開門 1
「イシュルさま。主神殿までごいっしょしませんか」
山頂での秘密の会談が終わると、デシオは慌ただしく下の神殿へ戻って行った。
ミラはクレンベルの街の方へ向けていた視線をイシュルに向けると、眸の色を和らげ、その柔らかい甘い声音でイシュルに声をかけてきた。
正義派の主軸、なのか、デシオとミラが一緒に行動するのを見られるのはよろしくないが、俺とは構わないらしい。
デシオとミラがふたりきりで会えば、正義派に何か動きがあるのかと勘ぐられるが、それがデシオでなく俺なら国王派に対する示威になる、ということだろうか。
「いや、俺はここで少し魔法の練習をしていくから。ミラは先に帰っていいよ」
ここは人目もない。クレンベルの街からはよく見える場所だがかなり離れているし、よほど大きな魔力を使わなければ、主神殿や街中にいる宮廷魔導師や魔法使いにも感知することはできないだろう。
「それは……」
ミラの眸に光が増す。
長い間身じろぎひとつしなかったシャルカが、顔をこちらに向けてきた。
「イシュルさまはご自身が、聖王国の魔導師たちの間で、秘かに驚異的な天才だと囁かれているのをご存知ですか。もちろんわたくしはもっとずっと以前から、イシュルさまは天才だと思っておりました。イシュルさまがどのような魔法の修練をなさっているのか、とても興味深いですわ」
ミラがつつ、と寄ってきて言った。
「どうかわたくしにも見せてくださいませ」
「……」
さて、どうするか。
イシュルは期待に双眸を輝かせているミラの顔を見やった。
昨日の晩に見せたナヤルルシュクの魔法、それは人ひとりを葬っただけの小さな魔法だったが、その無数の羽が踊るような繊細で華麗な業(わざ)は、一夜明けてミラの告白、彼女との神の魔法具に関する重要な会話を経てもなお、イシュルの脳裡に深く焼きつけられ消えることはなかった。
あれをなんとかものにしたい。
イシュルはナヤルが昨晩使った魔法に魅せられてしまった。これから早速、見よう見まねでもいいからあの魔法の練習をはじめたかった。
まぁ、いいか。
ミラとシャルカは金(かね)系統で風の魔法は使えないし、高位の精霊ならともかく、無詠唱であんなことをできる魔法使いはいないだろう。それにミラとシャルカがあの業を詳細に「視る」ことができるか、すべてを感知できるかは微妙なところだ。
「わかった。いいよ。ただ静かにね」
イシュルがミラに微笑みかける。
「はい……」
ミラが胸の前で両手を握る。
イシュルを見上げる彼女の顔に夢見るような表情が現れた。
胸の前で手を握る、っていうのは彼女が自分の世界に入るひとつのサイン、といったところか。
憶えておこう。
イシュルはクレンベルの市街とは反対方向を向くと、百長歩(スカール、約六〜七十メートル)ほど先の空間を睨んだ。
やり方としては、精霊の領域から魔力を持ってくる過程で無数の薄い板状にし、こちらの世界で前後左右、上下から一定の空間に向けて押し出すようにする。イメージとしては魔力が無数の薄い板状になるよう、あらかじめ型を設定して射出成形するような感じだろうか。そしてそれを六面分同時に行う。
一気にやると、密度の高い魔力の板が互いに交錯する時反発することになるので、初動は弱く、交錯しはじめたら密度を急速に高める要領でいく。
まず美しさは二の次、スピードと確実性を目標にしよう。
イシュルは魔力を発現させる空間を標定すると目を閉じ意識を集中した。
細分化、ゆっくり射出、移動、強化、立体化、そして保持……。
ねらった区間に、立体格子状、あるいは立方体を元にしたハニカム構造の魔力の構造体が出来上がった。
後は「開放」すればよい。
パン、と破裂音が響くと、次の瞬間には風が高速で吹き荒れる高い音が辺りを覆った。イシュルたちの方にも突風が吹いてきた。
「きゃっ」
ミラが自慢の巻き毛を押さえからだを縮込ませる。
イシュルは彼女の肩を抱いてやり突風を散らした。
「ああ、イシュルさま」
ミラが顔を上げ熱い眼差しでイシュルを見上げてくる。
うっ。
「だ、大丈夫?」
「はい……、ありがとうございます」
ミラはうっとりとしながら、イシュルにからだをもたせかけてくる。
はは。これじゃ練習にならないよね?
イシュルは頷くと、ミラにやさしく言った。
「ごめんね。まだ続けたいから」
そして彼女の肩からゆっくりと手を外し、表情を引き締めた。
「あっ……。申しわけありません」
ミラは頬を染めて顔を逸らし俯く。綺麗な横顔だ。
いやいや。謝るのは俺の方だよね? あんなに強い風がこちらまで吹いてくるとは思わなかった。
し、集中しなければ。
「あんな形見たことない」
そこでシャルカが後ろからぼそっと言ってきた。
彼女にはあの幾何学的な構造が「見えた」らしい。
「そう?」
イシュルはシャルカに満更でもない感じで答えた。
だが、自分の魔法が、昨日ナヤルの使った魔法とは実は似て非なるものであることが、イシュルにはわかっていた。威力や速度はともかく、彼女の魔法のような繊細な美しさはない。
今は武骨なものでもいい。次からは拡大強化、同時複数発現にも取り組む。ただひたすら練習を繰り返して慣れるしかない。
イシュルは今度は爆風避けに、前面に風の魔力の壁を設置して練習を再開した。
まだ前もって意識をかなり集中する必要があるが、同じことを繰り返せばそれもすぐに克服し、反射的に繰り出せるようになるだろう。
イシュルは同じ手順で、何度か連続してさきほどの魔力の立体格子状の構造をつくり、次にそれを二つ同時に、続いて三つ、四つと増やしていった。
「わたくしにはシャルカほど細かくは感じとることができませんわ」
イシュルが使った魔法がどんな風に「見えた」か、シャルカと話していたミラがイシュルの方に振り向いて話しかけてきた。
「シャルカの話を聞くには、魔法の“かたち”が神殿や城館を建てる時に組む足場の形に似ているそうです」
「そうかもな」
イシュルは頷くと右手を持ち上げ手を握り、その拳をひとつ山向こうの、尾根を灰色の鋭角な岩で覆われた山の連なりの方へ向けた。適度な高さのある山稜のひとつに狙いを定める。
直線距離でもおそらく七里(スカール、約4.5km)くらいはあるだろう。
今度は遠距離、大出力で行く。
赤帝龍との戦闘以降、視界の及ぶ限り魔法を使うことができるようになったが、遠距離で使用する場合はその方向に腕を上げて拳を向けたり、指差したりした方が狙いが安定する。
両肩が力むのもかまわず集中し気合いを入れ、より多くの魔力を降ろし発動する。
早く、強く。
山頂の岩の塊を立体の格子状に切り刻む。そして開放。
山稜が明るい灰色の煙に覆われた。しばらくしてドドン、と重い爆発音が響いてきた。
そしてほぼ同時に、空気を鋭く裂くような衝撃波がイシュルたちの側方を通り過ぎて行った。正面に配置した魔力の壁が防ぎ、衝撃波がイシュルたちを直撃することはない。
立ち上った煙が薄れていくと、山の頂が凹状に抉りとられ、形が変わっていた。
「……」
ミラは口許を両手で押さえ呆然としている。シャルカもめずらしく両目を見開き驚愕の表情を見せていた。
まずまずだな。まだまだいける。
イシュルは形の変わってしまった山の方を見つめ、ひっそりとほくそ笑んだ。
翌朝、マレナが神殿の方へ仕事に行き、イシュルがひとり家に残って一階の炊事場を掃除しはじめると、背後からナヤルが気配だけを現し声をかけてきた。
「昨日の神官に憑いていた精霊だけど」
イシュルは屈み込んで、がっちりと石組みされた小さな調理用の暖炉の灰を、火掻き棒でせっせと集めながら、ナヤルに返した。
「なに? どうしたの」
昨日の神官とは、山の上で対面したデシオのことだろう。ならナヤルの言う精霊とは、あの天使に似た姿をした光系統の精霊のことだ。
「明け方に、神殿から少し離れた南側の建物で、誰か人間と話していたわ」
イシュルは手を止めて背後を見た。ナヤルがイシュルの方へ屈むようにして顔を寄せ、空中に浮いている。
「あの主神の精霊の気配は、今まで夜中は神殿の中でしか感じなかったんだけど。昨日の夜は神殿の外の建物の中にいきなり現れたから、ちょっと気になったの」
「なるほど」
神殿の南側の建物とは、神殿に付属する貴人用の宿泊施設のことだろう。今はミラたち聖王家の宮廷魔導師や、昨日デシオらとの話に出てきた国王派の使節団騎士団長、バスアル・ルランダはじめ正騎士らが滞在している。デシオら聖都から来た神官らは主神殿の方に滞在している。
「ナヤル、どの建物かわかる?」
「ええ」
ナヤルはしっかりと頷いた。
「なら、これから行ってみよう」
彼らが滞在する施設はみな小邸宅とでも呼べるような館で、全部で三棟、となりあって神殿の正面東側に並んでいる。ミラたち宮廷魔導師らと騎士団の連中はそれぞれ違う建物に宿泊している筈だ。
デシオの精霊がミラの滞在する館の方に現れたのならいい。例えばデシオからミラへ、夜間に精霊を召還しているような魔導師以外は悟られずに、何かの伝言や書き付けを渡すようなことはありえるだろう。
それがもし騎士団の連中が宿泊している建物の方だったらどうなるか。
国王派の騎士団長バスアルと正義派のデシオが裏で繋がっている、ということにならないだろうか。
イシュルは顔を青ざめ、厳しい表情になった。
もしそうなら、大変なことになる。
デシオは使節団儀典長であると同時に、本物の二対の紅玉石を聖石鉱山でひとつにまとめ、俺の護衛下でミラの契約精霊であるシャルカに保管させるという、今回の正義派の企てのリーダーでもある。
そして彼は総神官長ウルトゥーロ・バリオーニの取り次ぎ役なのだ。それは内通者が正義派の首魁のすぐ側にいる、ということだ。
いや、今はそんなことを考えてもしょうがない。とにかく確認するのが先だ。
それに……。
ん?
ナヤルが後ろを向き、神殿の裏手の方を見た。
誰かがこちらに来る。
この時間帯は両隣に住む下働きの者たちも神殿の方に出払っていて、周りに他の人間の気配はない。
「ナヤル」
「はいはい」
ナヤルは察し良く、素早く姿を消した。
やがて右隣の家の影から見習い神官のカミロが顔を出した。
「イシュルさん」
カミロが近づきながら声をかけてきた。
「お早う」
「もうそんな時間じゃないですよ」
カミロが苦笑を浮かべる。
「ん? ああ、ごめん」
「バルリオレさまからご伝言です。明日、神殿で使節団の方々を招いて昼食会を催します。イシュルさんも是非出席してくれと」
カミロの用件は神殿長、カルノ・バルリオレからの昼食会の誘いだった。
「当然大神官さまの主催だよな」
「もちろんですよ。儀典長のブニエルさまをはじめ、おえらい方々はみなさん出席されます」
「ああそう」
まさかカルノからの誘いを断るわけにもいかない。あんまりそういうの、気が進まないんだが。
「わかった。ありがたく参席させていただく、とお伝えしてくれ」
「はい」
カミロが大変ですね、という感じで笑みを浮かべた。
カミロはイシュルがそういう席を好まないのを知っていた。これまでにも何度か、クレンベルに身分の高い者が訪れるとイシュルに声がかかることがあったが、その度にイシュルは渋々応じ、時には断ることさえあったからだ。
「……」
イシュルはカミロの苦笑に、思わずため息をついた。
カミロが去ると、イシュルは少し間を置き主神殿の表の方へ向かった。
神殿の建物の横、東側を表の方、南側に向かって歩いていく。石畳の道を挟んで神殿の東側には神殿長の小邸宅、三人いる神官たちの宿舎がある。建物の間には小さめのブナの木が幾つか植えられていた。
神殿の横を抜けると西側の視界が遠くへ抜け、石畳の道の右側に開けた空間が現れる。
その広場は、石造りの円盤状の台座に、円形に並べられた円柱が占める一画と、下草に覆われ疎らに低木の生えた、古さびた石碑が幾つか立っている空き地のような場所とに分かれている。石碑はみな神殿の建物の形を模したもので、それぞれ聖地クレンベルの由来や初代神殿長の事蹟などが記されていた。
イシュルは広場をちらっと見やると視線を左側、道の東側に向けた。
そこには問題の、貴人の宿泊滞在に使われる館が三棟、並んでいた。みな石造りに濃い赤色の屋根の二階建て、その間には従者らの宿泊用になるのか、木造洋漆喰の小振りな建物が石造りの館に挟まれるようにして建てられていた。こちらも建物の間にブナの木々が植えられている。
どの建物にもひとの気配が充満しているが、外には誰ひとりいず、人気がない。小鳥のさえずりだけが辺りに響いている。
イシュルは南の方へゆっくり歩きながら、ナヤルに声をかけた。
「昨晩、デシオの契約精霊の気配があったのはどの建物かな」
ナヤルは気を配ってくれているのかはっきりとは姿を現さず、僅かな気配だけをイシュルの周りに漂わせてきた。
「まん中の石造りの建物よ」
「その精霊が会っていたのは誰かわかるか? あの建物の中のどの部屋かわかる?」
イシュルは目前にせまってきた三棟並んだ真ん中の館を見上げながら、立て続けにナヤルに質問した。
「ごめんなさい。そこまではわからなかったわ」
「そうか。いや、知らせてくれてありがとう」
イシュルは問題の館の正面で立ち止まった。
鉄扉の脇に、小さめの旗が一旒掲げられていた。X字型の模様の入った盾、それを両側からささえる獅子。それらが白地に金や銀色で描かれていた。
イシュルの表情が険しいものになった。
その紋章は間違いなく聖堂騎士団のものだった。
その日の昼過ぎ、イシュルはハンターギルドに立ち寄った。今日は聖石神授護衛採用者が発表される日である。
ギルドの中に入るとひとは思ったより少なく、静かだった。
カウンターの前に立ち、近くにいたギルドの職員に声をかける。世慣れた感じの中年の男がイシュルの方を振り向いた。以前からよく見かけた顔だがあまり話したことはない。名前も知らない。
「ああ、イシュルさん」
だが当然というべきか、職員の方はイシュルの事を知っていた。
「聖石神授護衛の傭兵採用結果の件ですね」
イシュルが黙って頷くと、男は奥の別室に消え、幾つかの巻紙を抱えて戻ってきた。
「はい、まずこれ」
戻ってきた職員が赤い飾り紐で結ばれた大きめの巻紙を渡してきた。
「なんです?」
イシュルの質問に男が答える。
「下の神殿で発行された採用通知書です。これを聖石神授使節団騎士団長に渡してください」
ほう? 国王派のバスアルなんとかってやつにね。
受け取ってくれるかな?
イシュルがひとり苦笑を浮かべると、男が気になったのか声をかけてきた。
「どうしました」
「いや」
イシュルは顔に笑みを残したまま男に答える。
「続いてこちらに署名を」
職員はひとつ頷くと、今度は別の巻紙を二枚、広げてきた。
中身は二通とも同じ、ギルドと採用者がそれぞれ保管する受任書だ。内容は今回のお役目を誠心誠意、全力をもって果たすこと、護衛中何事があってもギルドは一切責任を負わないこと、それに大まかな日程や、傭兵側で用意するものなど細かいことも書かれている。出発は三日後で、当日早朝主神殿前に集合、とあった。
この書類は聖堂教会が依頼主であるために、特別に用意されたものだろう。通常の依頼は誰が受任したかギルドが記録をとるだけで、受任者本人がサインすることなどない。もちろん依頼を達成し、賞金を受け取る時に領収のサインはするが。
イシュルは騎士団長に提出する通知書と、受任書の本人控えを受け取るとギルドを辞した。
エミリアたちは姿を現さなかった。
イシュルは一度山の上のマレナの家まで戻って自室に巻紙を置いてくると、そのまま山頂から急降下し、山陰をたどって昨日、ミラたちと会った山に向かった。
一度として地を踏むことなく、空を舞い山頂に足を降ろす。今日はひとりだ。
昨日と同じ魔法の練習をしながら、イシュルには独りで考えたいことがあった。
それはもちろん、聖石神授儀典長のデシオと聖堂騎士団の繋がりについてだった。
イシュルは山頂の手頃な石に腰を降ろすと、ナヤルルシュクを呼んだ。
「あの光の精霊がまた昨晩と同じ建物に現れたら、誰とどんなことを話したか、調べられるかな」
「それは無理ね。あまりに近づいたりすると、さすがにあの精霊に気づかれるわ」
ふむ。やはりナヤルでも精霊に対する細かい監視は難しいか。
それに彼女には神殿の周囲の警戒と同時に、俺が眠っている間の警護もお願いしている。あれもこれもとお願いするのは彼女により多くの負担を負わせることになる。
イシュルはナヤルの大人びた美しい顔を真正面から見つめた。
「そういえば主神の太陽、つまり光系統の精霊はやはり他の神々の精霊より一段上、だったりするの?」
ナヤルはめずらしくイシュルと同じ高さの目線で、向かいの岩に腰を降ろしている。
「そんなことないわ。なんだったらあの精霊、やっつけちゃう?」
へ?
「あの程度の精霊だったらかるいわね。すぐに、静かに終わらせてあげる」
ナヤルが眸に力を込めて微笑みを浮かべた。不敵な笑い、といった感じだろうか。
ここのところ、ナヤルはこちらに色っぽい視線を向けてきて変に絡んだりしくることが、めっきり少なくなった。本人曰くイヴェダの側近く仕える女官だそうだから、本職の方はよほどストレスが溜まる仕事なのではないか。俺の頼んだことは、本人にとっていい気分転換になっているのかもしれない。
だが、彼女の言ってきたことを実行に移させるわけにはいかない。そんなことをしたら、自身の契約精霊に異変が起きたことを、デシオにすぐに感づかれてしまう。
この世界で消滅した精霊はしばらくの間、十日間からひと月程か、契約精霊であっても呼び出せなくなる。
それにだ。
「相手は主神の精霊だぜ? そんなことしたらあとで主神の方から、イヴェダ神の方に何かあったりしないの?」
ナヤルは笑って答えた。口許に手を当てる仕草が大人っぽい。指先の形が美しい。
「ふふ、そんなことないわよ。心配しなくても大丈夫。人間の世界での精霊どうしの喧嘩なんかに、神々はいちいち気にかけたりしないわ。神さまどうしが喧嘩になったりとか、今までほとんどないでしょ?」
それもそうか。
自分の子分がやられた、とかで親分が騒いでいちいち相手方に乗り込んでいったら、それが神々だったら、こっちの世界もあっちの世界も、滅茶苦茶なことになってしまう。
しかし、神々に関わる話なのに、どういうわけかナヤルはなんの抵抗もなく教えてくれる。わかりきった、当たり前の話だからだろうか。
イシュルはナヤルに、お願いした役目をこれまでどおり続けるよう指示した。
「あの光の精霊の動きにはできる範囲でいいから、気を配っておいてくれ」
風が鳴る。
遠くの山並みに大きな土煙が立ち上っている。
イシュルはナヤルとの話を終わらせると、まず、昨日の復習から魔法の練習をはじめた。
昨日よりさらに遠方の山嶺に、風の魔力で大型の立体格子状の構造体を出現させ、岩を砕き、固めた魔力を開放して爆砕。
少しずつ、少しずつ、遠く、大きく、強く、早くしていった。
続いてイシュルは、人ひとりを閉じ込めるほどの大きさの風の魔力の壁の囲いを、できるだけ数多く、素早く出現させる練習に移った。数日前、エミリアたちを襲撃してきた影働きの者たちとの戦闘で、ふたりの男を魔力の壁で閉じ込めた、それと同じものだ。
昨晩のデシオの精霊の疑惑の行動。あれは聖堂騎士団、つまり国王派と裏で繋がっているということかもしれない。正義派の有力者が裏切り者、二重間諜なのか。
いや。だがそう断定するのは早計だ。デシオは秘かに騎士団の者に対し味方に引き入れようと、調略を仕掛けているのかもしれない。
もちろんそれなら問題はない。だがやはり彼が正義派を裏切っていたのなら。
もしそうなら取り返しのつかないことになる。
ミラは知っているだろうか。彼女に教えるべきだろうか。
ミラはデシオの疑惑を知って取り乱したりしないだろうか。デシオの行動はまだ不確定で、彼に対する監視を続けなければならない。もし裏切っているのならば、しばらく泳がしてみるのもいいだろう。例えば石英鉱山に到着するまで。
その間、ミラはうまく演技し続けることができるだろうか。
イシュルは目を瞑り、周囲の空間に感知の輪を広げた。
人を閉じ込める風の魔力の壁、それはつまり人間を閉じ込める檻だ。
目的地である石英鉱山で、クレンベルとカハールから集まってきた正義派の者たちが、真贋入り混じった複数の紅玉石からどのように本物の二対の紅玉石を選び出し、それがシャルカの体内に保管されるのか、その詳細な手順をイシュルはまだミラから聞かされていない。
石英鉱山でいよいよ本物のふたつの紅玉石が合わさる時。
その時にデシオの去就もはっきりとわかるだろう。やつが裏切り者なら、かならず何か仕掛けてくる。
イシュルは魔力の檻を五十以上、一気に出現させた。
おそらく石英鉱山では正義派、国王派、多数の者がいっせいに動く乱戦模様になるかもしれない。
悪魔たちとの戦闘を繰り返した経験も早速役立つことになりそうだ。
イシュルは五十数個の魔力の檻すべてを、一瞬で潰した。
その瞬間、強風を吹きつけ、檻が潰れ発生した爆風をさらに遠方、空高くに吹き飛ばした。
また多くの人間を殺すことになるかもしれない。
だがそれは、大陸全土を巻き込むビオナートの野望をそれこそ檻に閉じ込め、潰すことと同義なのだ。
臆してはならない。
イシュルはクレンベルの街の方へ振り向き、山頂の主神殿の方にちらっと目をやると、石英鉱山のあるその遥か北の山並みを見つめた。
クレンベルの山頂にある主神殿の正面には、正円状に十本の円柱が配置された一画がある。地面はきれいに組み合わされた石材で覆われている。昔は神殿か、何か特殊な祭壇であったのか、屋根がついてたのかもしれない。
今は使われていないが手入れはよくされていて、石造りの円柱も地面の石畳もさほど傷んではいない。石畳は草ひとつ生えていない。
その円形に並んだ円柱の間を通り抜けると主神殿がある。主神殿は他の神殿とほぼ同じ造りで、山の上に建てられた故か、聖地という割にはそれほど大きなものではない。
主神殿の奥には隣接して、神殿長の執務室や貴人用の応接部屋、神官らの控え室などがある二階建ての建物がある。外観の意匠は主神殿と統一され、遠目には神殿とつながって同じひとつの建物に見える。
その主神殿に隣接した建物に、十数人は入れる食堂兼会議室として使われている部屋があり、そこで神殿長であるバルリオレが主催する昼食会が催されることになっていた。
翌日、イシュルは午前中は下宿先のマレナ宅でひととおり家事をこなし、昼になると昼食会に出席するため、神殿裏の物置き場、続いて神官見習いの宿舎を通り抜け、主神殿の裏の方から昼食会の催される建物に向かった。
クレンベルの山頂を南北に横一文字に突っ切る石畳の道には、見習い神官の宿舎の先に門があり、主神殿とそれに付属する正式な施設と、そうでない建物との間が明確に隔てられている。
門は大抵、日中は開きっぱなしになっているが、その門のところに見慣れぬ大男がひとり立っていた。
偉丈夫は白地に金ボタンの騎士団の制服を着込み、派手な握りの長剣を差している。頬骨の張った厳つい顔に良く手入れされた口髭を生やしていた。
騎士団のやつか。もしかしてこいつが、バスアルなんとかってやつか。
対するイシュルは白いシャツに茶色のズボンの何でもない格好、マントも羽織っていない。
「おい、おまえがイシュルとか申す小僧か」
イシュルが門に近づくと、大男が声をかけてきた。
軍人らしい、固く太い声音だ。
どうやらこいつが騎士団長のようだな。
イシュルは早くも内心、うんざりした気分になった。
先日、寝込みを襲おうとしていたのか、この男の従者を殺している。
「あんた誰?」
イシュルは力の抜けた乾いた笑みを浮かべ、面倒くさそうに言った。
「き、貴様……。田舎の農民の小倅風情が生意気な口を」
男はそう言いつつも、口許には歪んだ笑みを浮かべている。
イシュルが男を無視して通りすぎようとすると、男はしつこく言い連ねてきた。
「田舎者は礼儀を知らんとみえる。小僧、おまえから先に名を名乗るのが礼儀だ」
「……」
こいつ……、まさか俺を挑発してるのか?
イシュルは男の前で立ち止まると下から男の顔を見上げた。
「俺の前でその汚い口を利くな。耳障りだ」
「くっ、なんだと」
男は歯茎までむき出しにして口を歪め怒りをあらわにした。
右手が剣にかかる。
本気なのか? 挑発に挑発でお返しただけなのに、こんなにたやすく乗ってきちゃうのか。
これが白盾騎士団の副団長だというのか。なんだかがっかりだな。
「おい、ここは一応神殿の敷地内なんだぞ? 抜いたら、いくら正騎士だってただじゃすまないぜ」
イシュルは男の足許に目をやり言った。
男は門の内側、神殿側に立っている。
「むっ、貴様ぁ。わたしはただの正騎士ではない! 我こそは聖石神授使節団騎士団長、バスアル・ラ・クレス・ルランダだ」
ラ・クレス? 一代男爵か。まぁ、聖堂騎士団の副団長ならそんなものか。
聖堂騎士団の正騎士ならば大抵の者は騎士爵を持っているか、その家の出身者である。彼らの上官に当たるのだから、名誉男爵位くらいは持っていてもおかしくない。
しかし結局、自分から名乗っちゃってるよな、このおじさん。ひど過ぎる。
イシュルは呆然とバスアルの顔を見つめた。
こいつの酷い言動。俺が正義派に味方したから、威嚇でもしてるつもりなんだろう。従者も殺されてるし。
俺を威嚇するなら赤帝龍みたいな化け物か、せめてミラか、ドミル・フルシークみたいなやつを一ダースくらい用意してくれないとな。
これじゃ話にならない。
今回の聖石輸送で国王派が正義派のやろうとしていることを探り、邪魔立てしようとするのなら、他にもっとちゃんとした面子を用意している筈だ。使節団の外部、傭兵か、カハールから向かっているのか、それとも……。
イシュルは思わず顔を曇らした。
使節団儀典長のデシオ・ブニエルか。
「ふん、小僧。無礼な口をききおって」
バスアルはイシュルの顔を見て誤解したのか、嗜虐的な卑下た笑いを浮かべた。
「うん?」
イシュルは新たなひとの気配を感じて、顔をバスアルの背後の方に向けた。
神官見習いのアルセニオが少し離れたところから心配そうな顔をしてこちらを見ている。
俺かバスアルか、両方を呼びに来たのか。もう時間だからな。
イシュルはバスアルを無視してアルセニオの方へ歩いていく。
「待て、小僧! ……はっ。あれ」
バスアルはおそらくイシュルの肩を掴もうとしたが、腕があがらない。
「お、おい、か、からだが」
バスアルの顔が苦悶に歪む。自身のからだを動かそうとしているのか、全身をぶるぶる震わせて力んでいるが、腕も足も、腰もまったく動かせないようだ。
イシュルは無表情にバスアルを一瞥すると、アルセニオに声をかけた。
「もうみなさんお揃い?」
「う、うん。あ、あの騎士団長さまは……」
「ああ、あれは風の魔法で固めて動かなくさせてるんだ。なんかからんできたからさ。鬱陶しくて」
「え、え? で、でもいいの? まずいよ」
アリセニオは顔を青くして固まっている。
「大丈夫だよ。気にしない気にしない」
イシュルはアルセニオににっこり笑ってみせ、昼食会の行われる主神殿の隣の建物へ、彼の腕を取り引っ張っていった。
あの男は撹乱要員ってところかな?
しかし、デシオがまさか、あんな男と裏で通じている、なんてことがあるのだろうか。
聖石神授に同行する聖堂騎士団の正騎士は他に十名ほど。その中に曲者がいるのかもしれないが、正騎士ひとりふたりでは正義派を妨害するほどの力はない。連絡役がいる、ということになるのか。
「お、おい、これは魔法か? ふざけるな! 何とかしろ」
背後からバスアルの叫ぶ声が聞こえてきた。
大神官主催の昼食会が催される食堂兼会議室には、イシュルとバスアルを除き出席者がみなすでに揃っていた。
場の空気は悪いものではなく、みな行儀良く着席し微笑を浮かべ、おのおの隣り合う者どうし談笑していた。一番奥の上座にはホストの神殿長、カルノ・バルリオレが着席し、その右側には聖石神授儀典長のデシオ以下聖都から来た三名の神官、主神殿にいる三名の神官と続き、左手には席をひとつ空けて聖王家査察使役のミラ、魔導師たち、一席空けて正騎士が三名並んでいた。
「やあ、イシュル君。待っていたよ。さぁ、こちらに来たまえ」
カルノが笑顔で彼のとなりの空席を差し、イシュルに声をかけてきた。そのとなりのミラは満面の笑顔。
みなの視線がいっせいにイシュルに向けられる。
これは困った……。
イシュルは笑顔でカルノに会釈しながらも、心のうちを覆う困惑に身が固くなるのを感じた。
この大陸にも、席次に関するマナーは存在する。おおむね前世の日本と似ているのか、室内、テーブルの一番奥がホスト、その左右の席次は関係なく、身分の高い者から順に着席していく。
今回はカルノの向かって左側に神官、右側に聖王家の魔導師や正騎士から選ばれた者たちが座っている。
カルノが示した席は彼の次、イシュルをもろに主賓として扱っている。
あの席は困る。
困るが、カルノの意図はよくわかるのだ。領主や貴族たちは、地方を放浪する名のある魔法使い、学者、吟遊詩人などが自領に立ち寄れば、みなこぞって自らの城や屋敷に招き歓待し、長期の滞在を奨める。この世界でも、前世でかつて世界中で行われてきたこととよく似た風習が、数多く存在する。
カルノは聖地を治める大神官だ。俺のことを名のある魔法使い、と判断したからこそ、彼は使用人の住まいに同居するという形ではあるが、聖地の神殿での滞在を許したわけだ。
今この場では、彼にとって俺は自らの威勢を誇示する格好の存在、ということにもなる。
だからカルノの好意を断るのは失礼だし、彼の顔を潰すことになるわけだが……。
「大神官さま、わたくしごときにその席は過分に過ぎます。どうか末席にてお許しを」
ここは辞退させてもらうしかない。
イシュルは再度頭を下げ、その時に一瞬、ミラの眸をしっかり見つめ彼女と視線を合わせた。
彼女が気づいて、うまく取りはからってくれるとうれしいのだが。
「まぁ、イシュルさまはなんて慎ましいお方。おほほほ」
ミラはさすが公爵令嬢、ばっちり気づいてくれた。
気づいてくれたが、彼女はしっかり手の甲を口許に当て、おほほとやった。
やはり生で見ると凄い絵だ。きみほどそのポーズが似合うやつはいないんじゃないか。
「ね、バルリオレさま。ここはわたくしどもで席をつめますから、どうかひらにご容赦を」
「あ、ああ、もちろん、わたしはかまわないよ。イシュル君も気にせずに」
カルノの笑いが幾分引き攣っている。
まさか、その上席を俺のためにあけさせたのはミラ、おまえじゃないだろうな。
そんなわけでイシュルは空いていた神官側の末席に座ることになった。
「さて、後は騎士団長が揃えば……」
と、カルノが独り言のように言った。
おっと。忘れてた。
ミラやデシルがどうしたのでしょう、など話している。正騎士のひとりがわたしが見てまいりましょう、などと席を立とうとしている。
イシュルは室内の壁越しにバスアルの立っている方を見て、彼を拘束していた風の魔力の壁を解いた。
魔力の壁を空高く上昇させ空中で開放する。
「いや、お待ちください。わたくしがこちらに参る時、騎士団長さまのお姿を見かけました。すぐにお見えになるでしょう」
イシュルは立ち上がった正騎士に声をかけた。
時間的に辻褄が合わないがかまうことはない。
イシュルはにっこり笑顔で、同席者の顔を見渡した。
「も、申し訳ない。遅くなり申した」
間もなくバスアルが額に汗を浮かして姿を現した。
騎士団長の大きなからだがこきざみに震えている。バスアルはイシュルの方を見ようとせず、カルノの方に一礼して自らの席に座った。
あの拘束からなんとかぬけだそうと、必死で暴れたのであろう。
人の力でどうにかできる代物ではないのに。
イシュルは俯き秘かに笑みを浮かべた。
「では」
カルノがひと声かけると全員が起立した。イシュルも従う。
「豊穣なる主神ヘレスのご加護が皆の行く方にあらんことを」
カルノが短くそう言うと皆が一礼した。
その後は神殿の見習い神官によって、大皿に盛られた料理や取り皿など食器が運ばれた。
大皿には、にわとりもどきの丸焼きされたものなど、豪華な肉料理もあった。続いて冷えたお茶が出される。
聖堂教会では神殿内での飲酒が禁じられているだけで、食べ物に関して特にタブーとされているものはない。ただ、彼らは魔獣の肉は一切口にしない。一部のハンターや猟師、木こりらは常時、凶作時などは農民も魔獣の肉を食べる場合がある。
みな食も進み楽しく談笑しているが、誰も聖都の話は一切出さない。聖王家の話などとんでもない、と言った感じだ。
イシュルもとなりの席の、リステンという名の顔見知りのクレンベルの神官と話したが、当たり障りのない話題に終始した。
気を使って大変だね、みなさん。
イシュルはそんな皮肉な感慨を抱いた。
「では、この場にて聖石神授使節団の隊列編成を発表する」
昼食会も終わりに近づくと、デシオが石英鉱山に向かう簡単な日程を述べ、続いてバスアルが使節団の編成の話をはじめた。
この大神官主催の会食も、後半は聖石神授の実施要領を、使節団の随員に説明することがあらかじめ決められていたようだ。
バスアルは、同時に傭兵や雑役人夫を神殿前の広場に集めて、同様の説明を行っていることをつけ加えた。
ん? 俺はそんな話聞いてないな。俺、ここにいていいのか?
イシュルは起立して話しているバスアルを睨みつけた。
これはこいつがわざと俺には話さなかったのか? それとも俺がこの会席に呼ばれたから、単に連絡がなかっただけなのか。
イシュルは注意を背後の主神殿の、その先の方へと向けた。確かに数十人くらいだろうか。まとまった人数が集まっている気配がある。
バスアルの説明によると、使節団の隊列は最前列に警戒、前衛として傭兵のパーティを三チーム割り当て、次に聖堂騎士団と宮廷魔導師らが儀典長と聖王家査察使を護衛する形で続き、その後に雑役人夫や荷駄、最後に傭兵の残りの一パーテイが後衛につく、という内容だった。
「どういうことですの、騎士団長」
バスアルの説明が終わるとミラが厳しい声を上げた。
「イシュルさまは傭兵として参加することになっていますが、それはあくまで形式上のもの」
ミラは座ったままバスアルを下からねめつけた。
皆の視線がミラに集まる。バスアルの表情が固く凍りついている。
「イシュルさまはあくまで儀典長であるデシオさまと、査察使であるわたくしの護衛です。そのような序列は認められませんわ」
デシオの苦笑が固まっている。カルノがおや、っという感じで、少し驚いた顔をしている。
ははっ、ミラめ。序列、ってのは戦闘序列のこと?
出席者にはイシュルに顔を向けてくる者もいる。イシュルは必死に笑顔を浮かべ、視線を彷徨わせた。
何というか。俺はどうでもいいんですが。
確かにバスアルはミラたちと俺を分断しようとしているのかもしれないが、そんな大げさに捉えることもないだろうに。
「あっ、いや、しかし……」
騎士団長が動揺している。
俺にはあんなに強面にきたのに。五公家の者に強く出られるとぶるっちゃうのか。
「大丈夫ですよ、ミラ殿。デシオさまとあなたにはわたしの召還した精霊を護衛につけましょう。おふたりの周囲を常に警戒させます」
なら、かるくデモンストレーションといくか。
デシオ、あんたがもし正義派を裏切っているのなら、バスアルみたいにぶるってくれ。
イシュルはかるく右手を上げた。
「ナヤル」
室内の空気が微かな揺らぎ、イシュルの横に光の筋が現れる。そして一瞬光が激しく瞬くと、ナヤルルシュクが姿を現した。
イシュルは彼女の姿を見て驚愕した。
いつもの半透明の白く輝く姿と少し違う。
ナヤルは波打つ銀髪に青い眸、白い肌に白いローブ、そして光り輝く金銀の髪飾りや耳飾りに首飾り、腕輪などこれでもかと全身をアクセサリーで飾って、半ば実体に近い形で現れた。
よくわかってるよなぁ。これならたぶん、魔導師でなくても誰でも姿が見えるのだろう。
ナヤルはちゃんと場を読んで姿を現したのだ。しかしやはり美しい……。
「わたくしはイヴェダさま側近くに仕えるナヤルルシュク・バルトゥドシェク」
「おおおっ」
すかさずカルノとデシオが立ち上がり、左手を胸に当て頭を下げた。
彼らはナヤルの名を知っているのだろうか。何だか凄く興奮しているようだ。
他の神官や魔導師たちも立ち上がりナヤルに頭を垂れる。
座ったままでいるのはイシュルとミラ、正騎士たちだけ。
バスアルは呆然と、ミラはこれでもかと胸をそらして満面の笑みだ。
「人間ども。剣さまを粗略に扱うと許しませんよ」
ナヤルは視線をきつくし、周りの者たちを見渡し言った。
はっ?
「ははあっ、どうかお許しを。風の大精霊さま!」
カルノが頭を下げたまま、今まで聞いたこともない大声で叫ぶように言った。
他の者たちも同じようなことを口々に叫んだ。正騎士らも慌てて立ち上がり頭を下げる。
騎士らは当たり前だが、宮廷魔導師や高位の神官ほど魔法に詳しくはないし、関心も薄い。ナヤルを見ても、カルノらと比べて反応が薄かったのはそのせいだろう。
顎を上げ、満更でもなさそうなナヤル。
精霊が見える神官や魔法使いたちには、精霊の格の違い、といったものがなぜかイシュルよりもはっきりと感じ取れるようだった。風の魔法具を所有していることが逆に、イシュルにそれを感じにくくさせているのかもしれない。
しまった……。ナヤルを出したのはまずかったか。
イシュルは両手を上げ、頭を抱え込みたくなるのをぐっと堪えた。
会食が終わるとイシュルは、カルノらに必要最低限の挨拶だけして早々に席を立ち、部屋から出て神殿の表側に向かった。
ミラが何か声をかけたそうな顔をしていた。彼女にはどこかのタイミングで、デシオの件を相談しなければならない。だが今は人目も多い。その件は後回しだ。神殿前の広場で行われた、傭兵や雑役人夫に対する説明はすでに終わってしまって、固まっていた人びとの気配が散り散りになっていくのが感じられる。
イシュルはエミリアたちを捕まえて、彼らからどんな説明があったか、その内容を確認しておきたかった。
「どうか……無事でありますように」
風が吹いたか。なぜだろう。
誰かの祈る声が聞こえてきたような気がした。イシュルが神殿の正面まで来た時だった。
イシュルは神殿の正面の方へ回り込み、神殿の出入り口の方へ歩いていく。
すると今度は囁くような歌声が、それでもはっきりと聞こえてきた。子どもたちが小さな声で歌っている。
「みんな無くなってしまった」
ふたりの子どもが交互に歌詞を口ずさむ。
「泥に横たわるあなた」
古い、昔の調べだ。
「わたしは涙する」
子ども? 小さな子どもなどいる筈がない。
「終わることのない葬列に」
イシュルは視線を神殿の開かれた扉の方に向けた。
正面から差す陽光が、光と影を固い線で切り分けている。
エミリアのパーティにいた双子、ピルサとピューリがふたり並んで、開け放たれた青銅の扉の影に、隠れるようにして佇んでいた。
みんな無くなってしまった
泥に横たわるあなた
わたしは涙する
終わることのない葬列に
みんな無くなってしまった
泥に横たわるわたし
あなたは涙する
楽しい毎日だったのに
今はみなただ墓守の日々
双子は子どものような可愛らしい声で、不吉な歌を口ずさんでいた。
故郷では耳にしたことのない歌。
この世界では大規模な疫病も飢饉も滅多に起こらない。だが皆無ではない。この歌詞は間違いない、昔にこの辺りで起こった、疫病か飢饉を題材にしたものだろう。
「ピルサにピューリ」
イシュルはただ双子の名を口にした。
「イシュル」
「イシュル」
双子は小鳥がさえずるようにイシュルの名を唱えた。
イシュルは双子にやさしく微笑みかけた。
「もう聖石輸送護衛の説明は終わったの?」
「うん」
イシュルが双子に質問すると、ふたりは同時に答えてきた。
「エミリアは?」
「中でまだお祈りしているよ」
双子も微笑み返してきた。
神殿の中は複数のひとの気配がある。
イシュルが神殿の中に入ると、十人ほどの人びとが床に跪きお祈りしていた。さきほど集められた傭兵や雑役人夫たちだろう。
せっかく聖地の土を踏めたのだから。そう思って神殿でお祈りしていく者がいてもおかしくはない。
神殿の中はここも他と同じ、何もない広い空間の奥に神々の彫像が並んでいる。灯りは彫像の前に立てられた幾本かの蝋燭だけ。中は薄暗い。
その薄暗い中、手前の方にエミリア、ラベナ、クートと互いに少し離れて跪いていた。
エミリアが背後に立ったイシュルの気配に気づき、立ち上がって振り返ってきた。
ラベナとクートは祈りを止めない。ふたりは背を丸め、肩を落とし深く頭(こうべ)を垂れていた。
ふたりの背中が異様に重く感じられる。
「エミリア」
「しっ」
エミリアは口許に人差し指を当てて見せ、イシュルに音もなく近づいてきた。
「いよいよね。イシュル」
エミリアはふたり以外には誰にも聞こえない、小さな声で囁いた。
「上からやっとお許しが出たわ」
彼女の顔に笑みが浮かぶ。眸に光が宿る。
彼女は襟元から、首にかけていた小さな革袋を取り出した。彼女はそれを両手で包むと俯いて、何事か呪文らしきものを唱えた。
彼女が革袋から手を離すと、小さかった革袋がひとまわり大きく、膨らんでいた。
エミリアはその袋から何かを少し、途中まで取り出して見せた。
暗がりに鈍く紅く光る石。紅玉石だ。
それが革袋から少しだけ頭を出している。
やはりおまえも持っていたのか。それを。
「イシュルはわたしたちと同じ前衛ね?」
彼女はその光る眸をまっすぐイシュルに向けてきた。
そして囁く。
「わたしたちのことも守ってね。イシュル」
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