安らかなれ、彼の者の魂よ、聖なる地よ 3



 僅かな光を浴びて微かに光る銀製の腕輪。

 腕輪には唐草の繊細な彫刻がなされているようだ。

 ミラは、セルダからイシュルさまに受け取って欲しいとお願いされた、と言って、懐から疾き風の魔法具を出して、イシュルの前に差し出してきた。

「セルダの持っていた火の魔法具はバルディ家に渡します。この腕輪はイシュルさまに、ご迷惑をおかけしたから、と」

 イシュルはミラから腕輪を受け取り、視線を落としてその魔法具を見つめた。

 腕輪は女もので、小さくて自分の手首には入らない。

「セルダは一人っ子なのか?」

「いえ、リアムという名の妹がひとりおります」

 ミラは少し俯き顔を曇らせた。

「それがまだ七歳なのです。わたくしもよく可愛がっておりましたの……」 

 ふむ。

 ……今晩のあの戦いで、同じ加速の魔法具を使ったエンドラに化けていたセルダと、ネリーのやり合い、あれを垣間見てわかったことがある。ネリーは剣の技術はもちろん、からだの動きの早さでもセルダをかるく凌駕していた。当然といえば当然だが、加速の魔法具は常日頃から武術、体術を学び、鍛えられた肉体を持つ者が使ってこそ、本来の力を発揮するものなのだ。

 セルダがクレンベルで加速の魔法を使って見せた時、少し不自然な挙動に見えたのは、彼女が魔導師であり、魔術の修練は積んでいても武術を本格的に学んでいなかったため、加速の魔法具を充分に使いこなせていなかったからではないだろうか。

 それなら俺も、セルダほどではなくても、加速の魔法具の力を充分に引き出すことはできないだろう。俺が加速の魔法具を使っても、結局ネリーやルシアには及ばないだろう。

 リフィアほどではなくとも、それなりに強力な武神の魔法具を持てるのであれば、話は変わってくるのだろうが、今はまだ、無理して加速の魔法具を手に入れる必要はないように思える。

 それにセルダの残された妹には、この後、ピルサとピューリのような、貴族の生活とはかけ離れた厳しい生活が待っているかもしれない。

 イシュルは銀の腕輪をミラに返して言った。

「これはセルダの妹さんか、母君に渡した方がいいだろう。残念ながらセルダの父君の行く末には厳しいものがあるだろうから、当人にではなく、家族に渡しておいた方がいいだろう」

 ミラは腕輪を受け取ると、イシュルをじっと無言で見つめてくる。

「バルディ家の女子供は、ディエラード家で守ってやるしかないな」

「はい」

 ミラは眸に僅かに力を込め、しっかり頷いた。

「それで……」

 イシュルは顎に手をやり考える風にして言った。

「明日のいつ頃かわからないが、儀典長が目覚めたらいろいろと話さなければならないことがある」

 ミラは黙って頷く。

「まず、俺の方で今晩の顛末を報告し、彼に謝らなければならない」

 国王派はデシオらを殺さなかったが、それは彼が聖石神授の儀典長であり、総神官長であるウルトゥーロ・バリオーニ二世の秘書役を務める聖神官だからだ。そんな身分のデシオを殺してしまえば、国王派が後々政治的に被る打撃は決して小さなものではないだろう。今夜の熾烈な紅玉石の奪い合いとは、また別の次元の話と言えるかもしれない。

 彼が殺されなかったのは国王派に内通してるから、などと理由づけする意味もなくなった。むしろセルダたちが“眠らせて拘束した”ことで、国王派は国王派で、彼がウーメオの舌にしゃしゃり出てくるのを嫌っていた、ということになる。デシオが現地にいれば、国王派も攻撃方法を変えてきたかもしれない。

 デシオが正義派を裏切っていなかったことが、ほぼ確実になったのである。

「そのことに関してはわたくしからもデシオさまに謝罪いたしましょう」

 ミラはそこでイシュルの腕に手をそえてきた。

「でも、イシュルさまの見立てと対処の仕方は、少しも間違ってはおりませんわ」

 ミラは前にも言ったことを再び、力を込めて言ってきた。

 はは。まぁ、いつもいろいろ庇ってくれるのはうれしいんだが……。

「ああ、ありがとう。……それから三人で、これからのこと、聖都に着いてからどうするか、簡単に話し合っておかねばならないと思う」

 イシュルは間をあけ、双眸に力を込めて言った。

「総神官長の側近くいるらしい、内通者を割り出さねばならない」

「はい」

 ミラもイシュルの強い視線を受けてしっかりと返事をした。

 だがイシュルはそう言いながらも、自分にできることはあまりないな、と考えていた。

 ディエラード家をはじめ、さきほど聞いたリバル・アビスカの話でも明らかなように、聖都に居住する貴族や神官らは自家存続のために、一族の者の支持を各派に分散させている。その従来の派閥に加えて、さらに出身や所属、門地、閨閥などが複雑に絡んでくるのである。

 よそ者のイシュルにとって聖都の勢力図は複雑怪奇、教会内部の大神官や聖神官らの派閥の色分けさえまったくわからない。

 そこら辺のことは後々ミラからレクチヤーを受けるとしても、彼らの政治抗争に首を突っ込むことはとてもできないだろう。

 ミラははじめ、俺にただ聖都に来て、ディエラード家にでん、と構えていてくれさえすればいい、と言ったのだ。やはり俺は正義派の“用心棒”として、何かことがあれば表に出るようする、そういうことになるのではないか。

 ただ、黒尖晶だけは早急に潰してしまった方がいいだろう。今夜の戦いで黒尖晶の長(おさ)をはじめ、相当数の影働きの者たちを始末した筈である。その数はやつらの過半に及ぶだろう。

 おそらく残りはもう、たまたま他の任務についていたり、国王本人の護衛についていた者くらいしかいないのではないか。

 黒尖晶の聖堂がどこにあるのか、そんなものはないのか、よく知らないが、それを明日にでもミラやデシオから聞き出して、聖都に乗り込み次第、潰してしまうのが肝要だ……。

「イシュルさま?」

 ミラが首を可愛らしく傾け声をかけてくる。

「ああ、ごめん」

「でも、イシュルさま」

 あたふたと答えたイシュルにミラが微笑んでくる。

「なに?」

「神々とイシュルさまのお話は、デシオさまにも、誰にも話せませんでしょう?」

「あ、ああ。ただ左手の紅玉石のことは話さないわけにはいかないが」

 聖堂教会、聖王国にとって、このことはとても重要な問題である。王権の象徴的存在が、今や俺の左手の甲にはまってしまっているのだ。

 もし、教会の方で俺の手を切り落す、などという話になったら、もう正義派も国王派も関係ない。さっさとビオナートを殺し、もうひとつの紅玉石の入手も一端後回しにして、聖王国を去らねばならないだろう。

「……そのことは教会でも聖王家でも問題になるかもしれませんが」

 ミラは僅かの間首を傾け、視線を宙に彷徨わしたが、すぐにイシュルに微笑みを浮かべて言った。

「何も不都合なことは起こらないでしょう。その地神の魔法具に繋がる紅玉石が、イシュルさまの左手に収まったということは、イシュルさまが地神に選ばれた存在だということを意味しているのです。風の魔法具のことに関してもそう。神々から選ばれた存在であるイシュルさまを害することができる者など、聖堂教会にはおりませんわ。ただ……」

 ミラは笑顔を引っ込め、人差し指を唇に当てて言った。

「聖堂教会はおそらく、イシュルさまに名誉大神官などのかりそめの地位を与えて、教会に縛りつけようとするでしょう」

 なんだと……。

「それはこまるな、とてもこまる。教会側の思惑は理解できるが……」

「でも、それも大丈夫ですわ。イシュルさまが教会にお話されればいいのです。他の神の魔法具、火、水、金(かね)の魔法具も入手するよう、主神から頼まれた、とでも」

「うむ……」

 そういう話はあまりしたくはないんだがな……。

「総神官長にでもそのように申し上げれば、教会はイシュルさまを束縛することができなくなります。実際に神の魔法具を持つ方の言ですから、教会としても軽く扱えません」  

 まぁ、そうだろうな。

「例えばイシュルさまが火の魔法具を求めて赤帝龍退治に行く、などとお話すれば、教会で反対する者など誰ひとりとしていないでしょう」

「それはそうかもな」

 イシュルは不承不承、といった感じで頷いた。

 もし、国王派を一掃できれば、その後教会は俺に対して露骨な懐柔策に出るかもしれない。また逆に、国王派と正義派、王子推戴派の争いが続く間は、俺の身が敵対派閥に渡る、裏切るようなら左手を切り落して、俺自身を亡き者にしようとするかもしれない。

 ミラの考えはいささか楽観的過ぎるかもしれない。

 そこら辺は留意する必要があるだろう。

 ふむ……。

「聖堂教会は俺に対して強烈な懐柔策をとってくるかもしれないな」

 イシュルは首を横に傾け、にやりと笑ってミラに言った。

「聖堂教会であれば俺でも抗しきれない、途方もない酒池肉林の罠を用意できるかもしれない」

 イシュルの“酒池肉林”のひと言に、ミラの表情がさっと変わった。

「そんな……。そんなこと、絶対させませんわ」

 ミラは顎を引き、低い、冷たい声で言い放った。

 はは。ほとんど冗談なんだが。

 こういう話になると、ミラが危機感を丸出しにして、断然やる気を出してくるのはどうなんだろうか……。

 イシュルはミラの顔を見て、その殺気にぶるっとからだを震わせた。冗談だから、などとはとても口に出せなかった。

 

 

 イシュルはミラとともにデシオらの滞在している家に戻ると、セルダの全身が白い布で覆われていた。

 彼女が着けていた、神官のものとよく似ている白いマントが彼女の遺体に巻かれていた。

「セルダは集落の西北にある墓地に埋葬します」

 ミラがイシュルに言った。

 ミラの説明では、石壁に囲われた鉱山奴隷の獄舎の先、内輪山西側の湖を望む高台にここフラージの聖石鉱山で亡くなった人びとの墓地があるのだという。ただ、その墓地に埋葬されるのは鉱山に常駐する神官や騎士団の平騎士以上の者、鉱山職人などに限られるということだった。

 鉱山奴隷や下働きの者の遺体は火葬された後、わざわざカハールまで運びだされ、聖地での埋葬は許されていない。

「エミリアとエンドラの遺体は俺の独断で埋葬させてもらうが」

 イシュルが視線をきつくして言うと、ミラはこくこくと頷いた。

「はい、それはイシュルさまの思いどおりに」

「ね、ね、イシュル、これからどうするの」

「エミリアの妹さん、運ぶの?」

 部屋の端にぼうっと立っていたピューリとピルサが声をかけてきた。

「エンドラを連れていくのは後だ。その前にやってしまいたいことがある」

 イシュルがかるく説明しようとすると、外の扉が開かれ、ラベナが顔を出した。

「ここにいたのね」

 ラベナはイシュルを見、双子に顔を向けると言った。

 ラベナの背後にクートと、もうひとり男の影がある。

「やあ、エンドラの護衛をしていたわしらと同じ紫の者がひとり、生きておったわ」

 クートが中に入ってくると、うれしそうな声で言った。

 クートに続いて、左腕を布でつった若い男が入ってきた。

 男はまだ二十歳前くらい、イシュルよりちょっと年上くらいだ。

 男はイシュルやミラにかるく頭を下げると、名をビルドと名乗り、エンドラとは別の、もうひとつの紫尖晶の影働きで構成された傭兵パーティに所属していた、と自己紹介した。

 腕の傷は刀傷で、滞在していた家に国王派の影働きがいきなり侵入、乱戦になり、腕に斬りつけられた時に腰を無理に捻ってそのまま床に倒れ込み、痛みに呻吟している間に他の者はすべて殺され、国王派の影働きは早々に退いて行ったという。

「黒尖晶じゃの。やつらが近づいてくる気配がまったく読めなかったそうじゃ」

 クートがビルドのパーティが襲われた時の説明をした。

「まぁ、ひとりでも生き残りがいてよかった」

 イシュルは小さくひとり言のように言うと、ミラに顔を向け言った。

「みな揃ってちょうどいい。ミラ、申し訳ないが奥の部屋にいるリバルに頼みたいことがあるんだ」

 イシュルはどこか苦しそうな、複雑な笑みを浮かべた。

「あと、鉱山頭を呼んでもらえないだろうか。集落の者たち、雑役人夫らに国王派の影働きが残っていないか調べたい。もし残っていたら」

 イシュルは笑みを引っ込め、機嫌の悪そうな顔になって言った。

「すべて始末する」



 日の出とともに、鉱山集落を輸送隊がカハールへ向けて出発して行った。幾分減ったように見える騎士団の徒歩兵、傭兵のパーティにいたっては半減している。隊列は来た時と同じ、集落の北門から姿を消した。

 聖地を去る彼らを尻目に、広場にはクレンベルから来た雑役人夫や、鉱山で働く下働きの者が集められていた。雑役人夫の横には、大小の荷も集め並べられている。

 彼らは、クレンベルへ帰還する使節団も予定どおり本日出発する、その準備を行う、という仮の名目のもとに集められた。

「これから、使節団の安全を確保するため、各自の荷物、身に着けているものの検分を行う」

 リバルが軍人らしい、力のこもった大きな声で言った。

 人夫や下働きの者たちからざわめきが上がる。

 リバルの横には鉱山頭、少し離れてイシュルも立っていた。

 荷物の検査にはラベナと双子、下働きの女中の身体検査にはネリーとルシアが、男ばかりの人夫たちにはクートと、聖騎士のリバルやオラシオの従者らが検査する。

 イシュルとナヤルは、集められた者たちに影働きの者がいた場合、その者が逃げようとしたり、抵抗しようとした場合に、いち早く始末する役目を負っていた。

 ナヤルはイシュルにだけかろうじてわかる程度に、ほんの微かに姿を見せて広場の中央に浮いている。

「まず、男も女も、両腕の袖を肘のあたりまでまくり上げてくれないか」

 周囲のざわめきが止むと、今度はイシュルが声を張り上げて言った。

 イシュルが言うと、再び小さなざわめきが起こる。イシュルは唇を噛み締めた。

 この身体検査と持ち物検査をリバルらに提案し、実行を依頼したのはイシュル本人だった。

 リバルも鉱山頭も、イシュルの要請に何の疑義もはさまず了承し、事を進めた。彼らは兵士や鉱山奴隷らを、普段から監督する立場にいる者だ。このような事は日常茶飯事、手慣れたものなのだろう。

 だが自ら提案して起きながらイシュルには抵抗があった。嫌な仕事だった。

 自分が権力側にいるような気がするから、劇中でこんなことをするのは大抵悪役がやることと相場が決まっているから、などと青臭い感慨を抱いたりはしない、そのつもりであるが、やはりどこか弱い者虐めをしているような後ろめたさを感じる。やっていることは敗残兵、残党狩りの一面もある。しかし、これはクレンベルへ帰還するにあたって、自身も含め、正義派の者たちの安全を確保するために欠かすことのできない、やらなければいけないことなのだ。

 目的は彼らの中に紛れ込んだ国王派の影働きの炙りだしだから、荷駄類はともかく、広場に集まった者たちすべての身体検査をする必要はない。

 最前列に並んだ者たちが袖をまくり、腕に魔法陣らしき刺青がほどこされていないかあらため、身につけているナイフなどの刃物類を調べはじめると、早速、動きだす者が現れた。

 鉱山に住み込みで働いていた女の使用人がひとり、突如身を翻して山側の鉱山の方へ駆け出した。同時に雑役人夫の集団の真ん中あたりで、隠れ身の魔法の細長い光が煌めき、ひとりの人夫の姿が消えた。消えたと思った瞬間、隣の男のすぐ横に現れ、その男を突き飛ばして死角ぎりぎりのところから、前に立つイシュルに向けてナイフを投げつけてきた。

 こちらの視点を惑わすやり口だ。

 早見の魔法の起動と同時、イシュルは異界から風の魔力の壁を自身の前に降ろした。早見の魔法を切るとイシュルの鼻先にナイフが空中で止まった。

 ナイフを投げた男はその直後に真っ赤に染まり、もの凄い早さでまだ暗さが残る空へ吹き飛んだ。

 逃げ出した下働きの女も同じように全身を真っ赤に染め、次の瞬間には姿を消した。

 男はイシュルが、女はナヤルが始末した。鉱山集落の上空に、不自然な風の吹き荒れる音が響いた。

「みーつけた」

 最後のひとりは双子があげた素っ頓狂な声だった。

 ピルサとピューリが、荷駄の中から木製の皿などが入れられた麻袋を取り出し、複数の皿の間から黒い仮面をひとつ見つけ出した。

 双子のどちらかが、黒い仮面を持って上にあげ、ひらひらと振ってみせた。

 それは精霊神の隠れ身の魔法具だった。

「あの麻袋を荷駄に入れたのは誰だ」

 リバルが視線を人夫たちに向け鋭い声で言った。

 数人の人夫たちの視線が、列の後ろの方にいた男に集まる。

 その瞬間、その男は異様な脚力でからだひとつ分ほども上に跳躍し、小さなナイフを数本同時に投げつけてきた。イシュルは自身とリバルや鉱山頭に向けられたナイフを、風の魔力の壁を横に展開して防ぎ、後方に宙返りして逃れようとする男をそのまま背後の山へ吹き飛ばした。

 鉱山の露天掘りされた岩肌にぼっ、と小さな煙が立ち上った。

 

 国王派の残党狩りが終わった。

 リバルが眉ひとつ動かさず平然と、一同に使節団の出発が急遽延期されることになった旨を伝え、鉱山頭が雑役人夫や下働きの者たち、広場に集まった者たちに解散を命じると、イシュルはリバルと鉱山頭にかるく頭を下げ、踵を返し広場の外へ、エンドラの遺体が安置された、女の傭兵たちが宿泊していた家へ向かった。

 むすっとした顔で歩くイシュルに、背後で成り行きを見ていた宮廷魔導師たちが近づき、声をかけてきた。

「これで帰りも安心、ってところかしら」

 ダナがイシュルに近づいてきて言った。

 ダナの後ろにいるふたりの男の宮廷魔導師も、「素晴らしい」「これがイヴェダの剣の力か」などと話している。

「近くで見たのははじめてだけど、相変わらず恐ろしいほどの手際の良さね。血一滴も残さずにすべて消して去ってしまうなんて。わたしではとてもできないわ」

 それはそうだろう。ナヤルや俺がやってるんだ。そうおいそれと簡単に同じことをやられたら、こちらの立つ瀬がない。

「……」

 イシュルは表情を変えず、ただ無言で頷いただけだった。

「昨日の大魔法といい、まったく隙がないわね……。あら、その左手、どうしたの?」

 ダナが穴開き手袋をしているイシュルの左手に気づき、指をさして聞いてきた。

「いや、これはちょっと……」

 いずれ知れることだが、今ここで騒ぎになるのは避けた方がいい。

「怪我でもしたの?」

 首をひねるダナに、イシュルは曖昧な笑みを浮かべやり過ごした。

 彼らの前を通り過ぎたイシュルに、ミラが後ろからついてきた。

「イシュルさま、ご苦労さまです」

 ミラはイシュルの横に並ぶと言った。

「人夫たちの検分を、クレンベルを出発する時にやってしまえば良かったですわね」

 それはどうだろうか。確かに出発する時は思いつきもしなかったが、今はリバルが騎士団長代理となっているから難なく実行に移せたのである。国王派のバスアルでは、たとえミラとデシオが押しても許可を出したかわからない。やつは頑強に抵抗したかもしれない。

 それに、あれだけの人数が紛れ込んでいたのだ。出発時にやっていたら、収拾不能な混乱状態になっていたのではないか。

「それはどうかな」

 イシュルは、出発時に行っていたら大変なことになっていたろう、とミラに自分の考えを話し、立ち止まってあらためて彼女の顔を見つめた。

「俺はこういうやり方はあまり好きじゃないんだ。だが昨晩のことを考えれば、もう四の五の言ってられない。クレンベルに帰還するまで正義派の安全を確保するためには仕方がない、と思ってやったんだ」

「すいません、イシュルさま。わたくしがいたらないばかりに」

 ミラが俯く。

 だが彼女だけを責めるわけにはいかない。ミラは公爵家の娘で宮廷魔導師だが、まだ歳は十六、前世の記憶と意識を持って生まれた俺とは違う。

「それはしょうがない。俺も国王派がここまでやってくるとは思っていなかった。見通しが甘かったのは俺も同じだよ。ただ、これからはもっと厳しく事に当たらないといけない」

 権威を背負い、権力を奮う者たちの権謀術数には容赦ないものがある。辺境伯もそうだったではないか。目の前で領民を想う理想を真摯に語っておきながら、裏では俺を殺すための罠をしっかり用意していた。

 彼らの土俵で戦うのはよろしくない。俺の力を奮う場ではないのだ。彼らをこちらに引っ張り出さなければならない。

 それはまだ歳若いミラにとっても同じだ。彼女も宮廷での権謀術数には不慣れだろう。

 今回の彼女のミスは明らかに経験不足からくるものだ。

 でもそんな事とは別に、ミラにはすばらしい資質がある。彼女はセルダのこともあるのに気丈に振るまっている。そして明け方に彼女が言ってくれたこと。それは俺にとってとても大切な言葉だ。

 イシュルはミラの両肩に手を置き言った。

「挫けちゃだめだ。これからも頑張ろう、いっしょに」

「……はい。イシュルさま!」

 ミラが微笑む。

 彼女の顔に朝日が差した。

 長く伸びた建物の影を陽の光が断ち切っていく。

 俺だって彼女を元気づけてやりたい。

 ただ、その言葉を伝えるだけでいいんだ。

 イシュルはいつのまにか、重く沈んだ気持ちをすっかり払拭していた。




 死後硬直が起こりつつあるのか、四肢を幾分強ばらせたエンドラのからだが重い。

 イシュルはクートやラベナに手伝ってもらい、エンドラを背中におぶると、鉱山集落を抜けウーメオの舌に向かった。イシュルにはクートやラベナ、双子のパーティの面々とミラとシャルカが同行した。

 鉱山集落の門前から伸びる、朝の瑞々しい緑に囲まれた小道は、すぐに土と岩ばかりの荒涼とした風景に変わった。視界を覆う木々が無くなると、ウーメオの舌はすぐ目前にあるような近さに感じられた。その背景に広がる内輪山の山並みも同じだ。

 随分と狭い土地なのだ。

 イシュルはウーメオの舌まで真っ平らに整地された周囲を見渡しそう思った。

 背中にいるエンドラはもう体温も消え去り、ひんやりと冷たくなっている。背中から彼女に、自身の体温が奪われていくような感じがする。

 イシュルは背を丸め俯き歩きながら、この状況にふとおかしみを憶え、笑みを浮かべた。

 エンドラで三人目だ。

 なぜだか知らないが、俺は何かと女を背負うはめになる。

 マーヤにリフィア、そしてエンドラだ。

 ……エンドラはもう生きていないが。

 エンドラの冷たい重み。三人目はもう、生きてはいない。

 その時、イシュルの両目からとめどもなく涙が溢れでてきた。どうしたことか、涙をおさえることができない。

 彼女だけが死んだ後になってしまった。

 イシュルは必死で泣き声を上げそうになるのを堪えた。

 そのまま、俯きながら歩き続けた。

 

 一行がウーメオの舌に着くと、エミリアの遺体が昨日の夜のそのまま、ひとり寂しく寝かされていた。

 陽が東の山の尾根に顔を出し、眠るように横たわるエミリアの全身を照らしている。

 イシュルはエンドラを彼女の横に寝かすと、エミリアの側に落ちていた革袋を見つけ拾い上げた。

 これは聖堂教会に返さないとな。

「おお、それはもしや」

 クートが横から声をかけてくる。

「爺さん」

 イシュルはクートを睨みつけると言った。

「これは教会に返すからな」

「なんじゃ……まぁ、仕方がないかの」

 クートは周りからも睨まれると、途中から口調も台詞もあらためた。

「みな少し後ろに下がってくれ」

 イシュルは左手をそっと前に伸ばし、エミリア姉妹の遺体の横に、溶岩を砕いて穴を掘った。

 岩を砕く、高音と低音が互いに噛みつき合うような複雑な音がほんの一瞬、周囲の空気を震わした。

 イシュルは砕いた岩を空中に上げ固定し、クートとふたりで姉妹の遺体を穴に降ろした。そして空中に上げておいた無数の大小の岩をそのまま降ろし、エミリアたちの上にのせていった。

 それからイシュルは、エミリアたちを埋め大小の石で盛り上がった、その上にある適当な大きさの平たい石を選び、その石面に風の魔力を当ててふたりの名を刻んだ。風の魔法で曲線を彫り込むのが難しく、楔文字のような鋭い印象の文字が刻まれた。

 ……エミリア、エンドラよ。どうか安らかに。

 メリリャにリフィア、そしてエミリアたち。俺はクズだ。肝心なところで、大切な女(ひと)たちを守れず死なし、あるいは傷つけた。

 これからクレンベルを経由していよいよ聖都に乗り込む。エミリアとエンドラに報いるには、ビオナートを殺しやつの野望を打ち砕くしかない。

 イシュルは首を回し、ちらっとミラの顔を見た。

 彼女だけは何としても守り切らないといけない。

 ミラはイシュルの視線にすぐ気づき、眸を見開いて微かな笑みを浮かべてきた。

「どれどれ、わしは正式な神官職でもあるからの」

 クートがそう言って前に出てくる。

 クートがエミリア姉妹の墓の前に跪き、祈りを捧げようとした時だった。

「ピルサとピューリがいないな」

 ミラから視線をはずし、周囲を何気に見渡していたイシュルが言った。

「あの子たちはちょっと用事があるの。少し遅れてくるわ」

 ラベナがイシュルにそう言って、何か含みがあるのか、小さく頷いてみせた。

「ん?」

 シャルカが少し首を振った。

 視線を鉱山集落の方、きれいな半円状に切り取られた森の方へ向けていたイシュルも気づいた。

 森の中から双子が姿を現し、イシュルたちに向かって駆けてくる。 

 双子はいつものごとく手をつないで向かってきた。双子の片方、おそらくピルサか、彼女が花を一輪、片手に大事そうに捧げ持っている。

「はあはあ」

「向こうの森の中で、花を探していたの」

 この大陸でも死者やお墓に花を備える風習はある。

 双子はイシュルの前にやって来ると、一輪の菖蒲(あやめ)の花を差し出してきた。

「やっと見つけたんだよ」

 濃い紫色の花。

「アイリスか」

「あいりす?」

 イシュルが言うと、双子は同時に首をかしげた。

「いや……菖蒲の花だな。ありがとう」

 イシュルは双子に向かって微笑んだ。

 双子はエミリア姉妹のために、墓前に供える花を探してきたのだった。

 菖蒲の紫色の花びらは朝の雫に濡れ、瑞々しく光り輝いている。イシュルはその美しさに戸惑い、うろたえた。

 ピルサとピューリ、ふたりの顔は走ってきたせいか少し上気している。

 そのせいか、少女たちの顔はいつもより思いのほか、生き生きとして見えた。

 アイリスの花に負けないほどに。

 ……ありがとう。ピルサ、ピューリ。

 イシュルは菖蒲の花に目を落とした。

 エミリアとエンドラ、ふたりもこの花のように、いつまでも……。

 菖蒲の花がふたりの姿と重なった。

 イシュルは思わず双子の前に膝をつくと、ふたりをいっしょに抱きしめた。

 イシュルの肩が、細かく揺れた。


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