正義派 2
イシュルは空にかかる太陽を仰いだ。
ミラとの長い会話でだいぶ時間が経ったような気がしたが、まだ陽は高い位置にある。
ビオナートが聖王国と聖堂教会の両方を己の手中にすれば、大陸はやがて大きな戦禍に覆われるかもしれない。
それを俺が止めなきゃいけないのか?
その戦禍がラディス王国に、俺の知っている人、苦楽をともにした人、俺の故郷に及ばないかぎり、俺から動く道理はない。
「あんたらの誘いには乗らない」
イシュルは感情を消した視線をミラに落とした。
「悪いが俺は正義派とかそんなものに興味はない。ビオナートの動きが目にあまるようであれば、その時点でただ殺すだけだ。俺は万民の至福などに興味はない」
ビオナートが悪魔であろうが、己が神になろうとする野望をもっていようが、俺の邪魔をしなければどうでもいいのだ。そして、かつてルドル村で刺客を送ってきたのがやつの命によるものなら、ミラたちとは関係なしにやつに報復するだけの話だ。
実は万民の至福、という言葉にまったく興味が湧かないわけではないのだが、そもそもその、万民の至福などという抽象的で非現実的な命題に、どんな必然性があるのかがわからない。「至福」という言葉を「自由」に置き換え、「万民の自由」としたらどうだろうか。「至福」という言葉は抽象的に過ぎるのだ。
もちろん、宗教論に首を突っ込む気はない。難解なものはわからないし、意味のあることとは思えない。
いったい誰が幸福でそうでないのか、誰が幸福を与えるのか。
それを決めるのは聖堂教会の神官どもではない。この世界の神々でもないだろう。幸福は自分で掴みとるものだ。人間ひとりひとりが独自に求め、見極めていくものだ。
「……そんな」
ミラはふらふらと立ち上がり、イシュルから一歩退いた。
「イシュルさまは聖堂教をどうお考えなのです」
ミラが不審の目をイシュルに向けてくる。
確かに、この世界で、聖堂教会の総神官長の頼みを断る人間などあまりいないだろう。
「俺は確かに風の魔法具を持っている」
イシュルはその顔貌に暗い影を落として言った。
「おまえはどう思う? 俺がそれを喜んで受け入れたと、神の恩寵だとありがたがっていると、そう思うか?」
「……」
ミラの眸が大きく見開かれた。
「おまえ、俺のことを色々と調べたんだろ?」
公爵家の力を持ってすれば自家の者たちだけでなく、聖王家や聖堂教会の影の者たちでさえ動かすことができるのではないか。
「なら、わかるよな? 俺が風の魔法具を得たことでどれほど多くのものを失ったか。神の魔法具なんて代物がなければ、たとえ赤帝龍が現れようとベルシュ村はあんなことにはならなかった。だから俺はブリガールや辺境伯に復讐する時、風の魔法具をたっぷりと使ってやったんだ。神の魔法具で失ったのなら、神の魔法具で取り返す。神の魔法具は神の恩寵などではない。それを決めるのはこの地上でただひとり。俺自身だ。神々ではない」
ミラが震え出した。その眸に涙が溜まりはじめる。
「イシュルさまはまさか異端、異教徒? それとも背教者……」
ミラは小さな声で呟くように言った。
背教者、ときたか。まぁ、否定はできないか。
「おまえはユリアヌスって知ってるか?」
イシュルは何度目かの皮肉な笑みを浮かべた。
この世界で誰も知る者のいない、前世の歴史上最も有名な背教者の名を出す。
「いえ……」
ミラは潤んだ眸で小さくかぶりふった。
ユリアヌスは当時、勢力を伸ばしていたキリスト教の弱体化を目論んだローマ皇帝だった。もし俺が将来、神々と戦うようなことになり、後に背教者と呼ばれることになっても、それはあくまで俺個人のことで政治とも宗教とも一切関係のない話だ。俺はユリアヌスのような歴史上の偉人にも背教者にも成り得ない。
「俺は別に異教徒でも背教者でもない。聖堂教を否定してるわけじゃない。ただあんたらの争いに興味はない、関係ないと思っているだけだ。風の魔法具を持っているからといって、俺は聖堂教会と聖王国の危機に何ら痛痒も責任も感じない、感じる必要はないと思ってる。ただそれだけだ」
この世界に神々は存在する。だから否定はしないが、この世界の人びとのような盲目的な信仰心は持ち合わせていない。
俺は聖堂教の教えとは別の次元で神々の存在に触れ、彼らの行いに不審を持っている。
ミラは右手を胸に当てしばらくの間俯いた。
「ご家族と故郷を失われたイシュルさまのお気持ちはお察しいたしますわ……」
そして涙を拭うと顔を上げ一歩踏み出し、こちらに近づいてきた。
彼女は俺の異教徒、背教者ではないという言い分に、納得できたのだろうか。
「そして見事な敵討ちを果たし、赤帝龍を退けたそのお力もよく理解しているつもりです」
とりあえずは納得したといったところか。それでまた勧誘をはじめるつもりか。
そういえば特別な報酬がどうたら、とか言ってたな。それがどんなものかはわからないが、それよりも、だ。彼女の話に合わせてきたせいでおざなりになっていた、どうしても確認したいことがあるのだ。
彼女は五令家、公爵家の人間だ。だから実力のある流しの風の魔法使いにも、しっかり伝手があるだろう。
そしてさらに彼女自身が風系統の魔法使いである可能性もある。ただ彼女は聖王家の宮廷魔導師だと言っていたから、彼女に弟子入りすればたとえそれが個人的なレベルでも、端から見れば聖王国に仕えたと見なされる可能性がある。宮廷魔導師に弟子入りすれば自動的に聖王家に仕えることになる、そういう制度もあるかもしれない。
「そしてイシュルさまが教会と聖王家に対して係わりを持ちたくない、と考えていらっしゃることもよくわかりました」
ミラの顔に笑顔が浮かぶ。
「でもわたくし、そんなイシュルさまでもわたくしどもの誘いを受けてくださるような、充分な見返りを用意できると確信しておりますのよ」
ミラはさきほどの自信と余裕を再びあらわにしてきた。
「そういえば、あんたが言っていた報酬の話、聞いていなかったな」
「ミラとお呼びに」
はいはい。
「ミラ。教えてくれないか?」
「うふふふ」
ミラは夢見るような表情になって笑った。
どこまで本気で演技なのかよくわからない……。きっと演技の方であってくれた方がいいかもしれない。
美人だがまきまきだし。いや、この少女はなかなかの曲者ではないか。
「シャルカ」
ミラはそこでさっと表情をあらためると、真面目な顔つきになって数歩ほど後ろに飛びさがった。
そしてすぐ後ろにいたシャルカと呼ばれた彼女のメイドが、ミラを背後から抱え込み持ち上げ左肩の上に彼女を乗せた。
メイドはミラを乗せたままふわっと宙に浮き、イシュルから離れ間合いをとっていく。
風? あのでかいメイド、風の魔法を使うのか。
ミラは微笑を浮かべている。メイドは浮いたまま、右手を胸に当てた。
なっ!
メイドが胸からいきなり剣、というより棍棒のような鉄の塊を出してきた。
どういうことだ。
あのメイド……。
メイドの周りから透明感のある魔力がほとばしる。
「報酬のお話をする前に、イシュルさまのお力、見せてくださいませ!」
ミラが叫ぶように言うと、メイドの手にした鉄の塊がオレンジ色に光り、ぐにゃりと変形した。それが五つの球体に分離、形を変えていく。
金系統!
イシュルは驚愕と同時、飛び上がった。
イシュルの足許を五つの鉄球が飛び抜けていく。
ひゅっ、と空気を引き裂く不気味な音が走った。
イシュルは眼下に鉄球の動きを見ながら、やや南側に回り込んで太陽を背負う位置についた。
空は広く、クレンベルの山野が明るく輝いている。眼下を白い霧のような雲が流れていく。
メイドがその霞のような雲を突き抜け上昇してくる。五つの鉄球はまるで生き物のようにメイドの後方を追尾している。
あのメイド、人間か?
風の魔法と金属の魔法を同時使用しているのか。
イシュルは風の魔力の壁を自身のまわりに降ろした。二重にだ。
あの鉄球はひょとするとこちらの風の魔力の壁を貫通するかもしれない。
メイドとミラがイシュルのやや下の高度まで上昇してきた。五つの鉄球は彼女らに追いつき、メイドの周りをゆっくり回転している。
彼女らを始末するのは簡単だが……。ふたりの使う魔法が見たい。それにまだ話が終わっていない。
「シャルカ!」
ミラがメイドに声をかけた瞬間、メイドの周りをまわっていた鉄球が数十個の小さな鉄球に分離した。
あっという間の出来事だった。
くっ。
イシュルはやや上昇しながら距離をとった。
風と鉄。こちらが防御側でいる限り、相性は最悪だ。
小さな鉄球はピンポン玉くらいの大きさだろうか。それがこちらを三百六十度、覆うようにして周囲にもの凄いスピードで展開していく。
あの大きさでも、もし直撃すればからだに風穴が開く。当たりどころが悪ければ即死だ。
イシュルは自身の周囲に降ろした風の壁に、さらに魔力を注入していった。
「やりなさい」
ミラの声。
空中を浮くまわりの鉄球が、イシュルに向かって撃ち出された。
ひゅっ、しゃしゃっと空気を裂く音が幾重にも、続いて「ぼぼっ」と鈍い、少し間抜けな音が連続して聞こえてきた。鉄球はすべて、イシュルの展開した風の魔力の壁に阻まれ、突き刺さっていた。
ミラに、そしてメイドにはじめて驚きの表情が現れた。
感じるぞ。
イシュルはほくそ笑んだ。
風の魔力の壁に突き刺さった鉄球に、いや、俺の張った魔力の壁にメイドの魔力が干渉してくる。
イシュルは余裕の表情でメイドの方へ目をやった。
お前程度の力で俺の魔力に何かできると思っているのか。
メイドの鉄球は彼女の魔力から隔てられ、イシュルの支配下に入った。
ミラがはっと顔を青ざめ、メイドのからだに右手をかざし剣を一振り抜き出す。
イシュルは六面に張った風の壁を、ミラの正面に向いている一面を除いて「開放」した。
どん、と激しい爆発音が響いて鉄球が四方に散る。
「我を守る盾となれ!」
同時にミラが叫んだ。剣の刃が細かい鉄片となって彼女の前面に広がる。
周りを吹き荒れる強風を後に残し、鉄球はみな遥か遠くに消えてしまった。とても肉眼では追えない速度だった。
ミラが展開した無数の鉄片が陽の光を浴びて、きらきらと輝いている。
なんとはなしに虚しさが漂う。彼女の方に鉄球を放ってはいない。彼女の防御は意味がなかった。だが、ミラはおそらく詠唱を短縮、破棄してきた。
イシュルは残した前面の風の魔力の壁、内側の周囲の壁を残したまま、ミラの方へ近づいて行った。
「大丈夫だ。おまえらを攻撃したりはしない。やれば殺してしまうからな」
ミラの前に舞っていた鉄片がもとの剣の形に集束されていく。
その奥から、少しバツの悪そうなミラの顔が現れた。
「申しわけありません!」
ミラがまたイシュルの前に跪いて謝っている。
三人はもといた場所、山頂の主神殿と、石英鉱山に至る道の門の間の草地に戻ってきていた。
「それよりさ」
イシュルは、ミラの後ろに立つ相変わらず無愛想なメイドに顎をしゃくって言った。
「彼女は何なんだ? 人間じゃないだろう」
ミラが顔を上げた。
「シャルカ」
メイドはミラに顔を向け無言で頷くと、イシュルに直接話しだした。
「風神の剣を持つお方、さきほどは失礼した。わたしは今はひとの姿をしているが、お察しのとおり精霊なのだ」
声は女性だが、しゃべり方は抑揚がなく、男のような言葉遣いだ。そして彼女は見た目だけでなく、その存在自体、人間と変わらない。
確かに、多くの精霊は人間に化けることができる。高位の精霊や人に化ける能力に長ける精霊は、完全な人間に成りきることもできる。昔からあるたくさんの伝承、お伽話には人に化けて人間を騙す精霊や、人間の男と恋に落ちて人界に住み着き、子を産んだりとか、そんな話がたくさんある。
ただどれくらいの期間、人間の姿でいられるかはわからない。当然それなりの負荷がかかる筈である。
そして彼女が空を飛んだのも納得がいく。これも多くの精霊は、風の精霊でなくとも空を飛ぶ、というよりふつうに移動できる。霊体だから、ということでいいのだろうか。同様に壁を突き抜け、水中や地中を自由に移動できる者も多い。
「この精霊はシャルカ。わたくしの契約精霊ですわ」
ミラが立ち上がって精霊に声をかける。
「シャルカ」
ミラの精霊の名を呼ぶひと言で通じるのか、シャルカはコートの前を広げるとメイド服の襟元を緩め、胸元を見せてきた。
「見てください」
ミラがイシュルに言い、シャルカが前かがみになってその胸元を見せてくる。
イシュルが覗き込むと、白い人肌が半透明になり、その下から金色に輝く金属が見えてきた。
胸鎧の一部のように見える。
「甲冑……?」
イシュルが呟くと、ミラは微笑んで言った。
「そうです。シャルカはわたしの魔法具、当家に伝わる秘宝、“鉄神の鎧”にひとの形を成して憑依することでこの世に降りてきているのです。鉄神の鎧は本来、所有者が装着して使うものなのですが、男性用の鎧ですからわたくしでは大きすぎて重いので」
ミラは少し首を傾け笑顔を深くした。
「シャルカにお願いして動かしてもらっているのです。わたくしはシャルカを通して鉄神の鎧と繋がりを保ち、シャルカはわたくし自身だけでなく鉄神の鎧からも魔力も得ているのです。ほんとうは長兄のルフィッツオが相続する予定だったのですけれど……」
ミラの魔法具、鉄神の鎧はミラの父親であるディエーラド公爵が彼の伯父から相続していて、それを数年前、嫡子であるルフィッツオに譲ったが、ルフィッツオと鉄神の鎧の相性はあまり良いとはいえず、父である公爵は次兄のロメオ、ミラ本人と試したところ、最も鉄神の鎧の力を引き出したのがミラだったので、彼女に公爵家に伝わる最も有力な魔法具である、鉄神の鎧を相続させた。ミラは父親から試しにと受け取るとすぐに後に契約精霊となるシャルカを召還し、鉄神の鎧に憑依させたのだという。公爵は驚き感心して鉄神の鎧をミラに与えた。
ミラのふたりの兄は文官としてもう聖王家の宮廷に出仕していたし、公爵家には他に有力な魔法具がいくつもあり、なによりミラは兄たちからよく可愛がられ、愛されていたので、鉄神の鎧をミラが相続しても家族の間で何の問題も起きなかった。
「……なるほど、興味深い魔法具の使い方だ」
イシュルはミラの話にそう相槌を打つと、彼女をじろっと睨みつけた。
「で、だ。あんたは俺のことをかなり詳しく調べたと思うんだが、なぜ今さら俺の実力を試そうしたんだ?」
彼女はエリスタールや赤帝龍との一件を充分に知っているだろう。それなのになぜあんなことをしてきたのか。実際に戦ってみてそれで判断すべき、と考えたのか。
「イシュルさま? ですからミラ、と」
ああ、はいはい。
イシュルがうんうん、と頷き先を促すとミラは僅かに自嘲を浮かべて言った。
「とても気になることがあって、イシュルさまと実際にお手合わせさせていただいて、それで確認したかったのです。でも力の差がありすぎて、あまり意味がございませんでした」
ミラはそこで自嘲を消し、イシュルをまっすぐ見てきた。その顔にはまだ形ばかりの笑みが貼り付いている。
「鉄神(くろがねのかみ)よ汝(いまし)が熱き鉄魂を我(わ)に降ろしたまえ」
ミラがゆっくりていねいに呪文を唱えると、シャルカの胸の辺りからごつごつした拳大の鉄の塊が姿を現し、宙に浮いたままミラの胸元に移動した。
「この呪文は鉄(くろがね)の魔法の最も初歩的な呪文です」
ミラの笑みが大きくなる。その美しい唇が三日月形に曲がっていく。
「イシュルさまは、風の魔法の最も初歩的な呪文をご存知かしら?」
イシュルは呆然と彼女の顔を見つめた。
「うふふふふ」
ミラは楽しそうに笑った。高い声音が、人気のない神殿裏の草地に美しく響き渡った。
たぶんマーヤやリフィアあたりには気づかれていたと思う。あるいは大公城で戦ったラディス王家の魔導師たちにも。
イシュルは無表情にミラの笑顔を見た。
ミラの笑顔に得意げな感じはない。なら、彼女はなんのために笑っているのか。
マーヤはミラの指摘してきたことよりも、イシュルの型破りで独創的な魔法使用の方をよほど気にしていた。リフィアは自身もそうだったからなのか、同じ体内に宿した魔法具を、無詠唱で直感的に使うイシュルに大きな疑問を抱かなかった。大公城で戦った魔導師たちはおそらくイシュルの圧倒的な力に畏怖し、そのことに気づいたとしても重要視しなかった。
「わたくし、ラディス王国のエリスタールという街で、風の大魔法が使われたとはじめて耳にした時、とても興奮して、感動いたしましたの」
ミラは胸元に浮く鉄塊をシャルカに戻すと、黙ったままのイシュルに再び近づいてきた。
「それから当家はもちろん、さまざまな伝手を使ってあなたのことを調べはじめましたの。もうすでに、ビオナートが大神官さまを病死に見せかけて殺しはじめていましたが、その時はあなたのお力添えをいただいて、などという考えはございませんでした」
すぐ目の前にミラの見上げてくる顔がある。青いガラス玉のような眸が揺れている。
「あなたのことを調べていくうちに、わたくしはあることに気がついたのです。あなたの使う魔法は豪快で異質、今までの魔法とは違うものばかりでした。たぶんラディス王家の魔導師の方々も同じことを考えておいででしょう、わたしもイシュルさまは天才だと思います。ですが、イシュルさまはよく知られている風の魔法、「風神の刃」「風壁の鎧」「烈風の陣」などをほとんど使っていません。イシュルさまの使う見た事も聞いた事もない魔法の方がはるかに強力ですし、イシュルさまはたびたび大精霊を召還しているので、わたしの気づいたことというのは間違いかもしれません。それでも、さきほど試しにイシュルさまとお手合わせさせていただいた時、ひとつだけわたしの気づいたことが間違っていないかもしれない、と思えることがあったんです」
ついに、はっきりと指摘する者が現れたか。
俺の風の魔法に関する知識がほぼ皆無である、ということを。
イシュルはミラに気づかれないよう、そっと喉をならした。
そして負けじと彼女の眸の奥深くまで、じっと見つめ返した。
ミラはこちらのことをよく調べ、彼女なりにしっかり分析ている。
聖王家から正式に命令されたわけでもないのに、なぜそんなに詳しく調べる必要があったのか。
「それはなんだ? 言ってみろ」
イシュルは静かに、厳しい口調で言った。
ミラを僅かに頬を染め、やはり静かに話した。
「イシュルさまはさきほども呪文をひとつも、詠唱破棄さえも使いませんでした。それは風の魔法具をお持ちだからでしょうか。まるで精霊が使う魔法のような、美しく自然で、恐ろしいものでした。イシュルさまの使う魔法こそは、たとえそれがどんなに小さなものでも、まさしく大精霊や神そのものが使う、神の御業、大魔法の系譜につらなるものです」
ミラも視線をはずさない。彼女はかなり大胆なことを言ってきた。
「わたしはそう見立てました。でも、人の使う魔法には呪文を詠唱するからこそしっかりと決まる、切れ味の良さと安定感がある、そういう利点もありますの。イシュルさまはそれを知っていて、あえてどんな場面でも精霊の使う魔法、神の奇跡を思わせるような魔法のみで通しているのか、そうでないのか。わたくしは後者ではないのかとの思いを強くしましたわ」
ミラの眸に映るものは何だろうか。彼女の眸にもあの時のエミリアの眸と同じ、俺の影が映り込んでいる。
彼女は俺の何を見ているのか。
ミラは小さく宣言した。
「イシュルさまは風の魔法を知らないのです」
黙り続けるイシュルに対しミラはその後も状況証拠を並べ立てた。辺境伯の結界魔法「闇の箱」を破ったのは魔法を正式に学んでいなかったことが幸いしたのだ、クレンベルに滞在しているのは、クレンベルが多くの魔導師や魔法使いが集まって来る聖石神授の出発地点だから、イシュルが名のある風の魔法使いを求めているからだ、等々。
イシュルはしつこく言い募るミラを片手をあげて制すると、微かに表情を緩め言った。
「その通りだ。俺は昔から伝わる風の魔法のことをほとんど知らない。だから弟子入りできそうな、宮仕えでない風の魔法使いを探していたんだ」
ミラが目を見開き、両手を胸の上で握った。頬に赤味が差していく。
「ふふふ。当たりですわ」
彼女は喜色を満面、いっぱいにして言った。
「イシュルさまの秘密。わたしとイシュルさまだけの秘密」
彼女は眸をどこか遠くにやり、今日、はじめて会ってから何度か見せてきた、夢見るような表情になった。
……はは。えーと、多分マーヤとかも知ってる、と思うんだけど。
「すばらしいですわ。これでイシュルさまにお力添えいただける。イシュルさまにお伴ができる」
? お伴するのは俺だよね。どちらかと言えば。
苦笑を浮かべ感情を消しはじめたイシュルに、ミラはうっとりとしていた顔を突然真っ赤に染めた。
「あれからわたしの持てるすべての力を使ってイシュルさまの行動を調べ、考えに考え抜き、想いに想ってきた甲斐があったというものですわ」
はっ? 何それ。ストーカー?
な、何か話がおかしい方向に行ってるような……。
顔色を青くしはじめたイシュルに、顔を真っ赤に染めたミラは、おそらく彼女の中での締めの言葉を囁こうとしていた。
「イシュルさま。わたくし、あなたとお会いするずっと以前からあなたさまのことを……それが」
ミラは胸の間で合わせた両手を、今度は両頬にあてた。
締めの言葉が脱線していく。
「はじめてお会いしてみたら、こんなに可愛らしいお顔をされていたなんて、わたくし、もう」
あー、なんかまずいな。
「ミラ、それで報酬はなんなんだ?」
「……はっ。いけません。そうでした。わたくし、あまりにうれしくて舞い上がってしまいましたわ。何か粗相を……」
彼女は一瞬、さっと顔を青ざめると、またすぐに真っ赤に戻した。
女って恐ろしすぎる……。なんで青から赤へ、そんなに早く顔色を変えられるんだ……。
「大丈夫だよ。それで?」
イシュルはやさしく微笑んでミラに催促した。
早く本筋に戻してしまおう。
「はい、わたくしが、我がディエラード公爵家の持てるすべての力を使って、イシュルさまに最高の風の魔法使いをご紹介しましょう」
「おお」
ついに来た。これで念願の風の魔法が学べる。しかも聖王国の公爵家の紹介だ。これは幸運というべきかもしれない。
「あの、宮仕えとかだと、困るんだが……」
「ええ、その点はご安心を。イシュルさまがどの王家にも貴族にも仕えなる気がないことは、もう調査済みですわ」
ミラは胸を張って大きく頷いた。豪奢な巻き毛が華麗に揺れる。
「聖都に在住で二十年ほど前に宮廷魔導師を退かれた、“聖堂の天つ刃風”とのふたつ名をお持ちの聖王国最高の風魔法の遣い手がいらしゃいます。その方にお願いいたしましょう」
「おおお!」
それは素晴らしいじゃないか。
イシュルとミラは互いに顔を見合わせ、大きくうん、うんと頷き合った。
「よし! ミラ・ディエラード殿のご依頼、お受けしよう」
傍目にはちっともそうは見えなかったが、イシュルは重々しく、ミラの申し入れを諾した。
「あああ、素晴らしいですわ。わたくし、わたくし……」
イシュルはまた自分の世界に入りそうなミラを、まぁまぁと両手を振って制した。
まだこれで終わりじゃない。まだ聞きたいことがある。
「それで、聖都に行ってミラの家に逗留するだけでいい、というのはどういうわけだ? ビオナートを暗殺すればそれで話は終わる筈だが? 力まかせにやっていいなら、今すぐ聖都に行ってさっさと済ませてしまってもいい」
イシュルは笑顔を残したまま、ミラに問いつめた。
「それと、俺を聖石輸送に連れていくのはなぜだ? ただの護衛じゃないだろう」
陽は傾き夕暮れがクレンベルの山野を紅く染めている。
どこかで山鳥の鳴く声がする。風向きが変わろうとしている。
もう時間がない。
イシュルはクレンベルの山頂を急降下し、山麓の家の赤い屋根を蹴って谷川を飛び越え、ハンターギルドの前に降り立った。近くにいたハンターたちがぎょっとした顔をする。
途中視界の隅に映ったハンターギルドの背後の山の上にある砦には、見慣れぬ旗がいくつか翻っていた。聖石を護送する兵らすべてが山頂の主神殿に行けるわけではない。聖堂騎士団の一部騎士、兵らの多くは、クレンベルと聖都間の護送を担当する者たちだ。彼らは石英鉱山から輸送されてきた原石が到着するまでクレンベルの砦に駐留するのだろう。
イシュルはギルドの扉を開け、中に入った。
ミラはイシュルに問われると顔を俯き少し考えはじめ、イシュルにすぐに返事をしなかった。
イシュルは意外な感じがした。
イシュルの活躍を耳にし強い関心を抱いて、ついには異様な執着を持つに至ったちょっと暴走気味の恋に恋する乙女? が、ついに当人の協力を取り付けともに行動することになって、我を忘れて浮かれていたのが、急に冷静になって、浮かない表情を見せてきたのである。
エミリアたちが同じ正義派だと仮定して、かたくなに秘密を守るのはわかる。彼女らは影働きの者だし、ミラのような身分も権限もない。
だが公爵家の者であるミラまで逡巡する、というのはどういうことなのか。
イシュルは、ミラの考えるその奥に控えるシャルカの方にちらっと目をやった。
例えば聖石神授の件の場合はどうだろうか。
はっきりいって、あの精霊がいれば道中の危険を考慮する必要はない。あの攻撃力なら悪魔なら一撃、地龍でも少々手こずる程度で斃せるだろう。
それとも聖石神授の使節団というのが、みな王子派や国王派で固められていて彼女が孤立無援で、非常に危険な立場に置かれている、ということなのだろうか。それもエミリアたちが正義派なら、孤立無援、という状況ではなくなる。
これはよほどの秘密があるのではないか。
ほぼ間違いなく、それはビオナートの陰謀に関係することなのだろう。
だがそこまでの推理は容易でも、それと聖石神授がどう関係しているのかがさっぱりわからない。
聖都にいって、ただ公爵家に滞在してくれるだけでいい、というのもよくわからない。
確かに今ビオナートを殺せば、聖都は大きな混乱状態になるだろう。それを避けたいのはわかるが、何もするな、という理由はただそれだけだろうか。
ミラは途中から顔を上げ、真面目な顔つきでしばらく山頂から周囲を見回していたが、ふと南の方に聳える山嶺の方を指差すと言った。
「明日は一日からだを休めるということで、特に儀式もなく、わたくしたち一行には休みが与えられます。続きのお話は明日午後、あの山の頂きでお話しましょう」
イシュルはミラの指差す山の方を見た。その山はイシュルが悪魔狩りから帰ってくると、よく立ち寄ってクレンベルの街並や周囲の景色を楽しむ同じ山だった。
確かにあの山の頂上なら盗み聞きも邪魔も入らないだろう。
やはり、重要な話がまだ隠されているのだ。
「明日午後、イシュルさまのご用は?」
「大丈夫だ」
「それではこれからお茶でもおいれいたしましょう。ご一緒に……」
ミラがつつ、と寄り添ってくる。
「ん?」
神殿の中でか? いいのか? そんなんで。
「俺とミラにつながりがあるのが、他の者にわかってもいいのか?」
「ああ、それは大丈夫ですわ。詳しくは明日お話いたしますが、むしろその方が好都合です」
ふむ。俺が正義派についたぞ、と見せつけるわけか。
「そうか。それじゃまた明日。俺はギルドに行って、聖石神授傭兵募集に申し込んでくる」
もうそろそろ行った方がいいだろう。少し陽が傾いてきた。
「そんな……」
ミラがまた胸の前で両手を握って悲しそうな顔をする。
「傭兵登録なんてする必要ありませんわ。そんなこと、わたくしの一存でどうとでもなります。あくまで形式的なものですが、わたくしの従者になっていただくとか」
「あー、もう従者とかはいいわ」
イシュルは真面目な顔になって言った。
「こういう時は俺が一傭兵、という身分で参加した方がいいんだぞ。何か大きな不祥事が起きた時に、公爵家の私的な事情で余計な随員がひとり増えていた、なんてことがあったりすると、後から敵側に難癖つけられて、おまえやおまえの家の立場が悪くなる場合もある。たとえ俺がミラの護衛とバレバレでも、俺が傭兵として参加していたと正式に証明するものがあれば、後から言い逃れはできる」
「……そうですわね。イシュルさまのおっしゃる通りですわ」
ミラは少しだけ考え、あっさり頷いた。
「ところで、正義派の者は今回の使節団にどれくらい参加してるんだ?」
「それはお話できる者と、できない者がいるのです。詳しくは明日に……」
ミラは顔を俯けて、申し訳なさそうに下から上目遣いでイシュルの方を見てきた。
なんか外見の印象と中身が少し違うな。
金髪まきまきといえば、しっかり固定化された既存のイメージがあるんだが……。
「いかがされました?」
イシュルがぼんやりとミラの顔を見ていると、彼女が首を横に傾けて聞いてきた。
「いや。それじゃ、また明日」
「はい、イシュルさま。今日はイシュルさまとお会いできて本当に最高の日でしたわ。明日も楽しみにしております」
ミラは大仰な台詞に負けず、華麗な笑顔をイシュルに向けてきた。
ギルドに入ると、やはりいつもより多くのハンターたちが訪れていた。
夕方になり薄暗くなった室内は、人びとのざわめきでなんとなくいつもの落着きがない。
イシュルはハンターたちの中に魔法使いらしき者がいないかかるくチェックした。ちらっと見た感じでも、それなりの実力がありそうな魔法使いの姿が二、三人混じっているようだ。
最高の魔法使いをミラに紹介してもらえることになった。もう無理をして彼らに声をかける必要はなくなった。
イシュルは人だかりから視線をはずし、空いているカウンターの端の方へ行って手空きのギルド職員を探した。
奥の方に机に座り、書類や燭台、筆記具などに埋もれるようにして仕事をしていたシグネがふと頭を上げイシュルの方を見た。今日は忙しいのか、いつもこの時間帯では見かけない彼女も、まだ仕事しているようだ。イシュルはにっこり笑顔をつくって、シグネに声をかけた。
「聖石神授護衛の募集に応募したいんだ。申し込みの手続きをしれくれないか?」
シグネが机の上の書類の山から紙束をひとつ引っ張り出し、立ち上がってイシュルの方へ近づいてくる。
「こちらです。イシュルさん」
シグネはカウンター越しにイシュルの正面に立つと、申し込み用紙の束を差し出し、視線をちらちらと左右に振った。
「まさかひとりで参加するんですか」
「ああ。通らないかな?」
依頼主である下の神殿が聖石神授護衛の傭兵を採用審査するのだが、その依頼内容からどうしてもパーティでの応募が優遇され、単独での応募だと敬遠される傾向があった。
イシュルはそのことを言ったのだが、それほど心配しているわけではなかった。自身が途方もない実力者だから、というよりも、ミラ・ディエラードという大物と面識ができたので、いざとなったら彼女に下の神殿にねじ込んでもらえばよい、と考えていた。
「凄いきれいな字ですね。イシュルさん」
イシュルが名前や居住先などを記入した応募用紙に目を通したシグネは、その目をまんまるに見開いて驚いた顔をした。
「そう?」
「ええ。びっくりしました」
シグネのイシュルを見る目が明らかに変わった。
きれいな文字を書ける、ということは当然、それなりの教育を受けた者だということになる。
魔法や魔獣狩りにはたいして興味を示さないのに、筆遣いには興味を示すのか。
……悪くない。シグネはそういうふつうの生活の中で生きているのだ。
イシュルは今度は、自然な笑顔をシグネに向けた。
ギルドを出ると、階段の下の方にエミリアたちがいた。
「……」
いつもなら走り寄ってきて例のごとく勧誘をはじめるのに、むすっとしてイシュルが階段を降りてくるのをじっと待っている。
「聖石神授の傭兵募集に応募したんだ?」
エミリアはちらっと山の上の主神殿の方に目をやると、イシュルに言った。
「ああ」
ラベナと双子もいつもイシュルに向ける笑顔を消し、むすっとしている。クートだけが以前と変わらない薄笑いを浮かべていた。
「俺は単独で参加することにした。よろしくな、みんな」
イシュルはなぜか無性にこみ上げてくる笑いを堪えながら言った。
仕方ないじゃないか。ミラはちゃんと事情を話し、俺の望む最高の報酬を用意したんだ。
「あんたら、あれから何か危ない目に遭ってないか」
イシュルは彼女らの顔を見渡しながら言った。あれから、というのは昨晩、彼女らのアジトが襲撃された一件だ。
「昼間っからあんなこと、あるわけないでしょ」
エミリアが答える。すこぶる機嫌が悪そうだ。
「だいたいイシュルが助けてくれたんだから、わたしたちを襲ってくるやつなんかもう出てこないわよ」
彼女らが正義派なのか、それはまだ断定できない。でも、彼女らも、昨日夜の街道でイシュルに喰ってかかってきた男のように、何かに命をかけているのは間違いない。そしてそれは、ビオナートのような悪意に満ちた邪(よこしま)な目的のためではないだろう。なんとなく、そのことだけはわかる。
「それは良かった」
イシュルが口許をひくつかせながら言うと、
「ふん!」
と、エミリアが思いっきり顔を逸らし鼻をつんと上げた。
「ふん」
「ふん」
双子が続く。ラベナが笑った。
彼女らの背後に、山並に黒く縁どられた紅く美しい夕方の空が広がっている。
「ふふっ」
イシュルも堪えきれず、思わず破顔した。笑いが声になって出た。
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