安らかなれ、彼の者の魂よ、聖なる地よ 2
夜空を北東に連なる山陰が、以前とはまったく違う山のように見える。
南東を囲んでいた森は姿を消した。草木の消えた岩と土だけの地表に、根本の幹だけが残った大木の変わり果てた姿が、黒い影となって浮き立って見える。
辺りは暗闇と静寂に覆われた。
多くの人びとや森の気配が消え、わずか十名足らずの、イシュルたち正義派の者だけが溶岩の岩場に残った。
地面に落ち、消えかかっていた松明をクートが拾って空に掲げる。
闇夜にただひとつ赤く燃え立つ焰(ほむら)。そのゆらめきが生き残った者たちの心を千千(ちぢ)に惑わす。
エミリアを守れず、エンドラが死んだ。俺は彼女たちを守り通すことができなかった。彼女たちの夢と希望は露と消えた。
あれは俺にとって怒りと悲しみの炎なのだ。たとえ月神によって植えつけられたものであったとしても、そうとわかっていても、この、自分の心に湧きあがるものを抑えることはできない。
神々の掌の上で悔恨と悲しみをかかえ踊り続けることになっても、だからといってその悔恨と悲しみを偽物と断じ、拭い去っていいものか。
俺はあの赤い火を忘れないだろう。
イシュルは闇夜に浮かぶ炎のゆらめきを見つめながら、ミラたちの方へ歩いていった。
「セルダの様態は?」
イシュルはミラの横に立ち、薄暗い炎の明かりに浮かぶセルダの顔を見て言った。
セルダは目を瞑り、意識を朦朧とさせているようだ。近づいてきたイシュルにも反応しない。
「……」
ミラが顔を上げ無言で首を横に振る。
「鉱山集落に戻ろう。向こうがどうなってるか心配だ」
イシュルはミラに言うと、再びセルダに視線を向けた。
「セルダは今動かすと危険かもしれないが、いっしょに連れて行こう。鉱山には神官もいる。何かまだ効果的な治療ができるかもしれない」
セルダはデシオらを眠り薬で眠らせた、と言っていた。彼らが目醒めていれば、強力な治癒魔法も施してもらえるかもしれない。
「わかりましたわ」
ミラは頷くと立ち上がり、シャルカにセルダを運ぶよう指示をだした。
次にイシュルはエミリアの亡骸(なきがら)の傍によって片膝をつき、彼女の顔を見下ろした。
「おまえの妹を連れてくるよ。しばらく待っていてくれ」
イシュルが立ち上がると、エミリアの傍にいてイシュルが話すのを聞いていたラベナとピルサ、ピューリも立ち上がった。
「エミリアのお墓、ここにつくるの?」
ピルサがイシュルに聞いてくる。
「ああ」
イシュルは短く答えた。
この場所はウーメオの舌と呼ばれる。名に“舌”とはあるが、神の名が冠せられた地であることにかわりはない。聖堂教会にとってはこの内輪山一帯は聖地なのだ。
影働きから足を洗い、善行に身を捧げようとした姉妹を葬るのに、相応しい場所と言えないだろうか。
「エミリアたちは地神に抱かれて、ここ聖地に眠るのさ」
松明の灯りに照らされてラベナが微笑む。ピルサとピューリが顔をあげてイシュルを見つめてきた。
「あ、あの……、王冠の紅玉石は、まさか、あ、あんたの手に」
ラベナの後ろにいた男が声を震わせてイシュルに聞いてきた。
暗くて人相までははっきりわからないが、三十前くらいの痩せた男だ。この男はデシオやミラが手配した聖石鉱山所属の宝石鑑定職人だろう。
「俺の方からは何も答えられないな。あまり深入りしない方がいいんじゃないか?」
イシュルは男に向かって言いながら、上着のポケットからハルンメルでしつらえた穴開き革手袋を取り出した。
そして左の手袋の革の間に差し込んであった鉄片を抜き取り、左手にはめた。紅玉石が飛び出た分、それなりの圧迫感はあるが、痛みを感じるほどではない。
「この後、誰かから聞かれたりしたら、その時は隠す必要はない。ありのままにしゃべって構わない」
イシュルは左手を握り、開き、感触を確かめながら言った。
小さな薄い鉄板を入れた穴開き革手袋は、手の甲が固定されるので指先が動かしずらく、今まであまり使っていなかった。鉄板を抜けば防御力は落ちるが指先まで問題なく動かせるし、当然、左手の紅玉石を露出したままでいるわけにもいかない。
本当は右手もした方がいいのだろうが、拳で打ち合う戦いをやるわけでもなし、何となくしないでおく。
それに手袋なんかしていたら、もうひとつの紅玉石を右手に持ったその時、左手のような不思議な一体化が起きないかもしれない……。
どうだか知らないがな。
イシュルはひとり、微かに笑みを浮かべた。そして、黒い穴開き革手袋をはめた左手を見ながら男に言った。
「下手に隠し事をすると、とんでもない目に合うかもしれないぞ」
イシュルは言い終わると一瞬だけ、男に鋭い視線を向けた。
いずれこの男は国王派から今晩何があったか、そして俺の左手にはまった紅玉石について尋問されることになるだろう。別にこちらは何も秘密にすることはない。この左手のことを隠すつもりはない。この男にはありのままにしゃべってもらって構わない。
イシュルは暗がりで誰にともなく獰猛な笑みを浮かべた。
俺の左手にある紅玉石が欲しければ、いつでも相手になってやる。
誰であろうと。
「……そう驚かさんでも」
横からクートが割り込んできた。
クートはエミリアの横に屈むと彼女に「すまんの」とひと声かけ、彼女の左腕からガントレットをはずして自身の左腕に装着した。
イシュルの張った結界は、鉱山集落の手前、数百長歩(スカル、約二〜三百メートル)あたりにまで迫っていた。
道も消え、草木もない平坦な地面を歩いて行くと、暗闇の中から、木々の密集した黒い壁がうっすらと見えてきた。木々の生い茂る壁はきれいな曲線を描いて南の方へ続いていた。
「ざわついてるな」
森の中の小道に入り、鉱山集落が近づいてくるとイシュルは小さな声で言った。
深夜にもかかわらず集落内部を多くの人が建物の外から出て、辺りを群れ、うろつくさまが感じとれた。
イシュルたちが集落の門の前まで来ると、ルシアがいちはやく武神の魔法を発動し、丸太を縦に連ねてつくられた柵を飛び越え、内側から門扉を開いた。
イシュルはルシアのからだの動き、身のこなしに注目した。
ルシアの魔法具は、加速や筋力の増強、肉体の硬化などといった事項のどれかひとつに特化したものではなく、人の運動能力全体を底上げするもののようだ。
一行が門を通り集落の中央、やや鉱山寄りにある広場の手前まで来ると、宮廷魔導師のダナ・ルビノーニがイシュルたちの前に飛び出してきた。彼女の背後の広場には複数の篝火が焚かれ、多くの人びとが集まっていた。
「ミラ!」
ダナはミラに飛びつくように近寄ると、シャルカが抱きかかえたセルダを見て呆然と立ちすくんだ。
「ごめんなさい。説明は後でちゃんとするから」
ミラはそう言うとダナの前を通り過ぎ、デシオらの滞在する神殿そばの家へ向かった。
「イシュルさん、あなたでしょ? イヴェダ神の風獄陣を張ったのは」
ダナはイシュルに顔を向けて聞いてきた。
風獄陣? あの結界はそういう名前がついているのか。
「とんでもない大業を使ってきたわね。あんな伝承でしか聞いたことのない魔法、はじめて見たわ」
ダナがぐいぐいと押すようにして、イシュルに身を寄せてくる。
うっ。
イシュルはダナの剣幕に思わず身を後ろに反らした。
ダナは集落の内か外か知らないが、どこか適当な高所から両派の戦いの様子を見ていたらしい。
他の宮廷魔導師の監視はどうしたのか。彼らといっしょに見ていたのか。
まぁ、それで国王派の影働きの襲撃に巻き込まれなかったのなら、それはそれでいいのだが。
「わたしも風の魔法を遣うのよ。素晴らしいわ。わたしもあなたたちといっしょに行けばよかった」
はぁ、そうですか。
……そう言えば、今回の聖石神授に参加した宮廷魔導師たちの中には、風の魔法使いがひとりいたんだっけか。それが彼女か。
しかしダナは「いっしょに行けばよかった」などと、遠方から見ていたせいでウーメオの舌で起こった詳細を知らないのか、随分と間の抜けたことを言ってきた。彼女は名のある風の大魔法を垣間見て、興奮しているようだった。
「イシュルさま!」
先の方からミラが振り向いて催促してくる。
「すいません、後で」
イシュルはダナにひと言ことわりを言うと、ミラを追いかけた。
イシュルたちがデシオらの滞在する家の前まで来ると、周囲にはダナと同じ宮廷魔導師の男たち、そして正騎士がひとり、扉の前に立っていた。
みなイシュルたちに話しかけたそうな素振りを見せているが、ミラの急いでいる様子やセルダの怪我を見て遠慮しているようだ。
イシュルは家の扉の前に立つ騎士にちらっと目をやった。
騎士団はすべて国王派だと聞いていた。あの襲撃に参加しなかった者もいたのか。
男の年齢は二十歳くらい、名前も知らないし話したこともないが、顔は憶えている。間違いなくクレンベルからバスアルらとともに来た、白盾騎士団所属の正騎士だ。道中おなじみの略式の鎧をつけ、マントを羽織った軽装である。
イシュルは視線を右にそらし、広場の方を見た。手前の樫の木の先からは集落の広場になっている。
木の幹と枝葉の黒い影の向こうに篝火に照らされて、広場にたむろする槍を構えた兵士や、鉱山頭配下の鉱夫たちの姿が垣間見えた。彼らからは鉱山集落内外で起こった異変に動転し、脅えている様子が伝わってくる。
「イシュル殿」
後ろからクートが声をかけてきた。
「わしらはカハールから来た他の連中がどうなったか見てくる」
イシュルがクートに振り向くと、クートの後ろからラベナや双子が目を合わせてくる。
イシュルは彼らに頷いた。
「ナヤル、たのむ。ラベナたちを守ってくれ」
……わかったわ。
耳許から頭の中へナヤルの声が響いてくる。
もう月神をはじめ神々の介入はないだろう。
しばらくは、おそらくはまた何か、神の魔法具に係るような大事が起きない限りは。
イシュルはかるく頷くと、ミラたちが開けて半開きになっている扉を開けて、デシオらの滞在する家の中へ入っていった。扉の横に立つ騎士はイシュルに何も声をかけてこなかった。イシュルも声をかけなかった。
イシュルが家の中に入ると、そこは壁際に小さなテーブルと椅子が数脚並べられ、正面奥と左側に扉がふたつある小さな控えの部屋だった。
その部屋の端の方に、床の上に薄い布が敷かれセルダが寝かせられていた。
横になったセルダにはルシアとネリーが側で控え、おそらく鉱山集落の神殿長だろう、いつからいたのか壮年の神官が背を丸め、セルダに向けて銀細工の首飾りを両手でかざし、何かの呪文らしきものを小声で唱えていた。
その首飾りからは何か光るものがセルダの方へこぼれ落ちているのがイシュルには見えた。
これが神官の使う治癒魔法か。
イシュルはじっと神官と、彼の持つ首飾りを見つめた。
何か、人体全体の働きを活性化させるような効果があるように感じられるが、つまりは間接的な対症療法のようなものであって、直接止血し、消毒し、切り裂かれた皮膚の一部を再生させて傷口を塞いだり、などという治療はできないようだ。
これではセルダの少しばかりの延命がやっと、というところだろう。
デシオはまだ目醒めていないのか。
イシュルがふたつある扉の方へ目を向けると、ルシアが立ち上がって声をかけてきた。
「主は儀典長の部屋におります。こちらです」
ルシアはそう言ってイシュルの正面にある扉を開けた。
中に入ると漆喰の壁に覆われた、横に長い奥行きのある部屋が現れた。部屋の奥にはベッドが三つ並べられ、デシオとお付きの神官が二名、ベッドに寝ている。その手前にミラとシャルカが立ったまま、正騎士らしい上背のある男としゃべっている。男はイシュルに背を向けていたが、イシュルはその男が誰かすぐにわかった。部屋の端の壁にはあの時の大盾が立てかけられていた。
「リバル・アビスカ……」
「イシュルさま」
イシュルが放心したように呟くとミラがイシュルに声をかけてきた。
「ああ、ベルシュ殿」
リバルも振り向きイシュルに声をかけてきた。そして微かに顔をほころばせて言った。
「ご活躍だったらしいな。ベルシュ殿」
イシュルはリバルのその表情を見て、顔を上向くと嘆息し、がっくりと首を落とした。
どうやらデシオの裏切りは俺の取り越し苦労、杞憂に過ぎなかったらしい。
「リバル、あんたと外の騎士、ふたりはバスアルと行動をともにしなかったのか」
イシュルの力ない問いに、リバルはちらっとミラに目をやり、頷いた。
「そうだ」
おそらくミラにも同じ質問をされたのだ。
イシュルは再びため息をつくと、ミラを見て言った。
「儀典長らの容態は?」
「大丈夫ですわ。鉱山の神殿長が自然に起きるまでそのまま安静にしておくのが良い、ということで」
「そうか」
デシオらに使われた眠り薬はそれほど危険なものではなかったらしい。この世界、この大陸においても、眠り薬とは言え使いようによっては命にかかわるものや、後遺症が残ってしまう危険な薬物もある筈だ。
イシュルは頷くとリバルに近寄り、見上げるようにして顔を向け言った。
「あんたらは国王派じゃないのか? バスアルには何と言って正義派襲撃を断ったんだ?」
リバルは無精髭の生えた顎に手をやり、視線を扉の外の方へ向けた。
「俺とオラシオはもともと集落を警備するということで、あんたらの襲撃には参加しないことが決まっていたんだ」
「オラシオとは外にいるやつか」
「そうだ」
リバルが重々しく頷く。
それはつまり……。
「バスアルはあんたらが正義派だと知っていてそれを最初から許容し、今回の襲撃からはずした、ということか」
「副団長は俺たちのことをここに到着したあたりから、正義派だと疑っていたかもしれない。だが、だとしてもそれほど積極的な方ではない、ということも感じ取っていたと思う。聖石神授に同行する騎士団の本務は、儀典長らと聖石そのものの守護だ。もとから数名を集落に残していくことは決まっていた」
リバルは自身の顎をさすりながら考え、言葉を選びながら話した。
「そんなわけで俺とオラシオが集落の警備にまわされた」
ふーむ。
イシュルは視線を厳しくしてリバルを睨んだ。
「儀典長の精霊が接触していたのはあんただったんだな」
これはどうしても本人に確認しなければならない、最も重要なことだ。
「ほう、さすが。あんたにはバレてたか」
リバルは微かに目を見開き、笑みを浮かべた。
「……」
イシュルは胸の前に腕を組み俯くと、片手をあげてこめかみの辺りを揉んだ。
別に儀典長が正義派を裏切っていたと断定していたわけではないが……。
「あんたは儀典長とどんなやりとりをしていたんだ?」
イシュルは顔を上げるとリバルに問いかけた。イシュルの顔には薄く、疲労の色が浮かんでいた。
リバルはデシオから、バスアルに国王からどんな命令、指示が出ているか、騎士団が何か危険な魔法具を持ち込んでいないか、などを聞かれ、そして正義派に内通する者を他につくれないか要請された、と答えた。
「なるほど」
イシュルは声を落として言った。
つまりデシオではなく、リバルの方が正義派に、国王派からすると敵方に内通していたわけだ。
デシオが国王派の騎士団に対して調略をかけている可能性も、もちろん最初から考慮はしていた。それに、紅玉石の受け渡しでデシオらを外したことは致命的な失敗とはいえない。デシオら教会の神官が予定どおり参加したとしても、デシオが仕切ったとしても、セルダの裏切りがあり、月神の介入があった以上、どのみち同じ結果になっていたのは確かだろう。
だが……。
「イシュルさまは間違ってなどいませんわ。すばらしいご判断、そして采配でした」
今まで何か言いたそうにしていたミラが、叫ぶように言ってきた。
はは。ミラにそう言ってもらえるのはうれしいんだが。
「あ、ありがとう、ミラ」
イシュルはミラにむかってちらっと笑みを浮かべるとすぐに引っ込め、リバルに再び質問した。
「あんたは正義派ということになるわけだが、それでいいのか? 聖都の騎士団はみな国王派で固められていると聞いていたが」
「それは心配ない。俺は表向き、反国王派としてそれほど積極的に動いているわけではないし、俺の一族には国王派の者も多い。俺を処分すればかえって敵を増やすことになりかねない。オラシオも俺とよく似た感じだな」
そしてリバルは、聖堂騎士団は聖王家の隷下におかれ、以前から国王の強い影響下にあり、全軍が国王派と見なされているが、戦(いくさ)と関係ない政(まつりごと)の事であれば、実際には騎士、兵ら各々の考えていることは皆まちまちで、かならずしも全員が国王派とは限らない、と言った。
「……」
イシュルはちらっとミラに目をやると、短く息をつき肩を落とした。
リバルの一族の主家、いわば本家は男爵家か騎士爵家か、そこらへんだろう。彼の一家、一族もミラのディエラード公爵家と同じく、一族の生き残りのために、支持者を複数の派閥に分散させているわけだ。
「儀典長らは眠り薬で眠らされ、縄でしばられ拘束されたらしいが、あんたらが介抱してくれたのか?」
イシュルは部屋の奥で眠りにつくデシオらに視線を移し言った。
「うむ」
リバルは重々しく頷いた。
朝方まで儀典長らの側に張りついて護衛する、というリバルを残して、イシュルたちは部屋の外に出た。控えの間ではまだセルダの治療が続けられていた。神官は根気よく魔法をセルダに当て続けている。
「俺はエンドラたちの滞在していた家の方を見てくる」
イシュルはセルダの方を一瞥するとシャルカを見た。
「もう国王派の襲撃はないと思うが、油断は禁物だ。広場の方は人も多い。警戒を厳重にな」
「わかった」
シャルカはいつものごとく首を縦に振り、短く答えた。
ミラはわたしも行きます、と言ってきたが、セルダがいつ息を引きとるかわからない状況だ。イシュルはセルダの側にいてやるよう、ミラに言った。
外に出てエミリアやエンドラが宿泊していた家に向かおうと広場の端を通ると、その中央部で集まっている人びとの間に、数人ほどのひとの遺体が並べられているのが見えた。
イシュルは横目で鋭い視線を向けた。
正義派の影働きの者たちの遺体だろうか。カーハルからは、エミリアたち三人の女以外にも紫尖晶の男たちの傭兵が七、八名はいた筈である。
あるいは国王派の影働きの遺体かもしれない。集落に残っていた正義派の影働きの者たちを一掃したのなら、彼らの方に死者が出ていてもおかしくはない。
イシュルは女の傭兵たちが集まって宿泊していた家の前に来ると立ち止まった。
洋漆喰、木造二階建ての家は、黒い塊となってイシュルを上から覆い潰すようにして迫ってくる。ただ今は、広場の方から漏れ伝わる明かりと屋内で灯されたランプの明かりが、家全体を薄ぼんやりと照らして、その恐ろしさをほんの少しだけ和らげていた。
イシュルは視線を左右に走らせると、僅かに眉をひそめた。
その僅かな明るさで、一階の鎧戸の内側にあるガラス窓がすべて、割れているのがわかった。
正面の扉を開けると鍵は開いていた。中に入ると梯子のような急な階段がある小さな玄関ホール、左右に扉がある。中に入ってすぐ右に小さなランプが壁に掛けられていた。
あまりひとの気配がない。
いるとしたら右か。
イシュルは右の扉を開けると奥の部屋に足を踏み入れた。
部屋の中はかなり暗かったが、椅子やテーブルが倒れ、壁は所々焼け焦げ、漆喰の壁が割れて窪んでいるのがわかった。
奥の部屋からランプの灯りがドア越しに漏れ、部屋の真ん中の方まで細く伸びている。
続き部屋の扉を開けると、壊れた家具類を端にどかした部屋の真ん中に、三人の女の遺体が並んで寝かせられていた。
脇に双子が所在なげに立っていた。
双子は同時にイシュルに振り向いた。ぼんやりとした表情のないふたつの同じ顔がイシュルを見上げてくる。
「ラベナと爺さんは?」
「エミリアの妹さんと同じパーティの男のひとたちの方へ行ったよ」
「そうか」
ナヤルに見張らせているとは言え、ちょっと不用心だな。
だがクートらは他の仲間がどうなったか、いち早く知りたいだろう。ほとんど絶望的とは言え、ひとりふたりくらいは生存者がいる可能性だってある。
イシュルは視線を三人並んだ女の遺体の一番手前、エンドラにやると、彼女の前に屈んで手を伸ばし、彼女の額をそっとなぜた。
エンドラと最初に会った時は敵どうし、彼女に殺されそうになった。二回目に会った時は味方どうし、ほんの少しだけ彼女と話すことができた。
「そして三度目は死体だ」
こんな理不尽なことがあろうか。
イシュルは顔を歪ませ苦渋に堪えた。
エンドラは背筋を真っすぐ、両手両足を自然に伸ばし、仰向けの状態で横たえられている。全身、所々に服の生地が破れ赤黒い染みが残っているが、みな丁寧に拭き取られているようで、彼女の外見から傷ましい感じは伝わってこない。ただ彼女の右腕にはめられていた黒いガントレットも、ナイフなど刃物類もすべて取り除かれていた。もちろん首に吊るされていたろう革の小袋も。
エンドラの顔もまるで眠っているかのように穏やかで、それがどうしても、姉のエミリアの面影と重なって見えた。
「エミリアの妹さん、あそこまで運ぶの?」
双子のどちらかが後ろからイシュルに声をかけてくる。
イシュルはゆっくりと立ち上がると、双子に向かって言った。
「ああ。朝になったら、俺が連れていってやる」
イシュルは少し考えるふうに首をめぐらすと双子に言った。
「じゃあ、爺さんのところに行くか。誰か生き残りがいるかもしれない」
「うん」
双子はふたり揃って返事をすると、小さく笑みを浮かべた。
そこへ家の中に数名、ひとの入ってくる気配がした。
開けっ放しの扉からミラが姿を現した。
ミラはランプの灯りにもそれとわかる蒼白の顔で言った。
「セルダが息を引き取りました」
イシュルが双子を連れてデシオらの滞在する家に戻り、中に入ると、片足と片手を失った痛々しい姿のセルダが、床に広げられた敷布の上に横たわっていた。
忍耐強く治療を続けていた鉱山の神殿長の姿は消えていた。部屋の端の椅子にネリーが瞑目し、男のようにがっしりと腕組みして座っている。彼女の姿に疲れは見えない。同じくルシアもいつもと変わらず、部屋の隅に背筋を伸ばした美しい姿勢で立っていた。
イシュルは仰向けに横たわるセルダの顔に視線を落とした。
セルダの血の気にない白い顔には、緊張が消え放心したような表情が残っていた。
それは彼女が、生前の苦悩から開放されたようにも見えた。
死んでしまった彼女のためにこれから何ができるか。
きっと、エミリア姉妹とともにセルダのことも、俺に課せられた新たな咎(とが)なのだ。
俺は彼女の苦しみを知ってしまった。しかもそれは彼女自身が引き起こしたものではなかった。
彼女は正義派を裏切ったと同時に、聖王国の政争に巻き込まれ、そのやさしさから自滅していった犠牲者でもあるのだ。
そこでミラがイシュルの傍に寄ってきた。
「イシュルさま、わたくしに少し時間をいただけますか。ふたりきりでお話がしたいのです」
ミラはイシュルの真正面に立って身を寄せ、イシュルの顔をじっと見つめて囁くように小さく、静かな声で言ってきた。
ミラは親友に裏切られ、一対の紅玉石の片方を敵方に奪われ、多くの味方の命を奪われた。
だが、それはミラだけの責任ではない。
セルダの裏切りは俺には知りようがないし、まさか予測できる筈もなく、本来なら防ぎようもないことだった。
だがたとえセルダが裏切ろうと黒尖晶が現れようと、最悪の事態は避けられるよう俺は対処したつもりだ。ナヤルが鉱山集落にあって健在であれば、国王派ができたのはセルダが儀典長らを眠らせたことくらい、黒尖晶はとてもエンドラたちを殺すことなどできなかったろう。
セルダの裏切りよりも、月の女神の露骨な介入がこの事態を招いたのだ。これが神々の計らいだというのなら、ミラたちを巻き込み正義派に損害を負わせたのはむしろ俺の方ではないか。
俺が正義派に味方しなければ、紅玉石はふたつともビオナートの手に渡り、ミラたちも殺されていたかもしれない。
だがエミリアたちが死に、紅玉石の片方を奪われた事実は頑として存在する。それは俺がこの件に関わったからではないだろうか。
聖王国の内紛、つまりは人間どもの争いに、俺は神々を引き入れてしまったのだ。
イシュルはミラの誘いに黙って頷き承諾した。
ミラの話したいこと、そして俺が話さなければならないこと。
それはきっとお互いのために、死んでいった者たちのために、そしてビオナートの野望を打ち砕くために必要なことなのだ。
イシュルはミラに誘われ外に出た。ミラはシャルカもつれてこなかった。シャルカは護衛として、眠り続けている儀典長ら聖都から来た神官たちの許に残してきている。
ミラは広場から少し離れた、家々の間に立つ大きな樫の木の下までイシュルを誘った。
広場の方からは相変わらず人びとの喧騒が聞こえてくる。広場に並べられた遺体はどうなったろうか。
予定では明日、カハールから来た輸送隊が鉱山を出発し帰路につくことになっている。広場の喧騒はその準備が始まったからなのかもしれない。近隣のウーメオの舌であんな大事件が起きたにもかかわらず、輸送隊は予定どおり出発するのだろう。
「イシュルさま」
ミラが胸が触れんばかりにイシュルに身を寄せてくる。
月は山陰に隠れ、辺りは広場から漏れ出る光がぼんやりと薄く広がっている。
ミラの眸にその光が揺らいだ。
「わたくしのせいで今夜は多くの人死にがでました」
ミラは静かな、重い口調で言った。
「紅玉石の片割れも国王派に奪われてしまいました。わたくしはすべてを甘く見ていました」
ミラは俺に強い信頼を寄せていた。信頼してくれていた。
彼女が甘く見ていた、というのは俺のことを当てにしていたからだろう。
ミラは以前、俺の秘密を話した時、「まるで神話の中にいるよう……」などと、うっとりとした顔で言ったのだ。たとえそれが夢見がちな少女の戯言であったとしても、それをぶち壊すような真似はしたくなかった。
俺は彼女の期待を裏切ったのだ。
「総神官長さまから本物の紅玉石を託された、影働きの姉妹の命が失われたこと、それもわたくしの責任ですわ」
ミラはそこで言葉を切り、間をおいた。彼女の眸に悲しみが映りこんでいる。
「イシュルさまの悲しみを思うと、わたしは……」
「それは違う」
夜闇に浮かび上がるミラの憂いを帯びた顔は、恐ろしいほどに美しい。その白い顔に一瞬、月輪を背負ったメリリャの姿が重なった。
俺はあの時のことを言わねばならない。
「ミラ、気持ちをしっかり持って聞いてほしいんだ」
ミラの両肩にそっと手を乗せる。
「きみが俺の精霊、ナヤルを呼び出した時、彼女はどこにいたと思う?」
ミラは片手を胸に当て、かるく息を吐き出した。
彼女は昂った自身の心を抑え込み、冷静になろうとしている。
そして彼女は気を落着かせると、抑制のきいた口調でしっかり答えた。
「ここ、フラージの鉱山集落で、魔封の結界に囚われたのではないでしょうか。そこから一端、精霊界に戻っていたのだと思います。だからイシュルさまの大精霊は、国王派の者たちの動きを止めることができなかったのだと思います」
確かに、誰でも同じようなことを考えるだろう。
今度はイシュルが目を瞑り、息を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
さあ、話そう。ひとに自身の秘密を打ち明ける、というのはとても勇気がいることなのだ。
「以前にミラに俺の秘密を打ち明けた時、俺は“神々に聞きたいことがある”と言った。神の魔法具を持つということは、単純に神の恩寵を受けるわけではないんだ」
思わず唾を飲み込む。
「恩寵、というより神々と何事か係わりを持つことになる、のだと思う。俺は彼らの掌に乗り、何かを演じているのかもしれない。俺のすることに彼らは時に介入してくることがある」
ミラは無言でじっと俺を見てくる。
「エミリアがエンドラに化けたセルダに刺された時、月神が動いたんだ。月の女神は」
イシュルは再び目を瞑り、天を仰いで目を開けた。
暗い空に漂う薄衣のような雲、それがゆっくり流れていく。
「月の女神はナヤルを強制的に精霊界へ帰還させ、俺がエミリアを助けられないように時を、世界を操ってきた。俺はあの時動けなかった。本来なら彼女を助けることなど簡単にできた筈なのに」
ミラの眸に動揺が走る。彼女の肩においた手からミラの震える心が伝わってくる。
「確かに俺たちは今、赤帝龍や大精霊が力をふるい、神々が姿を現す神話の世界にいる」
……ミラ。
「だがそれは救える命を、死ぬ必要がなかった者たちの命を、時に理不尽に奪うことがあるんだ」
イシュルは頭(こうべ)を垂れた。
「俺の周りではきっとこれからも多くのひとの死が、破壊と破滅が生産されていくのだ」
それを俺の力では止めることができないんだよ。
「俺は今まで家族や親類、村の者たち、多くの身近な人たちを失ってきた。俺は恐いんだ。ミラ、きみもいつか……」
「……イシュルさま」
ミラの手がイシュルの背に伸びてきた。
彼女の顔が、眸がすぐそこにある。
「それはイシュルさまの考え違いですわ」
彼女は微笑んだ。
「今夜のことも、すべての発端は、ビオナートが邪(よこしま)な野望を抱いたことからはじまったのです」
ミラは、それは神の魔法具とは何の関係もないことだ、と続けた。
「神々はイシュルさまがこの地上で何をなされるか、見ておられるのですわ。おまえの力を見せてみよ、と。そしてきっと、すべての神の魔法具を手にするのを待っておられるのです」
ミラの眸が近づいてくる。
「だからイシュルさま、わたくしはもう一度いいますわ。イシュルさまの思うまま、ご存分になされませ、と」
ミラ……。
「たとえわたしが死のうと、誰がどうなろうと、それは神々のなされることなのです」
そしてミラの眸に何かが走った。
「イシュルさまはわたしのことだって、あの影働きの姉妹のように守ってくださるのでしょう?」
ミラの腕が俺の背中から肩にまわった。
彼女の唇がそっと、一瞬だけ触れてきた。
「それだけでわたくしは幸せでございます」
ミラの眸の光が狂おしく踊り、揺らめいた。
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