天空の街 4




 ……明るい。

 しまった。またランプの火を消し忘れて寝入ってしまったか。

 いや、今は神殿長から借りてきた本はなかった筈……。

 なぜ明るい?

 イシュルは暗闇の中、飛び起きた。

 時々、イシュルは神殿長の好意で彼の私蔵の本を借りて読んでいる。聖王国国史や聖堂教の聖人伝などである。神殿にはさらに詳細で分厚い立派な装丁の書物もあるが、それはしかるべき身分の者しか閲覧できず、あるいは神官見習いの教育のために使われ、些細な理由で神殿の外へは持ち出すことはできない。

 イシュルはぼんやりと目の前に広がる暗闇を見つめた。

 西の、深夜の街にいくつも煌めき消える魔力の光。控え目な隠し身の魔法の光線はほとんど消えてなくなり、今ははっきりといくつもの大小の魔法が使われている。それが集中している場所がある。

 イシュルはベッドから出ると服を着替え、南側にある窓を開けて外に出、そのまま屋根の上に上がった。

 これは見過ごせないな。

 屋根から石積みの外壁に飛び移り、クレンベルの街を見おろす。

 木々の影にちらちらと遮られて、飲み屋や娼家が集まっている歓楽街のあたりに灯りが集まっている。それほど広くもなく、明るさもそれなりだ。魔力の煌めきはそこから南西に少し離れた、家々がまばらになったあたりに集中していた。

 イシュルはその点滅し拡散し、地を走り、空を突き抜ける魔力のほとばしりを凝視した。

 この距離からでは誰の魔力か、とても判別はつかない。強烈で特徴的だったリフィアや、燦然と煌めくペトラのような魔力でないと、魔法を使っている者を特定することは難しい。人数も、もっと時間をかけて観察しないとはっきりとはわからない。

 だが、あそこにはエミリアたちがいそうな気がする。

 あの煌めきの中に突っ込めば間違いなく、おそらくは王位継承争いに巻き込まれることになるだろう。

 それが聖石神授とどう関係しているかはわからないが、いずれにしろ俺には係わりのないことなのだ。

 俺が石英鉱山に行くかどうかは、聖王家なり教会なり、傭兵なり参加する者に、風の魔法の遣い手がいるかどうか、それで決まる。もし有力な風の魔法使いがいれば、その者と知り合うためにも参加した方がいいだろう。聖王家に仕える現役の宮廷魔導師に関しても、その魔導師が今は宮仕えでない、引退している風の魔法使いを知っている可能性はある。うまくいけば紹介だってしてもらえるだろう。

 今後のことを考えると、眼下で繰り広げられている争闘に首を突っ込むのはやめておいた方がいいのだ。

 見過ごせない、とは思ったものの、ここは止めておくべきか。

 しかし……。

 先日地龍に戦わせた時の、あの時のエミリアの眸が脳裡に浮かんでくる。そしてクートの、何かを突き放したような苦笑。

 精霊のディルヒルドは彼女らに邪心はない、と言ったのだ。

 イシュルの眼下を、あの場所で複数の火球が連続して走った。何かが、おそらく家屋が燃えはじめる。そして消火するためか、かなりの量の水がどこからともなく湧き上がり、周囲に広がる感じ。あの双子もいるんだろうか。

 延焼して街が火事になるのはまずい。

 それに、エミリアやクートはともかく、ピルサとピューリ、俺より年下かもしれない双子の女の子が死んでしまうのは寝覚めが悪い……。

「くそっ」

 一瞬、イシュルの顔を苦しそうな表情が走った。

 イシュルは空へ飛び上がった。

 イシュルはからだを心持ち丸め、争闘の行われている地点へ真っすぐ向かう。頬を流れる風にはまだ冬の冷たさが微かに残っている。夜風はイシュルの迷いを洗うように吹き飛ばしていった。

