開門 3
翌日は早くから街の朝市に出かけ、久しぶりの旅路に必要なものを買いそろえた。
昼食はマレナの家でひとりですませ、日課である神殿へ水をもらいに行こうと、家の外に出た時だった。
こちらに近づいてくる者がいる。
イシュルはマレナの家の前で立ち止まった。
神殿に住み込みで働いている、下働きの者たちの家々の間から、ふたりの女が姿を現した。
ひとりはメイド姿、もうひとりは珍しい全身黒ずくめの長身、そして長剣を差していた。
「失礼いたします。あなたさまはもしや……」
「イシュルだ」
声をかけてきたメイドを遮りイシュルは自ら名乗った。
メイドの女は二十歳くらい、肩にかかるくらいの長さの明るい金髪で、毛先が内側に巻かれている。甘くやさしげな顔立ちだ。
女剣士は彼女から少し離れ、顔をあげて横に並ぶ下働きの者たちの住む家を見渡している。
メイドはイシュルに一礼すると言った。
「ちょうどよろしゅうございました。わたくし、ディエラード公爵家ミラさま付きのメイドで、ルシアと申します。以後お見知り起きを」
そしてルシアは女剣士の方へ首を向けると声をかけた。
「ネリー」
「ん?」
女剣士がルシアの方に振り向いた。
ネリーと呼ばれた女剣士はルシアを一瞥すると、そのままなんの表情も見せずにイシュルの方に顔を向けた。
瞬間、女剣士の長い黒髪がふわっと持ち上がる。
女剣士の姿が消えた。早見の指輪が反応する。
強烈な踏み込みだった。ネリーはイシュルのすぐ斜め前まで迫っていた。イシュルの顔の真ん前を剣が下に打ち降ろされていく。
加速の魔法か。
イシュルは左足を引き、からだを後ろへ開く体勢にすると、あの異界に「手」をかけた。
彼女に強い殺気はない。これは遊び、だ。
イシュルは気配を現しはじめたナヤルに、心の中で声をかけ押し止めた。
「ふっ」
女剣士の短い嘲笑。剣がイシュルの足許で静止し、加速の魔法が解除される。
周りで動くものがなくなると、イシュルが念ずる前に指輪の効力も自然と消えた。
腰を落とした長身のネリーの眸が、イシュルの目線の正面にある。
表情の見えない彼女の黒い眸、そして彼女の歪んだ笑み。
彼女が剣を握った手首を返そうとする。
だがイシュルはネリーのその動きを許さなかった。そのまま手首を返されれば剣の刃はイシュルの方へ向く。下段から逆袈裟で返されるのは困る。
「うぐっ」
余裕のありそうだった女剣士の顔が苦悶に歪む。
イシュルは彼女の腕と剣を風の魔法の塊で固定したのだった。
突拍子もないこと、いきなりやってきやがった。
だがつまらないんだよ。この程度じゃ。
「どうしてほしい?」
イシュルが女の耳許で囁いた。
——このまま剣ごと、おまえの両腕を粉々にしてやろうか。
イシュルはそこまでは口に出して言わなかった。
女剣士の眸に恐怖の色が浮かんだところでイシュルは一歩後ろに下がり、魔力を空に上げ開放した。
頭上で高く、風の鳴る音が響く。その場で開放すればとんでもないことになる。
「ネリー! 何してるの!」
ルシアが女剣士を叱りつける。
「ふん、どうやら本物のイヴェダの剣らしいな」
女剣士は風の鳴った空を仰いで言った。負け惜しみで言ったようにも、そうでないようにも思える。
「申し訳ありません、イシュルさま。なんとお詫びしてよいやら……」
ルシアが泣きそうな顔で頭を下げてくる。
「別にかまわないよ。彼女はミラの護衛役?」
イシュルはちらっと女剣士の方に目をやって言った。
ネリーもミラに仕える従僕だろう。俺に関する情報もそれほど詳しくは知らされていない筈だ。使用人、なんてのはそんなものだ。でなければ、加速の魔法で斬りつけこちらの実力を試す、などというあまり意味のないことをやってきたりはしないだろう。
ネリーはイシュルから数歩ほど離れ、そっぽを向いたままでいた。
「はい、そうでございます」
イシュルは今度はルシアの姿をまじまじと見つめた。
大きな眸で柔和な顔立ちだが……。
リフィアにも、剣術のできるラドミラのようなメイドたちがフゴまで付いてきていた。ミラがクレンベルに連れてきている使用人、今、目の前にいるルシアも剣が遣えるのではないか。こちらにちょっかいを出してきたネリーのように。
「なかなか腕のいい剣士さんじゃないか」
イシュルは口許にわずかに笑みを浮かべ、横目でネリーを見ながら言った。
「くっ」
ネリーがイシュルの揶揄に睨み返してくる。
「ネリー?」
それもルシアのひと言でまたつん、と顔を逸らした。
「今日はミラがお茶を振る舞いたい、俺に使いを寄越すと言っていたが、きみらがそうか」
「はい」
ルシアが神妙な顔で頷く。
「じゃあ、行こうか」
ネリーを先頭に、ルシア、イシュルの順で主神殿の横を抜け、ミラたち宮廷魔導師らの滞在する居館の方へ歩いて行く。
イシュルは前を行くルシアの足運びと姿勢を観察した。はっきりとはわからないが、やはりこの女も剣術が出来そうな気がする。歩きながらも腰の動きが少なく据わって見える。
そしてイシュルはルシアの前を行くネリーの後ろ姿に目をやった。
すらっとした長身、長い黒髪。服装も黒、長剣の鞘も黒、真っ黒だ。
見た目は飄々とした感じだが、何を考えているのかよくわからない変わり者、という印象。
ミラにはなかなか面倒なやつが付いている。
「こちらですわ。イシュルさま」
ミラは着ている服ごと半透明になったシャルカの胸に手を入れ、中から革製の円筒を取り出し、さらにそこから小さめの巻紙を取り出し広げて見せた。
巻紙には絵地図が描かれてあった。
それは聖石鉱山とその周辺の地形図だった。
イシュルが椅子から腰を浮かし絵地図を覗き見る。斜め向かいに座っていたセルダも覗き込んでくる。
「もう、セルダったら……」
頭上からミラの機嫌の悪そうな声が降ってきた。
「……イシュルさまにそんなに近づいたらだめ……」
そしてミラの呟きが聞こえてきた。
うっ。イシュルは凍りつくようにして固まった。
「こっちこっち」
宮廷魔導師が滞在している屋敷に到着し、正面玄関から中に入ると、そこにはミラと、昨日紹介された彼女と同じ正義派の宮廷魔導師、セルダ・バルディがいた。
セルダはイシュルの腕にいきなりすがりついてきて、笑顔で弾んだ声で言った。
ミラはイシュルとセルダの方をちらちらと見ながら、ルシアと何事か話している。
館の玄関はよくある造りで、二階まで吹き抜けの小さなホールになっている。奥の右側に二階に上る階段があり、左側は館の東側、裏口に通じている。外観は石造りだが、内装は赤茶の木板や灰色の漆喰で、角の柱や階段の手すりなど、ところどころ手のこんだ木刻の装飾がなされていた。
ネリーはというと、ミラと顔も合わせずホールの裏口の方へ、ふらっと気配を消して歩いていく。
「ネリー!」
そこで突然ミラが大声をあげた。
ネリーの動きが止まる。心なしか全身が震えているようだ。
奥からシャルカが現れネリーの前に立った。
「あなた、イシュルさまにいったい何をしたの!」
ミラの怒声が恐い。ネリーの両肩がぶるっと震えた。
その後は怒り心頭のミラをセルダとルシアが必死に、イシュルがなんとなく取りなしミラの気を静めた。
ネリーはシャルカに見張られじっとしてはいるが、我関せずといった感じでそっぽを向き知らんぷりだ。
ネリーもルシアと同じ、二十歳前後くらいに見えるのだが……。
まるで悪童だな。
イシュルはネリーから視線をはずし、ひとり苦笑を浮かべた。
セルダが言うには、奇行の多いネリーだが、ミラに対しては彼女独自の愛情と強い忠誠心を持っていて、イシュルに対して試すようなことをしてきたのもそれ故のことではないか、ということだった。
ミラとネリーの一件が終わるとイシュルは館の裏手、東側の庭のような場所に案内された。
一面下草で覆われたそれほど広くないスペースに、テーブルと優雅な曲線の椅子が三脚並べられていた。テーブルの上には品のよいレース編みのクロスが掛けられ、すでにティーセットが置かれている。
庭園と呼ぶほどではないが、周囲はバランスよくブナの木々が植えられ、その合間からはクレンベルの東側に延々と連なる青い山並みが見えた。
クレンベルの東側の谷間は建物がほとんどなく、あたりは時折小鳥の鳴き声がするだけ。とても静かだった。
「他の魔導師たちは今、従者らを引き連れて下の街に買い出しに出かけておりますわ」
イシュルたちが座るとミラがそう言った。
魔導師たちも非常食や必要な雑貨類を買い入れているのだろう。
「ぼくたちは午前中に済ませたんだ」
と、セルダ。
イシュルはふたりに黙って頷いてみせた。
つまり今この館にいるのはミラとセルダ、彼女らの家人だけ、正義派の内々の話もしやすい、というわけだ。
ルシアがお茶を入れている間にイシュルは口の中で小さく呟いてナヤルに毒見をたのみ、次は口に出して言った。
「ナヤル、周囲に音が漏れないよう、かるく結界を張ってくれ」
イシュルがナヤルにたのんだのは、数日前にイシュルの寝込みを襲おうとしたバスアルの従者を始末した時、彼女が周囲に張り巡らした薄い風の魔力の壁を再び張ってもうらうことだった。
……了解。
ナヤルが短い返事をしてくる。
「えーと。まず、宮廷魔導師の中で水の男の精霊と契約しているひとはいるかな?」
イシュルはさかんに周囲を見渡しているミラとセルダに声をかけた。ふたりはナヤルがどんな結界を張ったのか、周りにどんな変化が起こるのか気になるのだろう。
イシュルが彼女らにした質問、水の男の精霊とは昨晩、エミリアたちのアジトに向かう途中でナヤルが見つけ始末した、水系統の男の精霊のことだった。その精霊と契約している者が宮廷魔導師なら、その者は要注意人物、ということになる。
「えーと、ぼくは火、ミラは金(かね)、後は土、火、風だから」
「おりませんわね」
「わかった。それなら問題ない、大丈夫だ」
ということは、昨日の水の精霊は、聖石神授に参加するエミリアたち以外のパーティの魔法使いか、クレンベルに潜む他の影働きの者の精霊だった、ということになる。
「どうされました?」
「いや。昨日ちょっとね……」
ミラがすかさず質問してきたが、イシュルは曖昧な笑みを浮かべて言葉を濁した。
「さて、次はミラにどうしても聞きたいことがあるんだ」
昨日も今日も話し合い、情報集めだ。だが仕方がない。明日はいよいよ聖石鉱山に出発するのだ。少しでも多くのことを知っておかねばならない。
「聖石鉱山に到着後、たくさん持ち込まれた紅玉石の中からどうやって本物の一対の紅玉石を選別するのか、どういう手筈になっているのか、聞かせてくれないか」
特に注意しなければいけないのはデシオがどのように関与するかだ。
ナヤルは何も言ってこなかったので、昨晩はデシオの精霊に怪しい動きはなかったということだ。彼が裏切り者なのか、違うのか、それはまだとても断定できない。もう少し見張りを続け探らねばならない。
もし最後までデシオが敵か味方か判断がつかない場合、聖石鉱山到着後は特に彼を厳しく監視しなければならない。もし彼が敵側で妨害してくるようなら始末しなければならない。生かして捕えても事前に拷問にかける時間はとれないし、事後では彼は高い身分にあるわけで、何か面倒な問題が起こるかもしれない。
ミラは一瞬セルダと視線を合わせると、笑みを浮かべて言った。
「はい、わたくしもそのことをイシュルさまにお知らせしなければ、と思っておりましたの」
ミラはそう言うと真面目な顔つきになり、なんとはなしに辺りを見渡した。ミラの背後にはシャルカがいつものごとく表情を消して立っている。少し離れてネリーが背を向けたっている。ルシアはお茶をいれた後、館の方に姿を消した。
周囲はナヤルの設けた風の魔力が薄く流れる壁で覆われている。
「わたくしたちが聖石鉱山に到着した後、数日中にはカハールから食物雑貨を運ぶ輸送隊が到着します。カハールからの輸送隊には聖堂騎士団の兵らと、多くの傭兵が護衛についています。その傭兵の中に、紅玉石を持つ者が複数名いる筈です」
ミラは周囲が安全か確かめると話しはじめた。
「クレンベルから向かう者もカーハルから向かう者も、本物の紅玉石を持つ者だけが、自らの持つ聖石が本物だと知らされています。カハールからの輸送隊が到着した翌日の深夜、聖石鉱山の北東部にある“ウーメオの舌”と言われる場所に、本物の紅玉石を持つ者とわたくしにシャルカ、セルダ、デシオさまと、デシオさまが聖都から連れてこられた神官一名、聖石鉱山に駐在する宝石鑑定職人が一名集合します。紅玉石が本物かどうかの鑑定はその宝石鑑定職人と、聖都からデシオさまが連れてきた神官がします。最後に一度、本物の紅玉石を見て触ったことのあるシャルカが確認し、鉄の小箱の封印をして彼女の体内に収め終了となります」
「儀典長が連れてきた神官の中には宝石の鑑定ができるひともいるみたい」
横からセルダがミラの説明を補足してきた。
鉄の小箱の封印とは、先日ミラが、シャルカから偽の紅玉石の入った鉄の箱を取り出した時にかけた呪文のことだろう。おそらくひとつの封印呪文をミラとシャルカで二分し、それぞれ一部の文言を変えているのではないか。つまり二重のパスワードが設定されている、ということだろう。
「なるほど。それで、クレンベルから聖石鉱山までの絵地図と、聖石鉱山の絵図面はあるかな?」
聖石鉱山の位置は一応秘密とされているが……。絵図があるのなら確認しておかねばならない。
「クレンベルからの絵地図はございません。聖石鉱山まではほぼ一本道なのでなくても問題ありませんし。聖石鉱山に関するものは……」
ミラは背後のシャルカに声をかけ、シャルカの胸の中から革製の円筒を取り出した。その中小さめの巻紙があり、それが聖石鉱山の地図だった。
彼女がテーブルに広げてみせると、イシュルとセルダが頭を突き合わせて覗き込んだ。
それを見たミラが機嫌を悪くしてしまったのである。
「ああ、ごめんね、ミラ」
セルダが片手を後ろにやり、頭をかきながら謝っている。
「ミラはイシュルさんと会う前から凄かったもんね」
いったいどう凄かったのか、なんとなくわかるような気もするが。……あまり考えたくない。
「……」
ミラは頬を染めて視線を明後日の方に逸らしている。
「これは凄い貴重なものだよ。さすがディエラード家だね。ミラくらいの家じゃなきゃとても入手できないよ」
「この絵図は当家で昔からあったものですわ」
ミラがそっぽを向いたまま言った。
と、とにかく絵図だ、絵図を見よう。
テーブルに広げられた絵図はそれほど大きなものではない。日本の規格でいえばA4判くらいの大きさだ。紙はかなり傷んで黄ばんでおり、確かに古そうだ。肝心の絵柄はおそらく銅版で単色刷り、歪んだ円形の山の連らなりの中に、小さな火山みたいな山が描かれ……。
あまりうまく描かれていないせいか絵柄を理解するのに少し時間がかかったが、描かれているものが何かわかってイシュルは思わず瞠目した。
「これはひょっとして二重カルデラ……」
外輪山がなんだか四角形ぽく描かれていて丸みがあまりない。四角い火山なんてないだろう。だから絵柄を判読するのにちょっと時間がかかった。
「か、かるで?」
「はい?」
ミラもセルダも、イシュルに顔を向けて疑問の声をあげた。
まずい……。
「これは火山が内側と外側でふたつできている山だね」
イシュルはごまかすような笑みを浮かべてふたりの顔を見る。
そっぽを向いていたミラもイシュルに顔を近づけてきていた。
ミラとセルダは、まったく専門外で地質学的な知識がないのか、自信なさそうに曖昧に頷いた。
絵図面はあまり正確なものではないのだろうが、大きな外輪山の内側、中央よりやや北東よりに小さな内輪山が描かれている。その内輪山の外側の左の方、つまり西の方には地面から煙が立ち上っているような描き込みがあり、その南側には小さな湖みたいな描き込みもある。
イシュルが絵図を指差しながら質問した。
「この煙は火山の?」
「はい、火を吹いたりして激しい噴火はないですが、その辺りからは年がら年中、もくもくと煙が出ているそうです」
「これは湖?」
「はい。周りからは温水もたくさん出ているそうですわ」
温泉だ。
「温泉かぁ……」
イシュルが遠い目になって言うと、ミラが目を見開き驚いた顔をした。
「おんせん、って言うんですか」
「ああ。入りたいなぁ」
イシュルが惚けた顔で言うと、ミラとセルダが少し不審な表情になって顔を見合わせた。この大陸では温泉に入る風習は一般的ではない。
「熱いですよね?」
「入ってどうするの?」
「いやいや、気持ちいいんだぞ。からだにもいいんだ」
イシュルがむきになって言い返すと、ミラが思わぬことを言ってきた。
「でも、この山の内側一帯は暖かく、湖には地の魔力が流れ出ていると言われていて、たくさんの魔獣が集まってくるんです。聖石鉱山に行くのに一番の難所で危険なところですわ」
イシュルの緩んだ顔がさっと厳しいものに変わった。
じっと絵図を見つめる。
そうか、この外輪山の内側一帯がそれか。
クレンベルから聖石鉱山への道程には、強力な魔獣が多数出没する危険な場所がある、とのことだったが、それがこの場所だったのだ。
確かに火山活動による温泉の存在や地熱で周辺の気温が幾分高くなる、ということはあるかもしれないが、それよりも水分中に多く含まれるであろう、鉄や亜鉛などミネラルの補給のために、より多くの魔獣が湖の水を飲みに集まってくるのではないだろうか。
魔獣は鉄とかカルシウムとか、他の一般の動物より多量の摂取が必要なんじゃないか、という印象は確かにある。
火山から土の魔力が湖へ流れている、というのはどう考えても眉唾だろう。
いや……。
イシュルは顎に手をやりさすった。
赤帝龍の巣は大きな火山にある、という話だった。そう簡単に否定するわけにもいかないか。
そうだ。それで思い出した。
イシュルの双眸が僅かに見開かれる。
この聖石鉱山一帯は、いかにもあいつにとっては長居しやすい場所じゃないか。クシムからこの火山までは五百里(スカール、約三百五十km)も離れていないだろう。やつにとってはたいした距離ではない。
あいつは俺をおびき寄せるためクシムに居座ったと言ったが、この聖石鉱山も聖王国にとって大事な場所だ。赤帝龍はまさかラディス王国と聖王国の違いを、そして俺がラディス王国の人間だとわかっていたのだろうか。
確かリフィアとゾーラ村に向かう途中、エミリアをあの森で捕まえた時、彼女は赤帝龍が聖王国の方には来ない、そしてその理由を知っているような態度をとったのだ。
「この火山は赤帝龍にとっても居心地のいい場所だと思うんだがな。なぜあいつはここではなくクシムに居座ったんだろう」
イシュルはふたりに聞いてみた。
「昔、ウルク王国の神官が赤帝龍の巣まで出向いて、ウルク王国の神殿や聖地に手を出さないでくれ、ってお願いしたらしいよ。この聖石鉱山も大昔から聖地だったらしいから」
セルダが軽い調子で言ってきた。
「この前お話した、赤帝龍が火の主神殿で暴れ火の魔法具を手にいれた後、しばらく経ってから火神バルヘルが赤帝龍の前に現れ、以後神々の主神殿や聖地に係らないよう約束させた、という言い伝えがあるそうです」
とはミラの弁。
どれもありそうな話だが、何となく曖昧で説得力に欠ける気がする。
「なるほど……」
イシュルが考え込んでいると、ミラが絵図の一点をさして言った。
「このフラージと書かれている山が聖石鉱山ですわ」
ミラが肝心のことをお忘れでは、という感じの意を込めて言ってきた。
ミラの指先は内輪山を指し示していた。
「……聖石鉱山はこの内輪山の内側にある、ということか」
確か古い火山やその周辺では石英が産出することが多い、とかそういう話があったろうか。
とりあえず内輪山の山が天然の城壁となって、外側を跋扈する魔獣の侵入を防いでいる、ということはあるかもしれない。
「ないりん……?」
セルダの目が点になっている。
「素晴らしいですわ。イシュルさま。イシュルさまはまるで聖都の高名な学者さまのようです」
ミラが感動している。
危険だ。外輪山、内輪山という言葉もあまり一般的ではないらしい。
「いや、それより“ウーメオの舌”、というのはどこら辺?」
「多分ここらへんだと思います」
ミラは内輪山の内側、北東の片隅を指差した。絵図には特になんの描写も記載もない。
「“ウーメオの舌”は、固い岩が露出していて、草木もあまり生えていないそうです」
ミラが説明してくれた。
つまりそこそこの人数が集まることができ、少なくともその岩場の上は見渡しがいい、ということだ。
まずは現地に着いてからだが、当日、俺は少し離れた高所に陣取り、 “ウーメオの舌”に集合した関係者全員と、その周囲を見渡せる位置取りで警戒に当たる。そして俺の位置の対角線上、反対側にナヤルを配置する。そんな感じになるだろうか。
イシュルがその方針をふたりに話すと、ミラもセルダも諸手を上げてイシュルに賛意を示し、イシュルを褒めそやした。
「さすがだね。噂にたがわず、ってところかな」
「素晴らしいですわ。イシュルさま」
「いや……」
まだ十六だし、彼女らは俺が田舎の村の出だと知っている。だから凄い、という話になるんだろうが、情報を集め、地形や状況を把握しあらかじめ基本的な方針を立てておく、というの当たり前のことだ。それは将軍だろうと商人だろうとみな同じ、誰でもやっていることだ。
イシュルは顔を上げ、視線を遠く東に連なる山並みに彷徨わした。
問題はデシオの動向だ。やつは敵か味方か、まだ情報が少な過ぎてわからない。ミラたちに相談する段階でさえない。
イシュルは視線をミラに向け、一瞬だけ彼女の視線と合わせた。
ミラの顔に自然と微笑みが浮かぶ。
もう少し様子を見て、フラージ、聖石鉱山に到着する前にかならず、デシオの尻尾を掴まなければならない。
イシュルはふと横から視線を感じそちらへ顔を向けた。
セルダがイシュルを見ていた。
セルダも首を傾け、にっこり笑みをつくってきた。
イシュルは魔導師たちが宿泊している館を出ると、正騎士らが滞在する館に向かった。
そして玄関ロビーにたまたまいた正騎士らしき男に、騎士団長に渡してくれと言付けてハンターギルドで渡された採用通知書を手渡した。
イシュルは館から外へ出、石畳の道を神殿の方へ歩きながら、ふとその先の方へ視線を向けた。
神殿の裏手へ行くと、十頭以上の馬や驢馬が軒下の柱や、地面に急造で打たれた木杭に繋がれていた。馬の周りには飼い葉の山、小さめの水樽や折り畳まれた布などがところ狭しと積まれていた。おそらくミラたちと話している間に運びこまれたのだろう。
イシュルはそのまま石畳の道を奥へ歩いて行き、神殿の裏にある、大きな門の前に広がる空き地に出た。石畳の道はその門の前まで続いている。その大きな青銅の門扉の向こうには、聖石鉱山へと続く山道が延々と伸びている筈だ。門の左右に伸びる石積みの壁は所々美麗な彫刻で装飾されている。
その門や石壁を、見習い神官の少年たちが総出で掃除していた。
「ではぼっちゃん。明日は気をつけて。怪我しないようにね」
マレナがすかすかの口を開いて笑顔を見せてきた。
「はぁ、はぁ、うん。がんばる」
イシュルは息も絶え絶え、疲労困憊の体で言った。
その日の夕食、イシュルは出発の前日になってマレナ婆さんに聖石輸送に参加することを知らせた。
期間は往復二十日間、自分がいない間の力仕事は、顔見知りの見習い神官たちにお願いした。婆さんが困っていたら手を貸してくれと、両隣のひとたちにも挨拶してきた。だからそれなりに込み入った話になる。
イシュルは何度も何度も大声を張り上げ、相当な時間をかけてマレナに説明した。
耳の遠いマレナがすべてを聞き取る頃には、イシュルは声を枯らし肩で息する状態になった。
近所迷惑だよな、はは。
それにこの疲れ。とにかく一番恐れていた用件はこれで済ませたぞ。
イシュルはマレナの朗らかな顔を見ながら、秘かな達成感に身を震わせていた。自分のからだの震えは決して疲れのせいじゃない、と思いたかった。
翌早朝、聖石鉱山へと続く門の前で参加者が集って、聖石神授の儀が行われた。
聖石神授の儀は正式には、ここクレンベルの主神殿の、聖石鉱山へと続く門前で行われる。
出発時に門を開く儀式と、聖石をクレンベルに運び終えて、門を閉じる儀式のふたつが聖石神授の儀の本体である。聖石鉱山へ向かい水晶の原石を輸送することは、儀式の一部とさえ見なされていなかった。
まぁ、そんなもんだよな。
東の空から、突き刺さるような鋭角で射し込んでくる朝日に目を細めながら、イシュルは跪き下を向いた顔に僅かに皮肉な笑みを浮かべた。
門の前には神殿長、大神官のカルノ・バルリオレが跪き、聖堂教の聖典の一節を朗々と読み上げている。
その後ろに聖石神授儀典長のデシオ・ブニエル、聖王家査察使のミラ、続いて聖都からデシオとともについてきた三名の神官や宮廷魔導師、バスアルら騎士団の者らが横並びで整列し跪いていた。
そのさらに後ろに跪くイシュルの横にはエミリアたち傭兵が、雑役人夫や魔導師や騎士団の従者たちが跪いていた。
カルノのお祈りが終わると次は儀典長のデシオだ。デシオの祈りは短く、彼はすぐに立ち上がった。
そしていきなり大声で「開門!」と叫んだ。
すると脇の方に控えていたクレンベルの神官や、見習い神官たちがいっせいに門扉の方に走っていき、みんなでかけ声を合わせて門を開けていった。
「えい、えい、えい」とかけ声に、門扉の開く「ぎぎぎぎー」と金属の軋む音が重なった。
イシュルは頭を少し上げて前を見た。
幾何学的な装飾の門柱に縁取られた内側に、細い道が山の尾根伝いにずっと先まで伸びていた。
それはイシュルにはまるで中世の西洋画のように見えた。門柱が額縁になった一枚の絵。
ただしそこに描かれているものは背景だけだった。
美しい女も、典雅な王侯貴族も、神々しい神々も、何も描かれていなかった。
出発したその日の午後、イシュルは眼下の山麓の谷川に、魔獣の一群が集まっているのをみとめた。
周囲の山々の標高はそれほどでもない。クレンベルの主神殿のある山で二里(二スカール、約千三百〜四百m)、今、イシュルたち一行が歩いている尾根もおそらく同じくらいだろう。
緯度からいってもブナなどの大きな木々がたくさん生えていてもおかしくはない筈だが、どの山も岩が多く地味が悪いのか背の高い木々は生えていない。あるいは冬期にはかなり気温がさがるからかもしれない。
そういうわけで周囲の見晴らしは非常に良く、視界がいいおかげで、道は細く、足場もあまりよくないが、歩きにくさはそれほど感じられない。
山の麓には高木も生えているが、密生するほどではなく、岩と苔や草の、灰色と緑色で覆われた美しい姿の山嶺が遠く、下方の山裾へも広がっている。
その山裾、谷間のやや前方に魔獣の群れをはっきりと視認できたのも、視界がすこぶる良いおかげだろう。
イシュルの前は、エミリアたちが怪しいと睨んだパーティの面々が歩いている。彼らはまだ誰も魔獣の群れに気づいていないようだ。
イシュルのすぐ後ろにはエミリア、続いてラベナ、そしてピルサにピューリの双子、クートと続く。彼らも気づいていない。
エミリアは後ろのラベナと話していて、振り向いたイシュルに気づかない。
エミリアたちパーティの後方には少し離れて正騎士と従者たち、正騎士らは交替で聖堂騎士団の旗を一旒、空高く掲げていた。そして彼らの後ろに査察使のミラとシャルカ、ネリーやルシアが続いている。
ミラたち宮廷魔導師は出発時から、みなお揃いで生成りのトーガに白いマントと、神官に似た服を着ていた。ただし足許はサンダルではなくブーツである。これは野外を延々と歩くのだから仕方がないだろう。
ミラは神官風の服装になっても、そのきらびやかな美しさを微塵も失わなかった。ネリーは昨日と同じ格好、ルシアはメイド服に剣帯と剣、上に明るいベージュのマントを羽織っていた。
ミラたち主従の後にはデシオら神官、その後にはセルダたち残りの宮廷魔導師とその従者らが続き、次に雑役人夫や荷馬の一団、最後尾にイシュルらと同じ傭兵として雇われたパーティがひと組続いていた。
総勢百名近く、細長い隊列が山の尾根を延々と続いていた。
イシュルがいち早く気づいた谷川に蝟集している魔獣、それは久しぶりに見る牙猪の大きな群れだった。
銀色に輝く川筋に黒く丸いものが十数頭、集まってもぞもぞと動いているようだ。距離は相当ある。多分三里(スカール、約二千m)以上はある。
「あれ、もしかして牙猪の群れ?」
エミリアが後ろから声をかけてきた。
彼女はおそらくイシュルの視線の先を追って気づいたのだろう。
「ああ」
イシュルが後ろを振り向いて返事をした。
振り向いたイシュルの視線がエミリアを飛び越えてその先に向けられる。
後ろから正騎士がひとり、イシュルたちの方へ歩いてくる。
正騎士はイシュルの前までくると、下の方を指差して固い声で言った。
「騎士団長からあの魔獣を退治しろ、とのご命令だ」
イシュルは表情を消した視線を騎士に向けた。
聖堂騎士団の騎士たちもみなお揃いの格好で、白色の胴鎧に膝、肘当て、鉄片を巻き付けたブーツという軽装に白いマント、ただ体格のいい数名が背中に大盾を背負っている。
「距離はあるし、ずっと下の谷間だ。使節団に危険を及ぼすことはないと思うが?」
イシュルが冷たく言うと、騎士の男の表情に怒気が表れた。
「貴様ぁ……」
男が低く唸るように言ったのと同時だった。
イシュルの頭上で光の筋が走り煌めくとナヤルが姿を現した。
先日の昼食会で誰にでも姿が見えるように、ほぼ実体化した姿を見せた時と同じだ。
イシュルは上を向いてナヤルの顔を見た。
ああ、怒ってるな。
「ひっ、……だ、大精霊」
騎士がだらしなく尻餅をついた。
男は昼食会に出ていなかったが、ナヤルの話は当然耳にしていたろう。
「ああっ、あの、騎士団長が退治していただけないかと、ク、クレンベルからまだそれほど離れていないので……」
騎士は言葉つきをあらためた。
ナヤルは不機嫌な顔で尻餅をついた騎士を見おろしている。
牙猪の群れは人里まで降りてくるだろうか。雑食の牙猪とってこれからは餌が増えてくる季節だし、彼らは怒らせなければ無謀な行動をしないだろう。
イシュルは後方にいるバスアルの方に目をやった。大精霊が現れ隊列の動きが止まり、後ろはざわついている。
バスアルはあらぬ方を向き、イシュルの視線を露骨に避けていた。
イシュルはそのまま無言で、下方の牙猪の群れの方へ左腕を持ち上げた。
万が一、ということはある。仕方がないか。
牙猪の群れに先日練習した、立体格子状の風の魔力を展開する。
川筋に集まっていた黒っぽい複数の球体が、さっと暗い灰色の煙に覆われた。この距離では粉砕された血肉の色まではっきりとは見えない。
続いて魔力を開放。
灰色の煙がさらに大きく爆発し谷底を広がっていく。
イシュルは谷底へ向けて風を吹きつけ、拡散していく煙を反対側の山の斜面へ押しつけた。
同時に下の方からドーンという低い爆発音が響いてきた。爆発音は高く広く、あたりの山々にこだました。
後は何もなかったような静寂。
「相変わらずすごいわね」
エミリアが小さな声でいった。
ナヤルは満足げな顔をして姿を消した。
山の稜線に居並ぶ人びとはみな、ただ呆然と立ち尽くしていた。
ミラだけが笑顔でイシュルの方を向き、胸元で小さく手を振っていた。
列が動きだしてたいした間もなく、イシュルは同じ東側の遠い山の稜線の奥に、今度は八匹ほどの悪魔の群れが飛んでいるのを発見した。
こちらは騎士団が旗を立てて山の稜線を進んでいるので、かなり目立つ筈である。悪魔どももいずれこちらを見つけるだろう。いや、もうすでに彼らはこちらを見つけ、後方から襲撃しようと回り込んで移動している最中なのかもしれない。
イシュルは悪魔の群れも始末した。おそらく誰にも気づかれることなく。
どうということもないな。
あの二重カルデラまで行けば、ちょっとは手応えのある魔獣も現れるだろうか。
いきなり悪魔百匹、地龍百匹出現! とかぐらいでないと、本気にはなれない。
聖石鉱山に到着するまでは、デシオの動向に注意を払っていれば後は問題ないだろう。しかもそれはナヤルに任せてある。
その後はエミリアたちとたまに言葉を交わし、ひたすら視界の開けた山道を歩き続けた。
!!
イシュルがはっとした顔になる。
異変は突如、夕方に起こった。
それはイシュルの甘い見込みを嘲笑うかのように、彼の目の前に突然現れた。
あれは……。
山嶺を細い道なりに歩き続けたイシュルたちの前に、東側へ緩やかに広がる山裾が現れた。その奥には小さな川が流れているようだ。そしてその背後はかなり急な斜面の山がせせり立っている。
陽は西に深く傾き、もう夕方だ。この山裾、奥の小さな谷川周辺が今日の野営地になるのだろう。
その背後の山の影から、オレンジ色に煌めく鋭い光線が、何本も固まって空へ伸びていた。いや、それは天空、あの精霊の領域まで伸びていた。
隠れ身の魔法か?
よく似ているが少し違う。
隠れ身の魔法から伸びる魔力の糸はもっと不安定で、この世界の空間と位置関係が一致しない。精霊の領域から伝ってくる魔力には上下左右などという感覚は存在しないのだ。
だが、今目の前に見えるオレンジ色の光線、魔力の流れははっきりと上下に伸び直立し安定している。
「あれはなんだ」
イシュルは立ち止り、口の中で呟いた。
イシュルの横にすっとナヤルの気配が現れる。
「あら、めずらしい魔法ね」
えっ……。
「あれは精霊神の魔法具ね」
無系統の補助的魔法具の一部、さらに特殊な魔法を発動する魔法具があり、それは精霊神の魔法具と呼ばれている。
「隠れ身の魔法じゃないのか」
イシュルはナヤルにだけ聞こえるように小声で言った。
「隠れ身の魔法よ。でもちょっと高級。術者を隠蔽する力が強くて、他の魔法を使ったり、こちらから攻撃して当てない限り解けないわね。たぶん」
なんだと……。
今まで影働きの連中がよく使っていた隠れ身の魔法は、殺気を漲らせたり、激しく動いたりすればすぐ解けてしまい、尾行や待ち伏せ、退避する時くらいしか使えなかった。
「精霊神の魔法はみんなあんな感じ。ひと言で言ってしまえばみな“騙し”の魔法よ」
イシュルは山陰から立ち上がるオレンジ色の光線を見つめた。
“騙し”の魔法具か。
ふと、昔、ゴルンから聞いた話に出てきた変わった魔法具のことを思い出した。確か鏡の魔法具、とか呼ばれていなかったか。
あれは攻撃した側がそのまま同じ攻撃を返される、という魔法だった。あれも言わば“騙し”の魔法だ。
「どうしたのイシュル」
エミリアがイシュルに追いつき横に並んできた。
代わりにナヤルの気配が薄れていく。
「いや」
イシュルは北の夕闇に浮き上がる山陰を、そこからまさか夕陽を浴びてなのか、オレンジ色に光る光線の束を見つめた。
あれが「見える」のは俺か、高位の精霊くらいしかいないだろう。
「たしか黒尖晶と言ったか? そいつらが出てきたらしい」
イシュルはエミリアに視線を向け、静かに言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます