白い道 2
イシュルは寝癖のついた髪に手をやると、小さく「あっ」と声に出した。
そして今気づいた、という体で家令のルマンドに言った。
「顔を洗いたい。少しお待ち願えるか」
ルマンドが無言で頷く。
イシュルはかるく家令に頭を下げると、洗面所の扉を開け中に入った。
扉を閉めると水瓶から柄杓で水をすくい、鏡を見ながら跳ねた髪の毛を濡らして手で押さえた。水壷の裏にある小棚には馬油らしきものが入った小さな壷が置かれていたが、イシュルは使わなかった。
「ヨーランシェ」
イシュルは精霊を呼んだ。イシュルの背後、鏡の中に美貌の少年が微笑みかけてくる。
「感じるかい?」
ヨーランシェがいきなり問いかけてきた。
イシュルは目線を彷徨わせ、辺りを探る仕草をした。
「ああ」
なんとか探知半径内に入っている。
何もない空間に、ぼんやりとした弱い光が集まっている。
あれは……この感じ、隠し身の魔法か?
「あそこは辺境伯の執務室がある建物だ」
リフィアに城内を案内してもらった時は感じなかったもの。今はそれを感じる。辺境伯は執務室にいるのか? 俺はあそこに連れていかれるのか。
「この前ぼくがきみに指摘した場所だね。あそこで魔法が使われている。あれはたぶん……」
やつの先手の要(かなめ)、それがあの場所なのだ。やつは自身を守るために、そしておそらくは、俺を捕らえるか殺すために罠を張って待ち構えているのに違いない。
イシュルは鏡に向かって、ヨーランシェに笑みを浮かべた。
「大丈夫だ。あれは俺の方で何とかする。それよりあまり時間がないんだ。ヨーランにはこの城の人たち、とくに衛兵とか武装している人間を眠らせてほしいんだ。できるかな?」
「眠りの魔法かい? 広い範囲でやるなら皆いっしょじゃないと。効力も弱まってしまうし。それにあの場所は……」
「あそこは魔法が通らない、か?」
鏡の中の精霊が微笑む。
隠れ身の魔法に似た魔法が発動しているあの場所、あの内側は感知できないどころか、そこへ魔法が通せないような感じを受ける。
イシュルは寝癖を直すと顔を洗った。冷たい水が肌をきりきりと刺してくる。
今すぐヨーランに眠りの魔法をかけてもらうのは危険かもしれない。魔法の効力が弱くなるのならリフィアには通用しないだろう。ルマンドはどうだろうか。この城には他にも魔法具を持つ者、魔法使いもいるんじゃないか。辺境伯夫人、嫡男のモーシェあたりは複数の、あるいは強力な防御系の魔法具も所持しているんじゃないか。眠りの魔法にかからなかった者は異常に気づき、騒ぎ出すだろう。
「要は俺が辺境伯を仕留めた後、城兵らと戦わずに、騒ぎにならずに逃げられればいいんだ」
「それなら、きみが辺境伯とやらを殺した後にかければいいじゃないか」
「でもやつはあの部屋の中だ」
ヨーランシェでも、あの中の様子はわからないだろう。
「きみなら潰せるだろう。あれは結界だよ」
「ああ、たぶんな」
城は壊すなとは大公のお達しだが、辺境伯の執務室くらいは吹き飛ばしてもいいか。
だがどんな結界かはっきりとはわからない。当然、外側からならヨーランシェの言う通り、力づくで潰してしまえるのだが、あの結界の中に入るとどうなるかはわからない。
問題はまだある。それは辺境伯本人があの部屋にいなかった場合だ。ルマンドに案内されて辺境伯の執務室に入ってみたら誰もいず、閉じ込められてしまった、なんてことだってありうる。ただどうやって俺を閉じ込めるかは知らないが。
もしそうなったら、執務室からすみやかに脱出し、ルマンドを捕らえて聞き出すしかない、辺境伯がどこにいるかを。拷問してでもだ。
どのみち、辺境伯の執務室まで行ってみなければ、中に入ってみなければ確かなことはわからない。
「俺があの結界を壊せばきみとの連絡もとれるようになるだろう。その時点できみに指示を出すようにするよ」
「わかった」
「俺には眠りの魔法、かけるなよ」
「イヴェダさまの剣を持つきみには効かないと思うけど。あの建物からお城の反対側には眠りの魔法をかけないようにするよ」
この先どうなるかわからないが、ルマンドには起きておいてもらった方がいいかもしれない。
「ああ。それでいい。じゃあ、たのむ」
鏡の中の精霊が消えた。
「辺境伯の執務室には手を出すなよ」
イシュルは振り向いて、姿を消したヨーランシェに念を押した。
イシュルの背後には精霊が立つほどのスペースはなかった。手洗いの部屋は狭く、壁と窓がすぐ目の前まで迫っていた。
ヨーランシェは鏡に映っていたのではなかった。彼は鏡の中にいたのだった。
「お待たせした」
イシュルは手洗いから出てくると家令に声をかけた。
ルマンドはさきほどの位置から動いていない。精霊との会話は彼には聞こえていない筈だ。
今さら聞かれたところでどうってことないが。ヨーランシェのやることを止められる者などこの城にはいないだろう。リフィアは武辺一辺倒、その能力は偏っている。彼女の家族も、高位の精霊の魔法から自分の身を守ることはできたとしても、魔法丸ごと打ち消したりすることはできないだろう。
ルマンドはかるく頭を下げると言った。
「ではわたくしの後についてきてください。主は城の西にある執務室で会われます」
やはりあそこか。
イシュルは無表情に黙って頷いた。こいつの前では、少しでも考えていることが顔に出ないように気をつけた方がいいだろう。
ルマンドの後をついて部屋を出る。
家令の細く背の高い後ろ姿は、神経質そうな感じは受けてもひ弱な印象は受けない。
ルマンドはイシュルの格好を見ても何も言わなかった。イシュルは父の形見の折れた剣、ナイフなど刃物を持っていたが、そのことにも触れなかった。
屋敷の玄関に当たるホールのところまで来た。ルマンドが扉を開ける。
外もまだ薄暗い。陽はまだ昇らない。それでも城の中を動きだす僅かな人びとの気配がしはじめる。
「あっ」
屋敷の外に出、回廊に足を踏み入れたところで、そのうちのひとりだったらしいリフィアとかち合った。
明け方にも関わらず昨日と同じドレスを着込み、上に明るい水色のショールを羽織っていた。
リフィアは驚いた表情を見せ、イシュルとルマンドを交互に見やった。
「ルマンド、これはどういうことだ?」
そしてリフィアは厳しい視線を家令に向け、詰問してきた。
「ご当主さまがアレクさまに会いたいと申されまして」
ルマンドはかるく頭を下げリフィアに答えた。まったくの無表情、動揺の色は一切見えない。
「父上が?」
リフィアは双眸を大きく見開いて言った。
「こんな時間に? 帰ってきたばかりではないか」
リフィアは俺にそのことを報せに来たのだろうか。こんな時間なのに。律儀なやつだ。
しかし、辺境伯が帰ってきたのがまったくわからなかった。お供の騎馬も十騎ほどはいたろう。
やつは城の外郭で下馬し、後は本人とお付きの者のごく少数で徒歩でまず居館の方に向かった……そんな感じか。ヨーランシェは俺に殺意を持った者が、俺の寝ている寝室の方に近づかなければ気にも留めないだろう。
「はい」
ルマンドは無表情のまま。ただそれだけしか言わない。
「なぜだ」
リフィアの声が低い。細い眉がつり上がる。
「それはわたくしにもわかりません。ご当主さまは何としても急ぎお会いしたいとの仰せで」
リフィアはじっとルマンドの顔を見つめた。
そして小さくため息をつき、
「わかった。ならわたしもついていく」
と言った。
ちょっと待て。おまえがいくと事態が複雑になる。やつを討つのに邪魔なだけだ。
「それはなりません。ご当主さまはアレクさまとのみ、お会いになります。ご当主さまのご命令でございます」
ルマンドが無表情だった顔に僅かに笑みを浮かべ、リフィアに頷いてみせた。
「リフィアさまはお館にてお控えを」
そして彼女に再び頭を下げた。
なんだその笑みは。リフィアに「ご安心を」とでも言ってるつもりか。
「……わかった。仕方がないな」
リフィアは不満もあらわに家令の言を受け入れた。
「アレク、粗相のないようにな」
リフィアがこちらを睨んでくる。だがその目には不満だけでない、何か違う色が混じっているのがはっきりと見てとれた。
リフィアがショールを胸元で押さえ、機敏に身をひるがえして前を歩いていく。彼女の姿は先日、辺境伯夫人らと面会した居館に消えた。
ルマンドが彼女に向けて下げていた頭を上げると声をかけてきた。
「では参りましょう」
ルマンドが先に立って歩きはじめる。
リフィアの眸にあったもの。辺境伯のこの緊急の呼び出しを彼女はどう捉えたのか。
彼女は彼女でおそらく、自分の父が俺を風の魔法具を持つ者、イシュル・ベルシュと気づいたのではないか、と考えたのではないだろうか。
……父上から赤帝龍をどう追い払ったか、王家とのつながりはどうなのか、いろいろ聞かれるぞ?
というような、かるい警告の意味があの視線に込められていたのかもしれない。彼女は自分の父がベルシュ村の事件に深く関係していることを知らない。
まだ暗い、青色というよりは黒い影で覆われた回廊を歩いていく。家令の後ろ姿がさらに深い黒い影となって回廊の底から突き出ている。彼の足音はほとんど回廊を反響することもなく、とても静かだ。
イシュルはルマンドの背中を見つめた。
不気味なやつだ。
こいつはどこまで知っているのか。俺の考えていることを。そして辺境伯は。
これは辺境伯の罠だ。だがレーヴェルト・ベームは、俺のやつを街道で襲撃しようとする意図まで読んでいたわけではないだろう。先に罠を張って、こちらに何らかの行動を起こさせないように、未然に防ぐことをねらって予定より早く帰城したのではないか。
辺境伯は深く考えている。それは確かにやつ自身の命がかかっているのだから当然だが、それだけではないのだ。おそらく、辺境伯は俺が彼のみを標的にしている、ということを知っているのだ。それならやつにも俺に対抗する手段がある、ということなのだ。そうでなければ、ノストールへ出向いたのを幸い、アルヴァに帰ってくるようなことはしないだろう。俺が辺境伯の立場だったら、何らかの伝手を頼って逃亡する。
エリスタールでブリガールらを殺し、城を壊した時、俺は関係ない街の者たち、男爵家の女子どもは城外に逃がすようにした。俺が復讐の対象を絞って、関係ない者を巻き込まないようにしていることはその件でやつにも推察できるだろう。マーヤや大公は俺が辺境伯ひとりだけをねらっていることを知っている。フロンテーラの街中で、郊外の馬車の中で、彼らとその話をしている。大公家にも辺境伯の密偵が入り込んでいる可能性はある。辺境伯側に話の一端が漏れている可能性はある。
ナヤルルシュクに頼んで街道周辺を封鎖しても、フゴからアルヴァへの連絡を完全に遮断できなかった、俺の正体がイシュル・ベルシュであると知られてしまった、それだけでやつが予定を早めて帰城したわけではないのだ。やつは自家の組織をフルに使って俺のことを調べたろう。そして考察を重ね、今回の仕掛けに出たのだ。
イシュルは視線を家令の背中から辺境伯の執務室がある方へ向けた。
「……箱だ」
イシュルは口の中で小さく呟いた。
辺境伯の執務室のある建物を透視図に例えれば、回廊の西の端にある建物の一部だけが気配を消失して、図中から消えている。確かにその内側がどうなっているのかわからないし、その内側に魔法の力を及ぼすこともできないようだ。だが、対象は建物の中の固定された一室だ。隠し身の魔法を使おうが、以前からそこに部屋があることを知っていれば、部屋の存在そのものを隠蔽したことにはならない。
ブラックボックスのような箱。あれは辺境伯の執務室の存在を知らない一般の魔法使いからすれば、その部屋を隠蔽し、以前から知っている者なら、何か不可解な魔法が働いていて、外からの魔法を防ぐ防御用の結界と感じるだろう。
だが、俺でもヨーランシェでも中の様子がわからない、というのが不気味だ。外側に対しては隠し身の魔法、内側には迷いの魔法がかけられている、そんな感じだろうか?