 あの戦いに介入しようと決めたのなら。

 イシュルはベルシュ家の指輪に触れた。

 躊躇しては危険だ。

 イシュルは空中で闘争の行われている場所の周囲に、風の魔力を細く弱い無数の角柱にして突き刺した。そして風を集めて周囲に微風を吹かせる。

 見えるぞ。

 風の魔力の柱に人や魔力が接触すれば、微風の流れに乱れがあれば、それはイシュルの知覚するところとなる。

 イシュルは空を横切り、争闘の中心となっている民家の屋根に降り立った。

 イシュルが屋根に降り立つのと同時に、正面の木々の間から複数の火球が連続で発射される。火球ひとつひとつの大きさはそれほどでもないが、間断なく撃ち出してくるところは油断ならない。林間に浮いて絶えず揺れ動いている者はおそらく火の精霊だ。

 横で応戦していた風の精霊の少女はこの前、地龍と戦った時にラベナが召還した同じ精霊だ。おそらく彼女の契約精霊だろう。火球を避けながら必死に弓矢を射続けている。少女の精霊は矢筒から矢を出さずに、その右手に直接風の魔法の矢を出現させ射っていた。

「やぁっ」

 正面の林のさらに奥の方からは、おそらくエミリアの、裂帛の気合いを込めた叫声が聞こえてくる。相手は疾き風、加速の魔法を使っているようだ。彼女にとっては強敵だろう。イシュルの左下では双子が家を背にしてふたりの敵と対峙している。右手の奥の方からは地面の掘り起こされる感覚。おそらくクートだ。相手も土の魔法を使っているようだ。

 ラベナと、火球を撃ってくる精霊の召還者の姿は見えない。近くにはいない。

 イシュルは向かってくる火球に風の魔力の壁を立てて防ぎながら、視線を鋭くした。

 みな防御側なのに見事に引き離され分断され、おのおの単独で戦う状況になってしまっている。だが幸いと見るべきか、敵側も人数が足りないのか致命的な状況にはなっていない。

 イシュルは、林間を漂い火球を撃ってくる火の精霊を風の魔力で瞬時に粉砕し、ラベナの精霊に声をかけた。

「双子に加勢しろ。わかるか?」

 ラベナの精霊はイシュルに向かって頷くと双子の方へ飛んでいく。

 イシュルは屋根から飛び降りると正面の木々の中に入っていった。

 木々の間を風のアシストをつけて走る。流れる草木の間に激しく動く気配がする。片方の動きは目で追えない。夜間のせい、だけが理由ではない。だが激しい周囲の空気の動きでだいたいは把握できる。エミリアはあの黒い悪霊をある時は牽制に使い、ある時は自身が囮になって攻撃に使い、うまく戦っていた。

 やはり影働きの者。魔法の地力はマーヤたちラディス王国の宮廷魔導師たちに一歩譲るが、戦い方、特に対人戦闘は手慣れている。

 イシュルはエミリアの手前、敵の進行方向に広く魔力の壁を出現させた。

「ぐぁっ」

 加速の魔法を使っていた男が姿を現した。小振りの片手剣を落とし、手首をおさえて踞る。もろに風の魔法の壁に激突したらしい。

 イシュルの設置した壁がわからなかったのか、感じても反応する間がなかったのか。

 イシュルは風の魔力の壁を消した。見えない壁が消えると同時に、エミリアの右前方に浮いていた黒い影がもの凄いスピードで踞った男に取り憑く。

 イシュルは目を背けた。背後から男の断末魔が上がった。

「もうしまったから。大丈夫よ」

 エミリアが後ろから声をかけてくる。しまった、というのは男の体内に入って内蔵を喰らった悪霊のことだろう。

 男はイシュルより幾つか年上か、ちょうどエミリアと同じ歳くらいだろう。口や鼻から夥しい血を流して死んでいた。

「イシュル、助けにきてくれたのね」

 だがイシュルに向けてくるエミリアの表情は厳しい。

「お礼は後でね。イシュルはピルサとピューリを助けに行って。わたしはクートに加勢する」

「こいつの魔法具、回収しないのか?」

 イシュルはエミリアに訪ねた。

 加速の魔法具には興味がある。というよりはっきりいって欲しい。

「無理よ。皮を剥いでも意味はないわ」

 刺青か。隠し身の魔法だけでなく、疾き風の魔法も、その魔法陣を刺青にして魔法具代わりにしているのだ。

 聖堂教会の隠し持つ技術には、やはり底知れないものがある……。

 イシュルが俯き考えはじめると、彼女が声をかけてきた。

「急ぎましょう」

 イシュルが民家の方に戻ってくると、双子にラベナの風の精霊はまだ、敵の影働きの者二名との戦闘を続けていた。

 風の精霊の加勢で決着が着くかと思ったが、どうもそうではなかったらしい。

 ただ敵側は以前より距離を置き、逃げる間合いを計っているようにも見える。

 敵のふたりはおそらく両方とも男、片方は加速、片方は風の魔法を遣う。ラベナの風の精霊が攻撃に加わる前は、双子と互いに片方が防御、攻撃、牽制、を目まぐるしく入れ替えやり合っていた。

 彼らの戦っている場所はクレンベルの市街地の方で木々も疎ら、互いに投射型の魔法攻撃がやりやすい。敵の加速の魔法は機動力のない双子には有利な筈だが、加速の魔法を遣う男は双子の火力と地形を警戒してか接近戦を行わず、弓矢で戦っていた。高速で移動して、予想外の場所に現れいきなり矢を射ってくる。双子はその度に、水壁を自らの手前に出現させ防いでいた。敵の風の魔法使いはその瞬間をねらって風の刃や風球を放つ、そうすると双子は手を離して片方が水壁を維持するか攻撃、もう片方が火壁を設置し風の魔法を防ぐ。そして双子が攻撃するときはお互い手を合わせ、大きな火球を複数放ち、加速の男はそのスピードで軽々と距離をとって逃れ、風の魔法使いの方は横風を吹かして火球の軌道を逸らしながら自身も全力で退避する。両者は戦いの決着がつかない消耗戦を続けていた。

 それがラベナの精霊の加勢で均衡状態が崩れ、敵側は距離をとりはじめたのだろう。

 イシュルは双子が危機的状況ではなかったので、少しの間距離を起き、両者の戦いを観察した。

 そして双子の方へ歩いてゆっくり向かいながら、数百長歩(スカル、一長歩は0.6〜0.7m)ほど先にいる敵方のふたりの男を風の魔力の壁で囲った。

「イシュル!」

 双子がイシュルの方へ駆けてくる。

 イシュルは彼女らに家の方に顎をしゃくって言った。

「ちょろちょろと燃えているぞ。早く消した方がいい」

 イシュルが仕留めた敵方の火精が放っていた火球が原因か、二階建ての木造の家の所々から小さく炎が揺らめくのが見える。夜目に煙がかなり出ているのも見える。

 このどこかの商家の別荘、といった感じの民家は彼女らがアジトに使っていたのだろう。それを教会か聖王家の兄王子か弟か、彼女らと敵対する派閥の影働きの一派が襲撃してきた、といったところだろうか。

「あのふたり、殺して!」

 双子は片方がすぐに水球を出現させて火を消しはじめたが、もうひとりはイシュルのすぐ傍まで近寄ってきて、彼に懇願してきた。

「俺は関係ないやつ殺すの、いやなんだがな」

 イシュルは閉じ込めた男らの方へ視線を向けて言った。

 男たちは観念したのか、静かにしているようだ。大声で泣き叫んだり暴れたりしてはいない。

「拷問して何か聞き出すとかしないのか?」

「うん、だめ。絶対しゃべらないよ。それに相手のことはだいたいわかるの」

 確かに王位継承争いなら敵味方、おおよそのことは互いに把握しているだろう。

 しかし可愛い顔してるのに。ひとを殺すことに躊躇しないのか。影の者たちの戦いはやはり厳しい……。

 さて、どうするか。 

 イシュルが顎に手を当て思案顔になると、後ろで声がした。

「それはわたしたちの方でやるわ。イシュルはラベナをお願い」

 エミリアがクートを連れて戻ってきていた。クートは肩を落とし、夜目にも憔悴しているのがわかる。かなりの難戦だったようだ。

「ラベナは街道を西の方に逃げた、火の魔法を遣う男を追っているわ。イシュルならすぐに追いつけるでしょ? ラベナを手伝ってほしいの」

 あの火球を連続して撃ってきた火精、その召還者がその男だろう。

 イシュルがふと上を見ると、ラベナの風の精霊が空中でイシュルに跪いている。

 空中でか。自分より高い所から跪かれるとは何とも変な感じだ。

「……お願い。お願いです」

 エミリアがイシュルに顔を近づけじっと見つめてきた。そして頭を下げる。

 彼女の顔にも疲れが滲みでていた。

「この貸しはでかいからな」

 イシュルは笑顔でも怒る風でもなくかるく顎を上げて言うと、捉えた男たちの方に目をやった。

 彼らの頭の周りにさらに風の魔法の壁を出して、一瞬、激しく震動させる。脳震盪を起こしたのか、男たちが気を失い倒れこんだ。

 イシュルは男たちを閉じ込めていた風の魔法の壁を消した。

 ラベナの精霊がイシュルの腕に取りつくようにして寄ってくる。

 どうやら彼女のもとまで案内してくれるらしい。

「はいはい。わかったよ」

 イシュルは空へ飛び上がった。

「ありがとう」

「よろしく」

 下からエミリアたちの声が聞こえてきた。


 精霊の少女の後に従って空を飛ぶ。

 少女はからだを前傾にし右手を心持ち前へ上げ、片足を折り曲げ膝を上げて、もう片方の足はやや後方へ伸ばし、まるでバレリーナのような美しい姿で空を飛ぶ。彼女の着ている半透明のローブが風にせわしなくたなびいている。音は一切聞こえない。

 満月からやや欠けた月の光が彼女の周りで細かな粒となって踊っている。それはおそらく風の魔法の煌めきだ。

 まるでそのまんまお伽話の世界だな。

 イシュルは風の精霊を横目で見やりながら、心の中で呟いた。

 そんなイシュルは全身をやや後ろに傾け立ったまま、夜空を滑るように飛んでいる。

 精霊の飛行速度は、おそらく馬が全力で走るより少し早いくらい。イシュルにとってはたいした早さではない。彼は前方にドーム状の風の魔法の壁を浮かべ、風圧が自身に直接かからないようにしていた。

 眼下には森の間を聖都へと向かう街道が、左右に緩くうねりながら西へ伸びている。森の両側からはなだらかな山の影がいくつも折り重なって、夜空に浮き立って見えた。

 たいした間もなく、少し下の高度を飛ぶラベナの姿が見えてきた。彼女は長い木の杖に、横座りで乗って空を飛んでいた。

 イシュルは目を見開いた。

 魔法使いの帽子に黒いローブ、もし木の杖が箒だったら、そのまんまじゃないか。

 まさしくお伽話の世界だな。

 イシュルは少しだけ愉快な気分になって彼女のところまで降りてきて横に並んだ。

 ただ、優雅な感じにも見える彼女の落ち着いた様子は、こうした争闘と殺しの経験が豊富なせい、だからかもしれない。

「気持ちのいい月夜だね。ラベナ」

 でもイシュルは殺気だった台詞は使わなかった。

「ふふ、今晩は。イシュルさん。助けにきてくれたのね」

 風の精霊が彼女に寄り添う。

 ラベナには精霊がいっしょだったからか、イシュルが後ろから近づいてくるのがわかっていたようだ。

 風の精霊は彼女に何事か話すと光の粒をまき散らして夜空に消えた。

 ラベナが精霊に向けた笑顔がやさしげだった。

「ロルカから聞いたわ。みんなを助けてくれたのね。ありがとう」

 ラベナはそう言うと視線を街道の方へやった。街道を小さな影が、かなりの速度で移動しているのが見える。

 ロルカというのは彼女の契約精霊のことだろう。

 イシュルは街道を走る人影を見やりながら言った。

「泳がせているのか」

「ええ。他に仲間がいないか調べようと思って。でもその気配はないわね。この先の村まではまだ距離もあるし……」

 彼女は視線を下げたまま言った。

「やりましょう。あの男は火の魔法と疾き風の魔法を遣うの。わたしが……」

 イシュルは彼女を遮って言った。

「俺があの男の前に出て足止めする。適当なところで後ろから風の魔法を撃て。で、どう?」

 あの火精を召還して加速の魔法も使う相手なら、彼女が前面に出て戦うのは少々きついかもしれない。

「わかったわ」

 ラベナはあっさり頷いた。

「まさか、ふたりがかりとは恥知らずな、とか、後ろからやるとは卑怯なり、とか、そういうのはないな?」

「もちろんないわ。わたしたちは影の者だから」

 ラベナはこれも表情を消してこくり、と頷いた。

 これで彼女らと敵側は全員同業者、ということになるが、敵側に貴族が身分を隠さず加わっている、指揮を執っていたりすると、最後は一対一で決闘しろだの、面倒なことを言ってくる場合もある。街道を逃げるあの男は彼女らを襲ったグループの指揮者である可能性が高い。

「それじゃはじめる。速度をあげろよ」

 イシュルはラベナに声をかけると速度を上げ、男の頭上を追い越した。

 充分に距離をとって男の前に降り立つ。

 男の影が止まった。

 大柄な男だ。男の顔を横から月光が縁取る。

「……」

 イシュルは男の顔を見て僅かに目を見開いた。

 その男は今日の朝、イシュルに依頼票を読んでくれと頼んできた男だった。

「俺もついてないな。あんちゃん、あいつらの側についたのかい?」

 男が背中の大剣を抜きながら言った。朝の時よりも低い、冷たい声だ。

 口調で貴族などではないとすぐにわかる。下の下の、底の方から己の力だけで這い上がってきたような男だ。

「いや。知り合いだったからな。かるく助太刀しただけだ」

「ふん、さすがだな。イヴェダの剣」

 男は視線を鋭くイシュルを睨んでくる。

「知り合いだと? かるく助太刀? ふざけやがって」

 男はそう言うと肩を怒らし、怒声を浴びせてきた。

「俺たちは本気で殺り合ってんだよ。命かけてんだ! そんなことで首突っ込んでくるんじゃねえよ、ガキが」 

 男は何事か小声で呻くと左手をイシュルに向け、小さな火球をふたつ放ってきた。

 小さいが早い。

 火球を撃った男はその直後姿を消した。

 こいつらのやり口はわかってる。

 イシュルは自身の前に風の魔力の壁を広げた。

 男が壁にぶちあたり剣を取り落とす。先に放たれた火球の方が少し遅れて壁に当たり、魔力を吸われるようにして消えた。

「くううっ」

 男が右手首を押さえ、凄まじい形相でイシュルを睨みつけてきた。

「……おまえは何に命をかけてる?」

 イシュルは男に静かな声で聞いた。

「くっ!」

 男が何か言おうと口を開きかけた時、その顔が驚愕と苦痛に歪んだ。

 それは金か、出世か。男が答えることはなかった。

 男の背中から血飛沫があがる。

 ラベナの風の刃が男の背中を引き裂いたのだった。

 男は顔を俯け、声もなく地に沈んでいった。

  


 その後、ラベナが男の手首から赤い水晶の腕輪、火の魔法具を回収し、ふたりは街はずれの林の中にある民家に戻ってきた。

 ラベナが言うには火の魔法具は教会の“支給品”、ということだった。

 イシュルたちが戻ってきた時には家にかかっていた火も消され、敵方の死体もどこかにかたずけられていた。街の郊外の夜の静寂が辺りに舞い戻っていた。

「聞かないの?」

 エミリアはイシュルに加勢の礼を言うと、ただそれだけを聞いてきた。

 彼女らは誰と戦ったのか、なぜ戦ったのか。

「聞かない。じゃあな」

 イシュルは言葉少なに彼女らに背中を向けると、夜の空に姿を消した。

  

 


 一面、青々と繁る草地を霧が通り過ぎていく。

 目の前を微かな濃淡のある霧が流れていく。肌に湿気がまとわりつく。

 霧の流れが早い。

 もう昼も近い。すぐだ。どうせすぐに晴れる。

 イシュルは頭の下に両手を組み、草地に寝そべっていた。

 霧は陽光のあたり具合か、複雑な影を纏わせてイシュルの頭上を通り過ぎて行く。

 イシュルは霧の中に手を伸ばした。

 指先が霧にのまれていく。

 ……この霧と同じだ。

 赤帝龍と戦った時、死の淵に追い込まれた時、風の魔力が唸りうごめくあの領域と繋がることができた。

 そこは無数の光が点滅し、流れ、消え、現れていた。

 あの時以降、あの領域へどんなに「手」を伸ばしても、どれだけ魔力を引き抜いても、この目の前を流れる霧のように、あの場所の奥に何があるのか、はっきりと知覚することができなくなった。

 どんなに「手」を「目」を向けても、奥まで探ろうとしても、その先が見えない、わからない。

 あの時は死にかかっていたからか?

 だから「見えた」んだろうか?

 あの領域に行けるようになった時、はっきりと知覚できるようになった時、きっともうその時は俺は“人”ではなくなっているだろう。

 霧が薄く、晴れていく。

 イシュルはからだを起こし、目の前に広がる景観を見渡した。

 眼下にはまだ薄く靄のかかったクレンベルの街が、その周囲は山と森で覆われている。西方には聖都エストフォルがある。そして北の、山並みの向こうはアルヴァ、その遥か先にベルシュ村がある。

 イシュルの胸に一塊の痛みが姿を現す。

 リフィアは頑張っているだろうか。彼女は、幾重にも重なった苦しみを乗り越えることができたろうか。

 辺境伯領の様子はここクレンベルまで伝わってはこない。

 そして、それが故郷の村、ベルシュ村のことならなおさらだ。

 村の復興は進んでいるだろうか。

 そろそろ種まきの時期だ。今年の秋も少しでも多く、麦が穫れることを心から願わずにはいられない。

 俺の家はもう、誰か他の家族が住んでいるんだろうか。

 焼けてしまったベルシュ家の屋敷、村の中心部はどうなったろうか。

 ブリガール、そして辺境伯を討ち、けじめはつけた。

 だが、リフィアをはじめ、多くのひとを巻き込み傷つけることになった。

 それだけではない。

 家族を、親しい人を失った俺自身の痛みはどうだ。

 それはいつまで経っても消えることはない。この悲しみとは死ぬまでつき合っていかなきゃならないだろう。

 望郷の念だって消えることはない。

 でも、故郷にはいつか帰れるだろう。今はまだ、まだまだ帰れないが。

 イシュルの背後、明るくなった山頂の、左側に広がる主神殿の敷地の方から誰かが近づいてくる。

 白いトーガに太い金の縁取り。神殿長だ。

「やぁ、イシュル君。久しぶり。ここにくれば君に会えると思ったのでね」

 聖地クレンベルの主神殿の神殿長、カルノ・バルリオレがイシュルのすぐそばまで来て声をかけてきた。

「今日は。大神官さま」

 イシュルは立ち上がろうとしたが、カルノは両手でそのまま、と押し止める仕草をして、いきなりイシュルの横に座ってきた。

 気さくなひとだよな。

 イシュルは愛想笑いをつくりながら、カルノの顔を見た。

 カルノ・バルリオレは、短めのくせ毛の白髪頭に、髭を生やした五十手前くらいの男だった。

 イシュルから赤帝龍の話や森の魔女、晩年のレーネの話を聞きたいと、彼が主神殿の敷地内に住む使用人の家に部屋を借りることを許したのだった。

 カルノは気さくな人となり、温厚な性格で、イシュルも何度か神殿に招かれ彼と夕食をともにしたが、クレンベルの主神殿の神殿長である彼は大陸に五十人といない、大神官のひとりだった。ただ、クレンベルは聖地とはいえ、聖都から見れば田舎のいわば僻地である。聖堂教会内で大きな権力を持つのはエストフォルにいる十数人の大神官たちで、カルノ自身は高い身分にいるものの決して大きな力を持っているわけではなかった。

 クレンベルの大神官は主流からはずれた閑職と言えなくもない存在だった。だが、それをどう思うかは本人次第だ。そもそも大神官など、なろうと思って簡単になれる代物ではない。

「君に先日頼まれた件、すかっり忘れてしまってね」

 カルノは人懐っこい笑顔を浮かべた。

 彼は笑うと随分若く見える。

「実は聖石輸送の一行が来るのは今日か明日、出発は五日後となっている。もう下の街にも知れ渡っているだろう。わたしは何の役にも立てなかった。すまないことをした」

「いえ、とんでもないです。お気になさらず」

 カルノの忘れてしまった、という理由が本当かどうかは微妙なところだ。厳しい守秘の掟があるではないだろうか。

 ただ中央から見れば閑職でも、聖地なりに儀式も多く、面会を求めてくる者も多い。ふだんはかなり多忙な筈だ。本当に忘れてしまってもおかしくはない。カルノは嘘をついていないかもしれない。

 それにまさか、大神官の不実に文句を言うわけにもいかない。

 イシュルは愛想笑いを崩さないようにした。

 そして昨日ハンターギルドに行き、依頼票で確認したことをカルノに話した。

「そうか、それは……」

 カルノがイシュルの説明を聞き、何か言おうとした時だった。

「大神官さま!」

 後ろから少年の神官見習いの声がした。

「そろそろ聖都からの御使者が到着されます。お急ぎください」

 カルノはイシュルに、寂しそうな苦笑を向けてきた。

「どうやら、わたしが君に伝え忘れていた件らしい」

 カルノはよいしょ、と声に出しながら立ち上がり、イシュルに「すまなかったね」と再度謝罪し、神殿の方へ歩いて行った。

 ん?

 首をめぐらしカルノの後ろ姿を眺めていた、イシュルの視界の端を赤い何かが横切ったような気がした。

 なんだ?

 そこで、イシュルは山を登ってくる、たくさんの人びとの気配を感じた。

 立ち上がって、山の崖の端の方まで移動し、左下の方を覗き見るようにする。

 岩ばかりの山肌を削ってつくられた階段を、聖堂騎士団の旗を掲げた正騎士やその従者、徒歩兵、神官らが列をなして登っていた。

 幾つもの大小の旗がひるがえる中、ひときわ目立つ旗が一旒、あった。

 それは白地に金色のIの形をしたプレートが、 X字型に交わる旗だ。それは聖堂教会が聖堂騎士団とともに行動する時に用いられる旗である。元は剣か盾だったのか、何かの神具だったのか、細いふたつのプレートはそれぞれ聖堂教会と聖堂騎士団を表わし、それがたがいに支え合う、という意味があるとされている。

 山を昇る一行はみな白いマントやローブをまとい、旗や剣を押し立てて粛々と歩みを進めていた。

 微かに漂う靄の中を、陽の光をいっぱいに浴びて進む一団の金と白とが、聖地に燦然と輝く一時の栄華をもたらしていた。

 神殿の方からも、人びとがあわただしく動きはじめる気配が伝わってくる。

 ん? また赤いものが横切る感覚……。

 神殿の人びとの動きから、こちらに向かってくる新たな気配が生まれる。

 イシュルが振り向くと、草地の奥、神殿から門へと伸びる石畳の道に、真っ赤なドレスを着た少女が立っていた。

 後ろに大柄な従者を連れている。

 少女はその華やかな金髪をかるくなびかせ、イシュルの方へ向かってきた。

 従者はイシュルよりはるかに背の高い女性だった。メイド服の上に黒いコートを着ている。

 少女の着ている赤いドレスは複雑なフリルで飾られた派手なものだった。丈は膝下まで、赤茶のブーツを履いていた。

 そして均整のとれた卵型の顔に切れ長の青い美しい眸、前髪は赤いリボンで後ろにまとめられ、サイドからはぐるぐるに巻かれた長い金髪が広がって見えた。

 イシュルは呆然と、いや愕然と少女を見つめた。

 巻いてある。巻かれている。あんな凄いもの、転生してからはじめて見る。いや、生で見るのははじめてだ。

 あんな手入れができるのだから、相当な身分、いや金持ちなのは確かだろうが。

 この少女はなぜこんな所に、俺の前に現れた?

 少女はイシュルににっこりと微笑みかけると、微かに媚びを含んだ挑戦的な視線を向けてきた。

「あなたはイシュルさま」

 少女は自分にいい聞かせるように囁いた。

 そしてイシュルの前でいきなり右膝を立てて跪いた。右手が胸に当てられ頭が深く下げられる。ぐるぐるに巻かれた豊かな金髪が扇状に広がった。

 後ろに立つメイドは何の表情も見せず微動だにしない。

 少女は顔を上げた。

 イシュルをその眸でじっと見つめてくる。ガラス玉のような、さまざまな光と影が映り込む青い眸だ。

 少女は言った。

「わたくしは、ミラ・ヴィドラータ・ナ・ルクス・ディエラードと申します。聖王国ディエラード公爵家の者でございます」

 そして花のような笑みを浮かべた。

「以後、お見知りおきを。イシュルさま」 

 

 


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