襲撃
「えっ?」
エミリアの顔が一瞬強ばる。
イシュルはまた歩きはじめた。エミリアから視線をはずし、再び前方にそそり立つ山陰を見つめた。
藍色に沈んだ北の空に直立するオレンジ色の光線。その尖鋭な光芒に揺ぎはない。
「どういうこと?」
エミリアが横から聞いてくる。
「あの山陰に、隠れ身の魔法を使っているやつらがいる。よくわからないが七、八人くらいかな」
イシュルは山の方を見つめたまま、エミリアに言った。
「俺の召還した精霊が言うにはちょっと高級な、精霊神アプロシウスの魔法具だそうだ。エミリアたちのとは違うやつみたいだな」
イシュルはエミリアにまた顔を向けて言った。
やつらは黒尖晶じゃないのか?
「……」
横から夕陽を浴びるエミリアの顔が固まる。
「あっ!」
固まったのは顔の表情だけではなかったらしい。エミリアは足許に突き出ていた岩に足を取られ、前にころびそうになった。
イシュルはからだを捻って彼女の両手をとり、しっかり支えてやった。イシュルの指がエミリアの左腕の黒いガントレットに触れる。
「ありがとう」
イシュルに顔を向けるエミリア。
そこでエミリアの横に、薄い半透明の状態でナヤルが姿を現した。
「ん?」
エミリアが不審な表情になる。
エミリアはナヤルの気配を何となく感じるようだが、姿までは見えないらしい。
「剣さま、どうするの」
「ん? 思案中、かな。気づかないふりしてやつらに襲わせよう、ってのはどうかな? 見たいんだ。その“騙しの魔法具”とやらを。やつらの戦い方を」
イシュルはナヤルの方を見て言った。
山陰では彼らを直視できない。あの距離では彼らの気配を読めない。あの光線のおかげでだいたいの位置はわかるが、山の裏側の頂上付近にいるのか、麓近くにいるのか、高度はわからないので正確な標定はできない。山の裏側一帯に風の魔力の塊を展開してすり潰すか、山を丸ごと裏側へ崩れ落ちるようにして破壊してしまうか、それで対象をすべて始末できるとは思うが、確実ではない。相手はそれなりの機動力も持ち合わせているだろう。
空へ飛び上がれば彼らの位置もわかるだろうが、当然こちらも見つかってしまう。さっさと始末するのならそれでもいいんだが……。
「え、え」
エミリアがイシュルの視線の先を見てちょっと動揺している。
「ナヤル、彼女にも見えるようにしてくれるか」
ナヤルの姿が濃くなる。誰にでもわかる、実体化するほどではない。
黒尖晶のやつらもあの山陰からこちらを監視しているだろうが、俺が召還した風の大精霊の存在は彼らもすでに知っているだろう。今さら隠す意味はない。
「わっ、昼間の凄い精霊……」
エミリアが腰を捻ってからだを逸らす。彼女はまだナヤルのことを外見しか知らない。
「彼女はあの山陰に隠れているやつらのことに詳しんだ」
イシュルがナヤルに向かって言う。
「そ、それほどでもないけど……」
エミリアは自信なさげに小さく呟いた。
「あら、お昼の時のきれいな精霊さまね?」
「大精霊?」
「大精霊?」
「おお。イシュルどの、どうされたかな」
後ろのラベナ、双子にクートと、イシュルたちの方へ近づいてくる。
ナヤルはラベナの「きれいな精霊さま」に気をよくしたのか、満更でもない顔つきだ。
「歩きながら話そうか?」
イシュルはちらっとその後ろに続く騎士団の方に目をやると、かるくため息まじりに言った。
ここでまわりから注目されるのはよろしくない。隊列を止めたりしたら、山陰に隠れているやつらも不審に思うだろう。
「精霊神の魔法具なら、確かに黒じゃな」
イシュルの後ろから、クートが最初に話しかけてきた。
豊富な経験故か、しっかりと言い切った。自信ありげな口調だった。
イシュルが振り向くと、肝心のクートはちらちらとナヤルの方を見ている。なんとなくその視線に邪念が窺える。男が美しい、色っぽい女を見る時の目だ。ナヤルはラベナと何事か小声で話している。
エロ爺が。
「爺さん、詳しいじゃないか」
「まっ、年の功じゃの」
クートはまだちらちらとナヤルのことを見ている。
「やつらは他にどんな魔法を使う? 何か特殊な戦い方とかするのかな? 宮廷魔導師とどちらが上だ?」
「あっ、えーと、そうじゃの」
イシュルが矢継ぎ早に質問するとクートはやっとナヤルから視線をはずし、今度はあたふたと動揺しはじめた。
爺さん……。ほんとに知ってるのか。
「や、やつらの戦い方はわしらとそんなに違いはない筈じゃ、隠れ身に疾き風が基本、武術体術に優れておる。あまり五系統の魔法は使わんの。威力はあっても使えば目立つ。跡も残る」
なるほど。跡も残る、とは証拠が残りやすい、という意味か。
「イシュル、今すぐにあいつらを殺れるならその方がいいよ。どんな魔法を使うか見てみたい、なんておびき寄せるのは危険だわ」
エミリアが不安な面持ちで顔を俯け言ってきた。
「今やると、かなりの大事になるがな。あの山丸ごと向こう側へ吹き飛ばすとか」
「どうして? お昼に牙猪の群れをやった時みたいにやればいいんじゃない?」
うーん。ちゃんと答えると、こちらの能力の限界を知られることになるんだが。
「あの距離で山の裏側だと、ちょっとな」
はっきりとじゃないけど、言ってしまったな。
「それじゃあ、夜遅くに……」
だがエミリアはイシュルの懸念を知ってか知らずか、まったく気にかけず話をさっさと前に進めた。
イシュルの探知能力が隔絶したものであることを彼女たちはすでに知っている。想像もつかないようなレベルのことに注意を払う気はないのだろう。
「やつらがわたしたちの野営地に近づいてきたところを始末する、って感じ?」
「そうだな。今晩はたぶんあそこら辺が使節団の野営地になる」
イシュルは前方に緩やかに広がる山裾を指差しながら言った。
「やつらは深夜にあの山陰から出てきて、おそらく野営地を包囲するか、野営地の上の山頂付近に陣取るだろう。その時点でいっせいに始末するのが一番確実なんだが……」
確かに安全策をとるなら、黒尖晶のやつらが山陰から出てきて移動、こちらを襲撃する配置についた時点で始末するのがベストだろう。つまりやつらがこちらに接近し静止し、魔法を使う前、何らかの戦闘行動をとる前に殲滅するのが最も安全、確実だ。こちら側は誰ひとりとして死傷者を出すこともないだろう。
だが……。
それではやつらの手の内を知ることができない。
俺はなぜミラの誘いに乗り、正義派についたのか。ただ強い魔法具を持っていたってしょうがない。知識と経験が伴うものでなければ意味がない。
もっと強くならなければ先に進めない。
だが、黒尖晶の連中が使う魔法を見てから、彼らの戦法を見てから始末するのは確かに危険度が増す。
もし、やつらの襲撃で正義派のひとたちに死傷者がでたら。
それは俺の責任になってしまう。
やつらの戦い方を知りたい、だからわざとこちらを襲撃させる。それは俺の個人的な事情、我が侭でしかないのだ。
「爺さん、使節団には五人の宮廷魔導師がいる。彼らと黒尖晶の五人が戦えばどちらが勝つ? どちらが実力が上だ?」
イシュルはクートに質問した。
馬鹿な質問だとはわかっている。それでも……。
「そんなこと聞かれてものう」
クートは歩きながら腕を組み、顔をしかめた。
「うーむ。そりゃ、状況にもよるんじゃろうが、あの魔導師らにはディエラード家の赤い魔女がおるからの、もし両者が戦えばあの女子(おなご)は最後まで生き残るじゃろうて」
赤い魔女だと? なんてベタな……。
しかし、ミラにはふたつ名があったのか。
なんて言ったらいいのか。たぶん、かっこいい、ってことでいいんだろうけど。
「どうしたの、イシュル? 固まってるよ」
エミリアが声をかけてきた。
「お、おう」
イシュルは気をとりなおしてクートに聞いた。
「それってつまり、黒尖晶の五人が全滅するまでに、ミラを除く四名の魔導師も斃されている、ってことだよな」
「……」
クートは黙って頷いた。クートの表情はめずらしく、かなり厳しいものだった。
ミラとシャルカ、やはりあのふたり組はふたつ名の通り、宮廷魔導師の中でも別格の存在なのだ。
ミラのような実力者に限らず、並みの宮廷魔導師でも契約精霊を呼びだせば戦力は倍増する。黒尖晶の連中が精霊を召還できるか知らないが、今までの経験からすれば五系統以外であまり強力な精霊はいなかった。闇の精霊も魔力そのものを攻防に使うか、精霊どうしで戦わせればそれほど恐れる存在ではないだろう。
ミラとシャルカのような実力者が加わり、精霊の存在も計算に入れれば最悪五対十で戦う状況になるのに、黒尖晶の連中は己の命とひきかえになるとは言え、ミラをのぞく残りの宮廷魔導師らすべてを始末できるわけだ。
黒尖晶のやつらの強さの程はだいたい見当がついた。並みの宮廷魔導師よりも上、特殊な魔法具を持ち、武術、体術に秀でる分特に注意が必要、といったところか。
ただ、気になることがある。それはやつらの人数だ。あの山陰から立ち上る光線の束からすると七、八人、総勢でも十名はいまい。もちろん、隠れ身の魔法を使っていない者が他にいればもっと多くなるが、使節団のすべての正義派に戦いを挑むには、少々貧弱な戦力とはいえないだろうか。
イシュルは少し離れて前を歩く、国王派と目されているパーテイの一団を見つめた。
黒尖晶の襲撃時には彼らも攻撃に加わるだろうか。
その可能性も考慮しなければならないが、彼らは黒尖晶とは違う組織だし、実力的にも黒尖晶と同じ戦闘行動をとることはできないだろう。支援にまわるか、撹乱か横槍、そんなところだろう。
彼らに七、八名の黒尖晶。こちらは俺にミラたち宮廷魔導師、エミリアたちパーティと、そしてナヤルルシュクがいる。戦力差は明らかだ。
彼らはもう襲撃の作戦を立てているだろうが、それはこちらも俺の方で夜までに手配できる。彼らは自ら隠れようとして、逆にその姿を俺に晒してしまっているのだ。こちらとしてはいくらでも対策できる。
目の前の山から立ち上る光線はそのまま、位置に変化はない。
そうか。
そこでイシュルはふとあることに気づいた。とても基本的なことを見逃していた。
あの距離でわざわざ隠れ身の魔法を発動しているということは、ずばり俺や、ナヤルのような高位の精霊の存在を意識してのことだろう。並みの精霊や魔法使いでは、あの距離だと隠れ身の魔法を使おうが使うまいが、やつらの気配を読み取ることは不可能だ。
使節団中の正義派を一掃するには微妙に足りない戦力。俺と高位の精霊を意識した待ち伏せ。
やはりやつらの襲撃目標は俺ひとり、なのではないか。
隠れ身の魔法を使っていないやつはいるんだろうか。その有無、そして人数によって、彼らの襲撃目標を断定できるかもしれない。
やつらの服装、つまり外見や装備も気になる。ナヤルに気配を消して偵察してもらおうか。
イシュルは立ち止まり、横にいたエミリア、すぐ後ろにいたクートを先に行かせた。ナヤルはクートの後ろにいたラベナと何かしきりに話している。ラベナの後ろにはピルサとピューリが続いている。彼女たちはほんの微かな笑みを浮かべて、ナヤルとラベナのやり取りを聞いている。
「ナヤ……」
イシュルがナヤルに声をかけようとした時だった。
「保湿よ」
いきなりイシュルの耳に、ナヤルの厳しい声音が飛び込んできた。
はっ? ほしつ!?
「結局ね、保湿が一番大事なのよ。あなたは昼夜、季節を問わず外で仕事することが多いんでしょう? それなら肌のうるおいを保つことがいちばん大切なの」
「まぁ、そうなんですか。ほしつ、ね?」
と、自分の頬をさするラベナ。
こ、こいつら……。この重大事にいったい何を話してやがる……。
緊張感が足りないんじゃないか。
し、しかし「保湿」なんて、「肌のうるおい」なんて、ここはどこ?
イシュルが一瞬唖然とすると、 双子が話しかけてきた。
「あっ、イシュル」
「あっ、イシュル」
ピルサとピューリの顔に笑みが広がる。
「女は歳とるとたいへん」
!?
「わたしたちも気をつけた——」
イシュルは素早く動いた。
瞬間的に全身に風のアシストをつけ跳躍する。一瞬で双子の背後に回り込み、後ろから両手を回してピルサとピューリの口に蓋をした。
こ、こいつら、何てことを。
「なんですって」
「ピルサもピューリも、酷いわ」
……間に合わなかった。
イシュルは泣きそうになった。
当たり前だ。間に合う筈がない。双子が喋りだしてから動いているのだから。
ナヤルが恐ろしい形相で双子を睨みつけている。ラベナは悲しそうな顔をしている。
「ま、まあ、ふたりとも。ち、ちょっと待って。ね?」
俺が脅えてどうするんだ。
エミリアが「あーあ」といった感じでこちらを見ている。クートは何が起きたかわかっていないようだが、目を見開き口をぱくぱくして、主にナヤルから発散される険悪な空気に動揺しているようだ。
イシュルは周りを見回した。
前方のパーティの男たちは足を止め、何事かと振り向いてイシュルの方を見ている。
後方は少し離れたところで、ナヤルの怒りの気配がわかるのか、脅えをあらわにして騎士団の男たちが震えて立ち止まっている。
はあああっ。
イシュルは心の中で盛大にため息をついた。
「ゔ〜ゔ〜」
「ゔ〜ゔ〜」
イシュルに口許を押さえられた双子の、くぐもった唸り声が辺りに虚しく響いた。
「ごめんね、イシュル。うちの双子のせいで」
イシュルが鉄鍋に水を汲んで、奥の方を流れる小さな谷川から戻ってくると、エミリアはすまなそうな声でイシュルに詫びてきた。
「いや。かまわないさ」
さっきのドタバタは、待ち伏せしている黒尖晶にはむしろいいカモフラージュになったろう。
使節団を見張っていた彼らは、最初は気づかれたかと肝を冷やしたかもしれないが、その後の騒ぎにこちらは彼らにまったく気づいておらず、むしろ油断していると見て安堵したことだろう。
それに双子だけが悪かったわけじゃない。ラベナがナヤルを見た時「きれい」などと口にしていた。多分あれからふたりで“大人の女の美容談義”がはじまったのだろう。あの場面でそんなことで盛り上がるなんて、いくらんなんでもちょっとまずいだろう。不謹慎だ。
あの直後、動揺する騎士らの後ろからバスアルが「何事だ!」と出てきたが、ナヤルが実体を現し睨みつけると黙って一礼して踵を返し、ぶるぶる震えながら後ろの方へ戻っていった。
その後はイシュルがナヤルとラベナに、特に厄介なナヤルの方には全力で、「きみたちは凄い美人なんだから、そんな、何も気にすることなんかないっ」とか「美人は絶対正義なんだ!」などと、わけのわからない台詞を幾重にも重ねてなだめごまかし、なんとかふたりの怒りを静めたのである。
ラベナはともかく、ナヤルの召還者はイシュルである。ナヤルのいわば管理責任はイシュルにあった。彼自身に直接責任がないことでも、知らんぷりをすることはできなかった。
とんだ貧乏くじを引いた格好になったが、これで黒尖晶の油断を、いや、彼らの戦意を高められるのならそれはそれで結果オーライだ。
イシュルは鉄鍋を焚き火の上に渡された二本の鉄棒の上に置いた。
焚き火は地面を少し掘り起こし、周りに石を積み上げた中に、荷馬の運んできた薪を燃やしている。
クートが火加減を見、エミリアたちが支給された干し肉や野菜を、ほとんど芋ばかりだが——切り分けていた。
使節団の初日の野営地は予想どおり、北の山側に小川が流れる緩やかな山裾になった。周囲にはデシオら神官、王家査察使のミラ、その他の宮廷魔導師や騎士団以下、集団ごとに大小の多角形のテントが張られている。
イシュルは実質エミリアたちのパーティに組み入れられる形で、彼女らと寝食をともにすることになった。
イシュルの許には野営の準備がはじまって早々に、「夕食をごいっしょにいかがですか」とミラの使いでルシアが誘いに来たが、イシュルはギルドを通した傭兵の身分で使節団に参加しているから、と断りを入れた。
ミラはセルダら宮廷魔導師たちと夕食をとるのだろう。派閥云々は置くとしても、彼女らに混ざることは、自分のことを知らない者から見れば身分差から、どうしても不自然に見えるだろう。雑役人夫ら多くの人目もあることだし、遠慮しておいた方が無難だ。
ただイシュルは単純に断りを入れただけで済まさなかった。ルシアの去り際に、後ろから彼女の耳許に顔を寄せひと言囁いた。
「ミラに相談がある。後でテントの方に伺うと伝えてくれ」
ルシアは顔を前に向けたまま小さく頷くと、そのまま山裾の上の方、ミラのテントの方へ戻って行った。
夕食後は各パーティのリーダーが使節団騎士団長のバスアルの下に集められ、夜の見張りに関して指示が出された。各パーテイは交替でかならず一名以上見張りに出し、焚き火の火を絶やさないようにすること、不定期で野営地の外周を見回りすること、魔獣を発見した場合、騎士団のテントに知らせることなどがその主な内容だった。
イシュルはエミリアたちと焚き火を囲んで夕食を済ますと、彼女に小声で話しかけた。
「エミリアたちはとなりのパーティの動きに注意してくれ。俺たちはひとりじゃなくて、ふたりずつ交替で見張りをすることにしよう。休みの者もすぐに戦える体勢で寝るようにする。どう?」
となりのパーティとは昼間、隊列の先頭を歩いていた国王派の疑いのあるパーティである。彼らのテントは山裾の中ほど、イシュルたちのテントから二十長歩(スカル、約十三メートル)ほど離れたところにあった。すぐ目と鼻の先である。
「わかったわ。まかせて」
エミリアが快諾すると、クートやラベナ、双子らが揃って小さく頷いた。イシュルを見る彼女らの顔に、焚き火の炎の赤い色が映りこんだ。
イシュルは彼女らに無言で頷き返すとおもむろに立ち上がり、ひとりミラのテントの方へ歩いていった。
ミラに黒尖晶のことを伝えなければならない。
あたりは点々と焚き火がたかれ、暗闇に赤い炎がゆらめいている。ミラやデシオらのテントは山裾の上の方に張られている。
横の方からは時折、複数の男たちの歓声が聞こえてくる。小川の側には雑役人夫たちの租末なテントが幾つか張られ、その横に杭が打たれて荷馬が繋がれている。
イシュルはナヤルを呼んだ。
「ナヤル」
イシュルの右肩の上の方に精霊の気配が現れる。
「なに? 剣さま」
ナヤルの機嫌は悪くない。さきほどの騒ぎで、イシュルがナヤルの機嫌を直そうと、彼女の美貌を必死で誉めまくったのが効いているらしい。
「あの山陰の、精霊神の魔法を使って隠れてるやつらを偵察してきてくれないか」
イシュルは目線だけを北の山陰の方に向けて言った。
「人間が全部で何人いるか、どんな姿をしているか、もしわかるなら他にどんな魔法具をもっているか」
「了解。でもどんな魔法具を持っているかまではわからないわね。あなたの持ってる、イヴェダさまの大切な魔法具みたいな凄い物でないと」
イシュルは前を向いたまま頷くと言った。
「そうか、わかった。あと、やつらにバレないようにな。無理しないでいいから、気をつけて」
やつらが気配を消したナヤルのような、高位の精霊でも感知できる特殊な能力を持っている可能性も、完全に否定はできない。
「大丈夫よ、心配しないで。絶対に見つからないようにするから」
ナヤルはイシュルの正面上方にうっすらとだが、わざわざわ姿を見せてきて言った。
「わたしは」
彼女は少女のような可憐な笑みを浮かべた。
「風になるから」
イシュルがミラのテントの前まで来ると、その右手横、少し離れたところで焚き火の前に座って火をくべる、髪の長い女がいた。
イシュルはその女に声をかけた。
「なにしてるんだ、ネリー」
ネリーがむすっとした顔をイシュルに向けてきた。彼女の頬を赤い炎がちらちらと照らしている。
「見りゃわかるだろ。火の番をしてるんだ」
ふむ。確かデシオやミラたちには、ギルドから雑役人夫として雇った者が従僕としてつけられ、ネリーらを輔佐することになっていた筈だが。
イシュルがそれをネリーに言うと、彼女は唇を尖らして言った。
「いきなりおまえを斬りつけた罰だそうだ。フラージに着くまで毎晩、朝方までわたしが火の番をしなきゃならなくなった」
フラージとは聖石鉱山のある山の名だ。
「そりゃ大変だな。聖石鉱山につくまで毎日、昼も夜も眠そうだ。大丈夫か?」
イシュルが大丈夫か、と言ったのはちゃんと主人の護衛をできるのか、という意味だ。
「心配は無用だ。ミラお嬢様のことはわたしがしっかり守ってみせる」
ネリーはそう言うと「ふん」と、顔を横に向けた。
ふふ。
イシュルはかるく苦笑を浮かべると、視線をミラのテントの方へ向けた。
イシュルがテントの前に立ち、おとないを入れようとすると、すっとテントの正面の布が横に引かれ、そのすぐ裏側からルシアの声がした。
「お待ちしておりました、イシュルさま。どうぞそのままお入りください」
イシュルが中に入ると、正面奥にミラが丸椅子に腰掛け、お茶を飲んでいた。
テントの中は六、七人はゆったり横になれるほどの広さ、高さはちょうどイシュルの背丈くらいだ。テントの屋根の中央からカンテラが吊るされ、あたりを照らしていた。
中には、小さな机がひとつ、右端にはカーテンのような布が垂れ下がり、奥の方には暗がりに組み立て式の寝台がぼんやりと浮き上がって見える。さすが公爵家令嬢で聖王家の代理人、いろいろとかさばる物も持ってこれるということか。
ミラはカップを横に、片膝を立てて控えていたシャルカにわたすと、イシュルに言った。
「お待ち申し上げておりました。イシュルさま」
イシュルの横からルシアがミラと同じ丸椅子を差し出してくる。
イシュルがその椅子に腰を降ろすと、ミラが少し固い声音で声をかけてきた。
「なにかご相談があるとか」
なんだかミラの機嫌があまりよろしくない。
イシュルは何だか得体の知れない居心地の悪さを感じて、かるく身じろぎした。
「ああ、実は……」
「イシュルさまのご相談を伺う前に、わたくしも聞きたいことがございますの」
めずらしくミラが、嫌なタイミングでイシュルを遮ってきた。
……何かおかしい。
カンテラの灯りがミラの顔貌を柔らかく浮き上がらせている。
だが、いつもの彼女の華やかで優しげな雰囲気が感じられない。
「ん? なにかな」
思わず喉が鳴った。
「イシュルさまといっしょに行動している傭兵のパーティ、あれが先日お話しいただいた正義派の影働きの者でございますね? 紫尖晶の」
「うん」
ミラの視線がきつくなる。
「五人編成でひとりは男の方でご老人。残りは女、みな見目麗しい方ばかり。それにイシュルさまはあの方々と随分と仲がよろしいご様子」
ミラはそこで黙り込んでしまった。
じーっとイシュルを見つめて視線をはずさない。
「……」
イシュルは絶句した。
青天の霹靂とはまさにこのことか。
「え、えーと、彼女らとは別に、そのあの」
何てことだ……。
クートの爺さんが悪いんだ。あの爺だ、とりあえず俺を籠絡できるかもしれないから美人を揃えた、とか言ってたのは。
……なんて他人(ひと)のせいにしてぼやいてもしょうがない。この展開は予想しておくべきだった。失念していた。俺のミスだ……。
「ミラ、彼女らはだな」
「別にわたくしは気にしておりませんわ。わたくしは存じておりますのよ。イシュルさまはアンティオス大公のご息女さまとか、あの美貌をもって鳴る辺境伯家の武神の矢とも親交があったとか」
ぐっ、く……。
「イシュルさまは赤帝龍を退けたまさしく英雄。イシュルさまの周りに多くの女性の影がちらつくのも仕方がないことです」
ミラが視線をはずしてくれない。
「ですが」
ミラが何事か決め台詞を言おうとした時だった。
「偵察してきたわよ」
テントの中にナヤルの気配が現れた。
おおおっ。
ナヤル、素晴らしいじゃないか! 最高のタイミングだ。
イシュルの顔に思わず安堵の色が浮かぶ。
「ちょうど良かった。ナヤル、今ここでかまわない。教えてくれないか」
いきなり光の煌めきが現れテント内の空間を引き裂く。光芒はテントの上部、外側まで伸びているかもしれない。
輝きが一瞬人形になると、ナヤルがいつもの半透明に白く光る姿で現れた。
「これは大精霊さま」
ミラが椅子から立ち上がって左手を胸に当て頭を下げる。後ろではルシアが跪いている。シャルカはそのまま、顔だけをナヤルの方へ向けている。
ミラが顔を上げた。さきほどまでとは違い、心の内を一切見せない取り澄ました顔つきだ。
そう言えば、いいタイミングでナヤルが戻ってきて話が途切れてしまったが、彼女はあの後、いったい何を言いたかったのだろう。
ナヤルはミラたちを見渡すとイシュルに言った。
「あの山の北側斜面に全部で八名、みな精霊神の魔法具を使って、山の窪みに適当な間隔で分散して潜み隠れていたわ。他に人間はいなかった」
「……!?」
ミラが呆然とナヤルを見やり、イシュルに視線を向けてきた。
「それは……」
「この件でミラに会いに来たんだよ」
イシュルは野営地の北側の山陰に、今までとは異質の隠れ身の魔法を感じたことをミラに説明した。
「聖王国には国王直轄の強力な影働きの集団があるらしいな?」
イシュルはミラに強い眼差しを向けて言った。
「精霊神の魔法具で、強靭な隠れ身の魔法を使う影働きの集団……」
ミラは今までとは異なる、緊迫した表情になって答えた。
「黒尖晶、ですわね」
ミラはその真剣な視線をイシュルからはずし、口許に指先をあて思案するような仕草をして言った。
「わたしたちのやろうとしていることが、ビオナートに知られたのでしょうか」
デシオの疑惑もある、聖都の正義派にも裏切り者はいるかもしれない。その可能性はある、が。
「問題はやつらの戦力だ。手練れとはいえ八名しかいない。使節団中の正義派を一掃するには数が足りない」
イシュルは目を細め、顎をほんの少し上に持ち上げ言った。
「特定の人物の暗殺じゃないかな。儀典長やきみやセルダ、もしくは」
そして口許に笑みを浮かべて言った。
「俺だ」
ミラが顔を蒼白してイシュルを見つめてくる。
ランプの火の暖色の灯り。それでもミラの顔色が青白く変わるのがわかった。
「黒尖晶は希少で危険な魔法具を使います。お気をつけくださいませ」
ミラが前屈みになって言ってきた。
「危険なのはアプロシウスの魔法具だけではありません。他にわたくしと同じ、金(かね)系統の刺突武器を多用すると聞いております。鎧の隙間を突き、魔法による防御の影響も受けにくいものです」
大公城の模擬戦でボリスが使った魔法が思い出される。ミラはいい情報をくれた。あれを前もって知らずにいきなりやられたら、確かに厳しい。
イシュルは無言で、しっかり頷いた。
そして不敵で獰猛な笑みをつくって言った。
「今回は俺に仕切らせてもらう。いいかな?」
イシュルはミラの反応を見ずにナヤルに顔を向け言った。
「ナヤルはミラと神官のテントの中間に位置して、もしやつらが襲ってきたら守ってくれ」
「わかったわ」
ナヤルが頷くと、イシュルはミラに視線を戻し、続いてシャルカの顔を見た。
「ミラはシャルカとともにナヤルの支援にまわってくれ。万が一ナヤルが仕留めそこなったやつがいたら対処してくれ。シャルカ、やれるな?」
「わかりましたわ。イシュルさま」
ミラはなんの意見もはさまずイシュルに同意した。シャルカは表情の薄い顔で黙って頷く。
「それでだ、ミラ」
イシュルはミラの顔に再び視線を戻し、じっと見つめた。
「この件は儀典長にも、他の宮廷魔導師らにも事前に報せるのはなしにして欲しいんだ。彼らには事が終わったら報告するようにして欲しい。その時には理由として、奴らをおびき寄せるために大事にしたくなかった、とでも言っといてくれ。もちろん俺の指示だったと話してかまわない。あんな物騒な連中に、道中ずっとくっつかれてはたまらないからな。さっさと決着をつけたい」
それだけではない。デシオはこちらの味方かわからない、セルダはともかく、他の宮廷魔導師らにも裏で国王派とつながっている者がいるかもしれない。
「はい……」
ミラは不承不承と言った感じで頷いた。
「今日、使節団の先頭を歩いていたパーティは国王派の疑いがあるらしい。彼らには手当をしておいた。な? ミラ、たのむ。」
俺を信じてほしい。
イシュルはそんな気持ちを込めてミラの不安そうな眸を見つめた。
「わかりましたわ。でも、イシュルさまは……」
「俺はやつらが動きだしたら、やつらの動きを見ながら野営地から微妙に距離をとるように移動する」
再びイシュルの顔に獰猛な笑みが浮かんだ。
「やつらが俺の動きにつられて来るなら、やつらの標的は俺だ」
もしやつらが俺の誘いに乗ってこなければ、やつらの目標は正義派の巨頭、デシオやミラの暗殺となる。もしデシオが殺されれば彼は正義派を裏切ってなかった、彼が殺されなければ裏切りはほぼ確定、ということになるが、もとよりそれは事が起こってからの話で意味がない。ただデシオが襲撃された、だけでは偽装工作である可能性もあるわけで、彼が味方か敵か、判断はできない。
やつらの目的が俺でなければ、俺は彼らの背後に回って始末していくだけだ。おそらく黒尖晶の者たちは、デシオやミラのテントを包囲するような配置につくだろう。総勢八名というやつらの戦力では、俺と、ミラやナヤルらを分断して、目的を完遂するには相当の困難がともなうだろう。
だがまだひとつ、不安要素がある。
イシュルはかつて辺境伯の使った結界魔法を思い起こしていた。確かミラは「闇の箱」と言ったか。
黒尖晶の者たちも、何らかの結界魔法具を備えているのではないか。もし彼らが「闇の箱」のような魔封の結界をつくれる魔法具を所持しているのなら、俺とミラやナヤルたちの分断も容易にできるだろう。
「黒尖晶のやつらは結界魔法を使ったりするのかな」
イシュルはミラに問いかけた。
「使ってくるかもしれません。黒尖晶の者たちの目的が、わたしたちの暗殺であるならば」
結界は実力のある魔法使いを暗殺するのに適している、と彼女は続けた。
「ふむ」
魔力を遮断されると、ナヤルの能力も潰される可能性がある。
「ナヤル、何かいい方法がないかな。魔法を封じられる結界を張られるとまずいことになる」
やつらは高い身体能力と武術の心得もある猟兵だ。魔法が使えないとなると、剣術のできるネリーとルシアに頼るしかなくなる。
「うーん、……ないこともないわ」
ナヤルは頬に手をやりしばらく考えると、ミラを見て言った。
「あなた、紙はあるかしら。魔法がかかっているとか、そんなんじゃなくて、ただの紙」
「はい」
ミラはルシアに言いつけてさらの巻紙を取り出してきた。
当然、ミラやデシオら神官、魔導師や正騎士らは筆記具も一式持ってきているだろう。聖都に帰還後、上役に報告書を提出しなければならない者もいるだろうし、身分のある者はみな、道中の記録くらいはつけている筈だ。
「その紙を広げて頂戴」
「はい、わかりました。ルシア?」
ナヤルに言われると、ミラはルシアに机の上に巻紙を広げるよう命じた。
ナヤルはその巻紙に掌をかざした。
すると巻紙に小さな魔法陣が焼き付けられていく。彼女の掌から魔力が流れ出ているのが感じられた。
ほう。さすが高位の精霊なのか、凄いことができるじゃないか。
イシュルは椅子から立ち上がって巻紙に焼き付けられた魔法陣を見た。見た事のない古い文字か記号か、それに幾何学的な模様が施されている。
ふと横からミラの視線を感じて振り向くと、ミラが教えてくれた。
「魔法陣に使われる文字は、今は喪れた古代ウルクの神聖文字だと言われています。人間では強い魔力を持つ魔法陣を描くことはできないとされています」
それはつまり、辺境伯の執務室の壁に隠されていた無数の魔法陣、尖晶聖堂の影働きの連中がしてる刺青はみな精霊が描いている、ということなのか。
イシュルがそのことをミラに話すと、ミラは一瞬逡巡し、小さな声で話してきた。
「尖晶聖堂の影働きの腕に描かれている魔法陣は、各尖晶聖堂の地下奥深くにある一室で刻印されます。その場所は大聖堂にある神の座、魔法具が生み出される“主神の間”を小さく簡素化したもの、と言われております」
「なるほど……」
よほどの秘事なのか、ミラはルシアに「誰にも話してはいけませんよ」と話しかけている。
それなら、辺境伯の執務室にあった魔法陣は聖堂教会から流出した、いや、譲渡されたものかもしれない。辺境伯家は古くから威勢のある家門だ。過去にラディス王家の血も入っている。自領において聖堂教会を特別に保護すれば、その見返りはとても大きなものになるだろう。
イシュルはナヤルを見た。
「わたしは、何も知らないから」
ナヤルは顔をつん、と逸らして言った。
このことは人間には教えられない、と言うことか。
「それより剣さま、この魔法陣の真ん中にあなたの血を一滴、垂らして頂戴」
ナヤルは一度横を向いて見せると、すぐにイシュルの方に向き直って言った。
「ああ、わかった」
なんとなくこの魔法陣が何なのかわかってきた。
イシュルはカンテラの火にナイフの刃先を当ててかるく消毒すると、自らの左手の親指を切って血を魔法陣の所定の位置に垂らした。赤黒い血が巻紙の粗い繊維に染み込んでいく。
「これで完成ね」
ナヤルは頷くと、ミラに言った。
「あなたはこの魔法陣を持っていなさい。もし魔力を封ずる結界が張られたら、私は一度精霊界に戻り、この魔法陣を目印にして結界の外側にすぐ戻ってきます。この魔法陣には剣さまの血が記されているから、結界の影響を受けても目印としての機能は失われないわ」
そこでナヤルは薄く笑みを浮かべた。
「結界の外側なら何だってできるわ。結界を潰すことだって簡単よ」
ミラが両手を胸の前に組んで魔法陣に目をやり、ナヤルを見、イシュルに視線を合わせてきた。
「イシュルさまの血。素晴らしいですわ」
ああ、うん、そうかな。はは……。
「……イシュルさまご自身は結界に閉じ込められても大丈夫ですわね」
ミラは辺境伯の執務室でのことを言っているのだろう。あの時は瞬間、結界が開かれたのでちょっと違うが、別に問題はない。
「ああ、大丈夫だ」
魔封の結界に閉じ込められると、おそらく精霊界であろう、あの領域から風の魔力の塊を持ってくることはできなくなる。だが、俺自身の体内にある、俺の心とも結びついた風の魔法具から生ずる、風を操る力が失われることはない。
対人戦闘ならそれで充分だ。
イシュルは笑みを浮かべてミラに頷いて見せた。
暗闇を背景に焚き火の炎がゆらめく先に、オレンジ色の光線が空高く立ち上っている。
周囲には点々と焚き火の明かりが灯っている。酒でも持ち込んで来ていたのか、騒がしかった雑役人夫たちのテントの方も、今は静かになった。周囲にはあの光線以外に異常はない。野営地に近づいてくる魔獣はいない。
イシュルは焚き火を挟んで向かい側に座るピルサに声をかけた。
「眠たくない? それとも緊張してる?」
夜の見張りではイシュルは一番最初に、僅かな時間だが休ませてもらった。今はピルサとともに見張りをしている。
そろそろ僅かな見張りを残し、使節団の多くの者が眠りにつく時間帯だ。これから朝方までが、黒尖晶が襲撃してくる危険な時間帯になる。あの山陰の位置取り、黒尖晶は間違いなく今晩、明け方までに勝負をかけてくる。
イシュルは夜が明けるまで寝るつもりはなかった。
「ん。ちょっと恐いかな」
ピルサは双子の姉の方だ。
「でもイシュルがいるから大丈夫だね」
ピルサは焚き火のゆらめく炎を見つめたまま言った。
パチパチと火の鳴る音がする。
周囲の闇にはいつもの野宿とは違う、重くうねるような緊張感が充溢している。
「ピルサは火? それとも水?」
どれくらい時間が経ったか、イシュルはピルサに呟くように質問した。
これから争闘の時間がはじまるのだろう。だが夜の火を囲むこの時の間は、ふだん互いに話しづらい身の上話をするのには向いている。
「わたしは火」
ピルサはそう言うとブラウスの右手の裾をめくり、手首のあたりをイシュルに見せてきた。
彼女の手首には革ひもの腕輪の先に、銀の装飾で覆われた赤い小さな宝石がぶら下がっていた。
「ピューリは水。赤と青で一対の魔法具。お父さまとお母さまから受け継いだの」
ピルサは表情の薄い眸をイシュルに向けて言った。
親から受け継いだ魔法具に、お父さまとお母さま、か……。
それなのに彼女ら双子は紫尖晶の影働きをやっている。
おそらくお互いの強い信頼や愛情によって力を発揮する、一対の異なる系統の、めずらしい魔法具。だがそのことよりも、イシュルは彼女たちの境遇に思いをめぐらせた。
「イシュルは……」
今度はピルサがイシュルに質問する番だ。
だが彼女はそこで口をつぐんだ。
イシュルが視線鋭く、北の山の方を見やったからだ。
やつらが動き出した。
オレンジ色の光線が分離しはじめ、山の陰をおそらく降(くだ)っている。
「ピルサ」
イシュルが声をかけると、彼女はだまって頷いた。そして右手を背後のテントの方に差し出して、指を曲げたり広げたり、何かのサインを送りはじめた。
テントの中にはエミリアたちが寝ている筈だ。
オレンジ色の光線は今や八本にきれいに別れ、山の東側、イシュルたちの野営する山裾の下、谷川の方へ展開している。かなりの速度だ。あれだけ早く動いても、隠れ身の魔法が発動し続けている。
やつらは「下」から来るのか。
デシオやミラら、身分の高い者たちは山裾の上、山頂の方にテントを張っている。
これは間違いない。やつらの標的は俺だ。
イシュルは内心ほくそ笑むと、おもむろに立ち上がった。
そしてピルサに小さな声で言った。
「やつらの狙いは俺のようだ。俺たちのいる東側、山裾の下の方から仕掛けてこようとしている」
ピルサはいつもより眸を大きめに見開き、イシュルを見上げた。
「後は手筈どおりにな。俺はちょっとお出迎えに行ってくる」
イシュルはピルサの返事を待たずに身をひるがえすと、ゆっくりと山裾を降りていった。
今は三日月、月齢はもう少しで新月、朔になる。焚き火の点在する野営地の外まで来ると、辺りはかなり暗く、足許がおぼつかない。
イシュルは地上すれすれに、広域に微かに風を吹かせて足場の凹凸を確認した。
動きはじめた黒尖晶はかなりの間合いをとって、一部がイシュルの背後に回り込んでいく。
まだオレンジ色の光線は消えていない。
前に三、左右に各一、背後に三。
黒尖晶はイシュルを包囲した。
まだだめだ。耐えろ。今やつらを殺してしまっては意味がない。
イシュルはベルシュ家の指輪に触れ、あの異界に手をかけた。そして大小の岩と草地で斑に覆われた地面にゆったりと立った。
さぁ、来い。勝負だ。
オレンジ色の光線が消えた。
黒尖晶は隠れ身の魔法を解くと同時、加速の魔法を使って突撃してきた。そしてなぜか、イシュルから二十長歩(スカル、約十三m)ほどの間合いをとって全員、ぴたりと静止した。皆、黒っぽい上下に短いマント、フードを目深にかぶり、お揃いの黒っぽい仮面をつけていた。腰を落とし、各々大きなナイフや細く尖った刃先の鋭い剣、エストックを握りしめている。
なぜ止まる。
と、不審に思う間もなくイシュルの前方の、ひとりだけ武器をもっていなかった男が、懐から何か円盤状のものを取り出し両手に捧げ持った。
鏡?
その黒い盤面にイシュルの黒い影が映りこむ。
瞬間、異界との接続が窄まっていく感覚。
結界か?
イシュルは咄嗟に足許の地面を蹴り上げた。小石や砂利の飛び跳ねる黒い影がイシュルの目前に広がる。早見の魔法はまだ、かろうじて発動した。時が遠くへ流れ消えていく。だが、効果がいつまで続くかわからない。
まずはおまえからだ。
イシュルが、鏡の男の肺腑を潰そうと「手」を伸ばした時。
星々が回転しはじめた。
天空を無数の繊細な銀線が回転する。
いや、地上が回っているのか。
おかしい。時間が止まっているのに。早見の魔法は解けてしまったのか。
まさかこれは精神魔法……。
いきなり天地がひっくりかえった。
まわりは鏡の世界。
心が壊れ、あたりにばらまかれる。
ひっくり返った地面から、黒い空を背景に幾つものさらに黒い、漆黒の闇が浮き上がってきた。
それはメリリャに、イザークに。ファーロに父のエルス、弟のルセルになった。
母さんもいる……。
そしてリフィアが。
みなが俺の前に立ち塞がった。
……騙しの魔法具だ。こんなことはあり得ない。
もうひとりの俺が言う。
鏡はすべてを映せない。だからもうひとりの俺が言う。
みな幻だ。しっかりしろ。騙されるな。
でもだめだ。
なぜならメリリャが笑ってる。
その顔が見たかったんだ。
許してほしい。
俺は何もできなかった。
こんなに力があるのに、
肝心のことが、
一番大切なことができなかった。
そうだ。その通りだ。
愛していたのに。
リフィアが言った。
リフィアはあの時の剣を抜いた。おまえ、俺を刺すのか。
リフィアが剣先を向けてくる。
自分の鼻先に尖った刃が、
リフィアの殺気。
死の匂いが漂ってくる。
もうひとりの自分が言う。
剣先を見るな。
彼女はどんな顔をしている? 見ろ! 見るんだ!
リフィアの顔を見た。
彼女は泣いていた。
リフィア!
忘れられる筈ないじゃないか。
思いのままになされませ……。
ミラの声がどこからか聞こえてくる。
思いのままに……。
そうだ。
ミラは俺に何を預けてきた?
それは夢。希望、愛だ。慈しみと信頼だ……。
ミラは俺に何を与えてくれた?
ありがとう。
……でも、それだけじゃない。それで終わりにはしない。
俺はだから。
リフィア、俺もおまえを、
愛してる。
鏡が見えた。その向こうが透けて見えた。
男の影がひとり、そこにいた。
俺は迷わずその男の肺を掴んだ。
そして潰す。
血が高く、高く吹き上がった。
結界が砕け散る。
イシュルは風の魔力を降ろした。
イシュルの鼻先に針のように細く伸び切ったエストックの剣先がある。
早見の魔法はいつからか、もうすでに止まっている。ベルシュ家の指輪も働いていない。
黒い男たちが四方から、イシュルに躍りかかろうとしていた。黒い男たちはみな、風の魔力の空間に閉じ込められていた。
ある者はイシュルのからだに触れんばかりにナイフの刃を突き出し、ある者はイシュルの頭上に飛び上がろうとしていた。彼らの背後には、エストックの尖った剣先をイシュルに向けて異様に長く伸ばした男たちがいた。
イシュルの周りで固まる男たち。まるで何かの彫刻作品のような彼らの姿形。
間一髪だった。
イシュルは彼らを粉砕した。
暗闇の中、イシュルの周りが黒い血煙で覆われる。
イシュルはその黒い霧を夜空に高く吹き上げた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
息が苦しい。
イシュルは地面に片膝をつき、天を仰いだ。空高く、重く低く風が鳴っている。
油断した。やつらを見くびっていた。
精霊神の魔法具。精神系統の、騙しの魔法具だ。やつらはまさしく、必殺の魔法具を用意してきたのだ。
俺が勝ったのは、俺が今生きていられるのは俺の力じゃない。
リフィアやミラ、彼女らの真心に救われたのだ。
彼女たちの真っすぐな心が本物だったからだ。
幻影の中で、鏡が彼女らの本物の心を映し出した時、俺がそれを見た時、精霊神の魔法具は力を失った。
背後からぱらぱらと人影が近づいてくる。
「さすがだわ。剣さま」
どこからかナヤルの声が聞こえてきた。
「イシュル!」
遠くからエミリアの声。
「イシュルさま!」
そしてミラの声が近づいてきた。
振り向くとミラが立っていた。
駆けてきて息の上がった、泣きそうな顔。
今なら言える。テントで彼女が言おうとしていたこと、今ならわかる気がする。
彼女の、ただの悋気ですましてはいけない。
「ありがとう、ミラ。きみのおかげで勝てたよ」
イシュルはミラに向かって微笑んだ。
「大丈夫。きみの真心を忘れたりしない」
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