月は満ちたか




 林間に垣間見える岩肌を正面に見据え、しばらく歩くと小道は左に、西の方へ折れた。

 そして間もなく、行く手に川のせせらぎが聞こえてきた。

 道はそのまま森を抜け、川端に出た。上流に目をやると、その先に岩山が削ぎ落とされ、小さな滝が見えた。道はその滝の脇を細く続いていて、岩山の向こう側に消えている。

 あたりに煙る水煙が心身を濡らしていく。

 シャア、ザザッと、水の流れ落ちる音が心地良い。岩ばかりの滝の脇の細い道を、みな無言で一列になって抜けて行く。

 岩山を抜けるとイシュルは辺りを見回した。

「これは凄いな」

 小さく呟く。

 気のせいか気温が少し上がったような気がする。

 目の前に広がる光景は一変していた。

 滝の上には所々岩が突き出し、枯れた木の幹が横たわる浅い水底の湖、半ば湿地帯のような地形が見渡す限り広がっていた。数里(スカール、一里=六〜七百m)ほど先の対岸には、重く垂れ下がるような濃い緑の森が続いている。地熱で気温が幾分でも高いせいか、森の植生にも外輪山の外側とは違いが見られる。

 広葉樹林にソテツらしき植物や、湖に面した箇所にはマングローブのような、根が露出したような姿の木々が混ざって見える。ここは当然海岸ではないので、季節により雨量に、水量にかなり差があるのかもしれない。木の下に分かれた幹か根か、それらが水面から上に露出しているということは、今は水量が少ない時期なのだろう。

 空には西の奥の方から濛気が立ちこめ周囲に広がっている。ミラに見せてもらった絵地図には外輪山の北西部に火山が描かれてあったので、その噴煙が拡散しているのだろう。そしてその濛気にぼんやりと、緑と灰色にくすんだ内輪山の姿が見えた。

 イシュルは目を細め、かるく息を吐いた。あれが使節団の目的地なのだ。

 滝の脇を通ってきた小道は、背後の外輪山の麓に続いていた。今度は東方向にしばらく進むと、左手に広がる湖はやがてさらに水量を減らし、水たまりと岩場に下草が疎らに生える地形に変わった。ずっと右手にそそり立つ外輪山の麓に続いていた道は、その辺りで途切れた。

 そこで後ろから、背中に大盾を背負った大柄な正騎士がひとり、早足で近づいてきて、エミリアたちに言った。

「これから先は多数の魔獣が出没する危険地帯である。傭兵のパーテイから数名選抜して、使節団本隊より先行させる。わたしも同行する」

 大柄な正騎士はリバル・アビスカと名乗った。

 リバルが言うには、使節団本隊より物見を出して、地龍など強敵が現れた場合本隊に知らせる、あるいは本隊が戦闘態勢を整えるために足止めをするのが目的だという。

「俺が行こう」

「じゃあわたしも」

 一般の傭兵、魔法使いにとっては危険な任務である。イシュルがリバルに申し出ると、すかさずエミリアが続いた。

 彼女は本隊よりもむしろ俺の傍にいた方がいいだろう。

 イシュルはエミリアにかるく頷いて見せると、ナヤルに本隊の護衛を頼んだ。

 他に先頭を歩いていた国王派と思われるパーティから、エバンと名乗る小さめな弓を背負った猟兵らしき男が一名加わり、合計四名で使節団から半里ほど先行して進むことになった。

「“偉大なる屠竜”がいっしょなら楽なもんさ」

 エバンは二十代前半か、ニヤリと笑みを浮かべイシュルに調子良く言ってきた。

 偉大なる屠竜? 物語やゲームでおなじみ、ドラゴンスレーヤーのことか。ただの皮肉か。 

 それが俺なのか。

 イシュルは曖昧な笑みを浮かべてエバンの言を流した。

 いつのまにか俺に、あまりうれしい気持ちにはなれない、ふたつ名がついていたらしい。

「おお、イシュルってば、かっこい〜」

 エミリアがからかってくる。

 イシュルはエミリアを横目に睨み据えた。

「えへへ」

「……ベルシュ殿、よろしくたのむ」

 ごまかし笑いを浮かべるエミリアの横から、リバルがイシュルに声をかけてきた。

 リバルは赤銅色の顔に無精髭を生やした大男だ。表情の薄い、堅物で真面目そうな顔つきをしている。

 その黒い眸は、今は切所だ、だから派閥とか関係なしに力を借りたい、と訴えているようにも感じられた。

 この男はバスアルらとは違ってまともそうだ。

「わかった」

 イシュルは男に向かって頷いた。

 リバルを先頭にエバン、イシュルにエミリアの四人は、古い溶岩と水たまり、大小の石や砂、下草の疎らに生えた道のない地を、正面奥の森目指して歩きはじめた。

 水たまりや大きな石、溶岩の窪みを避けながら、足許に気をつけ慎重に進む。

 行く手の森には小さな窪みがあるのがわかる。あの下におそらく細い道でもついているのだろう。

 森の方からはひっきりなしに野鳥の鳴き声が聞こえてくるが、今のところは大きな魔獣の気配は感じない。

 イシュルは後ろを振り向き使節団の方を見た。隊列の後部に続く荷馬もおとなしくついてきている。

 遠目に長く伸びた隊列の中からこちらをじっと見るミラの姿が見える。

 イシュルは笑みを浮かべると前に向き直った。

  

 イシュルたちが森の手前まで来たところで、腹腑(はらわた)を抉るような叫び声が森の左手から上がった。

 左側、西へと伸びる森の木々の影から地龍が姿を現した。続いてやや小柄の地龍が三匹。母親にその子どもの組み合わせだろうか。

「!!」

「ぎぇっ」

 イシュルを除く三名が、思わず仰け反るようにして驚愕した。

 距離はかなりある。イシュルの感知には引っかからなかった。少し離れた後方の本隊から人びとがざわめき、荷馬の暴れいななく気配が伝わってくる。四匹の地龍は彼らからはよりしっかり見える筈だ。

 やるか。

 距離はあっても視界に入れば問題なしだ。

 右拳を強く握りしめ、気合いを込める。

 イシュルは風の魔力の塊で四匹の地龍をいっきに押しつぶし粉砕した。くすんだ灰色に染まった魔力の渦の中に、粉々になった地龍の頭部の銀鱗が、きらきらと光り輝いた。

 ズズン、と重い爆発とともに周囲を風が吹き荒れた。イシュルは地龍だった血煙の渦を空高く、いつもより力を込めて吹き飛ばした。

 地龍の血の匂いが使節団の周囲に少しでも残り、拡散するのはまずい。いたずらに他の魔獣を呼び寄せることになる。

「……」

「……すげぇ」

 エミリアもリバルも無言で呆然、エバンは小声でぼそっと感嘆を口にした。

 後ろの使節団もすべての者が固まって、動きが止まっているのが伝わってくる。

「行くぞ」

 イシュルはぼうっと立ち尽くしているエミリアたちに声をかけた。

「地龍をあんな簡単にやっつけちゃうなんて……、わたしたちは死にそうになったのに」

 エミリアが歩きながらぼそぼそ言ってくる。

 以前にイシュルによって無理矢理、地龍と戦わされた時のことを言っているのだろう。

「笑いごとじゃないわよ」

 イシュルがニヤついていると、エミリアが文句を言ってきた。頬を膨らませて唇を尖らしている。

「ごめんごめん」

 エミリアたちは大変だったもんな。

 イシュルはエミリアに謝ったが、どうしても笑いが浮かぶのを抑えることができなかった。

 

 イシュルたちが森に足を踏み入れたあたりで、今度は後方の使節団で複数の叫び声が上がった。

 後ろを向き使節団の方を見る。彼らの顔の向き、東の方へ目を向けると、薄く霞のかかった外輪山の山並みを背景に、黒く丸いものが幾つも固まってこちらに向かってくる。

 牙猪の群れだ。十数頭はいる。まだ距離はかなりある。

 確かに魔獣の密度が凄い。しかも大物が連続して現れた。

 今まで山頂付近を歩いてきた、というのもあるが、魔獣に出くわすのは一日にせいぜい二、三回程度だった。

 もし俺がいなかったら。さきほどの地龍が四匹相手では、宮廷魔導師五、徒歩の正騎士十、傭兵二十程度の戦力では厳しいだろう。まず神官と荷馬や雑役人夫らを先に行かせ、精霊を主力に攻撃、牽制させ、その間に土魔法で障害を築き退避する、そんな感じになるだろうか。

 人夫らの多くはクレンベルや近隣の村の木こりや猟師、専門の荷持ち(この場合荷馬を持つ運送業者)らで、彼らの足腰は神官や宮廷魔導師らよりよほどしっかりしている。山歩きも慣れているだろうから、彼らの逃げ足について心配する必要はない。

 ごろごろと丸いからだを揺らし互いにぶつけあいながら迫ってくる牙猪の群れ、あれは地龍がいたらこちらには近づいてこなかったろうから、実際にはこの頻度で魔獣が出現することはないと思うが……。

「ベルシュ殿、すまんがあの牙猪の群れも退治してくれないか」

 リバルが目を細めて牙猪の群れを見やりながら、イシュルに言ってきた。

 目の前を白く塗装された大盾が横に揺れる。

 おっと、ちょっと考えごとをしていた。

 イシュルは大男を見上げ頷くと、右手を遠く牙猪の群れの方へ差し出した。

 牙猪の群れはくすんだ茶色の煙りに覆われ、一陣の風とともに外輪山の山並みに消えた。

「ひゅー」

 エバンが口笛を吹いた。

「……」

 エミリアとリバルはもう、ただ無表情に牙猪の群れのいた辺りを見つめているだけだ。

「この大盾、なんか感じるな。これひょっとして魔法具?」

 先頭を行くリバルが前を向き、歩きはじめようとしたので、イシュルはさきほどから気になっていたことを聞いてみた。

 そばで見ると所々白い塗装が剥げ、鉄の地色が見えている相当年季の入った大きな盾だ。その盾からは重く滴るような何かを感じる。

「白盾騎士団の正騎士が持つ大盾の三にひとつは、何らかの魔法を防ぐ力があると言われているわ。白盾の名前もそこからきているの」

 リバルより早く、エミリアが答えてくれた。

 それは凄いな。かるく百名以上はいるだろう正騎士の三分の一がそれなりの魔法防御力を持っているわけか。

「あんたのもそれなのか」

「そうだ。だがそれほどたいしたものではない。あくまで盾、だからな」

 まぁ、それはそうだ。火球や水球など、盾で直接防げる魔法でないと有効ではないだろう。

 リバルはそう言うと顔を前に向け、森の中の細い道を先へ歩きはじめた。

「うん?」

 しばらく歩くと、イシュルは小さく声を発した。

 道の右手、斜め前の方から、森の中を地を這うようにしてこちらに向かってくるものがある。

 今までの魔獣や獣の動きとかなり違う。そこそこの大きさがあるようだ。

 なんだ?

 イシュルはすぐに殺さず様子を見ることにする。

 もちろんエミリアたちは気づかない。

 正体不明のおそらく魔獣はかなりのスピードで向かってくる。明らかにこちらを捕食対象にしている。

「何か変わったやつが来るぞ。右斜め前方だ」

 イシュルはエミリアたちに注意した。

 同時にがさがさと草を鳴らす音。早い!

 それは右手の茂みから頭を出すと跳躍し、長い胴体をくねらせ空中からこちらへ飛びかかってきた。

 虫!?

 イシュルは風の魔力の塊で胴体を突き地面に叩き落とした。

 リバルが大剣に手をかけ、エミリアは左腕のガントレットを向けている。エバンは早くも大振りのナイフを逆手に持って、腰を落としていた。

 長い胴体の半分ほどを潰され地面に落ちたそれは、頭部と尾部を持ち上げ苦しそうに喘いでいる、ように見えた。

「百足(ムカデ)?」

 イシュルは動揺して素っ頓狂な声を上げた。

 ひとの身長の二倍ほどの長さのあるバカでかいムカデ。からだの半分を潰されているのにまだ死なない。頭部から伸びた触覚をにょろにょろと触手のように動かしている。まさか吠えてでもいるのか、時折シャー、ジジジと気味の悪い音をだしている。何か固いものどうしがこすれるような、機械的な擦過音だ。

 生き残った幾つかの脚が力なく動いている。黒光りした甲羅の下側にオレンジ色の筋が走っている。

 うえっ。なんて気持ち悪い……。

 昆虫型の魔獣、というより魔物か。いたんだな。こんな恐ろしいものが。

「大黒ムカデだな。それほど強い魔物ではないが、毒を持ち凶暴な性質だ」

 リバルが落着いた声で平然と言う。

「珍しいわね。ここらへんは少し暖かいからかしら? ベルムラではよく出るらしいけど」

 エミリアが説明してくる。

「……」

 イシュルはただひとり、顔を青くして無言で震えていた。

 し、信じられない。こんなものがこの世にいるなんて。

 しかもベルムラだと?

 こいつの繁殖地はベルムラなのか。俺の夢が……。いつかベルムラ大陸を探検する俺の夢が。

「くっ、ふざけるな」

 イシュルは誰にも聞こえないような小さな声で呻いた。

「どいてくれ。危ないぞ」

 イシュルはリバルに声をかけてどかすと、何かを決意するようにすっと背筋を伸ばし、右手を前に突き出して拳を握った。

 周りの者は魔法使いでない者も、巨大な何かが天から降ってきたように感じたろう。

「やああっ!」

 イシュルは気合いを入れ高く叫ぶと、瀕死の巨大ムカデの上に高密度の風の魔力の塊を「降ろした」。

 そして、うっすらと霞む内輪山の山影に向けて一直線に森を引き裂いた。前方は大小の爆発音とともに、もくもくと枝木の混ざった濃密な土煙に覆われ、大地が激しく揺れた。

 魔力の塊が内輪山に達するとイシュルは風の魔力の塊を左右に割り、森を切り開いてつくった道の両側に展開した。さらに精霊の領域から風の魔力を引っ張りおろし、道の両側に展開した魔力の壁を自身のすぐ手前まで引き延ばした。

「ふん!」

 イシュルはまた短く気合いを入れると、前へ伸ばした右拳を開いた。

 風が鋭い音を立てて前方へ吹いていき、森の上に広がっていた土煙を飛ばしていく。

 何を思ったか。イシュルは久しぶりに大魔法を炸裂させた。

「か、神の御業……」

 リバルが小さな声で感嘆を口にした。

 幅五長歩(スカル、四〜五m)ほどのほぼ整地された平坦な道が、内輪山まで一直線に伸びていた。

 道の表面は土色や岩の灰色が斑になっていて、潰された大木や大きな岩のかけらが、ほんの僅かにちらちら見えるだけだ。

「はぁ、はぁ、はぁ」       

 イシュルは右手を降ろすとしばらくその場に佇み呼吸を整えた。

 さすがに疲労を感じる。神経が逆立ち、心のなかを嵐が吹き荒れているような感じだ。

 イシュルは後ろを振り向きエバンに言った。

「後ろのやつらを呼びに行ってくれ。もう物見を立てる必要はない。この道にはどんな魔獣も近づけない」

「わ、わかった」

 エバンがぶるぶると震えながら頷いた。手にもっていたナイフをあたふたと腰の鞘にしまい、後ろへ駆けていく。

 エミリアはもう薄く笑みを浮かべているだけだ。

 後方の使節団からは何の反応もない。宮廷魔導師や神官らは唖然として声もない、といったところか。それ以外の者たちは、何が起きたか理解することもできないのかもしれない。不思議と荷馬も騒がない。

 内輪山まで直線距離なら三十里(スカール、約二十km)弱。魔獣の妨害もない。道も俄然歩きやすくなった。徹夜なんてとんでもない、今日の夕方までには内輪山の麓に到着するだろう。

「行こうか」

 イシュルは呆然と立ちすくむリバルに声をかけた。


 三人で歩るきはじめてしばらく、イシュルはエミリアに質問した。

「ベルムラではあんな虫の魔物が多いのかな?」

「わたしもあまり知らないけど、人より大きいカマキリとか、危険な毒をふりまく山鳥より大きな蛾がいるとか、そんな話は聞いたことあるよ」

「そうか……」

 残念だ……。ベルムラ大陸には一度は行きたかったのに。どうも高温多湿なところには昆虫の魔物も存在するようだ。

 あんなでかい虫がいるんじゃ、ベルムラ行きはキャンセルだな。

「剣さま、大丈夫? 凄いことしてきたわね」

 ナヤルが頭上に気配を現し、薄く姿を見せてきた。

「ああ」

 イシュルは上を向きナヤルに短く答えた。

「どうしたの?」

「いや……」

 なんとなく気恥ずかしさが先だって、理由を口に出せない。

 あんなでかい虫がいたら、誰だって気持ち悪いと思うんだが。エミリアも案外平気そうだった。

 もしかして異常に恐がっているのは俺だけか?

 イシュルが口ごもっていると、エミリアが背中を見せて笑いをこらえていた。




 その日の夕方早く、使節団は内輪山の麓に到着した。

 森の中に突然できた一直線の道を悠々と歩きながらも、周囲には何か変な空気が漂っているようにイシュルには感じられた。

 皆静かに、何かにせき立てられるように黙々と歩いた。昼食はもちろん、小休止もなしで皆ひたすら無言で歩き続けた。

 ミラたちはイシュルから離れているのでよくわからない。エミリアや、時々話しかけてくるナヤルだけがなぜかごきげんだった。

 目の前に迫った内輪山の、所々緑で覆われた岩肌。その連なりを西の方に見やると、岩山の一段低くなった裂け目の箇所に、大きな片開きの鉄扉と石積みでつくられた門が見えた。

 イシュルはもちろん、その門の直下まで再び森の木々を潰し粉砕して整地した。あの大ムカデに襲われるのはもう二度とごめんだった。

 門の上には見張りの者がいて、騎士団長のバスアルが前に進み出て声をかけるとすぐに扉が開かれた。

 イシュルはリバルから頼まれ、ひとり門前に居残って使節団の殿(しんがり)を務めることになった。

 門の脇の手頃な岩に腰を降ろし目の前に広がる森の方を見て、イシュルは思わずため息をついた。

 地平線を隠す外輪山の山並みを背景に、視界いっぱいに広がる森を真っ二つに裂く、直線の道が出来ていた。

 少し遅れてイシュルの横を使節団の本隊が門をくぐって行く。

 ラベナらエミリアのパーティの面々、ミラやセルダ、デシオらイシュルを知る者たちがイシュルに声をかけていく。

 ラベナや双子は感嘆を、クートは年長者らしくイシュルの体調を気遣って行った。デシオとお付きの神官たちは立ち止まって、わざわざ隊列から離れみな頭を下げてきた。イシュルの見識を知り、神の御業に等しい大魔法を目にしたことで、彼らにとってイシュルはさらに特別な存在になったようだった。

「ほっーほほほっ、ほっほっほ」

 ミラはイシュルの前までくると手の甲を口許に当て、胸を張って高らかに笑い声をあげた。

 それはまるで何者かに対する勝利の哄笑のようでもあった。

 後ろに控えるシャルカは相変わらず無表情だが、ルシアはもちろん、ネリーまで感情を消した幾分引きつった笑みを浮かべている。

「素晴らしいですわ、イシュルさま。さきほどの大魔法はまさしく神の御業。誰であろうと、イシュル様の正義の鉄槌に抗うことはできないでしょう」

 正義の鉄槌? ……ミラは周囲の者たち、特に国王派に対して、ビオナートにまで伝わるように意図して言っているのか。

 そしてミラはイシュルの前に跪き、イシュルの両手を取って小声で言ってきた。

「おからだは大丈夫ですか? お疲れでしょうか」

「大丈夫」

 ミラは本心では大量の魔力を使った俺の心配をしてくれている。

 大ムカデが気持ち悪くて、恐くて大魔法を使ったとは、とてもじゃないが言えない。

 イシュルは幾分引きつった笑みを浮かべて言葉を重ねた。

「ほんとに大丈夫。問題ないよ。心配しないで」

 やさしい口調で言ったイシュルに、ミラは頬を赤らめると小さく頷いた。

「では後ほど」

 ミラは囁くように言って、名残り惜しそうにイシュルの方を何度も振り向きながら門をくぐって行った。

 セルダはその後、宮廷魔導師らの一団とともに通り過ぎて行った。イシュルの前を通る時、彼女はやるじゃん、という感じで明るく笑顔を向けてきたが、他の魔導師らはイシュルに対し、みないささかぎこちない会釈をして通り過ぎていった。

 他の者もイシュルが大魔法を使ったとわかる者は萎縮し、またはからだを震わせ脅えて通って行った。バスアルは顔を強ばらせて小刻みにからだを震わせ、イシュルと顔を会わせないようにして素早く横を通って行った。

 これじゃ、いい見せ物だな。俺は。

 イシュルは後尾を守る傭兵のパーティが門の中に消えると、ゆっくりと腰を上げ、周囲を一瞥すると門の内側に足を踏み入れた。

 外輪山の中の森は静かだった。イシュルの強力な魔力に、大物の魔獣でさえ脅え隠れているのかもしれなかった。


 イシュルの背後で鉄扉が重い音を立てて閉じられる。

 イシュルは周囲に広がる景色に見入った。

 内輪山の山間につくられた門は標高が少し高いところにある。

 彼の立つ場所からは内輪山の内側、ほぼすべてが見渡せた。

 内輪の直径はおよそ二里強、前世の単位なら二km弱といったところだ。その箱庭とは呼べないまでも小さな世界一面に、瑞々しい森が広がっていた。

 森の北の方、急な山裾の終わるところに、露天掘りされた複雑な凹凸の岩肌が露出している箇所があり、その周囲に大小数十戸の家屋が固まった小さな集落が見える。

 あれが聖石鉱山なわけだ。

 イシュルはしばらくの間、目を細めて森の中の集落を見やった。

 いくつかの建物からは夕餉の仕度がはじまったのか、細く長い煙が立ち上っている。

 集落には木造の小さな櫓がひとつ、木々に隠れてほとんど見えないが、外周には丸太で上背のある柵が設けられいるようだ。そして集落の西の端に、乱雑な石積みの塀で囲まれた区画があった。あそこは多分、鉱山奴隷が起居する牢獄になっているのだろう。塀の内側には租末な小屋が並んでいる。そのほど近くには村で唯一のしっかりとした石造りの建物、聖堂教の神殿があった。神殿はそれほど大きな物ではなく、常駐している神官も数人がせいぜい、といったところだ。

 視線を左、西側に転ずると、西日の山影に隠れるようにして、小さな湖があった。湖、というより池、と表現した方がいいかもしれない。

 その小さな湖と集落のちょうど中間あたり、内輪山の北側の山の峰と峰の間の谷間に、背後の門と同じような石造りの仕切り壁がつくられている。その頑丈そうな石積みの壁にはこちらの門より大きい、おそらく観音開きの鉄扉が見えた。あの北の門にはカハールから続く街道が接続しているのだろう。門の前の道の広さや門扉の大きさからすると、荷車など車輛も余裕で通ることができるようだ。

 そしてイシュルは再び、内輪山の内側全域を見回した。

 内輪を覆う森は所々黒い溶岩が露出していて、特に北東の端の方には、溶岩がうねるようにして曲がり固まった箇所がある。あれが“ウーメオの舌”であろう。

 イシュルはその場所を凝視した。

 あの場所の真ん中で本物の紅玉石の受け渡しが行われるとして、周囲の森からの距離はおよそ五十長歩(スカル、約三十〜三十五m)ほどだろうか。

「微妙な距離だな」

 イシュルひとり呟いた。

 宮廷魔導師ほどの実力がある者なら、充分威力のある魔法を撃てる距離だが、加速の魔法を使えば瞬きする間もなく到達できる、というほど短い距離でもない。

 北東側の山肌はかなり急な傾斜の箇所もあるが、人が窪みや岩陰に隠れることのできる場所はありそうだ。

 後は足場の確認か。それなら夜に見に行く方がいいかもしれない。

 イシュルは視線を間近の足許の方へ転じ、集落に向かって長い列をつくる使節団の後に続いた。

木々の間をうねるように続く小道をのんびり歩いていくと、やがて木々の間から丸太を束ねた頑丈そうな大きな柵が見えてきた。

 森の中の小道は見上げるような大きさの木造の門の前で終り、その門の先に内輪山の山の麓から見た、さきほどの集落があった。

 イシュルは使節団の最後に門を通り中に入った。使節団は聖石鉱山に到着した。


「久しぶりにベッドで寝れるのう」

 クートが感慨深げに言った。

 クートはもう六十近いだろう。確かに連日のテント生活はきつかったかもしれない。

 ベッドとは言っても租末なものだがな。

 イシュルはその古びた木製のベッドに横になり、鎧戸の開かれた窓の方を見やった。

 外はもう薄暗くなっているが、集落の真ん中あたり、神殿の前は広場になっていて、幾つか篝火が焚かれその辺りは明るくなっている。

「イシュル殿は酒宴には出ないのかの」

「いや、行くよ。からだを少し休めてからな」

 宴が開かれている間にひとりで“ウーメオの舌”を見に行く。夜間での周囲の状況、足場の確認をする。

 人目につきにくくちょうど良い。

 使節団は聖石鉱山の集落に到着すると、クレンベルに帰還するまで一時解散とされ、デシオら神官、ミラたち宮廷魔導師、バスアルら正騎士の幹部たちは現地に滞在する神官、鉱山頭(こうざんがしら)との会談に入った。

 イシュルら傭兵や雑役人夫たちは、集落内に立てられた複数の木造の小屋、丸太組みの小さな家屋に分宿することになった。

 傭兵たちの割当は男女別およびパーティ別でなされ、イシュルはクートとともに、二、三人用の最も小さな小屋に宿泊することになった。

 鉱山では、カハールから定期的に物資の輸送や原石の運搬が行われている。集落内には物資輸送に携わる騎士団や傭兵、人夫たちの滞在用の施設が以前から用意されていた。

 そして今晩はこれから、上はデシオら神官から、下は人夫たちまで参加して、集落の中心部で慰労の宴が催されることになっていた。

 広場に鉱山で働く下働きの者たちが酒樽を出しはじめ、人びとが集まりはじめると、クートも「お先に」と出て行った。

 イシュルは外がしっかり暗くなり、広場の方から複数の人声が漏れ出すと小屋を出、“ウーメオの舌”に向かった。

 人の気配に注意しながら集落を囲む塀を飛び越え、暗い木々の中を足早に進む。ウーメオの舌までは細い道がついている。魔力を最小限に抑えて前方に微風を吹かし、獣の存在や足許を確認しながら進む。

 鉱山の集落からの距離は一里強(スカール、約六〜七百メートル)、あっという間に木々の間を抜け、ウーメオの舌に着いた。

 イシュルは周囲の岩場を足許を確認しながら歩きまわった。相当昔の噴火によるものなのか、長い風雨に晒されてきたせいか、足許の凹凸はそれほど気にするほどではない。

 イシュルは顔を上げ、夜空を見上げた。空には先日に新月を迎え、これから満月に向かう細い三日月が浮いている。内輪山の微かな山陰が東側と北側を覆っている。

 イシュルは東側の山肌に微風を当て、状況を調べた。人ひとりくらいなら余裕で身を隠せる窪みがいたる所にある。

 当日はウーメオの舌全体を俯瞰し、南と西を囲む森も見渡せる窪みに身を潜め、国王派の妨害を徹底排除する。ナヤルは山の北側から森の途切れる辺りの上空を遊弋させるか。彼女を先手に使おう。彼女の手からこぼれた者たちがいれば俺が直接始末する……。

 イシュルが顎に手をやり考え事をしていると、さきほど通って来た森の小道をひとり、こちらへ近づいてくる者がいる。

 イシュルは視線を森の小道の方へ目をやった。

 小振り人影が森の中から姿を現す。人影は首を振り左右を確認しながら溶岩の塊の上に足を踏み入れた。

「ん? イシュル?」

 セルダの声だ。彼女の姿が薄い月明かりにぼんやりと浮き出る。

「ああ」

 イシュルは短く答えた。

「へぇ。さすがだね、イシュル。現場を確認しに来たの? あれは夜にやるんだものね」

 ぼんやりしたセルダの姿形から、気安い声が発せられる。

「ああ。セルダも確認しに来たのか?」

「うん。ミラが動くと目立つからね」

 イシュルは無言で小さく頷いた。夜だから、イシュルが頷くのをセルダが見えたかどうかはわからない。

 だがイシュルは無言で頷いた。それ以上の反応は示さなかった。声も出さなかった。


 篝火の照らす中を人夫の男どもが踊っている。

 周りから酔いを帯びた叫声があがる。踊る男の何人かは娘役をやっているらしい。彼らの村で、祭りの時にでも踊られるものだろう。娘役をやる男たちはそれらしくしなをつくって見せ、周りの男たちから下卑た笑いをとっている。

「しょうがないですわね」

 ミラが男どもの踊りから視線をそらし言った。だが彼女は半ば苦笑を浮かべ、それほど怒り嫌がっている感じではない。

 イシュルはウーメオの舌からセルダとともに戻ってくると、最初はエミリアたちと飲んでいたが、すぐにルシアがやってきてミラに誘われた。

 ミラは酒宴の輪の外側で丸椅子を持ち出し、男の宮廷魔導師たちとも離れてセルダにシャルカとネリー、そしてもうひとりの女の魔導師、ダナ・ルビノーニと酒を飲んでいた。ダナは二十代の前半くらいの歳、派手さはないがどこかの国のお姫さまのような品のある顔をしている。

「イシュルさま。わたくしたちは明日の午後は鉱山の西にある湖に水浴びに行くことにしておりますの」

 ミラがイシュルに、なぜか妙に艶かしい感じのする眸を向けてきて言った。

「イシュルさまもご一緒しましょう?」

 ミラが笑みを浮かべる。

「あのご老人のいるパーティの方々も、ぜひごいっしょに」

 イシュルも笑みを浮かべて頷いた。

「それはいいかも」

 セルダが言った。彼女も顔にも笑みが広がる。

 みんなで水浴びに行く。そこで打ち合わせをしよう、ということか。

「イシュルさまとあのご老人は、わたくしたちの護衛としてお願いした、という形にしますから」 

 そしてミラは声を落として、デシオさまにはわたくしが後でご説明します、とつけ加えた。

 ミラはすでに、イシュルたちを参加させるのにもっともらしい理由を考えていた。

 正義派の会合なのがバレバレだとは言え、集落内でそれだけの人数が集まれば、無用にひとの耳目を集めることになる。正義派が集まるのを知られるのは仕方がないとしても、話の内容を聞かれるわけにはいかない。ナヤルに警戒させても、人の多い場所では完璧に防げるかわからない。集落外での打ち合わせの方が警戒もしやすいし、魔法も使いやすい。

 身分のある女性たちも水浴びに行くので、イシュルたち男が混ざっているとは言え、相手方は無理に監視をつけるのが憚れる状況だ。国王派と目される連中は男ばかりで女がいない。

 国王派、正義派云々以前に、五令公家の令嬢が水浴びしているところを監視していた、なんてことが明るみにでれば、それは恐ろしい醜聞になる。指示した側が聖王家ならともかく、そうでなければたとえ大貴族でもただでは済まないだろう。

「わたしも何かお手伝いしようか」

 ダナが面白おかしく踊っている男たちの方から顔を逸らし、ミラの方に向けて言った。

「そうね……」

 ミラは頬に手をやり視線を彷徨わす。

 ダナは正義派のやろうとしていることをほとんど、何も知らない筈だ。だが彼女はそのことを知らずとも、知らないままでも少しくらいは手伝えることがあるだろう、と考え申し出てきた。

 部外者でも手伝えることはする、恩を売っておくよ、と言っているわけだ。

「助かります」

 イシュルは大人びた感じでダナに声をかけた。

 そして同じ酒宴の外側で飲んでいる、騎士団や宮廷魔導師の男たちにちらっと目をやった。

 前には中途半端な立場の協力者は邪魔になるだけだ、とも考えたが、状況によってはダナのような立場の者にも使い道はあるかもしれない。

「ルビノーニ殿には、その件に関して数日中にこちらからお知らせしましょう」

「あら」

 ダナがイシュルの顔を見た。彼女の眸が笑っている。

「噂どおり、お歳に似合わぬ随分としっかりした方なのね。宮廷の顕官と話してるみたい」

 うっ。なんかまともにやり過ぎたか。

 確かに農民出の者の口ぶりではなかったかもしれないが。

「ダナ。イシュルさまに失礼だわ。イシュルさまは聖都の学者さまも目を剥くような、深い学識を持った方なのよ。ただ神がかりな魔法が使えるわけではないの」

 ミラが目を怒らしてダナに言う。

「ね? イシュルさま」

 ミラがダナから視線をイシュルに向け、やさしい表情になって言ってきた。

「あら、それはごめんなさい」

 ダナはそうミラに謝りつつ、ミラがイシュルに視線を向けた隙に一瞬、両目をまん丸にし唇をとがらしたおどけた顔をイシュルに見せてきた。

 ミラは恐いわよねぇ。……そんなことを言ってる感じの顔だ。

「ふふ」

 イシュルは苦笑を浮かべた。

 セルダも少し困った笑顔をしている。

 ミラはいつも通りだ。ダナはその外見に似合わず、実はなかなかさばけたひとのようだ。

「うううっ、はぁふぅ〜」

 突然奥の方から素っ頓狂な声が上がった。

 イシュルたちの奥で地べたに座り、ひとり酒壷を抱えてぐいぐい飲んでいたネリーが大きく息を吐いた。

 完全に出来上がっている。

 こいつ。相当な飲んべえだな。ミラの護衛、いいのか?

「もう、ネリー。いいかげんにして」

 隣のルシアが文句を言っている。


 少し足りない。

 からだがすーっと浮くような気持ちのいい浮遊感はあるものの、以前のような甘く満ち足りた、すべてを吐き出したくなる開放感、がない。

 イシュルは目を醒した。

 目の前にナヤルの顔がある。なかなか真剣な顔つきだ。

 ……報告よ。

 ナヤルがイシュルの耳許で、心の中に直接響くような感じで言ってきた。

 イシュルはちらっと向かいで寝ているクートに目をやり、のっそりとベッドから起き出た。

 何気に油断のならないところもある男だが、クートはしっかり寝ているようだ。

 イシュルはかるく首をふり、周囲の気配に注意を向ける。静かだ。みな寝ている。

 イシュルは小屋の外の厠に行く体で、のそのそと歩き扉を開き外に出た。

 小屋の傍に繁る木々の影に入り、小声でナヤルに話かける。

「何があった」

「あの神官が動いたわ」

「……!!」

 イシュルは暗がりで目を見開いた。

「村のはずれの木の柵の傍で、あの神官と、騎士団の男だと思うけど、何か話していたわ」

「それで?」

「ごめんなさい。それだけ。神官の精霊がとても緊張して見張りをしていて近寄れなかったの」

「そうか……」

 イシュルは顎に手をやり俯いた。

 これは決定的、かな。

「ふたりはその後、それぞれ寝ている家に戻っていったけど、神官の精霊は騎士団の男の方にくっついていたのよ。たぶんあのいばってる馬鹿な人間ではないと思うけど……他の誰かまではわからなかったわ」

 それは騎士団長のバスアルではなかった、ということか。それならデシオが国王派に忍ばせた密偵と接触していた、という線もあるが……。いや、甘い見方はしない方がいい。

 しかし、帰りしに自らの精霊を正騎士の男の方に着けるとは。デシオはさすが、なかなか目鼻が利く。

「ありがとう、ナヤル」

 イシュルは正面、やや上に浮かぶナヤルに向かって言った。

「数日中に、かなり大掛かりな荒事が起きると思う。詳しくは明日以降に説明する。よろしく頼むよ」

「ふふ」

 ナヤルは自信ありげに笑った。

「わかったわ。面白そうね」

 ナヤルの姿が薄れていく。木々の枝葉の向こうに三日月が見えた。




「ふふ、役得じゃの。たまらんのう」

 クートがやらしい顔でさきほどから同じ台詞を繰り返している。

「爺さん……、いいかげんにしろよ。滅多なことは考えるなよ。あんたの命にかかわることだぞ」

 イシュルはクートに本気で、真面目に言った。

「いざとなったら俺は見捨てるからな」

「なんじゃい、若いくせに情けない。イシュル殿はそれでも男か。それでいいのか」

 若い、まだ少年といっていもいい男と小柄な老人が森の中の小道を歩いていく。

 イシュルは周囲の気配を見ながら、ゆっくり歩を進める。

 もちろんナヤルにも警戒、監視をたのんでいる。ミラたち女性陣は少し遅れてこちらに向かうことになっている。ナヤルは彼女らの周囲を主に見張らせている。

 女性陣の水浴びに参加できる、ということで朝からクートの鼻息が荒い。だがイシュルは彼女らが水浴びをはじめる前に打ち合わせをやり、それが終われば後の警戒はナヤルにまかせ、早々に鉱山の集落へ帰ろうと考えていた。

 当然だがいっしょに裸になって水浴びなどできる筈もない。

 クートはおそらく、帰ると見せかけて途中からとって返し、森の中に身を潜めながら、美女、美少女たちの水浴びを覗き見しようと考えているのであろう。 

「別にいいけど」

 イシュルは思いっきり冷めた目でクートを見おろした。

「ちっ」

 クートは顔面に怒りをあらわにして毒づく。

「モテる男はええのお。余裕じゃの。わしももう二十も若ければ……」

 次は皮肉で来たか。

 イシュルはクートの言を無視し、視線を前に向けた。

 森が途切れようとしている。

 木々の間に湖面が銀色に光って見えた。


「なんじゃ、あれは」

 クートが呆然と目を見開き立ち尽くしている。

 意外な感じのする、小石で敷き詰められた小さな湖の岸辺には、ミラの使っていたテントが湖面に突き出す形で立てられていた。

 周囲には先行したネリーにルシア、ダナの従者であるふたりのメイドの姿がある。セルダはクレンベルで置いてきたのか、従者を連れてきていない。

 彼女たちがテントを運んで立てたのだろうか。

「人夫に金を渡して立てさせたのかな」

「そんなこと決まっておろうが」

 イシュルの呟きに、クートが吐き捨てるように言った。

 やんごとない身分のお姫さま方は、あのテントに隠れて水浴びするのだろう。

 イシュルはもう一度クートに侮蔑の視線を向け、岸辺で火を起こしはじめたルシアの方へ歩いていった。

 ほどなくミラたち宮廷魔導師の女性陣が、少し遅れてエミリアたちが森の中から姿を現し、焚き火を囲んで正義派の打ち合わせがはじまった。

 ダナは少し離れたところで湖の方を見ながら、彼女の従者たちと何事か話している。

 周囲に怪しい気配はない。隠れ身の魔法をつかわないプロの密偵が息を潜め隠れていようが、真剣に監視するナヤルの目からは逃れられないだろう。

 エミリアたちパーティの者たちがミラたち貴族の宮廷魔導師らに跪き、型通りの挨拶をすると、まずミラが当初の計画を説明した。

「……皆さま方が“ウーメオの舌”に集合する刻限は日没後三の刻、となっております」

 日没後三の刻は、前世でいえば日没後六時間後、午前零時頃になる。

 ミラが実施時刻の話をすると、イシュルが割って入った。

「夜の二刻に変更しよう。予定を早めたい」

 みなの視線がイシュルに集まると、イシュルはいきなり爆弾発言をした。

「儀典長が国王派と内通している可能性がある。儀典長とお付きの神官らは排除して事を進めたい」

「えっ?」

「!!」

「そんな……」

 ミラをはじめ、セルダ、そして紫尖晶の面々、エミリアや双子、ラベナにクートまで表情を凍り付かせた。

 それはそうだろうな。

 イシュルは彼女らの顔を見渡し、唇を噛み締めた。

 デシオは正義派にとってはミラ以上の重要人物なのだろう。

 イシュルはナヤルルシュクを使って、夜間、自身だけでなくミラやデシオら正義派首魁の護衛をしていたことを打ち明け、そこでデシオが、国王派で占められているとされる聖堂騎士団の者と、秘密裏に接触しているのを確認したことを告げた。

「まだ儀典長がこちらを裏切っていると確定したわけではない。だが万が一ことを考えて、彼らを紅玉石の受け渡しの場には参加させないようにしたい。聖石の真贋の確認は鉱山所属の宝石鑑定職人とシャルカが行うものとする」

 どうせ本物はエミリア姉妹が持っているのがわかっている。

「よろしいか」

 イシュルはミラに鋭い視線を投げた。

「は、はい」

 ミラは顔を青ざめ頷いた。

 イシュルは続いてセルダに視線を向けた。

「セルダは二の刻になったら、儀典長の宿泊先にお迎えに来た、と称して彼らを直接監視して欲しい。儀典長らが何か不審な動きをしたら拘束してくれ。できるだろ?」

「わ、わかった、うん」

 セルダも顔を強ばらせて頷く。

 イシュルはセルダの顔を見つめた。

 ナヤルも鉱山集落の方に残した方がいいかもしれない……。ナヤルならあっという間にウーメオの舌まで移動することもできるだろう。

 なんとなく、イシュルはそう思った。

「現場では参加人数を絞りたい。こちらから参加する者は本物の紅玉石を持つ者とミラと従者、エミリアたちのパーティだけ。カハールから参加する者も人数を絞る。ミラ、彼らが到着したら手配してくれるか?」

「わかりましたわ」

 ミラはなんとか落ち着きをとり戻したのか、しっかり頷いてみせた。

「俺はウーメオの舌全体を俯瞰できる内輪山東側斜面に占位して、妨害する者が現れた場合、外線から排除していくようにする」

 イシュルは全員の顔を見渡し、言った。

「さらに詳しく詰めるのは後日にしよう。カハールから来た者たちが到着してからだ」

 ミラの知識とコネクション、エミリアたちの経験。彼女らを参謀役にしてもう俺の方で仕切った方がいいだろう。

 本来はデシオが仕切ることになっていたのだろうが、当の本人に内通の疑惑があるのでは話にならない。ミラの指導力を疑うわけではないが、彼女は荒事に対する経験は浅いだろう。このままでは重大事において正義派が空中分解しかねない。

 イシュルは最後にひと言、

「質問は?」

 と言った。

 全員が何が起こったのか、というような感じで、呆然とイシュルの顔を見た。

 イシュルが前世の現代人、仕事のノリで会合を進行したのだ。この世界ではもっと形式や様式を重んじ、進行もゆっくりとやるのではないか。周りの者が驚愕するのも仕方がないことだった。


 翌日、夜になって鉱山北側の門が開かれ、カハールからの輸送隊が到着した。

 イシュルはナヤルからいち早く知らせを受けて、集落に立つ櫓の屋根の上に登り、その光景を凝視した。

 暗い山陰の中に多くの人いきれ、荷馬車の車輪の立てる音、馬のいななき、数十名の騎士団兵らの甲冑の立てる乾いた音らが響いてきた。

 足許の鉱山集落からも多くの人の動く気配が伝わってくる。

 あの集団の中に、もうひとつの本物の紅玉石を持つエンドラがいる。

 これで役者はそろった。

 イシュルは細く光る三日月に目をやった。

 おまえはどうだ?

 伝承では、月の女神レーリアが最も力を発揮する時、人と事物、この世の運命が定まるのは満月のとき、とされている。

 まだ三日月だな、レーリア。

 どうする?

 おまえは何かしてくるのか? それとも俺が聖都に着いてからか? ビオナートが総神官長になる時か?

 おまえがどこかで、動かない筈がない。

 イシュルは口許に不敵な笑みを見せた。

 いずれにしてもおまえの好きにはさせない。なにもできなくても、なにもかなわなくとも、それでもおまえに抗ってやる。


 



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