波乱 3



「セレーヌ」

 デシオが自らの契約精霊を呼んだ。

 地面に仰向けに横たえられたアマドは荒い呼吸を繰り返している。

 彼を囲むイシュルたちの頭上に、太陽神の精霊が光輪を背に宙から浮きあがるように姿を現した。

「彼の傷を癒してほしい」

 デシオが精霊に命ずると、セレーヌと呼ばれた光の精霊はアマドの側まで降りてきて、彼に向かって両腕を差し出した。

 横たわるアマドと精霊の両手の間の空間がまばゆい光に包まれる。

 鉱山集落の神官が使っていた治癒魔法の光の煌めきとは比較にならない、強い輝きだった。

 イシュルにはそう見えた。

「俺は聖都に先行します」

デシオがかるく息をついて顔をあげると、イシュルはデシオに向かって言った。

 イシュルの両目は大きく見開かれていた。顔を強ばらせ、全身を細かく震わしていた。

 ……この心の、奥底をうねるものは何だ。

 やつはとんでもないことをやってきた。狙いは何だ? ただの自殺行為ではないか。

「だが——」

 デシオが無言で頷き、何か言おうとした時だった。

「イシュルさま、わたくしも連れていってください」

 遅れて馬車を降りてきたダナたち宮廷魔導師、それに朝から彼女らと同乗していたベリンに事態を説明していたミラが、イシュルに顔を向けて言ってきた。

「わたしも!」

 すかさずベリンが大きな声で続く。

 イシュルはミラにしっかり頷くとベリンに顔を向け言った。

「ベリンは駄目だ。デシオさまと聖石を守ってくれないか。おまえも聖王家の宮廷魔導師なんだから」

「ん〜」

 ベリンは癖なのか、昨日イシュルに捕まった時のように下唇を突き出して、不満そうな顔をした。

「ベリン、よしなさい。あなたが行ってどうするの?」

 ダナがベリンを引き止める。

「ベリン、落ちついたらミラの家に訪ねて来い。空中戦のこと、いろいろと教えてやるから」

 といっても実際に戦闘機のパイロットだったわけでなし、前世でいろんな分野の本を読み散らした中に、たまたま戦史や戦記、体験者の手記などもあったから、その手の知識を多少持ち合わせていただけだ。

「わかった……。イシュルさん、約束だよ?」

 ベリンが悲しそうな眸で上目づかいにイシュルを見つめてくる。

「ああ、わかった」

 イシュルはほんの僅かに表情を緩めると頷いた。

 今はとてもにこにこ笑顔になれる状態じゃない。

「イシュル殿」

 後ろからデシオがイシュルに声をかけてくる。

「きみの怒りはよくわかる。わたしも同じです。第三騎士団に多少の犠牲が出るのは仕方がないかもしれない。だが、くれぐれも自重して聖都に、住民たちに被害がおよばないようにしていただきたい」

 またそれか。ここまでされてもか。なぜビオナートはよくて俺は、俺たちは駄目なんだ。

 イシュルは空を仰いで目を瞑った。

 両手の拳をきつく握りしめる。

 だめだ。今は堪えろ。

 心のうちをうねり、溢れて出てくる得体の知れない怒り。

 エミリアやセルダの顔、エンドラの固い表情……。浮かんでは消える彼女たちの顔は、やがてリフィアやメリリャ、両親や弟の顔にまで移ろい、最後には重い苦しみで真っ黒に染まった、誰かの顔になった。

 イシュルは眸を開いて何もない空の一点を見つめた。

 すべてが、やつのいいようにやられている気がするのはなぜだ。

 俺には何もない。力、破壊する力以外に。

 ビオナートはどうだ。やつはひとを生み集め、街をつくり、国を動かすあまたの力を持っているのだ。

 王宮を灰燼に帰す、聖都を焦土と化す。

 そんなことできる筈もない。それは最後の最後の、もう何もできない、何も救えなくなった時にやることだ。

 俺はどうしたらいい。……この怒りを、どうすれば拭い去ることができる?

 このまま聖都に向かえば。

 イシュルは唇を噛んだ。

 すべてを破壊しつくしてしまいそうだ……。

「イシュルさま?」

 ミラが腕に触れてきた。

「……」

 ミラは微かに首を傾け、イシュルに微笑んでみせた。

 心の中へそっと染み入るような笑顔。

 ミラは何も言わない。ただ笑顔を向けるだけだ。

 ……そうか。

 おまえが微笑むのなら。おまえが想うのなら。

 今、一番辛く苦しいのは誰だ? ミラじゃないか。

 イシュルは全身から力を抜くと、ミラの眸に揺れる光彩を見つめた。何かを求めるように、その眸の奥まで覗き込もうとした。

 俺は間違っていた。忘れていた。

 俺はひとりじゃない。俺にだって他に何かできる力がある筈だ。

 そしてイシュルは顔を上げるとデシオに言った。

「……わかりました。なんとかおさめてみせましょう」

「うむ。貴公にはミラ殿だけではない、ミラ殿の兄君が、ディエラード家の者たちがいる。聖都には他に味方してくれる者もいるだろう。どうしようもなければウルトゥーロさまに縋りなさい。緊急時なのだ。空から大聖堂に直接入ってしまえばよかろう」

