太陽神の座 2



 イシュルがミラと別れ、自身の滞在する小屋に戻ってくると、扉の前にクートがいた。

 彼の背後には昨日の戦いで唯一生き残った、カハール組の紫尖晶、ビルドの姿があった。

 ビルドは左腕を怪我していた筈なのに、もう布でつっていない。

「おお、イシュル殿。ちょうどよかった。貴公にお願いしたいことがあるんじゃ」

 クートはイシュルの背中を押すようにして小屋の中に押し込み、自らもビルドを従え中に入った。

「あんた、もう怪我はいいのか?」

 クートのベッドに腰を降ろしたビルドに、イシュルも自分のベッドに座りながら言った。

「ああ」

「あの騎士団長代理殿にお願いしての。神殿長さまに治癒魔法をかけていただいたのじゃ」

 短く答えたビルドにかぶせるようにして、クートが説明してきた。

「まだ痛みはあるが、何とかふつうに動かせる。それに左だからな」

 そういってビルドはかるく左腕を肩から回してみせた。

「……ほう」

 鉱山の神殿長の治癒魔法は、さすがに手足を切り落されたセルダを治すことはできなかったが、ちょっとした刀傷なら治してしまえるほどの威力はあるらしい。それならなかなか重宝する魔法だと言えるだろう。

 このフラージの聖石鉱山は山奥の僻地にあるとは言え、聖堂教の聖地であるからには、それなりの位や経歴を持つ神官が神殿長を務めている筈である。聖堂教会の要職にある神官は、皆かなり有用な治癒魔法を使えると考えていいのだろう。

「まだ完治はしとらん。とりあえず傷は塞がった、といったところじゃの」

 クートはビルドの隣に腰を降ろすとそう言って、懐から小さな巻紙を取り出してきた。

「実はの、わしらはビルドとともに、ひと足先にカハール経由で聖都に帰ることにした」

 そして巻紙をイシュルに渡してきた。

「ん? ……というと?」

「紅玉石の受け渡しは終わったし、エミリアは死んでしもうた。此度のパーティは解散する。そこで、しばらくの間、ラベナとピルサの双子の面倒を見てもらいたいんじゃ」

「はっ?」

 不審をあらわにするイシュルに、クートが手を横に振った。

「お主にではないわい。聖王家査察役のミラ・ディエラードさまにじゃ」

「えーと。よくわからないんだが」

 イシュルは首を横に傾けた。

「今は聖都の宮廷や大聖堂だけでなく、紫尖晶聖堂内部も微妙な状況での。ラベナと双子が正義派としてしっかり働いたこと、いや、正義派そのものだったということが、昨夜の大一番で、いずれ近いうちに紫尖晶の多くの者、他の尖晶聖堂の者にまで知れ渡ってしまうことになる。あの娘らはお主の左手の件も知っておる。ラベナたちにとってはあまり良い状況ではないのじゃ」

 ラベナと双子を紫尖晶に留めておくと危険だから、ミラに身柄を預ける、ということか。

「紫尖晶内部にも国王派がいる、ということか」

「まぁ、そういうこともあるじゃろうて」

「……」

 イシュルはまだ不審な表情を消していない。

 クートはしっかりと肯定はしていない。何かごまかしている感じがする。

「で、爺さん、あんたらは紫尖晶聖堂に戻っても大丈夫なのか?」

「まぁ、わしはこの稼業も長いからの。どうとでもなるわい。というより、聖堂に戻ったら上の者に紫尖晶丸ごと正義派に味方するよう、説き伏せようかと思うておる。貴公が正義派に味方したからの。これからは国王派も厳しくなろうて」

 それはどうかな。

「あんたの説得が終わるまで、ラベナたちをミラの家でかくまってもらう、ということか」

「まぁ、それだけではないがの」

 ……どうもはっきりしない。

 イシュルはさらに首を斜めに傾け、うさんくさそうにクートをねめつけた。

「爺さんの言うことは今ひとつ信用ならないんだよな。何か裏があるんじゃないのか? 他に理由があるんじゃないの?」

 イシュルはにーっと笑って見せた。

「ディエラード公爵家に、ラベナたちを密偵として送り込むのが本当の目的じゃないのか? 彼女たちだったら、いざというときは派手な破壊工作もできるし」

「それは違うがな!」

 クートが背筋を伸ばし、腰を浮かして声を荒げた。

 横ではビルドが顔を俯かせ笑いをこらえている。

「何が違うんだ?」

 イシュルはちらっとビルドに目をやって言った。

 やはり爺さんは仲間うちでもあまり信用されていないらしい。

「あー、ごほん。……ラベナと双子はの」

 と、クートはかるく咳払いすると、彼女たちの過去を話しだした。

 案の定、ラベナも双子も、もともとは貴族家の出身で厄介ごとに巻き込まれ、あるいは起こした口だった。

 ラベナは、元は聖王国南東の山間部に領土を持つ、辺境の領主家の嫡子の妻だったが、その美貌から他の兄弟、義父にまでちょっかいを出され、その揉め事から夫は一族の男どもに謀殺されてしまった。ラベナは夫の持っていた風の魔法具を使って、夫を殺した男どもに復讐、その後嫁ぎ先の領主家を出奔し、実家に帰ることもできず、聖都に出て女性のみが立ち入ることができる神殿に保護を求めた。聖都には女性修道院か、駆け込み寺のような女のための神殿があった。

 ピルサとピューリは元は男爵家の娘で、ふたりがまだ幼いころに父親がとある酒席で刃傷沙汰を起こし、あげく同席していた聖堂騎士団の騎士と決闘、敗れて死んでしまった。男爵家は聖王家によって廃爵、その後遺された家族は母の実家に身を寄せたが、双子は母の病死後、教会に預けられることになった。

 三人とも、幸か不幸か五系統の魔法具を持っていたため、その後尖晶聖堂に身を置くことになった。

「まぁ、お主も感づいておったろうが、元のあの者たちの身分からして、いい話があれば、機会があれば早めにお役御免、となることは以前から決まっておった。エミリア姉妹とは別に、ラベナも双子も、今回の聖石神授を機に、場合によっては紫尖晶の影働きから退かせてもよい、という上からのお達しがあったのじゃ」

 イシュルは目を細めて言った。

「良い機会、というのがなければ使い倒されるわけか」

「ふん。まぁ、そういうことはある。男なら特にな。魔法具持ちで、身分卑しからぬ女子(おなご)なら、縁を結ぶのに使える場合も多いからの」

 彼女らは過去に問題があっても、どこかの貴族家の養女にしてその貴族家のために、あるいは尖晶聖堂のために、政略結婚の駒として使われることになる。

 ラベナたちの場合はどうだろうか。ゆくゆくはディエラード家の下につく分家、各貴族家の養女になる、ということなのだろうか。

 まぁ、それでも、命のやり取りをする影働きでいるよりは、はるかに恵まれた境遇に置かれることになるのは確かだ。

「聖都の政情も雲行きが怪しくなってきておる。貴族はどこでも腕の立つ傭兵、剣士や魔法使いを求めておる。それは公爵家とて同じじゃて」

 イシュルはまた僅かに首をひねって言った。

「ラベナたちを公爵家に避難させつつ、用心棒としても使ってもらって、紫尖晶としては公爵家に恩を売っておく、ということか」

「まぁ、そういうことじゃな。もちろん、新王の即位後も三人の行く末はディエラード公爵家の自由にしてもらってかまわん。そういうことになろう」

 ふーん。

 この爺、やはり紫尖晶の幹部に近いところにいるのか。

 パーティのリーダーは生え抜きのエミリアが、少々衰えたとはいえ経験豊富なクートが目付役だったわけか。

「で、俺か。爺さんが直接ミラに頼めばいいじゃないか」

 イシュルはそう意地悪く言ったが、当然ラベナたちにとって悪い話ではない。自分がひと肌脱ぐことに異存はなかった。

「それは身分が違い過ぎる。あの公爵令嬢はお主に首ったけじゃからの。だから、じゃて」

 クートはそういうと、いやらしい顔つきになった。

「あの女子(おなご)は貴公の言うことなら何でも聞いてくれそうじゃ。のう、そこらへんはどうなんじゃ? まさかもう契ってしまったかの。ひひひ」

 イシュルの顔が一瞬赤くなった。

 このエロ爺が……。

 今度はイシュルが声を荒げる番だった。


 イシュルも、クートとビルドを見送ろうと小屋の外に出ようとすると、クートは両手を前にあげてイシュルを押し止めた。

「見送りはいらん。わしらは門からは出ていかんからの」

「そうか? だが……」

 イシュルが少し声を落として言うと、クートはにやりと笑みを浮かべて言った。

「なーに、どうせ聖都ではまた、いやでも顔を合わすことになろうて」

 そしてイシュルの腕をたたいて言った。

「世話になったの。エミリアのことは残念じゃったが、お主の大魔法を見れてよかったわい。長生きはするもんじゃ」

「ああ、爺さんも元気でな」

 イシュルは日に焼けた、小皺だらけの小男の顔を見つめて言った。

「それじゃあ、イシュル殿」

「ラベナたちのこと、よろしくたのむ」

 クートとビルドは扉の向こうに音も無く姿を消した。

 イシュルはしばらくその粗末な傷んだ木の扉を見つめると、ベッドの上に置いてあるミラ宛の巻紙を持って外に出た。

 大小の丸太小屋、樫の木々の間を抜け、宮廷魔導師らの滞在している家に向かって歩いていると、折よくラベナと双子に出くわした。

「わたしたちもイシュルのところへ行こうとしてたの」

 きみらに会えてちょうどよかった、と声をかけたイシュルに、双子が声を揃えて言ってきた。

「クートさんたちはもう発ったの?」

 ラベナの質問にイシュルが無言で頷くと、ラベナはにっこり笑顔になって言った。

「これからはよろしくお願いしますわね、イシュルさん」

「ああ。こちらこそ」

 双子の生い立ちに関しては、以前からそうと察するものがあったが、普段はおっとりして柔和なラベナにも、思いもつかない厳しい過去があったわけだ……。

 イシュルは心中に浮かんだ感慨を押し殺してラベナ、そして双子の顔を見た。

「じゃあ、ミラのところにいしょに来てもらえるか。ちょうど彼女に話をつけに行くところだったんだ。きみらもいた方がいいだろう」

 そしてイシュルは、さっと踵を返すとラベナたちに背を向け、ミラの滞在する家に向けて歩きはじめた。

 彼女らの過去を知ってしまったが、それを少しでも悟られたくはない。

「イシュル!」

「イシュル!」

 ピルサとピューリが後ろから、イシュルの両手にそれぞれぶらさがってきた。

 ミラたちは鉱山頭の家に滞在している。イシュルたちは玄関からおとないを入れ、住み込みの下女にミラの部屋に案内された。彼女の部屋に続く長い廊下を歩いていると、ミラの部屋の方からどたばたと、人びとの慌ただしく動き回る気配が伝わってきた。

 イシュルたちの訪問を下女の誰かが先に伝えたのだろうか。

 イシュルがミラの部屋の前まで来ると、扉が少しだけ開いてルシアが顔を半分ほどだけ見せ、小声で言った。

「今少しお待ちを」

 と、イシュルが何か言う間もなく扉が閉められる。

 中からは、ドタバタと家具類など雑多なものの動く音とともに、「急ぐのです!」とか「シャルカ、後ろの方もちゃんと巻かれているかしら」などとミラの声が混じって聞こえてくる。

 ふむ。ミラは屋内で自慢の髪を洗い、お手入れしていたらしい。どうも間の悪い、まずいタイミングで来てしまったらしい。

 と、部屋の中の騒音がいっせいに止み、静かになった。

「イシュルさま!」

 今度はあろうことか、ミラ本人が扉を開けて出てきた。

「お待たせして申しわけありません、さあ、どうぞ。中へ」

 部屋の中から出てきたミラはなるほど、薄暗い廊下でもそれとわかるほど、豪奢な金髪の巻き毛が艶艶と輝きを増しているのがわかる。

「……」

 だが、笑顔だったミラの顔から急に表情が抜け落ちる。

 ミラから立ち上がる冷たい空気。

 左右に振られるミラの視線を追うと、手をつないでいる双子のにっこり見上げる顔があった。

 ピルサとピューリは鉱山頭の家の中に入っても、しっかりイシュルと手を繋いで離していなかった。

 無言で眉毛をつりあげるミラ。

「あ、は」

 ほんとになんて間の悪い。

 イシュルは呆然と、力なく笑みを浮かべた。


「……なるほど。委細は承知しました」

 ミラはクートのしたためた巻紙を広げ目を通すと、ごくごく事務的な感じで言った。

「その、クート殿とお仲間の方はもうカハールに向かわれたのですか?」

 ミラが広げた巻紙の向こうからちらっと片目を見せて聞いてくる。

「ああ」

 クートは年をくっているとはいえ現役の影働き、ビルドは左腕が万全ではないが若い。ふたりきりで、しかも午後からの出立を心配するイシュルに、「なーに、魔獣に出くわしても戦う必要などない。わしらは逃げるだけじゃ。これもあるしの」と、クートはいつかのように自身の左腕を叩いて言った。確かに隠れ身の魔法は大抵の魔獣相手にも効く。クートの話では、カハールからは馬を手配して聖都に向かうから、距離はあっても、使節団とともにクレンベルを経由して聖都に戻るより早く着く、ということだった。

 それに聖石鉱山からカハールへ戻るのと、クレンベルに戻るのでは、距離も道中の危険度もカハールの方がだいぶ少なく容易である。

 ミラは巻紙を丸めると後ろに控えていたシャルカに渡した。

「燃やしてしまいなさい」

 え?

 シャルカはミラからクートの巻紙を受け取るとくしゃっと丸め、両手のてのひらから、オレンジ色に発熱する金属をにゅるりと生み出し、丸めた紙をくるんだ。

 紙に火がつき、ミラの向かいに座るイシュルのところまで紙の燃える匂いが漂ってきた。

「えーと、俺もそれ、目を通したかったんだが」

「だめです。わたくし宛の書簡ですから、イシュルさまには見せられません」

 あーそう。はは、ミラの機嫌が滅茶苦茶悪い。失敗したなぁ。

「ではそこのお三方は当家で引き取りましょう。とりあえずは聖都の当家の屋敷にて傭兵として働いていただきます」

 ミラはイシュルの後ろに並んで立っているラベナと双子に目をやると言った。

「あなた方の実力は承知しています。イシュルさまのように客人として遇するわけにはいきませんが、悪いようには致しませんわ」

 ミラはそこでやっと笑みを浮かべた。

 ラベナたちはその場で跪き、左手を胸に当てて口を揃えて「よろしくお願いいたします」と言った。

 ミラの口ぶりとラベナと双子の態度から、彼女たちはただ雇われる、というよりは五令公家に保護され、一時的に家臣として仕える形になるのかもしれない。

 クートの手紙に何と書いてあったかわからないから、はっきりとしたことはわからないんだが。

 ミラは何か考えがあるのか、笑みを深くして無言で頷いた。

「俺からもよろしく頼む」

 イシュルがそう言って頭を下げると、ミラは笑みをひっこめ、つーんと顔を横にそらしてしまった。




「そろそろ起きた方がいいんじゃないかしら」

 頬にほのかに暖かい手がそえられている。

 目の前にナヤルの美しい顔。微笑み。

 イシュルは飛び起きた。

「おはよう」

 こんな美しい精霊に朝起こされるなんて、いたれりつくせりなんだが……。

 相手が相手なだけに妙な緊張感が伴う。

 ふと隣のカラになったベッドに目をやる。クートはもういない。

 少し寝坊したか。やはり疲れがたまっていたらしい。

「この村の雰囲気、少し変わったわね」

 ナヤルがイシュルから離れ、視線を部屋の外の方に向けて言った。

「この村の多くの人間たちから漂っていた緊張や殺気が、きれいさっぱりなくなったわ」

「そうかもな」

 イシュルは鎧戸を開けながら言った。この小屋の窓にはガラス窓ははまってない。

 部屋に陽光が射し込んでくるとイシュルは伸びをした。

「今日の昼過ぎにここを出発して、クレンベル、あの山の上に神殿がある所に帰る。引き続き頼む」

「わかったわ」

 ナヤルはそう返事をすると、少しずつ透明度を増して消えていった。

 イシュルは父の形見の剣を腰にぶらさげ、靴を履き上着を羽織ると、昨日のうちに用意した荷物、ほとんど着替えだが——の入った麻袋をぶら下げ、部屋を出て鉱山集落の広場に向かった。

 広場に着くと荷物を荷馬の側にいた人夫に預け、広場の片隅にある井戸に向かう。とぼとぼとのんびり歩いていると、後ろから近づいて来る知った人の気配がある。

 イシュルが振り向くと、出発の準備で慌ただしく動き回る人びとを背景に、デシオが笑みを浮かべひとり立っていた。


「これを総神官長さまにお渡しください」

 デシオがエミリアとエンドラの墓に跪き祈りを捧げると、イシュルは懐から精霊神の魔法具、革の小袋を出してデシオに差し出した。

「これは?」

 デシオがイシュルから革袋を受け取りながら低い声音で聞いてきた。

「紅玉石が入っていた革袋です。これでも魔法具なんですよ」

 イシュルはエミリアから受けた説明をそのままデシオに伝えた。

「……そしてこの革袋を開ける呪文も、国王派に漏れています」

「わかった。この精霊神の革袋はかならずウルトゥーロさまにお返ししよう」

 イシュルの話が終わるとデシオは重々しく頷き言った。

「それからイシュル殿。聖都に着いたら、なるべく早くウルトゥーロさまに会っていただきたい。公爵家にはこちらから使者を遣わそう」

「わかりました」

 イシュルはひとつ頷いて言った。

 イシュルは鉱山集落の広場で、デシオからエミリアたちの墓を見舞いたい、ふたりきりで話したい、と声をかけられた。

 午後にはクレンベルに向けて鉱山集落を出発する。これからデシオとふたりだけで話す機会はなかなかつくれないだろう。

 デシオが俺に伝えたいことはこのことだったのか。

 確かに、聖都に着いたら早急に総神官長と会わなければならない。こちらもいろいろと言いたいことがある。

 おそらく秋の収穫祭の前後あたりになるだろう“聖冠の儀”まで、正義派を国王派の手から守らなければならない。やつらはいろいろと仕掛けてくるだろう。それを防ぐにはどうするべきか。攻撃こそ最大の防御とするなら、昨日話した王子たちにビオナートの陰謀の一端を知らせ、彼らをけしかける妨害工作もそうだが、その他にも腹案はいくつかある。

 昨日はセルダの埋葬に立ち会い、熱くなってミラと目の前のデシオから聞くのを失念してしまったが、黒尖晶の聖堂、本拠地をどうせならふたりだけでない、総神官長他多くの者から聞き出し、必要なら調査して、彼らを完全に潰してしまわなければならない。

 そしてまず第一に、尖晶聖堂の長(おさ)のような、裏の陰謀、謀略戦に長けた人材を手配することが最優先事項になるだろう。もちろん、ミラから正義派の他の人材、聖都の宮廷や大聖堂の勢力図を教えてもらってから、あらためて考え直す必要がでてくるだろうが。

 デシオは革袋を懐に入れると周囲を見渡し、東北方の山並みに目を止め言った。

「あの山の稜線まで形が変わってしまった。この地が再び木々に覆われるまでは幾十年とかかるだろう」

 そしてイシュルに視線を向けてきた。

「昨日も申したことだが、イシュル殿。くれぐれも聖都では短慮は控えられよ。貴公がその持てる力のすべてをふるえば、聖都も大聖堂も灰燼に帰すことになろう」

 イシュルはデシオを横目に小さく頷いた。

 だが俺の持つ力の最大の利点とはそれなのだ。風の魔法の強さ、大きさだ。やつらを黙らせるには、どこかでこの力を見せつけることも必要になるのではないか。

 ……じゃあな。エミリア、エンドラ。

 イシュルは最後にエミリア姉妹の墓を一瞥すると、姉妹の墓に背を向け、デシオとともに鉱山集落へ向かって歩きだした。

「待ちなさい」

 すると背後から声がした。

 ぎょっとしてふたりが振り返ると、ナヤルルシュクがいつかのようにほぼ実体化して宙に浮かんでいた。

 ナヤルの後ろには姉妹の墓がある。

「そこな人間の神官」

 ナヤルが冷たい、威厳のある声で言う。

「これはこれは! 大精霊さま」

 デシオが左手を胸に当てて跪いた。

「おまえたちが剣さまの成されることにもの申すなど、けっして許されることではありません。剣さまの成されることはイヴェダさまのご意志と考えなさい。おまえたち神官の長(おさ)にもその旨、しっかりと伝えるように」

 ナヤルは俺とデシオの会話をどこかで聞いていたらしい。

 しかし、何てことを……。

 いや、まぁいいか。俺の方も動きやすくなるし。

 だが風神の名を出してこんなことまで言ってくるなんて、今まではありえなかったことじゃないか。

「ははぁ、総神官長にはかならず申し伝えます。……どうかお許しを」

 デシオが畏まっている。

 イシュルが呆然とその光景を見ていると、踞るデシオの上からナヤルが片目をつぶって見せてきた。


「どうしてあんなこと言ってきたんだ?」

 後でイシュルの質問にナヤルは、

「あの夜の戦いでは、肝心のところで剣さまのお役にたてなくて」

 と言った。

 申し訳なくて、罪滅ぼしではないが特別に踏み込んだことを言ってみた、ということだった。


 その日の午後、聖石神授使節団は鉱山集落を出発、クレンベルへ帰還の途についた。

 隊列はイシュルが仮のリーダーとなってラベナと双子とともに先頭を、その後にリバルらふたりの正騎士、ミラ主従、デシオら神官と続き、聖石、つまり水晶その他の原石を運ぶ荷馬をはさんでダナ・ルビノーニら宮廷魔導師、各々の従者や雑役人夫と他の荷馬、最後に王子派の密偵が混じっているらしい、行きしなも最後尾を守っていた傭兵のパーティ、の順番となった。

 国王派のパーティがまるまるひとつ消え、八名の正騎士に加え、雑役人夫の人数も目に見えて減っていた。

 復路は、初日から極めて順調だった。

 不思議なことに、内輪山を抜けた後、多くの魔獣が出没する外輪山内側において、その姿をほとんど見かけることがなかった。

 イシュルがミラになぜか聞いてみると、めずらしくシャルカが説明してくれた。

「風神の剣を持つお方、あなたがこの数日間に何度か神と見まがう大魔法を使ったので、魔獣どもが怖れて火山に近づかないのだ」

「内輪山でも火龍や悪魔など、空を飛ぶ魔獣を見かけなかったのもそのせいか」との、イシュルの続いての質問には、ミラがかわって答えた。

「外輪山内側、南西にある湖には地龍や牙猪の群れ、それに火龍など強い大型の魔獣も数多く集まります。火龍にとっては何より湖の水を飲むことが大事、周囲の森には獲物となる他の大小の魔獣もいるから、わざわざ鉱山集落を襲う必要がないのです。悪魔は火龍が苦手ですから、火龍が姿を現す所にはあまり近づきません」

 初日の野営は外輪山を越えてすぐの滝からやや離れた川辺になったが、そのミラが、小さめのテントをひとつ余計に人夫たちに張らせ、イシュルに言ってきた。

「イシュルさまには予備のテントをご用意しました。妙齢の女性の方々と同じテントをお使いになるのは許されません。おわかりですわね?」

 ミラは形の良い鼻をつんと上げ、片手でくるくると巻かれた金髪を後ろにはらって言った。

 彼女の機嫌はまだ直っていないようだった。

 ラベナや双子とは一応同じパーティなので、同じひとつのテントを使うことになっていた。クートはもういない。

「あ、はい」

 イシュルはこくこくと、何度も頷いて答えた。

 その後、火山から離れるに従い、往路とほぼ同じ頻度で魔獣と遭遇する状況になった。

 国王派からの襲撃はまったく、妨害に類するものも一度として起きなかった。

 使節団は聖石鉱山を出発して九日目にクレンベルに到着、主神殿に続く門をくぐるとすぐに閉門の儀式が行われ、使節団の傭兵や、荷馬を扱う者以外の雑役人夫らは、神官見習いの少年たちから証文を渡されその場で解散、デシオら使節団の一行は一日休養し、翌日午後にクレンベルを出立することになった。

 閉門の儀式後、ミラ主従はラベナたちを引き連れ他の宮廷魔導師らとともに、主神殿の表側に並ぶ来訪時と同じ賓客用の館に宿泊、イシュルはマレナ婆さんの家に帰ってきた。デシオはクレンベルの主神殿の神殿長、そして大神官でもあるカルノ・バルリオレと長い会談に入った。

 その日、デシオやミラ、リバルらからは早馬が、山の下の街の方からは多数の密使が聖都に向けて放たれた。


 その日の晩はイシュルにとって、少し悲しい、寂しいものになった。

 マレナとの喜ばしい再会の間もなく、彼女に別れの話をしなければならなかったからだ。

 夕食後、またいつぞやのように声を張り上げ、長い時間をかけてマレナに聖都に行くことを話したイシュルは、最後にマレナに礼を言った。

「短い間だったけど世話になった。ありがとう、婆さん」

 ほんとにありがとう。久しぶりに家族の、昔の暖かい気分を味わえたよ。

 たとえ婆さん、あんたが元は赤の他人であったとしても。

「ほぇ、なんじゃね? 坊ちゃん」

 イシュルの心のこもった感謝の言葉も、耳の悪いマレナには聞こえない。

 イシュルが苦笑するとマレナは続けた。

「坊ちゃんは大神官さまとお知り合いのえらい方みたいだから、都(みやこ)に行くのも仕方がないねぇ。わたしも寂しいけど」

 マレナはそう言って、寂しげな表情の上に小さな笑顔を浮かべてきた。

 くっ、泣くなよ。

 イシュルはぐっと息を止めた。

 イシュルはぷるぷると震えながら、悪魔狩りで貯めた金貨の入った壷をマレナに差し出した。

 イシュルは自分の分をひとつかみだけ取り、残りはマレナに渡すことにした。今の自分に大金は必要ない。壷の中にはまだ数十枚の金貨が入っている。一般の領民、庶民にはあまり縁のない大金である。

 ……さよなら、婆さん。

 壷をさしだしたまま、遂に下を向いてしまったイシュルの頭に、マレナの皺だらけの手が差し出された。マレナは背を伸ばしてイシュルの頭をなぜた。




 翌日、イシュルは朝早くから起き出して神殿から水をもらい、薪を補充して最後の日課を済ませると、自らの衣類や小物雑貨類をまとめ旅、いや、引っ越しの準備にかかった。

 イシュルは滞在先が突然、あるいは繁雑に変わることも考え、普段からあまり私物を増やさないようにしている。

 すべての荷物を大きめの布袋ひとつにまとめると縄で口を締め、肩に担ぎ上げ、イシュルはマレナの家を出た。

 もうマレナは神殿の方へ行っていて家にはいない。

 今日も晴れてるな。

 イシュルは神殿の下働きの者たちが住む家々と、向かいの土壁に挟まれた間から空を見上げた。

 青い空に、白い薄い雲がまばらに浮かんでいる。

 昨日ルシアからは、聖都に運ぶ荷物をなるべく早く用意して、ミラの滞在する屋敷前まで持ってくるように言われている。

 主神殿の横道に出ると道に沿って荷馬が点々と並び、デシオら聖都から来た神官、リバルら聖堂騎士団、ミラたち宮廷魔導師らの荷物を従者たちが荷馬に括り着けていた。

 イシュルは道を南に、ミラたちの宿泊した居館の方へ歩いて行った。

 出発は今日の昼過ぎだ。午前中にハンターギルドに行き、主神殿の見習い神官の少年たち、カミロやアルセニオらに別れの挨拶と同時にマレナの面倒をお願いする。そしてなんとか大神官のカルノ・バルリオレをつかまえて、彼にも滞在を許してもらったお礼と別れの挨拶をしなければならない。

 ミラたち宮廷魔導師らの館の前にも、荷馬が数頭ほど並んでいた。

「イシュルさま。お早うございます」

 その馬の影からルシアが顔を出した。

「お早う。ルシア」

 イシュルはルシアに自分の荷物を渡すと、ふと、西側に目をやった。下の街でざわつく感じがある。

 山の西側へ歩いていくと、下の神殿広場にはあの聖堂教会の金色のX字型の旗をはじめ、多くの大小の旗がはためいていた。

 クレンベルの川を挟んだ南側、ギルドの背後に聳える山の稜線には小さな砦がある。そこに駐留していた使節団の残置部隊、槍兵や弓兵、一部騎士らが、あるいは輜重隊がもう集合し、出発の準備をはじめているのかもしれない。

 イシュルは主神殿の方へ戻ろうと踵を返すと、その主神殿の前にある、昔の遺跡の円形の台上にミラとカルノの姿があった。円形に等間隔に並ぶ円柱の間から向き合って談笑するふたりが見える。

 ちょうどいい。今のうちにカルノに挨拶を済ましてしまおう。

 イシュルは彼らに近づいていった。

「やぁ、イシュル君」

「イシュルさま! お早うございます」

 カルノの方がミラより先に気づいて声をかけてきた。

 ミラはいつものイシュルに向ける満面の笑顔。少し離れてシャルカが僅かに首を縦に振ってきた。

 イシュルはミラに小さな声でお早うと答え、カルノにかるく頭を下げて言った。

「お早うございます。カルノさま」

 カルノは頷いて言った。

「聖石鉱山では大変だったみたいだね。デシオはあまり詳しく教えてくれなかったのだが、帰ってきた使節団を見てびっくりしたよ。だいぶ人数が減ってしまって」

「はい……」

 イシュルは静かに頷いた。

 デシオは当然、聖堂教会の聖地を統べるカルノに聖石鉱山で何があったか、説明しなければならなかったろう。ただ、どこまで詳細に話したかはわからないが。

「これから聖都は騒がしいことになるだろう。聖王国では何かことあるたびに、常に大小の諍いが繰り返されてきた」

 カルノは一度俯くと顔をあげて言った。

「まぁ、そんなことはよその国々でも変わらないことなんだろうが」

「……」

 今度はイシュルは無言で頷いた。

 ミラは微笑を顔に貼りつかせて黙ってカルノの話を聞いている。 

「そうだ」

 カルノは話題を変えよう、という風に笑顔になってイシュルに言った。

「ミラ・ディエラード殿に、この遺跡について話していたんだよ。この遺跡はウルク時代の頃からのものでね」

 カルノの笑顔が一瞬、深くなる。

「イシュル君がいることだしちょうどいい」

 そして急に笑顔を消し、厳しい顔つきになった。

「邪魔な者もいるがかまわん」

 カルノはちらっとミラを見て低い声で言った。

「はっ?」

 何んだ?

 ミラも唖然とした顔をしている。

 カルノは一歩後ろへ下がると突然、呪文らしきものを唱えだした。

「豊穣なる太陽神ヘレスよ、この聖なる神の座に降臨したまえ。しかしてその偉大なる力を……」

 周囲の空間が横に流れ歪んでいく。空から光が消えていく。

 狭まっていく視界。まだカルノは何事か唱えている。

「剣さま!」

 遠くでナヤルの叫ぶ声が聞こえ、尻すぼみに消えていく。

「……!……!」

 ミラが縋りついてきた。何か叫んでいるが聞こえない。

 ふと後ろを振り向くとシャルカの姿も掻き消されていく。

 周りに闇が落ちてきた。

 シャルカが消え、カルノの姿が消えた。円形の盤上以外がすべて底の知れない真っ黒な闇に覆われる。

 周囲に立ち並んでいた円柱が、ひとの姿の彫像に変わっていた。みな同じ女の像だ。

 足許の、石で組まれた円形の石盤が金色に色づきはじめた。周囲の彫像も金色に染まっていく。

 イシュルとミラ、その周囲を囲む女の彫像はそう、神殿で見る主神ヘレスの彫像だった。だが、少し違っているところがある。皆どの像も右手に大剣をかまえていた。

 これは……。

 イシュルを何度も周囲を見渡した。

 罠だ。カルノの。

 この遺跡は結界なのか、何かの魔法を生みだすある種の魔法陣……。

 主神、ヘレスの魔法陣か。

 周囲は真っ暗、ただ円形の石盤上だけが明るい。いや。足許の石盤とヘレスの彫像、ミラだけが見える、光源がわからない何かの異空間、亜空間だ。もう結界とは呼べない代物かもしれない。

 イシュルは風の精霊界、異界へ「手」を伸ばした。

 やはりだめだ。何も感じない。

 それなら……。

「!!」

 イシュルは声にならない叫び声をあげた。

 胸に手をやり掻きむしる。

 だめだ……。どんな時でも、からだの中から、心の中から湧き出るように生み出されてきた風の魔力を感じない。

 何もない! 何も感じない……。

 こんなことははじめてだ。魔封の結界にはまっても途切れなかった魔力が。

 まずいぞ。これは絶対的にまずい……。

 胸のうちを冷たいものが溢れだす。

 ミラが何事か話しかけてくるが聞こえない。

 イシュルはミラの顔を見て首を左右に振った。

 この場所ではひとの声は聞こえない。

 イシュルは呆然と辺りを見回した。

 周りを囲むヘレスの像が、一斉に剣を上に振りあげた。


 黄金のヘレス像は剣を上に振りかぶると、イシュルたちに向かって石盤を滑るようにして進んできた。

 イシュルはミラを横抱きに盤上の中心に逃れる。

 くそっ、魔法が使えない。

 からだを通して伝わってくるミラの脅え。彼女もおそらく魔法が使えない状態だ。

 唯一の救いはヘレス像が盤上の石組みの継ぎ目にそって移動し近づいてくることだ。

 だから各々の像に遠近の差が生まれる。

 どこだ、どこか……。

 イシュルは首を、腰を素早く左右に振って盤上の、ヘレス像の外側へ逃れる隙を見つけようとした。

 イシュルは自身の左側の、二体の像の動きに注目した。片方は突出し、片方はまだ外縁に近いところにいる。石組みの縁(ふち)を左右に、前に移動する二体の像。その片方が右側に移動しはじめた瞬間、イシュルはミラを抱きかかえたまま、爪先から滑り込むようにしてからだを前へ投げ出した。

 ふたつの彫像の間をぬって盤上の外側、ヘレス像の後ろ側へ飛び出る。

 やった!

 イシュルは立ち上がりミラを抱き起こした。

 ミラは力いっぱい抱きついてくる。見上げる眸がイシュルをしっかり捉えている。

 ミラは俺を信じているんだ。

 しかし、これは機械仕掛けの神、デウス・エクス・マキナ? とでもいったところだろうか。

 イシュルは後ろからヘレス像の背中を蹴り飛ばそうと近づいた。

 その時、いきなりヘレス像がくるっと百八十度回転して、イシュルに剣を振り下ろしてきた。

 確かにまるでロボットのような腕の動きだ。イシュルはミラを引きつけ横っ飛びに難を逃れた。

 他の彫像もイシュルにせまってくる。

 動きは驚くほどの早さではないが、とにかく数が多い。

 イシュルはある時は円を描くように、ある時は中心に向け直線的に、彫像の間を抜け逃げ回った。

 まずい。このままではいつか……。

 イシュルは父の形見の剣を抜いた。父の片手剣は先端から三分の一ほどが折れてなくなっている。

 ミラはあっという顔をしている。

 イシュルは首を左右に振り、隙を見つけては迫り来るヘレス像の間を駆け抜けた。

 

「……、……」

 息が荒い、自分で息を吐く感覚はあっても「はぁ、はぁ」という音は聞こえてこない。

 イシュルとミラはとうとう盤上の左隅、北西側に追いつめられようとしていた。

 くっ。

 イシュルの正面に迫ったヘレス像が剣を振り下ろす。イシュルは自身の剣で受けとめた。

 高い金属音とともに鋭く火花が散る。ミラを離し、すぐに両手で柄を握って剣をささえる。

 さすがに凄い力だ。

 万事休すか。後は盤上の外に飛び降りるしかない。

 だが、おそらくそれは死に直結する。暗闇の底は奈落にほかならない。本能が、いや、それは間違いない。

 もうだめか……。

 ぐいぐいと押し付けてくるヘレス像の剣の重さに堪えかね、両腕ががくがくと震え出す。

 剣をすべらし逃れることができるか。だがそうすれば後ろにいるミラが真っ二つになる。

 イシュルは手許に剣をひきつけ、さらに堪えようとした。

 その時、剣の腹がどこからか光をひろった。その反射光が彫像の肩から胸に、斜めに当たると、ヘレス像のその部分が溶け落ちた。

 !!

 これだ!

 イシュルは歯を食いしばり、剣の腹をわずかに立てた。反射した光がヘレス像の頭から腕にかけて溶かしていく。ヘレス像の剣から力が抜け、剣が下に落ちた。彫像の右腕が溶け落ちたのだった。

 光の向きは……。

 南東、今の太陽の位置だ。

 そうか。そういうことか。

 イシュルは剣を天に振り上げ、剣先をまわして盤上に太陽光を振りまいた。


 溶けたヘレス像が消えていく。

 風が吹いていた。麦の穂がさらさらと鳴る。青空を大小の雲が駆けていく。

 畑の匂い……。そして広い空。

 ベルシュ村だ。俺の故郷だ。

 いつしか石盤も、辺りを覆う暗闇も、どこかに消え去っていた。

 ミラが膝立ちになってイシュルに縋りついている。

「………、………、……」

 ミラが何か話しかけてくるが聞こえない。風の音は聞こえるのに。

 やがて金色に輝く麦畑の先にひとりの女が立った。

 女の白いトーガが、風にゆるやかにはためく。

 その女は、エリスタールの貧民窟の神殿で声をかけてきた女神官、クシムで瀕死のイシュルの前に現れたあの女だった。

「………」

 女が何か話しかけてくる。だが、彼女の声も聞こえない。

 その時、新たな風が吹いた。イシュルの頬を懐かしい風が、くすぐるように吹き抜けていく。

 ああ……。

 イシュルの顔に笑みが浮かぶ。

 それは突然声になって、イシュルの口許から漏れでた。

「ヘレス、俺の」

 なぜだろう。

「俺の何が知りたい?」

 麦畑の向こうの女が、はっとした顔になった。


 すべてが消え去った。

 円形に並ぶ古びた円柱。青空に薄くたなびく雲。今日の空だ。

「ううっ……、うう」

 横で縋りつくミラが肩をふるわし泣いている。

 ……剣さま。

 ナヤルの声がこだまする。

 イシュルは片手を上げてナヤルを制した。

 背後では踞るシャルカの気配がする。

 正面には石盤の外に、カルノが立っていた。

「大神官……」

 イシュルはミラを抱く手に力を込め、カルノを睨みすえた。

「戻ってきたか。君は神に選ばれし者、ということか。……その手袋は何を隠している? 鉱山へ発つ前はしていなかった筈だ」

 カルノも一瞬、イシュルの左手を見やり、顔を上げ睨んできた。

「……」

 イシュルは無言でいる。

 カルノの背後には、荷造りをしている人夫や従者たちの姿がある。彼らはこの遺跡の石盤で何が起きたか、まったく気づいていない。

 カルノは小さく息を吐くと、独白するように話しはじめた。

「この遺跡はかつて“太陽神の座”と呼ばれていた。聖都の大聖堂地下にある“主神の間”と近いものだ」

 イシュルの眸が驚愕に見開かれる。

 なんだと……。

 “太陽神の座”と“主神の間”、確かに言い方が少し違うだけだ。

「かつて、ウルク王国の頃、この場でも魔法具が生み出されていたと言われている」

 そしてカルノは苦しげな笑みを浮かべた。

「今は朽ち果て、その力は失われしまったが。わたしはここクレンベルだけでない、この朽ちた神の座の番人、でもあるのだ」

 カルノの眸にイシュルにはわからない、何かの感慨が浮かぶ。

「イシュル君」

 カルノは笑みを消し話を続けた。

「聖都に行って、己の信じる正義を成すがよい」

「……」

 ん? なんだ? 今の言葉、カルノが言ったのか?

 何かカルノではない、違う誰かがしゃべっているような不自然な感じがした、ような気がした。

 カルノはイシュルから視線をはずし、少し俯き呟くように言った。

「これで国王派への義理は果たした」

 そしてカルノはからだを横に向け、イシュルを横目に睨んで言ってきた。

「さらばだ。少年よ」

 大神官はイシュルたちに背を向け、足早に主神殿の方へ去って行った。


 

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