太陽神の座 1



「…申し訳ない」

 イシュルはデシオに対して頭を下げた。

 隣に座っているミラもイシュルに倣うようにして頭を下げる。

「お許しください。儀典長」

 イシュルは頭を下げたまま、さらに謝罪の言葉を重ねた。

 外からは聖石神授がらみでお休みだったのか、鉱山の方から、ここ数日ほとんど聞こえなかったカン、カンと、石を砕く高い音が響いてくる。

 カハールの輸送隊が明け方に帰還の途につき、残るは昨夜の戦いで人数を減らした使節団の一隊のみ。鉱山の仕事も始まって、この集落にも普段の日常が戻ってきたかのように感じられる。

 辺りを漂う、どことなく弛緩した空気のせいか、デシオはイシュルとミラから、紅玉石の受け渡しから彼をはずした理由、肝心の昨晩の出来事、監視に遣わしたセルダの裏切りなどを聞いても、絶えず微笑を浮かべ頷き返し、怒りを表すどころか表情を曇らすことさえなかった。

 デシオはイシュルとミラの謝罪にも、鷹揚に構えて柔和な表情を崩さず、逆にデシオを排除したイシュルたちの処置に当然なことと理解を示し、はっきりと誉めてきさえした。

 だが、本物の紅玉石の持ち主、エミリア姉妹の情報が国王派に漏れていたことを話すと、さすがにデシオの面上にも、厳しい表情が現れた。そしてその話が紅玉石の片方を国王派に奪われたことまで及ぶと、その表情はより重く深いものとなった。

 イシュルが「もう片方の紅玉石は我々の方で押さえたのですが……」と前おきして、左手の手袋を取り、その甲におさまった紅玉石をデシオに見せると、彼はこれ以上はないというほどに驚愕し、その重く厳しい表情をかなぐり捨てるようにして、どこかへ吹き飛ばした。


 


 イシュルたちは、エミリアとエンドラをウーメオの舌に弔い、鉱山集落に帰ってくると、今度はセルダの埋葬に同行することになった。

 セルダの遺体は、ルシアが鉱山頭を通して手配した鉱山夫らによって、集落の西北側にある墓地に運ばれた。セルダの埋葬にはイシュルたちの他、ダナら宮廷魔導師たちも同行した。

 鉱山の西北に湖に向けて広がる見晴らしの良い傾斜地、丈の短い草に覆われた草地に墓地があった。単に石を積み上げただけのものから、彫刻された装飾のある立派な墓石のあるものまで、幾つもの墓が寂然と散在している。

 目の前に広がる小さな湖を中心とした眺望に、山から吹き下ろしてくる風が下草をなびかせる。その風はやがて、湖面に小さな波紋を描いて消えた。

 セルダを埋葬し、昨晩、セルダの治療に全力を傾注していた鉱山の神殿長が、聖堂教の聖典から弔いの祈りを捧げ、心なしか肩を落として村の方へ去っていくと、ミラやダナがセルダの墓に跪いて涙した。

 イシュルはその後ろで宮廷魔導師の男どもと並び立ち、悄然と無言でただ突っ立っていた。

 セルダ……。

 彼女の惨い死に様には複数の要因が絡まっている。正義派と国王派の政争、王子たちによる世襲争い。父親の不正、その露見による王の脅迫。

 そしてセルダのやさしい心。

 イシュルは背中を震わすミラを見やりながら、あの世のセルダに誓うように、あることを心の内に決意した。

 それはエミリアとした約束とはまた少し違ったものだった。単純にビオナートの野望を打ち砕くことだけではなかった。

 イシュルは顔を上げ、湖の方へ、風の吹く先に目をやった。イシュルたちの横で同じように並び立つシャルカにルシア、そしてネリー。ネリーだけが顔を逸らし、イシュルと同じ風の吹く方を向いていた。その横顔には厳しい表情が現れていた。

 ……そうだ。

 奇しくも俺も、ネリーと同じような顔つきをしてるに違いない。

 その顔とは怒りの顔であろう。

 ただの用心棒で済ましていいものか。

 目には目を、歯には歯を。

 少女のやさしい心につけ入り利用した国王一派に、魔法による力だけでない、より厳しい絶望をもたらすことはできないだろうか。

 ビオナートだけじゃない、国王派と王家の者たち。彼らに俺ができうる限りの、暴力だけでない、容赦ない陰謀を、破滅を仕掛けてやれないだろうか。

 この胸の奥底から沸き上がってくる、冷たい怒りを静めるにはどうしたらいいだろう。

 やつらに厳しい仕打ちを、罠を仕掛けてやれないか。

 セルダと同じ苦しみをやつらにも味あわせてやれないか。

 イシュルは一晩で己の考えを翻した。

 あの世のセルダは俺の変心を喜びはすまい。

 だが、彼女の死をそのまま捨て置いては、生き残った者も浮かばれない。

 ……ごめんよ、セルダ。

 イシュルはセルダの墓標に一瞬目をやるとすぐに踵を返し、ひとり鉱山集落の方へ戻って行った。


 昼過ぎになってデシオらが目を醒した。

 鉱山の神殿長の診察を終えると、イシュルはミラとともにデシオに三人だけの面会を申し込み、デシオからすぐに許しが出た。

 イシュルとミラは、クレンベルを出発してから昨晩、ウーメオの舌で起こったことまでを話し、デシオの裏切りを想定し彼を排除して計画を進めたことを詫びた。

 それは仕方がない、という寛容な態度を示したデシオだったが、紅玉石の片方を国王派に奪われた話を聞くと、さすがに顔を曇らせた。

「イシュル殿、それでは君の左手におさまったという紅玉石を見せてくれるかな?」

「はい」

 イシュルは左手の穴開き手袋をとると、デシオに左腕を持ち上げ、手の甲をかざして見せた。

 イシュルの左手には赤く輝くルビーが浮き出ている。

「なんと……。おお、神よ!」

 デシオは椅子から落ちるようにして床の上に跪くと、震える手でイシュルの左手に、そして石に触れた。

「王冠の紅玉石の片方は、地の神ウーメオの思し召しによりイシュルさまが所有することとなりました。もう片方はビオナートに奪われてしまいましたが、なんの問題もございません。イシュルさまはわたくしどものお味方なのですから。風神の魔法具を持つイシュルさまから、いったい誰が紅玉石を奪えるでしょうか」

 ミラが横から美しい声音で歌うように言ってくる。

「あ、ああ……」

 デシオは視線をイシュルの左手に向けたまま、まだ感動と興奮から抜け出せない。

「い、イシュル君、な、なにか変わったことはないかね? 痛みとかは大丈夫かな?」

 デシオは珍しく吃りながら、せわしなく聞いてきた。

 デシオはイシュルの左手を持ったまま、両目を見開き必死の形相で、イシュルに食いつかんばかりに身を寄せてくる。

「え? ええ、大丈夫です。手の甲に石がくっついてる硬い感覚があるだけで……」

 イシュルは思わず後ろに引き気味になって答えた。

 ミラが昨夜に言っていたが、まさか聖堂教の神官がこれほどまでの反応を示すとは。

「おお、そうですか。痛みもない、のか。魔力が流れてきたりとか……」

「デシオさま、イシュルさまは風神に続いて地神にも選ばれたのですわ、神の魔法具の所有者として。いままで何百年もの間、歴代の王や総神官長、大神官が試みて果たせなかったことをイシュルさまが成し遂げたのです」

 ミラがデシオを遮ってきた。

 デシオが呆然とミラの顔を見た。

「そうだ、その通りです……」

 デシオが夢から醒めたような顔になって、イシュルの左手からおのれの手を離し、身を引いて椅子に座り直した。

「い、イシュル殿、さきほどは失礼した。つい興奮してしまい……」

「いえ……」

 イシュルは微かに笑みを浮かべた。

 デシオの反応は仕方がないものだろう。自らの信仰する神の奇跡が目の前で起こっているのだ。教会の神官たちは上も下も皆、おそらく同じような反応を示すに違いない。

 ミラが昨晩に言っていたことはまさに、こういうことだったのだ。

「もうひとつの紅玉石をイシュルさまが手にされたなら」

 ミラは笑みを浮かべてデシオに言った。

「その時こそ、地神の魔法具がこの世に姿を現すでしょう。そしてそれはイシュルさまとひとつになるのです」

「そ、そうだな。ミラ殿。これは大変なことになりました」

 デシオが喉を鳴らす。

「聖王国、しいては聖堂教はじまって以来の一大事だ」

「ちなみに、今のところ土系統の魔法を使えるようになった、とかはないですね。紅玉石はふたつ揃わないと意味がないのでしょう」

 イシュルは笑みを浮かべたまま首を僅かに横に傾けた。

「それで、どうしましょう? 俺が聖王家の王権の象徴を奪う形になったわけですが……」

 デシオがまた喉を鳴らした。

 ミラが身を乗り出してくる。彼女がさきほどから横から歌うように言ってきたことは、まさにこのことに関する牽制のようなものだ。いや、デシオを誘導しようとしているのか。

「どうもこうもない」

 デシオは両腕を胸の前に組むと難しい顔になって言った。

「これが地神の思し召しであることは確かです。誰も異論をはさむことはできない。聖王家も、ウルトゥーロ・バリオーニさまも」

 ミラの眸に喜色が浮かぶ。

 イシュルは僅かに目を窄めてデシオを見つめた。

 デシオはミラとイシュルの顔を交互に見やりながら言った。

「国王陛下の妾腹にはまだ幼いが娘がいる。イシュル殿はその娘と結婚して聖王家に入ってもらうか、これから聖堂神学校に席をおいてもらい、神官見習いになってもらう、つまりゆくゆくは総神官長になってもらうか」

 やはりそう来るか……。

 イシュルの胸に苦いものが浮かんだ。これも昨晩、ミラが似たようなことを言ってきた。デシオのそれはより具体的な話だった。

「デシオさま」

 イシュルは何かしゃべろうとしたミラを片手を上げて制し、声を落として言った。

「聖堂教会もあなたも、俺のことを調べあげている筈だ。俺は聖王国にも、教会にも、そのどちらにも仕え、所属する気はない」

 イシュルはデシオに、露骨に鋭い視線を向けた。

「俺はなんらかの権威、権能、組織、団体のいかなる掣肘も受けたくないと考えている。俺は自身がそれを許される存在だと、自分の力で何者からも自由でいられると思っている。それは」

 イシュルはそこでいったん言葉を切って間を開ける。

「俺が風の魔法具を持っているからだ」

「……組織、団体……」

 デシオが呆然と小さく口にする。

 この世界、この中世ヨーロッパを思わせるような社会ではあまり使われない言葉かもしれない。

「儀典長、おわかりですよね」

 イシュルはデシオから視線を一瞬たりとも外さず言葉を続けた。

「俺はビオナートに対してはともかく、教会に一切の遺恨はないし、聖堂教を否定するつもりももちろんない。できれば敬虔な一教徒であり続けたいとさえ願っています」

 最後のはちょっと微妙だが……。だが、穏健で、その信仰に過激で排他的な要素がほとんどない聖堂教会のあり方は、個人的には充分に評価できるものだ。

「今の俺なら赤帝龍より強いかもしれない。赤帝龍よりも暴れられるかもしれない」

 デシオがびくっと、背をかるく後ろへそらした。

 彼は俺が何を言いたいかわかったのだろう。

「俺は聖都へ行っても、なるべく派手に暴れるようなことはしたくない、と考えています。四方五十里(スカール、三十km以上)と言われる聖都の王宮を、丸ごと一気に破壊することもできると思います。でもそんなことをすれば、国王派と関係ない人びとにも多くの人死にが出るでしょう。もちろん、ビオナートが総神官長となっても、大聖堂ごと跡形もなく消し去ったりとか、そんなことはしたくない」

「……」

 デシオの顔が緊張したものになった。脅えを見せないように堪えているところはさすが聖神官、と言ったところか。

 ただこちらは露骨な脅迫まがいのことを言いながらも、教会側で妥協できるような逃げ道も幾つか仕掛けたつもりだ。

「イシュルさまの左手に輝く紅玉石、それは神々がイシュルさまに神の魔法具を集めてみせよ、という神の思し召しだとわたしは思います」

 ミラがたまらず口を挟んできた。

「それは……。そうかもしれない」

 デシオが呆然とした顔になってミラを見つめた。

 過去にふたつ以上の神の魔法具を所持した存在は人であれ龍であれいない筈だ。

 デシオは視線をイシュルに移した。

 イシュルはそのふたつ目の神の魔法具を持つことを、神に赦された存在になったのだ。

「イシュルさまを聖王家や教会に縛りつけてしまうのは、神々の思し召しに反することになるのではないでしょうか」

 デシオがはっとした顔になった。彼の眸はイシュルとミラの間を力なく彷徨っている。

「ま、まさしくその通りだ……」

 デシオが呻くようにして言った。

 イシュルはデシオの顔を見つめながら、口許に僅かに笑みを浮かべた。

「デシオさま、俺と取り引きをしませんか」

「……取り引き?」

 デシオがイシュルを見やった。

「そうです。教会と俺とで」

「な、何を、かね」

「とりあえず今は正義派の味方をするのはもちろん、以後もこちらからは聖堂教会に対して敵対するような行動はしない、時と場合によっては力をお貸ししましょう。そのかわり、教会は俺を束縛しない、俺を教会に組み入れるようなことはしない……」

 イシュルは笑顔をつくって言った。

「なるほど」

 惚けるようにして意識をどこか遠くへやっていたデシオの眸に、力強い光が戻ってきた。

 これは政治の話なのだ。

 ヘンリクの時と同じだ。赤帝龍討伐に協力するかわりに、辺境伯の誅殺には目を瞑る——、それと同じだ。

「聖都に持ち帰って、総神官長さまとお話してください」

 国王の企みを排除した後も、状況により聖堂教会に力を貸す、と言っているのだから悪い話ではないだろう。こちらだって教会全体を敵にまわすことはできない。

 そしてイシュルはまるで商談を進めるように微笑をたたえ、身を乗り出して続けた。

「俺が片方の紅玉石を身に宿したことも隠さず、教会内外におおいに喧伝すればよろしい。ビオナートがもうひとつの紅玉石を隠し持ち、神の思し召しに反することをしていると」

 デシオが双眸を見開いた。ミラが両手を口に当て呆然とする。

 たいした事ではない。デシオでも総神官長でも、教会内の正義派幹部でもすぐにそのことを思いついたろう。これは聖王国の正義派にとっては強力な武器になる。ビオナートこそ神々の意志に背く、文字通り背教者になるわけだ。

 イシュルは自身の笑みが皮肉に歪むのを抑えることができなかった。

 政教軍の三位一体を成し遂げ、聖堂教の信仰を大義に掲げて大陸全土を掌中におさめようと狙う狂信者が、背教者の汚名を着ることになるのだ。

 これほど皮肉で滑稽なことがあろうか。

「次期総神官長候補となりそうな有力な大神官がここ数年、何名か続いて不審死をしている。それは教会内にも少なくない国王派の者が巣くっていることを示している」

 イシュルはあえてしっかりと話した。

「正義派に、聖王国の王権を象徴する紅玉石をもって地神の恩寵を受けた者がいる。ビオナートはもうひとつの紅玉石を私して、地神の思し召しに逆らっている。そのことを喧伝すれば、聖都の国王派の多くの者を離反させることができるかもしれない」

 イシュルは笑みを大きくしてデシオを見た。

 彼ら正義派の目の前には、今すぐにでも収穫できる特大の甘い果実がぶらさがっている。

 この果実をネタに国王派に大きな打撃を与えられるのなら、正義派はますます俺という存在を、地神の思し召しを否定できなくなる……。

 これは一石二鳥だ。

 だがまだ大きな問題がある。

 イシュルは真面目な顔つきになって、次の議題を口にした。

「それで、総神官長から本物の紅玉石を託された黒尖晶石所属の影働き、エミリア姉妹のことが国王派に漏れていた件ですが……」 




「お茶をお持ちしました」

 扉の向こう側からルシアのくぐもった声が聞こえてきた。

 外からは、鉱山から石を砕く音に混じってスズメやシジュウカラなど、里の小鳥のせわしなく鳴く声がする。ここ数日余裕のない日々を過ごしてきたせいか、今まで耳につくことがなかった。

 そのチチチ、ピピピと鳴く音に、ルシアが素朴な陶器のカップに茶を注ぐ音が混じる。

 今日になって周囲の空気が変わった。紅玉石をめぐる闘争が一段落し、鉱山集落に訪れた平穏。そこに今度は静かな緊張感をはらんだ冷たい空気が、底知れない静寂をともなってひっそりと忍び込んできた。

「その件に関してはわたしの方でだいたいの目星がついている」

 ルシアが扉の向こうに消えると、デシオは重く息を吐き、硬い表情で言った。

「儀典長はご存知かと思いますが」

 イシュルは再びデシオへ身を乗り出して言った。

「こういう場合にとる常套手段があります」

 デシオはしばらく呆然とイシュルの顔を見つめていたが、やがてイシュルの言ったことがわかったのか、やや顎を引いて口に出した。

「それは……」

「しばらく泳がしておくのがいいでしょう。その者の背後を探り、どういう経路でビオナートまで情報が漏れて伝わっているのかはっきりさせてから対応するか、もしいい材料があるのなら」

 イシュルはかるく笑みを浮かべて続けた。

「偽の情報を流して相手を撹乱させるのも良い」

 デシオは頷いた。

「そうですな」

 イシュルは上半身を伸ばし、背中を椅子の背に預けるとお茶をひと口つけた。

 素焼きのカップをテーブルの上に戻すと、再びデシオに話しかけた。

「以前から疑問に思っていたのですが、ふたりの王子には、実はビオナート、父親から命を狙われていることを伝えていないのですか?」

 デシオはかるく頷くと言った。

「イシュル殿の考えていることはわかります。だが、ビオナートが王子たちを失脚させようとしている、その確たる証拠となるものが存在しない」

 そしてデシオは、以前にミラがイシュルに話した、ここ数年のビオナートの行ってきた陰謀をより詳しく説明してきた。

 五名の大神官と妾腹の三男の病死に見せかけた毒殺、同じ妾腹のふたりの娘を後宮奥深くに隠し、厳重に守護していること、教会に対する活発な多数派工作、王位を争うふたりの王子たちの側近への接触と懐柔、そして今回の聖石神授での紅玉石の争奪戦……。

 イシュルはデシオの話を聞きながら、顎に手をやり何度もさすった。

 昨日のことで、大聖堂の神官見習いだった少年期にビオナートが抱いた野望、それを彼が本気で、いや全身全霊をもって取り組んでいることが明白になった。それは間違いない。

 ビオナートは聖王家の魔法具を持ち出し、黒尖晶の戦力の過半を投入してきたのだ。

「昨晩のウーメオの舌での一件は、王子たちにもいずれ知られるでしょう。それでビオナートに命を狙われていることを、彼らに信用させることができるのでは?」

 イシュルの問いにデシオが苦しげな表情になった。

「姫君が女王となる戴冠式で、“聖堂の宝冠”の紅玉石が偽物だと暴露し、総神官長となったビオナートを失脚させる策はイシュル殿、ウルトゥーロさまが考えたことです。それにはもちろん理由がある。はっきり申し上げると正義派の勢力はそれほど強いものではない。我々には影で働く者も少なく、武力もない。国王の陰謀を邪魔立てすることくらいはできるとしても、彼の野望そのものを打ち砕くことはできない、との判断が前提としてあったのです」

 デシオはそこで何か口を挟もうとしたミラを制し、話を続けた。

「イシュル殿にご助力を願ったのも、此度の聖石神授の一件に加え、我々正義派も強力な武力を得たと相手に知らしめ、王子たちの暴発を予防し、事を起こす戴冠式まで味方を守るのが目的でした」

 イシュルは頷いた。

 ミラが聖都にいるだけでいい、と言ったのは、正義派が不利な状況にあるということが前提としてあったわけだ。

「イシュルさま、そのことについては聖都に向かう道中か、当家に着いてからご説明しようと……」

 ミラが申しわけなさそうな口ぶりで言ってきた。

 イシュルはミラにも頷いて見せた。

 聖都の情勢は複雑なので後で時間をかけて説明する、という話は以前にミラから聞いている。

「ただ、イシュル殿の言われることはわかります」

 デシオがイシュルの方へ身を乗り出してきた。

「さきほどの話、イシュル殿が地神に選ばれた存在だという事実は、正義派にとって大きな力となるでしょう。我々は国王が戴冠式で罠にはまるまでじっと堪えるのではなく、攻勢に出てもいいのではないか、という考えも一理あると思います」

 イシュルはそこで小さく短く、息を吐いた。

 昨日の今日だ。眠り薬を遣われ目醒めて間もないデシオも、ミラでさえもまだ気づいていない。

「ふたりとも、肝心なことを忘れているのでは?」

 イシュルは語気鋭く、ふたりをねめつけた。

「ビオナートは昨晩、強力な戦力を投入して紅玉石を奪おうとしてきた。結果、紅玉石の片方は彼らの手に渡ってしまった。国王派は、聖堂の宝冠から紅玉石がはずされ、その片方をこちらが押さえている、ということをすでに知っています。彼らは現状では王位継承がままならない状態であることを、すでに認識しているのです。もうビオナートが戴冠式で罠に嵌ってくれるか、あまり期待できない状況になっているのです」

 ビオナートが総神官長になってふたりの王子を殺しても、自分の娘を王位につけるのは先伸ばしするのではないか。その時、空位となった王位は摂政が立つのか知らないが、正義派にあるもう片方の紅玉石、つまり俺の左手にある紅玉石を、彼は必死に奪おうとしてくるのではないか。

「!!」

「そう……ですな」

 ミラがはっとした顔をする。デシオは今日この場で何度目になるのか、肩を落として力なく頷いた。

 だが、このことにはさらに重大な問題がある。深い落とし穴があるのだ。

「ここで前の話に戻って、はっきりと確認しておかなければならないことがあります。俺が片方の紅玉石を得て、地神の魔法具を得る者となったことで、聖王国は王位継承の象徴を消失したことになります。俺は聖王家にも入らないし、聖堂教の神官にもならない。もし仮にそのいずれかになったとしても、俺の死後に地神の魔法具が、あるいはふたつの紅玉石がこの世に残るかはわからない。多分、その前に神々の認めた継承者が現れない限り、それらは地上からは消えてなくなり、地神のもとに返ることになるでしょう」

 ここでイシュルは一端言葉を切り、ミラとデシオ、ふたりに視線を向けた。

「ふたつの紅玉石は長い間、イシュルさまが現れるのを待っていたのかもしれません」

「そうかもしれないな」

 イシュルは他人事のように言うと、無言で頷くデシオに目を向けた。

「聖堂教会は大陸のすべての国々、信徒に向けて、王権の象徴を、神々に選ばれた人物を通じて地神に返還した、と宣言すればいいのです」

「うむ……、それが最も良い落としどころかもしれないな」

「ただ」

 イシュルはそこで最も言いたかったことを口にした。

「ただ、その時点で紅玉石は神々の領域に移り、聖王家の王権とは関係がなくなります」

「それは……つまり」

 デシオが目をむいて言葉を失った。

 横でミラが息を飲むのが伝わってくる。

「つまり紅玉石は、正義派と国王派の争点から外れることになるのです」

 紅玉石が王権の象徴でなくなれば、両派が紅玉石を奪い合う意味はなくなる。

 紅玉石のあるなしに関わらず、戴冠式も執り行われることになる。

 イシュルはデシオにミラに、いや、聖王国と聖堂教会の相争うすべての者たちに、とどめをさすように言った。


 鉱山から鳴り響く硬く高い音、耳をくすぐる小鳥のさえずり……。

 誰も喋らない静かな一室。さきほどまでデシオたちが寝ていた部屋だ。そこにふたつの音のコントラストが奇妙な静寂をつくりだしている。

「ビオナートも早晩、そのことに気づくでしょう」

 イシュルが低い声でその静寂を破った。

「だが、やつとの決着がつくまで、紅玉石はあくまで王権の象徴である、とする原則はそのまま貫いた方がよろしいでしょう」

 総神官長ウルトゥーロ・バリオーニ二世の、戴冠式でビオナートを失脚させる策謀は、その成功の目算が立たない微妙な状況になってしまった。

 秋の収穫祭の前に、総神官長を決める入札(いれふだ)、聖都に在住する大神官らによる選挙が行われる。現状では国王派が優勢で、次代の総神官長は国王を引退したビオナートがなることが確実視されている。

 それを覆すにはビオナートが片方の紅玉石を私して、地神の意志をないがしろにしているとの流言を広げるのが効果的に思われるが、入札に参加する大神官たちにどれだけ効果があるかはわからない。

 聖都の宮廷や聖堂につめる、多くの貴族や神官、魔導師や役人、そして騎士団の者らには絶大な効果をもたらすかもしれないが、セルダの一件を見てもわかる通り、鍵となる人物に対してはその者が絶対に逆らえないよう、決定的な弱みを握るのがやつのやり口ではないのか。

 大神官たちもひとりひとり、セルダのような弱みを握られている可能性が高い。

 イシュルの紅玉石に関する発言に賛意を示したデシオに、イシュルはさらに気になる質問をぶつけた。

 まだまだ、確認しておきたいことがあるのだ。

「デシオさまはさきほど、エミリア姉妹のことを国王派に漏らした者に心当たりがある、と言われたが、ビオナートを戴冠式で嵌めようとする正義派の策謀も、敵方に同時に漏れてはいませんか?」

「それは大丈夫です。ウルトゥーロさまが紫尖晶の姉妹に本物の紅玉石を渡した時、他にその場にいたのは総神官長付きの神官見習いの少年たちだけだ。それは間違いない。あの子たちにはそれほどの重大事は知らされていない」

 イシュルは僅かに顎を引き、顔を俯けた。

 なるほど……、さきほどデシオが表情を曇らしたのはそれでか。

 総神官長付きの神官見習いの少年たち、彼らは総神官長の身の回りの世話をする、いわば小姓のような存在だ。

 彼らのような子どもたちの中にまで、おそらくセルダのような、何らかの弱みを握られた者がいるのだ。

 イシュルは拳を握りしめた。

 ビオナートめ。下郎が……。

「それは許せませんね。紅玉石の片方を奪われてしまったからしょうがないですが……」

 イシュルはそこで、当初は聖都入りして早々に、後宮にあるビオナートの寝所周辺を丸ごと、夜間にでも一気に潰してしまおうと考えていたことを話した。

「もし王子たちが挙兵しても俺の方で抑えます。大聖堂から盗まれた禁書は、ビオナートを殺した後にじっくり探せばよい。危険な物なら、最悪ビオナートといっしょに消し飛ばしても問題はないんでしょう?」

 皮肉な笑みを浮かべて話すイシュルに、デシオは難しい顔のまま答えた。

「禁書のことはともかく、確かに今は紅玉石の片割れが相手にいっている以上、短慮は控えていただかなければ。それに——」

「国王陛下には多くの身代わり、替え玉がおりますわ。イシュルさまが聖都入りしたら、国王ご自身はあの広大な王宮のどこか、奥深くに隠れてしまわれるでしょう」

 ミラがデシオの言を継いで言った。

「影武者か」

 イシュルがひとり言のように呟く。

「かげ……」

「武者ではないが、まぁ、そういう意味ですな」

 影武者、もあまり使われない言葉なのか。

 それはともかく。

「なら、入札の時でしょうか。どうしても影武者を立てられない、本人が面前に出なければならない時を狙う」

 イシュルは獰猛な笑みを浮かべて続けた。

「殺しはしませんよ。手足を折って動けなくさせて拘束、紅玉石や禁書のありかを吐くまで拷問すればいい。やつの遣うどんな魔法もすべて防ぐ自信はある。拷問する者には神官の中から論客を選び、ビオナートの理想を散々にたたき潰してやれば良い。やつの心を折るにはそのやり方がいいでしょう」

 俺から見てさえ、やつの理想には聖堂教の神学上の裏付けが乏しいように思える。やつの目的には私欲が充溢している。やつの目的のためにとる手段は汚濁にまみれている。

「ふふ……。それならわたしも拷問に加わって良いかな?」

 デシオが笑みを浮かべ、冗談ともとれないような口ぶりで言った。

「デシオさま」

 ミラが真剣な表情をデシオに向ける。

 デシオがミラに目をやり、笑いを消すとひとつ頷いてイシュルに顔を向けた。

「ビオナートが総神官長となる時、かならず本人が行わなければならない重要な儀式があります」

 ミラもイシュルに視線を向けて頷いてきた。

 デシオが続ける。

「それは大聖堂地下深く、主神の間にて、新たな総神官長が太陽神に就任の言上をする、“聖冠の儀”です」




 デシオら神官が滞在する家から出ると、ミラは再び、シャルカや側の者を遠ざけ、ひとの少なくなった鉱山集落の一画にイシュルを誘った。

 ミラはイシュルの手を引き、昨晩と同様、家々の間に樫の木の立つ木陰にイシュルを誘(いざな)った。

「イシュルさま」

 ミラの眸がイシュルの面上を彷徨う。

 また俺は彼女に何か心配をかけているのだろうか。

「ミラ、今日はもう休んだ方がいい。ナヤルには引き続き辺りを見張らせている。少しゆっくりした方がいいよ」

 昨日の今日だ。セルダの埋葬に立ち会い、デシオが目覚めるまで多少の休息はとれたろうが、他の者と同様、彼女も相当疲れている筈である。

 ミラの華やかな容姿は相変わらずだが、目の下に微かにくまができ、自慢の巻き毛も少しくたびれている。

「ありがとうございます、イシュルさま。でも違うのです」

 ミラは昨晩のように、しっとりとした光の揺らぐ眸で見つめてくる。

 ん? と微かに首を横に傾けたイシュルに、ミラは言葉を続けた。

「イシュルさまはほんとにやさしい方。素晴らしい方です。さきほどのデシオさまとのお話で、今までとはご様子が違ったように感じられましたが、それはセルダに情けをかけられたからではないでしょうか」

 ミラが苦しげな表情になる。

「セルダの危難に気づけなかったわたくしが申すのもなんですが、セルダは伯爵家の嫡女です。父の不正をビオナートから指摘され脅された時点で、父親を切り捨て、まずは自身と母と妹の身の安全を図るべきでした。それは伯爵家の血筋が絶えぬようにすることでもあります。バルディ家ならわたくしが力を貸さずとも、国外にも伝手はあったでしょう」

 ミラの眸にうっすらと涙が浮かぶ。

「セルダは選択を誤ったのですわ。たとえ廃爵になろうと、安息を得る道を選んで生きていてさえくれれば、後は当家の力でどうにかできたのに」

 ミラは苦しげに、それでも言い切った。

 彼女の苦しみはより大きなものだろう。彼女の本当の想いはまた別のところにある筈だ。

「ミラ」

 イシュルは彼女の頬に手を伸ばした。

「俺は大丈夫だ。今まで家族の惨い死にも堪えてきたんだ。怒りと憎しみに囚われればどうなってしまうか、少しはわかっているつもりだ」

 神の魔法具を得ようと、たとえ天地をひっくり返すような力を得ようと。

 魔法具の万能に身を委ね切ってしまえば。

 ……人らしくあれ。

 怒りと憎しみに染まり切ってしまうこと、それは俺にとって魔法具に囚われ堕ちていくことと同じだ。

 力と知識を得るために、自らの一族の末の子どもを、なんの躊躇もなく殺そうとした森の魔女レーネ。あの年老いた魔女の妄執はいつから、どこからはじまったのだろうか。

「だがこの怒りと悲しみを忘れることは許されない。俺は俺の思う正義を成す。それにかわりはない」

 ミラの眸が見開かれる。

 ミラはデシオとの話し合いの過程で、俺の心の中を渦巻く冷たい怒りに気づいたのだろう。

 彼女は俺が憎しみの陥穽に落ちることを恐れ、そこから引き上げようとしてくれたのだ。

 ミラの頬に指先をそっと這わす。

 ……聡明な少女だ。

 指先の動きに、彼女の唇が微かに開かれる。

 ミラの眸に映る俺の影が揺れている。

 そしてこの美貌そのままに、俺にとっては美しく、やさしい心の持ち主だ。

「ありがとう、ミラ」

 イシュルは微笑んだ。

 

 

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