【幕間】火と水と土と、太陽 1



#1 マーヤ


 マーヤは窓に目をやった。

 外は薄曇り。僅かながら陽射しもあって、屋内から見るととても明るく見える。下の方にはフゴの街並が霞んで見える。

 窓外をぼんやり見つめる彼女の顔は相変わらず無表情で、いつもと何ら変わらないように見える。だが、彼女の心のうちは激しい不安と焦燥、苦しみに揺れていた。

 ずっと悪天候が続いていたフゴの天候が回復した。それは赤帝龍が討伐された、赤帝龍に何かあった証ではないかとも思われるのだが、安易な楽観は許されない。

 むしろ最悪の事態も心しておかなければ、本当にそうなった時、わたしの心がもちそうにない……。

 渦巻く土煙にあっという間に飲み込まれた傭兵たちの隊列。

 マーヤの眸が僅かにすぼめられ、唇が歪む。

 彼女の心も大きな渦に飲み込まれ沈みそうになった時、こんこんと、扉がノックされる音が鳴った。

「お茶をいれてまいりました。エーレンさま」

 フゴの村長家、ブロル家の使用人が、ティーセットを載せた古めかしいワゴンを押してマーヤの滞在している客間に入ってきた。

「ありがとう」

 マーヤは椅子に座り、テーブルの上に少し大きめの巻紙を広げていた。

 それはフロンテーラから転送されてきた、マーヤの次兄からの手紙だった。

 マーヤは巻紙を広げたまま片づけようともせず、ワゴンの上でお茶をカップに注ぎはじめたメイドの手許を見つめた。

 マーヤの次兄、エーレン伯爵家の次男ネイデクトは王家の騎士団に所属し、王国の西北、連合王国との国境地帯に数多く存在する城の一城、その副将に任ぜられていた。

 兄の手紙には、時候の挨拶、妹の健康を祈る言葉とともに、連合王国側の動きがここ最近活発になってきている、注意が必要だ、と記されていた。

 東で赤帝龍ときたら、今度は西で連合王国か。

 マーヤは兄の手紙に目を通すと、ここ数日ずっと心のうちを揺れ動く苦悩と焦燥をいなしながら、そうひとりごちた。いつものごとく口には出さずに。

 大陸のやや西より、中央部にL字型に存在するブテクタス山塊、単に中央山塊とも呼ばれる——は、その北の端を、大陸北部を覆う湖沼地帯と大森林の手前で、完全な平野部となって終わる。

 南のブテクタス山塊と北の湖沼地帯に挟まれた僅かな平野部、そのいわば狭隘地でラディス王国と連合王国が長年、激突を繰り返してきた。

 連合王国とは、ブテクタス山塊を挟んで王国とは反対側、大陸の西側に南北に広がる小国家群を指していう。その小国家群をまとめていたアウノーラ帝国は数百年以上も前に実権を失い滅び去り、その後は小国どうしが相争う、実質上の内戦状態となった。

 国々は互いに合従連衡を繰り返し、小競り合い、時に戦争を繰り返していたが、五十〜百年に一度ほどの割合で、その地をまとめあげる英雄、勢力や国家が現れ、内戦状態が小康を得るときまって、彼らにとって最も外征しやすいラディス王国西北部に兵力を集中し、王国に向かって侵攻してきた。

 それもここ二百年近くの間は、ラディス王国の西北、連合王国方面の国境は安定していた。それは当時、ラディス王国に激しい攻撃をしかけてきた連合王国を、圧倒的な戦闘力で撃退しつづけたイヴェダの剣、森の魔女レーネの活躍に負うところが大きい。彼女が中心となって連合王国の戦力を国境の西側に押し戻している間に、ラディス王国はブテクタス山塊の北の端、北ブテクタス山脈の山稜から平野部にかけて次々と互いに連繋する複数の城塞を築き、連合王国との国境線を難攻不落の要塞地帯と化した。

 現在も王国の国境線にある城塞群には、近隣諸候の兵力も加えれば常時二万近くの兵力が集中され、連合王国の侵攻を完全に防ぎ、王国西北の国境地帯では平穏な状態が続いている。

 マーヤの兄ネイデクトからの書簡には、今回の連合王国の動きにはここ二百年には見られなかった勢いがある、ということが書かれていた。

 もし連合王国が我が王国の城塞群を突破してきたとしても……。

 マーヤはまた声には出さず呟いた。

 イシュルがいれば何の問題もない。

 イシュル……。

 連合王国をめぐる思索に束の間の平穏を保っていたマーヤの心が、彼の名を口にしたことでまた波風を立てはじめる。

「どうぞ」

 マーヤが苦しそうな吐息を漏らしそうになったとき、使用人がお茶をマーヤに差し出してきた。

 見慣れた取っ手のない、素朴な田舎臭い器に赤茶の液体が微かに湯気を上げている。

 マーヤはテーブルの上に広げていた兄の手紙を片づけた。

「どなたからのお手紙ですか。立派な巻紙です」

 使用人が声をかけてくる。彼女はまだ歳が若く、マーヤと同じか少し上くらい、マーヤが村長宅に滞在するようになってから、マーヤ専属のメイドのようになって彼女が主にマーヤの世話をするようになっていた。

「兄からの手紙がフロンテーラから転送されてきた」

 マーヤがいつもの無表情で答える。

「そうですか。エーレンさまのお兄さまから……」

 使用人の女は遠くを見るような目つきをした。

 そしてマーヤに視線を落とし、

「夕方になりましたらお茶をかたずけにまいります」

 マーヤに微笑みながら言った。

 使用人の名前はファンニ。マーヤは部屋を出ていく彼女の背中をじっと見つめた。



 ひとりになったマーヤはまた窓の方に目をやった。

 少しくすみのある小さな窓ガラスに、あの時の映像が映し出されていく。

 巨大な土煙に飲まれていく別働隊の後ろ姿、あの光景が目に焼きついて離れない。あの瞬間、百名あまりの命があっという間もなく消え去った。

 そのすべてがわたしのせいではないかもしれない。

 イシュルだって気にかけて励ましてくれた。

 でも、心の底をうねるように存在し続ける重い苦しみは消えてくれない。

 ここ数日、マーヤはこの苦しみに堪えきれなくなるといつも、あの時自分をしっかり抱きかかえて空高く跳躍した、イシュルのことを思い出すことにしている。あの時のイシュルの両腕から伝わってきた確かな何か、力強さと温もり……。

 マーヤは目の前に漂うお茶の香りの中に、しばし瞑目した。

 あの日、山崩れから逃れた後、イシュルに無理矢理フゴに帰らされたマーヤは、大精霊カルリルトス・アルルツァリに抱きかかえられて空を飛び、フゴのハンターギルド前の広場に降ろされた。

 カルリルトスはマーヤに無言で微笑んでみせると、かるくすっと浮き上がり背を向けた。背を向けたと思った瞬間には、大精霊の半透明に輝く姿は空遠く、雲間に光る小さな点となっていた。その光は辺りを覆う霧を通しても曇ることがなかった。霧の中なのにはっきりと見えたのは、その光がおそらく、カルリルトスが全力で空を飛ぶことによって放たれた、魔力の煌めきだからなのかもしれなかった。

 霧の中、大精霊の姿が完全に消えるとマーヤは地べたに座り込んだ。とても立っていられなかった。

 あの山崩れはきっと、赤帝龍が暴れたからだ。

 わたしのせいだ。

 別働隊の進路を決定したのはわたしなのだ。巨大な赤帝龍が暴れれば、山のひとつやふたつ、崩れてもおかしくはない。そして雨天続きの天候にはげ山の多い地形。

 進路の選定にはより慎重を期すべきだった……。

 広場でしばらく踞っていたマーヤは、やがて何かに気づいたように立ち上がると、魔法の杖をかかげて呪文を唱えはじめた。

 少しでも力になりたい。イシュルを助けたい。

「火精の杖よ。汝(な)がはらがらたる炎の龍を我が前に現したまえ。出(いで)よ、ベスコルティーノ!」

 マーヤのかかげた杖の先から炎が走り出る。炎は空中で大きく渦を巻き、それはやがて龍の形になった。マーヤに火の精から魔力の混じった熱気が伝わってくる。

 ……。

 ベスコルティーノは機嫌が悪そうだ。いや、何かに怯えている。

「クシムに行ってイシュルを手伝って」

 マーヤは構わず火精に命令した。

「イシュル? おまえといっしょにいた、あの魔法具を持った小僧のことか?」

「そう」

「いやだね。クシムってバルヘルさまの……、いや何でもねぇ。あの馬鹿でかい火龍が居座ってたところだろ?」

「バルヘル?」

「いや、何でもねぇ。とにかくおれは行かねぇからな。あんなところに行ったらあっという間に死んじまう」

 ベスコルティーノは炎でできた顎から、さらに炎を滴らせた。

「死ぬ?」

 精霊が死ぬって……。

 マーヤが疑問を口にすると、ベスコルティーノは全身をぶるっと震わせた。

 火の粉がマーヤのところまで舞ってくる。

「おれらの世界でもおれ自身が完全に消え去ってしまう、ってことだ」

「そう……」 

 マーヤは火の精をじっと見上げた。

 なぜだかわからないが、いや、精霊が完全に消滅するというのなら、そこには神々の力が働いている、ということになるのだろうか。

 ベスコルティーノの怯えはそのせいだろう。イシュルと赤帝龍はそういう戦いをしている。

「なら、近くまで行って、イシュルと赤帝龍の戦いを見てきて」

「バカなこと言うなよ。絶対いやだね。たとえおまえの頼みでもきけねぇ」

 ベスコルティーノは全身を震わせ続けながら、今度は下に小さな炎をぽとぽとと垂らしはじめた。

 マーヤにはそれが火精の流す涙のように見えた。

 いつもなら、まかせとけ! などと勇んでなりふりかまわず突っ込んでいくのに、今のベスコルティーノの怯えようは異常だった。

「ああっ」

「!!」

 そこでクシムの方から異様な魔力が広がってきた。

 これは……。火の魔法?

「ああっ、やばい」

 ベスコルティーノが火でできたからだを悶えるように歪める。

 霧の中、クシムの方で黄色く光る壁のようなものが立ち上った。

 フゴからクシムまでは徒歩で一日半ほどだ。天気が良ければ遠くクシム周辺の山並みも見えるのだが、今はもちろん見えない。あの空高くそびえる黄色の壁、いや炎の壁はその手前、もっとフゴに近い場所で立ち上がっているようにみえる。

「おい、マーヤ。もういいかな。あそこはおれなんかじゃとても近寄れない。おれはもう帰るぜ」

「待って。あの火の壁はなに?」

「知らねぇよ。おれは何にも知らない」

 マーヤは空に浮かぶベスコルティーノを見つめた。

 ベスコルティーノの怯えは本物だが、彼は何かを隠しているようだ。

 そこへ今度は空から何かが落ちて来る感覚。

 何かの衝撃のようなものが辺りを通り過ぎると、炎の壁が消滅した。そして空一面を覆っていた霧がかなりの速度でクシムからフゴへ、その外側へと流れ、薄れはじめた。

「ああ、だめだ。もうだめ」

 ベスコルティーノは独り言のように小さく呻くと姿を消した。通常はマーヤの杖を経由して精霊界の方へ帰っていくのだが、火龍に破れたり、自身の魔力を使いつくして消えていくのと同じパターンで、その場で空中に溶けるようにして姿を消していった。

 ベスコルティーノは面白い子だけど、ちょっと役立たず……。

 マーヤはまた声には出さずに心の中で呟くと、ひと言だけ、小さく声に出して言った。

「風……」

 何か巨大な火の魔法と風の魔法が使われた。風の魔法はイシュルの使う魔法と似ている感じもあるが少し違う。

 マーヤは霧が急速に晴れ、うっすらと姿を現したクシムの山並みを見つめた。

 マーヤが視線を向けるとすぐ、山と山の間から灰色の煙があがった。霧は晴れたが空はまだ曇っている。灰色の煙は上の方へあがるとすぐに空の色に混じって消えた。

 立ちのぼった煙が空に消えるころ、微かにゴォーっという、爆発音のような低い音の響きが聞こえてきた。

 マーヤは思わず喉を鳴らした。

 あそこでいったい、どんな戦いが行われているのか。

 その時だった。

 一瞬、山並みを鋭い光芒が四方に走ると、クシムから北東の方へ、炎の塊がぼっぼっと、山と山の間を連続していくつも灯った。フゴの街の背後の山の影になってそれがどこまで続いているかは確認できない。確認できないが、その炎の塊の列は東北方に向かって、おそらく何十里(スカール、約六〜七百m)にもわたって続いているように思えた。

 そして地面を震動が、少し遅れて空から地鳴りのように低く恐ろしい音が響いてきた。

 広場の下の街の方から人びとのさざめく音が聞こえてくる。マーヤの正面、駐留している討伐隊の留守部隊の方からも、テントの中から人びとが何人か出てくるのが見えた。

 その後クシムの方からは何の動きもなくなった。

 マーヤはずっと、日が暮れるまでクシムの山並みを見つめていた。


 翌日、フゴ一帯はひさしぶりの晴天になった。

 マーヤはハンターギルドに行くとその奥の一室を借り、クシムに居残る六名の賞金稼ぎたちを集めた。

 男たちはみな王家お抱えの影働きの者たちだった。今、マーヤの手許にあって動かせる駒のすべてだ。

 マーヤはその中から四名を選出し、クシムへの物見を命じた。

「気をつけてね。いつまた山崩れがあるかわからないから、街道の南側を迂回してクシムの真南から北上するように」

 フゴとクシムの往復は回り道して四日、現地で一日、クシムに出した物見がマーヤの許に帰ってくるのは五日後だ。その後の数日間、マーヤは後の報告書作成用に簡単な日記をつけること以外、やることがなくなった。

 時間が空けばどうしても、イシュルが赤帝龍に勝ったか、そして山崩れの土砂に飲み込まれた傭兵部隊のことを思い出し、悩むことになった。ここ数日、マーヤの心穏やかでない所為である。

 マーヤがもんもんと鬱屈した五日間を過ごした六日目の朝、物見に出した影の者たちが帰ってきた、との報告を受けてギルドに向かう途中、ギルド前の広場でマーヤは思わぬ来客と出くわした。

 マーヤがギルド前の石畳の広場をとことこと歩いていくと、右手の方で突然、激しい光の渦が巻いた。

 ん? 精霊?

 以前にも似たような経験をしたことはある。

 マーヤが光の渦の方に目を向けると、いきなり周囲を魔力の壁のようなもので囲まれた。

 透明の壁を風が貼り付くようにして巡っているのがわかる。壁と壁の交わる部分では風が直角に曲がって吹いていた。

 壁の外側の気配が薄れ、時間が止まったような感じになる。

 これは結界。風の魔法の結界?

 光の渦が人の形になっていく。

 この登場の仕方。ただの精霊じゃない、大物だ。

 マーヤは光の渦の方に向かって跪いた。

 人の形になった光の渦は美しい女性の精霊になった。イシュルがマーヤに差し向けた風の精霊、ナヤルルシュク・バルトゥドシェクがマーヤの前に現れた。

 風の魔法の壁が空高く伸びている。明るい青空に浮かぶ雲が結界の角のところで屈折して見えた。

「あなたがマーヤ・エーレンね」

 女の精霊は鼻をつんとあげて言った。

 この物言いに仰々しい登場の仕方。もしイシュルがこの場にいたら思わず吹き出していたろう。

 だがマーヤにとってはこれぞまさしく大精霊、ナヤルとイシュルのやりとりなど知りようもない。

「はい」

 彼女は女の精霊に向かって頭を下げ、神妙に答えた。

「これを。剣さまよりお預かりしていたものです。あなた宛の手紙です」

 ナヤルがどこからともなく巻紙を取り出した。

 イシュル! 生きてた……。

 剣さまとはイシュルのことだ。マーヤは腰を屈めたまま、両手をかかげ恭しく受け取った。マーヤの眸が輝いていた。

 でも……。

「怪我は? イシュルは大丈夫ですか」

 マーヤは眸の輝きを不安に揺らめかせ、前のめりになってナヤルに問いかけた。

「ええ。大丈夫よ。かすり傷ひとつない、からだの調子もよさそうだった」

 お高くとまっていたナヤルもマーヤの勢いに押されたのか、少しくだけやさしい笑みを浮かべた。

 かすり傷ひとつない、などとわかってしまうのも彼女が精霊だからなのか。

「よかった……」

 マーヤは頬が緩むのを必死に抑えた。イシュルの手紙を大事そうに胸の上で抱えこむ。

「ありがとうございます。今この場で読んでもよろしい?」

 マーヤがナヤルを見上げて言った。礼儀に反することだが、どうしても今すぐに読みたい気持ちを抑えられなかった。

 ナヤルが頷くと同時に、マーヤはイシュルからの手紙を読みはじめた。

 イシュルの手紙は少し不思議な感じのする洗練された文章で、読みやすいきれいな筆致で書かれていた。しかし書かれた文字の端々に、微かに几帳面な、神経質そうなところがあるのが意外だった。

 手紙を読み終わると、めずらしく喜色を満面、あらわにしていたマーヤの顔に複雑な表情が現れた。

 イシュルが生きていたこと、赤帝龍を撃退したこと。

 傭兵隊の全滅に責任を感じ苦しんでいる自分に対する厚い心遣い。

 リフィアがあの山崩れを起こしたのだった。それならわたしの失敗は……。

 だが、マーヤの心を曇らせることも書かれていた。

 「赤帝龍討伐後は俺の好きにさせてもらう」と、以前イシュルは言った。イシュルが王国から出ていく、それも半ば予想していたからいいとしても、手紙にはしばらく会えない、監視をつけたり無理に探すな、とまで書かれてあった。

 そして、フゴにいる辺境伯の手の者をすべて始末してくれという、イシュルの頼み事。

 イシュルはさっそく辺境伯への復讐にとりかかったのだ。

「イシュルは今、どこにいるのでしょうか」

 マーヤは喜色をおさめ、顔を曇らせてナヤルに聞いた。マーヤはいつもの舌足らずな感じのしゃべり方をやめ、きちんと話した。彼女は時と場に応じて、とても重要な場面ではまともな話し方をする、それができるのだった。

「あなたに教える気はないわ」

 ナヤルは態度をあらため、冷たく突き放すように言った。

 精霊が自らを召還した者を守ろうとするのは当然のことだ。それはマーヤにももちろんわかっている。だが自分はイシュルの敵ではないのだから、そこは曲げて何とか教えてほしかったし、王家の宮廷魔導師として、イシュルが赤帝龍とどう戦ったのかもっと詳しい事を知りたかった。本人から直接話を聞きたかった。

「なら、イシュルにフゴに帰ってきてほしい、と伝えてもらえませんか」

 マーヤの眸に強い光が浮かんだ。

「急いで戻って来てほしいんです。一度でいいから」

 赤帝龍とどう戦ったのか、それを聞きたいだけではない。

 イシュルと離ればなれになる前に、一度だけでもいいから会いたかった。

 ありがとうと言いたかった。

 ちゃんと別れの挨拶を言いたかった。

 他国に行こうとしているのに手紙で済ましたことを詰(なじ)ってやりたかった。このまま長い間、もしかしたらもう二度と会えなかったなら、あんな唐突な別れ方では納得できない。

 マーヤの胸にこみ上げてくるもの。彼女はその正体に半ば気づいていた。

「あなた、イヴェダさまのお側近くに仕える、このわたくしに指図する気?」

 ナヤルルシュクのまわりに不穏な感じの魔力が漂いだす。

 だめだ。力のある精霊をこれ以上怒らせたら危険……。

「お許しを」

 マーヤは跪いたまま、頭を深くさげた。

「……では、わたしはこれで」

 精霊が別れの言葉を言ってきた。

 マーヤが顔を上げるとナヤルはもう怒りをおさめていた。ナヤルからすればかるく怒ってみせた、程度だったのかもしれない。

 ナヤルは少し微笑みを浮かべてさえいた。

「男の子は縛りつけてはだめよ。好きにさせてやりなさい。でも、手綱を完全に離してしまってはだめ」

 精霊はそうマーヤに言うと、またたく間に光の渦となって消えた。周囲の結界も風となって消えていく。

 周りのさまざまなものの気配が戻ってきた。時が動きだした。


 ギルドの奥まった一室。

 マーヤは彼女に跪く男たちから物見の報告を受けた。

 彼らの帰還が半日ほど遅れたのは、フゴへの帰途、クシム川の上流へ、以前に橋が架かっていたあたりまで北上し、山崩れで溜まった土砂の状況を確認しに行ったためだった。

 なぜマーヤの命令を破るようなことまでして危険な偵察を行ったのか。それは行きしは流水が止まってところどころ川底が見えていたクシム川が、帰りしには水をたたえ、以前と同じ川の姿に戻っていたからだった。

 物見の男たちが以前に橋の架かっていた辺りまで来てみると、上流の方はクシムの山の先の方まで土砂が掘り返され、新しい川筋ができていた。その新しい川筋が男たちの立つ少し手前で以前のクシム川に接続していた。土砂の掘り起こされた川縁は規則性があり、その形状から人の手によってつくられたもののように見えた。

「もしや、あの方が……」

 部屋の中央にぽつんと置かれた小さな机、その横で椅子に座っていたマーヤに、壁際にひとりだけ立っていた男が声をかけてきた。

 その男だけ、服装が他の影働きの者たちと違っていた。上はくたびれた裾の長い赤茶の上着に白いシャツ、下はグレーのズボンにブーツ。それに細身の剣。同じハンターギルドに登録していても魔獣狩りは行わず、フゴの街中の娼館の用心棒でもやっているような流しの剣士、といった格好だった。

 その男は以前にラジドで、ベルシュ村の凶報を聞き引き返したイシュルを、マーヤを馬に乗せて追って来た男だった。その男はフゴに増派された影働きの隊長格のひとりだった。

「そうかも」

 間違いない。イシュルだ。イシュルがやったんだ。

 マーヤは心中ではそう結論づけながらも、口に出してはあいまいに答えた。

 物見の男たちの報告は、イシュルの手紙に書かれていたこととほぼ一致していた。これで赤帝龍がイシュルによって撃退されたことがほぼ確定した。

「……ただ、現地で怪しい者たちの姿を見ました。都合三度、複数名です」

 マーヤの前で跪いて報告していた男が言った。

 物見は王家の影の者たちだけではなかった。近い距離で発見した場合は追跡したが、皆逃げられてしまったという。

「辺境伯家や他国の者たちでしょう」

 壁際に立つ男が言った。

 辺境伯家だけではない、聖王国やアルサール大公国、ひょっとすると連合王国の物見もいたかもしれない。

「うん」

 マーヤは頷いた。

 ごめん、イシュル。

 イシュルの手紙には辺境伯家の影働きの者をすべて始末して欲しいと書かれていた。マーヤは心の中でイシュルに詫びを入れた。

 それでも。

「わたしは今回の件について、明日の昼までにフロンテーラに送る報告書をつくる」

 マーヤは跪く男たちを見回した。

 彼女はヘンリク・ラディス、アンティオス大公に送る報告書をわざと一晩、余分に時間をかけて作成する、と言ったのだ。

「今晩からあの女の監視をきつくして。あの女はきっと、わたしの書きかけの報告書を盗み見しにくる。その後から明日の晩にかけて、他の間者と接触する可能性が高い」

 男たちの視線がマーヤに集中する。

「接触したら、両者ともできるだけ殺さずに捕らえなさい。洗いざらい吐かせて、他にも仲間がいたら一網打尽にする」

 マーヤが言ったあの女、とはマーヤが滞在する村長家の使用人、マーヤ専属の世話係のような立場になっていたファンニだった。マーヤによくお茶をいれていたメイドだった。ファンニはマーヤたちから影働きの者と断定され、今まで泳がされていたのだった。

 相手は十中八九、辺境伯家の手の者だろう。だが同じ王国の者であろうと関係ない。王家の邪魔をする者はすべて排除する。それにイシュルにも少しは役立てるだろう。

 マーヤは椅子から立ち上がった。

 あの風の精霊が最後に言った言葉。

 あなたも今は泳がせてあげる。でも逃しはしないよ、イシュル。

 その眸からはここ数日、彼女の心を支配していた焦燥の色が消えていた。




#2 ニナ


 ラジドの牧草地のはずれ、あたりをかすれた緑と褐色の斑模様で覆われた冬の草原に、地に伏した火龍の影が浮き出ている。

 ガガゴギャーンと火龍が雄叫びを上げた。

 獰猛な唸るような低音は地面を削るように地を走り、悲鳴のような高音は夕陽に染まった空を遠く響き、やがて虚しく消えていく。

 ニナはその澄んだ眸に微かな悲しみを浮かべて火龍の影を見つめた。

 火龍は傷ついていた。翼の片方は形を歪め折り畳むことができない。左の後ろ足の膝からは骨がぬっと前に突き出ていた。

「村の牧草地からは少し離れていますが、放っておくわけにもいきません。ああやって吠えて、仲間を呼ばれては困るので」

 ニナを案内してきた大公騎士団の十人隊長が説明してくれる。

「やつはかなりの傷を負っています。いずれ死ぬでしょう。そのまま放置しておければ、それが一番なんですがね」

 十人隊長が眉間に皺を寄せた。三十手前くらいの、ニナから見れば大男だ。

「ベニト殿は、ど、どこでしょう」

 ニナは草原を見渡して言った。

 西日が横に差す中、草原から盛り上がるようにして幾つかの土壁がつくられていた。土壁はみな長さ十長歩(スカル、約六〜七m)、高さ二長歩、厚さが一長歩ほどで大きさがほぼ統一され、火龍を中心に囲むようにして草原に散らばっている。土壁の裏には騎士団の兵らがとりつき、火龍に向かって矢を射かけていた。

 土壁はみな東に長く影を引き、火龍の東側にある土壁は裏側が暗く沈んで、ひとの判別がつかない。

「たしかあそこらへんです」

 十人隊長がその東側に散在する土壁のひとつを指差す。

 ニナは隊長に礼を言い、ひとりで身を屈めその土塁の方へ向かった。

 火龍の周囲に築かれた土壁は、一番火龍に近いものでも百五十長歩は離れている。ニナの向かっている土壁は火龍からさらに離れていたが、あまり人や物の動きを見せたくなかった。

 ニナが目標の土壁に近づくと、その土壁の影から手があがった。

 土の宮廷魔導師ディマルス・ベニトは土壁の裏側に背をもたれさせ、両足を放り出すようにして前に伸ばしだらしなく地べたに座りこんでいた。

「お、お疲れさまです。ベニト殿」

 ニナがかるく会釈すると、ベニトは顔をほころばせて言った。

「いやいや。ニナ君のほうこそ」

 ベニトは笑うと目尻にたくさんの小皺が寄った。まるで挨拶するかのように白い顎髭をしごいてみせる。

 ディマルス・ベニトはニナといっしょに王都からフロンテーラに増派されてきた宮廷魔導師のひとりだった。歳は五十を過ぎている筈だ。もう宮廷魔導師を引退してもよい年齢だった。

「いつ帰ってきたのかね」 

「ふ、二日前です」

「そうか。今頃はもうクシムでどちらが勝ったか結果がでているだろうな」

 ニナは黙って頷いた。

 ニナはイシュルのことを信じている。もちろん不安がまったくないわけではないが、そのことに彼女自身に揺らぎはなかった。

「フルシーク殿とは会わなかったのかね」

「はい」

 ベニトが言ったことは、フゴからアイラといっしょにフロンテーラに帰還する途中、アルヴァへ向かったドミル・フルシークらと街道で会わなかったか、ということだった。

 フロンテーラに派遣されてきた宮廷魔導師らはドミル・フルシークの指揮下に入ることになっていた。

 そのドミルは、辺境伯軍とイシュルが赤帝龍に破れた場合、アルヴァ城に入り事後処理と情報収集に入り、イシュルらが赤帝龍に勝った場合はフゴまで進出しクシムの検分を行うため、ニナたちがフロンテーラに到着する数日前に、大公お抱えの魔導師、騎士団の副団長や文官らを引き連れアルヴァへ発っていた。

 ニナはフロンテーラに到着した当日、大公に直接召し出された。

 彼女は大公城内の宮殿の一室、大公の執務室で、大公の家令まで人払いされ、大公本人と一対一で対面した。

「ご苦労だったね、ニナ」

 大公はにっこり笑って、大きな机の向こうから跪き、頭(こうべ)を垂れたニナにやさしく声をかけてきた。

 まるで自分の家族か親友の娘にでも声をかけているような、気さくな物言いだった。

「ドミルが所用で出かけていてね。わたしが直接君を引見することになったわけだ」

 ニナが顔を上げると、笑顔のヘンリクが机の向こうに顔を出し、その奥の壁には本人と、ペトラを産んで間もなく亡くなった夫人のふたりならんだ大きな肖像画が飾られていた。

 天井は高く、床に敷かれた赤い絨毯はふかふか、右手の少し離れた南側の窓からは、僅かに夕日の色の混じりはじめた陽の光が差し込んできている。

「あ、あの、この度はた、大公殿下におかれま、ましては……」

 あがりきって昔のように吃りのひどくなってしまったニナの言上を、大公はより笑顔を深くして遮ってきた。

「いやいや、堅苦しい挨拶はいらないよ、ニナ。そう固くならないで。ね?」

 大公の口ぶりはどこまでもやさしい。

 だが、その笑顔に少しだけ不審な色を浮かべてニナに聞いてきた。

「ところで、アイラ・マリドはどうしたのかね?」

 アイラは城内に入ると、ニナとの別れの挨拶もそこそこに、まっすぐ姫君のところへ行ってしまった。

 ニナが吃り吃りそう説明すると、大公はわざわとらしく困った風を装い、ため息をついてみせた。

「困ったものだ。ペトラには」

 大公は家臣の不手際には一切触れず、まず娘のことで嘆いてみせた。

 それは特に貴人でなくても、誰でも使う普段の会話術かもしれない。だが、それだけだろうか。

 でもニナにはそんなことはわからない。まともに返してしまう。

「は、あ、いえ。そ、そんなことは……」

「ああ、いいんだよ? ニナが気にする必要はない」

 大公は思惑がはずれたのか、今度は少し困惑の混じる笑顔になって言った。

「ニナ。君は歳はいくつだったかな」

「じ、十五、です」

「そうか。……若いな。ペトラのひとつ上だ。そして」

 大公はたっぷり間をおいて言った。

「確かイシュルもあれでまだ十六だ……」

「は、はい」

 大公を見上げるニナの眸に光が増す。

 大公の笑顔が深くなった。

「彼といっしょに旅してどうだった?」

「は、はい。イシュルさんはとても優しくて、す、凄いひとでした。誰も思いつかないような魔法を使って……」

 ニナはなんだかうれしくなって、イシュルのことをたくさん話した。

 イシュルは不思議なひとだった。彼は外見は自分と変わらない歳のように見えるのに、彼と接しているといつもとても大人に感じ、時折、なんだか凄く洗練された今まで感じたことのないような何か、あるいはどこか遠い昔に感じたような、懐かしさを憶える不思議な何かを感じた。

 大公もうれしそうな表情をみせて何度も頷いてみせた。

「それはよかった。彼といっしょに旅していい勉強になったようだね。ニナ」

「はい!」

 ニナが元気に返事をする。

 大公はいつのまにか、顔を幾分前に突き出すようにしていた。

「それで、彼から魔法のことで何か教わったりした?」

「あっ、は、はい。す、少しだけ……」 

 ニナは舞い上がっていた心が瞬時に凍りつくのを感じた。

 イシュルさんに教えてもらったあの魔法のことは誰にも言えない。

 大公の眸が僅かに細められる。

「そう……。それはよかった」

 大公は相変わらずやさしい笑顔で話を切り替えた。

「実はラジド村にまた火龍が現れてね。君にも明日、応援に行ってもらいたいのだ」

 ヘンリクは南の窓の方に一瞬目をやり、間をとった。

「旅で疲れているところすまない。フゴ派遣の報告書作成は後回しにして構わないから」

 ニナにもわかった。

 自分たちが、イシュルたち一行がフゴに無事到着したことは、大公にはもっと前に知らされていたろう。

 彼は最初に「ご苦労だったね」と言ったきりで、フゴへの道中のことには触れず、イシュルのことだけを聞いてきた。報告書を上げるのも後回しでいいという。

 大公はまず第一にイシュルのことが知りたかったのだ。少しでも多く、彼と接した者の生の声が聞きたかったのだ。

 今頃ペトラも、アイラからいろいろと話を聞いているだろう。 

 彼はイヴェダの剣の所有者だから。

 そして大公さまは、わたしが彼から何か教わったのか、そうでないのか、気にしている。

 



 ニナは、ドミル一行とは会わなかったとディマルス・ベニトに答えた。ニナたちは帰りは無理をせず、宿があれば夜はそこで宿泊することが多かった。魔獣がでれば街道から離れることもあった。彼らと行き違いになる可能性は充分にあった。それからディマルスより火龍討伐の作戦の説明を受け、彼の隠れている土壁から西に大回りして、火龍の斜め後ろにある土壁の方へ移動した。

「あの火龍を退治するの?」

「うん」

 ニナは、同じ土壁に隠れていた弓兵らに他の土壁に移ってもらってひとりになると、自らの契約精霊、エルリーナを呼び出した。

 水の精霊はその美しい姿を薄い、ほとんど透明に近い状態で現して、ニナの横に座っている。

 エルリーナは人間界に現す自らの存在を弱めて、火龍を刺激しないように配慮しているようだった。

「わたしの魔法で水の中に沈めましょうか。あの龍は傷ついて弱ってるからできると思うわ」

 エルリーナがいつもの微笑みを浮かべてニナに顔を向けてきた。

 エルリーナはニナにはいつも、とてもやさしい。

「いいえ。いいの。もう騎士団のひとも準備しているし、無理する必要はないわ」

 最初は土の魔導師であるディマルスが、ラジド村の牧草地で牛を喰らっていた火龍の翼に土球をぶつけ、翼を傷め逃げ出した火龍を、大公騎士団の兵らとともに現在の地点まで追い込んできた。それから彼は丸一日かけて、火龍の周りにいくつもの土壁をつくった。

 騎士団は火龍の北東の、村の方の雑木林に切り札の大弩弓を二基隠している。日没と同時に、火龍の周囲に配置された土壁を遮蔽に使って大弩弓を移動させ、火龍の正面、二百長歩以内の距離に作られたふたつの土壁におのおの配置、大弓の発射時にはディマルスが土球で、ニナが水球で後方から攻撃し、火龍の注意を正面から逸らすことになっていた。

「エルリーナは火龍が炎を吹いたら、水霧や水壁の魔法で火勢を弱めて」

 ニナがエルリーナに向けていた視線をはずして言った。

「火龍を斃せば騎士団のひとたちにも臨時の手当が出るの。それにこの辺りでたくさん水を集めると、村の井戸や牧草地に影響がでるかもしれない」

「そうね。わかったわ」

 エルリーナは、ニナが村の井戸や牧草地に影響がでるかも、と言うと納得して頷いた。

 火龍をまるごと飲み込み、溺死させるような水量を急速に集め沼地でもつくってしまえば、一時的にしろ周辺の地下水の分布や流動を変えてしまう恐れがある。フゴに向かう途中でコボルトに使った時とは、周囲の環境が違うのだった。

 陽が暮れると作戦が開始され、夜半に大弩弓を所定の位置に設置、ニナにエルリーナ、ディマルスの活躍もあって夜明け前に火龍は討伐された。

「いやいや、ニナ君の精霊は凄いね。たいしたものだ」

 夜が明けそめる中、火龍の鱗を剥ぎ取り、大弩弓を分解して撤収準備に取り掛かっている騎士団の兵らを見渡しながら、ディマルスが横に立つニナに声をかけてきた。

「あの水の精霊がいれば、わたしが時間をかけ、苦労していくつも土壁をつくる必要はなかったかもしれん」

 ディマルスは解体されていく火龍の方に視線をやり、小さく呟いた。

「そ、そんなことはありません。……ありがとうございます。ベニト殿」

 ニナは笑顔を浮かべて言った。

 ディマルスはニナ自身にはひと言も触れなかったが、魔導師の契約精霊を高く評価することは魔導師本人を評価することと同義で彼に他意はなく、ニナに対して皮肉を言ったわけでも、無神経な態度をとったわけでもなかった。

 エルリーナと出会って、わたしの人生は開いた。

 ニナは今は姿を消しているエルリーナに、心の中で笑顔を向けた。


 ニナの家名であるスルース家は騎士爵位を持つ、王宮に代々勤める中級軍吏の家柄だった。ニナはそのスルース家の庶子として生まれた。先代当主が晩年、愛人に産ませた子だった。

 父親の死後、ニナは病気がちだった母親からスルース家に引き取られたが、まだ生きていた父親の本妻からは当然のごとく疎まれ、屋敷の敷地内にあった離れに住まわされた。歳の離れた腹違いの兄の現当主、その夫人から特に冷たく扱われることはなかったものの、ニナは孤独な幼少期を過ごした。彼女の訥弁、あがり症はその生い立ち故かもしれない。

 スルース家の厄介者として普段彼女に接触する者は屋敷の使用人と、読み書きを教える老齢の家庭教師だけ。ニナは離れと屋敷の裏手の小さな庭から一歩も外にでない、小さな世界で生きてきた。

 そんな彼女にも、ひとつだけ希望があった。それは彼女の父親から生前に、成人したら、つまり十五になったら使いなさい、と渡された小さな青い宝石、水系統の魔法具だった。スルース家に秘かに伝わる真贋のわからない魔法具だった。なぜ真贋がわからないかというと、その魔法具は一回だけしか使用できない使い切りの魔法具で、スルース家の他の魔法具を受け継いできた歴代当主は誰も、その魔法具を見てもさわっても、魔力を感じることができなかったためだった。

 その魔法具は水精の石と呼ばれ、水精の石を所有する者は水の精霊を一度だけ召還でき、その精霊と無条件に契約できる、というものだった。それもスルース家に古くから伝わる口伝で、かなりあやふやなものだった。

 ニナが十歳の時、彼女は父の言いつけを破り、魔法具とともに父親から遺された、その魔法具を発動させるただひとつの呪文を唱えた。

 ニナがその歳になる少し前から、高齢で耄碌し、感情を抑えることができなくなった本妻からの虐めが、さらに厳しいものになった。老婆は息子である当主のいない時を見計らっては、彼女の住む離れにやって来て、ニナを鞭打ち、罵倒した。

 引っ込み思案なニナは歳の離れた兄にも、ふだん接することの少ない兄嫁にも老婆の虐めを訴えることができず、自分でなんとかしようとして、彼女に遺されたただひとつの希望、水精の石を発動したのだった。

 家の者が寝静まった深夜、満月の夜にニナが呪文を唱えると、世にも美しい精霊が現れた。それがエルリーナだった。

 エルリーナはニナから水精の石を受け取り、自らのからだに取り込むとニナの契約精霊となり、これから先も、他の水の魔法具を持たないニナの契約精霊であり続けると言った。

 恵まれない人生を送ってきたニナに奇跡が起こったのだった。

 その夜、ニナは兄夫婦に置き手紙を残しスルース家を出奔した。そして彼女でもその名を耳にしていた王国で最高の水の魔法使い、王家の宮廷魔導師、パオラ・ピエルカの門戸を叩いた。

 パオラ・ピエルカは何を思ったかニナをひと目で気に入り、エルリーナを目にすると驚愕して、彼女を自身のはじめての弟子に迎え、ニナに彼女の大切にしていた水の魔法具をひとつ与えた。そして妹のように遇し、愛情を持ってきびしく育てた。

 ニナに二度目の奇跡が訪れたのだった。

 

 ラジドからフロンテーラへは軽装の兵隊の行軍なら半日ほどで到着する。ニナたちは睡眠をとらずにかるく朝食をとると、そのままフロンテーラへの帰途に着いた。

 部隊全体に弛緩した空気が漂いはじめた昼頃、隊列の中ほどで騒ぎが起こった。フロンテーラ街道の両側を覆う薮の間から、赤目狼がいきなり兵士らの隊列を襲い、ひとりの兵士の首筋をすばやくくわえると、再び薮の中に姿を消したのだった。

 部隊は隊列の先頭をディマルスが、後方にニナが配置され行軍していた。騒ぎはニナの前方で起こった。彼女は素早く反応し、乗っていた馬から飛び降り薮の中に飛び込んだ。

「エルリーナ!」

 水の精霊が、薮を掻き分け進むニナの前方に現れる。

「赤目を水壁で閉じ込めて!」

「了解」

 エルリーナは短く答えると前方へ突進していく。

 ニナがエルリーナに追いつくと、水の壁に四方を囲まれた赤目がもがき苦しんでいた。襲われた兵士がその脇に投げ出されている。首をやられた兵士は完全に息絶えて死んでいた。

 ニナは水壁に閉じ込められた赤目狼を睨んだ。

 あの魔法を使ういい機会だ。

 イシュルさんに教えてもらった魔法。ここ二十日間ほど、人知れず練習してきた秘密の魔法……。

「我が水神フィオアよ、我(わ)に流水に異なす力を与えたまえ。我にみましが流水の力を与えたまえ」

 ニナは自作の呪文を唱えると、先端に大きな青い宝石の嵌った杖を、水壁に囲まれた赤目に向け捧げ持った。意識を赤目狼の体内を巡る血や全身に分布する水分に向ける。

 宝石の中を光が走り煌めくと、赤目狼を囲む水壁が揺らぎ、さっと白く濁った。赤目狼のからだがしぼみ、小さくなっていく。

 エルリーナが水壁を消すと赤目狼の死体が地面に落ちた。艶を失った毛に埋もれるようにして、全身が少し平たく潰れている。あたりに吐き出された水分が霧のように広がり、それもすぐに薮の中に消えていった。

「成功したのね」

 エルリーナが声をかけてきた。

「うん!」

 ただまだ実戦に使うのは難しいかもしれない。エルリーナに協力してもらった上で、さらに時間もかかっている。でも、魔獣相手にここまでできるようになった。 

 喜色を現したニナに、エルリーナは浮かない表情をみせた。

「彼に教えてもらった魔法がこれなのね」

「え、う、うん」

 ニナがエルリーナの態度に動揺する。

 戦闘時などで魔法を使う状況ならいざ知らず、たとえ契約していても、精霊は召還者の使う魔法に寸評を加えたり、解説してくれたり、などということはあまりしない。

「え、エルリーナは知ってる? この魔法」

 エルリーナはニナの魔法の練習にも、今まで一切口をはさんでこなかった。ニナももちろん、彼女に相談したりはしなかった。精霊が人間に魔法を教える、ということはほとんどない。過去にも伝承として僅かな事例しか伝わっていない。

「この魔法は禁忌よ。わたしたちには使えないわ」

 エルリーナはめずらしくニナに厳しい口調で言った。

 だから、ニナの使った魔法に関するエルリーナの発言は、ある意味めずらしい、かなり踏み込んだものだった。

「えっ……」

 ニナの顔が青ざめる。

「でもニナが使えた、ということはフィオアさまはそれをお許しになったのね」

 エルリーナはニナに向けるいつものにこやかな表情を消していた。

「……」

 禁忌だなんて……。

 ぶるぶる震え出したニナに、エルリーナは微笑みを浮かべてみせる。

「大丈夫よ、きっと。わたし、ちょっと精霊界に戻るわね。しばらくの間呼んでもすぐに戻ってこれないかも」

「えっ」

「大丈夫、陽が沈むころには戻るから。ね?」

 エルリーナはニナに首を傾けてみせた。

「う、うん」

「きっと、彼が教えた魔法だからだわ……」

 エルリーナは呟いた。

「イシュルさんだから?」

「そう。彼は特別なのよ」

 イシュルさんは風の魔法具を持っている。神の魔法具を持っているから……。

 ニナは少しずつ心が落ち着きを取り戻してくるのを感じた。

「じゃあね。心配しないで」

 エルリーナの気配が消えた。


 ニナたちの部隊が大公城の西の橋の城門をくぐると、そこに吉報が待っていた。

 部隊の前の方がどよめき、やがて歓声が上がると、先の方にいたディマルスが馬を走らせ、城門をくぐったばかりのニナの方に寄せてきた。

「吉報だ。エーレン殿からの知らせで、イヴェダの剣が赤帝龍に勝ったそうだ」

 眸を大きく見開き、言葉がでないニナにディマルスが続けた。

「かの少年が赤帝龍を痛めつけて、やつを山奥に追いやったそうだ」

「あっ、あっ」

 吃るニナにディマルスは笑って頷くと、部隊の隊列の前の方へ駆けて戻って行った。

 イシュルさん……。

「良かった。ほんとうに良かった」

 ニナは目尻にたまった涙をぬぐった。

 ニナは両手を胸の前に組んでクシムの方角を、東の空を見つめた。

 青く澄んだ空高く、薄い雲が東の方へたなびいている。

 その時、エルリーナのうれしそうな、喜ぶ気持ちが心の向こうの、遠くの方から伝わってきた。

 ニナはイシュルの勝利を彼女が知ったこと、自分の魔法が水神に認められたことを何となく悟った。

 亡き父の遺した小さな愛情が、エルリーナと結びつけてくれた。エルリーナが師匠、パオラ・ピエルカとわたしを結びつけてくれた。そしてみんなが、イシュルさんとわたしを結びつけてくれた。

 エルリーナにパオラ。

 そしてイシュルさん、あなたとの出会いがわたしに起こった三番目の奇跡です。

 だから不安もあったけど、恐かったけど、あなたは赤帝龍に絶対負けない、と信じてた。

 あなたは奇跡のひとです。

 みんなの、……そしてわたしの。

 ニナは握った両手を胸に目を瞑り、まるで祈るようにして東の空を仰いだ。


 

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