からルフィッツオが言ってくるとイシュルは無言で頷き、奥の部屋へと続く扉の鍵も同様に破壊して、その部屋に足を踏み入れた。

「……なんだね。そなたらは」

 内務卿、ひとりだけが部屋にいた。

 奥にある机の向こう側に、イシュルたちの方を向き座っている。

 内務卿はやや後退した白髪に白い口髭、片眼鏡をつけた痩身の老人だった。銀糸の複雑な模様の刺繍のされた黒いローブを着ている。

 内務卿の執務室も天井や壁の一部が破れ、崩れ落ちていた。部屋の中には重厚な書棚と本、長椅子やテーブルなどが置かれている。壁際にある細長い机にはたくさんの巻紙が積み重なっていた。

 老人は所々亀裂の入った部屋の現状を完全に無視し、何事もなかったかのように巻紙を広げ、羽ペンを走らせていた。

 彼は部屋に入ってきたイシュルたち一行を見上げ、片眼鏡を持ち上げると言った。

「ルフィッツオ……、勝手に部屋から出てきたのか? それは重罪じゃぞ」

「……」

 顎を引き、拳を握ったルフィッツオの横からミラが前に進み出て、右手を胸に当てお辞儀をすると言った。

「内務卿、兄は当家屋敷へ下がらせていただきますわ。それでせっかく王宮まで出向いたので、聖石神授査察司として聖都帰還のご報告も済ませておきたいのです。陛下にお会いしたいのですが」

「陛下は……」

 ベルナールは顔をしかめた。

「ビオナートはどこにいるんだ? 会わせろよ」

 そこでイシュルが前に進み出、ぶっきらぼうに言った。とても大国の執政に対する口の利き方ではなかった。

「何者じゃ、そなたは? 無礼な」

「俺はイシュル。あんたも俺の名前くらいは知っているだろう?」

 イシュルは内務卿の顔を凝視した。ビオナートが隠れるのなら、国政は表向き、この老人が仕切ることになる。外務卿は外交、他国との儀礼や戦争などが担当で内政には係らない。

「この宮殿の魔封陣を潰したのはそなたかの?」

 ベルナールは片眼鏡の中の眸を異様に細めて言った。

「さあな。俺は知らん」

 イシュルは口許に笑みを浮かべて内務卿を見た。

「このようなことはそなたしかできまい」

「証拠は? 明確な証拠がなければ駄目だろう」

 イシュルは笑みを深くして言った。

 こちらから言質をとられるようなこと、話す筈がないじゃないか。

「とにかく早く国王に会わせろ。ディエラード邸包囲の命令を本人に破棄させる。でないと全滅することになるぞ? 第三騎士団が。それともあんたの権限で撤退命令を出せるのか?」

 イシュルは顔を横に傾け内務卿に揶揄のこもった視線を向けた。

「あんたにその権限があるのならすぐに撤兵させろ。それが第三騎士団を救うことになる」

 イシュルはひとつ間を置き、僅かに視線を厳しくして言った。

「あんたの命も救われる」

「むっ……、随分と露骨な脅迫ではないか」

 内務卿はからだを伸ばすと、机に並んでいた複数の大小の砂時計のひとつを取ってひっくりかえした。

 小さな白い砂の入った砂時計だ。

 イシュルは一瞬何かの魔法具かと緊張したが、特に魔法の発動した感じはない。ただの砂時計のようだった。

「わしは忙しい。これからもまだたくさんの書類を見なければならん。おまえたちの話を聞くのはこの砂がすべて落ちるまでだ」

「まぁ、おほほほ」

 ミラが笑った。

「いちばん小さな砂時計ではありませんか。ディエラード家もずいぶんとかるく見られたものです。今日は面会する者も、書記も従僕も誰ひとりおりません。なんの意味がございますの?」

「誰もいなかろうと、規則は規則じゃ」

 内務卿は下からぎょろりとミラを見上げて言った。

「……あの砂時計は簡単な魔法具で、砂が全部落ちると奥の控え室にある鐘が鳴り、その部屋にいる書記や衛兵らが、面会の終了を告げにこの部屋に入ってくることになっている」

