正義派 1
「……」
力ない視線を少女に落としたまま、イシュルはただ立ち尽くしていた。言葉がでてこない。
ミラ・ディエラードはそんなイシュルの顔をじっと見つめながら立ち上がった。
彼女の全身から輝くような気品が、美しさが香るように漂ってくる。
「ディエラード公爵家といえば……」
微かに吹く風のなか、イシュルが呟くと、ミラはその言葉尻を機敏に捉えて言った。
「はい。ディエラードは聖王国五令公家の一家ですわ。わたくしはディエラード家の長女、三人兄弟の三番目。上にふたりの兄がおりますの」
品のある柔らかい物言いだ。
オルスト聖王国の五令公家とは、王家に何事かあれば王家に代わり、聖王国全土に令する権能を与えられた五つの公爵家、または古(いにしえ)の由緒ある王命により、王家の近くにあって常に輔佐するよう定められた五家、のことを言う。
江戸時代に例えれば御三家に幕閣の一部権能を足したみたいな感じだろうか。要は聖王国では王家に次ぐ権威を持つ名門、というわけだ。
その名門の公爵令嬢がいきなり目の前で臣下の礼をとってきた。
イシュルは顎を引き、心のうちに広がる動揺を押さえ込むと、唇の端を僅かに上げて言った。
「ご丁寧な名乗りをいただき恐縮です、ディエラードさま」
だがイシュルは彼女に跪いたりしなかった。
この女の演出が気に入らない。
いくら自分が神の魔法具を持っているからと言って、どうして公爵家の御令嬢が初手からいきなり臣下の礼をとってくる必要があるのか。
今まで、貴族や富商の使者に誘われたことも幾度かあったが、ここまで慇懃な態度を示してきた者はいなかった。
「で、わたくしにそのように格別なご配慮を示されるわけは?」
イシュルは名乗りを返すどころかそれを省き、ミラの振る舞いの理由を露骨に問いただした。
「まぁ、そんな。わたくしに他意はございませんわ」
ミラは眉毛を下げ、眸の色を不安気に煌めかせた。一応、もっともらしく。
「それにそもそも、イシュルさまがわたくしごときに丁寧なお言葉を遣われる必要はございません。ディエーラドさま、だなんて」
ミラはしなをつくって笑みを浮かべた。
「どうかただ、ミラとお呼びくださいませ」
美人さんなんだがな。まきまき、なのもめずらしいし。
もう貴人に対する言葉遣いはしない。話の内容によってはさっさと切る。
イシュルはかるくため息を吐くと、彼女を促した。
「それで俺に接触してきた理由は? 公爵家のご息女殿」
「ミラと」
少女はイシュルの眸をじっと見つめてきて言った。
「ミラ、とお呼びくださいませ」
こいつ……。
「理由は? ミラ」
イシュルがまたため息をついて、脱力して言うと、ミラは満面の笑顔になって言った。
「イシュルさまにミラ、と呼んでいただいてとてもうれしいですわ」
ついにイシュルが表情を硬くして眇(すがめ)になると、ミラは笑いを引き攣らせ慌てて言ってきた。
「本当ですのよ。り、理由でござますわね?」
イシュルはむっつりと無言で頷いた。
「わたくし五公家の者として、此度の聖石神授聖王家見届け役の、代理を務めておりますの」
イシュルは表情を変えず、冷たい声でミラに言った。
「聖石神授は聖堂教会の仕切りだ。あんたは聖王国側の代表、目付ということか」
ミラは、はい、と一度頷いてより詳しく説明をはじめた。
「目付、とは聞き慣れないお言葉ですがその通りでございます。聖堂教会聖石神授使の長(おさ)は教会から任命された使節団儀典長が、一団の護衛など兵権は聖堂騎士団から派遣された者、此度は聖堂騎士団第三騎士団、白楯騎士団副団長が使節団騎士団長を務めます。わたくしは王家の名代、査察使として現使節団に同行いたしますの」
「使節団? 聖王国の領内なのに? いや、石英鉱山は聖地、だからか」
「そうです。神々の地、だからですわ」
ミラは、イシュルさまは教養がございますのね、と呟き、「おほほほ」と笑った。残念ながら手の甲ではなく、指先の腹を口許に当てて慎ましやかに笑ってみせた。
「……それで、理由は?」
