波乱 1



 ミラの嗚咽が響いてくる。

 イシュルは無言でカルノの後ろ姿を見つめた。神官服を着たカルノの白い背中が、主神殿の建物の影に消えていく。

 あの男の心の奥底を一瞬、垣間見たような気がした。それは決してあの神官服のように、白く無色の、明るく純粋なものではないだろう。あの男はまだ己を諦めてはいないのだ。

「ミラ……、大丈夫だ」

 イシュルは片膝をつき、ミラの顔のすぐ横で囁くような声で言った。

「もう終わったよ」

 ミラが涙に濡れた顔を上げた。ミラはイシュルの首に両手を回し抱きついてきた。

 イシュルはミラの背中を何度もさすってやった。

「見たか。ミラ」

 ミラが落着いてくると、イシュルはそう彼女に話しかけた。ミラの頭がすぐ横にある。

 金色に輝く、しなやかで繊細な彼女の渦巻く髪が、視界の端を埋めている。彼女から漂う、ほのかな甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「……わたくし、わたくし……」

 ミラはからだを離すと、涙に光る眸をまっすぐ、見つめてきた。

「見ましたわ。あれは……」

 ミラは細かく震えながらも笑みを浮かべた。

 そしてその名を口にした。

「主神……、ヘレス」




「お邪魔だが」

 イシュルとミラの横から、立ち上がったシャルカが声をかけてきた。

 お邪魔ときたか……。

 イシュルはミラの手を取りいっしょに立ち上がった。

「大丈夫か。ミラ」

「ええ。大丈夫よ」

 ミラがシャルカの問いにしっかり答えた。

「シャルカ、おまえはどうだった?」

 イシュルの方からシャルカに質問する。

 おそらくシャルカはあの空間から弾かれ、この現実の、石盤上にとり残された筈だ。

「あなたとミラが消えて……急に力が抜けて、立っていられなくなった。しばらくしたら急に風向きがかわり、地が揺れ太陽が瞬いたように感じた。そうしたら風神の魔法具を持つお方」

 シャルカが辺りを見回した。

「あなた方が戻ってきた。わたしの魔力も戻ってきた」

「そうか」

 イシュルもシャルカの視線をたどるようにして周囲に目をやった。

 主神殿の横から南北に伸びる道では、何も変わらず多くの者たちが出発の準備を進めている。

 おそらく彼らには何も見えず、感じられなかったのだろう。

 その人馬と荷の雑多な塊の中から、ネリーが飛び出し、こちらへ歩いてきた。彼女も何が起きたかわからなかったろうが、こちらの様子を見て、特にミラが泣いて俺に抱きついているのを見て、不審に思ったのだろう。

 そしてネリーに続いて、屋敷の方からダナたち宮廷魔導師らがそろって飛び出してきた。彼女らは逆に、この遺跡の見えない屋敷内にあっても、何かの異変を感じとったのだろう。

 これは今はだめだな。

 ひとがこちらへ集まってきている。

 俺と同じ目にあい、同じものを見たミラとはいろいろ話したいし、自分で考えたいこともあるが、今はもう無理だ。後にまわした方がいいだろう。

 イシュルは視線をミラにやった。

「イシュルさま、あの……」

 彼女も俺と話がしたいのだろう。俺を見つめてくる青い眸が大きく見開かれている。俺から離れようとしない。

 ……剣さま、大丈夫?

 ナヤルが心配そうに、耳許から心の中へ話しかけてきた。姿は見せないが近くにいる。

 ……後で呼ぶよ。今は待ってくれ。

 イシュルは顔をミラからかるくそらして、口許で微かに呟くように言った。

「ミラ、後で時間をとって話し合おう。俺はいろいろ用事を済ましてくる。このことは誰にも話しては駄目だ」

 イシュルは近づいてくるダナたちの方に目をやり言った。

「はい、わかりましたわ」

 ミラは両手を胸の前で握りしめ、大きく頷いた。もうその顔には微笑みが浮かんでいる。

「……じゃあ、また後で」

 イシュルはミラから一歩退き、足許の石盤に視線を落とした。

 石組みの隙間には草が一本も生えず、傷みも少ない。不自然な感じもあるが、異様な感じがするほどではない。

「念のため、この遺跡にはもう近づかない方がいい」

 イシュルはミラにそういう言うと石盤を西の方へ歩いて行き、そのまま山頂の崖の縁(ふち)から姿を消した。

 イシュルはハンターギルドへ向かった。


 以前のようにクレンベルの山頂から降下すると、イシュルはギルドのある山の手前を流れる川の縁(へり)に降り立った。

 下流の方、すぐ目の前に橋が架かっている。

「川の匂いが変わったな」

 周りからはまるで川の流水と争うように、むせるような草いきれが立ちのぼってくる。

 もう夏が近いのだ。

「ナヤル」

 イシュルが顔を宙に向け、囁くような小声で呼びかけると、ナヤルもイシュルの囁きに応ずるように静かに姿を現した。

 彼女を帰そう。今日で終わりだ。そういう契約だった。

「さっきはびっくりしたわ」

「ああ、心配かけた」

 イシュルはナヤルの面(おもて)を凝視した。彼女の浮かべる表情の、どんなささいな変化も見逃すまいと。

 きっとナヤルはあれのことには何も答えてくれないだろう。

「あの遺跡は“太陽神の座”と呼ばれているらしい」

 ナヤルは表情を消し、小さく頷いた。

「ヘレスに会ったよ。あそこで」

 イシュルはナヤルの水晶のように輝く瞳を、じっと無言で見つめた。

 ナヤルは少し肩を縮こますと首をすくめた。

「剣さまはほんとに意地悪ね」 

 イシュルはとぼけたように首を傾け笑みを浮かべると、あらぬ方に視線を向け、少し間を取り考え込む仕草をした。そして再びナヤルの顔を見るといきなり話題を変え、まったく違うことを言い出した。

「……今までありがとう。長い間ほんとうに頑張ってくれた。世話になった」

「う、うん」

 ナヤルの顔が困惑したものになる。イシュルは笑顔を深くして俯く彼女の顔を見やった。

 そして突然話を引き戻した。

「で、あの遺跡でナヤルが知ってることは? 少しだけでいいんだ。教えてくれよ」

 イシュルの顔に浮かんだ笑みが、微かに歪んでいる。

「いきなりきついことを言ってきたと思ったら……」

 ナヤルは俯いたまま小さくため息をつくと唇を尖らし、イシュルを恨みがましく見つめてきた。

「ほんとにずるいひと」

 イシュルは何かをごまかすように、今度は屈託のない笑みを見せた。

 きついこと、というのはヘレスと会った、と俺が言ったことか。

 イシュルは意識してかしないでか、思わせぶりに「ヘレスと会った」と、主神の名を出してナヤルを警戒させ、次にはいきなり話題を変えてナヤルをねぎらい、彼女を困惑させて揺さぶりをかけ、最後にとどめとばかりにど真ん中を突く質問をぶつけた。