 ルフィッツオがイシュルに顔を寄せてきて小声で説明した。

 なるほど。使う砂時計の大きさで相手を格付けし、話の内容の重要度を決めているわけだ。

 それでミラが言うには内務卿は一番小さい砂時計を使ってきた、と。

「ふん、くだらない」

 イシュルは呟くと言った。

「もう一度聞く。ビオナートに会わせろ。やつはどこにいる?」

「陛下はご不例じゃ。誰にも会われん。わしでは撤退の命令は出せん」

「では第三騎士団には今後誰が命令を出す? ふざけた話だ。やつらをずっとディエラード邸に張り付けておくつもりか」

 イシュルは薄く笑って首を捻り、内務卿を眇(すがめ)に見た。

「そういうことじゃろう」

 ベルナールはすっとぼけてイシュルの言を流し、砂時計に目をやった。

「そろそろおわりじゃな」

 砂時計に残る砂はもうほんの僅か。あっという間だ。まともな話をする気のない相手に使われる砂時計なのだろう。

 イシュルは砂時計の中を落ちていく、細かな砂の粒の動きを見つめた。

 あの小さな空間に風の魔力を忍ばせる……。

 砂が落ちるのが止まる。

 イシュルは視線を内務卿に向けた。

「砂時計の砂が落ち切るまでの時間、といったな。内務卿」

 イシュルは微かに笑みを浮かべて言った。

 これは小さな繊細な魔法だ。

「むっ」

 内務卿の視線が机の上に置かれた小さな砂時計に注がれた。

 砂が落ちない。砂時計が止まっている。

「貴様の仕業か」

 イシュルの視線と内務卿の視線が、止まった砂時計を挟んで交錯する。

 茶色く濁る年老いた眸と、強い光の灯る青い眸。

「時を計るのはおまえじゃない」

 イシュルは静かに言った。

「この俺だ」

 大国の執政であろうと思い通りにならない、おまえたちを屈服させる力があるんだよ。

 その小さな砂時計の中に、今あるものがそれだ。

 イシュルはベルナールに背を向けた。

「行きましょう」

「ああ……」

 ルフィッツオがかくかくと頷いた。

「ミラ、聖石神授の報告は後で書面で通知すればいいだろう。国王が不例なら仕方ない。内務卿はあれだしな」

 イシュルは横目でちらっとベルナールを見るとミラに言った。

「はい、イシュルさま」

 ここでねばってもしょうがない。内務卿を捕らえ拷問にかけるのも良くない。こいつは泳がせてビオナートとどう繋がっているか、やつがどこにいるのか探った方がいい。

 イシュルたちは内務卿の執務室から出ていった。

 独りになった老人の眸が僅かに見開かれる。

 イシュルの姿が消えると、止まっていた砂時計の砂が再び、下に落ちはじめた。

 

 廊下に出ると、イシュルは左手にある広間の奥にある王の間、国王の執務室の扉を凝視した。

 誰かいる。

 内務卿の執務室に入る前にはほとんど感じなかった、ひとの気配がある。

「ちょっと行ってみましょう」 

 イシュルはふたりに声をかけると足早に国王の執務室の前へ歩いていった。

 ミラとルフィッツオも短く返事をしてイシュルの後をついてくる。

 四角形の幾何模様でレリーフされた重厚な両観音の木製の扉。その奥には何かの気配がある。もちろん表側に衛兵は立っていない。

 イシュルは扉の真正面に立つと、左手を上げてミラとルフィッツオを制止した。

「そこで止まって」

 ミラとルフィッツオはイシュルの横、少し離れたところで立ち止まった。ふたりの顔に緊張が走る。

 扉の向こう側、おそらく控えの間に誰かがいる。

 イシュルは風の魔力を「降ろし」、自身の周囲を覆った。次に扉の前に魔力を集中し、扉へ向かって解き放った。

 同時に王宮を激しく揺るがす振動が起こる。どこかの壁が崩れ、ガラス窓が割れる音が響く。

 ゴン! っと激しい音を立てて扉に亀裂が走り、奥へ吹っ飛んでいく。と、扉が途中で止まった。

 !!

 扉が空中に静止した瞬間、割れた扉を串刺しに硬く尖った黒いものが何本も突き出でてきた。

 なっ!? 俺の風の魔力を止めただと?

 音も振動も遠くに去っていく。黒く尖ったものの動きが止まった。いや、ゆっくりとイシュルに向かって動いてくる。

 早見の魔法が発動した。

 イシュルは目の前に迫る黒い突起を見つめた。

 金属ではない。表面は何か、硅素か炭素が含まれるのか、岩石をもとに加工したようなもののように見える。非常に硬く、適度な粘りもありそうなものだ。

 これは……土の魔法か。しかもこんなことをしてくるとは……。

 黒い突起はイシュルの張った風の魔法の壁を突き破ってくる。

 イシュルはもう一枚魔力の壁を降ろすべく、あの領域に「手」をかけ、今目の前にある防御用の魔力の壁の密度をさらに上げるようにした。

 そしてさらに、黒い突起物と突き返された扉を新たな風の魔力で固めにかかった。

 ……ふっ。

 イシュルの顔に少しずつ、微かな喜色がゆっくり浮かんでいく。

 さっきの魔力の解放は、実は奥の国王の執務室まで破壊してしまわないよう、かなり威力を抑えていたのだ。

 次はどうだ?

 イシュルは早見の魔法を解除した。

 轟音と激しい振動。扉が奥の部屋で四散し、黒い突起物が粉々に砕けた。

 イシュルの目の前が灰色の煙で覆われる。

 奥の控え部屋の窓ガラスが割れているようだ。イシュルはそこから煙を排出した。同時に精霊か、激しく損傷した何かが弱々しい魔力を煌めかせ消滅していくのを感じた。

 煙りが晴れると、壁や天井が崩れ落ちた控え部屋の左右に、フルプレートの潰れた衛兵の死体がふたつ、向かいの壁に食い込み、周囲に赤い血を吹き飛ばしている。

 そして不思議なことに、真ん中には岩石でできた太い柱のようなものがあった。

 岩の柱は所々ひび割れ傷んでいる。と、それが突然崩れ落ち、もの凄いスピードで下へ姿を消していった。

 控え部屋の床が割れ、穴が開いていた。岩の柱はその穴から下の階へ、おそらく地中まで落ちていった。

 再び薄く煙るその部屋の中央に、青いローブを着た紺色の髪、水色の眸の女がいた。細長い木の杖を片手に、ふらふら揺らしながら薄笑いを浮かべている。

「アナベル・バルロード!」

 横からミラが叫んだ。

「土の青い魔女……」

 と、ルフィッツオの呟く声。

 イシュルは思わず顔を横向けルフィッツオを見た。

 土で青い、とはこれ如何に?

「ふふ、ミラ。ひさしぶりね」

 宮廷魔導師長と同じ家名を持つ女が、ミラに歪んだ笑みを向けて言った。

「ほんとに恐ろしい風遣いだわね。彼」

 女はイシュルに目を向けきてきた。とりあえず彼女から殺気は消えている。

 いや。だから土で青。なぜだろう?

 イシュルはなぜかその、変わったふたつ名の方が気になった。

「わたしも上から命令されただけだし、これでおいとまさせていただくわ」

 アナベル・バルロードは俯いて小声で呪文らしきものを唱えると、南側の窓を飛び越え姿を消した。

 イシュルは宮殿の建物の南側に、地面から土らしき何かが盛り上がるのを感じた。そしてそれは徐々に下がっていった。

「行ったな。……あの女は?」

 イシュルはミラに顔を向けて言った。

 あの女、自らの精霊も盾に使ってきた。両脇にいた衛兵は当然のごとく見殺し。能力もそうだが、相当な食わせ者だ。

「アナベル・バルロード、魔導師長の孫娘ですわ」

 ミラはめずらしく、イシュルに機嫌が悪いのを隠そうともせず言った。

「彼女もなかなかの実力者でね。ミラと張り合ってるんだ。ミラが赤を、彼女が青い服を好んで着るので赤い魔女に青い魔女」

 ルフィッツオが苦笑を浮かべて説明した。

 金(かね)とか土とか、属性は関係ないのか。そういうものなのか? 安直過ぎると思うのは気のせいなんだろうか……。

「お兄さま!」

 ミラに怒られ、ルフィッツオが「ごめんごめん」と首をすくめる。

「さっ、イシュルさま。陛下がいらっしゃるのなら奥の部屋に入りましょう」

 ミラがつん、と顎をあげて言ってきた。

「あ、ああ。足許を気をつけて」

 しかし、あっちこっちに好敵手とか、因縁がらみの相手がいたりして、ほんとに大変だ。

 イシュルは床に穴が開き、室内がぼろぼろになった控えの間を飛び越え、振り返ってミラに向かって手を差し出した。

 ネリーにベリンに、そしてミラ、きみもか。




「まさかおまえがビオナートか」

 イシュルは怒りと侮蔑、落胆をその眸に宿し、腰を抜かして後ろに退いていく中年男を見やった。

 控えの間の次の部屋にビオナートがいた。

 国王の執務室とあって広く豪華な内装の部屋であったが、さきほどの戦いで部屋の端の方に逃げ、仰向けになってぶるぶる震えながらイシュルたちを見上げる男は、あまりにこの場に似つかわしくない、貧相な男だった。

 中年男は金糸の文様が入った白いトーガにサンダル。神官のような格好をしている。灰色の短めの髪、広い額、削げ落ちた頬。普段なら威厳も感じられる容姿なのだろうが、本人がぶるぶる震えているのではどうしようもない。

 それに……。

 イシュルはビオナートの後ろで、背中を見せて屈んでいる女に目をやった。

 この女は王宮に勤めるメイドだろう。白い背中がまる見えの半裸で、彼女もぶるぶると身を震わしている。

 イシュルの視界の隅では、部屋に入ったところで驚きの声を上げたミラが、今も恥ずかしそうに俯き、顔を横に逸らしている。

「こ、この、無礼者が。よ、予を誰と心得る」

 中年男はやっとその言葉を口にした。

「この非常時におまえは何をやっていたんだ」

 イシュルは冷たく男を見下ろし言った。

「……」

 後ろでルフィッツオのため息が聞こえてくる。

 イシュルは唇を噛んだ。

 やられた。これは俺たちが小馬鹿にされたのか? 内務卿は知っていた? それとも内務卿本人が謀ったのか?

 くだらない。これじゃ子どものいたずらと変わらないじゃないか。

「行こう、イシュル君」

 ルフィッツオが声をかけてきた。

「はい」

 イシュルはルフィッツオに返事をすると中年男に背を向けた。

「お、おい!」

 後ろから男が叫んでくる。

「影武者に用はない」

 イシュルはひっそりと呟き王の間を後にした。

 これでビオナートが消えたことがはっきりとした。おそらく後宮にもいないだろう。

 やつは王宮に来ても無駄だぞ、と言っているわけだ。いや、探しても無駄だぞ、と言っているのだ。

 おまえたちを小馬鹿にする、そんな余裕もあるんだぞ、と言っているようにも思える。

 宮殿の階段を降りながらルフィッツオがイシュルに声をかけてきた。

「とにかく屋敷の方が心配だ。急ごう。第三騎士団の件はこの際、サロモン殿下のお力も借りて何とかしよう」

 イシュルはそこで足を止め、ルフィッツオとミラの顔を見渡した。

「その前にもう一ヶ所、寄りたい所があります」

「……どちらへ、ですの?」

 ミラは大きな眸で聞いてくる。

 ルフィッツオも目を向けてくる。

 こちらがサロモンという強力だが危険な手札を得たとするのなら、彼が正義派の足を引っ張るような要因は排除していかなければならない。いくら強力でも、危険な手札を保持するわけにはいかない。

 まずは弟王子とビオナートの分断を図るべきだろう。これから勢力を拡大していくであろう正義派に対抗するために、彼らが一時的にでも結びつく可能性は高いのだ。

「せっかくだからルフレイド殿下にお会いしましょう」

 イシュルはふたりに言った。

「まずサロモン殿下が襲われた件を話します。ビオナートの企みだと御本人に気づかせます」

 そしてイシュルは薄く笑った。

「できれば弟君も王城の外へ出してしまいましょう」  

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