聖王国の王冠




「ああ。必竟、ふたりは切っても切れない、固い運命の絆で結ばれているのね」

 イシュルが間借りしているマレナの家の二階は、屋根の梁が露出した屋根裏部屋である。ただ床から屋根の梁までは、ひとが立って歩けるほどの充分な高さがあり、東側に小窓がひとつ、ついている。

 その小窓から差し込む僅かな月明かりに照らされ、いや、自らがはるかに明るく輝いて、妙齢の美しい女性が立っている。半透明の、水晶でできた彫像のような姿だ。

 彼女は確かに美しい。その声もだ。だがこのみすぼらしい屋根裏部屋が、そんな彼女の芝居がかった台詞にふさわしい場所だとはとても思えない。

「また会えてうれしいわ。わたしのかわいい剣さま」

 以前は、“わたしの”などという言葉は、ついていなかった気がする。

「やぁ、ナヤル。久しぶり。俺もきみと再会できてその……、とてもうれしいよ」

 上機嫌に、いつかと同じねっとりした視線を向けてくるナヤル。方やイシュルはベッドに力なく腰を落ろし、正面に立つ風の精霊を見上げながら、引きつった笑みを浮かべていた。


 その日の夜、ギルドから帰っていつものごとくマレナと夕食をともにし、彼女に代わって食器を洗ってやり、暖炉の火の具合を見てから二階に上がると、魔力の気配が消え、急に静かになったクレンベルの街へ、急に魔力の気配が濃厚になった神殿の方へ、イシュルはベッドに腰掛け身動きひとつせず、長い時間注意を向け、用心深く様子を探った。

 今や山頂の主神殿には複数の神官、魔導師、正騎士らが滞在している。彼らが何らかの防御や探索の魔法を使い、あるいは契約精霊を伴っていれば、それがたとえ弱いものであっても、落着いて意識を集中すれば仔細に感じとることができる。

 もうこれから先、警戒を怠るわけにはいかないな。

 クレンベルの山頂は聖地だ。大神官が神殿長を務める主神殿がある。この場所で荒事を起こそう、などと考える者はそうはいない。聖王国の人間ならなおさらだ。

 だが、これから先はわからない。聖都で繰り広げられている陰謀を知ってしまった、そしてその渦中にいる少女の依頼を引き受けることになった。そしてその少女は、あるいは彼女と敵対する者も同じ主神殿の敷地の中にいる。

 イシュルは今晩から精霊を召還し、自分自身の警護と神殿で何事か異変が起きないか、見張らせることにした。

 そしてイシュルに召還された精霊が、どこまで本気か以前イシュルをさかんに誘惑し絡んできた、自称“イヴェダ神側近くに仕える女官”、 ナヤルルシュク・バルトゥドシェクだった。

「あれから、けっこう精霊を召還してるんだけど。ナヤルがはじめてだよ。二度目は」

 風の大精霊、もしくはそれに近い高位の精霊はどれくらいいるんだろうか。伝説、お伽話などに登場する大精霊は、すべての系統と系統外、それが不明の者を含めてもそれほど多くはいない。

 今回で精霊を召還した回数は十回弱、精霊界に、風の大精霊と高位の精霊を合わせて、もし数百名もいるとすればどうなるだろう。赤帝龍と戦った地、クシムを調査するため、たまたま近くに居残っていて連続召還された一例を除いて、ナヤルが再び召還される確立は相当低いはずだ。

「だから言ったじゃない。あなたとわたしには深い深い、縁(えにし)があるんだって」

 いや。もし仮にそうだとしても、その流し目だけはやめてもらいたい。お願いです。

「ええと、頼み事があるんだけど、聞いてくれるかな?」

 イシュルは声が震えそうになるのを、顔が引き攣るのを必死で押さえ込み、ナヤルにいつもの調子で話しかけようと試みた。

「どうしたの? 声が震えて、興奮してるの? やっぱりわたしと再会できてうれしいのね」

 ……試みは失敗に終わったらしい。

「うん、まぁ、それで頼みたいことが……」

「もう。もう少しくらいつき合ってくれてもいいのに」

 ナヤルが屈んでイシュルに顔を寄せてきた。

 すべて見透かされてる。彼女は俺の動揺を百も承知で、その上で弄ってきている。

 色気むんむんの大人の女。だからよけいにたちが悪い。

「仕方がないわね。お話しして頂戴」

「はい……」

 もう話の主導権を、とかそういうのはあきらめた。

「俺の特に夜間の身辺警護と」

 イシュルは気合いを込めて、すぐ目の前にあるナヤルの顔を見つめた。

 でないとあぶない。彼女に何もかも、すべてを飲み込まれてしまいそうだ。

「他に特定の対象を守護してもらったり、攻撃してもらったり、かな。ちょっと荒事をたのむかもしれない」

 彼女も強力な魔法を遣うのだろうが、彼女曰く、本人はイヴェダに仕える女官である。荒事に向いているかはわからない。

「あら。今回は面白そうね。わかったわ」

 ナヤルルシュクがすぐ目の前でうんうんと頷いた。

 前回、彼女に頼んだのはマーヤへのお使いと、アルヴァの辺境伯のもとへ俺の情報がいかないよう、街道を封鎖することだった。

「それで、どれくらいの期間、受けてもらえるだろうか。割合と長くなると思うんだが」

 クレンベルから石英鉱山までは山道を十日ほどかかる、と聞いている。

 召還期間を短く区切って繁雑に精霊を呼び出してもかまわないのだが、子ども向けの童話にさえその名があった文字通りの大精霊、カルリルトスの時のように、前もって取り決めでもしておかないと、こちらから指名して特定の精霊を召還できるわけではない。

 一度召還して名を知っている精霊を再度召還する呪文もあると思うし、それほど難しくないとは思うが、あの長ったらしい精霊の名を正確に憶えるのがちょっと面倒である。

 それなら、まさか赤帝龍のような大物と戦うわけでなし、ナヤルのようにクセのある精霊でも気心が知れてる分、いいかもしれない。

「どれくらい?」

 ナヤルが首を横に傾ける。

 見た目の年齢に似合わないかわいい仕草だが、それもとびっきりの美人なら、なんの問題もないのだろう。

「二十日間くらい」

「日と月が、二十回めぐる期間ね?」

 頷くと、精霊は上半身を起こしすっと姿勢を正すと、片手を前方へ差し伸ばした。

「幾星霜を経ようとも! 剣さまの意のままに」

 彼女の視線は遠く、いる筈もない観客の方を向いている。 

 彼女はまだ芝居を続けたいらしい。

 

  

  

 たぶん、頬に手を添えられている。

 甘く満ち足りた、からだがすーっと浮くような浮遊感。すべてを吐き出したくなる、開放感。

 これは……、まずい。

 イシュルは奇妙な危機感を感じて目を醒した。

 無理矢理にでも起きてしまわないと、この後良くないことになりそうな、そんな予感があった。

「ちょっ!」

「静かに。騒いではだめよ。剣さま」

 目を開けると目の前にナヤルの顔があった。大人の女の、少し真剣な感じの顔。

「この家の屋根の上でひとり、人間の男をつかまえたわ。どうする?」

 あの後、かるく打ち合わせをして、ナヤルにはそのまま見張りに入ってもらった。

 怪しい者がいれば捕らえること、襲撃してくる者がいたら独断で即反撃してかまわない、事後報告で可。日中など、人前では通常姿を隠し気配を消してもらうこと、彼女は魔法の心得のある者、魔導師や神官、彼らに対しても自らの存在を隠し通せる、ということだった——などである。

 ナヤルは、精霊界の本職のお務めと違うのが逆に楽しめると踏んだのか、荒事含みのイシュルの依頼にむしろやる気を表わして快諾した。

「……わかった。ちょっと待って」

 イシュルはからだを起こし、目をごしごしこすった。

 昼間はミラとの長い会話、ちょっとした模擬戦、それからハンターギルドに行って……ちょっと疲れている。

「あら、可愛い。剣さまはまだお子様ね」

 イシュルの寝起きの仕草をナヤルがからかってきたが、イシュルはそれを無視してベッドから出、寝間着の上から薄地のマントを羽織った。

「屋根の上で拘束してるの?」

 ナヤルに聞くと彼女は黙って頷いた。

「じゃあ、俺も外に出よう」

 どんな奴か、確かめないといけない。

 イシュルは小窓を開けるとプールに飛び込むような姿勢で外に出、空中でからだを回転させると魔力の壁を出してそれを蹴り上げ、自分の間借りしているマレナの家の屋根上に飛び上がった。

 屋根の北側、イシュルの左手に男が大の字になって空中に浮いていた。

 よく見ると、男の両手両足首のあたりに、風の魔力で固められたリングのようなものがはめられている。

 半透明のリングは月の光を吸うようにしてうっすらと光っていた。

 ナヤルルシュクはイシュルより先に屋根の上に出て宙に浮いている。

 イシュルは男に近づき、腰に差している短剣を抜いた。男が無言で、からだを動かそうと腰を捻ったりして暴れるが、両手両足はまったく動かない。

 イシュルは男の差していた短剣を月光にかざし、刃や柄の部分を調べたが、男の身元がわかるような何かの文字や紋章などは見当たらなかった。

 短剣を男に戻しながら、男の衣服をかるくあらためる。当然なのだろうが、やはり男の身元の手がかりになるようなものは一切見当たらない。魔法具らしき物は持っていない。袖をまくってみたが刺青もない。

 夜ではっきりとはわからないが、男の服装は上下ともに年季のはいった茶系のシャツにズボン、上に動きやすい丈の短い黒っぽい濃い色のマント。どれも男が長年着用して着古され、馴染んだ感じがある。衣服はありふれた物で高価なものではない。身分のある者なら影働き同然のことをしていたとしても、もう少しいい物を着ているだろう。

 こいつは下の街から上がってきた影働きの者か、今日主神殿に到着した神官や宮廷魔導師、正騎士らの従者、あたりだろう。短髪の中肉中背、三十過ぎくらいか。とくにこれといって特徴のない、どこにでもいるような男だ。

「一応聞いておこうか。どうしてこんな夜中に俺の寝ている所に来た? 誰に命じられて、何しに来たんだ?」

「……」

 男は喋らない。

 男は両目を大きく見開き緊張し、何かに堪えているような感じだ。おそらくこれからはじまる拷問か、死への暴力に脅え、警戒している。

 男に喋る気はまったくないようだ。

 イシュルはナヤルの方に顔を向けた。いつのまにか彼女の浮いている背後の神殿の方、いや周囲に薄い風の膜のようなものが張られている。

「結界?」

「そんなに大げさなものではないわ。外側に魔力の気配や物音が漏れにくいようにしているだけ」

 ナヤルはうすく笑って答えた。

 うーむ。

 イシュルは心の中で唸った。

 男の手足首に装着されたリングに、このさりげない風の膜。はっきり言って目の前の男よりもナヤルの巧みな魔法の方が興味深い。

 ナヤルめ。なかなか使えるな。イヴェダの側近く仕える、との言葉も伊達ではないか。

 イシュルはナヤルの答えにひとつ頷き、彼女に質問した。

「この男は拷問でもかけなきゃ何もしゃべってくれない。ナヤルはこいつを簡単に自白させるような魔法とか、知ってる?」

 ナヤルはその細い顎先に人差し指を添えながら、少しだけ考える仕草をした。

「意識を朦朧とさせることはできるけど、そこからしゃべらせることができるかどうかは五分五分ね。それにたっぷり時間をかけないと」

 それはいささか億劫だ。

 イシュルは、諦めと恐れのいりまじった、緊張した表情を浮かべる男の顔を見やった。

 この男はどのみち小物だ。いや、こいつの主がか。俺に関する知識がそれなりにある者なら、こんなことを仕掛けてくる筈がない。

 聖王家の宮廷魔導師や聖都にある教会の神官なら、俺のことも詳しく知っているだろうし、こんなことをしてもただ薮蛇にしかならないとわかる筈だ。

 以前からこの街に潜んでいた影働きの者たちは、俺がエミリアたちに加わった昨晩の戦闘の有様をもう知っているだろう。彼らが俺にちょっかいを出してくるとは考えにくい。あるとしたら、今日到着した使節団とともに来た新任の連中だろう。

 そして今晩から、その使節団を護衛する聖堂騎士団の白楯騎士団副団長以下、十名近い正騎士が主神殿に付随する宿泊施設に滞在している。彼ら軍人ならこちらの情報に疎く、こういうこともしてくるかもしれない。それに聖堂騎士団はビオナートの隷下にある。

「おまえは白楯騎士団の誰かの従者とか、そこらへんだろう?」

 イシュルは眸を細め、男の顔を窺うように言った。

「……さっさと殺せ。俺は何も喋らないぞ」

 男がはじめてはっきりと声に出してしゃべった。

 上でも下の階層でもない、地方の者でもないしゃべり方。

 これは決まったかな。

「いや。おまえを逃がした方が面白そうだ。明日以降、正騎士か魔導師か知らんが、彼らの従者の中におまえの姿を見つけたならさぞ面白かろう。おまえの主に赤っ恥をかかせてやれる」

「いいから殺せ。そんなことしても無駄だ」

「俺はあまり殺しはしたくないんだ。逃がしてやるよ、逃げな。お前の主から、おまえの所属しているものから。この街、この国から出ていけばいい」

「そんなことはできないんだよ。……俺が殺されれば、俺の息子が俺の後を継げる。俺が逃げれば……」

 男の顔に、苦悩の表情が現れた。

 なるほど。代々仕える従僕なわけか。

 影働きの方は副職なんだろう。これはあんたの主が良くなかったな。

 イシュルは視線を鋭くした。

「わかった。おまえの望みどおりにしてやる」

 拷問したって、どうせこの男からはたいした話はでてこないだろう。時間の無駄だ。

 この男が逃亡すれば、彼の家族は悲惨なことになる。この男が失敗しても、いわば名誉の戦死を遂げれば、彼の家族はこれから後も主の庇護下におかれる。

 それなら、この男の望む通りにしてやろう。

 イシュルは無言で空中に佇むナヤルルシュクに声をかけた。

「こいつを殺ってくれ。跡が一切残らないように」

 ナヤルは返事をしなかった。

 彼女の魔力によって隔てられた静かな空間に、大の字になって宙に浮く男の影。その背後にはマレナのように住み込みで働く下働きの者たちの家、その右手奥には見習い神官たちの住居、そしてそのさらに右手奥には石造りの主神殿の大きな建物、その後方には身分の高い巡礼者などが宿泊する建物と続いている。

 みな月の光を浴びて青白くぼんやりと輝いている。

 男の周囲に突如、夥しい数の青白く輝く、薄い風の羽のようなものが出現した。

 その無数の薄い風の羽が男を中心に交錯する。それらは音も無く、細切れになった男の肉体とともに飛び散った。

 粉砕され、黒い霧のようになった男の影が夜空に広がり浮き上がろうとする瞬間、イシュルの周りを一陣の突風が、男の方へ向かって吹き抜けた。

 夜の地平線に浮かぶ山並みの影が遠い。

 男は姿を消した。この世から消えてなくなった。


 翌朝、イシュルが起きて下に降りてくると、マレナはもう神殿に行ったのか、姿が見えなかった。

 クレンベル山の上の聖地には昨日からたくさんの来訪者が滞在している。彼女も忙しいのだろう。

 イシュルは食卓の上に残されたひとり分のスープとパンを流し込み、水を分けてもらいに、素焼きの大きな壷をひとつ抱えて主神殿の方へ向かった。

 マレナの家の両隣も神殿で働く下働きの者たちが住んでいる。片方はマレナよりやや若い老夫婦、片方はまだ子どものいない若い夫婦と、おそらく夫の母が住んでいる。

 どれも見た目のよく似た、薄汚れた白い洋漆喰の壁の木造の二階家だ。もちろんどの家も人気がまったくない。神殿で働く者は他にも数名いるが、残りはみな山の下から通ってきている。

 イシュルがその家々の間を抜けて神殿の裏手に出ると、目の前にたくさんの木樽や大小の壷、木箱などが積み上げられた神殿の裏手の物置き場に出る。右横に石造りの倉庫が二棟、正面奥に神官見習いたちの宿舎があった。

 その積み上げられた木樽や木箱の影に、神官見習いの少年が数名固まって、何事かこそこそしゃべっている。細い紺色の一本線の入った白いトーガが、積み上げられた木箱の間からちらちらと揺れて見えた。

 ふむ。まさか、昨晩のあれと関係ある話じゃないだろうな。

 イシュルは彼らに近づいていって声をかけた。

「お早う。どうしたの」

 少年たちが顔をあげてイシュルの方を見る。みな、イシュルより二つ三つ歳が下の少年たちだ。

「あっ、お早うございます。イシュルさん」

 イシュルは山の上の神殿に移って来てから、彼らとは毎日のように顔を合わせている。みな顔も名前も知っている。

 イシュルに一番に挨拶してきたのはカミロという、少年たちの間でも頭が良いと評判の子だ。

「それが……」

 次はカミロよりひとつ年上のアルセニオという名の少年。鼻筋のまわりのそばかすが、まだ子どもらしい可愛らしさを残している。

「実は騎士団長の従者が朝方から行方不明なんです」

 カミロが小声になって言った。

「ちょっとした騒ぎになっていて、騎士団のひとたちが僕らにも心あたりがないかって、聞いてきて」

「へぇ、そうなんだ」

 イシュルは主神殿の建物の方へ目をやった。

 騎士団長のね……。

 少年たちの表情には微かな不安と、これは事件だ! という期待感のようなものがちらちらと表れ出ている。

 イシュルは彼らに視線を戻すと言った。

「その従者には何か、急いで姿を隠さなきゃならない事情があったのかもしれない。今、聖都はいろいろと騒がしいんだろ? おしゃべりも大概にしといた方がいいぞ」

 すぐに事を察したカミロが、はっとした表情になって頷いた。


  


 大河の流れのように、高い空を南から北へ、風がずうっと吹いている。

 山間をたくさんの小さな風が吹いては消え、吹いては消え、やがて谷間に集まって、底を流れる谷川を洗うように下流へと吹いていく。

 イシュルにとって山野に吹く無数の風のかたちは、ふだんから感じとることのできる、至上の愉悦に他ならない。

 それが見晴らしの良い、高い山の上でなら尚更だ。決して景色だけが素晴らしいわけではない。

 昨晩は恐るべき切れ味の魔法を見せたのに。

 彼女を召還したのは失敗だったか。

 イシュルは周りを吹く風を感じ閉じていた目を見開き、静かなおさえた口調で言った。

「ナヤル。お願いだから機嫌を直してくれないか。彼女らとは仲良くしてもらわないと困る」

 見開いた視線の先を、細く薄い雲が流れていく。

 視線を右に移すと、冷や汗を流し、ナヤルに跪くミラの姿がある。その背後には同じように跪いてはいるが、昨日とかわらずぼんやりとした表情のシャルカがいる。

 金鉄の精霊の無表情には、だがほんの僅かに、緊張と恐れの色が現れているようだ。

 昼過ぎ、イシュルが昨日ミラと約束した、クレンベルを望む周囲で最も高い山の頂上に到着すると、そこにはすでにミラとシャルカの姿があった。

 そしてミラがイシュルに声をかけ、イシュルが彼女に挨拶を返そうとした矢先、いきなり気配を消していたナヤルルシュクが、辺りに強い風をまき散らしながら姿を現し、ミラたちに難癖をつけはじめたのである。

 ミラはいきなり姿を現した風の女の精霊に驚愕したが、すぐに彼女に跪き、まるで王に対するような挨拶を言上し、態度を示した。ミラはナヤルルシュクの気配にただならぬものを感じ、素早く、おそらくは最良の対応したわけだが、ナヤルはそれでも何が気に喰わないのか、ミラとシャルカに鋭い視線を向けて、「おまえたちは剣さまの何なのか」「身分のある人間のようだが、剣さまに気安い態度をとるとはけしからん」「その人間の真似をしている金(かね)の精霊はなんだ」と、立て続けに文句をつけはじめたのである。

 イシュルは横目でナヤルの様子をしばし観察しながら、何かの嫉妬なのか、異なる系統の精霊が近くにいるのが嫌なのか(精霊は異なる系統どうしでは反目し合うこともめずらしくない)、その理由をちらっと考えてみたがすぐに嫌気がさし、ナヤルをたしなめたのだった。

 ナヤルはイシュルのいつもより重みのある台詞につんと顔を背けると、さも仕方がない、と言った感じで不満もあらわに言った。

「剣さまがそう言われるのなら」

 そして、ミラに顔を向け、

「そこの人間の娘。剣さまのお手を煩わすようなことをしてはいけませんよ」

 と言った。

 イシュルはそこで気がついた。

 そういえばミラとの一件はナヤルにひと言も話していなかった。

「ごめん、ナヤル。昨日の話では不足だった。俺は彼女からそれ相応の対価を受け取ることで、彼女の依頼を受けることにしたんだ。それできみを召還したわけだ。だから、彼女らに難癖をつけるのはやめてくれないか。彼女らを受け入れてやってほしい」

 ナヤルはイシュルに顔を向けるとかるく頭を下げた。

 ナヤルは視線を下に向け、取り澄ましたよそ行きの顔をしているが、機嫌は直してくれたようだ。

「仕方がありませんね。剣さまの命に従います」

「すまない、ナヤル」

 イシュルが言うと、ナヤルは笑みを浮かべて姿を消した。

「……」

 ミラが小さく息を吐き、緊張を解く。

「……恐ろしい方でした。あの大精霊はイシュルさまの契約精霊でしょうか」

「いや。俺に契約精霊はいない」

 ミラがイシュルの眸を何事か、意味ありげに見つめてくる。

「そうですか……」

「実は以前に大精霊を呼び出した時、契約しようとしたんだが断られてしまってね。他の精霊でも同じだった。何かわけがあるみたいなんだ」

 ミラは視線をイシュルからはずし、右手を口許にあてると少し考える仕草をした。

「魔法具のなかにはすでに決まった精霊が取り憑いている、特定の精霊といわば契約状態にある物があります。イシュルさまの魔法具は風神の魔法具。特別なものですから、それらの魔法具と同じようにすでに決まった精霊がいるのでしょう」

 やはりマーヤの魔法の杖、彼女の魔法具と同じということか。ミラは以前マーヤが言っていたことと同じことを、より明確に説明してくれた。

「それがどんな精霊か、やはり名前がわからないとだめなのかな」

「はい。その手の魔法具はみな古くからあるものですから、ずっと昔からどんな精霊が憑いているか、知られているわけです。親から子へ、師から弟子へ、その魔法具が受け継がれるときにその精霊の名も申し送りされます」

「なるほど……」

 ミラはそこでイシュルにちらっと視線を向けると俯き加減になり、難しい顔をした。

「ん? どうかした」

「いえ……」

 ミラはイシュルの問いに首を横にふった。

「では、昨日のお話の続きをいたしましょうか。イシュルさま」

 ミラは微笑みを浮かべ言ってきた。

 周囲の空気は冷たく、陽は熱い。

 この名もない山の山頂はごつごつした大小の岩が突き出た岩山だ。

 イシュルもミラたちも岩の上に腰を降ろしている。

 シャルカは昨日とまったく同じ格好、ミラは昨日と同じ丈の短い真っ赤なゴシック調のドレスに裏地が赤、表は光沢のある黒いマントを羽織っていた。彼女はまるで、古い物語にある吸血鬼の美しい始祖姫のような、超然とした雰囲気をその身に纏っていた。

「すべてはビオナートを誅殺するための、わたくしどもの謀(はかりごと)です」


 聖王家には王権の証として代々伝わる王冠がございます。その王冠は“聖堂の宝冠”と呼ばれ、ふだんは聖堂教会が大聖堂にて保管管理しております。聖堂の宝冠は国王の臨む重要な儀式に大聖堂から聖王家に移され、戴冠式や結婚式、あるいは宣戦の布告などで国王がその宝冠を冠ります。

 聖堂の宝冠ですが、その由来は古く、古代ウルク王国の代から伝わるものとされています。その宝冠には正面、前と後ろに二対の大きな紅玉石が、左右側面には四つのやや小さめの緑玉石が嵌っていて、冠自体は今まで何度か修復されてきましたが、その宝石は聖都エストフォルに最初の聖堂が建てられた時から古代ウルク王国の宝具として存在していたと言われています。その王冠を飾る六つの石、特に二対の紅玉石は王権をあらわす核心とされ、聖王国にとってはとても大切なものです。

 わたくしどもはそのふたつの紅玉石を極秘裏に偽物と差し替え、ビオナートが総神官長に就任した後、娘に聖王国国王を継がせる戴冠式でその偽物の紅玉石を割ってみせ、彼の失脚をねらっているのです。

 “聖堂の宝冠”は聖堂教会が所有し、国王に貸与される、という形式になっています。聖王国の根幹を成すふたつの紅玉の嵌った“聖堂の宝冠”の管理責任は聖堂教会にあります。その紅玉石が偽物となれば、総神官長の過失は途方もなく大きなものになります。彼が教会と王家のすべてを手中におさめようと、どんなに大きな権力を持とうと、とても無傷ではすみません。完全に失脚することになるでしょう。

 わたくしどもは失脚したビオナートを捕らえ、獄につなぎます。彼は聖堂教会に伝わるある秘事を抱えており、拷問してそれを明らかにし、聖堂教会に返還させます。


 辺りはもちろん、他に何の気配もなく、研ぎすまされた静寂があるばかりだ。

 緊張感をはらんだ空気が、ひしひしと痛覚を刺激してくる。 

 打ち明けられた正義派の謀。

 イシュルは表情を硬くし、鋭い視線をミラに向けた。

「たくさんの疑問、聞きたいことが山のようにあるんだが」

「はい、わたくしの答えられることならどんなことでも、包み隠さずお話いたします」

 ミラは静かに笑みをたたえ、答えた。

「まず、ビオナートの秘事、とは何だ」

「ビオナートは幼少期から十年ほど、成人する直前まで、聖堂教会の神官をしておりました。彼はその出自から、大聖堂の地下深く、最奥にある“主神の間”につとめる神官のひとりでした。もちろん、内実は見習い、であったでしょうが」

 “主神の間”、それはまさか……。

「ふふ。そうです、“主神の間”こそは主神ヘレスによって、魔法具が生み出される場所」

 ミラはイシュルの心の中の呟きをまさか聞こえでもしたのか、彼が主神の間に関する疑問を口にする前に答えてきた。 

「ただ、わたくしも“主神の間”がいったいどういうものかはわかりませんの。その場所にも行ったことも、もちろんありませんわ」

「それで、ビオナートの……」

「はい、その頃、ビオナートは大聖堂の地下奥深くの書庫で、ある重要な書物を見つけだした、あるいは大昔に封印された禁書をどういうわけか入手した、といわれています。その書物は」

 ミラの青い眸が細められる。

「荒神バルタルが封じている大悪魔を召還するものとも、精霊神アプロシウスに反逆し悪霊となった大精霊を召還するもの、とも言われております」

 なるほど。それは教会にとっては見過ごせない代物だろう。本当の話なら。

「それがやつをかんたんに暗殺できない理由、というわけか」

「はい。もちろん、今彼を殺してしまえば、王子たちの間で内戦が起こるかもしれません。それが大きな理由のひとつですが、ビオナートはその禁書を王宮のどこかに隠しているのか、それを明らかにして、彼の手から奪う必要があるのです」

「で、その王冠に嵌められた宝玉を偽物にさしかえるという話だが……」

 その事が、彼女らが俺に声をかけてきたことと関係するのではないだろうか。例えば……。

「その差し替えた本物の方の守護を、俺にさせる気か」

 イシュルは視線をさらに鋭くしてミラに問いつめた。

 ミラはそんなイシュルの視線にも臆せず、再び微笑をたたえて話しはじめた。

「さすがですわね。イシュルさま。だいたい合っていますわ。本物の紅玉石を偽物と差し替えるよう指示されたのは、総神官長であるウルトゥーロさまです。ビオナートがもし仮にわたしたちの謀(はかりごと)を知ったとしても、戴冠式を経ずに自分の娘を王位につけることはできません。よって彼は本物の紅玉石をどうしても取り戻す必要があるのです。一方、本物の紅玉石を大聖堂に隠すのは、一番安全なように思えますが、彼が大聖堂の内部をよく知悉しているため返って危険ですし、聖都の貴族たちや騎士団、宮廷魔導師たちはもちろん、教会内部にもビオナートの親派はおります。よってウルトゥーロさまは本物の紅玉石を聖堂教会の外部に、そして一端、聖都の外に出すことにしたのです。その移管先が」

 ミラが笑みを大きくし、顔を僅かに横に振ってみせた。

「五令公家の一家である、精霊の憑依した強力な魔法具を持つわたくし、になりましたの」

 イシュルはちらっと、彼女の後ろに佇むシャルカに目をやった。

「具体的にはシャルカの内部に保管いたします」

 ふむ、なるほど。だが……。

「もう持っているのか? その石を」

「いいご質問ですわ」

 ミラは笑顔のまま言った。

「わたくしも、他に何名かも、本物や偽物を持って、聖石鉱山に向かうことになっておりますの」

 イシュルの脳裡にしつこく勧誘してきたエミリアたちの姿が浮かんだ。

 彼女らも持っているのかもしれない。紅玉石のひとつを。あるいはその逆、彼女たちが国王派である可能性も僅かながらあるかもしれないが……。

 いずれにしろまだ納得がいかない。

 なぜわざわざ聖石鉱山で……。

「本物、偽物の紅玉石を聖石鉱山でひとつに併せ、そこでおまえが本物の二対の紅玉石を保管する、ということか。確かにその手もありだとは思うが……」

 聖石鉱山へ行くには魔獣が多数出没する危険地帯を通過しなければならない。聖石鉱山は石英石の掘削をやっている、ということだし、場所が場所だし、それほど大規模なものではないだろう。そこで働く鉱山奴隷や、管理する側の教会の神官や、聖堂騎士団の兵らもそれほどの人数ではない筈だ。

「聖石鉱山に向かう道はもうひとつありますのよ。そこからも、真贋取り混ぜた複数の紅玉石を隠し持ったわたくしども正義派の者たちが向かっております」

「へっ?」

 イシュルは思わず素っ頓狂な声をあげた。

 あれ? それって。

「聖石鉱山には鉱山奴隷もおれば、彼らを管理する教会の者もおります。食糧の輸送や、聖石に選ばれなかった原石などの輸送に使われる通常の輸送路が別にあるのです」

 それはそうか。ちょっと考えれば誰にでもすぐわかる話だ。クレンベルからは食料雑貨や工具など資材、罪を犯し鉱山奴隷に落とされた者たちなどの輸送は行われていない。

「聖都からはだいぶ離れておりますが、聖王国の北東部、ラディス王国との国境近くの銀鉱山の街、カハールから聖石鉱山に向かう、いわば“裏街道”がございますの。鉱山で働く囚人護送、食糧や物資のふだんの輸送にはその街道が使われています」

「いや、でも」

 まだひとつしっくりこない。

「ふふふ。イシュルさま、イシュルさまはもっとも大事なことを見落としていらっしゃいますわ」

 そこでミラは声に出して笑った。

「五公家の者とはいえ若輩のわたくしが聖石神授の儀の聖王家名代として、査察使の役目を国王から仰せつかったのは、お歴々のみなさまが次期国王争いの渦中にあってお忙しかったから、ですわ。そしてたまたま査察使となったわたくしと、ウルトゥーロさまが目をつけたのはイシュルさま、あなたが聖石神授の出発地とされる聖地、ここクレンベルに滞在されていたからです。イシュルさまが二対の紅玉石の片方を護送し、聖石鉱山でひとつところに合わさった紅玉石をわたくしが持ち、それを引き続きイシュルさまが守護してくださる。これこそ文字どおり、鉄壁の守りでございましょう」

 ミラは悪戯っぽい眸をイシュルに向けた。

「この企みは、イシュルさまがクレンベルに滞在していらっしゃったから、行われることになったのです」

 彼女の笑う、高い美声が山頂に響き渡った。


 


「イシュルさま、真贋はお教えできませんが、わたくしも紅玉石の片割れをひとつ持っていますの」

 呆然としているイシュルにミラが声をかけてきた。

「ああ……」

 やられた? 嵌められた、ということなんだろうか。

 俺がクレンベルにいたから、彼女らの計画が立案された。

 それにこれで完全に、聖王国と教会の内紛にどっぷりと深く浸かり、絡めとられてしまったわけだ。果たしてそれは聖都で風の大魔法使いを紹介してくれる、という報酬に見合うものなんだろうか。

「鉄神よ、この封を我に解かしたまえ、我が精霊に……」

 ミラはシャルカの胸に手をかざすと、灰色の鉄の小箱を出してきた。そして小声で何事か呪文を唱えはじめた。

「シャルカ」

 ミラが続いて金(かね)の精霊に声をかけると、シャルカが何かを呟く。

 すると鉄の小箱が上下に割れ、中から真っ赤なルビーが姿を現した。長さは小指の長さほど、幅はその半分ほど。かなりの大きさで、十面ほどの大小の面できれいにカットされている。宝石の類いには詳しくないイシュルでもこれは、と思えるほどの高い研磨技術が使われているようだった。

「たいした技術だな」

 ぼそっと呟いたイシュルに、ミラが言った。

「偽物の紅玉石は、カエタノの腕利きのガラス職人につくらせたものですの。素人ではなかなか本物と見分けがつきませんわ」

 偽物はクリスタルガラス製というわけか。中海の方にはそれだけの技術をもつガラス工房があるのだ。

 そしてミラが笑みの中に、妖しい眸の色を煌めかせて、意外なことを言ってきた。

「歴代の国王も、総神官長や大神官たちも、今まで誰ひとりとして成功しておりませんが、本物の宝冠の紅玉石は二対合わさると、地神ウーメオの、神の魔法具をこの世に発現させる、という古い言い伝えがございますの」

「なんだと」

 イシュルの双眸が大きく見開かれた。

 雨の中、何事か呻き続けていた老人の幻が一瞬、イシュルの脳裡を走って消えた。

 ミラの妖しい眸の輝きが彼女の全身に広がり、やがてイシュルの心の中までも侵してきた。 

  

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