 ナヤルは、何かを諦めたような表情になって目を瞑ると、ため息をひとつついた。そして目を開けると表情を引きしめ、イシュルをしっかりと見つめて真面目な硬い口調で言った。

「……あの場所は魔法陣、というより魔法具に近いものだわ。動かせない、持ち歩けない魔法具」

 イシュルははっとした顔になった。

 魔法具? そうか。いわば固定式の……設置型の魔法具、だ。

 あれが魔法具というのなら……。

「つまり、魔法具を生み出す魔法具、よ」

 ナヤルは視線を遠くに向けた。

「太陽神の魔法具……。ここからそんなに離れていない、西の方にもあるでしょう?」

「ああ」

 イシュルもナヤルの見つめる方に目をやった。

 精霊からすればそんなに離れていないのか。ここから聖都まで、大聖堂までは四百里(スカール、約二百六十km)ほどの距離がある。

 しかし“太陽神の魔法具”か。

 太陽神は創造神である。だから太陽神の魔法具は、新たな魔法具も生み出すことができる、というわけか。

「あれが起動すると完全に風の魔法が断たれてしまう。何か対策はないだろうか。ナヤルは知らないか?」

 これは重要なことだ。これがわかれば、このことが解決すれば。

 ビオナートはもう死んだも同然だ。

 だがナヤルは首を横に振った。 

「それは私にはわからないわ。たとえ知っていたとしても教えられない」

 ……やはりそう簡単にはいかないか。

 なら、あの太陽神の魔法具、とやらが起動する前に事を済ませないといけない。

 イシュルの周りから雑多な音が消える。川の小さなせせらぎだけが聞こえてくる。

 最悪、起動する前に破壊するか。

 だがそれがビオナートの死に見合うものなのか。そんなことまでしてエミリアやエンドラ、セルダに報いたことになるのだろうか。

 それをやってしまったら、少なくとも俺はこの大陸にはいられなくなる。ベルムラ大陸にでも逃げるしかない。

 あそこは巨大な虫の魔物が多いんだったか。

「剣さま、どうしたの?」

 ナヤルが、うっすらと皮肉な笑みを浮かべたイシュルに声をかけてきた。

「いや、なんでもない」

 さすがに主神の間を破壊するのはまずい。

 まだ時間はある。何か対策を考えよう。

 いつもと同じ。基本をいくしかない。

 情報を集め、考える。情報を集め、考える。——それを繰り返していくしかない。

 イシュルは顔をあげ、ナヤルを見つめた。

「最後にありがとう。ナヤル。今日がきみと契約した最後の日だ」

「……」

 ナヤルは無言で、神妙な面持ちで頷いた。

 なんだろう。ウーメオの舌で戦ったあの夜のこと、まだ気にしてるんだろうか。

 あれはナヤルのせいではないのに。

「また呼んでね、わたしのこと。召還呪文にわたしの名を入れ込むだけで大丈夫な筈よ」

 それはまたやっかいな。

 えーと、ナヤヤルシュク・バルトゥド……、くそ、なんだっけか。

 今度調べておこう。きちんと憶えておこう。聖都に着いたら、神学校の幼年向けの副読本とやらを、デシオに手配してもらおう。ちょっと恥ずかしいけど。

「わ、わかったよ」

 イシュルが少し間をおいてぎこちなく答えると、ナヤルが目を潤ませ笑みを浮かべて頷いた。

 イシュルは小さく笑って言った。

「どうしたんだ? 前は俺のことさんざんからかって、弄ってたくせに」

「ほんとに剣さまのことが、愛おしくなってしまったの」

 ナヤルがぼそっと言った。眸に指先をそわせて涙を拭っている。

 イシュルはナヤルの「愛おしくて」の言葉に一瞬ギクっとなったが、彼女の表情からは男女間のそれ、というよりは家族に対する、例えば年下の弟や、あるいは甥っ子に抱くような感情、のように思われた。

 ナヤルの見た目の年齢からすると、さすがに我が子に対する愛情、と捉えるのは失礼だろう。

「そうか……」

「うん。今度、本物の人間に化けて逢いにいくから。待っててね」

 イシュルの全身に鋭い、電撃のような悪寒がかけめぐった。

 げっ……、違った……。

「じゃあ、わたし、帰るわ。あまりお役にたてなくてごめんなさい。剣さま」

「いいんだよ、ナヤル。気にするなよ。それじゃあ、またな」

 素が出たのか、涙ぐんで今まで見せなかった、少し子どもっぽい、親しみやすい感じのナヤル。

 イシュルはわざと明るく、気安く、別れの言葉を言った。

 ナヤルは頷くと無理に笑顔をつくって、ゆっくりと姿を消していった。

 いつかの女剣士、ディルヒルドのように川面(かわも)の上を、風の中に消えていった。

 残された彼女の涙の雫が、風に運ばれイシュルの前へ漂ってくる。

 イシュルが手を伸ばすとそれは指先に触れて、まるでシャボン玉のようにはじけて消えた。

 その瞬間、清廉な魔力がさっと煌めくのをイシュルは感じた。

 川と山々、橋に家々。昼に近づき濛気の増してきた初夏の青空。

 イシュルは消えたナヤルの姿を追うように、周りに視線を彷徨わした。

「精霊の涙、か……」

 イシュルは川原にひとり、呟いた。


 イシュルがハンターギルドの前の階段を登っていくと、シグネが箒を抱えて建物の前を掃いていた。

「やぁ、ひさしぶり。シグネ」

 イシュルが笑顔で声をかけると、シグネは顔をあげてイシュルを見、あっ、という顔をして言った。

「よかった……。イシュルさんは無事だったんですね」

 シグネは続いて、今回の聖石輸送の依頼ではずいぶんと死者が出て、何か大きな事故、事件が起きたのだろうと街で噂になっている、と話してきた。

「あー、そうだね。はは」

 イシュルはそのまま、笑顔でごまかした。

「何があったんですか?」

「うーん、い、いろいろと、かな。かな?」

 シグネの裏表のない質問に、イシュルはしどろもどろになって答えた。

 なぜか、なんとなく罪悪感が湧いてくる。

「はぁ、そうなんですか」と、不審な表情を浮かべて不承不承に頷くシグネをなんとかやり過ごし、イシュルは久しぶりにギルドの建物の中に足を踏み入れた。

 昼前のギルドは人も少なく閑散としている。聖石輸送完了の証書は、昨日すでに主神殿から交付されている。皆、その日のうちにギルドで金に換えてしまったのだろう。

 イシュルはカウンターの前に立って近くの職員に声をかけ、自身も受け取った証文を渡し、金貨一枚の報酬を受け取った。

 イシュルは金を受け取ると、義務づけられているわけではないが一応、同じ職員にクレンベルを離れることを伝え、ギルドの出入り口に向かった。

「ベルシュ殿」

 出入り口は扉が開きっぱなしになっている。ちょうどその出入り口にさしかかったあたりで、背後からイシュルを呼び止める大きな声が聞こえた。

 振り向くとカウンターの奥に、イシュルも顔だけは知っている、ここクレンベルのハンターギルド長の姿があった。


 イシュルの視界を、魔力の細い煌めきが、ちらちらと向きを変え、消えたり光ったりしている。

「今回の聖石神授では大変なことが起きたようだ。特に聖石鉱山では多くの人死にが出て、大魔法が使われたとの情報がある」

 その魔力の光の線の向こう側に、時にこちら側に、口髭を生やした堂々とした体躯の中年男が座っている。

 この男、ギルド長は当然イシュルのことは以前から知っていたろうが、今までこうやって声をかけ、イシュルに直接接触してくることはなかった。イシュルの方でも特に用があるわけでもなし、互いに挨拶を交わしたことさえもなかった。

 それが今日はじめて、いきなりイシュルを呼び止めると「少し話をうかがいたい」と、ギルドの一階フロアの奥にある、小さな個室にイシュルを案内した。

 その部屋は入ってすぐのところに椅子が数脚と武骨な机があり、後ろには木箱が幾つか積み上げられ、槍剣の類いか、何か長い物を包んだ布の束が立て掛けられていた。それらに半ば隠れて、奥の壁に窓がひとつ、外から陽が射し込んでいる。

 とても応接室とは言えない、ギルド職員らの休憩か、予備の物置に使われているような小部屋だった。

 ギルド長は机を挟んでイシュルの対面に座り、挨拶もそこそこに、聖石鉱山で起きた事件について質問してきた。

 ギルド長はまだ詳しい情報を把握していないようだった。だから事件の当事者のひとりであろう、イシュルをつかまえ話を聞き、その詳細を知ろうとしていた。至極最もなことである。

 イシュルは目の前にすわる髭の男の顔を見ながら、眸を何度も瞬いた。

 しかしこの魔力の光の筋は何なのか。露骨過ぎるではないか。

 イシュルの頭上、天井裏に隠れ身の魔法を使って潜む者がいる。

 今さらこんなことをしてくるのだ。上に潜む者は、ギルド長から直接個人的な依頼を受けた、いわばフリーの猟兵、影働きだろうか。ギルド長はそれとも、まだあまり事態を知り得ていない、ふたりの王子のどちらかの派閥に属しているのだろうか。天井裏の者も同じ派閥に組する者ということか。それとも王子派と同様に、聖石鉱山で起きた事を知らされていない、把握していない、おそらく国王派が牛耳る下の神殿が差し向けた者だろうか。それならギルド長は一応、国王派ということになる。

 まさか、ギルド長と天井裏に隠れる者、ふたりに何の繋がりもない、ということはないだろう。

 天井裏の者は、俺が入ってくる前から気配を消して潜んでいたのだ。そして俺が部屋に入る間際か、入ったあたりで隠れ身の魔法を使ってきた。

「聖石鉱山で何があったか教えてもらえないかね? 悪いようにはしないよ」

 ギルド長は微かに口髭をうごめかすと言った。おそらくその髭の下に笑みを浮かべたのだろう。

 イシュルは髭の男を無表情に見つめ、ため息をひとつつくと言った。

「とても教えられないな。天井裏にいるやつはあんたが手配したのか」

 ギルド長の顔に衝撃が走ると同時、目の前を瞬く光線が消えた。

 頭上から吹き下ろしてくる濃密な殺気。天井付近の微かな、だが鋭い空気の流れ。

 イシュルの両肩が強ばる。

 天井に穴? 吹き矢か!

 イシュルは座ったまま、天井裏の男を風の魔力で粉砕した。

 カタ、っと微かに天井の板が鳴る。

 イシュルは僅かに唇を歪めた。

 まだまだ改善の余地がありそうだ。音が鳴ってしまうなんて。

 天井を見上げると、木目の節から細い筒がひとつ、飛び出ていた。

 下に向けて撃つ吹き矢か。磁石みたいなもので保持しているのか、吹くと同時に留め具がはずれる仕掛けでもあるのか。

 間一髪だったかもしれない。かなり危なかったかもしれない。

 吹き矢自体の威力はたいしたものでなくとも、刃先、針の先に毒が塗りこんであるのはよくあることだ。

 イシュルは上を見上げたまま、少し苦い顔になった。

 天井裏では細切れになった死体を、空に吹き飛ばすことができない。

 無理にやればギルドの建物に風穴があく。

 そのまま放置するしかないか。先に仕掛けたのは俺じゃない、天井裏にいたやつだ。そして……。

 イシュルはゆっくりと椅子を後ろに引き、立ち上がった。

 上から、ぶるぶると震えだしたギルド長を見下ろす。

 この男も元はハンター、賞金稼ぎだったのだろう。俺が何をやったか、天井裏がまずい事になっているのがわかるのだ。

 ふたりの間を天井から血が、ぼたり、と落ちてきた。

「あっ、ああああ」

 ギルド長の顔が、口髭がつり上がり歪んでいく。

 ぽたり、ぽたりと、交錯するふたりの視線を血が滴り落ちていく。机の上が赤黒い血で染まっていく。

「誰から頼まれた?」

 イシュルは声を低くして短く言った。

「言え」

「し、下の神殿から頼まれて、はっはっ」

 ギルド長は苦しそうに息を吐いた。

 下の神殿は聖石鉱山に出発する前、バスアルの要請によるものか、所属する神官らによるものか、採用した傭兵の名簿から俺の名を外そうとした。

 下の神殿なら、一応国王派になるのか? ……それなら良かった。

「上のやつはおまえが手配したのか?」

 イシュルはまた天井を見上げて言った。板と板の継ぎ目から血が滴り落ちてくる。

「ち、違う。し、下の神殿から、はぁ、はぁ……寄越してきて」

 ギルド長は全身を小刻みに震わし、額に汗を浮かべて相変わらず息が荒い。

 ふむ。この男はギルド長として下の神殿から直接依頼された、ということか。俺がギルドに姿を現したらこの部屋に引き込み、聖石鉱山で起こった事を聞き出せ、と。

 イシュルは僅かに眸を細めて男を見つめた。

 脅えているのか? 俺にこれから殺されると思って。でも殺らないよ、おまえは。

 こいつを殺してしまうと大騒ぎになる。それにこの男自身は国王派でもなんでもない。

 イシュルは震え続けるギルド長に薄く笑って見せると、何も言わずに部屋を出た。

 なんとなく不穏な空気を感じたのか、部屋を出てきたイシュルをちらちらと見やるギルドの職員たちに、イシュルはかるく頭を下げると、カウンターの外に出て建物の出入り口に向かった。

 ちょうど出入り口のところで、外の掃除を終えたシグネと鉢合わせになった。

「何かありました?」

 室内のどこか変な空気を敏感に感じとったシグネが、イシュルに聞いてきた。

「いや、何も」

 きみは何も知らなくていい。知る必要はない。

「いきなりだけど俺、これから聖都に行くことになったんだ」

 イシュルはシグネに笑顔をつくり、続けた。

「またいつか会えるといいんだけど。さようなら、シグネ」

 イシュルはシグネの顔も見ず、受け答えも待たずに外に出た。

 ……彼女は違う世界で生きているのだから。

 イシュルはギルドから出るとその場で、クレンベルの山頂まで一気に空高く飛んだ。


 イシュルは主神殿の建物の裏側に回ると炊事場に顔を出し、昼食を用意している神官見習いの少年たちに声をかけた。

 少年たちはイシュルに声をかけられると皆手を休め、イシュルの周りに集まってきた。中にはカミロやアルセニオの姿もある。

「イシュルさん」

 カミロが最初に話しかけてきた。そして途中から声を潜めて聞いてきた。

「教えてくださいよ。聖石鉱山で何かあったんでしょ?」

 少年たちが皆、そろって不安そうな、少し脅えた視線を向けてくる。

 彼らも昨日、使節団が帰ってきた時に人数がだいぶ減っていたのを気にかけ、不安を募らせているのだろう。

「それは教えられない。何かあった、のは事実だが」

 途中で言葉を切り、周りを囲む少年らを一度見渡す。

「前にも似たようなこと言ったかもしれないけど、この件には首を突っ込んじゃだめだ」

 そこでイシュルは微笑み、わざと明るく言った。

「いずれ噂話になって、みんなの耳にも入ってくるさ」

「……」

 少年たちは一応は納得した表情を見せて頷いた。

「それよりみんなに聞いて欲しいことがあるんだ。俺は——」

 そこでイシュルは、ディエラード公爵家の食客として聖都に行くことになったことを彼らに話し、マレナの面倒を看てやってくれるようお願いした。

 聖石神授出発前からの種々の言動から、ミラ・ディエラードがイシュルを贔屓にしていることは、神官見習いの少年たちにもみな知れ渡っていた。

 イシュルは聖金貨数枚を懐から出してアルセニオに握らせ言った。

「これ、みんなでわけてくれ。マレナ婆さんのこと、よろしくな」

「わぁー」とか、「やった!」などと沸き上がる少年たちの歓声を背景に、カミロが笑顔でイシュルに言ってきた。

「大丈夫ですよ。イシュルさんが来る前は、ぼくらがマレナさんの面倒みてたんですから」

 イシュルはカミロに笑顔で頷き、周りの少年らを見渡し少し厳しい顔をして言った。

「変なことに使っちゃだめだぞ。ちゃんと勉強するのに使うんだ。書物を買ったりな」

「……」

 嬉しそうにしていた少年たちは皆、一様に苦笑を浮かべた。

 イシュルは顔を振って厨房の奥の方へ目をやった。奥の壁際の壷や木箱の置かれている手前で、マレナと隣の老夫婦の夫人が並んで座り、芋の皮むきをやっていた。

 ふたりとも背を丸め、隣の老女も耳が遠いのか、話のあまり噛み合ない、とんちんかんな会話を続けている。

 イシュルは目を細めてふたりの背中を見つめた。

 外光を浴びて、暗がりから浮かぶふたりの下働きの老女。彼女らは小刻みにナイフを動かし巧みに芋の皮を剥いていく。彼女らの奥、蓋がしてある壷の上には無造作に積み上げられた芋の山、彼女らの足許には剥かれた芋の皮が溜まっている。背景には年季の入った、薄汚れた灰色の塗り壁が広がっている。

 それは以前にどこかで見た、古い絵画のような光景だった。


  


 聖石神授使節団は麓の街の神殿前の広場に集合し、長い隊列を組んで聖都エストフォルへの帰途についた。

 広場ではまず、聖堂騎士団の十騎あまりの騎馬、数十名の槍兵、弓兵が隊列を組んで出発、次にデシオら聖都から来た神官らの乗る馬車、聖石を運ぶ馬車と続き、次にディエラード公爵家の六騎の騎馬、ミラの乗った馬車、急遽クレンベルの街で手配された、ルシアとともにラベナや双子たちが乗る馬車が出発し、最後に宮廷魔導師らを乗せた馬車、荷馬や荷馬車のかたまった輜重が続いた。

 ミラは自家の騎士団の六騎の騎士と馬、その他数名の従者らを下の神殿に預けていたのだった。

 広場から聖都へと続く街道、そのまんまクレンベル街道と呼ばれる——の沿道には街から多くの人びとが繰り出し、大小の旗をはためかせて進む華やかな使節団の一行を時に歓声をあげて見送った。

 イシュルはミラに断って、街道沿いに見物する者も途絶えた街はずれから合流した。

 徒歩兵に合わせて、ゆっくり走るミラの馬車に飛び乗り、扉を中から開けてもらって、そのままからだを中へ滑り込ませた。

「お疲れさまです。イシュルさま」

 ミラが対面からいつもの華やかな笑顔で言ってきた。ミラの隣には、身を少し縮みこませるようにしてシャルカが座っている。イシュルの隣の座席は空いていた。

「いや」

 イシュルは腰を降ろすとかなり沈み込む、豪華な座席に内心びっくりしながら短く答えた。

 豪華なのは座席だけではない。質の良い木材、座席以外にも所々使われている革張り、内装も仕上げがしっかりしていて、さすがは公爵家と思わせるものがある。

 車内はイシュルとミラにシャルカだけ、外には御者の横にネリーが見張り役として座っている。ルシアはラベナたちと後ろの馬車に乗っている。

 シャルカが同乗するのはしょうがないとしても、ミラは聖都までの旅路を当然、イシュルとともに過ごしたかったろう。

 これなら早速、クレンベルの山頂の遺跡で起きたこと、太陽神の座について、ミラとじっくり話ができそうだ。

 イシュルもにっこり笑ってミラの笑顔に応えた。

 使節団の出発時、イシュルは神殿前の広場に面した建物の屋根の上から、デシオやミラたち国王派の者たちが馬車に乗り込むのを護衛、周囲を警戒、監視していたのだった。

 魔力の感知に優れ、遠距離、広範囲に魔法を展開できるイシュルが周囲を俯瞰する位置から、武術の心得があり、魔法に関係なく怪しい者の気配や殺気に敏感な、ネリーやルシアがミラの側近くで護衛、警戒にあたった。

 もちろんシャルカもミラを護衛し、ラベナや双子も遊撃しやすい位置取りでデシオやミラの護衛に当たった。

 クレンベルに駐留していた使節団留守部隊が加わり、場所は人の多い街中、国王派が何か仕掛けてくる可能性が高いと判断しての処置だったが、何事もなく無事に出発することができた。

「イシュルさま。わたくし、この時がくるのを待ちわびていましたの。車内はわたくしとイシュルさまにシャルカだけ。あの遺跡で起きたこと、気兼ねなく話せるように手配しましたわ」

 ミラがさあ、さあ、といった感じでやる気満々で身を乗り出してくる。イシュルの膝にミラの足が触れてきた。

 イシュルは苦笑を浮かべ、ミラに言った。

「あの時、ミラははっきりと言ったよね」

 イシュルもミラに向かって身を乗り出し、力のこもった視線をミラに向けた。

「太陽神ヘレスを見た、と」


 イシュルはまず、ミラから彼女の体験したこと、感じたことを話させた。それを自分の体験と照らし合わせて違うところがないか、確認していった。

「わたくしはただ恐かったから、元の場所に戻ってこれて、安堵したから泣いていたわけではありませんの」

 ミラは太陽神の座の結界、いや、あの疑似空間が消えてなくなった時、激しく泣いていた。

「主神のお姿をこの目に見て、そして」

 ミラは目を潤ませて言ってきた。

「イシュルさまの心に触れることができたからですわ」

「!?」

 えっ? 

 イシュルはどきり、とした。どういうことだ?

「あの広い空。豊かに実った麦畑。それに気持ちの良い風。あれはベルシュ村、イシュルさまの故郷でございましょう」

 ミラはイシュルの膝の上に手を伸ばし、さらに身を乗り出してきた。

 互いの鼻先が触れ合うようにしてミラが囁いた。

「あれはイシュルさまの心の中にあるベルシュ村なのですわ。きっと」

 ミラはそこでイシュルから離れ、胸の前で両手を組んで握りしめた。

 彼女はまた泣きそうになって身を細かく震わしている。

「そこにヘレスさまが現れたのです……」

 彼女は両目を涙で潤ませながら、嬉しそうに笑みを浮かべた。

「イシュルさまは主神と繋がっていらしゃるのですわ」

 それは違う。確かに「繋がって」はいるかもしれないが……。

「わたくしはイシュルさまとひとつになり、そこで主神を直に目にすることができた。だからうれしかったのですわ。きっと感動したのです。あの時、わたくしは涙をおさえることができませんでした。なぜか泣けて泣けて、仕方がなかった……」

 ミラの気持ちはわかるような気がする。

 危難が去った後の美しい幻想。そこで奇跡に触れた。まるで白昼夢が現実になったような戸惑いが、彼女の心を余計に波立たせたのだろう。 

イシュルは顔が強ばりそうになるのを堪えて、微笑を崩さずミラに問うた。

「あの時、俺がヘレスに何を言ったか聞こえたか?」

 あの最後の言葉だけが声になった。音になった。

「いいえ」

 彼女はかぶり振った。

「わたくしにはイシュルさまが口を動かしたのが見えただけですわ」

 ミラはその美しい顔に微笑を讃えたまま、言葉を続けた。

「でも、わたくしには聞こえなくてもいいのです。神々と対話できることこそ、まさに神の魔法具を持つ者の証。そこは余人には立ち入れない、神域なのです」

 イシュルはだまって頷いた。

 彼女の考えは至極真っ当なものだ。俺のように前世の、異世界の記憶と意識を持って生まれた者でないのなら。

 あの時確か、俺はヘレスに、「俺の何を知りたい?」と言った筈だ。

 なぜあんなことを言ったのか、ヘレスの声さえ聞こえなかったのに、なぜあの言葉だけが音になったのか、ヘレスまで伝わったのか、それはわからない。

 だが主神のあの反応、あの言葉が彼女ら神々にとって重要な意味を持つものであったことは確かだ。

 神々、特に主神と月神が俺に接触し、時に干渉してくる理由はそれではないだろうか。

 ヘレスは俺に図星をさされたから驚き、おれとミラをあの遺跡に、元の人の世に戻したのだ。

 神々は己の知らない、触れられないものに強い関心を抱いているのかもしれない。

 俺が風神の魔法具を持っているから? ——もちろん、それもあるかもしれない。

 だがそれよりはるかに重要なことがあるのだ。

 それこそが、俺が前世の記憶と意識を持っている、ということなのだ。

 神々とって俺は異物、未知の存在なのだ。


 ……このことは神々につきまとわれる理由として、その仮説として充分成り立つものだと思う。

 もちろん、彼らとの接触は今のところ一方通行で、なんの確認もできない。だからあくまで“仮説”でしかないのだが。

 イシュルは視線を車窓の外に向けた。ゆっくりと、なぜか懐かしさを感じるスピードで横に流れていく緑の縞模様。それは列車や車のものとは違う。

 馬車を曳く馬の規則正しい蹄の音、車輪の回る音。あまり速度が出ていないせいか、乗り心地は悪くない。街道の道は所々、轍ができていた。

「イシュルさま……?」

 ひとり思索に沈んでしまったイシュルに、ミラがそっと声をかけてきた。

「ああ、ごめん」

 イシュルは笑顔をつくってミラに詫びた。

「……それで、ミラは俺が主神に何と言ったか、知りたくはないの?」

 ミラは僅かに目を見開いたが、これもかぶりをふって答えた。

「はい……。今は、まだ。さきほども申したとおり、余人の触れていいものではないような気がするのです。主神には聞こえ、わたくしには聞こえなかった。つまりそういうことなのですから」

 ミラが眸の光を揺らめかし、大きな笑顔になって言った。

「でも、いつか、わたくしにも教えてくださいませ」

「わかった」

 イシュルはしっかりと頷くと、顎に手を当て考える仕草をした。

 話題を移そう。ほかにもミラと話し合いたいことがある。

「それで、太陽神の座について、ナヤルに聞いてみたんだが……」

「ナヤルとおっしゃるのは、イシュルさまが召還された風の大精霊のことですわね」

 イシュルは頷くと話を続けた。

「ナヤルは太陽神の座と主神の間にあるものは同じものだと認識していた」

「バルリオレさまも似ている、とおっしゃっていましたわ」

 ミラは少し表情を引き締めて言った。

 確かにカルノは太陽神の座は主神の間と似たものだ、と言った。

「ナヤルはあれを、魔法具を生み出す魔法具、太陽神の魔法具だと言った」

 ミラの双眸が見開かれた。両手が口許に当てられる。

 彼女の驚きも当然だろう。ここで言う“太陽神の魔法具”とは太陽神の持つ宝具、つまり神の魔法具のことだ。俺の風の魔法と同じだ。通常の“光系統の魔法具”、とは違う。

 ただ、あのクレンベルの遺跡がその機能をすべて失っていなかった、ということは、“太陽神の魔法具”は複数存在し得る、ということになる。

 太陽神だけは特別な存在で、系統ごとに唯一無比の存在である神の魔法具を、複数持てるのかもしれない。

「単純に魔法陣と言ってすまされるものではないんだ。いわば設置型、固定式の魔法具だな」

「……」

 ふと視線を感じてイシュルが顔を向けると、シャルカが呆然とした顔をしてイシュルを見つめていた。

 シャルカは今まで周囲の警戒に注意を払っていたのか、ふたりの“邪魔”にならないようにしていたのか、車窓に顔を向け、ふたりの会話には参加してこなかった。

「どうした? おまえは何か知っているのか? 鉄(くろがね)の精霊よ」

「い、いや……」

 シャルカはやはり控え目な反応だが、はっきりとした動揺を見せた。

「人間にはしゃべれない、か?」

 イシュルが歪んだ笑みを浮かべる。

「シャルカ!」

 ミラがシャルカを叱って話させようとする。

「いや、いいんだ。ミラ」

 イシュルはミラをおさえると言った。

「ナヤルと同じような反応をするか、試したかっただけだ。シャルカ、すまなかったな」

 イシュルはシャルカに顔を向けて謝った。

 精霊に人に話せない禁忌があるのは以前から知っていたことだ。だが、これで彼女の反応から「魔法具を生み出す魔法具」、「設置型の魔法具」という考えが間違っていないことは確かめられた。

「カルノさまは、あの太陽神の座は古い遺跡で、もう当時の魔法具としての機能は有していない、と言っていた」

 カルノの話で、あの遺跡にもう魔法具をつくりだす機能が失われてしまったことはわかっている。

 問題は、未知の結界、異空間に飛ばされてヘレス像に襲われた時、あの状況で太陽神の座が完全に機能していたのか、何か欠落していたものがなかったか、だ。

 あったとすればそれが何か、探り出す必要がある。

「あの暗闇の結界に飛ばされた時も、太陽神の座は魔法具として完全に動いていたのかな? 例えば、俺は剣に太陽の光を反射させてヘレス像を焼き溶かしたわけだが、太陽神の座が正しく動いていれば、あの時、太陽の光は完全に遮断されたんじゃないかな?」

「それは……」

「他にも疑問がある。ヘレス像は石盤の石組みに沿って動いていたが、本来はもう少し早く動けたんじゃないか? ヘレスの剣を振り下ろす力は、俺でも何とか受け止められる程度のものだった。本当はもっと強い力が出せたんじゃないかな? それに」

 イシュルは視線に力を込めてミラの眸を見つめた。

「音が聞こえなかったのも、太陽神の座が正常に動いていなかったからじゃないか?」

 イシュルはさらに言い募った。

「ヘレス像をすべて斃して、あの暗闇の結界からベルシュ村に移った後も、風の音や麦穂の鳴る音は聞こえたのに、麦畑に姿を現したヘレス神の声は聞こえなかった」

「……わたしもヘレスさまが何を言われたのか、聞こえませんでした。イシュルさまも……」

 ミラは自身の記憶を辿るように視線を宙に彷徨わせると、イシュルに視線を戻して言った。

「ああ」

 ヘレスが何を言ったのか、いつも肝心なところで聴き取ることができない。

「イシュルさまが疑問に思われることはどれもみなごもっとも、とわたしも思います」

 ミラはそこで表情を曇らし、少し悲しそうな顔になった。

「でも、わたくしではとてもお答えできませんわ。お許しください、イシュルさま。お役に立てなくて」

 だが、ミラは少し考える仕草をすると笑顔になって言った。

「イシュルさまは、聖都に着いたら早々に総神官長さまに謁見することになるでしょう。その時直接お聞きすればいいのです。バリオーニさまならきっと、イシュルさまのご質問にも答えてくださりますわ」

「そうか。なるほど……」

 確かに総神官長なら知っているかもしれない。

「そういえばイシュルさま」

 そこでミラは笑顔を消し、大きな眸をじっとイシュルに向けてきた。

「イシュルさまはまさか以前に、ヘレスさまとお会いになったことがあるのですか?」

「うん? あー、どうかな。はは」

 見え見えのあまりに酷いイシュルのごまかしに、ミラは感動と興奮、よりも少し怒りのこもった表情になって言った。

「……お会いになっているのですね?」

 ミラは唇を尖らしている。 

「……」

 イシュルは仕方なく、といった感じで不承不承に頷いてみせた。

 そして、顎を引いて僅かに俯き、下から眸だけをミラに向けて言った。

「あの時、彼女は俺の名を聞いてきたよ。まるで何かを確認するように」 

 その顔には皮肉な笑みが浮かんでいる。

「ミラとはじめて会った時、きみがしてきたようにね」


 イシュルがエリスタールの貧民街の神殿で、ヘレスらしき女神官と会った時の話を聞いたミラは、両手を胸の前で握り合わせる、おなじみのポーズでひとしきり感動に打ち震えると、少し難しい顔になって呟いた。

「わたくしと同じ……」

「そうだな」

 イシュルが頷くと、ミラは微かに揺れる眸でイシュルを見て言った。

「風の魔法具を持つ者にお会いしに降りてきたのですね。イシュルさまのことを直接確認するために」

 イシュルが無言で再び頷くとミラは話を続けた。

「わたくしと同じように、イシュルさまに何かお願いしたいことがあったんでしょうか?」

 今度はイシュルは首を横に振り、言った。

「ヘレスはそんなことは言ってこなかったな。ただ確認するだけ、そのこと自体が目的だったんだと思う。つまり、太陽神自身がわざわざ出向くほど、それは重要なことだったのかもしれない」

 今考えればそういうことになる。だが何が重要なのか、ヘレス自身が動いた理由も、未だに皆目見当がつかない。

 俺が異世界、前世の記憶を持つから、風神の魔法具を持っているから、その二点以外には。

 ちらっとシャルカに目をやると、彼女は両目見開いて俺のことを見つめ固まっている。

 シャルカは俺と目が合うとぶるぶる震え出し、ぎこちない動きで車窓に視線を逸らした。

 彼女を弄るのは止めておこう。シャルカからは情報を引き出せないし、ちょっと可哀想でもある。

 ミラは可愛らしく顎に手をやり、顔を俯け沈思している。

 話題を変えるか。

 ミラに念押ししておかなければならない。

 イシュルがミラに話しかけようとすると、ミラは顔を上げ、彼女の方から話題を変えてきた。

「イシュルさまが太陽神の座のことを気になさるのは……」

 イシュルは笑みを浮かべた。

 ミラも同じことを考えていたらしい。

 ミラにとって驚き感動すべきことではあっても、俺が主神とかかわりを持っていることは、風の魔法具を、続いてまだ手に入れてはいないが、地神の魔法具を所有することを認められた存在であるのなら、ごく自然な、当然なことなのだろう。ならそれ以上、彼女にとって考える意味はない。ミラもすぐに別のことに思考をめぐらしていたのだろう。

 イシュルはミラの言葉に即座に応じた。

「主神の間で行われる“聖冠の儀”では、かならずビオナート本人が出てくる。その時、すべての決着を着けることになるだろう。決戦場は主神の間になる。だから俺たちは太陽神の座で起きたことを検証し、対策を立ててその時に備えなければならない」

 聖冠の儀でビオナートを引き出すには、やつの思惑どおりに、予定どおりに、入札(いりふだ)で総神官長になってもらわなければならない。やつの正義派に対する工作を防ぎ、やつの力を削いでいきながら、だ。なかなか難しい駆け引きが必要かもしれない。

 主神の間でどう戦うか、対策を考えるだけではすまない。

「検証、ですか……。イシュルさまは難しいお言葉をつかわれます……」

 ミラはイシュルの説明に小さな声で呟くように言った。

 別に難しい言葉ではない。社会が変容、複雑化し、科学が進んでいないこの世界ではあまり使われない、というだけだ。

「今の段階ではっきりとしている一番の問題は、太陽神の座が動きだすと、すべての魔法が使えなくなる、ということだ」

「はい」

 ミラも厳しい表情になって頷いた。

「主神の間は地下にあるという。太陽神を迎えるのだから、どこかからか陽が差すような構造になっているのだろうが、太陽神の座でできた、剣で太陽の光を捉えて結界を壊す、なんてことが主神の間でもできる、という甘い考えは持たない方がいい。なんとかして主神の間を破壊せずに、魔封の結界を打ち破る方法を見つけ出さねばならない」

「おっしゃる通りですわ。わたくしも聖都に戻りましたら調べることにいたしましょう」

 ミラはしっかり頷いて見せた。

 そして彼女は首を横に少し傾けるとイシュルに聞いてきた。

「バルリオレさまは、わたくしたちに主神の間がどんなものか、教えてくれたのでしょうか」

「それはあるかもしれない」

 イシュルは難しい顔になって答えた。

 見習い神官の少年たちと別れた後、主神殿の神官たちにも別れの挨拶をしに行ったが、その時カルノの所在を聞いたところ、「神殿長はお部屋に籠られて出てこない」と答え、声もかけずらいのか、皆困惑している感じだった。

「神殿長は、あの時、これで国王派への義理は果たした、と言った。あれは俺に対する罠でもあったかもしれないが、少なくとも本人に明確な害意はなかったと思う」

 カルノなら、いろんな人脈、縁故があるだろう。それはもちろん国王派にも。そして……。

 イシュルは顎に手をやり、何事か考え込みながらミラに言った。

「聖都に着いたら、カルノ・バルリオレの経歴を調べてもらえないだろうか。あの人は大神官になると同時に、クレンベルの主神殿の神殿長になったのかな?」

「確かそうですわ」

 ミラはおまかせを、と言ってからイシュルの質問に答えた。

 前世の国家組織、政府、企業でもおなじみのケースだ。昇進、昇級と同時に出向、あるいは退職。第一線を退く形。

 カルノも何か、聖都で遣り残したことがあったのだろう。

 大神官はよほどの門地でなければ、実力、識見、人格ともに傑出した者でなければなれない位(くらい)だ。

 彼にもあきらめきれない、何事か、その位に見合う志があったのかもしれない。

 イシュルは車窓に目をやり、外をゆっくり流れる森の緑を見つめた。


 その日の夕刻、使節団は教会領の村、ルグチェ村に到着、村長宅をはじめ村内の家々に分宿することになった。あぶれた従僕、人夫の一部は村の広場にテントを張って一夜を過ごすことになった。

 ミラはイシュルにデシオと同じ、村長家の最も良い部屋を手配しようとしたが、いつものごとくイシュルは固辞し、村長家に隣接する豪農の家に宿泊することになった。ミラは夕食もいっしょに、と誘ってきたが、イシュルはそれも固辞した。ミラ本人はともかく、デシオ以下使節団の幹部らと食事をとるよりも、農家のひとたちといっしょに食べる方が気を使わなくていいし、地元や聖王国の情勢など思わぬ話が聞けるので、そちらの方がためになる。

 イシュルの泊まる農家には、なぜかネリーも同宿することになった。

 確かに村長宅には、ミラの従者まで泊める部屋数はないのだろうが……。

「わたしはおまえのお目付役だ」

 ネリーは宿泊先の農家の門前でイシュルに言ってきた。

「気安く村娘に手をだしたりするなよ」

 ああ、そういうこと。

 イシュルはネリーの台詞を鼻で笑ってやろうとしたが、

「……もし万が一にもおまえがそんなことをしたら、わたしの命がない……」

 続いて呻くように言ったネリーのひと言に、神妙な顔になってこくこくと頷いた。

 イシュルは、宿泊先の農家の家主に挨拶し部屋に案内されると、身を落ち着ける間もなく外に出て、村の家々を抜けて外縁部の林の中に入り込み、新たな精霊を召還した。

「イヴェダよ、願わくば我(わ)に汝(な)が風の精霊を与えたまえ、この長(とこ)しえの世にその態を発したまえ」 

 イシュルが久しぶりに自作の召還呪文を唱えると、林間を風が駆け抜け木々を鳴らした。そして頭上、見上げるような高さに閃光が走り光彩が瞬いた。

 陽はまだ完全に落ちていない。薄暗い夕方だ。

「ふむ、これはこれは。剣殿」

 イシュルの前に白く半透明に輝く人の像。

「お呼びかな。わたしを」

 四十過ぎくらいだろうか。長身のすらりとした姿形の男が宙に浮いていた。

「あっ、……よろしく」

 イシュルは少し動揺した感じで言った。

 おじさんだ……。見た目はカルノをそのままひとまわりほど若くした感じ、トーガーをゆったりと着こなし、クラシックな腕輪に首飾り。得物は持っていない。やや短めの髪はゆったりと波打つくせ毛で、髭は生やしていない。品のある知性的な顔立ちだ。

 これは……やりにくい。男でしかもかなり年上。それなりの貫禄も感じる。

「俺の名は知ってると思うけど、イシュル。あなたは……」

「ああ、これは失礼した。わたしの名はクラウディオス・ヘススクエレルバス、よろしくたのむ。剣殿」

 はは。毎度毎度、たまらんなぁ。

「えーと、クラウ、と呼ばせてもらっても?」

「もちろんだ。剣殿。それで御用の向きは?」

 クラウディオスは鷹揚に頷き、イシュルに笑みを浮かべてきた。

「えーと、その前にクラウ、さん、あなたは何か得意な魔法とか……」

 イシュルは一抹の不安を感じて男の精霊に言った。

 貫禄も品もある精霊だが、得物もないし、なぜかナヤルよりも強そうに見えない。

「ただクラウ、と」

「あ? ああ、わかった。クラウ」

 クラウはひとつ頷き、笑みを深くした。

「わたしはイヴェダさまの名代としてお使いを頼まれることが多いのだ。要するに使者だね。他の神々の許へ、交渉ごとに赴くことが多い。まぁ、風の魔法はそれなりに」

 クラウの口許が微かに歪む。

「やれると思うが」




「イシュルさまは、また大変な大精霊を呼ばれましたわね」

 翌日、車中でミラはイシュルに、幾分声を潜めて言った。

「ああ、そう……かな?」

 イシュルは薄く笑って言った。

 声を潜めるのは……、気持ちはわかるが意味がないと思うよ。

 昨夕、イシュルはクラウにいつものごとく自分自身の警護と毒見、村の村長宅に宿泊する者の警護、ラベナや双子の警護等をお願いし、対象者の外見や宿泊する建物の説明をしたが、クラウは何の疑問もはさまず、不満等も口にせず、すんなり従順に受け入れた。

 ふつう、一般の精霊は契約した者や、召還した者以外の人間にあまり興味を抱くことはなく、従って識別するのも苦手だったりする場合が多いが、クラウはその点、能力的に何の問題もなさそうだった。

 いわゆる外交を担う文官の最高位にある感じ、だろうか。例えば王家から王家への使者といえば、貴族であることはもちろん、相当高位な者が使者となるのは常識である。昔の日本なら奏者や使番、と言った感じだろうか。

 実際の戦闘に関しては未知数な部分もあるが、聖都に着けば謀略戦になる可能性が高い。まだクラウにはしばらくの間、ということでどれくらいの期間お願いするか決めていないが、なるべく長く人の世に留まってもらえるよう、交渉してもいいかもしれない。

 朝になってミラやラベナにクラウを紹介すると、ミラやラベナ、双子らは目を丸くして驚いた顔をした。クラウはナヤルのような高慢な口を利くこともなく、さすが役目柄からか、如才ない穏当な態度を示した。

「彼は風神の使い役で、使者として他の神々の許に差し遣わされることが多いそうだ」

「まぁ。それは素晴らしいですわ」

 ミラは両手を合わせてうれしそうな顔になった。

 車窓から差す光が彼女の輪郭を美しく描き出している。

 ん?

 その時だった。

 長い隊列に何か複数の人馬の近づく感じ。

 危険な感じではないが。

 イシュルは前方に首をめぐらした。

 街道は森を抜け、茫漠とした広大な草原に出ていた。

 馬車が止る。先をいく騎士団やデシオたちは止まらず、そのまま進んでいくようだ。

 御者台からネリーが飛び降り、前方に歩いて行く気配。

 馬車の前方には公爵家騎士団から分派された六騎の騎馬がいる。

 しばらくすると馬車の扉が開かれ、ネリーが跪いて言った。

「コバルアス男爵がミラお嬢様にご挨拶したいと。ちょうど配下を引き連れ、領内の検分をかね魔獣退治をしていたところ、当家公爵旗を認めたそうで」

 ん? なぜだ?

 前方には使節団の儀典長であるデシオもいる。なぜ彼らを無視してミラを? おかしくないか。

 イシュルはミラに鋭い視線を向けた。

「確かに、ここら辺はコバルアス男爵領ですが、おかしいですわね」

 ミラも不審な顔になる。

 ネリーが声を落として言った。

「前方の使節団騎士団と儀典長さまの馬車は先に行かれて、どんどん間が離れて行きます」

 まさか……、分断?

「剣殿」

 クラウの声だけが聞こえてくる。

「罠だな。草原の先の方から数千の人馬が近づく気配がある」

「!!」

 イシュルたちは馬車から飛び出た。

 後ろの馬車からはラベナたちが、その後ろの馬車からはダナたち宮廷魔導師たちが降りてくる。

 前方に目を向けると、見渡す限りの草原が広がっている。

 遠方にはちらちらと木々の繁りが散在している。周辺に人家は見当たらない。

 確かここら辺一帯は昔に疫病が流行ったとかで、付近に住む多くの領民が、王命により移住したと聞いている。地形そのもは大部隊の野戦、会戦には絶好の場所と言える。

 その木々の疎らに繁る先から、おそらく数里(スカール、約三千メートル)ほど離れて、相当な数の騎馬と徒歩兵が展開していくのが見えた。

「イシュルさま……これは」

 ミラの呟きが背後から聞こえる。

 馬車の前の方で、ディエラード家の騎馬隊の隊長と騎上で話していた、派手な羽根つき帽子をかぶった青年が帽子をとってかるく頭をさげ、ミラに向かって言ってきた。

「これはミラ・ディエラードさま。急で残念だが、わたしはここで失礼させていただく。御免」

 すると馬首をめぐらし、後方に待機させていた騎馬や弓兵らを従え、森の切れ目を南側に退いていった。

 街道の先には、土煙りとともに先を行った使節団の隊列が、展開する兵団に吸い込まれていくのが見える。

「確かに罠だ……」

 イシュルは呆然と呟いた。

「儀典長と分断して、この広い場所で俺らを葬ろう、というわけか」

 後ろには四名だが宮廷魔導師もいるのに。

 騎馬と徒歩兵の兵団は左右に広がり、森から出てきたイシュルたちを半包囲する体勢を取ろうとしているようだ。

 そしてその兵団の中から、黒や白のローブに杖や錫杖、あるいは平服に剣をぶらさげた者たちが浮き出るように姿を現した。

「あれは魔導師長……」

 イシュルに続いて、後ろからミラが呟く声が聞こえた。

 おそらく真ん中を進んで来る、ひときわ大きな杖を持つ黒いローブの人物だ。

 宮廷魔導師と思われる者たちは五十名以上はいる。数名ずつ、適度な距離を置いて横に広がり、こちらに向かってくる。

 そして彼らの周囲に、夥しい数の魔力の煌めきが起こった。

 彼らの頭上、空中にさまざな姿形の精霊が幾十と、同時に姿を現した。


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