「総神官長さまを?」

「そうです。ウルトゥーロさまに仲裁を頼みなさい。総神官長が働きかければ、国王も受け入れざるを得ない」

「なるほど……」

 最初からそれで行くか。

「でも、時間がかかってしまいますわ。運良くすぐに総神官長さまにお会いできたとしても……」

 ミラが言いずらそうに、少し控えめな感じで言ってきた。

 それもそうか。

 大聖堂と王宮を使者が行ったり来たりしている間に何がどうなるか、まったく予測がつかない。危険だ。

「ベルシュ殿」

 リバルがアマドと光の精霊を回り込み、イシュルのすぐ前まで来て声をかけてきた。

「ディエラード公爵邸を囲んでいる我が騎士団の兵力は、せいぜい五百くらいの筈だ。貴公が呼び出した大精霊なら、みな眠らせることもできるんじゃないか」

 イシュルはリバルにゆっくりと頷き、顎に手をやり顔を俯けた。

 確かに第三騎士団は今、槍兵らを抽出されて兵力が少なくなっている。

 リバルの言ったことは名案だ。

 だがそれでも、クラウを連れていくわけにはいかない。

 まず現場の詳しい状況が不明だし、かなり流動的だろう。第三騎士団長やその上の執政、もし捕まえられればビオナートと直接折衝することになるかもしれない。

 クラウの手腕は確かだろうが、そもそも当事者のひとりである自分自身が行かねば話にならない。

 なぜ俺は底知れない怒りに襲われたのか。これはビオナートの、ディエラード公爵邸を餌にした俺への罠、俺に対する挑発ではないだろうか。

「大丈夫ですわ。イシュルさまなら五百の兵だろうと何だろうと問題ございません。いいようにあしらっていただけますわ」

 ミラがリバルに横から口を出してくる。

 リバルはクラウが第二騎士団の騎馬兵らを次々と眠らしていくのをその場で見ているが、イシュルが草原で張った結界は直接見ていない。 

「クラウは使節団の護衛に残していく」

 イシュルはリバルからデシオへ視線を移しながら言った。

 クラウも連れていければ心強いが、それは仕方がない。万が一、ということもある。デシオやミラの従者たち、ラベナや双子を死なすわけにはいかない。

「クラウ」

 イシュルがクラウを呼ぶと、クラウはイシュルたち皆の顔を見下ろせる、ちょうど良い位置に姿を現した。

「これはこれは、クラウディオスさま」

 デシオが右手を胸に当てて、跪く。

 アマドの治療を続けるデシオの精霊はクラウの登場に一瞬動揺したが、デシオの反応を見てすぐ落ち着きを取り戻した。

 デシオの光の精霊が一瞬見せた動揺……、やはりクラウは大精霊なのだ。イヴェダの相当近いところにいるのだろう。

「ちょっとまずいことが起きた。俺は聖都に先行する。残した使節団の護衛をたのむ」

 イシュルはクラウに状況をかいつまんで説明した。

「了解した」

 いつものごとく安心感たっぷりに頷くクラウに、イシュルが厳しい声音で続けた。

「距離が離れる。クラウとは意志が通じなくなるがたのむ」

 召喚した精霊と確実に交信できるのは状況にもよるが、だいたい二〜三里(スカール、一里=約六〜七百m)くらいだ。

「後ろからはこの前の魔導師たちと騎士団が迫ってくる。先の方は聖都に入る辺りで何かあるかもしれない。充分気をつけてくれ」

「わかった」

 再び自信ありげに頷くクラウ。

「それはなんとかなります、イシュル殿」

 デシオが立ち上がって言った。

「ちょうど聖都に入るあたりで、クレンベル街道沿いにデ・ラロサという神殿がある。いざとなったらそこに逃げ込むことにしましょう」

「なるほど」

 確かに神殿に入ってしまえば聖堂騎士団だろうが、宮廷魔導師だろうが手出しができなくなる。神殿を襲撃するなどとんでもない話だし、神殿内部では荒事は控えなければならない。デ・ラロサの神殿長が国王派でなければ、その神殿以上に安全な場所はないだろう。

「急がないと。時間がないわよ」

 ダナが横から言ってくる。

「心配ないですよ。聖都まで四半刻(三十分)もかからない」

「えっ……」

「おおっ!」

 ダナが唖然とした顔になる。隣のベリンは眸を見開き、きらきら輝かせた。

 ここら辺りから聖都までは、直線距離でもまだ百里(スカール、約六〜七十km)以上はある。

 速度計があるわけもなく、きちんと計測したこともない。だからおおよそでしかわからないが、水平、直線飛行なら半刻あたり三百里ほど、時速二百kmくらいの速度なら問題なく飛べる。

「シャルカ、ミラを肩に上げたら、とりあえず空へ飛び上がってくれ。すぐに俺が風の魔力で包んでそのまま運ぶ。びっくりしないようにな」

「わかった」

 いつものごとくミラの傍に無言、無表情で控えていたシャルカは、少し厳しい表情になって頷いた。

 シャルカがミラを担ぎあげる。

「では」

「参りましょう。イシュルさま」

 イシュルがデシオらに短く挨拶をすると、ミラがシャルカの肩の上から笑顔を向けてきた。

 さきほどの、あの笑顔を。




 眼下を流れていく緑、家。

 現在の高度はだいたい五百長歩(スカル、約三〜四百メートル)ほど。横を飛ぶミラを見ると驚いた顔をしている。

 速度は時速にするとおそらく二百kmほどは出ている筈だ。

 ミラたちと自身の周りの風の魔力の壁は紡錘形にしているが、かなりの風切り音でミラとの音声のやり取りはできない。空中での戦闘も考え、ミラたちとは魔力の壁の仕切りは別にしている。

 ちなみにシャルカも自分もやや腰を屈めるくらいで、地面に立つそのままの姿勢で空を飛んでいる。

 風の魔力そのものは重力から自由で、もちろん浮力も推進力も生みだすが、通常の空中移動時は旅客機など飛行機に乗っているような形の方がなぜか精神力、集中力に及ぼす負担が少なく楽なのである。

 これが戦闘時などもっと高速で移動、機動しなければならない時は、例えば前世の空を飛ぶヒーローたちのように、からだを水平に伸ばして飛ぶ場面が出てくる。自分のからだに風の魔力を密着させるようにして、いわば自分自身が“飛行機の機体”になった方が魔力の反応や働きが早く、良くなるので都合が良いのだ。ただ、より神経を使い集中力が必要になるので、疲労の蓄積は早く、大きくなる。

 赤帝龍との戦闘後、風の精霊界、異界から魔力そのものをこちらの世界に持ってくることができるようになって、空を飛ぶことも格段に楽になった。当然能力的にも向上した。その力をフルに使えば音速を越えて飛ぶことも可能だと思うが、超音速飛行によって発生する衝撃波や高熱が感覚的にまったく想像できないので、今まで試そうと思ったことはない。

 自分にとって風の魔法とその感知する能力は、五感や肉体に対するそれと同じであくまで感覚的なものであって、自分自身のからだを使って未知の領域に挑戦することに、どうしても恐怖心を抱いてしまう。

 赤帝龍と戦ったあの時、はじめて風の魔力を掴んでやつに向かって解放、ぶっ放した時、初速と言っていいのか、瞬間的な最高速は明らかに音速を越えていたと思う。あれの何十、何百分の一の力でも、自身に降り掛かってくるのを防ぎながら、一方で自分自身をあの速度で移動させる、というのはちょっと想像しがたく、技術的にも不安を感じる。試してみたい、とは今ひとつ思えないのだ。

 もし理系の、物理や自然科学に関する体系的な知識があれば、また違った考えを持てたかもしれないが、こればかりはしょうがない。

 もちろん今まで、わざわざ音速を越えてまで移動しなければならない、差し迫った状況に接したことがなかった、というのもある。

 聖都までほぼ最短のコースを、クレンベル街道を左手、南側に見ながらしばらく飛び続けると、前方、街道の先の方に城郭らしきものが見えてきた。

 ミラに人差し指を上に向け縦に振ってみせ、上昇することを伝える。一端速度を落とし、ぐいぐい高度を上げていくと、前方に見えた城が眼下に、その周囲の集落、そして北の方にも似たような規模の城が見えてきた。南北に存在するふたつの城は各々その側面を河川に面し、二重の水堀を供えていた。

 そしてその西の先に、蝟集する集落や木々を前面に配し、南北に長大な城壁をめぐらした聖王家の王城、四方五十里、十一柱の神々の名を冠した十一の尖塔と王宮からなるエストフォル城が見えてきた。

 あっという間に聖都の上空に到着した。

 たとえ急ぐとは言えたいした距離ではない。とても音速などで飛べない。無理矢理音速まで加速すればその途中で聖都を飛び越え、音速に達する頃には遥か西の方まで行ってしまうだろう。

