月輪の夜 2
イシュルはナヤルから状況を詳しく聞くと、風のアシストをつけ森の中を走り、一気に集落を囲う柵を飛び越えるとそのまま家々の屋根伝いに移動し、エミリアたちの宿泊する二階建ての家の屋根の上に降り立った。
イシュルは身を隠そうとはせず、屋根の真ん中に自身を見せつけるように立って、周囲をゆっくり見回した。手前に同じ二階建ての建物をひとつ置いて、その先に集落の広場がある。右手、北側には内輪山の、人工的に削り取られた石英鉱山の岩肌が見える。
イシュルは手前の建物の屋根に飛び移り、屋根の上から広場を見渡した。
神殿の前には白い敷布が広げられ、大小の岩が並べられている。あれが水晶の原石なのだろう。
デシオやミラたちの立ち会いのもと、あの中からクレンベルへ持ち帰る聖石が選ばれるわけだ。
周囲は槍をもった兵士や、鉱山に常駐する傭兵らが適当な間隔をあけて立っている。鉱山で働く下働きの者たちに混じって、今日は特別な日だからなのか、神官のような格好をした初老の鉱山頭の姿も見えるが、まだデシオら神官、ミラ主従の姿は見えない。
イシュルは左手を腰に当て、広場に面した二階家の屋根の上で周囲を見回しながら、しばらくの間そのまま立っていた。
ほどなく警備していた兵がひとり、イシュルに気づき背を後ろへそらして驚いた反応をすると、鉱山頭の方へ駆けていき、イシュルを指差しながら鉱山頭へ何事か話しかけた。
鉱山頭は家屋の屋根の上に立つイシュルを見ると、少し驚いた仕草を見せたが、すぐに頭を下げ会釈してきた。
あの初老の男は俺のことを知っているらしい。
ナヤルの話によると、朝方、ちょうどイシュルが内輪山外周の偵察に出たあたりで、ラベナが井戸へ水汲みに行った時に、ふたり組の刺客が襲ってきたのだという。刺客は魔法を使わず、ひとりがナイフを手に襲いかかり、もうひとりの男が反対側からラベナの背に向け吹き矢を遣ってきた。以前にイシュルを襲ってきた男たちとよく似た手口だった。ラベナは油断したか、ナヤルの警護に安心していたのか魔法の杖を持っていなかったが、彼女の契約精霊がいち早く現れ応戦しようとした。そこでナヤルが割って入りふたりの男たちを片づけたということだった。
やはり人夫たちの中にまだ国王派の者が紛れていたのだ。
これから夜まで、集落内であっても彼らが正義派の者たちに対し、ゲリラ的な妨害工作を仕掛けてくる可能性が高い。
イシュルは鉱山頭の挨拶にかるく首を縦に振って見せ、屋根の上から広場に飛び降りると、広場の誰とも目線を合わさず自身の宿泊している小屋へ戻った。
ラベナを襲った刺客がナヤルによってあっという間に始末された件が、そろそろ国王派側にも周知された頃だと見計らって、イシュルはわざと目につく場所に姿を現し、おまえらの好きにはさせないぞ、と彼らに対し威嚇して見せたわけだが、イシュルはそれだけをねらったわけではなかった。
さきほどの偵察は、遠方でも視認しやすい大部隊の発見を意図したものだ。ひとり、ふたりの少人数で、隠れ身の魔法を遣わずに、林間を息を潜めて行動する者たちまでは発見できない。視界いっぱいの全域に風を吹かすのも、それで動くものすべてを感じ取って対処するのも、さすがにそれはイシュルの手にあまる。
イシュルは夕方、まだ鉱山集落からウーメオの舌まで見通せる明るさが残る段階で、周囲に事前に配置につくであろう、国王派の影働きの者たちを一気に掃討しようと考えていた。
集落内でラベナを襲った国王派の動きは、イシュルの能力を把握し、その行動を恐れた彼らの牽制と考えられなくもない。
国王派は、俺やナヤルを鉱山集落に張り付かせておきたいわけだ。
だから、ただ彼らに対して威嚇して見せただけではない。
彼らの牽制に俺が乗ったぞ、彼らの牽制に俺がひっかかぞ、と誤認させるためにやったわけだが……。
その目論みが正鵠を射るものであったとしてもだ。
イシュルは大小の丸太小屋の間を抜けながら、表情を歪ませた。
面倒な事態であることに変わりはないのだ。
イシュルが滞在している小屋へ戻ると、部屋の中にはクートとともにエミリアがいた。
エミリアはイシュルのベッドに腰を降ろし、クートとはす向かいに座ってラベナが襲撃された件を話していた。
「イシュル」
エミリアが緊張した顔を向けてきた。
「もうナヤルから聞いている。ラベナに怪我はなかったか?」
「それは大丈夫だけど……」
「やつら、なりふり構わぬことをしてきよったの」
クートが厳しい顔つきになって言った。
「エミリア」
イシュルはクートに無言で頷くと、その場に立ったままエミリアに言った。
「きみらは夜、その時まで外に出ず、自分の宿舎の周囲を警戒してくれ。エンドラたちカハールから来た連中にも知らせてほしい」
エミリアが頷くと、イシュルは続けて指示した。
「エミリアは午後の打ち合わせには予定どおり、ミラの宿泊先に来てくれ。気をつけろよ。できるだけ敵方に気づかれないようにしてほしい」
「わかった」
イシュルはエミリアが了解すると頷いてみせ、クートに言った。
「爺さんは俺がいない間は」
「大丈夫じゃて。わしにはお主や大精霊殿には効かぬがこれがあるからの」
クートは左腕の刺青の施された辺りを右手で叩いて言った。
「イシュル殿が戻ってくるまで隠れ身を使ってどこかに潜んでおるわい」
クートはにやりと笑った。
確かに隠れ身の魔法を使ってひとつところに潜んでいれば、魔法使いはもちろん、並みの精霊でも見つけられない。
「これから聖石の選別が始まるんでしょ? ディエラードさまは大丈夫かな」
エミリアが目を広場の方にちらっとやり、心配そうに言った。
「ナヤルには引き続き警戒させてるし、ミラにはシャルカがいる。あの精霊はかなり強い。そして護衛の女剣士は疾き風の魔法を遣う。それにあの場には儀典長はじめ、鉱山にいる神官が全員立ち会う。さすがに国王派も動けないだろう。派手にやればビオナートは己の首を自ら絞める事になりかねない」
そろそろ聖石の選別が始まるか、か。
イシュルも視線を広場の方へ向けて言った。
イシュルは集落の櫓の屋根の上に登って、しばらく聖石の選別の様子を見ると、広場の反対側に飛び降り、周囲の気配を窺いながら鉱山頭の家に向かった。
そして鉱山頭の家の裏手に回り込み、裏口の引き戸の閂(かんぬき)を風の魔法でずらして中に入った。使用人らしき者と顔を合わせても何食わぬ顔で挨拶し、ミラの宿泊する部屋の前までくると、その扉をノックした。
「はい」
中からルシアの声がする。彼女が、聖石の選別に立ち会うミラたちに同行していなかったのは、すでに確認している。
ルシアはイシュルをミラの部屋に招き入れると、黒い武骨な木の椅子を指し示し言った。
「そちらの椅子にどうぞ。主は……」
「わかってる。きみには申し訳ないが待たせてもらうよ。なるべく時間をとって、かつ、なるべく早く終わらせたいから」
イシュルが笑みを浮かべると、ルシアも笑みを返した。
まだ石の選別は広場の方で続けられている。
「ルシアは剣を遣うよね? 失礼なことは重々承知だが、知っておきたいんだ。きみの実力はどれくらいだろうか」
ミラは五令公家の息女だ。彼女専属の使用人で武術の心得のある者にも、専門の護衛にも、実力のある者が数多くいるのではないか。宮廷魔導師と遜色のない実力を持つ魔法使いがいてもおかしくはない。
「そうですね……。剣の腕はネリーほどではありませんが、わたくしも武神の魔法具を所持しております」
ルシアは人差し指を頬に当て少し考える仕草をすると、そう言い切った。
「なるほど……」
彼女は武神の魔法具を持っている、と言った。ということは、加速や力を増す魔法、防御用の硬化魔法などのいずれか単体か複数の魔法を使える、ということになる。
ミラが自らの多くの使用人や護衛の者から選んで、聖石神授に同行させたのだ。メイドであっても、彼女も荒事に充分に使える存在だということだろう。
「ありがとう、ルシア」
イシュルが椅子に腰掛け、再び笑みを浮かべて礼を述べると、ルシアが言った。
「ではお茶をご用意いたしましょう。しばらくお待ちください」
ルシアが厨房に向かおうと部屋の扉の前に立った時だった。
部屋の外、奥の方からワゴンを押して近づいてくる者の気配がした。それはルシアにもすぐわかった筈だ。
「この家の使用人が気をきかしてくれたみたいだな」
鉱山頭の使用人がお茶をいれてくれたのだろう。
「はい…」
ルシアがイシュルの方へ振り返って返事をすると、扉がノックされた。
ルシアが扉を開けると、薄汚れた灰色のメイド服に白い前掛けをつけた、中年の女が無言でワゴンを押して入ってきた。木組みの薄汚れたワゴンにはテイーセットが一式載っている。
鉱山集落には小さな子どもや若い女はいないが、賄いなど下働きをする中高年の女性が複数、住み込みで働いている。
女は扉を閉めるとワゴンから手を離し顔をあげた。
「……は?」
イシュルは女の顔を見て不審をあらわにした。
中年女は「にっ」と笑うと、頭に手をやり、白髪まじりの髪の毛をいきなりまるごとひっぺがした。
「エミリア!」
鉱山頭の家の使用人はエミリアだった。エミリアは集落に住み込みで働く女たちの格好に変装して、イシュルたちの前に現れたのだった。
「変装してきたのか!」
イシュルが叫ぶようにして言った。
「うん。鉱山で働いてるおばさんたちに化けて出て来たの。歩いたりしてからだを動かすと、隠れ身の魔法は効果が途切れる時があって、ちょっと危険だからね」
エミリアはかつらをかぶるだけでなく、自分の顔の頬の下や目尻、ほうれい線を焦げ茶色に着色して影を入れていた。そして服装だけでなく、腰も少し曲げ、肩を丸めて緩慢な動作で部屋に入ってきた。
素晴らしい……。
イシュルはなぜか目を見張り、瞠目し感動した表情をしている。
確かに、彼女をよく知る者にはすぐにバレてしまう程度の変装だが、彼女を知らない者には近寄って仔細に観察でもしない限り、若い女が変装していることにそう簡単には気づけないだろう。
集落内の敵方を欺くにはそれで充分だ。
「凄いじゃないか。本格的な変装、はじめて見たよ。雰囲気をうまくつくれていた」
イシュルは胸の前に腕を組み何度も頷いた。
「しかも、こんな所まで変装具を一式、持ってきているわけだ。さすがだな」
「え? そう? あ、ありがとう……別に、ふつうだと思うんだけどな」
エミリアの台詞は後半はひとり言のように小さな声になった。
彼女はプロの影働きである。当然、基本的な変装のスキルくらいは過去に学んでいるだろう。それに彼女ら紫尖晶のパーティが変装具を常備しているのも、役目がら当然な事だろう。
ルシアも表情を幾分引きつらせ、どう反応したらいいのか困っている感じだ。
だがイシュルは彼女らの思いも寄らないことに感動していた。
変装かぁ。まるで昔の探偵小説とか、冒険小説の世界にいるみたいだ……。
「……」
ひとり惚けて表情を緩めるイシュルを前に、エミリアとルシアが当惑した顔つきで視線を交わした。
その後エミリアたちが聖石の選別から帰ってきて、セルダやネリーも同席して打ち合わせが始まった。
イシュルの提案で、メイドのルシアやシャルカまで椅子に座り、みなが車座になった。
「そんなことが……」
エミリアが明け方に同じパーティのラベナが襲われた話をすると、ミラは顔を曇らせて言った。
「これから正義派がウーメオの舌に集合する夜まで、散発的に何らかの妨害工作が行われると思う。ナヤルに集落の主な箇所は見張らせているので、問題はないと思うが」
イシュルはミラにセルダ、そしてシャルカやネリーらの顔を見渡して言った。
「一応、きみらもその時までこの家から出ないようにしてくれ。ナヤルが見張っていても万が一のことはある。周囲の警戒も厳重に、ね」
「わかりましたわ」
「わかった」
ミラとセルダが口に出して答え、シャルカやネリーらは黙って頷いた。
「ナヤルに鉱山集落の見張りを任せて、俺は夕方から夜にかけて、ウーメオの舌周辺の警戒に入る。もしこちらの情報が国王派に漏れている場合、黒尖晶など影働きの者たちを事前に配置、待ち伏せする可能性が考えられる」
みなが頷く。
そこでイシュルは車座の全員の顔を見渡し、少し間をおいた。
「それで、ウーメオの舌に向かう時は、クレンベル組もカーハル組もみな一緒にまとまって向かうようにしたいんだ。俺が空から護衛していこうと考えている。ナヤルは儀典長らに張り付くセルダの護衛を第一に、第二に鉱山集落からウーメオの舌に向かうであろう、国王派の者たちを始末させる」
「イシュルはまさか、誰が本物の紅玉石を持っているか知ってるの?」
セルダが真面目な顔になって質問してきた。
イシュルは微かな笑みを浮かべてセルダの顔を見つめた。
なかなか鋭い質問をしてくるじゃないか……。
俺の提案、俺の口ぶりに、何かそう感じさせるようなものがあったのかもしれない。
「さぁ、な」
「あの、イシュルさま」
イシュルが声を落としてセルダに言うと、ミラが割って入ってきた。
「紅玉石はふたつ揃わなければ意味がありません。わたくしどもは最悪、二対の紅玉石のどちらか片方を所持するだけでもいいのです」
聖王国の王権をあらわす紅玉石は二対揃っていければならない。伝承によれば、紅玉石が二対そろってこそ地神の魔法具が発現するとある。片方だけでは王権の委譲は成立しない。戴冠式を行うことはできない。
ミラはイシュルの眸を見つめて言った。
「万が一のことを考え、ウーメオの舌に集う者たちは、ぎりぎりまでひとまとめにしない方がよろしいかと存じます。特に、クレンベルから来たわたくしたちと、カハールから来た者たちは別に行動した方がよろしいかと」
デシオやセルダを除く他の者たちが知っているかわからないが、ミラはふたつの本物の紅玉石がクレンベルから来た者と、カハールから来た者から別々にもたらされることを知っている。
イシュルも顔を少し俯かせ、ミラの眸を見つめた。
確かに俺が護衛しても絶対に、何が起こってもミラとエミリア姉妹を最後まで守りきれるか、それは断定はできない。
「わかった。ミラの言うとおりにしよう。俺がまずクレンベル組を護衛していく。その後にカハール組を鉱山集落から出発させる。カーハルから来た者たちはナヤルに護衛させる」
イシュルはミラの意見に従い、二組に分けて行動させることにした。
「セルダ、途中からナヤルがここから離れることになるが……」
「大丈夫、まずい状態になったら、すぐ逃げるようにするから。ぼくは火の魔法の他に、疾き風の魔法も使えるし」
セルダは笑みを浮かべて頷いた。
「後発組がここを出た後なら、儀典長の監視を解いてもなんとかなるでしょ?」
「そうだな」
イシュルは頷いた。
セルダは加速の魔法が使える。複数の遣い手が相手でも、逃げるだけなら何とか対処できるだろう。
その後、ミラたち主従と、エミリアたちパーティのクレンベル組は日没二刻の半刻前、カーハル組のエンドラたち計六名のパーティはその四半刻前に、鉱山集落から百長歩(スカル、約六十〜七十メートル)ほど離れた、ウーメオの舌へ向かう途中の、溶岩に森の木々が僅かに切れる場所に集合することが決められた。
そしてイシュルは昨日クートと話し合って決めた、ウーメオの舌での各自の配置と役目を説明した。
「ミラとシャルカは、ウーメオの舌に着いたら本物の紅玉石を持つ者が名乗り出るだろうから、カハール組が到着してふたつの紅玉石が揃うまでその者の護衛を。ネリーとルシアはミラ本人の護衛、エミリアたちのパーティは宝石鑑定職人の護衛を担当、もし戦闘が惹起したら双子を中心にして防御に徹してくれ。本来は魔法戦闘で密集するのは危険だが、皆、ウーメオの舌の中心部、半径二十長歩ほどの円形内に位置してなるべく外に出ないように、できるだけ防御に重点をおいて欲しい。先日話したとおり、外周から攻撃してくる者はすべて俺の方で始末する」
彼女らの中ではミラとシャルカの実力が突出しているが、ピルサとピューリの双子の火力も侮れない。双子は砲台がわりに使うのがいいだろう。
全員が了承すると、イシュルはそこでミラとセルダに向かって言った。
「ダナ・ルビノーニ殿には、念のため、残りの宮廷魔導師を見張ってもらおう。いっしょに酒を飲んでもらう、感じでいいかな?」
打ち合わせが終わって、エミリアがかつらをかぶり下働きの中年女の姿にもどると、イシュルは彼女に近づき声をかけた。
「エンドラたちのパーティへの説明、頼む」
「へいへい、旦那さま、おまかせを」
エミリアはゆっくり頷き、声音もそれらしく答えてきた。
ワゴンを押して扉の外へ出ていくエミリアの丸まった背中を見ながら、イシュルはふと思った。
夜にわざわざウーメオの舌まで行って紅玉石の受け渡しをするよりも、ミラもシャルカも傍にいることだし、これからすぐエンドラを呼びつけて、今ここで紅玉石の授受をやってしまった方がいいのではないか。
「ねえイシュルさん」
そこでセルダがイシュルのすぐ横に立って声をかけてきた。
「ん?」
イシュルさん……?
イシュルがセルダに顔を向けると、セルダが一瞬、鋭い視線を向けてきた。
「なにかな?」
セルダの厳しい表情は瞬く間に霧散する。
セルダはいつもの口調に戻って言った。
「……イシュルはほんとに凄いね。まるで聖王家の軍監みたい」
なんだ、そんなことか。確かエミリアも似たようなことを言っていた。
セルダは言葉を続けた。
「イシュルはもの凄い強さだし、あの大精霊もいるし、国王派はもう何も為す術がないんじゃないかな」
セルダは最後には囁くように言ってきた。なぜか彼女から微かに不安な感じが伝わってくる。
「ぼくは……」
セルダは誰にも聞き取れないような、声にならない何かを呟いた。
なに?
「イシュルさま」
イシュルがセルダに何と言ったか聞こうとすると、ミラが声をかけてきた。
「後でふたりきりでお話したいことがございます。よろしいですか?」
心なしかミラの声も少し揺れて聞こえた。
みな不安なのかな。
「わかった」
イシュルはミラにしっかりと頷いてみせた。
セルダはそっと、イシュルから離れていった。
ふたりが部屋の中央に立っている。
セルダは彼女の自室に去り、ルシアとネリーは部屋の外に出された。
「シャルカ、この部屋のまわりに怪しい者がいないか警戒して」
ミラは背後に立つシャルカに命ずると、イシュルにより近く身を寄せてきた。
「さきほどセルダが言った件です」
彼女は背伸びし踵をあげ、イシュルの耳許に顔を寄せ囁いた。彼女の掌がイシュルの胸に当てられる。
「イシュルさまは、誰が本物の紅玉石を持っているかご存知なのですか」
ミラはイシュルの耳許から顔を離し、正面からイシュルを見上げてきた。
彼女から甘美な色香が漂ってくる。彼女の眸が濡れている。
だが、彼女の口にしたことは秘事の核心に触れることだ。彼女の心は緊張に震えている。
「……」
イシュルは黙って笑みを浮かべた。
ミラには話そう、ふたりの姉妹のことを。
そしてミラの両肩を掴み、今度はイシュルがミラの耳許に顔を寄せ、その名を囁いた。
陽が傾き、内輪山の西側斜面を赤く染めている。
イシュルは集落に立つ櫓の屋根の上に登り、ウーメオの舌がある内輪山北東部に目をやった。
そしてそのまま言った。
「よろしくたのむ。ナヤル」
イシュルの横に浮いていたナヤルは、無言で笑みを浮かべると、青い夕闇に溶けるようにして姿を消していった。
だいぶ遅れてついさきほど、イシュルはナヤルに指示を出し終えたのだった。
彼女に与えた指示、エンドラが出発するまで鉱山集落に残り、その間セルダの護衛をしつつ集落内の国王派の動きを牽制する。エンドラのパーティが集合してウーメオの舌に向かいはじめたら、彼女らの護衛に切り替える——ことにナヤルは何の文句もいわず、唯々諾々と従った。
昼過ぎ、ミラの宿泊先で正義派の会合がもたれた後、国王派の影働きによる思わぬ妨害が行われ、イシュルもナヤルもその対応に追われた。
おそらく人夫たちの間に潜んでいた影働きの者たちであろう、その者らによって、集落北側の鉱山にほど近い、人夫たちが宿泊している小屋に火がつけられたのである。
イシュルはすぐに現場に向かい、近くにいた正騎士唯一の知り合いであるリバル・アビスカにひと声かけると、周囲の小屋を風の魔法で潰し延焼を防いだ。そしてナヤルに、エミリアたちの宿泊する家を特に厳重に警護するよう頼むと、自身はミラたち宮廷魔導師らが宿泊する鉱山頭の家に向かった。
鉱山頭の家の裏側には案の定、小さな松明に火をつけ、油の壷や小枝の束を持った雑役人夫のふたり組がいた。人夫の男たち鉱山頭の家に火をつけようとしていた。
イシュルが彼らを始末しようとしたちょうどその時、鉱山頭の家の二階の屋根の張り出しから、ネリーが飛び降りてきた。
イシュルは裏手の物置小屋の屋根の上に飛び上がり、そこから彼女に声をかけた。
「ネリー! 待て」
ネリーは抜刀し、加速の魔法を使おうとしている。
「イシュル?」
ネリーが振り向くと同時、イシュルはふたりの男たちを消し去った。
「やつら、この家に火をつけようとしていたろう?」
ネリーはちらっと消えた男たちの方を見やると、剣をおさめ、イシュルに声をかけてきた。
「まさか鉱山頭の家に火をつけようとはな」
イシュルは微かな笑みを浮かべて言った。
「国王派は、正義派と関係ない宮廷魔導師たちが焼け死んでも構わないらしい」
実際はその程度で彼らを殺すことなどできはしない、だがそれでも……。
イシュルは彼らのなり振り構わぬやり方に腹腑(はらわた)が煮えくり返るような怒りを憶えた。
そう、やつらは人夫たちの家にも火をつけたのだ。
もし周囲に火が燃え広がったらどうなる? この聖石鉱山は聖地ではないのか。
ビオナートは聖地が火で焼かれようと、領民に多くの人死にが出ようが構わないわけだ。
己の野望のために。
国王派の影働きはイシュルの予測どおり、エミリアたちの滞在する家にも同時に火をつけようとしていた。そちらはナヤルが始末した。
人夫たちの家に火をつけたのは、こちらの監視の目を逸らすための牽制だ。やつらの目的はミラやエミリアたちに直接危害を加えることだった。
だがそれだけじゃない。
もう正義派の計画がやつらにばれていることは確実だろう。
さきほどの会合でエンドラを呼び寄せ、紅玉石の授受をその場で終わらせてしまおうとも考えたが、それを実行に移さなかったのは正解だったかもしれない。
そのことがもしやつらに知られれば、鉱山集落全体が戦場になっていたろう。
火事の騒動から後も、鉱山頭の家やエミリアたちの宿泊する家には、窓に矢が撃ち込まれたり、石が投げこまれた。ナヤルだけでなく俺自身も警戒に時間を割かねばならなくなった。
これでやつらのねらいが明確になった。俺やナヤルをこの集落に貼付けにし、その間にウーメオの舌周辺に、黒尖晶など国王派の影働きの者たちを集結させようとしているのに違いない。
この後も紅玉石の授受が終わるまで、いや、終わった後でさえ、何らかの妨害工作が続くかもしれない。
ナヤルは状況の変化に、鉱山集落に残れというイシュルの指示に、何の不満も見せず応諾した。
結局あれから、俺はウーメオの舌周辺の偵察を、たった一度きりしか行えなかった。しかも時間を絞って上空からさっと周囲の内輪山や森を見渡しただけだ。もし国王派の影働きが息を殺して物影に潜み、気配を消していたらこちらは気づけない。
そしてこの日没間際の時間が、広域で探索できる最後のチャンスになる。
イシュルは大きく息を吐くと、ウーメオの舌周辺を見つめた。
そして目をつむり意識を集中すると、足許の鉱山集落からウーメオの舌背後の内輪山まで、周囲一帯に微風を吹かせ、細い角柱状に細分化し密度を薄めた風の魔力の塊を、無数に上から下へ突き刺した。
森の中の山鳥や野鼠など、小動物らしき気配を意識から削ぎ落としていく。
ひとの動きはない。……それから動かないひとの形のようなもの。それは岩や、木々や蔦がからまっただけかもしれない。だが万が一、ということはある。
イシュルは風の魔力の塊の角柱を、感知したものそれぞれに集束させ密度を増し、破壊した。
日が完全に暮れてしまえば、視界が効かなくなる。そうなれば、こちらが探知できる距離は五〜六百長歩(スカル、約三〜四百メートル)ほどになってしまう。飛行したり加速の魔法が使える相手なら、あっと間に詰められる距離だ。
微風を吹かせたり、風の魔力の塊を使った探索は、夜間でも視認できる範囲なら探知半径の外側まで広げていけるが、視界が悪い分当然、魔法の確度が落ちるし、その間はそれなりに意識を集中しなければならず、他の魔法を使うのが厳しい状態になる。
イシュルは再び大きく息を吐き出し、櫓の屋根に腰をおろした。
それにこの魔法は疲れる。これから本番にかけて、魔力の、精神力の消耗は抑えておきたい。
イシュルは頭を西に向け、暮れなずむ夕陽をぼんやり見つめた。
周囲に風の魔力の壁を張る。
最初は高い密度で。そしてすこしずつ密度を下げていく。魔力をあの領域に返していく。
それからまた、風の精霊界らしき領域から魔力を戻し、壁の魔力の密度をあげていく。
イシュルは日没後もずっと櫓の屋根の上にあって、それを何度か繰り返した。
夜になってから、国王派の妨害は鳴りを潜め、集落内には静寂が訪れた。夜になれば鉱山の仕事も終わり、出歩く人びとは少なくなる。
やつらは、俺とナヤルに隠れ身の魔法が効かないことを承知している筈だ。集落内を歩く人びとがいなくなれば、人夫に化けたやつらも彼らの中に紛れて出歩くことができなくなる。
周りにひとがいないのだ。無理に何かしようとすれば、ナヤルによってすぐに消される。
イシュルは集落全体を見渡せる櫓の上にいて、時折眼下に目をやりながら最も恐れていること、ウーメオの舌で敵味方、いや、状況によって敵か味方かわからない者どうしが入り乱れて戦う、乱戦になった場合にどう対応するか考え続けていた。
イシュルはまた周囲に風の魔力の壁を張り、魔力の密度の上げ下げをはじめた。
まるで何かの感触を確かめるように。
三日月が中天高く上がっている。
イシュルは集落の先、百長歩(スカル、約六十〜七十メートル)ほど離れた木々の切れ目に、複数の人影が集まりつつあるのを認めた。あそこが昼間に決めた集合地点になる。時々集まる者の面体を確かめているのか、ぼうっと小さな明かりが灯る。火の魔法を使っているのはピルサにピューリの双子だろう。
時はきた。
イシュルは立ち上がった。
眼下を鉱山頭の家からひとり、神殿の隣に立つ建物に向かう人影が見える。人影の頭上には赤く輝く炎の揺らめくような、姿のはっきりしないものが長く尾を引いている。あれは人形(ひとがた)になっていないがセルダの契約精霊だろう。彼女は加速の魔法も使うが本来は火の魔法使いだ。神殿横の二階家にはデシオら神官が宿泊している。
イシュルは視線を上げ、前方を見渡した。ミラたちクレンベル組はもう、ウーメオの舌目指して進みはじめている。
そしてその時、まるでセルダの動き、ミラたちの動きを待っていたかのように、東の内輪山の山陰にオレンジ色の光線が幾筋も立ち上った。
やはり潜んでいたか。
イシュルは櫓の屋根を蹴り、夜空に舞い上がった。
夜闇を断ち切るように、その煌めく光線を目指した。
ウーメオの舌まではさほどの距離ではない。イシュルはあっというまにミラたちの頭上を追い越し、空中からオレンジ色の光線の伸びる根元を風の魔法で抉った。
そしてウーメオの舌の中心に音も無く降り立った。
いないな。
イシュルは周囲を見渡した。素早く辺りの気配を探る。北と東の山側、南と西の森側、ともにひとの動く気配はない。
イシュルは飛び上がり、内輪山東側山頂に降りようとした。
イシュルの足、爪先が山の頂に触れようとした時、今度は山の裏側から再びオレンジ色の光線が立ち上った。イシュルは再び風の魔力を呼び、根元に突き落とそうとした。その瞬間、今度は眼下の山の斜面から、左右の山の稜線から、魔法の煌めきとともに複数のひとの気配が現れた。
何かが向かってくる。
イシュルは風の魔力の壁を右側面に出現させると足で蹴り飛ばし、左に直角に方向を変え跳躍した。
そのすぐ右側を鋭く尖った鉄の刃が交差した。
イシュルは動きはじめる早見の魔法を切ると、自身のからだを垂直に上へ投げ飛ばし、空中でからだを捻りながら視線を眼下の対象に向け、魔力の塊で次々と砕いていった。
まだだ。こいつら!
敵の数が減らない。
それどころか、どこに隠れていたのか山の稜線からわらわらと黒い影が現れ、弱く強く魔法の煌めきを巻き散らしながらナイフを投げつけ、空へ跳躍してエストックの刃先を飛ばすように伸ばし、イシュルを突き刺そうとしてくる。
隠れ身の魔法を使った者たちは囮だった。影の者たちは隠れ身の魔法を使わず、おそらく山の窪みや岩影に息を殺して潜み、気配を消してイシュルの感知をやり過ごしたのだ。
イシュルは早見の魔法で状況判断し、反応を切り、それを細かく何度も繰り返した。そしてある時は風の魔力の壁を使って急激に方向転換し、ある時は全身に風の魔力を巻き付けながら身を翻し、徐々に高度をあげていった。
波状攻撃だな。これは。
空中を回転するイシュルに向かってくる、異様に長く伸ばされたエストックの刃先の群れ、下から飛んでくる幾つもの投げナイフ。月光に鈍く光る無数の刃先と殺気が、イシュルの周りを突き抜ける。
黒い影は金(かね)以外の系統魔法を使ってこない。こいつらは黒尖晶だ。
イシュルを中心に渦を巻くように敵の攻撃が繰り返され、積み重なっていく。
数本の尖った刃先がイシュルの足許をかすめ交錯した。それが最後だった。その瞬間、イシュルは夜空に積み上げられた争闘と暴力の螺旋の頂点に立った。
黒尖晶の攻撃はもう届かない。イシュルの足下には無数のエストックの伸び切った刃先、武神の魔法具で異様な高さまで跳躍した黒い男どもが宙に浮いていた。
そしてイシュルは眼下に渦巻く彼らへ、無数の風の魔力の刃を突き刺した。
黒い影はみな、声ひとつ立てなかった。
魔力が開放され夜空に血と土の煙りが舞い立つ。
その霞んだベールの先、遠方に、魔力の大小の煌めきが幾つも浮き上がった。鉱山集落の方だ。
イシュルは目を細めた。
向こうで何か異変が起きている。
「ナヤル、何が起きた」
イシュルはナヤルに呼びかけた。
この距離では彼女に通じないのだろうか。彼女からの応答がない。彼女の存在を感じない。
イシュルは視線を下に向けた。下は夜の闇に暗く沈んだ煙りで覆われている。その下に松明の火がひとつ灯った。
イシュルは風を起こして煙りを払った。
ウーメオの舌の中心部、真っ黒に染まった溶岩の上にミラたちがいた。彼女らはイシュルが黒尖晶と戦っている間に眼下の目的地に到着していた。
イシュルは周囲を警戒しながらゆっくりと高度を下げていった。
揺らめく炎に照らされて、ミラやエミリアたちが心配そうな顔を向けてくる。松明はクートが掲げていた。
イシュルは右手を空に伸ばし、エミリアたちから教わった手信号で、“三日月、大丈夫、大丈夫”と送った。
うまく月明かりが指先に当たってくれればいいが。
イシュルはミラたちのもとへ降り立とうとした時、今度は内輪山の北側から、何本ものオレンジ色の鋭い光線が立ち上がった。それぞれ適当に距離が空き、分散している。
イシュルは唇を歪めて笑みを浮かべた。
もうおまえらの誘いには乗らないよ。
光の筋の根元を断とうと接近すれば、再び多くの人数を投入して波状攻撃をかけてくるか、あるいはあの時の鏡の魔法具を使ってくる可能性もある。鏡の魔法具は距離があって映るものが小さく、あるいは暗くて判別がつかなければ、その効力を発揮しないだろう。
イシュルはその場で内輪山北側斜面を風の魔力で切り裂き砕いた。
そしてその魔力を、山の形を変える勢いで山の頂の反対側斜面まで拡張していった。
やつらがいようといまいと関係ない。一気にすり潰す。
辺りを揺るがす轟音が夜空に広がり、土煙が星々を隠していく。
イシュルは空に風を北向きに吹かせて土煙を拡散していった。
内輪山の北側斜面から大小の岩がこぼれ落ちていく。イシュルはミラたちに目を向けた。みな呆然と、山頂部が広域にわたって抉りとられた、形の変わってしまった北側の山を見ている。
崩れ落ちた大小の岩は彼女たちの所まで来ていない。
イシュルはひとつ大きく息を吐きだした。
視線を再び周囲の森や山影に向ける。
これで国王派の襲撃が終わる筈がない。次はどこから来る?
とにかく当初の、東側の山に占位する件はやめだ。向こうがまだ内輪山東側に戦力を残してるか微妙なところだが、あんな攻撃を続けられたらミラやこれから来るエンドラたちを護衛することができなくなる。
ん? 今までの攻撃は何かの牽制か。……俺をこの場に引きつけるために?
何を? 鉱山集落か? だが集落にはナヤルを残している。
イシュルは宙に浮いたまま、ウーメオの舌の南東部、森のはじまるあたりに移動し、やや高度を上げた。
鉱山集落の方を見ると、森の中を数人、こちらへ近づいてくる気配がある。
暗く沈んだ森の中に松明の明かりが揺れる。
やがてエンドラたちのパーティが姿を現した。
「数が少ないな」
確か彼女のパーティは男、女各三名ずつの計六名だった筈。松明を掲げた男、次がエンドラ、後ろに男がひとり、三名しかいない。
何かあったのか。ナヤルの気配もない。
彼女はまだ鉱山集落の方に残っているのか?
松明の炎が揺らめいた。
彼らはウーメオの舌をミラたちの方へ歩いていく。ミラたちの集団からエミリアが進み出てきた。少し遅れてエミリアの右側をミラ主従が出てくる。
ウーメオの舌のほぼ中央、エミリアとエンドラが向かい合った。
エンドラのパーテイの男たちは彼女の後ろに控えている。ミラが姉妹の横に移動する。
エミリアはそれほどでもない。ミラはなかなか堂々としている。エンドラは少し顔を強ばらして緊張しているようだ。彼女からは何かの魔力が滲みでている。防御系の無系統魔法が発動しているのか……。
その時、何かが大きく動く気配。
イシュルは視線を鉱山集落の方へやった。
隠れ身の魔法の断続的に煌めく光の筋、大小の魔力の発現、そして多くのひとの早い動き。みな、すべてがこちらへ向かってくる。
鉱山集落からいっせいに現れた者たち、バスアルら正騎士の一団、国王派の傭兵たち、そしておそらく人夫に混じっていた影働きの者、彼らが主力だったのか。数で押し切る気か?
ナヤルはどうした。
何かがおかしい。
とにかく、集落から向かってくる連中はもう少し引きつけてから一斉に片づける。
これからが本番だ。
イシュルはウーメオの舌に目をやった。
クートがミラのすぐ横の方まで出てきて、エンドラの後ろにいる男たちに何か声をかけている。彼の怒ったような声音からすると、あまりいい感じではない。
同じ紫尖晶の影働きだろうに。仲の悪いやつでもいるのか。
シャルカが鉱山集落の方を見ている。さすが、彼女はもう気づいたらしい。
イシュルは国王派の襲撃を一気に屠ろうとさらに高度を上げていく。
その時向かいの森の中から突如、青みがかった黒い影が飛び出してきた。それはもの凄いスピードでウーメオの舌の上空に浮かびあがると、青い光を帯びて周囲に拡散した。
そして薄く青白く輝く魔法陣が浮かびあがる。
まずい、闇の精霊か?
あれは……。
イシュルは一端距離を置こうと、背後の東側の山の方へ全身をすべらした。
その時だった。
耳許を風が切る。耳鳴り、そしてバチンと音がした。
……!!
世界が切り替わった。
夜空に浮かぶ魔法陣が光り輝く無数の粒となって消えていく、そこで静止している。
あれは魔封の結界か。
いや、何かがおかしい。時が止まっている。
早見の魔法は起動していない。
世界のすべてが止まっている感覚。
俺も止まっている。
なのに、思考は止まっていない。……首も少し動かせる。なぜだ。
ミラたちを見る。
エンドラが。
松明の炎の揺らめき、それも止まっている。固定された炎の色。
その色彩の中でエンドラが、向かい側に立つエミリアを刺そうとしていた。
エンドラは大振りなナイフを持ち、刃先をエミリアの胸に押し付けようとしている。
待て! やめろ!
声にならない。俺の声は彼女たちに届かない。
世界のすべてが動きをやめているのに、エンドラの右腕だけが動いていた。
鈍く光るナイフの先がエミリアの胸に吸い込まれていく。
エンドラの左腕が持ち上がり、エミリアの首もとへと伸ばされていく。
おまえは奪い取るのか。もうひとつの本物の紅玉石を。
だめだ! どうして……。
裏切ったのか、エンドラ。
遠く、どこかで聞いた女の哄笑。
無音の世界に、幻のように……。
イシュルはふと夜空へ視線を向けた。
真っ黒い空には大きな、大きな月が、満月が浮いていた。
今は三日月の筈なのに。
満月を覆う月の光輪。月輪(げつりん)を背負って少女がひとり、黒い影になって夜空に浮いていた。
スカートの長い裾が微かにはためく。肩にかかるほどの長さの髪がさわさわと揺れている。
少女は俺を見おろしていた。
メリリャは無言で俺を見ていた。
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