開門 2
開け放たれた扉から入り込んだ外光が、うっすらと屋内を照らしている。
柔らかな間接光がエミリアの頬の曲線をなぞるようにして当たっている。
彼女は無言で近づいてきた。
彼女の背後から、蝋燭のほのかな灯りが瞬く。
彼女の眸が俺の眸のすぐ下にある。
彼女の眸も外の光を拾っている。
エミリアは俺の手に何かを握らせてきた。左の掌に、折り畳まれた紙の感触。
彼女の視線が横に流れる。眸の光が横に尾をひいた。
拳の中のものを握りしめる。
振り向くと彼女はもう神殿の外に出ていた。姿が見えない。
イシュルは、未だ深く跪き祈りを捧げているラベナとクートに視線を落とした。
ふたりの背中が重い。このふたりは今までどんな人生を歩んできたのだろうか。
彼らにはとても声をかけられない。
イシュルは仕方なく神殿の外に出た。エミリアの姿はどこにもない。双子も姿を消していた。
イシュルは小さくため息をつくと、ピルサとピューリがいた青銅の扉の影に入った。エミリアの渡してきた紙片を見る。
下神殿広場「山の三日月亭」裏三件目、「月輪亭」にて今晩夜二
紙切れにはそれだけしか書かれていなかった。
詳しい話はそこで、ということか。
夜二とは日没後二刻、今の季節なら夜の十時くらいになる。クレンベルの山麓に広がる市街地の小さな歓楽街、そこに軒を連ねる飲み屋や娼館も店じまいをはじめる頃合いだ。
下の神殿前の広場に面した「山の三日月亭」は、街でも一二を争う大きな宿屋である。歓楽街はその裏手の方に広がっている。
イシュルは紙切れをズボンのポケットにねじこむと、神殿の側面をまわり神殿の裏手へと向かった。
陽が西に傾きはじめている。
今日はマレナも忙しかったろう。一端家に返って、彼女の分の夕食も俺がつくろう。
イシュルは夜まで下宿先で過ごそうと思った。
出発は明後日だ。やりたいことは他にもある。折れてしまったが大事にしている父の形見の剣を手入れしたり、ナイフも研いでおいた方がいいだろう。
明日は下の街に出かけ、干し肉や塩、布類、火打石などを買いに行こう。昨日ギルドで渡された巻紙には、食糧や水は支給されるものの、各々少なくとも別に数日分の食糧、水を用意すべし、と書かれてあった。
イシュルが神殿の横を歩いていくと、奥の方からミラと、同じ年頃の少女がおしゃべりをしながら現れた。
ミラの隣にいる少女は、さきほどの会食でミラと並んで座っていた宮廷魔導師たちのひとりだ。
「イシュルさま!」
ミラが笑顔になってイシュルに駆け寄ってきた。
「ちょうどよかったですわ。前にお話したわたくしの友人を紹介いたします」
ミラはそう言って後ろを振り向きセルダ、と声をかけた。
ミラからセルダと呼ばれた少女が、人懐っこい笑顔をたたえてミラの横に立った。
「彼女がわたくしの友人で同じ宮廷魔導師のセルダ・バルディですわ」
「はじめまして、バルディ殿」
イシュルは左手を胸にやり、かるく腰を曲げ屈んでみせた。
「よろしく、イシュル殿。わたしのことも気安くセルダと」
セルダはより大きな笑顔になって言ってきた。人柄も見た目通りのようだ。
「ふーん。イシュル殿の仕草は独特だね。かるくさっぱり、鋭く柔らかい、なんだかもの凄く洗練されてる感じがする」
セルダは笑顔を引っ込め少し驚いた風をして、イシュルの貴人に対する略式の挨拶をそう評してきた。
「イシュルさまはほんとに不思議な方ですわ。イシュルさまがさまざまな場面でお見せになる所作は、ラディス王国の貴族のそれでも、もちろん聖王国のものでもない。どこか遠くの、わたくしたちの知らないまるで神々の世界のもののようにわたくしは感じます」
ミラが言ってきた。
ちょっと大げさ過ぎるだろう。こちらとしては曖昧な微笑でごまかすしかない。
前世の俺は日常生活でどんな動きをしていたろうか。PCのキーボードを叩き、スマホを弄り電話し、車を運転し、電車に乗り、東京の街中を足早に動きまわっていた。商談では行儀良く、格式ばったものではなくとも丁寧な言動を心掛けた。上司に対するときも同じだ。仕事をまわす時は素早く的確に。子どもにやさしく、お客さまにはソフトに接した。
それらのことは生まれ変わってからも自然と自身の動き、喋り方に現れてくる。
神々の世界か……。
そんなこととはまったく関係ないがな。
「うん。そんな感じかも」
セルダも相槌を打つ。
イシュルはごまかしの笑みをセルダにも向けた。
セルダはミラよりやや背が低く、赤毛のショートヘア、大きな眸のせいか顔はやや幼く見える。
いつもの真っ赤なドレスのミラに対し、セルダは聖王家宮廷魔導師の制服なのだろうか、サイドに唐草模様に似た銀糸の刺繍の入った白地の上着にズボン、赤紫のスカーフに赤茶の革のベルト、ベルトに銀製の握りの短剣を吊ってる。そして珍しい、高価そうな銀糸の刺繍の入った明るいグレーのブーツを履いていた。
赤紫に白と銀、なかなか派手できらびやかな取り合わせだ。ミラといい、この娘といい、聖王国はラディス王国より少し派手な服装が好まれるようだ。特に彼女らのような貴族の女性には。
セルダの家は古い時代にミラのディエラード公爵家から別れ、現在は伯爵家だということだった。
彼女は幼い顔立ちで小柄だが、ボーイッシュで活発な感じに見えた。話してみても外見の印象どおり、人懐っこい快活な感じがした。
「あのイヴェダの剣の継承者ですもの。もっと大人なひとかと思ってた。イシュルさんは何歳?」
話しているうちに、いつのまにかイシュル殿からイシュルさん、に変わっている。
慣れ慣れしいといえばそうだが、悪い感じはしない。
「十六歳だよ」
「うふふ。わたくしたちと同じ」
ミラがうれしそうに言う。
「ふーん、凄いね。さっきの昼食会での話し振りや落ち着きからしたら信じられない」
「そうかな」
あまり突っ込まれたくない話題だ。
「ミラが前からイシュルさんのことで大騒ぎしてたから、実を言うとぼくの方は逆に少ししらけちゃってさ。ミラにもそんなに入れ込んでどうするの、って何度か話していたんだ」
「そうなんだ」
聞いたぞ。今、「ぼく」って言ったな? ぼくっ子だね。
「でもミラの興奮もまちがっていなかったんだね。あの凄い、神々しい大精霊にはびっくりしたよ」
イシュルはただ愛想笑いを浮かべ、曖昧に頷くしかなかった。
「……こんなところで立ち話もなんでしょうから、どうでしょう、イシュルさま。これからお茶でもごいっしょに」
ミラはいつも何事かを誘ってくる。いや、誘ってくれるのだが。
エミリアたちと会うのは夜遅くだから関係ない、ただ自分の用事はいいとしても、マレナ婆さんには夕飯をつくってやりたいし……。
イシュルが迷っていると、ミラが両手を胸の前で握りしめて近づいてきた。
「イシュルさまのご都合が悪いのなら、明日はどうでしょう」
ミラの眸が強く訴えてくる。
それは正義派として、出発前にどうしても話しておきたいことがある、ということだろうか。それとも他にひとがいてもいいから、ただ俺と少しでも多く、長く接していたい、ということだろうか。
ミラは友人の宮廷魔導師が同じ正義派だと言っていた。セルダがそうなのだろう。確かに一度、彼女も加えて話す必要があるかもしれない。
「明日の午後なら」
イシュルは真面目な顔になって言った。
「はい。それでは明日の午後に。イシュルさまのお住まいに使いを出しますので」
不安そうだったミラが笑顔になって言った。
「わかった」
イシュルも表情を緩め、頷いてみせた。
ふたりがイシュルに背を向け離れていく。そしてイシュルが前を向き神殿の裏手へ歩きだそうとした時、突然早見の魔法が動きだした。周囲の音が離れていく。背後から誰かが近づいてくる。
イシュルのすぐ横に、静止した動画を高速でコマ送りしたような奇妙な動きでセルダが立った。前を行くミラはまだ気づかない。今ここにシャルカはいない。
ナヤルはセルダに殺気がないと判断したのか、何の反応も示さない。
「ふーん」
イシュルが驚きもせず顔を向けてきたのを見てセルダが言った。
「さすがだね。ぼくの動きがわかるんだ」
「どうしたの?」
イシュルはなんの屈託もない笑顔をつくって彼女の台詞を流し、逆に問いかけた。
「ぼくもね、持ってるんだ。紅玉石」
セルダが囁くような小さな声で言ってきた。セルダの顔に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「セルダ!」
ミラもセルダの動きに気づいたのか、イシュルとセルダの方へ振り向き、セルダに叱るように声をかけてきた。
「もう、そんなことして。イシュルさまに失礼よ」
「ふふ。ごめんごめん」
セルダはミラに向かって謝ると、イシュルに顔を向け言った。
「じゃあね、イシュルさん」
セルダの顔が前を向く。そしてほんの一瞬、イシュルに流し目を向けると、ミラの方へ走っていった。
加速の魔法か。
イシュルは、ミラと並んで去っていくセルダの後ろ姿を見つめた。
イシュルがそのまま歩いて行くと、今度は神殿の裏手の建物の前で、神殿長のカルノと使節団儀典長のデシオのふたりにかち合った。
「やぁ、イシュル君」
「イシュル殿」
ふたりとも笑顔でイシュルに明るい声をかけてきた。
「いや、今日はきみのおかげで素晴らしいものを見れた。感謝しているよ、イシュル君」
とカルノ。
「まったくです、カルノさま。わたしも貴重な体験ができました」
とデシオ。
「いや、ほんとうにこれぞ眼福の至り。こんな田舎に引っ込んでいると、きみ、なかなかねぇ」
「何をおっしゃいますか、カルノさま。わたしもあのような大精霊を見たのははじめてです」
イシュルが呆然としている横でふたりが盛り上がっている。
あんたらどこかの会社の上司と部下、みたいだな。
しかし、彼らの話はナヤルのことを言っているのか。
イシュルはちらちらと、カルノに愛想良く話すデシオの横顔を見た。
この男にどんな裏があるのか。この男は裏切り者なのか、そうでないのか。
「いや、イシュル殿、これは失礼」
デシオがイシュルの視線に気づいて、何を思ったか謝るようなことを言ってきた。
「ああ、そうだった。イシュル君は知らんだろうが……」
と、カルノが引き継ぎ説明をはじめた。
聖都エストフォルの大聖堂の近隣に、国内外の貴族の次男や三男、富商や豪農の子弟を中心に、将来教会の幹部を育成するための神学校があり、カルノもデシオもその神学校の出身だった。
その学校の初歩課程で支給される副読本に、水の神フィオアと風の神イヴェダの古い小話が載っていた。それは水と風、どちらがこの地上に生きる人間と生き物に役立っているか、フィオアとイヴェダが互いに譲らず言い争う、という話で、川や海、水がどれほど生き物たちに役立っているか力説し議論を優位に進めるフィオアに、イヴェダが風(空気)が吹かなければ雲も生まれず雨が降らない、もとより風(空気)がなければ人や動物は息ができなくて死んでしまう、と反撃してやり込めるところで終わる。
つまりフィオアとイヴェダの小話は、風と水、その他火、土、金も、生物が生きていく上でどれも大切なものでその差に軽重はない、どれも欠かすことはできないのだという寓話なのだが、その物語の冒頭で、フィオアの神殿に向かうイヴェダがどんな服を着ていくか、風神にふさわしい威厳のあるものか、美しいフィオアに負けない美麗なものか迷い、悩むシーンがあり、そこで彼女の女官であるナヤルルシュク・バルトゥドシェクが登場するのだという。
ナヤルルシュクは、イヴェダに議論をふっかけようとするフィオアの思惑を読んだか、イヴェダに風神にふさわしい威厳のある服を選び、風の剣を持たせた。
フィオアとの議論で負けそうになったイヴェダはそこで風の剣を振るい、フィオアの目の前で風を起こし雲を呼んで大地に雨を降らせ、実演してみせることができた。
「まさかあの物語に出てくるナヤルルシュク・バルトゥドシェクに直にお会いできる日がくるとは!」
「ええ、ほんとにそうです。わたしも子どもの頃を思い出します。まさかイシュル殿があの、ナヤルルシュク・バルトゥドシェクを召還するとは!」
イシュルにその話をしたふたりの神官は再び興奮しはじめた。
少年期に慣れ親しんだ物語に登場する、伝説の大精霊に直に会うことができたのだから、そこはやはり神官冥利につきるのか、ふたりが興奮するのも仕方がないことなのかもしれない。
対するイシュルはそれどころではなかった。まったく別のことに驚愕し顔を青ざめた。
な、なぜ……。
ふたりはそうもすらすらとナヤルのフルネームを言えてしまうんだ。
顔を青くし呆然と立ちすくむイシュルの肩や背中を、興奮したカルノとデシオがばしばしと叩いてきた。
夜。
イシュルはクレンベルの山の頂からふもとの街へダイブした。
ぎりぎりまで魔法を使わず自由落下に身を任せる。目の前に木々の影がいっぱいになった瞬間、風を吹かせ自らを風の魔力で覆い落下速度を殺す。背後に木々のざわめきを残し、イシュルは一端南の谷川の方へ、木々の枝や家の屋根を伝って素早く移動した。
川縁に立つ家の屋根の上に身を潜め、気を静めて周囲を窺う。
夜のクレンベルの市街から魔力の立ち上る気配は感じられない。
イシュルは街のほぼ中心にある下の神殿広場の方へ、そのまま建物の屋根伝いに向かった。
イシュルが広場を挟んで「山の三日月亭」の向かいの建物の屋根に降り立つと、ナヤルの声が耳許から頭の中へこだまするように聞こえてきた。
「つけられてるわよ」
なに!?
イシュルの眸が窄められる。
「後ろにわたしみたいに気配を消してる精霊が一体。剣さまの方に注意を向けてるみたい」
気配を消しているのか。
隠れることが得意な精霊に気配を消されると、イシュルでもなかなか感知できない。
「殺れるか? ナヤル」
さっさと排除すべきだ。
「問題ないわ」
イシュルは後ろを振り向いた。
イシュルが振り向くと同時、四方から風の魔力が流れるように現れ出た。それらは美しい曲線を描いて二軒ほど離れた建物の屋根の上空、その一点に集束していく。
風の魔力の縄のようなもので巻き取られた空間に、半透明の精霊の姿が現れた。
男だろうか。若い青年? のように見える。髪の毛がそそり立った首から下はマントで覆われている。
男の精霊は、半透明に鈍く光る紐状のものでぐるぐる巻きにされ、苦しそうな様子に見えるが、泣き叫んだり、暴れたり大きな反応は示さない。魔法も使ってこない。
「多分水の精霊ね」
ナヤルはそう言うと、精霊を拘束した風の魔力の縄を絞り精霊を消し去った。
縄の形をした風の魔力の塊が開放される。
直後、クレンベルの山を突風が駆け上がって行った。
山の上の宮廷魔導師の精霊か、それとも、街中にいるエミリアたちのような影働きの精霊か。
しかしナヤルのあの魔力の使い方。いい勉強になる……。
「ありがとう、ナヤル」
イシュルは口の中で呟くようにナヤルに礼を言うと、街中の人びとの動く気配、魔力の気配を再び注意深く探った。そして広場をそのまま突っ切ることを避け、下の神殿の南側を大きく迂回して、「山の三日月亭」の裏側三件目、「月輪亭」と思われる建物の屋根の上、煙突の影に身を潜ませた。
表の通りの方には酔客がちらほら。
イシュルが辺りの気配を三たび探ろうとすると、突然煙突の反対側でひとの気配が現れ、イシュルの目の前に、煙突の影から黒いマントの裾で覆われた腕が突き出された。握られた拳から親指が下に突き出され、上下に振られる。
下へ行け、ということか。
イシュルが屋根から飛び降り上を仰ぎ見ると、クートが煙突にへばりつくようにして身を潜めていた。
クートは魔法を使ってない。呼吸を最小限に抑え、からだの動きを止めて気配を消しているようだ。
イシュルが降り立ったのは「月輪亭」の裏側だった。狭い軒下には、酒樽や麻袋などが雑多に積み上げられている。反対側の木板の建物は物置にでもなっているのか人の気配がない。
イシュルは左右の暗がりに視線を走らせると、背後の薄く灯りの漏れる租末な引き戸を開けて「月輪亭」の中に入った。
屋内はイシュルの想像していたよりも明るかった。複数のランプがかけられ、暖炉には火がくべられていた。
暖炉は炊事用のもので鉄串に刺された肉が焼かれている。屋内を漂う匂いは肉の焼ける匂いだけではない。酒の匂い、料理に使われる香料や油、煤、茶葉や生臭い水、木や布の匂い、人いきれ、雑多な匂いが漂うどころか充満していた。
イシュルの入った部屋は飲み屋の炊事場だった。左手前に酒樽。その奥には壷が並び、壷の下の床が荒いモルタルで覆われている。そのさらに奥には壷の影に隠れるようにして、汚れた食器が積み上げられている。
そして正面の租末な木製のテーブルには、エミリアがイシュルの方を向いてにっこり笑顔で座っていた。
「どうぞこちらへ。イヴェダの剣さま」
エミリアが向かいの椅子を示して言った。
「今晩は。エミリア」
イシュルは何の感情も見せずにエミリアに挨拶すると、椅子を手前に引きながら室内の右手に目をやった。
そこにも壁際にテーブルが置かれ、上には小皿や銀器、巻物などが載っている。そして酒に酔い潰れたのか、女がひとりつっぷして寝ている。
夜の女たちが着るような、月並みな赤茶のドレスを着た長い黒髪の女。この女はラベナだろう。
「ラベナは今日はお店に出たの」
エミリアがイシュルの目の動きを見て説明してきた。
イシュルは椅子に腰を降ろしながら無言で頷いた。
聖石神授はもちろん、その他のこともいろいろと情報収集しているのだろう。飲み屋に来た客の噂話などを集めているわけだ。
「双子は?」
「ふたりはもう寝ているわ。ピルサとピューリにはわたしの後、明け方から見張ってもらうの」
「ラベナは夜の見張りはお休み、というわけか」
イシュルは再びちらっとラベナの背中に見やると言った。
今、外で見張りについているクートの次がエミリア、その後が朝まで双子、という順番なのだろう。
「そう。まぁ一応、見張りはちゃんとやってるの」
エミリアがにっ、と笑みを浮かべる。
俺がこの前、助太刀に入って暴れているからな。この前、エミリアはもうわたしたちを襲ってくるような者はいない、と言っていた。
「で、ここが新しいアジトか」
あの時は、彼女らパーティのアジトだった郊外の民家が襲われた。いくら襲撃される可能性がなくなったとしても、あの家に留まり続けることはできない。
「そういうこと」
そこで店の表の方から若い男が姿を現した。エミリアの背後を通って肉を焼いている暖炉の方へ行く。
奥の店には後はひとりしか人の気配がない。もう店は閉まったのか客らしき者はいない。
「気にしないで」
イシュルが暖炉の前に屈んだ男の方に目をやると、エミリアが小さく声をかけてきた。
あの男もエミリアたちのご同輩らしい。
「それでエミリア。今日の午後に傭兵や雑役に使節団の方から説明があったんだろ。それを俺にも教えてくれないか」
彼女らには幾つか聞きたいことがあるが、まずはその件からだ。
「その前にわたしの質問に答えて」
エミリアの視線が厳しいものになる。
イシュルはかるく首を傾け微かに頷いた。
「どうしてわたしたちの誘いを断って、あの五公家の娘についたの」
ふむ。それは確かにエミリアたちも気にしてるかもしれない。
「彼女がすべて話したからさ」
エミリアの表情がさらに厳しくなる。
エミリアたちは役目柄仕方ないのだろうが、イシュルに何も教えなかった。
「それだけじゃないでしょ? 報酬は何? お金? 仕官? それとも」
エミリアの頬を、暖炉の赤い炎が照らしている。
今や彼女の顔には、隠しきれない不満が充溢しているように見えた。
「それとも?」
イシュルは面白がって、まるで彼女を挑発するかのような口調で言った。
「公爵令嬢さまは綺麗で華やかだもんね」
エミリアはそっぽを向いて唇を尖らすと、そのままぼそっと言った。
「彼女は俺の望む報酬を、ずばり提案してきた」
イシュルは口許に微かな笑みを浮かべると言った。
「だがそれだけじゃない。彼女はほんとうにすべて、を話してきた」
イシュルは正面を向いたエミリアの眸をのぞきこんで言った。
「それだけじゃだめかな」
「イシュルの望む報酬って何?」
エミリアは俯きイシュルから視線をはずすと、テーブルに置いてあった銀製の二股のフォークを弄りながら言ってきた。
「それは今は言えない。俺は聖石神授後も彼女ら正義派を手伝うことになった。俺が聖都に行けばわかるかもしれないな。エミリアは知ってると思うけど、俺は仕官とか金とかじゃ動かないぜ」
エミリアは顔を上げイシュルを見た。
「そう……。あのディエラード家のご息女さまが“すべて”を話したのね」
「エミリア。あんたらは別に正義派、というわけではないんだろう?」
彼女らのパーティは、上からただ単に、聖石神授において紅玉石を輸送し正義派を助けよ、という命令を受けただけだろう。
エミリアは首を横に振った。
「わたしたちは正義派よ。わたしたちが上から正義派につけ、と命令されたのは確かだけど、国王が教会の大権を握って戦争をはじめたら誰だっていやでしょ? 紫尖晶の上のひとたちも同じ考えだと思うわ」
イシュルは何も答えず、ただじっとエミリアの顔を見つめた。
「わたしたちは本気よ」
エミリアもイシュルをしっかりと見つめてくる。
「国王のやろうとしていることだけは阻止しないと。わたしたちにはわたしたちなりの目的があるの」
エミリアの暗く沈んだ眸に、暖炉の火が、壁にかけられたランプの灯りが微かに瞬く。
彼女の眸の中心にある黒い影はおそらく俺自身だ。
……そうか。
イシュルは唐突にあの日のことを思い出した。
エミリアたちに地龍を当ててとっちめた後、俺をしつこく誘ってきた彼女らの目的を探ろうとした時、エミリアとクートが見せた表情だ。
わたしたちにはわたしたちなりの目的がある、か。
「わかった」
エミリアたちの望むもの、それがどんなものなのか何となくわかるような気がする。多分それはビオナートはもちろん、ミラやデシオのような貴族や高位の神官らが求めているものとは違うものだろう。
イシュルは僅かに表情を緩めると頷いた。
「……」
エミリアはイシュルの頷くのを見ると横をぷいっと向いて言った。
「もう。こっちが質問してたのに」
「ふふ、それじゃ、俺に教えてくれないか。使節団の方からどんな説明があったか」
「しょうがないわね」
イシュルが薄く笑うと、エミリアは唇を尖らしてイシュルを睨んだ。
そこで横からいきなり、彼女の前に煮付けた野菜と串刺しされた肉、パンが差し出された。
夕食だろうか、暖炉で肉を焼いていた男が手慣れた手つきでメインの皿とパン、陶器製のカップに水差しなどをエミリアの前に置いていく。イシュルにもくすんだ小さなグラスがさしだされた。グラスの中身は透明の液体、酒だ。アルコールの匂いが漂ってくる。おそらくまだ熟成されてない麦の蒸留酒だろう。
男は無言で、エミリアにもイシュルにも視線を合わさず背を向け、暖炉に屈んで火の手入れをすると、なんの挨拶もせず外に出ていった。
「……わたし、夕食まだなの。食べながらでいい? あっ、それともイシュルも?」
イシュルは首を横に振って答えた。
「いや。俺はもう済ませた。気にせず食べてくれ」
エミリアの話では、昼間に主神殿の前で傭兵や雑役人夫らに行われた聖石輸送の説明は、ハンターギルドで渡された書類に書かれていたことや、昼食会でデシオやバスアルが説明したこととほぼ同じだった。
ただ、隊列の前衛になる三つのパーティ(ソロのイシュルも一パーティとする)と、後衛の一パーティの内訳がすでに決められ、発表されていた。
「わたしたちのパーティとイシュル、そしてもうひとつのパーティが前衛なんだけど」
エミリアは食事を終えると皿を横にどかした。
「そのパーティが怪しいわね。間違いなくわたしたちと同業だわ」
イシュルらと同じ前衛になったそのパーティは六名、外見からすると魔法使いが二名、剣士が一名、猟兵が二名でみな男、流しの賞金稼ぎとしてそれなりにうまく化けているが、エミリアからすると影働き特有の匂いが漂ってくるのだという。
「どこの尖晶聖堂のやつだ? 同じ紫か」
エミリアの話では紫尖晶の上層部は正義派寄りのようだが、聖王家から命令されれば、それが国王派のためのものだろうと何だろうと、従わなければならないのは確かだ。
ミラの公爵家ではふたりの兄が一応兄王子派、弟王子派にそれぞれついている、という話だったが、紫尖晶だって組織防衛のために、意にそぐわずとも国王派として動くことはだろう。
「うちではないわね。同じ紫尖晶の影働きで顔も本当の名前も知らないひとはたくさんいるけど、そこら辺はなんとなくわかるの」
イシュルは黙って頷いた。
当然、そういったことはあるだろう。
「後衛にまわるもうひと組のパーティはわたしたちと同じ五人組で剣二、槍一、弓も遣う猟兵が一、魔法使いがひとり。あのひとたちは一般の賞金稼ぎだと思う。ただ魔法使いだけはなんか明らかに生まれ育ちが違います、って感じだったわ」
エミリアの顔に笑みが浮かぶ。
「きっとあの魔法使いは王子サロモンかルフレイドか、どちらかの密偵ね。今回の聖石神授に何かありそう、と踏んで見張らせてるんだと思う」
サロモンは兄王子、ルフレイドは弟王子。今互いに王位を争っているビオナートの息子たちだ。
「なるほど」
これで基本的なことはわかったが。
イシュルはもう少し踏み込んで、以前から知りたかったことを聞いてみることにした。
「尖晶聖堂は他に何があるんだ? 黄色とか緑とか、色分けされてるんだろ?」
「うん。他に黄尖晶と緑、白があるわね。みな紫と同じような規模で任務も変わらないわ。ただ、白尖晶は聖堂教会内部の非違を探り暴き、場合によって誅す仕事が多いの」
イシュルはただ黙って頷いた。
あれはエリスタールで歓楽街の元締めをとっちめた時だった。あの男が脅えていたもの、それが白尖晶だったのだろう。
店の方からひとがひとりこちらへ動く気配がする。
エミリアの背後から、黒っぽいドレスに白い前掛けをつけた中年の女が姿を現した。
女は前掛けをはずすと奥の壁に掛け、そのまま無言で外へ出ていった。さきほど出て行った肉を焼いていた男とまったく同じ、エミリアにもイシュルにも一切注意を向けず、まるでこの炊事場に誰もいないような態度で出ていった。
「彼らは?」
エミリアたちと同じ紫尖晶の者なのは確かだろう。だがなんだか聞かずいられない感じになった。
「わたしたちと同じ紫尖晶よ。ただあのひとたちは魔法具も持ってないし、刺青もない。荒事はやらないの」
つまり本来の、本物の密偵、ということだ。彼らに気配を消され、あるいは街中の人混みに紛れこんで見張られると、こちらとしてはお手上げになる。
「紫尖晶に所属するエミリアたち影働きの猟兵や、彼らのような密偵は総勢で何人くらいになる?」
エミリアは答えてくれないかもしれない。
それでもイシュルは質問してみた。
「わたしたちみたいな魔法具持ちは多分三十人くらいだと思う。わたしが知ってるのはその半分くらい。以前にいっしょに仕事をしたことがあるひとたちね。その他の魔法具持ちじゃない影働きのひとたちはわからないわ。倍、はいるんじゃないかな」
エミリアはなんの逡巡もなくあっさり答えてくれた。
なるほど、つまり聖王国の魔法を使える猟兵戦力はざっと百二十名、ということになる。
多いといえば多いが、大陸中に工作をしかけるには少な過ぎる、と言ったところだろうか。
「ねっ、そのお酒、飲まないの?」
イシュルが顎に手をやり考えていると、エミリアはイシュルの前に置かれたグラスに目をやり言ってきた。
「ああ、酒は普段からあまり飲まないようにしている」
十六歳の少年の言う台詞じゃないが。ただ、この大陸では十五で成人と見なされるから、別におかしいことではない。
「感覚が鈍るから? イシュルはひとでも魔獣でも気配を読むのが凄いもんね」
以前彼女らの前で、かなり離れた空を飛ぶ悪魔の群れを見つけ撃ち落としたり、この前は同じ影働きの者たちに襲われているところを助けてともに戦った。そこら辺のことはもう知られている。
「それもあるが酔うと気が大きくなって、かるく魔法を使ったつもりでも、山ひとつ吹き飛ばしたりしちゃいそうだし」
イシュルが冗談半分で言うと、エミリアはさっと手を伸ばし、彼の前に置いてあったグラスを自分の方へ引き寄せた。
彼女はイシュルが赤帝龍と戦っているところを見ているのだ。イシュルの言をただの冗談とは思えなかったのだろう。
「ふふ」
イシュルがかるく笑うと、エミリアは真面目な顔になって言った。
「尖晶聖堂には他にもうひとつ、別格の存在があるのよ」
エミリアが真剣な眸を向けてくる。
「わたしがイシュルに、どうしても伝えたかったことがあるの」
イシュルの顔にはまだ少し笑みが残っている。
「それは?」
「黒尖晶よ」
エミリアの声が低くなる。
「黒尖晶は国王直卒、強力な魔法具を持つ優秀な猟兵で固められてるわ。ここぞ、という時に使われる精鋭よ。わたしたち尖晶聖堂の影働きの監視、裏切った者の処分も黒尖晶の役目」
彼女の背後の暖炉から、火の鳴る音が聞こえてくる。
「もし国王が、わたしたちが聖石神授でやろうとしていることを知っていたら」
エミリアの声が微かに震える。
「いえ、あなたが正義派についたことを知ったら、彼らを差し向けてくるかもしれないわ」
エミリアの眸がぬうっと、迫ってきた。
周りは奇妙な静けさに包まれている。
公安? 憲兵兼特殊部隊みたいなものか。
ふふ。
ぜひ、彼らの使う魔法を見てみたいものだ。
「面白そうじゃないか」
イシュルはただそれだけを言った。
イシュルの顔に再び、楽しげな笑みが広がった。
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