あの執務室に張られた結界は、他にも何か重要な役割があるのではないか。それは中に入ってみなければわからない。
ルマンドとイシュルは謁見の間の大きなホールを通り過ぎ、回廊を右に曲がった。回廊の西側はさらに暗く沈んでいた。
ルマンドは執務室の仕掛けを知ってか知らずか、まったく何の変化も表に出さず、静かに歩き続けている。
辺境伯の執務室、無色の中身がわからない部屋の周りには、魔法が無尽蔵に存在するあの精霊の異界から滲みでるようにして、ぼんやりとした魔法の光が微かに集まっている。
あの結界を外側から破壊するのは簡単だ。
だがそうすれば辺境伯は逃げてしまうだろう。やつの執務室に秘密の、逃走用の通路などが設置されている可能性は高い。
密閉された無人の空間、空気の動きがない空間はこちらも感知しづらい。今のところ辺境伯の執務室の周囲には、空気とりの管や外壁と内壁の間の空間など以外に、特に不自然な空間は感知できない。
辺境伯の執務室は回廊西側の一番奥まったところ、回廊の西北の角の手前にある。確か回廊に面して、観音開きの扉があった筈だ。視線の先、その辺りはさらに暗い闇に覆われている。
そもそも辺境伯家の当主の仕事部屋が回廊の外側、しかも城の北西にある、というのが不自然だ。
あの部屋に入る寸前に正体不明の結界を潰し、室内に一気に突入、辺境伯を拘束する……。
それで行くか。ただ、あの謎の結界の正体が掴めなくなるが……。
ふたりは辺境伯の執務室の前の扉の前に立った。
ルマンドが観音開きの扉の片側を開けた。微かに扉の軋む音。
中も薄暗かった。部屋には壁にかけられたランプがひとつだけ。奥にうっすらと見える扉の奥が執務室だ。ここまで来てもその扉の奥の様子がわからない。
「どうぞ、アレクさま」
ルマンドは扉を開くと横に退き、イシュルに先に入るようにそくした。
イシュルは部屋の中に足を踏み入れた。部屋は壁一面、重厚な木板で覆われていた。年季の入った、半光沢の濃い茶色の木目。銀に大理石、そして質の良い木材にも事欠かない土地柄なのだ。
部屋の南側には何故か窓がなく、北側に窓がある。窓の外は城の内郭の北側、西の端。まだ空は暗い。その窓を背に、ふたりのメイドが背筋を伸ばし微動だにしない美しい姿勢で立っていた。片方は部屋全体が薄暗くともわかる面識のある女、ルドミラだった。
つまりはこの部屋、控えの間のメイドはふたりとも剣術ができる、ということなのだ。こんな時刻でも当主の護衛として、そんな彼女らがしかっり手配されている。
「当主がお待ちかねです」
ルマンドが部屋に入ってまっすぐ奥、真西にある辺境伯の執務室の扉の前に立って言った。
「剣とナイフをお預かりします」
ルドミラがイシュルの傍まで寄ってきた。
イシュルは無言で剣とナイフをルドミラに渡した。
「他に刃物をお持ちでしょうか」
イシュルは首を横に振る。
刃物は結界の中では有効な武器となる場合がある。だがこれは貴人と密室で面会するのなら当然の処置だ。仕方がない。
家令は奥の部屋の主に声をかけることもなく、ノックをすることもなく扉を開けた。
イシュルは無言、無表情で開けられた扉の方へ向かう。
よし、やるか。どんな結界か確認できないのは残念だが。
イシュルが精霊界、異界に「手」を伸ばそうとした時だった。ルマンドが執務室の主に声をかけた。
「レーヴェルトさま、イシュル・ベルシュさまでございます」
「!!」
イシュルは思わずルマンドの顔を見た。
ルマンドはイシュルの横に立ち、頭を幾分深く下げていた。その表情はわからない。
斜め後ろに立つルドミラが、はっと身を硬くする気配が伝わってくる。
「入りたまえ。イシュル君」
部屋の中から、やや高めの、品のある声が聞こえてきた。
この!