イシュルはそれでもげんなりして言った。やはり「おほほほ」ときたか。
「はい、わたくしは一方で聖王家の宮廷魔導師でもあります。今回は使節団騎士団長配下に五名の宮廷魔導師が参加しておりますが、わたくしはそちらにも席を置き、使節団騎士団副長も兼務しておりますの」
ミラは笑顔を薄くし、イシュルを見る視線に力を込めて言葉を続けた。
「そういうことで、当使節団の護衛としてぜひともイシュルさまに加わっていただきたいのです。それも王家査察使であるわたくしの個人的な護衛役として」
イシュルの顔から表情が無くなる。
イシュルは無言で、感情を消した眸で彼女に意志表示した。まったく興味はない、と。
これまで幾度か繰り返されてきた勧誘と同じだ。ただ今回は大物が来た、というだけだ。
イシュルは彼女から顔をそらし、ハンターギルドのある、イシュルの背後にある山の方に首を向けた。
今日はこれからハンターギルドに行きたい。今日の夜、早い刻限には聖石神授護衛の傭兵募集が締め切られる。そのちょっと前にギルドに行って、どんな者たちが応募するか、風系統をまず第一に有力な魔法使いがいないか調べたい。
「あの、お願いはそれだけではありません」
「俺はこれからちょっと用事があってさ。もういいかな?」
ミラは少し慌てて言葉を重ねる。
「どうか、どうか最後まで聞いてくださいまし。……お願いでございます!」
彼女はまたイシュルに跪いてみせた。
「……どうぞ。手短に」
それなりに必死そうな顔でイシュルを見上げてくるミラに、イシュルは仏頂面で言った。
「イシュルさまにお願いしたいのは聖石神授の件だけではありません。クレンベルへの帰還後もそのまま聖都まで護衛に加わっていただき、到着後は当家の食客としてしばらく滞在していただきたいのです」
「それじゃ。俺、行くから」
「ああああっ、お待ちを」
背を向けたイシュルにミラが縋りついてきた。
イシュルの太腿に両手をしっかり搦めてくる。
イシュルはそんなミラを見おろした。
凄いな。公爵令嬢に縋りつかれるというシチュエーションもさることながら、美しい少女に太腿を抱きしめられるというのが何とも……。
こんなことまでしてくるということは、彼女の身分を考えればそれだけ必死、真剣なのだろうが。
イシュルはわざとらしくため息をついて言った。
「放してくれるかな?」
言いながらちらりと上背のあるお付きのメイドに目をやったが、彼女はまったくの無表情で、視線もどこを見ているのか定まっていない。
……なんか変だな。このメイド。
「これははしたないことを。ごめんなさい」
イシュルはミラが手を離すと、また彼女の方へ向き直った。
よく考えるとこのふたり、少し変な取り合わせだ。公爵令嬢の後ろに少し離れて立つ大きな女。魔法が使えるのか、見た目の体格からすると武術の嗜みもあるのだろうが、何か不気味というか、とにかく変な感じだ。ほんの微かにだが、彼女からは魔力が薄く、立ち上っている。
イシュルは、またミラの後ろに立つメイドの方にちらっと目をやった。
あまりじろじろ見るのも失礼だが……。
「どうか、わたくしの話をもう少し聞いてくださいませ。詳しくご説明いたしますから」
ミラは少し顔を引き攣らせながらも、笑みを浮かべた。
「イシュルさまには、特別な報酬も考えておりますのよ」
微かにその眸に妖しい光が混じる。
ふむ、これは何かあるかもしれない。
イシュルはほんの一瞬、メイドの方に目を向けると黙ってうなずいた。
ミラとメイド、彼女らはふたりで一セット、と考えた方がいいのかもしれない。
このメイドのおかしな雰囲気。何かがある。今まで勧誘に来た者たちとはちょっと違う、と考えた方がいいのかもしれない。
「報酬の件は後でいいから、とりあえず詳しく聴かせてもらおうか」
それに彼女はディエラード公爵の娘で、聖王家の宮廷魔導師でもあるという。
それなら、聖都に在住する、宮仕えでない有力な風の魔法使いに伝手もあるのではないか。
イシュルは態度をちょっと軟化させて、ミラにつくり笑いを浮かべてみせた。
ただ、今その話をするのはまずい。彼女にどんなねらいがあるかわからない。おそらく単なる護衛、用心棒を頼もうというわけではないのだろう。
彼女の単なる護衛なら。
イシュルはミラの背後に立つメイドを見ずに、意識だけを向けた。
この大女で充分過ぎるほどに事足りるんじゃないか。そんな感じがする。
「聖石神授では表向き、わたくしの護衛役をつとめていただきますが、本当に護衛していただく必要はございません。ただ聖石鉱山までついてきていただくだけで結構です。エストフォルでもただ当家に逗留していただければいいのです。滞在中はイシュルさまの自由になさって結構です」
「理由は」
イシュルは間髪を入れずに短く言った。何よりそれが聞きたい。
「はい……」
ミラは一瞬、逡巡する風を見せた。
イシュルのつくり笑いに感情が混ざっていく。
やはり言いづらいことなんだ。
「シャルカ」
ミラは後ろを向き、メイドに声をかけた。
「はい」
メイドは相変わらず表情に乏しいが、ミラにしっかり顔を向け、目を見て返事をした。
イシュルはメイドの様子を観察した。
まるで人形のように感じられたメイドだが、思ったよりは普通な反応を示した。
「あたりに怪しい者がいないか監視して」
「わかった」
シャルカと呼ばれたメイドはこくりと頷いた。
おかしい。主人に「わかった」はないだろう。
「彼女は……」
呟くように言ったイシュルにミラはうすく愛想笑いを浮かべ、
「シャルカのことは後でお話しましょう」
と言った。
そして話を本題に戻した。
「今、聖都では次期国王の座をめぐって兄と弟、ふたりの王子が争っているのはご存知かと思います。我がディエラード家でもわたくしのふたりの兄、長兄のルフィッツオと次兄のロメオがそれぞれ兄の第一王子と弟の第二王子の派閥に入っておりますの」
ミラはそこで一旦言葉を切り、可愛らしく首を傾けてみせた。
「よくある話だな」
「はい」
「それで、あんたは何なんだ? どちらかの派閥に入っているのか?」
「いえ。わたくしはどちらの派閥にも属しておりません」
イシュルはイシュルでそこで首を捻った。顎に手をやり考える。
なら彼女はさしずめ中立派、といったところか。それでなぜ俺を必要としている……。
「ということは」
つまり、ミラは今後の事態の推移によっては充分にあり得る、聖都に兵乱が起こるのを憂いている、ということなのだろう。俺をその押さえにしようとしているのではないか。聖都に赤帝龍を退けた風の魔法使いである俺を招聘し、両派が過激な行動に出るのを未然に防ごうとしているではないか。
もし実力行使に出れば、イヴェダの剣を使って有無を言わせず鎮圧する、というわけだ。俺が中立的な立場で聖都に居座っている間は兄、弟各王子派は強硬な動きができなくなる。
「俺を、継承争いが先鋭化するのを防ぐための重石(おもし)にしようということか」
ミラが笑みを浮かべる。
「間違いではございませんわ」
ミラは笑みを妖しいものにして続けた。
「わたくしどもは自らを正義派、と称しておりますの」
「正義派?」
どこかで聞いたことがある言葉だ。幕末の長州藩だったか? いや、自らの派閥を似たような言葉で飾った例は、前世であろうと今世であろうと古今東西、枚挙にいとまがないだろう。
「はい。わたくしたちは単なる中立、穏健派ではないのです」
彼女はじっと俺を見つめてきた。
理性と知性を宿しながらも、一方で夢見るような熱を帯びた眸だった。
「わたくしたちは反国王派、つまり反ビオナート派ですわ」
そうか。
イシュルはミラに深くゆっくり頷いて見せた。
王位継承による王子たちの争い、それをわざと煽り立てて国政を不安定にさせている現国王のやり方に、そして聖王家でなく聖堂教会にも強い影響力を持とうとしていることに、強い疑問を持ち反発する者たちが出てきても、それは決しておかしいことではない。彼らは将来の安寧や権力のために、兄弟王子たちの争いにむやみに参加することを是とせず、真に国政の行方と教会の存立を憂いている一派、というわけだ。
なるほど。それなら自らを正義派などと称したくなる気持ちもわからないではない。
イシュルは胸の奥底に潜む重い痛みが、僅かにその鎌首をもたげてくるのを感じた。
リフィアが得意になって言っていたな。
「あれか、ビオナートがふたりの子のどちらかを王位につけ、もう片方を聖堂教会の総神官長に据えようとしている、というやつか。正義派は国王のやり方に反対しているわけだ」
「それはどなたの見立てかしら」
ミラはわたしはなんでも知ってる、という風に聞いてきた。
もちろん王国側でも、リフィアと同じ事を考えた要路の者は少なからずいるだろう。だが俺がその話を聞いたのはリフィアからだけだ。
この女……。
おそらくこの女も俺のことをいろいろと調べているのだろう。
「さあな」
イシュルはごまかした。リフィアとのことをすでにしっかり調べられているかもしれないし、特に隠す必要はないのだが。
「ビオナートの企みが成功すれば、やつは聖王家のみならず聖堂教会にも強い影響力を持つことになるが」
イシュルは話の流れを本題に戻し、自らの考えを開陳した。
「やつのねらいはそれだけじゃない。ビオナートにはそれぞれ頂点に立った息子たちに、ただ父親として、先代王として影響力を残すだけで終わらせるつもりはない。やつは両極を肉親で固めた余勢をかって、多くの貴族たちや騎士団、魔導師や大神官たちを秘かに息子たちから引き離して自らの勢力下に収め、息子らよりも強い影響力を聖王家と教会の両方に及ぼし、実質支配しようと考えている筈だ」
「我が聖王国でも少なくない者がそのように考えています。でも、違うのですわ」
ミラはイシュルの発言に満足そうに頷いてみせた。しかし、それを否定してきた。
そして、すっとイシュルに近づき顔を上げ、まるで接吻するかのように唇を寄せてイシュルに囁いた。
「我が国王陛下はもっと恐ろしいことを考えておられます。わたくしたちは断じて」
ミラの右手がイシュルの胸にそえられる。
「彼の陰謀を許すわけにはまいりません。聖王国と聖堂教会のために。いえ、大陸のすべての民草のために」
ミラの眸が青く燃え上がる。
「ビオナートを誅さねばなりません。かならず」
イシュルの脳裡に、エミリアとクートの見せたあの時の表情が浮かび上がってきた。
あいつらもひょっとすると正義派、なのか……。
断定はできない。だがこれで、いくつかの疑問が繋がったかもしれない。
ただ、まだわからないことがたくさんある。
イシュルは自分の胸におかれたミラの手を握って、押し返すようにして離した。
「ビオナートの考えているもっと恐ろしいこと、とは何だ」
「まぁ。つれないお方」
ミラは一瞬俯きそっと呟くと、すぐにまたイシュルの顔をじっと見つめてきた。
彼女の眸に冷たいものが混じりだす。
「ビオナートにはふたりの王子の他に、側腹の子が何人かおります。十二歳になる男の子が先日、病死しました。残りは五歳と二歳になる娘です。いずれも若い愛人に産ませた非嫡子の子どもたちです」
「それは、まさか……」
思わず声が震える。
十二歳の子どもの病死、それはまさかビオナート自身の手によるものではないか。
イシュルはミラのその話で、すべてを理解できた気がした。それは……。
「ビオナートは王子たちの王位継承争いを激化させ、その混乱に乗じてふたりとも殺してしまうつもりです。そして……」
ミラの紅い艶かしい唇が囁く。
「自らが総神官長になろうとしているのです。それからふたりの娘のどちらかを聖王国の女王に据えるのですわ」
ミラから漂う甘く香しい匂い。
ミラはそこでイシュルから少し距離を置いた。妖しい濃密な空気が薄らいでいく。
山頂の濛気はすっかり消えてなくなり、空は明るく晴れ渡っていた。どこかで微風が吹いている。草葉のさわさわと鳴る小さな音が聞こえてくる。
辺りは静寂に包まれていた。
イシュルは知らず、大きく息を吐いた。空気が甘く冷たく、悲しかった。
悪魔は聖都にもいる。
その悪魔はやがて聖堂教の総本山に棲みつくのだ。
「どの時期でふたりの王子を殺す、殺されたように見せるかが難しいですが、おそらくふたりの決着がつく寸前ではないでしょうか。王位につけず、総神官長に回りそうな方が王位継承の決まりそうな方を殺す、そのようにしむけるか見せかける。その後、殺した方を糾弾し処断するのでしょう。ビオナートは自ら息子たちを争わせた責任を、以前からの工作と、子を失い悲嘆にくれる父親を演じ周囲から同情を集めることで糊塗し、教会と聖王国の危機を煽り、自らは空席となった総神官長に就任し、同じく空位となった王位に娘のどちらかをつけて、聖堂教会と聖王家、ともに完全に支配するつもりなのです」
彼女の甘い柔らかい声音とは裏腹に、その言葉の内容は随分と血なまぐさいものだった。
「ふん」
それのどこが欲深い、だ。リフィアはやさしすぎだ。
ビオナートめ……。
聖王国と聖堂教会が完全に一体となったら、どうなるだろう。
聖堂教自体は多神教であるし、その教義と布教活動に過激なものはない。だが大陸全土に広く神殿と神官がおり、信心深い信徒も少なくない。逆らう者は王であろうと破門にできるだろうし、他国への侵略はよりたやすいものになるだろう。
そして何より、魔法具の供給を独占することが可能になる。敵対する勢力には魔法具の供給を止め、自軍に魔法具の供給を集中し戦力をひたすら強化することができる。
ビオナートのねらいはつまり……。
「やつがねらっていることが何かはだいたい予想がつく」
イシュルはミラに歪んだ笑みを浮かべた。
「だがな。その動機は? 証拠はあるのか? あんたは誰からその話を聞いたんだ?」
ミラは視線をイシュルからはずし遠くの方へ彷徨わせた。
「国王陛下は若いころからひとつの理想をお持ちでした。陛下は少年期まで大聖堂の神官を務めており、兄である先代国王の早逝に伴い、教会を離れ王家に復帰し次期国王に推戴されました」
ミラは話を続けた。ビオナートはつまり、聖堂教会が長年、深くひっそりと抱き続けた目的、つまり古代ウルク王国の再興を、神官であった少年期に生涯の目標と定めたのだという。
古代ウルク王国の頃、主神をはじめとする神々は王国の人びとにとってより近い、親しい存在だった。ビオナートは古代ウルク王国を再興し、この大陸にあまねく神々の力を行き渡らせ、万民に至福をもたらすことを目指した。ビオナートはこの自身の理想を、親しい者に限って過去に何度か口にしたことがあるらしい。
古代ウルク王国の最盛期には、その領土は北はベルシュ村の先、南は中海沿岸まで、西は今のラディス王国の王都周辺にまで及んでいた。ビオナートの言う古代ウルク王国の再興と、大陸中にあまねく神々の力を行き渡らせる、という目的とは、現在の聖王国周辺の国々をその版図におさめ、それをいずれ大陸全体に広げていくということだろう。単なる布教の強化で済む話ではないのだ。
「古代ウルク王国が滅んだ発端は王位継承問題で国が割れたからですが、当時の王家や神官たちの欲深さを神々がお怒りになったからだ、というのがただの巷説だけでない、教会の公式な見解でもあるのです。ここ数年の間に聖都におわす大神官が五名、立て続けに病死しています。その方々の多くは次期総神官長候補と目されていました。現総神官長であるウルトゥーロさまは、五名の大神官の死を秘かにビオナートの毒殺によるものと断じ、事を憂いているのです」
聖堂教会総神官長、ウルトゥーロが彼女ら正義派の首魁なのか。
イシュルは両腕を胸の前に組み、思案した。
現在の聖王国と聖堂教会の、緩やかではあるが長年守り続けられてきた政教分離、あるいは軍教分離と言ってもいいか——の関係は、古代ウルク王国滅亡の反省から生み出されたとも言われている。
それならビオナートのやろうとしていることは、古代ウルク王国の再興を目指しながら、その滅亡の原因をも同時につくり出そうとしている、何とも皮肉極まる愚かな行為、ということになる。
確かに聖王家なり聖堂教会の中枢に良識を持つ者がいたら、とても無視することはできないだろう。
イシュルはその面(おもて)に皮肉な色を充満させて言った。
「古代ウルク王国滅亡の原因を知りながら、大陸を統一し万民に至福をもたらすため、再び政軍教を合体させるというのか? ただ同じ愚を繰り返そうとしているだけではないか。なんとも馬鹿げた話だ」
「政軍教を合体……」
ミラが呆然と呟く。多分聞き慣れない言葉なのだろう。
だが、そんなことはどうでもいい。
ビオナートだってそんなことは百も承知なのだ。政教を合体し兵権も併せひとつにする。それでも国を長く維持するには何が必要だろうか。
ひとつは外敵をすべて排除することだ。古代ウルク王国の滅亡には、当時王都ラディスラウス周辺で有力な豪族のひとつであった現ラディス王家もからんでいる。外敵をすべて排除すれな後は内なる敵、のみになる。それを押さえ、政軍教併せ持つ絶対の王の継承を、安定して続けるために何が必要になるだろうか。
イシュルはミラを睨んだ。
「その馬鹿げたことを行うために、手始めとして障害となりそうな大神官を立て続けに毒殺したわけか?」
イシュルの鋭い視線にミラが怯む。
万民に至福をもたらすため、などただの戯れ言だ。やつはもっと汚い。
「ビオナートの真の目的はなんだ?」
ミラはイシュルの追及にわずかに肩を落とし、しかし視線にはむしろ力を込めて言ってきた。
「大陸の諸国家を統一し、万民に神の平安をもたらす、かのお方は確かにそのようにお考えでしょう。そして古代ウルク王国の秘儀を復活させる」
ミラはイシュルの鋭い視線をはね返し、微笑みを浮かべた。
「そうして神々を御身のより近くに降ろし、神々にご自分を神の座につけるよう、乞い願うつもりなのでしょう」
「そんな莫迦な。神々がそうたやすく人を神さまなどにするものか」
イシュルは思わず大きな声で叫んだ。
「でも美と快楽の神、エリューカはもとは人間だったと言われています」
「そんなこと知っている」
美神エリューカに関しては、遥かな昔、中海にあった国にエリューカという名のたぐい稀な美貌の踊り子がおり、彼女の踊るその美しい姿がやがて国中の評判となり王子の知るところとなって……、その後の彼女と王子の悲恋、そして懸命に生きた彼女の悲劇的な死に、主神ヘレスが悲しみ哀れんで彼女の魂を神の列に加えた、というお定まりの話が伝わっている。
「聖堂教会にとって、万民をより神々に近づけ至福を与えることは至上の命題です。ビオナートでなくとも、もしそれを広く成し遂げれば神々の列に加えられてもおかしくはない、と考える者はいるでしょう」
「……」
それだ。
政軍教併せ持つ、絶対の王権の継承を安定させるために必要なふたつ目のもの。新ウルク王国の初代王が神になること、その神の定めたものは絶対の権威となるだろう。神となった初代王の定めた王位継承の法が破られることはあり得ない。もし破られれば神である彼自身がその者に鉄槌を下す。
いや……、神となったビオナートは死ぬことはない。人間たちの王として、永遠に大陸に君臨し続けるかもしれない。
イシュルは視線も鋭く、ミラから彼女の背後の空、遠く霞む山並みに目を向けた。
それが本当なら、赤帝龍につづくふたり目、赤帝龍は人ではないが——が現れたのだ。神の座を目指す者が。
それも神の魔法具を集めるのではなく、己の地位と知謀で、最高の権力と権威を持つことによってだ。
イシュルの唇が皮肉に歪む。
神々に係ろうとする馬と鹿、俺も含めれば三人目の馬鹿の登場だ。
だが主神ヘレスをはじめとする神々は、事を成したビオナートを神にするだろうか?
それはわからない。神々への信仰がより大きなものになり、本当に万民に至福がもたらされるのなら、神々は彼の請願に応えるかもしれない。
「総神官長であるウルトゥーロ・バリオーニ二世猊下は、ビオナートの陰謀を未然に防ぎたいとお考えです。イシュルさまにはどうか、その力をお貸しいただきたいのです」
ミラがまたイシュルの前に跪いた。そして決め台詞を言ってきた。
「風神の魔法具を持つ者として」
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