 イシュルたちはやがて王城の真上まで移動するとそこで停止し、眼下の聖都の街並みを見下ろしながら緩やかに降下していった。


 王城とふたつの支城を囲む、南を流れる川はディレーブ川、北の方を流れるのはアニエーレ川、ふたつの河川は遠く離れた南北から、クレンベルの麓から西の平野部へ伸びる丘陵を削るようにして、徐々に近づいていく。

 そしてふたつの河川は聖都エストフォルに至って最も接近し、南のディレーブ川も北のアニエーレ川も、聖都を越えると今度は蛇行しながら互いに離れていく。

 ふたつの川は陽の光を反射して銀色にきらきらと輝きながら、西に遠く広がる平野部を霞の中に、薄く溶けるようにしてその姿を消している。

 時間がない。だが今はここで、おおまかにでも聖都の地理を把握しておかなければならない。

 怒りと無力感から我を忘れ、風の魔法具の力に頼ろうとして、飲み込まれそうになった。それをミラから救い出してもらったのだ。

 ここは冷静に対処しなければならない。状況をしっかり把握し、明朗な思考で最善策を模索し、判断していかなければならない。

 イシュルはまず視線を東の方に戻し、デシオの言っていたデ・ラロサの神殿のあるあたり、ディレーブ川に面する城郭とその周囲に広がる集落の辺りを観察した。集落の間を抜ける街道に面して、神殿らしき建物の屋根が見える。その神殿一帯に、魔力の煌めきや何らかの部隊が集結しているなど、怪しい動きは見えない。

 街道は王城の外郭部に飲み込まれ、その南端を横切って城の西側へ顔を出している。アマドはあの城郭内を通ってきたのだろうか。聖堂教会の神官であれば、通常は城門でつかまり誰何されることもない筈だが、彼は負傷していた。デエラード公爵邸を第三騎士団が包囲する非常事態の中、おそらく王城を突っ切る途上で何かあったのかもしれない。

 だが今はアマドに何があったか、確認している時間はない。

 イシュルは視線を直下の、聖都の中心部に移した。

 ちらっと横に浮かぶミラを見る。

「あれがルグーベル運河か」

 イシュルは王城の西側、聖都を南北に突っ切る直線的な川、というより王城の外堀——を指差して言った。

 今は時折横風が鳴るだけで、ふたりは普通に会話できる状態だ。

「はい、そうですわ」

 ミラも下を見ながら言った。

 数ヶ所でクランク(枡形)のように細かく直角に曲がる幅広の運河は、三百年ほど前に、王宮と有力家臣、貴族家の住居や大聖堂を守る断続的な水堀だったものを繋げ、幅を広げて北のアニエーレ川と南のディレーブ川を結ぶ商用目的の運河としたものだ。

 南北のふたつの河川を接続する運河の開通で、聖都の、いや聖王国全体の河川水運は飛躍的な発展を遂げ、聖都のその後の繁栄が約束されることになった。

 ルグーベルは当時その運河の建設を推し進めた宰相の名だ。確かディエラード家と同じ五公家出身だった筈である。

 運河、特に商家の集中する西側の岸壁には大小の多くの船が繋がれているのが見える。多くの貴族や一般の住民が居を構える運河の西側に対し、東側は王城と大聖堂、大貴族や王宮に勤める役人や正騎士らの宿舎がある。

 大聖堂は運河に面した大きな広場に主神殿、その主神殿の奥、東側に大小の尖塔を三つ備えた建物が接続している。

 王城は外郭と内郭の城壁を仕切るようにして立つ十の尖塔、本丸に当たる太陽神の塔と下部の城館を中心に西側、運河側に広がるコの字型の建物が王宮、東の反対側に相対するのが後宮となる。王城にはその他にも王子たちの小宮殿をはじめ無数の建物が散在している。

 エストフォル城は全体の印象としては、その広大な城郭に馬場や練兵場も内包した、木々の緑の多い落ち着きと、歴史のある多くの尖塔が聳え立つ優雅さを併せ持つ、大国に相応しい王城に思われた。

 時間があればミラにいろいろと聞きたいところだが……。

 イシュルは、王宮を中心に妖しい魔力の存在、魔力を隔て隠す存在が心を微かにざわめかすのを無理矢理意識の外にやり、ミラに今最も重要なことを質問した。いや、確認した。

 ちょっと注意して見ればすぐにわかる。

 王城とその周辺、特に運河の東岸は奇妙に人気(ひとけ)がない。おそらくその原因となっている一画に、第三騎士団の団旗を掲げた兵士らしき者たちが何百と集まっている箇所がある。

「ディエラード家はあそこかな?」

 イシュルが指差すとミラが頷いて言った。

「白盾騎士団は我が屋敷の正門前に陣を張っているようです。参りましょう? イシュルさま」

 その顔には余裕の笑みが浮かんでいた。


 ディエラード公爵邸は、大聖堂から少し離れた北、ルグーベル運河のすぐ東側に面した、王城の支城を思わせる小振りな塔を備えた小さな城と、その南東側に立つ小宮殿を思わせる大きな邸宅を中心に成り立っていた。邸内には他にも大小の家屋が数多く存在し、所々濃い緑の木々が覆っていた。

 周囲は石積みの壁や鉄柵で囲まれ、特に運河に面した壁は高く、邸内の城と接続し明らかに王城の西北部を守る外曲輪、あるいは半ば独立した支城の態を成していた。

 一方、公爵邸の正門は南側の広場に面し、特に城塔もない華麗な装飾の柵門で、一般の富商や貴族の屋敷のものと変わらない。

 もとは王城を守るための曲輪か支城であったからだろう、ディエラード公爵邸の王城側は鉄柵を主に、一部石積みの壁の箇所がある以外、特に目につく防御施設らしきものは有していなかった。

 第三騎士団は公爵邸の正門前の広場を中心に、その東側、王城側に小部隊を逆L字型に分散配置していた。

 そして邸内の正門と小宮殿を思わせる豪壮な邸宅の間には、公爵家の騎士や兵士などが集まっているのが見えた。

 イシュルはゆっくりと降下を続けながら、公爵邸の周囲に視線を走らせた。

 確かにアマドが報告した通り、第三騎士団はディエラード家を今すぐ攻める状況ではない。公爵邸を包囲している、というよりは正門をはじめ要所に兵を配置して封鎖している、といった感じだ。

 もし公爵家が邸内西北、運河に面した小城塞に兵や家人を集め篭城すれば、たとえ王城側から攻め立てたとしても、五百程度の兵力ではすぐに攻め落とすことはできないだろう。

 だが、注意しなければならないことがある。

 それは第三騎士団に付けられているかもしれない宮廷魔導師の存在と、火矢の用意をしていないか、その二点である。

 前世の例えば日本ほどでなくとも、大陸では木造の建築物も多く、城塞や宮殿の大きな石造りの建物も、屋根や内部の天井と床、一部の壁などにはふんだんに木材が使われている。

 ディエラード公爵邸は街区と城塞の中間的な立地条件にあるが、騎士団側、しいてはビオナートが大規模な戦闘を避けつつディエラード家に打撃を加えたいとするなら、火矢や魔法による焼き討ち、火攻めは最も有効な手段ではないだろうか。

 周囲を注意深く観察するとまず、第三騎士団の主力が陣取るディエラード公爵邸前の広場、その中心に立つ初代王か昔の英雄の騎馬像の後方に、数本の篝火が焚かれ、周囲に松明を持った兵がいた。そして公爵邸東側、馬場か練兵場のような空き地の端、木々が生えたその裏側に、ディエラード家から隠すようにして同様の篝火と兵士たちがいる。

 魔導師はどうか。

 まず公爵邸前の広場から王城に伸びる石畳の道が右折する地点。

 広場の南側、大聖堂に関連する小神殿や神官らの施設、倉庫、神学校らしき建物などが固まった区画から運河に伸びる跳ね橋の橋塔、その上部の張り出し。

 その二ヶ所に兵士らに混じって、黒や茶色のフードつきのマントやローブを着た者たちの姿が見える。

 運河の西岸、街の中心部の方には怪しい存在は見当たらない。

 ただ街路にはちらちらと、公爵邸を囲む騎士団の存在に気づいた人びとが、西岸沿いに集まってきている。

 西の空からは薄雲が少しずつ密度を増し、東の王城の方へと広がってきていた。

 

「ミラ」

 イシュルは鋭く低い声音でミラに言った。

「第三騎士団の周囲には火矢の用意がされ、魔導師が数名詰めている。まず最初に、騎士団長にきみの家を包囲した理由を詰問しなければならないが」

 ミラがはっとした顔になって眼下に視線を彷徨わす。

「やつらだけは絶対に看過できない。問答無用ですり潰す」

 イシュルは声だけでなく、これ以上はない殺気のこもった視線をミラに向けた。

「おまえの家に火などかけられたら、とんでもないことになるぞ。騎士団長から話を聞くのはその後だ」

「わ、わかりましたわ」

 ミラがイシュルの剣幕に顔色を蒼白にして頷く。

「俺はその後、周囲の兵隊を風の結界で固めてから騎士団長のすぐ目の前に降下する」

 イシュルは顎に手をやり、騎士団や公爵邸の辺りを見やりながら言った。

 邸内の状況も知りたい。公爵邸にはミラの父、兄たちもいるだろう。彼らが何を考えているのか、なぜこうなったか、原因を知っているのならそれも知りたい。連繋する必要があるなら当然、それはしなければならないだろう。

「ミラは俺が結界を張ったら、シャルカとともにまず邸内に降下して、父君や兄君らと会って情報収集して欲しい。彼らに何かいい方策があるのならそれも聴取して、それから正門を飛び越え俺に合流してくれ」

「おお……、わかりましたわ。イシュルさま」

 ミラは感嘆の声を上げると、イシュルに笑みを浮かべて言った。

 イシュルはミラに頷くと降下するのを止め、公爵邸の敷地の上空に移動した。

 正門前の兵士らが密集した辺りには、交差した剣に大きな盾、第二騎士団と少し似ている第三騎士団の団旗が、西から吹く微風に緩やかにはためいている。彼らの中には空に浮くイシュルたちに気づく者も出始め、僅かに動揺する気配が伝わってくる。

 イシュルはさきほど確認した篝火とその周囲の兵士、王城にほど近い、右折する路上と南側の橋塔にいる魔導師と兵士らに、同時に風の魔力の塊を降ろし一気に粉砕した。

 そして粉々になった肉体と甲冑や衣服の入り混じった赤と灰色の入り混じった煙を、いつものごとく空高く吹き飛ばした。

「シャルカ」

 続いてイシュルはミラとシャルカに顔を向け、シャルカの名を呼ぶと同時にふたりを包んでいた風の魔力を後方へ吹き払った。シャルカはすぐに気づいて自らの魔力で空に浮かぶ。

 イシュルはミラに笑ってみせると叫んだ。

「よし、ミラ。行け!」

「はい!」

 イシュルは団旗の周囲を除いた、公爵邸を囲む騎士団兵らに風の結界を降ろし閉じ込める。

 ミラは元気よく返事をすると、本邸前の、公爵家の人びとが集まっている辺りに向かって降りていった。

 イシュルも騎士団長のいると思われる団旗の側へ降下していった。


 イシュルが地上に降り立つと同時、結界の外にいた大柄な騎士らが数名、大盾を左に、片手剣を右に抜き放ち殺到してきた。

 瞬間、イシュルに向かって突きつけられた剣が銀色の霧となって霧散し、ゴォッと音を立てて空中に吹き上げられた。

 イシュルは周囲の騎士らを吹き飛ばすと、そのまま結界の内側に押し込んだ。イシュルの正面にいたふたりの騎士は団旗を飛び越え、その先の空中に静止した。

 イシュルの周りには数長歩(スカル、一長歩は約六十〜七十cm)ほど離れて固まる騎士たちの壁がある。

 皆呆然とした顔でイシュルを見つめ、驚愕の声をあげている。イシュルから離れた兵士らはある者は公爵邸の方を見つめ、ある者は隣の者と談笑した形で止まっていた。

 正面、開けた視界の先、小さな背の付いた床几から立ち上がった騎士団長の姿があった。

 かるく日に焼けた顔に黒い髭、兜は冠っていない。首から下は胴鎧と篭手、脛当ての軽装、赤いマントを背に垂らしている。

 騎士団長の後ろには驚愕に硬直した団旗を持つ旗手、バスアルに代わる副官だろうか、中年の男がひとり。イシュルの張った結界の外にいるのはそれだけだ。

 彼らの外側にいた長く古めかしい金管楽器を抱えたラッパ手、伝令兵や騎士たちは結界の内側に入っている。

「俺はイシュルだ。俺のことは知っていよう」

 イシュルは両目をまん丸に見開き、呆然と佇む騎士団長を見て唇を歪めた。

「おまえが第三騎士団長だな?」

「くっ……、これは魔法の結界か?」

 騎士団長は全身を細かく震わして言った。声も少し震えている。

「そうだ。周囲に離れて配置してあった火矢の備えと魔導師らはすでに葬った。おまえたちも全員、瞬きする間もなく塵芥にして冥界に送ってやれる」

 イシュルは片手を掌を上に持ち上げ言った。

「あんたらは何もできない。俺には聖都の誰も、何もできない。あんたらの命は俺が握った。そこら辺の状況を理解した上で俺の質問に答えて欲しいんだが」

 イシュルは片手を下げ、両肩をわざとらしく落として言った。

「あんたらがディエラード公爵邸を包囲したのは王命だそうだが、その理由と目的は?」

「そ、それは」

 騎士団長はまだ辺りに目をやり、何が起こったか半信半疑の態だ。

 イシュルはため息をつくと、騎士団長の顔を静かな視線で見つめた。

「それとも国王はご乱心かな? ビオナートは気が狂ったのか?」

「はっ? ば、ばかな」

 落ちつきなく揺れ動いていた騎士団長の眸がやっとイシュルに据えられた。

「じゃあ、なんだ? 公爵邸を包囲した理由と目的は?」

 イシュルの顔に僅かにうんざりした表情が現れた。

 宮廷魔導師長の次は第三騎士団長か、まったく……。

 騎士団長に脅しをかけたとはいえ、現状ではとてもそれを実行に移すわけにはいかない。

 宮廷魔導師と第二騎士団の軍勢と、聖都から離れた草原で相対した時とは根本的に事情が異なる。聖堂騎士団が王城のすぐ側で五令公家のディエラード家を包囲しているのである。今ここで第二騎士団を殲滅すればディエラード家は聖王家に明確に反旗を翻したことになり、ディエラード家は逆賊の汚名を着せられ、下手をすれば聖都は内乱状態になりかねない。

 もちろん、総神官長をはじめ大聖堂の正義派が仲介に動くだろうから、大事になる前のどこかの段階で事態は沈静化されるだろう。

 だがディエラード家の汚名はビオナートが死に、王権が完全に改まるまで消えることはない。

 やつが死ぬまで、正義派は政治的には厳しい戦いを強いられるだろう。

 そして聖都で聖堂騎士団を壊滅させた俺はどういう風に扱われるだろうか?

 左手の甲に聖王家の王権の象徴である紅玉石を宿し、地神の恩寵を受けた存在であっても、危うい立場に追い込まれる可能性もあるのではないか。

 ビオナートは狂ってなどいない。それがやつのねらいなのだろう。

 使節団がクレンベルを出発してからビオナートが打ってきた手、宮廷魔導師らと第二騎士団の軍勢の待ち伏せ、そしてこのディエラード公爵邸包囲、それらはかつて、国王派を自分の土俵に引き摺りこまなければ、と考えた俺の思惑どおりになった、と言えなくもない。

 ビオナートの手足を奪う、影働きの者たちの次は聖王家の正面戦力を潰す——。だが、実際には面倒な諸事情が絡んで、そんな単純に事は運ばなかった。

 ビオナートに引っ掻きまわされたのはむしろ俺の方だった。

「ふん。貴様がイヴェダの剣、というやつか。まだ子どものくせに随分と生意気な口を利く。……陛下のご下命を何と心得る」

 騎士団長はなんとか落ち着きを取り戻したのか、顎をこころもち上げると侮蔑のこもった視線を向け、イシュルの質問を無視して逆に罵ってきた。

 ミラの笑顔がなかったら……。

 危なかったな。

 イシュルはちらっと王城の方に目をやり言った。

「俺は他国の者だ。聖王家に仕えているわけでもない。国王に礼を尽くす謂れはなかろう。おまえが俺の質問に答えられなければ、これから王宮に行って、ビオナートを捕らえて無理矢理にでも撤兵の命令を出させるしかないな」

「なっ、なんだと」

 騎士団長も一瞬、王城の方に目をやる。

 薄雲が空を覆いはじめた聖都の空。周囲の色を拾って薄く灰色に輝く結界の向こうに、城壁とその上に聳え立つ、複数の尖塔が見える。

「そ、そんな馬鹿な……」

「そんな事できる筈がない、と思うか? 聖王国で俺をどうにかできる、いったい誰がいるというのか」

 イシュルがわざと酷薄な笑みを浮かべてみせると、騎士団長は顔色をさっと青ざめ、動揺をあらわにした。

「ビオナートを捕まえたら拷問にでもかけるか」

 イシュルは笑みを深くして言った。

「おまえは知らされていないだろうが、やつは大聖堂から禁書を盗みだし、王冠から二対の紅玉石の片方を奪っている。おまえたちの撤退命令と同時に、それらの在処も聞き出してしまおう」

「はっ……?」

 唖然とする騎士団長にイシュルは続けた。

「拷問といえば最初は爪剥ぎからが基本かな? だが風の魔法で爪だけを剥いでいくのは結構神経を使う。面倒だから手足の指を一本ずつ潰していこう。相手は国王さまだからな。何本か潰したらすぐに吐いてくれるだろう」

 こちらとしては冗談半分で言ってるわけだが、もしビオナート本人を捕らえることができたなら、拷問は絶対必至、だ。

「い、いや、ちょっと待て」

 騎士団長は必死な顔つきになった。

 ふーん?

 イシュルは目を細めて黒髭の中年男の引きつった顔を観察した。

 ディエラード家を包囲してイヴェダの剣を刺激した結果、王宮に災厄を呼ぶことになる……。そうなればこの男はどうなる? そんなところか。

 ただディエラード公爵邸を包囲する命令を受けただけなのに。可哀想に。

 ん?

 イシュルの眸が騎士団長から離れ、一瞬宙を彷徨う。

 背後の公爵邸の方から、人びとのざわめき動く気配がする。

 騎士団長も公爵邸の方を見ている。

 イシュルが振り向くと、公爵邸の正門の内側に集まっていた公爵家の騎士や家人たちの間から、ミラとシャルカの姿が現れた。そしてもうひとり、薄茶のブーツに黒のズボン、エンジ色に派手な装飾の上着を着た、ひときわ目立つくせ毛の金髪の青年。

 あれがたぶんミラのお兄さんだな。

 もちろん長男か次男か、どちらかはわからないが。

 イシュルがその青年を見つめると、門の向こう、かなり距離があるのにもかかわらず、その派手な出で立ちの男がイシュルの方を見てかるく会釈してきた。

「イシュルさま!」

 ミラがシャルカを従え門の側まで近寄ってきた。

 イシュルはすかさず結界に穴をあける。シャルカはミラを左肩に持ち上げるとすっと門を飛び越え、開いた結界の狭間を正確に捉えてそのまま通り抜けた。

 ふたりはあっという間にイシュルのすぐ後ろに降り立った。

「ふふ。ごきげんよう。ひさしぶりですわ、バスケス殿」

 ミラはしゃがんだシャルカの肩から降りると、騎士団長によそ行きの顔を向け、気品たっぷりの微笑みを浮かべた。


「これはこれは……」

 バスケスと呼ばれた騎士団長は左手を胸に当てるとミラにかるくお辞儀をした。だがミラは、バスケスが挨拶の言上を終える間もなく、鋭い口調で遮った。

「あなたの騎士団のこの当家に対する仕打ちはどういうことかしら」

「……それは」

 バスケスはミラの気迫にうっと上半身を後ろに反らすと、もぐもぐと口ごもった。

「これは王命であるとか? どういう訳でしょう。わたくしに教えてくださいな、騎士団長殿」

「ご、ごほん」

 バスケスはわざとらしい咳払いをして自身の動揺をごまかすと言った。

「国王陛下は、そこのイシュル・ベルシュなる者を王家に引き渡せとの仰せです。何やら大罪を犯した者であるとか」

 バスケスがイシュルをちらっと横目に見て言った。

「さすればディエラード公爵家に罪はない、すぐに兵を退くと。御家を騒がしたお詫びの使者も後で遣わそう、とのお言葉もいただきましたぞ」

 なるほど、そういうことか。

 イシュルは胸の前で腕を組み、小さくため息をついた。

 ビオナートめ。ここでもつまらない分断工作か。芸のない……。

「もし、あくまでディエラード家がイシュル・ベルシュを迎え入れるというのなら、我が騎士団は御家を接収し、ミラ・ディエラードさまはじめ公爵家の方々の身柄を王家の預かりとさせていただく」