イシュルは歪んだ笑みを浮かべた。
こいつら……。
イシュルは「手」を降ろし、辺境伯の部屋に足を踏み入れた。
面白いじゃないか。これは俺に対する挑戦だ。
辺境伯は俺に勝負を挑んできているのだ。正面から向かい合って戦うつもりなのだ。いや、罠に入って来い、神の魔法具を持つほどの者が恐いのか、と挑発しているのだ。
おまえは己の命を賭けて、俺とどうやって戦う?
イシュルは辺境伯の執務室の中に入った。後ろで扉が閉められた。
部屋の中はそれほど広くない。南北にやや細長い部屋だ。部屋の壁は控えの間と同じ材質の木材で、正方形のレリーフ状のパネルで覆われている。右に目を向けると、部屋の中央からやや出入り口に寄った位置に黒壇だろうか、重厚な机があり、辺境伯レーヴェルト・ベームが座っている。机の上の銀製の燭台の蝋燭が妙に明るく、銀髪の中年の男を照らしていた。
イシュルはレーヴェルトの正面に立とうと一歩、歩を進めた。
無色、何かの空間のイメージがイシュルの脳裡に広がった。そこに巨大な、腕に刺青された魔法陣が浮かびあがる。ツアフの、フゴで襲ってきた刺客のしていた魔法陣だ。隠れ身の魔法の。
その魔法陣が腕から浮き上がり、こちらに向かって覆い被さるように垂れ下がってきた。そして、その巨大な歪んだ魔法陣が目前で溶けるように消え去ると、空間が真っ白い世界に変わった。
その白い空間にやがてさきほどの魔法陣に似た、より複雑な魔法陣が無数に姿を現した。その魔法陣から黒い液体がしみ出してくる。やがて白い空間はその黒い液体に覆い尽くされ、真っ黒な、深い闇に閉ざされた。
俺は閉じ込められたのだ。この結界は……。
イシュルはかるく頭をふると辺境伯の正面に立った。
「君がくるのをずっと待っていたよ。イシュル君」
レーヴェルトは顔の前で肘を立てて両手を組んでいる。
イシュルは何も言わずに、机に向かって椅子に座る辺境伯の背後に目をやった。
イシュルは僅かに目を見開いた。
辺境伯の背後には壁際に背の低い椅子が数脚、真ん中に低いテーブルがひとつ、この部屋もイシュルの背後の南側に窓はなく、北側に窓があった。
その北側の窓が変わっていた。部屋の北側一面が、天井から人の腰の高さあたりまで、細い格子で正方形に区切られたガラス窓で覆われていた。
これは……。まるで現代建築だ。
この、中世ヨーロッパを思わせるような世界でこのガラス窓の意匠は異常だ。もちろん生まれ変わってから、こんなものは一度として見たことがない。
イシュルは笑みを浮かべると辺境伯の言を無視して言った。
「あんたの背後の窓、なかなか洒落ているじゃないか。さすがは辺境伯家だ」
イシュルは辺境伯の目を睨んだ。
「はじめて見たよ。随分変わった意匠だ」
イシュルの笑みが大きくなった。
窓の外はやはり暗い。整然と並んだ正方形の窓ガラスにはイシュルと辺境伯の姿が映っている。その奥に微かにアルヴァの街の遠い影が見える。ここは低いが山の上だ。この部屋の周りを隔たる物はない。
辺境伯は一瞬だけ目を見開くと、首を後ろに振った。
「そうかね? それはお褒めいただきありがとう」
辺境伯はイシュルに再び顔を向け、微笑んでみせた。
余裕があるじゃないか、辺境伯。
「それはそうと、一応聞いておこうか。辺境伯候」
この部屋の結界のだいたいがわかった。
「俺はクシムでリフィアを助け出してからは、アレクという名で通していたんだがな。なぜ俺がイシュルだとわかった?」
この部屋はまさしく、魔法の結界とはこうだ、とでも言うような最も基本的な結界で覆われている。この結界は異界からの魔法を、あるいはひとの魔法を使おうとする意志を異界と遮断するものだ。この部屋では魔法は使えない。魔法具は動かない。風の魔法の感覚も働かず、外の気配が伝わってこない。だからこの部屋の外にいても魔法の感覚が届かず中の様子がわからなかったのだ。
「娘からの手紙を読んですぐにわかったよ。当家の他の者からの報告では、赤帝龍との戦いで生き残ったのはリフィア本人と、王家の使者の宮廷魔導師エーレン殿と彼女に随伴していた従者、イヴェダの剣を持つとされる少年だけだ、とあったのだ」
辺境伯の笑みが深くなる。
彼の表情とは裏腹に、目尻や鼻梁の脇による小皺に、この男の疲れが見えたような気がした。
イシュルの顔にも疲れに似た表情が表れた。
マーヤは、フゴに存在したと思われる辺境伯家の影働きの者をすべて始末できなかった、ということか。
ナヤルを召還したのもゾーラ村に着いてからだった。見込みが甘かった、ということか。
「アレクなるフゴのギルドに所属する賞金稼ぎの存在は、娘の寄越した報告にしか記載がなかった」
辺境伯は机の上にあった紙を束ねた冊子をかるく持ち上げた。
燭台の蝋燭に、粗悪な紙質の表紙が照らし出される。
「これは少し古いものだがフゴのギルドに所属するハンターの名簿だ。きみが来るまでざっと目を通していたんだが、この名簿自体にはアレクなる者の名はないようだ。まぁ、賞金稼ぎは偽名を使う者も多いだろうから、確かなものではないが」
イシュルは小さくため息をついた。
それはそうだ。まさか事前にアレクなる賞金稼ぎの名を記載するよう、フゴのギルドに工作などできる筈もない。その場の思いつきで考えたことなのだ。リフィアに付け入ってアルヴァ城内に波風立てずに入り込む、その企みは穴だらけのお粗末なものだった。
ただ、リフィアたちにも、城中にいた主要な者たちにも気づかれず、傷つけずに入ることはできた。
「……が、そんなことはどうでもよいのだ。わたしは君がブリガール男爵家を滅ぼした時から、いつかかならず、わたしの許にくるだろうと思っていたのだ。わたしはずっと君を待っていた」
辺境伯は真面目な顔つきになって、最初の言葉を繰り返してきた。
「認めたな。おまえがブリガールにどういう書簡を出したのか」
イシュルは鋭くレーヴェルト・ベームを睨みすえた。
「君はどうしてわたしが男爵家に出した手紙の内容を知ったのかね」
辺境伯の表情も厳しいものになっていく。
「男爵家から漏洩したのさ。俺はその写しを見る機会を得た。文面から内容が本物だと判断した」
レーヴェルトがじっと睨んでくる。
「確か、きみはその出自と歳に似合わない教養の持ち主だと耳にしていたが……」
「ベルシュ家の屋敷にはあんたの曾祖父の頃の書簡もあったぞ。あんたの手紙の真贋の判断くらいはできる。文面は辺境伯領や男爵領に関する知識を持ち、貴族、領主家の書記を勤める者か当主本人でないと書けないものだった」
今度はレーヴェルトが小さくため息をついた。
「ベルシュ家は昔、騎士爵を持っていたのだったな」
イシュルは自身の内側に感覚の方向を向けた。
この部屋の中では、精霊界から魔法具を通して流れてくる、通常の魔法使いが使う魔法は使えない。
だがこの胸の内の風の魔法具の、以前から湧き出るように生れる魔力は、この部屋に張り巡らされた結界の影響を多少は受けているものの、問題なく使える感じがする。手応えはある。
対魔法使いの結界としては有効なのだろうが、俺からすれば紙のように薄いもののように感じられる。
「俺はそれが確認できればいい。もうこれ以上おまえと話す必要はない」
この部屋は密室だ。だからそんなに大きな魔法は使えない。だが問題はない。こいつの肺腑を潰す。必要があればあの窓の一部でも割れば、外の風を引き入れられる……。
「我が家族、一族、故郷の村の仇としておまえを討つ」
「ちょっと待ってほしい!」
辺境伯がはじめて慌てた態度をとった。
「その前に、わたしに弁明させてもらえないだろうか」
辺境伯の顔が鬼気迫る必死なものになった。
「何をだ?」
イシュルに酷薄な笑みが浮かぶ。
「もうわたしには言葉で君と戦うしか術(すべ)がないのだ。わたしのすべてを晒しぶつけるしかない。わたしの言葉できみを翻意させてみせる」
ほう? なら、この結界はなんだ。
こいつは俺がこの結界に気づいている、ということがわかっていないのか?
「なら……」
「今はわたしの言をただ、聞いてくれないだろうか」
イシュルが結界について、この罠に関して問いただそうとするのを、辺境伯はかぶせるようにして遮ってきた。
「……まぁいい。なら言ってみろ。おまえが俺の驚くようなことを言ってきたなら、おまえを助けてやってもいいぞ」
辺境伯はまだあきらめていない。この罠をまだ有効だと考えているのか?
彼は、風の魔法具の力の真髄を知らないのかもしれない。
イシュルはまた別の、皮肉な笑みを浮かべた。それは自嘲だった。
そりゃそうだ。俺だってすべてを知っているわけじゃない。この男がどれだけ神の魔法具のことを知っているというのか。
「クシム銀山は我が領だけではない、王国の屋台骨を支える重要な鉱山だ。それは君もわかっていることだと思う」
辺境伯はそうやって話しはじめた。
曰く、
自領だけでなく王国のすべての人びとを救うため、一部の犠牲は厭わない。ベルシュ村だけでなくクシムも、自軍でも多くの命が失われた。
曰く、
赤帝龍を撃退することに成功した結果からすると、風の魔法具に着目したわたしの判断は正しかった。
曰く、
これからクシムを復興しなければならないわたしが今死ぬ訳にはいかない。わたしには大義があるのだ。
曰く、
何よりわたしの成す最も重要こと、それは我が領の領民の苦しみを一刻も早く取り除くことだ。領民に生きる糧を与えてやらねばならぬ。
曰く、
ベルシュ村の復興は王家が携わることになるが、わたしも助力を惜しまない。
「……これからきみは王家に仕え、かつてのレーネのように王国の安寧を図ることになるのだろう。いや、この大陸すべての人びとを救うことになるだろう」
確かに赤帝龍のような化け物を退治すれば、そういうことになるのだろう。
辺境伯は振り絞るようにして最後の言葉を吐き出した。
「わたしもきみの役に立ちたいと思っている」
イシュルは無言で辺境伯を見つめた。
辺境伯の弁明は、この世界の領主としては民本的と言ったらいいのか、なかなか先進的なものだったが、こちらからすれば何も新しい事柄はない月並みなものだった。
だが、彼の最後の言葉は悪いものではなかった。その言葉は彼の本心から出たものだと思えた。この男は、自分は民衆の安寧に力を尽くすその志がある、そこに身分や立場の違いはない、と言ってきたのだ。
俺がその能力を正しく使うのなら、俺が何者であろうとともに力を尽くしたい、と言ってきたのだ。その志自体は彼の一方的な押しつけだが。
この男も真面目なのだ。やはりリフィアと少し似ているのかもしれない。この罠に俺を取り込んで、この男にはどうしても俺に言いたいことがあったのだ。この結界の中にいる限り、彼にも魔法は使えない。
だが……。
イシュルは宣告した。
「だめだな。おまえの言っていることは俺には響かない」
イシュルは何の感情も出さずに辺境伯の眸を見つめた。
「俺は自分の持つ力を常に人びとのために役立てよう、などとは考えていない。王国だの大陸の人びとだのを救うか救わないか、それは俺が自分自身で決めることだ。俺は王国にも、どの国にも仕えない。誰の指図も受けない」
イシュルはそこで視線を鋭くした。感情をむき出しにした。
「たとえ神々に命令されようと、乞われようとも、俺は俺の考えで自分の成すことを決める。俺は俺の考えで生きていく」
レーヴェルトの顔が蒼白になった。
「なぜそんなことを……君は何者だ? 悪魔か」
「まさか。俺はわけもなくひとを苦しめたり、命を奪ったりしない。おまえと同じさ」
「……そうか」
レーヴェルトは力なく頭(こうべ)を垂れた。
そして顔をあげ、立ち上がった。
その顔からは、さきほどまでの気迫が抜け落ちていた。そのように見えた。
「では最後に、君に謝らせてほしい」
そう言って辺境伯は背を折り、両手を机の上についてイシュルに頭を下げてきた。
机の左側に置かれた燭台の蝋燭の光が、真横から頭を垂れた辺境伯を照らす。
辺境伯の背を折り曲げた長い影が右側の壁に映しだされた。
ん?
イシュルは一瞬、何か不審なものを感じた。
部屋の奥の窓がカタ、と鳴る。
視線を移すと、少しだけ明るくなった北の空に、近くを小鳥が横切るのが見えた。
セキレイ?
その鳥の影がふらふらと揺らぐと、いきなり激しく回転しはじめた。渦に巻き込まれるように。
風!?
イシュルは本能的に「手」を伸ばした。
ガラスが激しい音を立てて割れる。爆風がくる。
早見の魔法が発動する。白く光り、濁った大小のガラス片が壁となってイシュルに迫ってきた。
「……残念だったな、辺境伯」
イシュルは顎を引き、笑みを浮かべた。
辺境伯の姿がおぼろげだ。
イシュルの目の前には無数のガラスの破片が壁となって、宙に浮いていた。
間に合った。こんな仕掛けがあったとはな。
無数のガラス片はイシュルが異界から引き入れた風の魔法の壁に閉じ込められていた。
燭台が倒れ蝋燭の火が消え、部屋の中は暗い。今はガラス窓がきれいに無くなった部屋の奥、その外側の北の空の方が明るい。
あの鳥はどうなったろうか。
この部屋の外、北側で風の魔法を起こし、執務室の窓ガラスを木っ端みじんにして、頭を下げた辺境伯の頭上を俺に向けて吹き飛ばす。
俺が、俺の魔法具があの領域に通じていなければ、無傷ではすまなかったろう。
窓ガラスが割れてしまえば結界は“開く”。細かく砕かれたガラス片を、辺境伯の前に立つ者の上半身を中心に高速で突き刺すようにぶつける。対象を魔法を使えない場所に閉じ込めて、その外側から風の魔法で結界を開き、同時に先制攻撃をかける。
イシュルはちらりと執務室の扉に目をやった。
辺境伯も魔法を使えなかった。ということは、俺と同じ風系統の魔法を使う第三者がいたのだ。近くに。
この部屋の結界と、その外側にいる風の魔法使い。部屋の北側一面を覆うガラス窓……。
それがこの罠の仕掛けの正体だった。辺境伯の執務室は外部に第三の魔法具を持つ者が介在する、二重の罠だった。
「荒神の魔封よ。我が小箱に闇の力を与えたまえ。拒絶し否定し日輪をも……消し去る汝が」
辺境伯の小声で呪文を唱える声が聞こえる。
「無駄だ!」
イシュルは鋭く叫んだ。
結界は壊れてはいない。“開いた”だけだ。辺境伯はそれをまた“閉じよう”としている。
北側の窓ガラスがすべて割れても、結界はまだ生きている。
イシュルは風の魔法を周囲に走らせた。
執務室を覆う木板がバキバキと音を立てて切り裂かれ、その破片が床に落ちていく。正方形の木板が所々ずれ落ち、床に落ちていく。
切り裂かれた壁の中から、古い布切れに描かれたいくつもの魔法陣が現れた。おそらく床も天井にも同じものが設置されているのだろう。部屋の東西と南側、三方の壁から現れた魔法陣はすべて、イシュルの「手」によって切り裂かれていた。
「俺のことを甘く見たな。辺境伯」
「……」
宙に浮くガラス片の壁の向こうで、辺境伯のぼやけた影が崩れ落ちるように椅子に腰を落とすのが見えた。
大貴族の持つふたつの顔。民を想う気高い志と、隠し、騙して相手を罠にはめる悪謀。そのふたつがこの男に同居していようが別にどうということはない。騙されたとも思わない。権力を持つ者とはそんなものだろう。
おまえの末期の顔を見れないのが残念だよ、辺境伯。
これで終わりだ。
イシュルは目の前のガラス片の壁を前へ、吹き飛ばした。
遠くアルヴァの街の方から、遠雷のように低く唸る風の音が聞こえてくる。
イシュルは何の表情も面に表わさず、上半身がきれいに消えてなくなった辺境伯の死体を見おろした。
風の魔法の塊を水平に、真っすぐ吹き飛ばした。音さえ聞こえないほどの一瞬だった。
遠く北の空から聞こえてくる風の唸りは、イシュルの吹き飛ばした濃密な風の魔力がアルヴァの街の空を広く拡散していく音だった。
今や辺境伯の執務室には何の音もない。イシュル以外に生きているものの気配はない。
辺境伯の腹部に張り付いていた上着やシャツの裾が音もなく剥がれ落ちていく。
辺境伯のからだの断面からは僅かに血が滲み出てきているようだ。
その断面は鋭利な刃物で両断されたがごとく、水平できれいで、まるで何かの標本のようだった。だが室内は薄暗く、色のない外からの僅かな光にそのすべてがモノクロームに沈んでいる。
イシュルはかるく風を吹かすと、傍に這いよってくる血と臓物の匂いを追い払った。
ふと、家令らのいる控えの間の側の壁に目をやった。辺境伯が腰を折り、頭を下げた影が差したあたりだ。
今は板壁が割れて、その隙間から引き裂かれた魔法陣がちらちらと見えている。
イシュルは彼の魔法で傷のついた扉の方へ歩いて行き、がたつく扉を開けた。
扉をあけると控えの間は相変わらず暗いままだった。イシュルから少し離れてルマンドが僅かに俯き立っていた。奥のメイドたちは細身の剣をイシュルに向けて構えていた。剣先が細かく震えている。
イシュルが一歩踏み出すと、ルドミラが顔色を蒼白にして迫ってきた。相変わらずぶるぶると震えている。
「待ちなさい」
ルマンドが片手を上げ鋭く制止する。
イシュルはふたりのやりとりを無視するように執務室側の壁に向かい、何かを調べはじめた。
「これか」
イシュルが壁の木板の一部をとん、と叩くと、板の一部がめくれあがった。めくれた板を手前に広げると、内側に穴が開いていた。穴の先から隣の執務室が僅かに見える。イシュルが壁の表面を破壊したせいで、木片の一部が重なっているのか、穴の先は半分ほどしか見えなかった。
何かおかしいと思ったのだ。
辺境伯の座っていた机の上の銀の燭台は彼の右側にあった。羽ペン立てやインク壷なども右側にあった。やつは右利きなのに、照明は右側にあった。机の上で何か書き物をするのなら左側に置いた方が良いだろう。つまり、燭台は辺境伯を挟んで控えの間とは反対側にあったのだ。それもひとつだけ。
辺境伯が背を曲げれば、辺境伯のからだが影になって覗き穴から漏れてくる光は暗くなる。あるいは吹き消しても同じだ。僅かだが、中の会話も聞こえてきたろう。
辺境伯が結界を閉じようと唱えた呪文は荒神の魔法、闇系統の魔法だろう。おそらく夜に威力を発揮する結界だったのではないか。だからやつはまだ暗いうちに、急いで俺を呼び出したのではないか。この覗き穴と蝋燭の灯りの仕掛けも、夜間に使うのに適している。もちろんこの結界は魔法を対象とした結界であって、物理的な効果はない。
「ルマンド。おまえが風の魔法を使ったわけか」
家令は無言でさらに深く頭を下げた。
この男が覗き穴から隣の執務室を窺っていたのだ。隣の部屋が暗くなれば風の魔法を発動する。前もってそう決められていたわけだ。
ルマンドが顔をあげた。そしておそらくはじめて、イシュルに正面から目を合わせてきた。
「リフィアさまとモーシェさまはいかがなされるおつもりで」
イシュルはルマンドの灰色の眸を睨んだ。
「辺境伯を討って俺の仇討ちは終わりだ。彼らには手をださない」
ルマンドはイシュルに深く頭を下げてきた。
こいつはそういうやつなのか。
イシュルの心のうちに微妙な感情が沸き起こった。この男は辺境伯家が残ればいいのだ。代わりになる玉があればそれでいいのだ。それで主を殺された悲しみにも憎しみにも堪えることができる……それがこの男の大義なのだ。前世の日本人の考え方にほんの少しだけ、似ているかもしれない。
イシュルは相変わらずぶるぶる震え続けるラドミラから無言、無表情で剣とナイフを受け取ると外に出た。
ルマンドに何かしようとは思わなかった。あれは辺境伯家そのものに害をなさなければ、これ以上何もしてこないだろう。
イシュルは回廊に出るとヨーランシェに声をかけた。
「たのむ」
精霊から返答はなかった。かわりに辺り一面、建物の中も外も、小さく光る魔力の粒で覆われた。
城中の者たちの多くが眠りについた中で、辺境伯家の居館の方からただひとり、せわしなく動く者の気配がする。
イシュルが回廊を南の方へ歩きはじめると、それは鮮やかな光輪となった。
「彼女が動きはじめたよ」
どこからか精霊が声をかけてくる。
「ああ」
リフィアも居館の中を南の回廊の方へ動きだした。今まで何か逡巡するような様子だった彼女の気配が、明確な意志を持った動きに変わった。
リフィアに父の仇を討とうとする意志があるのなら、彼女から逃げるわけにはいかない。
イシュルは回廊の角を東の方に曲がった。
瞬間、居館の方からリフィアが姿を表わした。白いドレスに、白い鞘の剣を左手に持っている。
彼女は回廊の中央に仁王立ちになった。眸が赤く灯っている。
東の空は少し明るくなってきた。だが回廊の中はまだ暗い。イシュルの前に、大理石の青白くほんのり光る道がリフィアの立つその先まで続いている。
白い道……。
その向こうに佇むひとりの少女。
これは……。
突如、イシュルは心の奥深くから強烈な怒りが沸き起こるのを感じた。
「思い出したぞ」
この構図。この光景は俺がブリガールらを殺してエリスタールから出て行った夜、月の女神レーリアがメリリャの姿を借りて現れた時とそっくりじゃないか。これであの奇怪な月があればそのまんまだ。
レーリアめ。まさかこのことまでもおまえの掌の内だ、とでもいうのか!
イシュルの心は怒りに燃えた。
やつらの好きにさせてなるものか。いつかかならず、おまえたちの軛(とが)から自由になってみせる。
イシュルはリフィアに向かって歩きはじめた。
「父上の執務室で何があった」
イシュルがリフィアの剣の間合いの外、彼女の正面に立つと、リフィアは唸るように叫んだ。
彼女の声が震えている。白い鞘に銀色の柄、剣を握りしめる彼女の指先も震えている。
リフィアは顎を引いて、赤く光る眸でイシュルを睨みつけてくる。
「レーヴェルト・ベームを殺した」
イシュルは短く、ただそれだけを言った。
「なぜだ!」
彼女の双眸から涙が溢れ出した。
「なぜ……」
リフィアは全身を震わせて、それでも立ち続けた。
彼女も辺境伯の執務室で何が起きたか、おおよそのことはわかっていたのだろう。
「復讐だ。やつがブリガールに命令したんだ」
「……なんだと?」
リフィアの眸から赤い色が消えた。彼女は呆然とイシュルの顔を見つめてきた。
「辺境伯がブリガールに出した、風の魔法具探索の命令を記した書簡には、ベルシュ村の者にどんな手段をとっても構わぬと、ベルシュ家の者を拷問にかけても風の魔法具を探し出せ、と書かれてあったのだ」
「……う、嘘だ。そんな」
リフィアが力なく呻く。
「その書簡の写しを見る機会があってな。あれは本物だと俺は思った」
「写し、だと?」
リフィアの眸に、僅かに力がこもる。
「信じる信じないはおまえの勝手だ。何より、当の本人が認めたぞ? 俺が殺す前にな」
イシュルは獰猛な笑みをリフイアに向けた。
「俺の仇討ちの最後のひとり、それがおまえの父親だった。おまえにうまく取り入って、こうして難なくアルヴァ城に入り込めた。ブリガールの時のように力まかせにいきたくはなかったからな。ねらいどおり、辺境伯だけを殺すことができた」
イシュルは笑みを引っ込めると言った。
「だまして悪かったな、リフィア。おまえを利用させてもらった」
「そ、そんな……嘘だ……」
リフィアが崩れ落ちていく。
「ううう……」
クシムの山頂の、あの時のように、彼女は肩を震わし泣きはじめた。
「泣くな」
イシュルは膝を地につき泣いている少女を見おろし冷たく言い放った。
「俺はさっさとここから逃げ出したいんだ。おまえが父親の仇を討ちたいというのなら、今これからすぐなら相手になってやる」
「うっ!!」
リフィアが顔を上げた。眸から涙が溢れ震えている。
イシュルは拳を握りしめた。
なんて悲しそうな顔なんだ。
「違う! ちがううう……うう」
リフィアはその声をふり絞るようにして叫んだ。
「おまえが教えてくれたこと、あれは……あれは、じゃあ何なんだ……」
リフィアが剣を落とした。両手をイシュルの方へ差し伸べてくる。
「イシュル……違う、違うんだ。わたしは……わたしは!」
イシュルは、彼にむかって両手をかかげてきた少女の一切を無視して言った。
「仇を討つ気がないのなら、俺はお暇させてもらう」
「うううう、うああああああ」
リフィアが地にひれ伏し激しく泣き叫んだ。
イシュルは彼女から距離をとって彼女の横を通りすぎた。彼女の激しく泣く声が背中にまわっていく。
俺はおまえの父親を殺したんだぞ? それ以外にいったい何があるというんだ。
父を殺した俺とおまえに、ともに歩んでいくどんな未来があるというのだ。
イシュルは前を見た。
回廊の少し離れた先に、精霊が白い柱に背をもたれさせ立っていた。
「ぼくはそろそろ帰るよ」
ヨーランシェが声をかけてくる。
「ああ。ありがとう。迷惑かけた」
イシュルは目も合わせず答えた。
「どういたしまして」
精霊は呻き泣き崩れている少女の方にちらっと目をやった。
「……彼女の手を、とってあげればよかったのに」
そんなことできるわけがない。
イシュルがヨーランシェを睨みつけようとすると、彼は半ばその姿を消しつつあった。
「ふふ。じゃあまたいつか、ね?」
その声とともに彼の姿が消えた。
イシュルは回廊の南の空を見た。
その時だった。イシュルの左頬を明るく照らす光線が走った。回廊を光が駆けていく。
日の出だ。
そして、陽が当たりはじめた回廊を、陽の光までも切り裂くような鋭い叫び声があがった。
「わたしは! ……わたしは敵討ちなどしない、そんなことしない!」
リフィアがイシュルの背後から泣き叫んでくる。
「わたしは、わたしはかならずクシムで死んでいった者たちの、遺された者たちの償いをする、してみせる!」
悲痛な、叫ぶ者も聞く者も、この世のすべてを切り裂くような叫声だった。
「……イシュルが教えてくれたから。ううう、だから、……だから」
リフィアの呻く声が回廊を響いてくる。
イシュルの頬をひと筋の涙が流れ落ちた。
そうだ。
その意気だ、リフィア。
それでこそ、おまえは太陽だ。
あの狂った道化の言ったことは間違ってなかった。
イシュルは顎を引き、歯を食いしばった。
……見てはいけない。
さよなら、リフィア。
イシュルはリフィアにひと目もくれず、回廊から南の空へ飛んだ。
その日、イシュルは王国から姿を消した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます