【幕間】火と水と土と、太陽 2
#3 ペトラ
まだ幼さの残る瑞々しい唇が微かに開かれ、何かを囁(ささや)く。
「……」
長い睫毛が一瞬、ふるっと震えた。
朝日を浴びて輝く金髪がひと筋、美しい曲線を描く鼻筋に流れ落ちている。
閉じられた目許からは意外にも、薄く憂いを帯びた色香がそこはかとなく漂っている。
幼さに大人びた女らしさ。相反するものの繊細なバランスが少女の寝顔を象っている。
「……さい」
少女はまた何かを囁いた。
「……るさい」
また。
「うるさい! うるさいんじゃ!」
ペトラは目を瞑ったまま叫び声をあげた。金色の眉毛がぴん、と持ち上がった。
もうずっと前から彼女の耳許で、まるで呪いの呪文を唱えているかのような陰気な声音で、そして恐るべき早口でひたすら喋り続けている女がいる。
「お早うございます、ペトラさま。お早うございます、ペトラさま。そろそろお目覚めになってくださりませ。お願いでございます。お願いでございます。でないとわたくしは、わたくしは。お願いでございます。お願いでございます。そろそろお目覚めになってくださりませ。でないと」
「うるさいうるさい! いいかげんにせんか!」
ペトラは飛び起きて叫んだ。
アンティオス大公息女にして、王族でもあるペトラ・ラディスの朝は……遅い。
「ひいいいっ、お許しを。どうかどうかお許しを」
ついにペトラを起こしたメイドはベッドの脇で土下座している。そのすぐ後ろにさらにメイドがふたり、跪いている。土下座しているメイドの名はセルマと言う。
「お早うございます。ペトラさま」
後ろで跪くふたりのメイドが、ぴったり声を揃えてペトラに挨拶してきた。
ペトラが眠そうな顔をメイドたちに向ける。
「……お早う」
ぼそりと言った。
あやつめは今日はセルマを差し向けてきた。ということは今日の朝は何かあるということだ。
セルマは、ペトラを手早く起こすには最も有効な手段のひとつである。
ペトラは寝ぼけ眼でぼそりと言いながらも、心のうちではしっかりと思案をめぐらしはじめていた。
「お召しかえを」
土下座してまだ何事か謝り続けているセルマに構わず、彼女の後ろに跪くメイドが声をかけてくる。
「うむ」
ペトラは小さく頷くと、気だるそうにからだを動かす。
天蓋つきの大きなベッドから、ペトラは四つん這いになって出てきた。
ずるずると寝間着を引き摺りながらベッドの正面まで移動すると、ペトラは両手を広げた。メイドたちがさっと取りついてペトラの寝間着を脱がしはじめる。いつのまに謝罪が終わったのか、セルマも加わっている。
今日の大公女のお召し物はさりげないAラインの若草色のドレス。ペトラの白い肌と明るい金髪にお似合いの、よく映える色だ。
「うむ」
壁に置かれた全身鏡を見て、満足気に頷くペトラにセルマから手鏡が渡される。
「うむ」
左の目が少し充血している。
昨晩もあまり眠れなかったからの。
ペトラは鏡越しに自分の眸の奥をのぞき込んだ。
セルマが後ろからペトラの髪を梳る。
「あああああ、今日もペトラさまはなんて可愛らしいのでしょう! まるでお人形のようです! うううう」
ペトラの眉間に僅かに皺がよる。
たまには違うことが言えんのか。
「妾としては一日でも早く、そなたらから可愛い、ではなく美しい、と言われるようになりたいものじゃ」
「おおおお、お許しください。お許しください。ペトラさまは美しいです。美しいですうううう」
セルマが手を止めてまた喚きだす。
残るふたりのメイドはペトラの前に屈んで、パンプスに似た形をしたキャメル色の靴を履かせている。明らかに異常なセルマの言動に何の反応も示さない。つまりこれはいつものことなのだ。セルマはこれが常態なのだった。
コンコン。
そこでまるで見計らったようにペトラの寝室の扉が鳴った。
ペトラが左手を上げるとセルマの呻きがぴたっと止まる。
「入れ」
扉が開かれメイド頭のクリスチナが姿を現した。
「お早うございます。ペトラさま」
彼女はペトラにお辞儀をすると言った。
「ヘンリクさまが朝食をごいっしょに、との仰せでございます」
ふむ。来たか。
昨晩夕食をともにした上での、久しぶりの父との朝食。
マーヤからフゴへ無事到着したことを知らせる第一報がつい先日、ペトラや大公の許へ届いたが、イシュルたちがフロンテーラを発ってそろそろひと月近く、つまり彼らがフゴへ到着してからも七、八日ほど経っていることになる。
もうそろそろ赤帝龍討伐の結果を知らせる一報が届いてもおかしくはないのだ。
ただ待つことしかできないこの身の辛さには、堪え難いものがある……。
「わかった」
ペトラは視線を鋭く、クリスチナに頷いた。
クリスチナに後ろについて宮殿を大公の居室のある方へ向かう。大公城の中央部にあるアンティオス宮殿は二階建てで東西に長く、中央の大広間を中心に西側が公務と賓客用の施設、東側が大公家の居住施設に割り当てられている。
ペトラの居室を抜け、宮殿の東側に固まっている月の間、薔薇の間、水神の間と部屋を抜けていく。
ペトラは前を行くクリスチナの背に向かって言った。
「クリスチナ。そなた、セルマに少しきつく言い過ぎなのではないか」
あの異様な有様は以前からのものだが、ここ最近、さらに酷くなっているような気がする。
クリスチナは立ち止まり、ペトラにからだを向け正対すると、両手を伸ばしからだの前で合わせ、かるく頭を下げて言った。
「あれは本人が好きでやっているのでございます。わたくしめはあの者に一切、小言さえも申しておりません」
ペトラは少し鼻白んだ顔をした。
そしてかるくため息をつく。
そうなら、近いうちに妾から直接言わねばならぬな……。
月、薔薇、水神の間を抜けると、詩歌と音曲の、美と快楽の神エリューカの名をとった美神の間に至る。その奥は大公の間へと続き、ヘンリクの居室になっている。
美神の間は、緑の山野に戯れる精霊たち、美神にとっておきの詩歌を披露する伝説の吟遊詩人、咲き乱れる花々などの壁画に覆われた、それほど広くはないが大公宮殿の中でも指折りの美麗な部屋である。
ペトラたちがその部屋に入って行くと、ヘンリクがすでに、部屋の中央にしつらえられた白い大理石のテーブルに着席していた。
さほど大きくないテーブルには、明るいベージュの敷布に銀製の水差しやスープ入れ、パンや果物が漏られた皿などがところ狭しと置かれ、こぼれ落ちんばかりになっていた。
大公の横では男の使用人がワゴンの上でお茶をいれはじめている。
ヘンリクはペトラが部屋に入ってくると、椅子から立って彼女の前まで来、彼女の手をとった。
「お早う、ペトラ。今日のそのすばらしいドレス、わたしのために着てくれたのかな?」
「お早う、父上。もちろん、父上のために着たわけではないが」
「おお、ペトラ。朝からなんて哀しいことを!」
ヘンリクはペトラを朝の豪勢な食卓の方へ誘いながら嘆いてみせる。
ペトラはちらっと父の顔を見上げた。
なぜいつもいつも、わざとらしく大仰な振る舞いをしてくるのか。
ほんとに鬱陶しい……。
ペトラは父親の些細な愛情表現にも過敏に反応し、うんざりしてしまう年頃である。
ヘンリクは大事そうに椅子を引きペトラを座らせると、テーブルの反対側に座った。
「ペトラも難しい年頃になってしまったね。ひとり娘にいつも邪険にされてお父さんはとても、とても哀しいよ……」
「で、父上。妾に朝からお話とは、クシムの方で何か動きがあったのでは」
ペトラは父の嘆きを無視してお茶にひと口つけ、目も合わせずに言った。
「ね、ペトラ。おまえとの朝食もひさしぶりなんだ。もうすこしお父さんとおしゃべりをしよう。何でもいいんだよ? 最近あった楽しいこと、哀しいこと、お父さんにお話しておくれ。それとも何か欲しいもの、してほしいことはないかな?」
ヘンリクは言いながら、部屋の端に控えるクリスチナと男の使用人に目配せした。
クリスチナらが無言でお辞儀をして部屋を出ていく。美神の間は父娘ふたりきりになった。そろそろ日が東から南にまわる頃合か、南側にある窓から冬の陽射しが鋭角に差し込んでくる。
「父上は何を言っておる。朝食をとったのはひさしぶりじゃが、昨日の夕食はともにしたではないか」
ペトラは大きな青い眸で、父を睨み据えて言った。
「欲しいものならある。してほしいことならある」
部屋を出て行くクリスチナたちにはなんの注意も向けない。
「それは何かな? ペトラ」
横から陽に照らされたヘンリクの顔に意味ありげな笑顔が浮かぶ。
ペトラは俯いて、目の前のスープに銀の匙をさした。
「そんなことはわかっていようが」
ヘンリクはテーブルから両肘を浮かせ僅かに背伸びするように上半身を起こした。
「昨日、アイラと、ピエルカの一番弟子がバーリクに到着した」
ペトラが顔をあげた。
ヘンリクの娘に向けた笑顔が変わっていく。
「午後にはふたりともお城に着くだろう。アイラには、おまえのところに直行するように伝えておいたよ」
いつもの笑顔と違う、ヘンリクが誰にでも見せるわけではない、自然な彼の笑顔だ。
彼は手の者を、バーリクでアイラに接触させたのだろう。
陽の光が彼の笑顔の間を揺らめく。
「クシムのことはまだわからないんだ。もう少し我慢しなさい」
ペトラは特に用事がなければほとんど毎日、王国史や古典音読、魔法や礼儀作法などの勉学を課せられていたが、その日は大公のはからいでお休みになった。当日午後にアイラとの面会が予想されたからである。ちなみに彼女の教育は、彼女が十五歳になり成人するまで続けられることになっていた。
ペトラは自分の居室で、長椅子にからだを横たえマーヤから届いた手紙を広げた。
昼過ぎ、ニナたちが到着する前にマーヤがフゴから出した第二報、早馬の方が先に大公城に到着した。ペトラには爵位持ちの大公の側近のひとりが、わざわざ「父君からでございます」と届けに来た。ヘンリクの許に、マーヤから大公本人と国王、ペトラに宛てた三通の手紙が届けられたのだった。
マーヤの手紙にはフゴ到着後の出来事、フゴに五匹の火龍が襲来してきたこと、赤帝龍討伐隊本隊の到着、ボリスら宮廷魔導師や指揮を執るリフィアとの軍議の内容、それに加えて、討伐隊本隊を率いるリフィア・ベームが、赤帝龍との戦闘において幾つか気になる策を弄していること、リフィアが武神の魔法具を持つブレンダ・ルブレクトを使って、赤帝龍に対し物見を出したこと、その結果判明した赤帝龍の様子、それからイシュルがリフィアの作戦を解説し、推理した時の話が書かれてあった。
そして、アルヴァの主(ぬし)に王家から鉄槌を下す必要があるとして、フゴにおいてイシュルがおそらく辺境伯の手の者によって襲われたこと、以前に道中のルドル村でも彼が襲撃されたことが記されていた。
「辺境伯がの」
マーヤの手紙の文面からは彼女の怒りがひしひしと伝わってきた。
ルドル村でイシュルを襲撃した者は荒神の魔法具を使ってきたという。
辺境伯は闇の魔法具も持っておるのか。
「本当かのぉ」
ペトラは小さく呟いた。
マーヤによれば、襲われた当の本人であるイシュルは怪我もせずに、その魔法具を破壊してしまった、とある。現地にいるマーヤの心中は察するにあまりあるが、イシュルのことをそれほど心配する必要はない気がする。たとえ荒神の魔法具を持つ刺客であろうと、イシュルにとってはたいした敵ではないのだ。
それに辺境伯候のことは父に任せればどうとでもなる。今、あの男は苦境に立たされている。付け入る隙はいくらでもある。
ペトラの顔に微かな笑みが浮かんだ。
辺境伯がブリガールに出した、風の魔法具探索の命令が記された書簡、かつてイシュルがマーヤに見たと言ったものだが、その写しを王宮はすでに入手しているだろう。王家や貴族の秘密文書がどういう筋に流れるか、それはペトラでも容易に想像がつく。当然父もその内容を把握しているだろう。辺境伯はイシュルに討たれる運命にあるが、もし彼が復讐しなくても、辺境伯本人にもう未来はない。
「妾ができることは父上をせっつくことくらいじゃな」
だが、それよりも、だ。
ペトラは長椅子からからだを起こし、難しい顔になった。
今まで伝説上の存在だった赤帝龍の詳細な様子、クシムでの様子が知れたのは非常に重要だ。
マーヤの手紙をわざわざ側近に届けさせた父の判断のわけは、辺境伯の件だけではない。これは重要な内容だ。赤帝龍に関する情報は国王に対する書簡にも書かれてある筈だ。
「しかしリフィア・ベームめ。評判どおり、なかなかやりおる」
ペトラはぼそっと呟いた。
油断のならない女だ。ブレンダ・ルブレクトを物見に使うとは。
ペトラにはマーヤを除いた、クシムに派遣された宮廷魔導師たちの人選が誰によって、どのような理由で決定されたかは知らされていない。それは大公か国王か、宮廷魔導師長あたりが決定したのだろうが、ブレンダが差し向けれられた理由はペトラにも幾つか、容易に思いつく。それは赤帝龍との戦闘時において、ブレンダが武神の矢を持つリフィアの控え、予備的存在となりえること、そしてリフィアの能力を、同じ武神の魔法具を持つ彼女なら、他の魔導師よりも的確に判定できるだろう、ということだ。
リフィアの持つ武神の矢が王家を離れてだいぶ時が経った。武神の矢の能力を実地に見て知る者はもう王家にも宮廷魔導師にもいない。文章で残る記録だけだ。赤帝龍との戦闘はリフィアが確実に全力を出すであろう絶好の機会でもある。ただもちろん、リフィアの能力が知れるのは、今回の赤帝龍討伐が成功した場合に限ってのことであるが。
「きゃつがもし赤帝龍討伐を成したなら」
王家と辺境伯家との政治的な云々以前に、ペトラにとって面白くない。
「つまらんな。やはり妾のイシュルが活躍せんと」
ペトラはかつてお城の練兵場で彼が見せた、圧倒的な力を思い起こした。
辺境伯の差し向ける刺客など、イシュルにとってはただの雑魚でしかない。イシュルはその魔力の大きさはもちろん、同時に複数の魔法を、それも無詠唱で器用に使いこなしたのだ。
彼の魔力はペトラの持つ王家の魔法具、ウーメオの杖、地神の錫杖の力をもかるく凌駕した。宮廷魔導師たちのごく一部には、ペトラの持つウーメオの杖を地神の魔法具、つまり神の魔法具ではないかと考える者もいたが、それは明確に否定されることとなった。
本来ならそれはペトラに屈辱か、あるいは挫折感や喪失感を与えたかもしれなかったが、彼女自身はそんなことはまったく、毛ほどにも感じなかった。
イシュルが彼女に見せた小さな魔法、紅い楓の葉の記憶。
あのことが、ぺトラに決定的な何かをもたらした。
マーヤの手紙によれば、イシュルは、リフィアがクシムの山頂に掘ろうとしている防御用の壕を“塹壕”と言ったのだという。それにイシュルがクシムに向かった日に言った言葉、“威力偵察”。
確かに彼の知識、いや見識にはあのレーネやベルシュ家と関係があるのか、恐るべきものがある。それと彼が時折見せた風変わりな洗練された仕草、歳に似合わない大人びた言動。
そして、彼が王家の剣の継承者であること。
だがそれらのことよりも、何よりも、彼が見せてくれたあの紅い魔法、そこに込められたやさしさの方がペトラにとっては重大事だった。
厳しい表情をしていたペトラの顔から、険がとれていく。
彼女の頬に朱が差し、その唇が微かに開かれる。
彼女の眸がどこか遠くを見つめ、彷徨いゆらめく。心が甘いもので満たされていった。
「イシュルは大精霊を召還したのか」
「はっ」
「やつはフゴで五匹の火龍をあっという間に葬ったのか」
「はっ」
「ルドル村でイシュルを襲ってきた刺客は荒神の魔法具を使ったのは本当か」
「それは。マーヤ殿とイシュル殿のふたりで話されたこと故、わたくしには……」
「ふーむ」
ペトラはさきほどの長椅子に座ったまま、脇にマーヤの手紙を置いて、大公城に帰還したアイラ・マリドの報告を受けていた。いや、ほとんどペトラの一方的な質問、尋問であった。
アイラはペトラの前で跪いている。ペトラはアイラにも椅子に座るよう勧めたが、彼女は固辞した。
「それで、イシュルと二十日あまりもともに過ごして、そなたはどう感じた? かの男を」
ペトラは最も聞きたかったことのひとつをアイラに訪ねた。
「……イシュル殿は歳に似合わず、なかなか手堅い御仁です」
アイラの見たイシュルは、真面目で手堅い、あのイヴェダの剣を持ちながら奢り昂ることがない。マーヤやニナに対して身分の違いに臆せず接し、彼女らにもよく気を配っていた、年長者である自分も随分と助けられた、というものだった。
そして彼女は最後にこうつけ加えた。
「わたくしではすべてはわかりませんが、イシュル殿は魔法に関する独自の探究心も持っているようです。かの少年の使う未知の魔法は、イヴェダの剣の力によるものだけではないでしょう。おそらく過去にあのような魔法使いはいなかったのではないかと」
堅物のアイラらしいイシュルの見立てだった。
だがイシュルの使う魔法に関しての彼女の見方にはある意味、ニナが大公に話したこととても酷似している部分があった。
アイラの言にペトラは満足げに、大きく何度も頷いた。
あれは天才だからの。
だからか知らんが、イシュルは仕官はもちろん、栄爵などに関心がないのと同様、ひとの身分の違いにも頓着しない。あの男は妾に対してさえまるで知り合いか、そう、友人のように接してきた。最後にはその友達そのものになってくれると言ってきた。
今まで、あのような者は妾のまわりに誰ひとりとしていなかった。
そしてあやつが赤帝龍に勝てば……。
「それで、イシュルは赤帝龍に勝てそうかの? そなたの見立てではどうじゃ?」
「それはさすがに……、わたくしでは何とも」
アイラは頭を下げ言葉を濁した。
ペトラのアイラを見つめる視線が鋭いものになった。
こやつはイシュルが危うい、と考えている……。
ペトラの不安はフゴからもたらされたマーヤの報せ、帰還したアイラを引見したことにより、かえって大きなものになった。
翌日の晩。
ペトラは寝室でひとり、部屋の真ん中に立ってウーメオの杖、地神の錫杖を捧げ持った。
「出(いで)よ、ウルオミラ」
ペトラにも契約精霊がいる。
窓からは、満月から欠けはじめた月の光がうっすらと射し込んでいる。辺りは静かだ。今の時刻、宮殿で動く者はいない。
彼女は自身の契約精霊をひっそりと呼び出した。
ペトラの目の前を白い光の筋が一閃すると、それが左右に開きひとの形になっていく。
「なんじゃ、ペトラか。久しぶりじゃの」
ペトラの前に、地の精霊が現れた。
強力な魔力の煌めきもない、屋内とはいえ風も吹かず地も揺れず、静かな登場だった。
ウルオミラはゆったりとしたローブにペトラと同じほどの背丈、長い髪、大きな眸の可愛らしい、女の子どもの精霊だった。白く輝く眸と唇に、どこか悪戯好きそうな、子どもらしい表情が滲み出ている。
今は月の光しかない。ペトラは一瞬、鏡を見ているような錯覚にとらわれた。
彼女の契約精霊は、ペトラと瓜二つの姿をしていた。
「うむ。ひさしぶりじゃ、ウルオミラ」
ペトラはむすっとした顔で言った。
ヘンリクが妻に貸し与えていた王家の魔法具、地神の錫杖を娘のペトラが相続したのは彼女がまだ王宮にいた頃、十歳の時だった。ペトラはその魔法具で修行をはじめるとすぐに精霊を召還し、契約した。
ウルオミラは当時のペトラには歳の近いお姉さん、に見えた。乳姉妹であるマーヤも魔法の修行をはじめ、彼女とも会えない日が多くなり、孤独を囲っていたペトラはその精霊を気に入り、ウルオミラも了承したので彼女を自身の契約精霊と成した。
ペトラに魔法を教えていた土の宮廷魔導師や魔導師長、ヘンリクもいきなりのことでびっくりしたが、彼女が己の契約精霊を彼らにお披露目すると、なぜか皆瞠目し、納得してペトラのことを褒めそやした。
宮廷魔導師長らは彼女の契約精霊は大精霊ではないかと言っていたが、当時のペトラにはわからなかった。
その後、ウルオミラはペトラの良い話相手になった。ウルオミラは自身が地神ウーメオの若い頃、愛妾であったと非常に胡散臭い自己紹介をし、いつもどこまで本当か嘘か、判断に迷うようなことばかり言っていたが、ペトラにとっては彼女の胡散臭さも皮肉屋なところも、とても新鮮で面白く感じて気にもとめなかった。彼女にとってウルオミラは、ある時は彼女専属の道化師であり、ある時は彼女の悪友であり、ある時は姉代わりでもあった。そしてウルオミラは見かけによらずとても古い精霊なのか、いつも妾は何々じゃ、などと年寄りのようなおかしな口ぶりで話し、ペトラにもその彼女の口調が移ってしまった。
だが、ペトラの契約精霊は、かつて地神ウーメオの愛妾だったという割にはその魔力も使う魔法も平凡で、とても大精霊とは思われなかった。また、ペトラの命令を聞かないことも多かった。最初の頃はペトラも自分がまだ子どもで魔法の知識が足りない、修行が足りないせいでウルオミラが本気を出さない、言うことを聞いてくれないのだ、と思っていたのだが、ペトラが成長し、呪文を憶え、魔法の知識を広げていっても、それは変わらなかった。
ある時、ペトラはウルオミラに、そなたは大言壮語で実力がともなわぬではないかと、半ば詰りながらそことを問いただした。
ウルオミラは、「このところずっとウーメオさまのお加減がおもわしくない、ウーメオさまから他の精霊よりより多くの恩寵を受けている妾も、なかなか本気を出すことができないんじゃ」と、答えた。
ペトラはそれを信じられなかった。
そのあたりから、ふたりの関係がなんとなくぎこちないものになっていった。
ペトラはもとより王族であり、実戦で魔法を使うこともなく、精霊を無理に呼び出す必要もない。王国、しいては王家の政情も安定している。ペトラには常に護衛の者が付くし、毒見をする専門の者もいる。
ペトラが王都からフロンテーラに移って来る頃には、ウルオミラを呼び出すことも滅多になくなっていた。
「すっかり疎遠になていたというに、此度はいかがしたかの」
ウルオミラもどこか不機嫌な面持ちで皮肉を言ってくる。
「今日はほかでもない。そなたにどうしても頼みたいことがあるんじゃ」
だが、ペトラはウルオミラの物言いも一切気にかけず、真剣な顔つきになって言った。
ウルオミラに不満な顔を見せてもどうにもなるものではない。そんな状況ではない。
もうこの目の前の精霊に頼るしかないのだ。彼女をもう一度信じてみよう。それしかない。
ウルオミラは何と言っても土の精霊なのだから。
アイラが帰城してから二日、まだフゴから知らせが来ない。
イシュルが赤帝龍に勝ったのなら、ここフロンテーラへも早々に知らせが届く筈だ。それが遅れているのは、現地がまずい状況になっているからではないのか。
イシュルの身が心配でたまらん。これ以上は身がもたない。
その日の夕食時、ペトラは矢も盾もたまらず父のヘンリクに申し出て、普段は宮殿の某所に安置されている自身の魔法具を手にし、久しぶりに自らの契約精霊を呼び出すことにした。ウルオミラは地の精霊である。彼女が周りの者が言ったような高位の精霊なら、遠く離れたクシムの地の状況もわかるのではないか。フロンテーラからクシムまでは遠すぎて、とても精霊を遣わすわけにはいかない。だが当然、フロンテーラとクシムは大地を通して繋がっている。ペトラにも彼女の魔法具にも、大地の、地中の様子をそこまで詳しく遠く知る能力はない。
もう、ウルオミラに縋るしかないのだ。
ペトラは赤帝龍のこと、クシムの状況をウルオミラに話した。そしてイシュルのことを。
ペトラとウルオミラが向かいあって話す様は、まるでどちらかが鏡の中にいるかのような、不思議な光景だった。
「子どもだったペトラがもう年頃になったかえ。人の世の時の流れは早いものじゃ」
ペトラがイシュルのことを話すと、ウルオミラはそう言って小さくため息をついてみせた。
彼女の白い半透明の眸が寝室の窓の方へ向けられる。
「妾は……」
また皮肉を言ってきたのかとペトラが何か言い返そうとすると、ウルオミラが鋭い声で遮った。
「そこの女。出て来やれ。姿を見せい」
ウルオミラは一番奥の窓を睨んでいた。
ペトラはそこへちらっと目をやると、幾分肩を落として声をかけた。
「構わぬ。わが精霊の言う通りにせい」
ペトラがそう言うと窓の奥の壁が揺らぎ、斜めに横切る月明かりと影が渦を巻きはじめた。そしてその渦が黒い人影になった。メイド服に剣帯、両手に小さな黒い手甲をつけた、セルマの姿が現れた。
セルマは姿を現すとその場でペトラに向かって跪いた。
日中、ペトラの世話をしていたメイドのセルマは隠し身の魔法具を持つ、彼女を護衛する影働きの者だった。
「あの者は邪魔じゃ。妾はペトラとふたりきりで話したい」
ペトラがかるく顎をしゃくるとセルマは無言で頭を下げ、また姿を消した。彼女のいた側の窓がひとりでに開き、閉じられる。朝に見せた彼女の狂態はいったい何だったのか、とても同じ人物だとは思えなかった。
ペトラがウルオミラに目を向けると、彼女は笑顔になって言った。
「あの生意気な赤い火龍と、風神の魔法具を持つ者のことは妾もすでに存じておる。クシムと言うたかの? その地をわざわざ探る必要はない」
「そなたはもう知っておるのか! どうなった? イシュルは勝ったか?」
ペトラが思わず前のめりになって問いただすと、ウルオミラは笑顔を消し、無表情になった。いや、今までペトラが見た事もない、冷たい恐い顔つきになった。
「ペトラには何も話すことはできぬ」
ウルオミラはただそれだけしか言わなかった。
「ど、どういうことじゃ。なぜ話せぬ」
妾だからか。
ウルオミラの言うことを疑い、彼女を疎遠にしたのはペトラの方からなのだ。
「理由も言えぬ。どう言われようがこればかりは誰にも話せぬ」
ウルオミラの返答は変わらない。
「……」
ペトラは呆然となった。頭の中が真っ白になった。
妾はここまでウルオミラに嫌われてしまったのか。
契約精霊とはそれこそ、一生ともにつきあっていくような存在なのだ。
何も考えられなくなった時、あの光景が蘇ってきた。
風に紅い楓の葉が舞う。それが掌に落ちて来た。美しい繊細な魔力を感じて、ふとあの男の顔を見た。
イシュルは笑っていた。
ペトラは膝を折り、腰を下げた。
ウルオミラに向かって跪いた。両手を床につけて頭(こうべ)を垂れた。
ラディス王家の一族である彼女がこうまでして跪く相手など、この世にいったいどれほどいるだろうか。
あの男のためなら何だってできる。
「このとおりじゃ、ウルオミラ。どうか妾に教えてたもれ」
ペトラは顔を真下にくぐもった声で、絞り出すようにして言った。
イシュルはいわば玉だ。彼を掌中におさめれば、父も自分もこれから先、国王が死に伯父や王女らと血みどろの継承争いを繰り広げることになっても、聖王国や連合王国が攻めてこようとも、何ら恐れることはない。
だが、それだけではない。
違う、違うんじゃ。
彼女は額を床につけながら、大声で叫びたかった。父に、王国中に、そしてイシュルに。
自らの心の中にあるこの想いを。
その時上から声がした。
「すまんの。ペトラ。それでもそなたに話すことはできんのじゃ」
ペトラの肩がつかまれ引き起こされた。ウルオミラの手だ。それは実体がない筈なのに、ひとの手のような暖かみがあった。
「そのイシュルとやらは風神の魔法具を持つ者じゃ。妾は神々のおわす世界に住んでおる。ことが神々に及ぶような話は人間にはできんのじゃ。そう考えておさめてくれんじゃろうか」
ウルオミラがさきほど浮かべてきた笑顔で言った。
ペトラの眼が大きく見開れた。ウルオミラがおそらくはじめて見せる、いや、はっきりとわかる、感じ取れる彼女の真摯な態度。
ウルオミラはその言動だけでなく、ペトラが感じとる彼女の心も、今までは陽気だが皮肉であやふやなものばかりだったのだ。
自分だけが悪いわけではないだろう。だが精霊だっていろんな性格の者がいる。ウルオミラはただ本心を吐露するのが苦手か嫌だっただけで、自分の方で勝手に彼女のことを信用できぬ、と決めつけてしまっていたのではないか。
妾とて、本心をいつも糊塗し隠していかなければならぬ身なのだ。
ウルオミラは、それこそ鏡の中の自分のような存在なのかもしれない。
微かに頷いてみせたペトラに、ウルオミラもひとつ頷き、
「いつか、いや近いうちに、あの魔法具の持ち主を妾と会わせてくれんかの。かの者に相談したいことがあるんじゃ」
と言った。そして、
「かの者なら、ウーメオさまのことも何とかできるかもしれん。これは秘密じゃぞ、そなたとかの者以外、誰にもこのことを話してはならん」
と、さらに笑顔を深く、悪戯っぽい笑みを浮かべてつけ加えてきた。
ウルオミラはなんと、人間には話せぬと言った神々のこと、地の神にかかわる話を自ら口にしてきた。
だが、今のペトラにとって問題はそこではない。
「……それは」
愕然とするペトラに、ウルオミラは構わず短く別れの言葉を言った。
「それではの。また呼んでおくれ」
そしてすーっと背後の壁に溶けるようにして、音もなく消え去った。
それは、それは。
ペトラの眸から涙が流れおちた。
「うう、うう……」
ペトラは跪いたまま、ひっそりと泣き続けた。
ウルオミラは結局、イシュルの無事をペトラに教えてくれたのだった。
翌日の朝、いつものごとくペトラは惰眠を貪っていた。
なにか、近くで物音がする。ひとの声だ。
ペトラの眉が微かに上がる。
なんじゃ、今日も騒がしい……。
セルマではないな。
……ん? とすると。
ペトラの意識が覚醒に向かう。
男の低い声がする。
「どういうことじゃ!」
ペトラが跳ねるようにしてからだを起こすと、目の前にヘンリクの顔があった。
周囲ではメイドばかりか、頭のクリスチナまで騒ぎ慌てている。
「ん〜、お父さん、ペトラの麗しい寝顔が見れて、最高」
ヘンリクがこれ以上はない、という崩れまくった笑顔で言った。
「お早う。ペトラ」
「なな、なんじゃ。なぜ父上が妾の臥所に」
「ふふ」
驚くペトラにヘンリクがしてやったり、といった顔をした。
父娘の間には、周りで騒ぐ使用人たちの声も届かないようだ。
いきなり年頃の娘の寝室にまで入り込む、常時なら彼のやったことは貴族、それも王家の者としては少々型破りなことだ。だが、今回ばかりはそれも許されるだろう。
「マーヤから早馬が来た。勝ったよ、イシュルが。赤帝龍に」
「……」
ペトラの頬が緩む。
「お早う、父上。じゃが妾はそんなこと、もう知っておるわ」
今度は娘が父に、してやったり、という顔をしてみせた。
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