月輪の夜 1




 鉱山の数十戸あまりの集落、その広場に幾つもの篝火が灯された。

 カハールからの輸送隊は広場で荷を降ろし、人夫や兵士らが、広場の東側に並ぶ倉庫に運び入れている。部隊を率いてきた騎士団の隊長や、おそらく査察役であろう神官らが、出迎えた鉱山頭やデシオら神官、バスアルらと談笑しているのが見える。

 傭兵たちはひとかたまりになって、鉱山に常駐している神官見習いの少年の話を聞いている。宿泊の割当ての説明だったのか、神官見習いの話が終わると傭兵たちは散り散りになって、空いている小屋の立ち並ぶ方へ、篝火の灯が届かない暗闇へ消えて行った。

 エミリアたち女の傭兵は広場近くの、二階建ての漆喰の壁の家に一緒に宿泊している。その建物の方へ三人ほどの人影が歩いていく。その中にひとり、長い髪を後ろに縛ったポニーテールの女がいた。

 彼女だ。あれがたぶんエンドラだ。

 イシュルは櫓の上から彼女の黒い影を見つめた。

 傭兵の女たちはクレンベル組やカハール組、そしてパーティにかかわらず皆同じ家に宿泊するようだ。それなら彼女は今晩中に姉のエミリアと再会し、正義派の今の状況と、紅玉石の受け渡しに関する昨日の決定事項を知らされることになるだろう。

 それは結構なことだが……。

 イシュルは夜空に眸を彷徨わせ、短く息を吐いた。

 デシオを彼自身の疑惑から排除した。本来なら紅玉石の受け渡しを仕切る筈だった中心人物がいなくなったことで、計画に大きな齟齬が生じた。危機感を感じてミラを輔佐するために、自ら種々の取り決めに介入した。今日もクートと小屋の中で話し合い、エミリアたちに指示を出した。ミラにはあくまで明日夜、日没後三刻開始の以前の予定のまま、デシオと話を進めるように指示した。

 ミラは、当日は国王派による激しい妨害が予想されるので俺と対応策を考える、とデシオに伝え、彼には決定事項を後で報告する形に持っていった。もちろん、すべてを彼に報告する必要はなく、どこまで教えるかはこちらでコントロールできる。

 ナヤルによってデシオの内通疑惑が露見したことで、これから先は国王派の妨害もうまくさばけるようになるかもしれない。

 だが、この状況はどうだろう。

 俺としては大きな不安を感じざるを得ない。

 これでうまく事が運んでいると言えるだろうか。

 最初から、正義派の計画には何かが足りない、しっくりこないものを感じる。デシオの疑惑がなかった、彼が中心となって事を進めていたとしてもだ。

 聖堂教会の総神官長をはじめ、正義派は何をどう考えていたのだろうか。

 彼らはウーメオの舌で行われる秘事を半ば儀式と考え、そのことにとらわれて敵の妨害の危険性を軽視していたのではないか。

俺には前世の経験もある、人を手配し動かし仕事をこなした経験もある。だが当然、組織的な戦闘や諜報に関しては素人だ。デシオはどうだろう。彼には総神官長の片腕として、申し分のない手腕があるのだろうが、どちらかと言えば政治的な調整力に優れ、戦闘に関する知識や判断力はあまり持ち合わせていないように思える。それを輔佐するのがミラなのだろうが、彼女も魔法に関する戦闘知識はあっても経験は少なく、諜報分野にいたっては実践的な知識はほとんど持っていないだろう。

 情報が国王派にだだ漏れになる危険性は無視できないが、それこそ尖晶聖堂の幹部にでも指揮を執らせるのが、最も安全確実な方策だったのではないか。目的に対して人選が合っていないのだ。

 正義派にひとはいないのか。聖都は複雑な状況で、聖王国の国政上の問題で、そういう人物を手配できなかったのか。

 今ここには、明日の夜にせまった重大事の指揮を執れる、戦闘や諜報に精通した統率者がいないのだ。

 俺が聖石神授に参加したのがまずかったのだろうか。本物の紅玉石を持つ者がエミリア姉妹であるのはいいとしても、それをあらかじめ知る者は総神官長とおそらくごく一部の側近だけ。防諜上の配慮はわかるが、目的遂行の確実性が脆弱で不安ばかりが先立つ。俺が参加することで返って国王派の警戒を強めてしまった、俺が参加しない方がむしろ彼女らの安全性が保たれたのではないか。

 ……いや、それはすでに多数の正義派が動いている時点で意味をなさない。

 そのことは以前に、俺自身がデシオに言ったことだ。

 イシュルは唇を噛んだ。

 今は薄雲に隠れた三日月にちらっと目をやる。

 もしこの状況で月神が、神々が何かしてきたらどうする? それは俺個人の問題で済むだろうか。

 国王派に優れた指揮官がいたらどうなる? こちらはいいようにやられてしまうのではないか。

 危うい……。言いようのない不安を感ぜずにはいられない。

 俺にできることは何だ。この状況を打開するには何が必要だ?

 そんなこと、わかってる。

 俺の力だ。風の魔法をどう使う?

 それが結局は敵に打ち克つ切り札になる。

 今の俺にはそれしかないのだ。


 イシュルは櫓の上から飛び降りると、建物の影を伝って滞在している小屋の前に戻ってきた。

 扉の脇には、粗末な木の皿が重ねてられている。夕食時に配られた食器類だ。鉱山で働く下働きの者たちが運んでくる。

 その脇には水壷が置かれている。中にはもうあまり水が入っていない。イシュルは食器はそのままに、水壷を抱えて集落内に散在する井戸のひとつへ向かった。

 壷に水を入れ小屋の前まで戻ってくると、小屋の奥の角からひとの手が突き出され、指を開いたり閉じたりしている。

 “三日月、エミリア、来て” “三日月、エミリア、来て”

 五本の指の動きはイシュルにそう伝えてきている。

 三日月はイシュルとエミリアたちパーティで決めた、味方を告げる符牒だ。聖石鉱山に向かう道すがら、イシュルはエミリアたちから彼女らの使う手信号の幾つかを教えてもらったのだった。

 わざわざそんなことしなくてもいいのに。

 広場からはまだ、多くのひとの気配が伝わってきている。

 イシュルは水壷をそっと地面に置き、わずかに頭を上げると、周囲の気配を探った。微風を吹かせて、念入りに確認する。

 あの突き出された手の先にはひとりか、もうひとり、都合二人のひとの気配、他に怪しい者はいない。隠れ身の魔法も使われてはいない。

 イシュルはそっと近寄ると、その突き出された手をいきなり掴んだ。

「きゃっ!」

 小さな叫び声とともに掴んだ手がぶるぶる振られる。

 イシュルはエミリアの手を掴んだまま素早く小屋の角を回り込んだ。

「もう! びっくりさせないでよ」

 エミリアは驚いてイシュルに文句を言ってきたが、あくまで小声で、囁くように言ってくる。

「ふふ、えらいじゃないか。びっくりして叫んでもあくまで小声。さすがだな」

 イシュルも小声でエミリアをからかう。

 本当はプロならいくら小声だろうと、叫んじゃだめだと思う。でもまぁ、彼女も遊び半分で手信号をやってきたのかもしれないが。

「当たり前でしょ」

 イシュルがエミリアの手を離すと、彼女はその手を片方の手でさすって握りしめた。

 夜闇にエミリアが俯くのがわかる。彼女は何か、照れているのだろうか。

 ふざけてだが俺が手を握ったから?

 それは自意識過剰、思い上がりか。

「大丈夫。周囲に怪しい気配はないよ。でも可愛いらしい声だったな」 

「ふん!」

 エミリアがそっぽを向く。

 小屋の影で周りは暗い。彼女の表情がよくわからないのが、ちょっと残念だ。

「ねえさん達、ずいぶん仲がいいのね」

 エミリアの後ろの人影がぼそっと言ってくる。口調はぜんぜん違うがあの時の声だ。

 ルドル村で襲ってきた女。彼女の声だ。

「久しぶりだな。エンドラ」

 イシュルはいきなり、かつて自分を殺そうとした女の名を呼んだ。

 そして視線を彼女の右腕にやり言った。

「そのガントレットは新しいやつか? あの時は壊れちゃったからな」

「うっ……」

 エンドラが言葉をつまらす。

「まぁまぁ、イシュル。あの時のことはわたしからも謝る。妹も上から命令されてやっただけだし……」

 エミリアが横から割り込んでくる。

 イシュルはエミリアのとりなしを流し、エンドラの顔を見つめて言った。

「あんたは影働きだからな。やり返すならあんたに俺を殺すよう命令したやつ、ということなんだろうが……。だがこちらはおまえを殺さずに逃がしてやったんだ。そのことに関してはお礼のひとつくらいあってもいいんじゃないか」

 エンドラは暗がりに沈み、どんな顔をしているのかはっきりとわからない。

 あの時といっしょだ。

 草原で悪霊、闇の精霊を放ってきた夜と。

 イシュルはそして、「あの後ちゃんと紫尖晶の上のやつに俺の伝言を伝えたのか?」と続けた。

 イシュルの伝言とは要は「俺に手を出すな」と言うことだった。あの時は辺境伯が差し向けた刺客の可能性が高い、と判断していたのだ。

「も、もちろん伝えた。あの時のことは……」

 エンドラの動揺が伝わってくる。

「……ごめんなさい」

 エンドラが顔を俯け、片手を胸元にやり握りしめた。

 彼女の小さな拳に強い力が込められているのが、暗がりでも伝わってくる。 

「ねえさんから聞いたわ。ねえさんたちを助けてくれたって」

 なんだろう? クレンベルの街はずれでエミリアたちが襲われていた時のことか。

「あの、イシュル?」

 エミリアがまた横から入ってくる。

 おまえの気持ちは何となくわかる。だがちょっと待て。

 イシュルはエミリアにちらっと顔を向けると、エンドラに言った。

「それより、紫尖晶の上役に俺を殺すように命じた、さらに上の人物がいるだろう。それは誰だ? 最後はビオナートにたどり着くんじゃないか?」

「う、うん。……多分」

 エンドラが自信なさげに答えた。

 相手は彼女の上役のさらに上の、そのまた上の、文字どおり雲の上の存在だ。彼女らに聞いてもはっきりした答えなど返ってこないのはわかるのだが……。

「前に話したことだよね? わたしは国王さまだと思うよ」

 エミリアが再び横から言ってきた。

 彼女が前に話した、というのは俺を殺すか怪我をさせて赤帝龍討伐から脱落させ、赤帝龍にクシムにより長い間居座ってもらい、ラディス王国を牽制してもらおうとした、というやつだ。

 確かにそれはいかにも聖王国の国王か、国王に近い要路の者が考えそうなことだ。だが、俺があの時死んでいれば、風の魔法具の所有者はエンドラに代わるか、風神の元に返されるわけで、いずれにしろ赤帝龍がクシムに居座る理由はなくなる。

 つまり、聖王国の枢要にある者、あるいはビオナート本人は、赤帝龍がクシムに居座った理由を知らないわけだ。

 彼は疑問に思わなかったのだろうか。他国のことだから気にしなかった?

「イシュル?」

 考え込んだイシュルにエミリアが声をかけてくる。

 まぁいい。ビオナートの野望、やつの視野に神の魔法具が入っていないのはミラの話からも確かだ。

「ああ、ごめん」

 イシュルはエミリアとエンドラ、ふたりを見渡して言った。

「まぁいいさ。いずれビオナートに直接聞いてやる。その機会もいずれ訪れるだろう」

 イシュルはわざと一拍おいて言った。

「やつはかならず、俺の手で誅す」

 エンドラではない。黒尖晶やふたり組の殺し屋を差し向けてきたことといい、この借りはやつの命でしっかりあがなってもらう。

「……」

 暗闇の中で、エミリアはおそらく微笑んだろう。エンドラからは緊張が伝わってくる。

「エンドラ」

 イシュルはエンドラの顔を見つめた。

 ほんの微かな彼女の眸の光。

「おまえは将来、エミリアと孤児院をやるんだろ?」

「それは……」

 エンドラの影が大きく揺れた。

「おまえたちが本物を持っていること、俺はもう知っている」

 イシュルはエミリアから聞いたから、と続けた。

 暗がりでエミリアが「イシュル……」と呟く声が聞こえる。

「それでおまえたちの将来の夢も聞いてしまった」

 俺にだって少しくらいの義侠心はある。

 俺にだって大切に守りたいものがある。

 ……だから。

「そんなやつを殺すわけにはいかないだろう」

 イシュルは歯を見せて笑みを浮かべた。

「だから、頑張れよ。孤児院」

 エンドラの眸の光が微かに揺らいだ。


 頭上にかかる枝葉の影に、鋭い曲線を描く三日月が見え隠れする。

 もう広場の喧騒も聞こえてこない。ふと顔を上げると、木の間に月の見せる尖鋭な輝きに目が奪われる、そんな静かな夜になった。 

 イシュルたちは集落の端、塀の傍の木々の下に移動して、声を潜めて密談をしていた。

「まかせて。そのことはもうエンドラに話してあるから」

 エミリアが胸を張って得意げに言った。

 明日夜にウーメオの舌で行われる紅玉石の受け渡しにおいて、参加するメンバーを絞って欲しい、とイシュルがエンドラに話をはじめると、エミリアがそう言って割って入った。

 エミリアはエンドラが宿舎に入ると、再会の喜びに浸る間もなく、昨日湖畔でイシュルが話したことをエンドラに説明したということだった。

 エンドラと同時に宿舎に入ったふたりの女性も、エンドラと同じパーティで正義派として動いている。エンドラの所属するパーティは他に男が三名、カーハルから来た傭兵のパーティにはさらにもうひと組正義派がいるという。

「明日はわたしと所属するパーティの面子だけで参加しようと思う」

 エンドラが少し固い口調で言った。

「エンドラも入れて全部で六名か。それでいいんじゃないか」

 イシュルは頷いて言った。

「それで、あの、わたしはウーメオの舌についたら、儀典長か査察使から指示を受けるように言われていたんだけど……」

 イシュルはエミリアに顔を向けた。

 エミリアはひとつ頷いて言った。

「当日夜、ウーメオの舌に出向いたら、そこで儀典長とディエラードさまに、わたしたちが本物の紅玉石を持っていると申告することになっていたの」

今度はイシュルが頷き返した。

 儀典長は参加しないがな。

 イシュルはエンドラを見て言った。

「エミリアから聞いたと思うが、儀典長は国王派に内通している疑いがある。明日の紅玉石の受け渡しは査察使のミラ・ディエラードが参加するから、予定通り彼女に渡せばいい」

「わかった」

 エンドラは素直に頷いた。

「もうひとつのパーティはどうする?」 

 エミリアが聞いてくる。

「ここに残って、集落にいる者たちの監視を続けてもらえばいい。明日の夜、集落の方で何かとんでもない異変があれば、ウーメオの舌にいるきみらか、ミラか俺に知らせてもらってもいいが……」

 エミリアたちにはクートを通じて、今日から彼女ら自身の身を守ることはもちろん、国王派と思われるパーティ、集落に大勢いる人夫たちや、以前からいる下働きの者たちをそれとなく監視するよう指示してある。

 クレンベルを出発して二日目、早朝に襲ってきたふたり組のように、雑役人夫たちにも国王派の走狗が紛れ込んでいるかもしれない。もしその者たちが多人数の実力者揃い、大きな戦力であれば、当日は大変なことになるかもしれない。

 デシオの件もある。国王派が明日夜に正義派が動くことを知っている可能性はあるのだ。

「いや、知らせなくていいかな。当日、バスアルら騎士団の連中をはじめ、多くの者が俺たち正義派の妨害に出てくる可能性が高い。だが、無理に奴らと戦う必要はない。妨害してくる者は皆、ウーメオの舌に引きつけて俺の方ですべて始末する。知らせに来てもらっても、カハールから来た連中はよく知らないから、間違って殺してしまうかもしれない。」

「……わ、わかった」

「わかったわ」

 エンドラは微かに息を飲み、うわずった声で答えた。エミリアはイシュルの実力を嫌というほど見てきている。彼女は平然と、いつもの感じで答えた。

「ウーメオの舌で紅玉石の受け渡しが行われる時間帯は、ナヤルをここに残すかもしれない。セルダを儀典長に張りつかせるからな」

 イシュルはそこで言葉を切った。

 デシオが裏切っていた場合、セルダが危険な状況になるかもしれない。集落に滞在する人夫たちに黒尖晶のようなやつらが混じっていたら、彼らがデシオを自由にするためにセルダを襲ったら?

 セルダは殺されるかもしれない。

 自由になったデシオが国王派を率いてウーメオの舌に乗り込んできたら?

 あの男は総神官長に近い。もし仮に互いが入り乱れての戦闘状態になって、彼の裏切りが確実にならなければ、彼を事前に殺してしまえば、こちらの立場が悪くなる。

 ナヤルを鉱山集落に残す意味は充分にある。

 ナヤルには精霊神の鏡の魔法具も効かないだろう。精霊は鏡に映るも映らないも自由、鏡の向こう側に行くことだってできる。ヨーランシェはあの時、鏡の中に現れたのだ。

「ナヤルって誰?」

 エンドラがエミリアに聞いている。

「イシュルが召還した風の大精霊よ」

「だ、大精霊……」

 エミリアから説明を受けたエンドラが呆然としている。

「……呼んだ?」

 大人の女の声がした。

 その艶のある声とともに、エミリアたちの頭上に薄く柔らかく輝くナヤルが現れた。


「ちょうどいい」

 イシュルはナヤルに声をかけた。

「えっ……」

 エミリアはともかく、エンドラが暗がりにもはっきりと驚き、脅えているのがわかる。

 ナヤルは何もない暗がりから急に声をかけてきたが、特に派手に現れたわけではない。エンドラが驚くのはしょうがないとしても、恐れる必要はないと思うんだが。

「エミリアの他に、彼女もみてもらえるかな。この娘もあの紅玉石を持ってるんだ」

「ふーん。そうなの?」

 ナヤルは目を細めて、エンドラを露骨に値踏みするような目で見た。

 エンドラが固まる。

 イシュルは鉱山集落に着いてから、自身だけでなくエミリアの護衛もナヤルに頼んでいた。

「まぁ、剣さまのご命令だから従いますけど」

 ナヤルが不満を隠そうとしない。地神の魔法具がからんでいるからだろうか。

 エミリアの時はそうでもなかったのだが。いろいろと、あれもこれもと頼み過ぎたからだろうか。

 ナヤルには毒見や周囲の警戒、夜間にはデシオの監視や俺の警護など、以前から頼んでいることに加えて、鉱山集落に着いてからはエミリアの警護もお願いしている。エミリアから本物の紅玉石を持っていると知らされたからだ。

「ナヤル、ごめんな。いろいろと頼んで」

「それはいいの。それよりこの前、剣さまは大きな荒事が起きるかもしれないから詳しく説明する、って言ったのに、まだそれがないのはどうして?」

 ナヤルが首を横に傾け聞いてきた。彼女が少し不満そうにしていたのはそのことか。

「明日説明するよ」

  ナヤルを当日ここに残すかも、と言ったことも彼女には聞かれたろう。ナヤルは当日暴れたい、派手に暴れられると期待していたろうから、その点が不満なのかもしれない。

 本人も以前に言っていた気がするが、宮使いで溜まった憂さを晴らしたいのだろう。彼女を鉱山集落に残す件を今話すのはやめておこう。明日の午後はミラと会って最後の打ち合わせをしたい。まだ連絡事項や確認したい事がたくさんあるし、状況も流動的で、明日の夜までに何か変化があるかもしれない。

「まだ決まってないことがあるんだ。俺も少し迷っている」

「……わかったわ」

 ナヤルの口調はまだ不機嫌さの残るものだが、彼女の表情とこちらに伝わってくる感じは悪いものではない。

「イシュルは凄いね。どこかの領主さまか、国王や将軍付きの軍監みたい」

 エミリアが言った軍監とはこの場合、軍師や参謀、戦務方、戦目付など幕僚の総称か、そのどれかを意味する。上に統率者がいなければ自らが指揮を執ることもあるだろう。

「そんなことはない」

 前世で読んだ本の記憶や見聞きしたこと、実際の仕事上の経験を活かしているだけだ。

 だから不安が拭えない。

「それじゃ、ナヤル。今晩も頼む。神官に動きはないな?」

「ええ。……またね、剣さま」

 ナヤルは頷くとそう言って、すうっと暗闇に溶けるようにして消えた。

「エミリアは明日午後にミラの滞在する鉱山頭の家に来てくれないか。パーティの他の者はいい。なるべく目につかないようにしてくれ」

 この集落では鉱山頭の家が一番大きい。ミラたち宮廷魔導師はその家に滞在している。

 イシュルはエミリアが頷くのを見ると、エンドラに言った。

「エンドラたちも昼間はそれとなく、カハールから来た人夫たちや他のパーティ、騎士団兵らの監視をして欲しい。相手に気づかれないようにな。無理しなくていいから。何かあれば俺か、聖王家査察使のミラ・ディエラードに知らせてくれ」 

「明日はディエラードさまからエンドラたちに指示がくるのかな」

 エミリアが少し不安そうな声で言ってきた。

 明日朝は、デシオにミラ、鉱山頭や鑑定職人らが神殿前に集まって、クレンベルに持ち帰る聖石の選定が行われる。

 午後はミラとの話し合いだ。

「明日の午後ミラと打ち合わせをする。その後でエミリアがミラの代わりに直接、エンドラに知らせてくれ。

エンドラはその内容を自分の所属するパーティに知らせる」

「……わかった」

「ばっちりだね」

 ふたりは頷いた。

 イシュルも彼女らに頷き返してみせたが、内心は穏やかではなかった。

 魔法による何らかの通信手段、意思疎通や情報を共有できる手段があればいいのに。

 正義派はみな鉱山集落内にあって、微妙に離れ近接した位置関係にある。そして同じようにして国王派も存在している。

 状況がよろしくない。戦闘がらみの何事かを遂行する場合、行動発起直前まで安全かつ、集団で密集して緊密なコミュニケーションのとれる状況が望ましい。

 例えばエミリアたちの滞在する家に簡易な司令部や指揮所を開設して、俺かミラが常駐し専門の伝令を配置する。正義派の面々もすべて隣接する建物に集める。そういう形が望ましいわけだ。ただ、この集落内には国王派も存在しそんな露骨なことはできないし、そう簡単にことは運ばないだろう。

 当日は防諜上、正義派のメンバーはごく少数の集団に分かれて各個に、ウーメオの舌に移動することになるだろう。その段階で、何か変事が起きたらどうなるだろうか。

 正義派全体で一致した臨機応変な対応がとりずらい状況。それは極力避けた方がいいのだ。

「イシュル?」

 考え事をはじめたイシュルに、エミリアが声をかけてきた。

「ああ、ごめん。じゃあ今晩はこれまでだな。この場で解散しよう。俺は一応、少し間を置いて戻るようにする。ナヤルに監視させてるけど、ふたりとも気をつけて戻れよ」

「ああ」

「うん。おやすみ、イシュル」

 イシュルもおやすみ、とエミリアに返すと顔をエンドラに向け言った。

「おまえもイシュル、でいいんだぜ。エンドラ」 

「なっ」

 暗闇にエンドラの人影がぶるっと震えるのがわかった。




 翌早朝、日が昇りはじめるとイシュルはひとり小屋を出た。

 イシュルが上着を羽織り、扉に向かうとクートが寝ぼけて声をかけてきたが、イシュルはちょっと出てくる、とひと言だけ言いおいて外に出てきた。

 イシュルは小屋の前に立って周囲の気配を探ると、建物の影を縫うようにして集落の外周を覆う柵の方へ向かい、足を止めずにそのまま素早く飛び越えた。

 そしてしばらく森の中を南へ歩き、木々の間に内輪山の門が見え始めたところでいきなり、空高く飛び上がった。

 強い風が当たるのを避け、気圧を一定に保つために自身の周囲を風の魔力の壁で覆い、一気に三千長歩(スカル、約二千メートル)ほどの高さまで上昇した。内輪山の海抜が千五百長歩くらいだとすると、高度は四千五百長歩(約三千メートル)ほどになる。

 イシュルは顔を南の外輪山の森の広がる方に向け、視線を左右にやり、眼下の気配を探った。そして同じ高度に浮かぶ薄雲を伝い、内輪山の東北方にあるウーメオの舌へ向かった。

 イシュルは目的地の上空まで移動すると薄雲を下へ抜け、ゆっくりと降下していった。

 眼下に広がる横にうねるような黒い溶岩の岩肌。その周囲に人の気配はない。

 イシュルは続いて内輪山の東の山陰に入って再び上昇、外輪山の北側を調べた。

 目を西方へ転ずると、内輪山の北側にある門から外輪山、その向こうの山間に伸びる街道が見えた。内輪山の北側は外輪山との距離が近く、その間の距離は数里(スカール、約二〜三キロ)ほどしかない。

 山間を縫うように伸びる街道はカハールへと続いている。イシュルは空中に浮いたまま、その街道周辺を仔細に観察した。

 ん?

 街道から少し離れた外輪山の外側、木々に覆われた麓近くに一瞬、きらっと何かが光ったような気がした。

 距離はかなりある。地龍だろうか。地龍の頭部は銀色の鱗で覆われていて、よく陽の光を反射する。

 そうでなければ人の着る甲冑である。

 イシュルは右腕をその方に伸ばすと、辺り一帯に格子状の風の魔力を展開し派手に粉砕、爆発させた。

 木々の緑が一瞬で濃い土煙に覆われる。一定の範囲まで瞬間的に広がった土煙は、その後はゆっくりと拡散し空へ盛り上がって消えていく。

 ふん。もしあれがビオナートの派遣した何かの集団だったのなら。

「ご愁傷さま、なんだがな」

 遅れて地鳴りのような低い音と、ザザザ、シッシッシッと、空気を擦るような音が響いてきた。

 イシュルは空中で身を翻すと鉱山集落の方へ帰っていった。

 イシュルが警戒していたのは、国王派が騎士団などまとまった兵力を差し向けてくることだった。

 周囲は山岳地帯である。今日の夜に内輪山北東、ウーメオの舌周辺に街道を逸れ、秘密裏に部隊を展開するには、この時点で外輪山周辺まで達していなければ間に合わない。

 イシュルはそのために内輪山から外側一帯を、空から偵察したのだった。

「剣さま!」

 イシュルが鉱山集落の手前の森の上空まで戻ってくると、ナヤルが突然呼びかけてきた。

「どうした?」

 イシュルはスピードを落とし、森の中へゆっくり降下していく。

「ラベナを襲ってきた人間の男をふたり、処分したわ」

 イシュルの正面にすうっとナヤルが薄く姿を現す。

 ナヤルは美容談義で盛り上がっていたラベナの名を憶えていたらしい。

 イシュルは森の中、鉱山集落へと伸びる細い道の上に降り立った。ナヤルもイシュルに合わせ、地上へとゆっくり降りてきた。

 始まったか。

 イシュルは視線鋭く、斜め上に浮くナヤルを見やった。



 

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