 バスケスは緊張した顔に引きつった笑みを浮かべて言った。

「まぁ、おほほほ」

 ミラは左手を上げると手の甲を口に当てて笑った。ひときわ華やかに笑い上げた。

 うーむ、今回はまた凄い……。

「イシュルさまは風神と地神の加護を受けた、当家の大切な客人ですのよ。陛下はそのイシュルさまを罪人とおっしゃるの?」

 ミラの細められた視線が騎士団長に突き刺さる。

「地神……?」

 バスケスの小さな呟きを無視してミラは続けた。

「おかしいですわね。神々の特別な加護を受けた方を罪人扱いだなんて。陛下はどうされたのかしら」

 騎士団長は俺の左手の紅玉石のことはまだ知らないらしい。

 俺の方からあえて見せる必要もないだろう。魔導師長とは違う。

「そんなことをされては、……陛下が背教者になってしまうわ」

 ミラの決め台詞に、バスケスが全身を強ばらせた。

 そりゃそうだ。聖堂教会の最高の守護者である国王が背教者などと、冗談にもならない。

 そしてミラ・ディエラードが背教者、という言葉を使ったからには、何かの裏付けがあると考えるべきなのだ。背後に大聖堂がいる、聖堂教会が公式にビオナートを背教者と指定することさえあり得る、戦慄すべき事が起こるかもしれない、と考えるべきなのだ。

 ミラは騎士団長に一瞬、恐ろしい笑みを浮かべるとイシュルに顔を向けてきた。

 ミラはイシュルにはありのままの、少女らしく甘い、だが不安げな表情を見せてきた。

「イシュルさま。長兄のルフィッツオが王宮に禁足されていますの。何とか助け出したいのですが……」

「な、に……」

 ミラはそんな少女らしい表情を見せながらも、騎士団長の面前で声も落とさず、とんでもないことを言ってきた。

 ミラの長兄のルフィッツオは内務卿の取り次ぎ役、秘書官のひとりで、今日は王宮に出仕していたらしい。

 それがこんな事態になり、王宮で禁足を喰らってしまった。

 ミラは次兄のロメオからその話を聞き、俺に助け出してもらうように頼まれたらしい。もちろんそれはミラの意志でもあるだろう。

「あー、それはまずいな。すぐに行こう」

 イシュルはミラから事情を聞くと、首を何度か縦に振って言った。

 ミラの兄さんがいわば人質になってる、ってことだ。それは。今すぐ救い出さなければならない。

「えーと、どうするか。この結界、一度解かなければならないが」

「シャルカを当家の敷地内においていきますわ。中には次兄のロメオもおります。ロメオ兄さまは水魔法の遣い手。すぐそばに運河もありますし、火矢も恐くはありませんわ」

「なんだ。邸内に水の魔法を使えるひとがいたのか」

「でも、当家で水を使える魔法使いは兄ともうひとりだけ。四方から火矢を浴びせかけられたら、さすがにただではすみません。イシュルさまのされたことは無駄ではありませんわ」

 ミラは、自分で火矢も恐くはないと言っておきながら、イシュルの言に平気でそれを翻すようなことを言ってきた。

「ああ、……なるほど。でもシャルカだけで大丈夫だろうか」

 もちろんその水の魔法使い以外にも、公爵家に仕え、あるいは雇われている魔法使いはいるだろうが……。

「心配いりません。シャルカひとりで大丈夫ですわ」

 そこでミラは笑みを浮かべて言った。

「騎士団の者たちは皆、鉄の鎧を着け、槍や剣を持っているのですから。白楯がちょっと邪魔なくらいですわ。金(かね)系統の魔法使いはもちろん精霊も、軍兵にとっては最も恐ろしい相手なのです。わたしたち金系統の魔導師にとって、騎士団兵ほど戦うのに楽な相手はございませんわ」

 なるほど。言われてみればそうだ。胴鎧をちょっと変形させるだけで、装着している者にはそれなりのダメージを与えることができるだろう。激しく勢い良くへこませたりすれば内蔵破裂は確実だ。剣や槍の穂先だってちょっと変形させるだけで使い物にならなくなる。しかもシャルカはかなり強い精霊だ。

「そうか。じゃあ行くか。ミラのお兄さんを助けに」

「はい! イシュルさま」

 ミラの顔が満面の笑顔になる。

「ちょうどいい。せっかくだから内務卿と、ビオナートも王宮にいたらいっしょに挨拶してこよう」

 おそらく、だが、ビオナートはもう王宮にはいないだろう。今頃は後宮の奥か、隠し部屋あたりに隠れてしまっているのではないか。

 それならとっちめる相手は内務卿になる。

 イシュルも満面の笑顔になって言った。

 ただ麗しいミラの笑顔に比べ、イシュルの笑顔は皮肉に少し、歪んでいた。

「……あのー」

 横からバスケスが声をかけてくる。

「なんだ?」

「なんですの? 騎士団長」

「それはち、ちょっと待っていただきたい」

 騎士団長は苦しげに笑顔をつくって掌を振ってくる。

「王宮に行くなどとんでもない。ここは……」

「いや、だめだな。状況が変わった。俺たちは王宮にいかねばならない」

 イシュルも再び笑顔になって、バスケスの顔を覗き込むようにして言った。

「俺が離れればこの結界も解ける。その後はせいぜいシャルカといいようにやってくれ」

「あああ、ちょっと、ちょっと待て」

 騎士団長が慌てはじめる。

 後ろにいる旗持ちも副官らしき男も顔面を蒼白にしている。

 シャルカ相手では公爵邸を攻め落とすことが困難、一方でイシュルたちが王宮に闖入するとなれば、騎士団長の責任は重大だ。完全に無能の烙印を押されかねない。

「ではシャルカ、頼みます」

「わかった。まかせろ」

 ミラが騎士団長を無視してシャルカに声をかけると、シャルカは自信ありげにしっかり頷いた。

「あああ、ちょっと……」

 バスケスの声が大きくなる。

「静かにしろ!」

 イシュルは騎士団長をどなりつけると、東の、王宮の方を見やった。

 一騎。馬蹄の音。

 そして何人かのひとの動く気配。

 王城へと続く道、その奥の角から白馬が一騎と徒歩の従者たち、それに旗が一旒、姿を現した。

 旗の絵柄は白地に金と銀、獅子が支えもつ盾、盾には王冠が描かれた、聖王家の旗だった。




 背後には微風に優雅にはためく聖王家の旗。

 白っぽく見える明るい金髪がさらさらとなびいている。

 長身、切れ長の目、すっきりとした曲線を描く整った顔貌。

 銀色のマントを後ろにやり、白皙美貌の青年が向かってくる。

「サロモン殿下……」

 ミラの呟きとともに、周りの者たちすべてが驚愕に目を見張った。

 凄い……。

 白馬の王子さまのご登場だ。それも凄い美青年……。

 イシュルは呆然と兄王子の一行を見つめた。

 平服に長剣を刺した男が二、焦げ茶のローブにフードをかぶった魔導師らしき女、口取りと旗持ちの従者がふたり。

 規則正しい馬蹄の音が奇妙に高く響き渡る。

 聖王国の王子がイシュルの張った結界の前まで来て止まった。

「オルスト聖王国が第一王子……」

 口取りがお成りを告げようとするのを王子は手を差し出して止めると、イシュルの方を見やって自ら声をかけてきた。

「そこの君、この風神の結界を開けてくれないか」

「……」

 イシュルは無言でミラを見た。

 いったい何がどうなってる?

「お通ししましょう」

 ミラが王子から視線をはずさず、身を僅かにイシュルに寄せてきて言った。

 イシュルは王子の前から結界の一部を割って道をつくった。結界の開かれた場所にいた騎士団の兵士らからどよめきが上がり、一部の者はイシュルに敵意を向けてきたが、口取りが「道を開けよ」と叫ぶと皆王子の存在に気づき、身を端に寄せて跪いた。

 聖王家の旗を掲げ、王子一行が跪く兵士らの間をイシュルたちの方へ向かってくる。

「な、なな、なんと……」

 騎士団長が口髭を震わしている。

 イシュルは僅かに首を揺らした。

 ……何かの煌めき。

 ふと空を仰ぐと、紡錘形に形を歪めた火球が二発、空から降ってくる。

 くっ!!

 イシュルは右手を伸ばし、一度開いた結界の上に、新たに風の魔力の壁を張った。

 聖王家の旗を通すため、結界の上部まで開いていたことが仇になった。

 火球が魔力の壁に当たって爆ぜる。千切れた炎が透明な壁の上を伝って踊り狂った。

「シャルカ!」

 ミラが叫ぶより早く、シャルカは両手を天に掲げて赤く熱せられたピンポン玉ほどの大きさの鉄球を数発、連続して垂直に打ち出した。

 見上げると高度を上げて薄雲に突っ込んでいく小さな人影がある。杖に跨いだ魔法使いらしき人影だ。

 イシュルは人影に向かって風の魔力の塊を連続してぶつけた。

 うまい……!

 風の魔法使いはあっという間に高度を上げると空低く流れる薄雲に隠れ、不規則な蛇行を繰り返しながらイシュルの追撃を躱していく。

 高度は二里長(スカール、約千〜三百m)くらいか、小さな点のような大きさになった魔法使いは、その黒点を時に薄く、濃くして雲の多い西の空へ向かっている。おそらく高度も変えて縦方向にも蛇行している。

 シャルカの鉄球は誘導弾のごとく飛んで風の魔法使いを追尾している筈だが、もう目には見えない。

 やがて風の魔法使いは西の空へ消えていった。

 シャルカが両手を降ろした。彼女も有効な攻撃はできなかったようだ。

 !!

 イシュルはいきなり、ぎょっとして王子の方に顔を向けた。

 何かの殺気。

 周囲の視線がみな頭上の空を追うなか、跪いていた兵士のひとりがいきなり剣を抜き放ち、下から王子を突き上げようとしていた。

 早見の魔法が効かない。有効範囲外だ。

 このっ。

 イシュルは腕を上げる間もなく、咄嗟に兵士の腰の辺りを風の魔力で覆った。

 同時に兵士の腕が吹っ飛ぶ。

 剣を握った腕がくるくると回転しながらイシュルの足許に落ちてきた。

 王子の後ろから剣士がひとり、からだを大きく伸ばし剣を振り抜いていた。男は加速の魔法で剣を振り抜きざま、兵士の腕を一瞬で斬り落としていた。

 返り血の一部が王子のマントの端を汚した。馬が驚き、棹立ちになるのを口取りが必死に押さえている。

 腕を斬り落とされ、イシュルに腰を固められ彫像のように微動だにしない兵士。

 その顔は苦痛と絶望に歪んでいる。

 少し遅れてまわりの騎士や兵士らがその男に取りつくと、イシュルはその男の腰を固めた風の魔力を解放した。

 周囲にほんの一瞬、風が吹く。

 あっという間の出来事だった。

 王子は取り押さえられた暗殺者にひと目もくれず、血に汚れた自らのマントに視線を落とすとその美貌を微かに歪めた。

 頭上に僅かに燃え残る炎が、王子の顔を赤く照らしていた。


「あああっ」

 騎士団長が全身を震わしている。

「バスケス、これはどういうことかな?」

 サロモンが涼しい顔で馬上から騎士団長に詰問してくる。

 王子がイシュルたちの前にくると、ミラとバスケスが右手を胸に当てて跪いた。

 イシュルも右手を胸に当てたがかるく腰を落として頭を下げただけ。シャルカはいつもの無表情で直立している。

 サロモンはまずバスケスに声をかけた。

「わ、わたくしはな、何も、何も知りません! しておりません!」

 バスケスは額にびっしりと汗をかいている。

「ふむ……」

 サロモンは顎に手をやり、空を仰ぎ見るとイシュルたちを見回し言った。

「わたしは仲裁に来たのだがね。デェラード家と、おまえ、バスケスの」

 その薄い唇にうっすらと笑みが広がる。

「しかしこんな事が起こるとは……。とりあえず、ルフレイドを足止めしておいてよかった」

 ルフレイドは第二王子、弟の方だ。

 仲裁、だと?

 なるほど……そうか。サロモンはデェラード家に恩を売って大きな貸しをつくり、あるいはまるごと自派の味方につけようとしたのだ。

 そして弟王子のルフレイドも同じことを考えた。

 それならこの襲撃は……?

「殿下、これはバスケス殿の謀(はかりごと)ではないでしょう」

 ミラが顔をあげてサロモンに言った。

 彼女の顔には微笑が浮かんでいる。

「ああ。ルフレイドでもないな。弟の方もだいぶ急いでいたようだ。今は大事な時期だからね」

 点数稼ぎ、のか。

 だがあんたが出て来たって仲裁はできないだろう。ディエラード家包囲は王命だ。

「これは大変なことになったね。どうしようか?」

 サロモンが突然、イシュルに流し目を送ってきた。

 ぎくっ!!

 イシュルの背筋を悪寒が走る。

 あんたはナヤルか!

「……」

 ミラはサロモンからイシュルにさっと視線を走らせると、厳しい表情になった。

 ……いや、なんだか少し焦っている。

「サロモンさま。この襲撃はこく——」

「待った!」

「待ちたまえ」

 イシュルとサロモンが同時に叫んだ。

 げぇっ、少しハモった……。

 だが、今ここでビオナートの名を出すのは拙い。

 国王が王子たちを暗殺しようとしていると、誰が言い出したかわからない噂として広めるのはいいのだ。だが言い出した者、発言した者が正義派からとなると拙い。状況によっては相手に反撃材料を与えることになる。

「ふふ」

 サロモンが俺を見つめてくる。

 この王子さまは、俺と同じことを考えている……。

「きみがイシュル・ベルシュか。やり手のイヴェダの剣はどんな男かと思ったら、こんな可愛らしい顔立ちの少年だったとは……」

 サロモンの薄い水色の眸が細められる。

「気に入ったよ?」

「殿下!」

 ミラがめずらしく素っ頓狂な声をあげた。

 はは。何だろう、これは。美貌の王子さまはそっちの方の趣味があるのか……。

 だが今は、脱線している状況ではない。

 この包囲は俺やミラ、ディエラード家に対する罠じゃなかった、いやそれは二の次三の次、この罠はサロモンか弟のルフレイド、あるいは両方を殺(や)るためのものだったのだ。

 ビオナートがふたりの王子を殺そうとしているのは以前から言われていたことだ。やつは包囲中のどさくさで王子たちを殺し、その罪をディエラード家にきせる、一石二鳥をねらっていたのかもしれない。

 もし俺がその前に暴発していれば、王子たちを暗殺することはかなわなくとも、イヴェダの剣を聖都から追い出すいい口実ができる。俺を聖都に引き入れたディエラード家を、正義派を蹴落とすいい口実になる。

 この聖都で軍を上げた暴挙は、事態がどちらに転んでもいいように仕組まれていたわけだ。

 サロモンも不確実な噂のレベルでは知っていた、あるいは疑ってはいたかもしれないが、いずれにしろこの段階で確信したわけだ。父王が自分を亡き者にしようとしていると。

「あー、あの、空から襲撃してきた魔法使いは……」

 イシュルが誰にともなく言うと、

「セリオですわ。ベリンの好敵手です。いつも張り合っておりますの」

 ミラがイシュルに顔をあげて話してきた。

 セリオといったら男か。しかしベリン以上の遣い手じゃないか? 風に火の魔法を使ってきた。そしてあの立体的な蛇行……。上空ではおそらく、不規則な螺旋状に回転しながら飛んで逃げたのではないだろうか。

 かなりの高度から薄雲伝いに近づき、いきなり降下して一撃、速度を殺さず再び雲上に上昇し後はさっさと逃げる。完璧、模範的な戦法だ。

「サロモンさま、どうかセリオにはお目こぼしを。あの子はただ上から命令されただけで……」

「……」

 サロモンは無言でただ手を振っただけだった。そして辺りを見回した。

「それよりも、わたしに剣を向けてきた者、暗殺者はこの第三騎士団にもまだ数多く紛れこんでいよう。イシュル君が張ってくれた結界のおかげでわたしも無事でいられるわけだ」

 サロモンは笑みを浮かべてこちらを見てきた。

「……」

 王子さまの笑顔は色気があり過ぎてきつい……。

 だがサロモンの言ったことは正しい。他にも複数の者が紛れこんでいる可能性が高い。たまたまサロモンのために結界を開けたその場所に、ただひとり刺客が潜んでいた、なんて都合が良過ぎる。

 周囲の警戒をそれとなく続けていた王子の従者たち、剣士や魔導師らは途端に鋭い視線を走らせ、さらに厳しく辺りを警戒しはじめた。

「バスケス、おまえは一旦兵を退け。陛下にはわたしが後でとりなしてやる」

 サロモンは少しきつい表情になって、跪き小さくなって震える騎士団長に言った。

「はっ、しかし……」

「このわたしの暗殺未遂は、おまえも責をとらされるぞ」

「いえ、……しかしこれは王命でして。陛下からはどんなことがあっても退くな、と厳命されているのです」

 バスケスは顔を真っ青にし、可哀想なほどに憔悴しながらも引かない。

「ふむ」

 サロモンはバスケスを見下ろし、何度目かの薄い笑みを浮かべた。

「このままではわたしは王宮に帰れないな。危険すぎる」

 サロモンはやや俯き加減に、誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。

 だがそれはイシュルには聞き取れた。おそらくミラにも。

「聖石神授使節団の姿が見えないが、ミラ・ディエラード、きみたちはこれからどうするのかね?

屋敷にそのまま帰るのかな?」

「いえ、兄のルフィッツオが王宮にて軟禁されているのです。わたくしはこれからイシュルさまと兄を取り戻しにまいります」

「なんだと!」

 サロモンはいきなりその端正な顔を怒らせ、叫んだ。

「ルフィッツオが?」

「はい……」

 確かミラの長兄は兄王子派、サロモン派として動いている筈だ。

 それなららしくない、ちょっと大げさな反応をしてみせたサロモンの態度もわかりやすい。ディエラード公爵家の嫡男はサロモンにとって、最も重要な支持者のひとりだろう。

「そうか。それは大変だ。わかった、今すぐ行きたまえ。わたしは君たちの邪魔をしてしまったろうか? わたしに何かしてほしいことはないかな?」

「いえ、大丈夫ですわ。イシュルさまといっしょなら、どこへ行こうと何の危険もありません」

「ほう……、そういえば君の家にしばらく滞在する、んだったね。イシュル君は」

 再びサロモンがこちらに視線を向けてくる。

 ミラも、何もそこまで言わなくとも……。

「はい、そうでございますわ」

「なら、決めた」

 ミラがうれしそうに答えると、サロモンは彼女に視線を移して言った。

「君の屋敷の門を開けてくれたまえ」

「はっ?」

 な、なに?

 ミラも呆然とした顔をしている。

「ね? 早く」

 サロモンが「早く」のところを口調を厳しくして言った。

 イシュルは公爵邸の正門前の結界を解いた。

「どけ!」

「どけ、どけ!」

 サロモンの従者のふたりの剣士が先行し、騎士団兵らをどかしていく。

 ミラが正門前まで駆けていき、中の者に声をかけている。

 ほどなくディエラード公爵邸の正門が開かれた。

 黒に金銀の装飾がなされた鉄柵門が、鉄の滑る耳障りな音を立てる。門から真っすぐ伸びる石畳の道の左右を樫の木が、正面奥には一部塔屋が三階になる、明るいグレーの壁にくすんだブルーグレーの屋根の、洒落た二階建ての本邸が見えた。

 サロモンが白馬を門の奥へと進めていく。乾いた蹄の音が、妙に大きく辺りに響いた。

 サロモンは公爵邸の敷地に入ると、馬上から周りを見渡し大きな声で言った。

「わたしはしばらくの間、ディエラード公爵邸に滞在することにした」

 へっ……?

 ミラもバスケスも、騎士団兵らも、サロモンの従者までもが驚愕に固まる。

 イシュルも愕然として双眸を見開き、サロモンを見つめた。

 王子、あんた……。

 サロモンは顔を俯けミラに笑顔を向けると、すぐに頭を上げて呆然と佇むイシュルを見てきた。

「ここが聖都でいちばん、安全な場所だからね」

 そして悪戯っぽい顔つきになって、片目を瞑って見せてきた。


    

 

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