安らかなれ、彼の者の魂よ、聖なる地よ 1
メリリャは何も言わない。
満月を背に宙を浮き、ただ黙って俺を見おろしている。
メリリャ……いや、メリリャじゃない。
からだの中を熱く、冷たいものが同時に駆け上がってくる。喉が乾きひりつく。
全身を裂かれるような衝撃。本能が危機感に脅えている。
とうとう月神が直接手を出してきたのだ、はっきりと。俺にも、誰にでもわかる形で。
すべてが静止した世界で、おまえだけが風を呼び、髪を、服をはためかせて無言で俺を見つめている。
月の女神、レーリア。運命を司る神。
月暈(つきがさ)が白く輝く。恐るべき光、力だ。……これは幻ではないのか。
視界が歪み、視点が切り替わる。
もうすでにエンドラの刃が、エミリアに深く突き刺さっていた。
月に照らされたエンドラの顔は双眸を見開き歯を剥き出しにして、何かに堪えるように怒り……いや、苦しみに満ちていた。
エンドラはそして、エミリアの胸元から小さな革袋を掴みあげた。
やめろ!
ああ、なぜこんなことに。
俺は何もできない。また、何もできない。
エンドラが紅玉石の隠された革袋を掴み引きちぎった、その時。
耳許を切り裂くような衝撃が走り、世界が再び切り替わった。
すべてが動き出す。
メリリャも満月も消え去った。後に残された月暈が霧散していく。
辺りを覆う叫喚。森から迫る鬼気。
夜空に無数の小さな光の粒となって消え去る魔法陣。
魔力が消える。精霊のあの領域との繋がりが断たれた。
辺りは魔封の結界で覆われた。
「エミリア!」
イシュルは叫んだ。風の魔力が消え落下しはじめる。
まだだ。まだだ!
イシュルは己のまわりに風を集めると、仰向けに倒れ込むエミリアに向かって突進した。
エンドラの全身から滲みでるように現れていた魔力が消えていく。
彼女の姿が歪み崩れていく。
エンドラは真っ白な仮面をかぶった、小柄な人物の姿に変わった。
ショートヘアの髪型、男か女かわからない。体格からするとたぶん女だ。
ミラの横にいたネリーが、素早い動きでエンドラだった人物の脇へ回り込んだ。大きく踏み込んで剣を抜き打ちざま、その者の左腕を逆袈裟に切り上げた。
エミリアに向かって突き進むイシュルの目の前に、ネリーが斬った左腕がくるくると回りながら飛んできた。
イシュルは空中でその腕を掴むと、エミリアのすぐ傍に着地した。
その腕は、エミリアが持っていた本物の紅玉石の入った革袋を掴んでいた。
「エミリア!」
ラベナが背後から叫ぶ。
腹部を血で濡らし地面に倒れ込んだエミリアの背中に、ラベナが腰をおろし左手を回し、彼女の上半身を起こした。
「エミリア! しっかりしろ」
イシュルはネリーに切り落された片腕を足許に置くと、必死の形相でエミリアに声をかけた。
まずい……。
エンドラのナイフはおそらく心臓のやや下あたりを深く突き刺さしている。なにか大きな血管を傷つけたのか、出血が激しい。
「うっ……」
エミリアが小さく呻く。まだ彼女の眸には光がある。
「エミリア!」
イシュルが吠えるように叫んだ。周りでは激しい争闘の渦が巻き起ころうとしている。
ネリーに左腕を斬り落された仮面の者が、右腕で肘から下がなくなった左腕の付け根を押さえ、苦しげに後ろへ退いていく。その代わりに、後ろに控えていたふたりの男がナイフを手に前に出てきた。
クートもナイフを取り出し、腰を落として前に出る。ネリーは剣を正眼に構え逆にミラを背に、守るように後ろへ退く。
ピルサとピューリは互いに繋いでいた手を離し、棒立ちになった見知らぬ男、おそらく鉱山に務める宝石の鑑定職人だろう——の前に出て、ナイフを構え西の森の方を窺う。ルシアとシャルカもミラを守るように森側に一歩進み出た。
魔法陣を放出した悪霊を飛ばしてきた者は、森の中で沈黙している。西の方、鉱山集落の方の森の中から、騎士団や影働きの者たちが姿を現した。
背後から数名が弓矢を引き絞る。
ウーメオの舌周辺は魔封の結界で覆われている。
この場は魔法が効かない。鎧で身を固め、剣槍に優る者が力を奮う場だ。
森から複数の矢が放たれる。同時に森から出て来た男たちが剣や槍を手に突撃してくる。
飛び道具はまずい!
イシュルがエミリアから顔を上げ、風を呼ぶ。だが間に合わない。
弓矢が向かってくる。イシュルの起こした風が虚しくその背後を吹き抜けた。
シャルカが両手を大の字に広げミラを守る。結界の影響か、シャルカの人の姿が歪み、輪郭がはっきりとしない。シャルカに当たった弓矢はキン! と鋭い音を立てて弾かれた。シャルカは見た目はひとの姿をしているが、その本体は全身魔法具の鎧である。幸い、シャルカは弓矢を弾き返した。
残りの矢がラベナと双子に向かってくる。
絶体絶命と思われたその時、ルシアが思わぬ動きを示した。メイド服の裾を翻し、恐ろしい早さで横っ飛びに弓矢を叩き落としていく。
ネリーより剣技が劣ると称していたルシアもまた、恐るべき剣の達人だった。
向かってくる男たちはイシュルの起こした風に煽られ、バランスを崩しながらも前へ進もうと動きを止めない。
魔封の結界で魔法を封じ、武力で正義派を押しつぶす、それが彼らの作戦なのだ。
森からは次々と武装した男どもが現れイシュルたちに向かってくる。
「イシュル……」
エミリアの力ない声。
「どうした?」
イシュルは右腕を森の方へ突撃してくる男たちへ向けながらエミリアに答えた。
風だ。風よ来い!
その時だった。ミラが夜空に向かって叫んだ。
「イシュルさまの精霊よ、今再びこの地に!」
懐から小さな巻紙を取りだしたミラが、結んでいた紐を解き、その巻紙を夜空に広げた。
北東に山がせり上がり、南西を森が覆う古い溶岩の地、ウーメオの舌の上空に閃光が走った。
鋭い光の瞬きとともに夜空に光球が現れ、ひとの形が浮かびあがる。
風の大精霊、ナヤルルシュク・バルトゥドシェクが現れた。
辺りを吹き荒れる風が乱れる。
風の中、イシュルは夜空を見上げた。
ナヤル!
ミラが広げた巻紙は、以前にナヤルが焼きつけ、イシュルが己の血を垂らした魔法陣だった。
彼女はあの時、魔封の結界を破るために一端精霊界に戻り、その外側に戻ってくる、と説明した。
ミラは憶えていたのだ。ミラは見事、この窮地にナヤルの魔法陣を使ったのだった。
風に煽られよろめき、千鳥足になって向かってくる国王派の男たち、そしてイシュルの周りにいる双子やラベナ、クートにネリー、すべての者が動きを止め、夜空を見上げた。
真っ黒の空に浮くナヤル、彼女の背後に長いかぎ爪を持った大きな拳のようなものが現れた。薄く輝くその大きな拳が開かれ、かぎ爪が周囲を覆う魔封の結界に突き刺さる。
「イシュル……」
イシュルも空を呆然と見上げていた。そのイシュルにエミリアが再び声をかけてくる。
「革袋を開けて……呪文を唱えて……」
「ああ」
エミリアの途切れ途切れの声に、イシュルは切り落された仮面の者の左手から、革袋をむしり取った。
「精霊神よ、生まれも知らぬ我が請う……」
イシュルがエミリアから教えられた呪文を唱えると、潰れていた革袋がふくらみ、イシュルの手に硬いものが当たる感触が伝わってきた。
「紅玉石を出して」
イシュルが頷き中から紅玉石を取り出すと、エミリアは苦しそうに身じろぎした。
冷たく硬い石の感触がイシュルの右手にある。
「次に革袋に戻す時は……イシュルが呪文を考えて」
エミリアが言った。彼女の眸にはまだ力が残っている。
「わかった」
エミリアの眸に一瞬、強い光が映り煌めいた。
イシュルはその光に導かれるように空を見上げた。
光り輝く掌はナヤルをすり抜け、その五本のかぎ爪は魔封の結界を引き裂き壊した。
遠く、そして寄り添うように近い、あの風の領域が戻ってきた。
来い!
イシュルは紅玉石と革袋を左手に持ち替え、右手を空に伸ばした。
魔封の結界が消えると同時、すべての者が再び動きだした。
双子が互いの手をつなぎ、頭上に幾つもの大きな火球を生み出した。
ミラはシャルカの背中に両手を突っ込み、柄の部分まで、すべて金属でできたハルバードを抜き出す。
ネリーとともに、仮面の者の背後にいた男たちとやり合っていたクートは、腰を降ろし地面に両手をつくと、溶岩を自身の前面にまくり上げた。
左腕を失い、苦しげにしゃがみこんでいた白い仮面の者は、魔力を煌めかすと背後へ素早く姿を消そうとする。加速の魔法だ。そこへネリーがクートの起こした岩の壁から身を翻し、同じ加速の魔法で仮面の者へ追いすがってひと太刀斬りつけた。
「くっ……」
仮面の者が小さな呻き声をあげる。
その者の右足が膝下から吹っ飛び、仮面の者は地面にもんどりうって倒れ込んだ。
「うあああああああああああああああっ」
そこへイシュルの叫び声が上がった。
大量の風の魔力を降ろそうと右腕を空に突き上げた時、イシュルの左手を激痛が走った。
手が、手が!
イシュルは全身をわなわなと震わし、右手で左手首を掴んだ。
あまりの激痛に額から脂汗が吹き出る。
万力で押しつぶされるようだ。なんで、なんでこんな時に。
手が、手が千切れ飛ぶ……。
精霊神の魔法具、革の小袋が地面に落ちる。
暗闇に冷たい光沢を沿わせた赤黒い塊、紅玉石が、イシュルの左の掌(てのひら)に吸い込まれるようにして沈んでいき、消えていこうとしていた。
「剣さま!」
ナヤルが叫びながら空から降りてくる。
「くっ……」
痛みが急速に和らいでいく。そして左手の甲に何かが当たる感触。
……なんだこれは。
イシュルは左手を夜の空にかざした。その手の甲には紅玉石が鈍く輝いていた。
双子がすべての火球をいっせいに森に向かってぶっ放し、イシュルの方へ振り向く。
「イシュルさま!」
ミラが振り上げたハルバードを降ろし、イシュルに振り向いて取り縋ってくる。
シャルカは赤く熱せられた無数の金属片をまき散らし、森の方から伸びてきたエストックの刃先を迎撃している。ルシアは剣の切っ先を下げ、双子の前に移動した。
「イシュルさん…」
自身の風の精霊を呼び、ウーメオの舌に躍り出た男たちに向かわせたラベナが、呆然とイシュルを見やった。
イシュルは左手を握りしめた。手の甲の骨に何かが当たり、皮膚が引っ張られる感触。
何が起こった?
……それでも今は。
イシュルは再び右手を夜闇にかざした。
……風神よ。風の吹くところ、すべてを我が一握に。
イシュルたちの周りに何か大きなものが降りてくる。
何かとてつもなく大きなものが地面にぶつかり、広がっていく感覚。そしてまるで時が止まったかのように、すべてのものが動きを止めた。
森の中の敵や木々に当たって、轟音を上げる双子の放った火球。
シャルカと黒尖晶の立てる硬い金属音の連続。
森からウーメオの舌に躍り出た男たちにラベナが放った精霊、ロルカが振るう風の刃。
そしてネリーと、偽者だったエンドラに付き従ってきた男たちの剣戟。
すべてが動きを止め、魔法が消え去った。
森を、山を、青く輝く風の結界が覆った。硬く、柔らかい、風が流動する厚い壁の円筒が空高く伸びていた。
イシュルたちから離れ突出していたラベナの精霊が、青く輝くベールの中で呆然と宙に浮いている。
白い仮面の者を追い、ミラから離れ戦っていたネリーの剣先が、青い結界の中に囚われている。
イシュルの周囲、半径約十長歩(スカル、約六〜七メートル)から外側が、薄く青く輝く空間で覆われていた。その外縁はどこまで達しているのか。
「お、おい。剣が動かない……」
自身の剣先をその空間に囚われたネリーのぼやく声が聞こえてくる。
「剣さま、その石……」
イシュルの頭上に降りて来たナヤルが、イシュルの左手を見て呆然と呟く。
そして顔を上げ辺りを見渡した。
「イヴェダさまの結界に似てる……」
イシュルの張った結界に囚われた国王派の者たち、彼らは死んでいない。やや苦しいながらも呼吸でき、音声も何とか伝わる。だが人力ではからだを大きく動かすことができない。そして、神の魔法具を持つイシュルを凌駕するような魔力を使えなければ、魔法は発動しない。
イシュルが敵味方が入り乱れる乱戦になった時、一気にかたをつけるために考え、夕刻に試していたのがこの結界だった。ただ単に風の魔力の密度を緩めただけでなく、人の世界と精霊の領域とで風の魔力を循環させて、結界の全域を、あるいは局所的に、自由に密度を上げ下げすることができた。
周囲からは、イシュルの張った結界に閉じ込められた者たちの呻き、叫ぶ声が微かに聞こえてくる。
「エミリア」
イシュルはラベナに抱きかかえられたエミリアに声をかけた。
エミリアは意識が薄れつつあるのか、まだ力を残していたその眸は、もう今はイシュルをはっきりと捉えていないようだ。
「……」
ラベナが空いた右手で、エミリアの額から頬をいたわるようになぜる。
「イシュル……、手を見せて」
エミリアが囁いた。
「ああ」
イシュルは左手の甲に浮き出た紅玉石をエミリアに見せた。
エミリアの表情が動いた。彼女の顔に笑顔が浮かぶ。彼女の眸に僅かに力がもどり、赤い宝石の光が映った。
「ああ、神よ……。イシュル、あなたはやっぱり神に選ばれたひと……」
イシュルは唇を噛み締めた。
それがこれか。ならなぜエミリアが死ななければならない。
俺が神に選ばれるとエミリアは死ななきゃいけないのか?
神に選ばれたんじゃない。やつらに目をつけられているんだ、俺は。
「エンドラはどこ……、エンドラを助けて。違う、……エンドラの仇を」
エミリアの顔から笑みが消えていく。
「お願い、イシュル……」
「ああ、わかった。まかせろ」
イシュルは身を乗り出してエミリアの顔に己の顔を近づけた。
「かならず、エンドラを助けてやる。仇をとってやる」
エミリアは微かに頷いた。エミリアの顔に再び笑みが浮かんでくる。眸に一瞬、明るい光が灯った。
エミリアは何を見ているのか。
彼女の眸を見つめるイシュルの視界に一瞬、ふたりの姉妹がたくさんの子どもたちと戯れる姿が映った。背景に神殿らしき建物が見えた気がした。
エミリアが見ているもの、それは……。
イシュルは歯をくいしばった。
泣くな!
悲しみはおのれの胸の中に……今は、まだ。
エミリアは笑みを浮かべ、目を瞑った。
「ありがとう……」
エミリアは最後にひと言、イシュルに囁いた。そしておそらく、意識を失った。
イシュルはエミリアの手をとり、手首の脈拍を計った。まだ弱いが脈はある。エミリアはまだ死んではいない。
「ラベナ、エミリアを頼む」
「……」
ラベナが眸に涙をためて無言で頷く。
イシュルは立ち上がると顔を上に向け、ナヤルを見た。
「何があった。ナヤル」
「剣さま……ごめんなさい、わたし」
ナヤルはイシュルの剣幕にめずらしく脅えた表情をした。
彼女がこんな顔をするのははじめてだ。
ミラの広げた魔法陣に反応して戻ってきた、ということは、彼女は鉱山集落で何か未知の結界に囚われていたのか。いや……。
イシュルはナヤルから視線をはずし、南の山陰に隠れようとしている三日月に目を向けた。
ナヤルは精霊界に戻っていたのではないだろうか。
当然、俺はそんな命令は出していない。彼女が自分の意志で戻ることも考えられない。
状況からすると、黒尖晶の魔法使いらしき男が魔封の結界を張るずっと以前から、ナヤルは鉱山集落にいなかったのではないか。
何か尋常成らざる事が起こっていたのではないだろうか。
イシュルは厳しい表情で再びナヤルに顔を向けた。
「ナヤル、後で話を聞こう」
後でふたりきりの時に、じっくり聞いた方がよい。
「わかったわ」
ナヤルが強ばった表情でうなずく。
「イシュルさま、その左手は……」
イシュルがナヤルから視線をはずすと、ミラが声をかけてきた。
ミラは縋りついたイシュルから一端離れ、その後ろに控えていた。ミラも表情を強ばらせていた。彼女は双眸を見開き驚愕した表情で、イシュルの顔と左手を交互に見やった。
イシュルは左手の甲を向けて彼女の目の前に掲げた。
「見ての通りだな、ミラ。この石を聖堂教会に戻すには多分、俺の左手を切り落とさなきゃだめだ」
「は、はい……」
一瞬、ミラは眉間に皺をよせ、厳しい表情になったが、何を考えているのか、眸をうるうると涙を滲ませ、全身を震わした。そして彼女はハルバードを胸元に引きつけ、その柄を両手で握りしめた。
「……地の魔法具の発現、歴代の王や総神官長が挑んで果たせなかったこととは、これだったのですね」
「ああ、たぶんな。もうひとつの紅玉石も俺が手にすれば」
“そが対なる紅玉をおのおの両の手に合わせば、これ必ず地神が宝具とならん”
ミラが言った、聖堂教会と聖王家に古くから伝わる言い伝え。“両の手に合わせば”とは、このことだったのだ。
おそらくもうひとつの紅玉石も、まるで人の皮膚や骨、臓器のごとく、右手の甲に癒着、密着するのだろう。つまり右手にも紅玉石が“合わさる”のだ。
イシュルは左手の甲から浮き出た赤い宝石を見つめた。そして言葉を続けた。
「その時は、地神の魔法具を手にすることができるだろう」
「ううっ、イシュルさま……」
ついにミラが声に出して泣きはじめた。
「詳しくは後だ」
イシュルは少し背を屈めると右手の指をそっとミラの眸に這わせた。こぼれ落ちた涙をぬぐってやる。
「エンドラに化けた、あの仮面のやつの正体を確かめる」
イシュルは振り返って背後を、左腕と右足をネリーに斬り落され、溶岩の上に倒れている白い仮面の者を見て言った。
ミラも顔を仮面の者の方へ向けた。
彼女の表情は当然、厳しいものになった。だが、その眸は何かの暗い予兆に、悲しみの色をたたえていた。
白い仮面の人物は、イシュルが張った青白く光る結界の中に閉じ込められていた。
イシュルには目を凝らすと夜間でも、結界の全域を魔力を帯びた風が流れているのが見てとれた。
この結界の青く薄く光るさまは、魔法使いでない者にもなんとなく見える筈だ。まるで月暈の光のように。
イシュルは、剣先を結界に取られたネリーの横に立って、右手を上げて前に押すような仕草をした。
結界の境界が外側に押され、ネリーの剣が開放される。
ネリーは「ふう」と安堵の息を吐いて、剣を鞘におさめた。ネリーと対峙していたふたりの男たちはその奥にあって、結界に閉じ込められたままだ。
結界の境界はさらに外側へと移動し、黒い岩肌に倒れこんだ仮面の人物を開放し、その先で止まった。
辺りは閉じ込められた者たちの、微かな呻吟が時折聞こえてくるだけだ。
イシュルたちの周りに、奇妙な静寂が訪れた。
イシュルが仮面の者の前に立つ。
ミラが、彼女の背後からシャルカが、イシュルの後に続いた。傍にいたネリーとクートも仮面の者に顔を向けた。
双子とラベナはエミリアを囲んで踞り、おそらく彼女の治療に当たっている。ルシアはひとり森の方を向き、周囲の警戒をやめていない。ナヤルは空高くにいて、イシュルの結界から伸びる青い光を下から浴び、まるで夜の海を泳ぐように浮遊している。
イシュルは腰からナイフを引き抜くと、微かに呻き声をあげる仮面の人物に取りつき、その白い仮面の側面から伸びる結び紐を切り落とした。
イシュルが仮面を剥ぎ取ると、苦悶に喘ぐセルダの顔が現れた。
「……!」
ネリーやクートからは息を飲む驚きが伝わってきた。
「セルダ、どうして……」
ミラは仮面の者がセルダだとすでに気づいていたのだろう。怒りよりも悲しみに沈んだ声をあげた。
やはりか。
イシュルは無言で、心の中で呻いた。
セルダの服装はブーツにややタイトなズボン、首もとを紐で縛ったシャツにベスト、そしてやや小さめのマントと、エンドラと同じような標準的なハンター、賞金稼ぎの格好をしている。それでもそのショートヘアに小柄な体格から、夜間でも、混乱の最中にあっても、もしや、と思わせるものがあった。
仮面を剥ぎ取られたセルダは汗を浮かべた苦しげな顔に、それでもうっすらと笑みを浮かべた。
「くぅっ……はぁ、はぁ」
そして笑い声をあげようとしたのか、低くかすれた喘ぎ声を発した。
イシュルはセルダの前に屈んで声をかけた。
「まだしゃべれるか? エンドラはどうした?」
セルダはネリーによって左腕と右足を切り落されている。出血も激しい。……もう駄目だろう。
この少女に何があったのか。
彼女はおそらく笑おうとした。それは自嘲、だったのではないだろうか。
とにかく今は彼女の裏切りを詰り、責めるべきではない。もう時間がない。セルダが死ぬ前に、最低限のことは聞き出さねばならない。
「……大丈夫だよ、イシュル……まだ、しゃべれる……」
セルダは小さく、だが思ったよりもしっかりした声で言った。
「セルダ!」
ミラがたまらず、セルダに身を投げ出して縋りついた。
「どうして! なぜこんなことを」
ミラの悲痛な叫びに、セルダは苦しそうに顔を歪めた。その眸から涙がこぼれおちる。
「うっ、うっ……ごめん、ミラ」
セルダは嗚咽とともに吐き出すように言った。
セルダはしばらく荒い息で呼吸を続け、からだの痛みと、おそらく心の悲しみを抑えつけると話を始めた。
「父上、……父さまが、賦課金に手をつけていたのが国王さまにばれてちゃってさ……」
「賦課金?」
イシュルが疑問の声をあげると、ミラがイシュルの耳許に口を寄せ、小声で説明した。
「聖都の商人、職人ギルドなどに臨時に賦課して集めたお金ですわ」
賦課金とは、各種ギルドに割り当てられる聖王家からの課税の一種、とでも考えればいいのだろう。
それはそのまま聖王家の金庫に入るのか、別立てで聖王家が差配する組合の共同資金等になるのか、そこら辺のことはわからないが。
セルダはミラがイシュルに説明する声が聞こえたのか、微かに自嘲のこもった笑みを浮かべると言った。
「父さまはサロモン王子派でさ。同じ派閥の役人と計らって聖王家のお金を……」
セルダは話す途中で苦しそうに喘いだ。
「王家の言わば公金を横領して、派閥の軍資金にしようとしたのか」
「なんてことを……」
イシュルが言うと、ミラが頷き呟いた。
サロモンとは兄王子の方だ。セルダは伯爵家だったか。セルダの父は派閥争いに深く首を突っ込んでいたのだ。派閥の活動資金に公金を流用してしまった。それをビオナートに知られてしまった。
それでおまえに声がかかったわけか。
正義派を裏切れ、内通しろと。
「それで国王さまに呼ばれて……」
「わたしに話してくれればよかったのに」
ミラは眸に涙をためてそう言ったが、セルダを首を横に振った。
確かにセルダの父がやったことは重罪だ。廃爵の上領地没収、本人の処刑は、たとえ五令公家が動いても免れないだろう。
「父さまは打ちひしがれて危険な状態だった。ぼくは父さまを元気づけたくて……」
……言葉もない。
セルダの顔を青白く輝く結界の光が照らしている。イシュルは無言で彼女の顔を見つめた。
「でもね、イシュルがミラに味方してくれて、鉱山に着いてからもまるで軍監のような采配をしてるのを見てたら」
セルダはそこで苦しそうに息を継ぐと、視線をミラからイシュルに向けた。
「……あの時、イシュルに相談すればよかったかな」
セルダはそう言うと、その眸から再び溢れるように涙を流した。
セルダ……。
あの時とはいつだろう。昼間、ミラの部屋で最後の打ち合わせをやった時のことだろうか。
打ち合わせが終わった時、彼女が俺に話しかけてきたのだ。確かにあの時、セルダは何かを話したそうな感じだった気がする。
イシュルは顔を少し俯かせ、そして言った。
「力にはなれたかもしれないがな」
ビオナートを殺せば王権はあらたまる。だから最悪の事態は防げるかもしれない。だがセルダの父親が王家の金を私した事実は消せない。
あの時、セルダが秘密を打ち明けてくれたなら。
あの時、セルダの運命は閉じたのだろうか。
俺に何か、セルダにできることがあったのではないか。
だが、もうすべては手遅れだ。
……可哀想なセルダ。
「ビオナートを殺すことでいいのなら、おまえの仇は討ってやる」
当主の罪は家の罪、重罪であれば一族郎党全員が処罰の対象になる。だがセルダ自身は父の罪とは関係ない。彼女は苦境に立った父親をただ救いたかっただけだ。だがそれはミラを裏切り、正義派に背くことだった。
セルダはイシュルから視線をはずし、ただ上を向いて夜空を見ている。
泣いているような、笑っているような、そして苦痛に堪えている顔だ。
イシュルは視線を厳しく、セルダに再び問うた。
彼女がどうであろうと、彼女が傷を負い裏切りを暴かれ、どれだけ苦しんでいようと、どうしても聞かなければならないことがある。
「それで、おまえが化けていたエンドラはどうした?」
イシュルは言ってから、思いのほか自分の冷たく厳しい声音に内心、僅かな戸惑いを憶えた。
ミラからはすすり泣く声が聞こえてくる。
「殺されたよ。黒尖晶に」
セルダは喘ぎながら苦しげに、吐き捨てるように言った。
イシュルは拳を握りしめ、視線を遠く、南の山並みの方へやった。自ら成した、青白く発光する結界の向こうに、黒々とした重い稜線が夜空の底をうねって見える。
エミリアも助かるまい。そしてエンドラは死んでしまった。
俺はふたりを守ることができなかった。
鉱山集落で何が起きたのか。
セルダは夜空に目を向けたまま、時に咳き込み、喘ぎながら、途切れ途切れに説明を続けた。
「ぼくはまず、眠り薬で儀典長らを眠らした」
セルダはその後、国王派の影働きの者を招き入れ、デシオらを縄で縛り拘束した。
「儀典長の精霊が邪魔してきたけど、光の精霊はそんなに強くないからね」
セルダはデシオの契約精霊を追い払うと、そのまま影働きの者に即され、儀典長らの滞在している家を出、エミリアやエンドラたちの滞在している家に向かった。セルダが中に入ると、エンドラと、彼女と同じパーティの影働きのふたりの女はすでに殺されていた。エンドラの遺体の顔には白い仮面が被されていた。
「ちょっといいかの、イシュル殿」
そこで後ろにいたクートがイシュルに声をかけてきた。
「お主の持っている白い仮面は精霊神の魔法具で、“変わり身の仮面”もしくは“変わり身の魔法具”とも呼ばれる珍しいもんじゃ。化けたい者の顔に一度かぶせてから自身がかぶれば、その者にそっくり同じに化けられる」
イシュルは、クートに言われて白い仮面を自身の顔の前にかざし見た。
材質は木材。下地に樹脂か何か、そして白い塗料が厚く塗られている。表面はなめらかで、何も描かれていない。両目と鼻の部分に穴が空いているだけだ。全面白地なのに、不思議とあまり汚れていない。
「それは聖王家の所有する魔法具なんじゃ」
クートはひと息、間をあけると思わぬことを言ってきた。
「これがか?」
イシュルは昼間、下働きの中年女に変装してミラの部屋に入ってきたエミリアの姿を思い浮かべた。
怒りと悲しみとともに。
「こんなおもちゃが」
ミラに顔を向けると、彼女は首を小さく縦に振り、「わたくしも耳にしたことはあります」と小さな声で答えた。
なるほど、他人に化ける、変身できるのなら、さまざまな使い道があるだろう。諜報や犯罪にかかわるような分野ならとても重宝する魔法具だろう。変身するにはその対象の顔に一度かぶせなければならない、というのがいかにも精霊神の魔法具らしく、使い勝手の悪さがある意味滑稽でさえあるが。
イシュルは風で白い仮面を空中に飛ばすと粉々に砕いて破壊した。
「!!」
「なんと!」
憔悴しきったセルダが僅かに笑みを浮かべ呟いた。
「イシュルらしいや」
「それでおまえにエンドラに化けるように指示したのは誰だ?」
聖王家の魔法具が出てきたということは、黒尖晶の幹部クラスが出張ってきた、ということだろう。
そして……。
エミリア姉妹が本物の紅玉石を持っていることを、ビオナートとその黒尖晶の幹部は以前から知っていた、ということだ。
ミラやデシオも知らない情報をやつらはいつ、誰から入手したのか?
おそらくそれはつい最近、ここ十日か二十日か、それくらいだろう。でなければエミリアたちはずっと前に消されている。
エミリアが俺に秘事を打ち明けた時、誰かに聞かれていたとしてもそれは数日前のことで、それではあの変わり身の仮面を用意するのは間に合わない。黒尖晶の幹部が何の目的もなく聖王家の魔法具を持ち歩くことなどあり得ないだろう。
裏切り者は聖堂教会の内部、総神官長の側近くにもいる。
「そしてエンドラが持っていた紅玉石はどうした?」
セルダはイシュルの質問に根気よく答えた。セルダは黒尖晶の長(おさ)らしき人物から仮面を渡され、直接指示されたという。そしてエンドラの持っていた紅玉石は当然、彼らの手に渡ったろう、と言った。
「あの森の中から、精霊を使って魔封陣を撃ってきたひとが持っているか、今頃は早馬で聖都に向かっている最中じゃないかな」
セルダは森の方に視線を向け言った。
「……わたくしのせいですわ」
ミラが下を向き、肩を震わせながら言った。
セルダを今回の聖石神授に誘ったのはミラだ。彼女は親友の苦境に気づけなかった。
だが、それだけじゃない。
「ミラ」
イシュルはミラの背中に手をやりさすってやった。
「おまえのせいじゃない。裏切り者は総神官長のすぐ側にもいる。エミリアたちが本物の紅玉石を持っていることを、ビオナートに漏らしたやつがいる」
「完全に筒抜けだったわけじゃ」
クートが横から話しかけてきた。そして倒れているセルダの右横に閉じ込められた、ふたりの男たちの方に顎をしゃくってみせた。
エンドラに化けたセルダとともにウーメオの舌に来た男たちだ。
「わしはこの稼業は長いからの。紫尖晶の影働きの者の顔は皆、だいたい知っておる。あのふたりはわしの知らぬ顔だ。まさか新入りでもあるまいし、おまえは誰かと聞いても答えぬし」
あの時クートと男たちの間で、剣呑な雰囲気だったのはそれか。
「総神官長さまの側にいる誰が裏切っているか、いちはやく調べあげねばならんの」
イシュルはクートに頷いてみせた。
爺さんはこれでもミラを慰めようとしているのか。
ん? 側近くだったら……。
イシュルは弾かれたように立ち上がると背後のエミリアの方へ振り向いた。
エミリアだったら知っているかもしれない。彼女たちが総神官長から紅玉石を渡された時、側にお付きの者が何人かいたろう。その者がわかれば……。
イシュルが振り向くと、エミリアの側にいたラベナが立っていた。
ピルサとピューリの双子はエミリアに向かって肩を落とし俯いている。
「ラベナ……」
イシュルはかすれた声で呟いた。
ラベナが首を横に振る。彼女は言った。
「エミリアが死んだわ」
エミリアは目を瞑り、眠るようにして死んだ。
イシュルは彼女の額から頬にかけて手をそわし、そっとなぜた。
まだ彼女には温もりが残っていた。苦しみも悲しみも、喜びも、なんの表情も見せずにただ眠っている、ように見えた。
ごめん、守れなくて。
イシュルは唇を噛み締めて涙を堪えた。
月神だ。レーリアの妨害がなければ。
イシュルは空を仰ぎ、頭上に高く浮かんでいるナヤルに目をやった。
ナヤルの不可解な行動。そのことにも月神が関係しているのではないか。
「エミリア……」
「死んじゃった」
横で双子が呟いている。横からこぼれ落ちた髪の毛に隠されて、俯いた彼女らの表情はわからない。
イシュルは立ち上がるとクートに声をかけた。
「爺さんは結界に閉じ込めた者たちの面体を確認してくれ。あんたらの仲間がいたら教えてくれるか? これから結界の中を通れるようにするから」
イシュルは目を瞑り周囲の結界に注意を向けた。
中に閉じ込められた者たちの位置を把握し、その周囲に葉脈のように結界を細かく開いていく。
結界の中にいる者は五十名近く、その中のカハールから来た傭兵たちや兵士たちに、紫尖晶の正義派が混ざっている可能性がない、とは言えない。
さらには王子たちの差し向けた密偵や、誰も知らない正義派の者もいるかもしれない。
だが、味方とはっきりわからない者は、すべて国王派と見なして始末するしかなだろう。こちらとしてはひたすら安全確保を優先するしかない。
「薄く光る壁が結界の境目だ。近寄れば閉じ込められた者とも会話できる」
「わ、わかった」
クートが答えると、ラベナも立ち上がって言った。
「わたしもクート殿に立ち会いましょう。それで」
ラベナは西側、鉱山集落の方の森の手前のあたりを指差し言った。
「ロルカを外に出してほしいの」
イシュルが目を向けると、森の方へ敵方に突出していたラベナの風の契約精霊、ロルカが薄く青く光る結界の中に閉じ込められていた。
イシュルがラベナに「ああ、ごめん」と謝ってロルカを開放すると、小さな精霊の少女はいつぞやのように空中からイシュルに向かって跪き、ラベナの方へ飛んでいった。
セルダの側に座り、彼女の額に浮かぶ汗を拭いていたミラがイシュルに顔を向ける。
「ミラはセルダの側にいてやれ」
イシュルはミラにそう言うと、自ら斬り落としたセルダの手足に布を巻き縛りつけ、血止めをしているネリーの背中を見つめた。
もう遅い。血が流れ過ぎた。セルダは助からないだろう。
イシュルは顔を背けると、森の方へ、闇の精霊を夜空へ放ち、魔封の結界を放った黒い影の方へ歩いて行った。
青く光る空間の中に、黒いフードを目深にかぶった男が無言で佇んでいる。
爪先まで隠れる黒の長いマントを垂らし、全身黒ずくめの男だ。フードの下から見える鼻先から口許、顎のラインを見る限り、もう若くはない、壮年くらいの歳だと思われた。
「エンドラの持っていた紅玉石はおまえが持っているのか?」
イシュルは黒いマントの男の前に立つと低い声で言った。
「どうかな」
男はイシュルよりさらに低い声で答えた。なかなか威厳のある、多くの者に長い間命令を下してきた者の声だ。
「ナヤル!」
イシュルはナヤルを呼びつけた。
ナヤルが空からすうっと音もなく降りてくる。
「剣さま」
ナヤルがイシュルの頭上、側まで降りてくると、イシュルはナヤルに左手の甲に光る紅玉石を見せて言った。
「おまえは本当はわかるんだろ? この男は、俺の手の甲に張りついているこの地神の石と同じものを持っているか? どうなんだ?」
イシュルの左手を見て、黒い男が激しく動揺するのが伝わってくる。
イシュルは眸を細め、ナヤルを睨んだ。
以前、ナヤルは地神の魔法具に係る紅玉石のことなど知らない、と言った。だが、風神の側近くに仕えるという大精霊である彼女が、地神の魔法具に係るものを知らない、何も感じない、というのは少しおかしな話だ。彼女はしゃべりたくないから、何かの禁忌に触れるから嘘をついてごまかしたのではないか。
今はこれから月神のこともふくめて、いろいろと彼女に聞かなければならないことがある。今回ばかりは彼女のごまかしは許さない。
「うっ……」
ナヤルはイシュルと視線を合わすと身をぶるっと震わせ、苦しげに目を瞑ると、少し間をおき答えた。
「その魔法使いの人間からは、剣さまの手に持つ石と同じものを感じない」
ナヤルは顔を強ばらせて言った。
「何となくだけど、周りにもそれらしきものは感じないわ」
イシュルはなんの表情も見せずにナヤルに頷いてみせると、黒いマントの男へ顔を向けた。
「今頃は聖都に向かっている、ってところか」
「……」
男は答えない。
「あの革袋は精霊神の魔法具だ。呪文がわからないと開かないぞ。おまえたちはその呪文を知っているのか」
「しっ、知っているとも」
男は引きつった笑みを浮かべて言った。
……。
イシュルはその時、言いようのない怒りが心の奥底からわき上がってくるのを感じた。
生まれも知らぬ我が請う……。
エミリアたちの心根が、国王派の者たちに穢されたように感じた。
イシュルは男に向かって笑みを浮かべた。
「そうか」
そしてただそれだけを言った。
「お、おまえの左手に貼りついている石は、王冠の紅玉石なのか?」
黒い男が逆に質問してくる。男の声がわずかに震えている。男は怖れを抱いているのだ。
イシュルは笑みを浮かべたまま頷いた。
「そうだ。地神の魔法具は俺がいただく。きさまらには過ぎたものだからな」
イシュルの笑みが濃くなった。
「神々はどうやらそう考えているらしい」
月神レーリアが直接手を出してきたのだ。赤帝龍と戦い、瀕死の状態だった俺をおそらく救った主神ヘレス、太陽の女神のあの行動以外、今までこんなことはなかった。
月神は俺を挑発し、狂った道化に語らせ、アルヴァ城の白亜の回廊で、エリスタールを出てきた夜の、あの白い道を見せてきた。どれもこれも、やつの介在は不確かで確たるものとは言い切れなかった。
それがはじめて……。
その結果エミリアの命が失われ、地神の石の片割れがもたらされた。
イシュルは顔をナヤルに向けた。
「そういうことだろ? ナヤル」
「わ、わたしはそこまでは知らないわ」
ナヤルは苦しげな顔になっていった。
「鉱山集落で何があった? 今ここで俺に教えろ」
「でも……」
ナヤルはちらっと黒い男の方へ顔を向けた。
「この男のことはかまわない。こいつらはすべて殺す」
「……」
男は口許を歪め、無言のままだ。
ナヤルは黙って頷くと、沈んだ声で言った。
「剣さまが、あの人間の村を離れていったすぐ後、なぜかいきなり、わたしは精霊界に戻されてしまったの」
イシュルは黙って頷いた。
やはりナヤルは鉱山集落にいなかったのだ。
だからセルダや黒尖晶にいいようにやられたのだ。エンドラは殺され、もうひとつの紅玉石は国王派に奪われてしまった。
「……こんなことができるのは、イヴェダさまか」
ナヤルは眉をひそめ俯き、続けた。
「主神か、人の世の運命を操る月神だけだわ」
「俺の方でも月神が介入してきた。……おかげで守ると誓った仲間を死なせてしまった」
イシュルは怒りを込めてナヤルを睨んだ。
別に彼女が悪いわけではない。彼女に責任などないだろう。だが彼女に聞きたい、どうしてもしゃべってもらわなければならないことがある。
「彼女との約束を守れず、あげく殺されてしまった俺の怒りがおまえにわかるか」
ナヤルがイシュルから目を逸らしぶるっと震える。
「月神はなぜ俺に手を出してくる。おまえは何か知ってるんじゃないか? イヴェダは何と言っている」
おそらくナヤルもそんなこと、知りはしないだろう。だが風神であれば話は別だ。
「……わたしにはわからないわ。たぶんイヴェダさまも」
ナヤルはイシュルにしっかり視線を合わせてきた。そして言った。
「でも、イヴェダさまは、イヴェダさまだけはあなたの味方よ」
ナヤルはイシュルに顔を寄せてきた。
「それだけは信じて」
イシュルは唖然とした顔つきの黒い男から離れた。イシュルとナヤルの神々をめぐる会話を聞けば、怖れ驚愕しない者はいないだろう。
左手の森の奥方からは、バスアルらしき男の叫ぶ野太い声が聞こえてくる。
「イシュル殿!」
イシュルがそちらへ顔を向けようとした時、クートとラベナがイシュルに向かって小走りに近寄ってきた。
「わしらの知る者は誰もおらんかったわい」
「……」
イシュルはクートらへしっかりと頷いてみせた。
とりあえず鉱山の方へ戻ろう。なるべく早く状況を確認したい。
ミラたちのいるウーメオの舌の中心部へ向かって歩き出そうとした時だった。
イシュルは右手の森の方に、結界の中に閉じ込められた、どこか見覚えのある人影を認めた。
イシュルはふと身を翻し、その人影の側に近寄って行った。
「へへっ」
人影は外輪山の内側に入り、使節団の物見としてともに行動した猟兵のエバンだった。
エバンは弓を降ろし、矢をつがえようとする姿勢のまま固まっていた。
エバンはイシュルに「やあ、龍殺し」と、とぼけた口調で声をかけると言った。
「あの時俺が、あんたになんて言って声をかけたか憶えているかい」
あの時とは、物見として使節団に先行することになってはじめて顔合わせした時のことか。
「さあ、なんだったかな」
エバンは力なげに笑みを浮かべた。
「あんたといっしょなら、危険な物見も楽なもんさ、と言ったのさ」
エバンの顔を青い光が照らしている。
「俺はあの時、ついてる、と思った。あんたといっしょなら、あんな恐ろしい場所でも、どんな魔獣が現れても大丈夫だろうからな」
「ああ。……それで?」
イシュルはエバンを乾いた視線で見やった。
「でもそれは間違ってた。俺は、俺たちは」
エバンは一瞬、からだを震わしたように見えた。
「まったくついてなんかいなかった。……あんたといっしょになって」
「そうだな」
イシュルは頷くと背を向け、エバンにかるく片手をあげた。
イシュルは手を降ろすと、結界を空に向かって垂直に開放した。
薄く青く光る結界の中のものすべてが姿を消し、後には暗闇と、枯れ木のような木々の影が幾ばくか、そして土や岩の露出した地面だけが残った。
青いベールは空高く、地上のすべてを覆いつくすような重く低く唸るような音をとどろかせ、駆け上がっていった。
夜空にオーロラのような、青く瞬く光の幕が踊った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます