白い道 1
街の北側だからか、ほとんど畑地も農家も見ずに、気づくとアルヴァの市街地に入っていた。
街中に緑が多いのは、古い神殿や昔の朽ちた城壁などが、家々を挟んで至る所に存在しているからだった。それらは壊され除かれることもなく放置され、周囲を多くの木々で覆われていた。幾つかの神殿には手入れされているものもあって、今も使われているようだが、神官が常駐しているようには見えなかった。
「街中の遺跡は」
イシュルはマリカたちに質問した。
「ひょっとしてウルク王国の頃からのものなのかな?」
古代ウルク王国の都はここ、現在のアルヴァの辺りにあったとされる。
マリカが頷いた。
「ええ。そう言われています」
「街の子どもたちのいい遊び場になっていますわ」
とラドミラ。
「わたしも小さい頃、よく遊んでたよ」
ヨアナが明るい声で言った。
隊列が街の中心部に入って行くと、街の人びとが街路沿いに集まって来た。人びとは隊列の先頭近くを行くリフィアの姿を目にすると、「姫さま!」「リフィアさま!」と声をかけてきた。
この輜重隊はフゴに残置され赤帝龍と戦わなかった討伐隊唯一の生き残り。リフィアも含めた彼らは敗残部隊だ。これが凱旋であるなら、城に先触れを走らせ出迎えの準備をさせ、街の人びとにも広く知らされていた筈である。
今の時点で、アルヴァの人びとにクシムで起こったことがどれほど伝わっているかはわからない。沿道に立つ人びとの中には、部隊の帰還を祝福する者たちに混じって、浮かない顔をして無言でこちらをじっと見つめている者、リフィアも隊列もそっちのけで、ひそひそと仲間うちで話しこんでいる者たちも少なからず存在した。
イシュルは荷馬車の荷台の上から沿道に集まって来ている街の人びとの様子、彼らの表情をひと通り観察すると、ふと頭上を仰いだ。そこには、街路の両脇にそそり立つ建物と建物の間に、細く切り取られた冬の澄んだ青空が見えた。
豪奢な石造りの建物が密集した街の中心部を抜けると、アルヴァ城の北側の、練兵場や馬場のある大きな広場が現れた。手前の水堀を渡り、左右にふたつの塔が立つ城門をくぐると、練兵場の向こうに、さらに水堀を挟み、山を水平に削って立てられたアルヴァ城の内郭が聳え立っていた。
白い柱が上部でアーチ状に接続され連続する、長大な白亜の回廊がアルヴァ城の内郭を覆っていた。
回廊の表側には、冬の力強さはないが尖鋭な陽光がそそがれていた。イシュルにはそれが回廊そのものから光が発せられ輝いているように見えた。連続するアーチの内側には光と影の織りなす幾何学的な立体模様が描かれ、視覚を通じて沸き上がる陶酔に一瞬、心が愉悦に震えるのがわかった。
回廊の下部の山の斜面は緑に覆われ低木がまばらに立っている。回廊の内側、上部からは落着いた青灰色の屋根の城館や幾つもの城塔が見えた。
部隊はここで解散することになった。副団長が下馬した騎士や兵らを集め簡単な訓示、その後広場の東側、木々の向こうにちらちらと見える兵舎の方へ、騎馬や徒歩兵、荷馬車が向かって行った。同行していた領民たちが副団長に頭を下げて、城の城門を街の方へ出て行った。
領民の姿が城外に消えると、副団長は馬上のリフィアに向かって歩き出した。途中、ひとり離れて広場の端の方に立っていたイシュルの方に顔を向け、かるく目礼して通り過ぎていった。
副団長の目礼には、ゾーラ村でイシュルを部隊から追い出そうとした件で怒ったリフィアに、イシュルが口添えしたことに対するお礼の意味が込められていたのだろう。
リフィアは馬上のまま、副団長自らが馬を曳き、その横にラドミラとヨアナが並んで、白亜の回廊の東側に少し離れて立つ頑丈そうな石造りの城館の方へ、山裾に設えられた道を登って行った。
リフィアは相変わらずご機嫌斜めらしく、イシュルに一切視線を向けてこなかった。
リフィアたちの姿が山の上に姿を消すと、メイドでひとり残されたマリカがイシュルの方へ近寄ってきた。
マリカはイシュルの前まで来るとあらたまった様子で姿勢を正し、両手の指先を揃えてからだの前で組むとかるく一礼して言った。
「アレクさまには城内にてお部屋をご用意しております」
そしてにっこり笑って、「こちらへ、わたくしの後についてきてください」と言った。
ふたりは広場の中央奥、ほぼ正面にある石造りの階段を登って行った。山の上、というよりは丘の上、と言った方が正しいか——に上がると、そこは一面、よく手入れされた石畳で覆われたまたも広場になっていた。
左手にはリフィアたちが入って行った、暗い灰色の武骨な石造りの城館があった。右手には広場に面して白亜の回廊が聳え立っていた。ここが回廊の正面にあたるのか、より高い柱とアーチ、屋根にあたる部分には柱から伸びた複雑な装飾の施された小さな尖塔が並んで立っていた。
イシュルは広場の中ほどで足を止め、しばらくその荘厳な回廊の姿を眺めた。
マリカはイシュルの、誰もがとるであろうその反応に慣れているのか、彼から少し離れたところで笑みを浮かべ無言で待っている。
イシュルは建築の意匠に関してあまり詳しい知識は持っていないが、普段目にする聖堂教の神殿などが、古代ギリシャやローマ建築の亜流のような体裁なのに対し、目の前の回廊にはそれに加えて、近世以降のバロック建築のような複雑な要素が加味されているように感じられた。
イシュルは回廊から視線を逸らすとマリカの方に、待ってもらったお礼の意味でかるく頭を前に振って微笑みかけ、彼女の方に歩いて行った。
銀山だな。クシムから産出する銀がこの回廊に化けたのだ。東の山々からは昔は金も採れたという。古代ウルク王国の繁栄も、背後の山岳部から産出した金銀によってもたらされたのだ。
「回廊に主に使われているのは大理石でしょう。これだけの石材をどこから集めたんですか」
イシュルはマリカの傍に来ると彼女に質問した。
「今はほとんど採れないみたいですけど、昔はアルヴァの南東、聖王国との国境近くの山に石切り場がたくさんありました。アルヴァ城の白亜の回廊はそこから運んで来た石でつくられた、と聞いています」
さすがはリフィア付きのメイド、基本的な知識はちゃんと持っているようだ。彼女らの生まれも悪いものではないのだろう。下級貴族の一族の端くれ、富商の娘で行儀見習い、そんなところだろうか。
イシュルたちが回廊正面の南側へ歩いて行くと、お城の奥、西の方へ一直線に伸びる南側の回廊が見えてきた。その回廊の奥から、黒服に身を包んだ初老の男がこちらへ歩いて来る。
背をピンと伸ばした痩身の初老の男。見た目は執事そのもの。男はイシュルの前に来るとかるくお辞儀をして言った。
「当家の家令をしておりますルマンド・ブランと申します。アレクさまにお部屋をご案内するようリフィアさまより仰せつかっております」
ルマンドは渋い低い声音で言い終わるとマリカに目をやり、無言で懐から鍵の束を出して渡した。
マルカは深いお辞儀をして鍵を受け取る。ルマンドはイシュルに一瞬たりとも目を合わせてこなかった。
家令のルマンドを先頭にマリカ、イシュルの順で白亜の南側回廊を歩いていく。
イシュルはマリカの肩越しにルマンドの背中を見つめた。ゾーラ村でリフィアに手紙を書いて寄越したのがこの男だった。簡潔な文章に、踊るような筆致の署名だった。
靴音が回廊を反響していく。先の方に回廊を行き来する、黒いメイド服の使用人の小さな姿が幾人か見えた。
イシュルはありきたりな既視感を憶えた。まさしく前世のどこかで似たような場所を歩いた記憶がある。出張先で立ち寄ったり観光で行った、ブランデンブルグ門かサン・ピエトロ大聖堂か、そこら辺りだろう。あれらは確か円柱だったし、回廊ではなかったし、似て非なるものだ。特にこんなに白く光沢があるわけではなかった。だが雰囲気は似ているかもしれない。
思ったより早く、回廊の三分の一ほど歩いたところで家令が立ち止まった。
右側のアーチをくぐり、正面の二階建ての館の前に来る。マリカが両観音の大扉を開け、中に入る。中は濃い赤茶の木板とグレーの洋漆喰の壁、床も赤茶の木板、二階まで吹き抜けのホールになっていた。
両脇には二階に昇る階段が伸びている。左側の階段を昇り、中央の廊下を奥に進む。廊下には濃い赤色の絨毯が敷かれている。この世界に転生してからは経験したことのない厚さだ。
イシュルは壁の上の方に均等に並ぶランプ掛けにちらっと目をやる。なかなかのグレードだ。廊下の突き当たりには小さなホールがあり、奥には周囲を豪奢な装飾で囲まれた観音開きの大きな扉があった。おそらく王族や大貴族が宿泊するような貴賓室なのだろう。
家令は三つ目の右側の扉の前で止まった。重厚な扉が開かれると丸椅子が幾つかと壁際に家具が並んだ小部屋、左右に扉がある。ガラス窓が大きい。
「左が居間兼書斎に寝室、右が手洗いとなっております」
ルマンドが説明してくる。
「こちらへ」
マリカが右側の扉を開け、中に入っていく。続いて中に入ると床から壁の半分ほどの高さまでが珍しいタイル張りになっていた。手前のスペースには素焼きの大きな壷が二つ並び、柄杓やブラシ、壁には小さな鏡。奥がトイレになっていた。下は丸い陶器製の便器、紐が二つ垂れ下がり、その紐の上部は滑車やてこになっているのか幾つかの棒や板が組合わさり、左右に並ぶ素焼きの壷と組み合わされている。壷の下には素焼きの大きな漏斗、下へ銅管が伸びて便器の裏側につながっているようだ。
さすが銀山所有の大貴族。これは水洗トイレだ。飾り紐を引っぱると上の壷の口が斜めに下がり、水が下に流れ落ちるようになっている。紐の引っぱり具合にちょっとしたコツが必要だろうし、上の壷の水が無くなれば、壷を仕掛けからはずして水を補給しなければならないが。
「水洗式なんだね」
イシュルがマリカに言うと、マリカは驚いた顔をした。
「はい、そうです。よくご存知ですね」
「この紐を下に引っ張ると壷が傾いて水が流れるんでしょ? 二、三回使うと交換だね」
「はい、前にどこかで……」
「そうだね」
イシュルは呟いた。
「昔にね」
「しばらくお部屋でお休みください。夕食のご用意ができましたらお呼びいたします」
いくつかの注意事項などを説明すると、ルマンドたちは部屋を出て行った。イシュルは左側の扉を開け、ルマンドが居間兼書斎と言っていた部屋に入る。部屋には食卓としても使えそうな大きな机に低く小さなテーブルがふたつ、大小の燭台が乗っている。そして椅子が数脚、ほとんど本がない書棚。
書棚の本は、聖堂教の聖典に辺境伯家史、辞書等で特に興味を惹くものはない。
部屋の奥の扉を開ける。次の部屋は家令の説明どおり寝室だった。
窓がふたつ。奥の方は開いている。ベッドは天蓋付きだった。
「ん?」
ベッドの上に人影が。寝ているのか? まずいな。気配が薄いせいかぜんぜん気づかなかった。
「……」
これまた珍しい薄いレースのカーテンをめくると、リフィアが寝ていた。
鎖帷子に明るいグレーのタイツ、ブーツは履いたまま。さすがにマントはつけていないが、城に着いた時のままの格好だ。
あの東側の城館に入った後、すぐにこの部屋に向かったのだろう。そしてあの開きっぱなしの窓から入ってきた。
しかし、よくこの部屋だとわかったな。館の外にいて、こちらが扉を開けるあたりで気配を読んで寝室に侵入した、という感じか。
それでこの短い間で寝入ってしまうのか。
イシュルはベッドにさらに近づき、リフィアを見おろした。屋内の柔らかい光が彼女を包むように照らしている。
よほど疲れがたまっていたらしい。……なんだか懐かしい感じがする。
イシュルは目を細めた。
その視線が彼女の長い睫毛に落ちる。そして鼻筋を通って、その唇に吸い付けられる。
まずい。
抗えない何かに囚われそうになって、イシュルは思わず後ずさった。
リフィアとふたりきりになること、これは俺が恐れていたシチュエーションじゃないか。
リフィアが目を醒す。
薄く開かれた彼女の眸は何を見ているのか。右手が持ち上がりイシュルに向かって差し出される。
イシュルはその手をとろうとする……。
「!!」
互いの指先が触れようとする瞬間、リフィアが完全に目を醒した。
「あああ」
リフィアが顔を真っ赤に染めてぐいっと上半身を起こした。
危なかった。
何も考えられなかった。何も考えずに彼女の手をとろうとしていた。
イシュルは何気に手を引っ込めると、無理に意地の悪そうな笑みをつくって言った。
「なかなかお茶目なお姫さまだな。窓から入ってきたのか」
軽口をたたく。いつもの調子でいこう。
「うううっ」
「あー、とか、うーとか、何を言ってるかぜんぜんわからないな。姫君、お手をどうぞ」
イシュルは一度引っ込めた手を再びわざとらしく、もったいぶって伸ばし、リフィアの手をとった。
そして彼女をベッドから引き上げその前に立たせた。
「……」
リフィアはさかんに眸を瞬きし唇を震わせ、顔を真っ赤に染めて混乱している。照れたままでいいのか怒ったらいいのか、どうしたらいいかわからない感じだ。
「この部屋の手配はおまえが指図したのか? よくわかったな」
リフィアが鋭い視線を向けてくる。
「そんなことはどうでもいい!」
おっと。
恥ずかしがるのはやめて、どうやら怒ることにしたらしい。
「ところでおまえ、マリカたちに薔薇の花を贈ったらしいな。まったくこの、女誑しが!」
ほえ?
「なんだそれ」
野薔薇のことか。それがなぜ女誑しに?
「三人とも、アレクさんからいただいたの、とうれしそうに、その……」
唖然としているイシュルにリフィアは何を思ったか、その鋭鉾も急速に力を失い尻すぼみになっていく。
ははぁ、なるほど。
「メイドさんたちにあげた野薔薇のことか」
野花を一輪あげただけなのに。そんなに気になっちゃうのか? この純真無垢なお姫さまは。
リフィアは今度はそっぽを向いて視線も合わせてこない。
ああ、駄目だ。弄らずにはいられない。深入りしたらいけないのに。
「リフィアに野薔薇は似合わんだろう」
イシュルは窓の方に歩いていく。そして窓の外、空を遠く見やりながら言った。
「大陸の西の遥か彼方、大海の向こうに青い薔薇が咲く地があるという……」
ちなみに窓は東側に向いている。
イシュルは言いながら、ちらっとリフィアを見やる。まだそっぽを向いているが、感じはだいぶ柔らかくなった。
もちろん、完全に口からでまかせである。この世界に植物の高度な品種改良の技術などあろうはずがなく、青い薔薇、なんてものが存在するわけがない。
イシュルは空を無言で見つめ、かるく間をとるとリフィアに振り向いて言った。
「リフィアは青い薔薇を見たことがあるか?」
「知らん。青い薔薇など見たこともない」
リフィアはそっぽを向いたまま答えた。
「青い薔薇は、この世には絶対に存在しないものなんだ。今まで誰も目にしたことのない、それこそ神だけが愛でることのできる希少な、それはそれは美しい花だ」
だがこの世界には魔法がある、神々や精霊が姿を現す。青い薔薇もどこかに咲いているかもしれない。
リフィアがちらっとイシュルを見る。
「それがどうしたと言うんだ」
イシュルは窓辺からベッドの傍に佇むリフィアに向かってゆっくり歩いて行く。
「そんな青い薔薇こそリフィアにふさわしい」
リフィアがはっと、顔を向けてくる。
イシュルはリフィアの前に立つとその手をとり、彼女の胸元まで持ち上げて両手で包みこんだ。
「俺がおまえのために、その最果ての地に行って青い薔薇を摘んでこよう。その青い薔薇をおまえに捧げよう」
「うっ……、イシュル……」
リフィアがまっすぐイシュルを見つめてくる。リフィアの瞳に映るイシュルの姿が揺らめく。
もう顔を赤らめ照れている場合じゃない。これからイシュルが話すこと……。リフィアの顔はむしろ青ざめていた。彼女は緊張してイシュルの次の言葉を待った。
「……」
イシュルが固まる。次の台詞が出てこない。
しまった。オチを考えてなかった。
「イシュル?」
リフィアが僅かに首を傾け、黙りこんでしまったイシュルに小さな声で問いかけてくる。
本来ならイシュルはここで、彼女に愛の告白をしなければならなかった。
だがそんなことをできる筈もなかった。
自分ではじめておきながら、一場の喜劇と済ませることもできなかった。
「……イシュル?」
リフィアの声が低くなる。
あわわわ、やばい。これはまずい展開だ。
だがリフィアは暴発しなかった。彼女はため息をつくと、イシュルに握られた両手を引っこ抜いて言った。
「おまえのやり口はもうわかってる」
リフィアはイシュルから顔を逸らすと唇を尖らし、ベッドの脇に垂れ下がった房付きの紐を引っ張った。
イシュルは目の前に積み上げられた紙の束を呆然と見つめた。
「この三流役者の詐欺師が」
リフィアが仁王立ちになって机に向かってしょんぼり座るイシュルに言った。
「あまりに酷い言いようじゃないか。詐欺師の三流役者だなんて」
まぁ、確かに俺は詐欺師そのものだ。だが俺は三流も何も役者じゃない。
「うるさい。この紙の束が何かわかるな?」
イシュルは鼻を鳴らした。
彼の前にある紙の束、それはリフィアがゾーラに滞在中、暇をみつけては書き連ねてきた、討伐隊戦死者遺族に対する補償や資金の集め方に関する覚書だった。イシュルに教えられたことを忘れないようにと、彼女が自身の考察も加え端正込めて書き綴ったものだ。
「わたしはこれから、クシムでの戦闘の詳しい報告をまとめなければならない。おまえと遊んでいる暇はないのだ」
リフィアは彼女にしては珍しい、意地の悪い笑みを浮かべる。
「わたしが相手をしてやらねばおまえも暇だろう。明日までにこれに目を通して、何かおかしいところがあったら指摘しておいてくれ。わたしの書いたものに直接書き加えてもらってかまわない」
「おまえがそんな意地悪な顔をするようになってしまったとは。きっと俺のせいなんだな。かつては純真無垢なお姫さまだったのに」
「ふん。かつてとはなんだ。かつてとは。わたしは今でも純真無垢だ」
リフィアも随分と慣れてきたものである。
「あーそう。ところでなんで明日までにやらないといけないんだ?」
リフィアは真面目な顔つきになって、
「父上がお帰りになる前に、家人の事務方らに回覧させ、わたしから説明する時間を設けたい」
と言った。
「父君に見せる前に根回ししておくのか。ちゃんと考えているじゃないか」
「ふん。当たり前だ。そんなこと」
リフィアは両手を胸の前で組んでかわいらしくそっぽを向く。
イシュルはそんな彼女の様子をちらっと、横目で窺うように見た。
リフィアが寝室の紐を引くとしばらくして、メイドのラドミラが紙の束を抱えてイシュルの部屋にやって来た。
リフィアは最初から、自身の覚書に対する添削をイシュルにお願いする気でいたらしい。先に寝室に忍び込んでいたのはイシュルを驚かそうとしたのか、イシュルがメイドたちにあげた野薔薇の一件が気にかかっていたのか。
「わたしは今晩の夕食は母上と弟とともにする。おまえはこの部屋に食事を持ってこさせるからひとりで食え。わたしをからかった罰だ」
「 “食え!”などと下品な言葉使いをしちゃだめだよ? お姫さま」
「確かにおまえのせいだな。おまえと話すようになってから、わたしも随分と品下ってしまった」
言うようになったじゃないか、リフィア。
リフィアは相変わらずつん、としてイシュルに目を合わそうとしてこない。
「リフィアの弟さんはいくつだ? 名前は確か……」
「モーシェだ。今は十歳だ」
「そうか」
イシュルの脳裡にルセルの面影が浮かぶ。
俺が村を出る日、最後に見たルセルも同じくらいの歳だった。あの時はまだ十一歳、だったかな。
「ああ……、あの」
イシュルの心に暗い影が差すのを敏感に察したリフィアが急に態度をあらため、イシュルの方へ顔を向け動揺をあらわにする。
「ん? どうした?」
イシュルは笑顔をつくってリフィアを見上げた。
「い、いや……」
「おまえの書いたやつは確かに目を通しておくよ」
「あ、ああ。頼む」
リフィアは神妙に頷くと、沈んだ顔つきでその場にしばらく佇んでいた。イシュルは無言でいる。やがて彼女は、それではと小さくひと言、部屋の廊下に出る扉の方へ向かった。
イシュルは浮かべた笑みを歪めて彼女の背を見た。
ルセルの顔を思い出すだけで冷たくこみ上げてくるものがある。
城に着いてからリフィアの態度が少し変化した。以前のようにこちらのからかいに乗ってこないし、感情をあらわにすることも抑えているように見える。アルヴァ城は彼女の家であると同時に、辺境伯家の者として責務を果たさなければならい場所でもある。彼女にもやらなければならない事がたくさんある。彼女にとって自分の家はただくつろぐだけの場所ではないのだ。彼女の変化はそれ故のものだろう。
それは俺にとっても同じだ。ここは俺にとって敵地のようなものだ。
辺境伯の懐に入っていよいよその時が迫ってきたからなのか。たまたまリフィアの弟がルセルと同じ年頃だったからか。
だから、最近はやり過ごせるようになっていた、この胸の痛みが再び俺を強く苛んでくる。俺は感傷的になっている。
ルセルの面倒をもっと見てやれば良かった。これをやれ、あれを直せと、ぐちぐち小言ばかり言ってないでもっとやさしくしてやれば良かった。肉親の死を想うとき、それはいつも悔恨ばかりだ。
レーヴェルト・ベームが一通の手紙をブリガールに送っただけで……。
「送っただけで、何が起きたと思う? それだけで弟の未来も閉じてしまった」
イシュルは誰にも聞こえない、小さな声で呻くように言った。
未来を奪われたのは弟だけじゃない。何百もだ。父さんも、母さんも。
リフィアと恋愛ごっこをしている場合じゃないよな。おまえを騙す? それがどうした。
今すぐにでも、口許から漏れ、吐き出し盛大にぶちまけてしまいそうだよ。この怒りと殺意を。
「ああ、そういえば……、青い薔薇、いつかかならずわたしに持って来てくれよ」
リフィアが扉を開けて振り向いた。
「忘れないから」
リフィアは今は、イシュルのやろうとしていることを知らない。たとえ自城に着いて彼女が気持ちを切り替えたとしても、その瞳のたたえる光にまったく変わりはないように見えた。
「大丈夫さ。“神の祝福”があればかならず見つかる」
イシュルはそれまでの笑顔をあらため、微笑みなおした。
この世界では誰も知らない、誰にもわからない皮肉を込めた、それは青い薔薇の花言葉だった。
扉が閉まる。リフィアの横顔は赤く染まっているように見えた。
確かに俺は詐欺師かもしれない。
……俺が村に再び戻ってきた時、ルセルは骨になっていた。俺の弟の顔の本当の最後の記憶。それはルセルの頭蓋骨、髑髏(しゃれこうべ)の顔だ。
イシュルはリフィアが部屋を出ていくと、顔を俯かせ力なく椅子から立ち上がった。隣の寝室に移動する。
窓が空きっぱなしになっていた。城内は静かだった。外からは何の音も聞こえてこない。
イシュルは部屋の中でしばらく瞑目し、リフィアが建物の外へ出て離れていく気配を追った。この宿泊施設の内外にも気を配る。ひとのまばらな気配が散在しているが特に不審は感じない。
「イヴェダよ、願わくば我(わ)に汝(な)が風の精霊を与えたまえ、この長(とこ)しえの世にその態を発したまえ」
イシュルは目を閉じたまま精霊を召還した。
開いた窓からかろやかな風が吹き込む。
「お呼びかな? 剣さま」
目を開くと、半透明の若く美しい男が窓枠に腰掛けていた。
見かけの年齢はイシュルより少し上か。青年とも少年とも言えない、微妙な不安定さが彼の美しさを際立たせている。背には矢筒を背負い、左手に小さめの弓を抱えている。
“大人になった”ピーターパンか、若きロビンフッドか、そんなイメージだ。
精霊はイシュルを見て微笑んだ。
微笑んだ瞬間、その時だけ爽やかな、風そのもののような魔力がイシュルに向かって吹いてきた。
「はじめまして。俺の名はイシュルだ。知っていると思うけど。きみの名は?」
「ああ。ぼくの名はヨーランシェ・イングヴァルェ。よろしく。剣さま」
武人だろうと危ない美女だろうと、美少年だろうが面倒な名前であることに変わりはない。
「早速だがお願いしたいことがいくつかある。ああ、えーと。ヨーランと呼んでもいい?」
「いいよ」
精霊が微かに顎を上げて微笑む。
美しい、同性でさえ蠱惑的と感じてしまう微笑。
イシュルは思わず心の中で、「俺は男だ!」と叫んだ。
「えー、ごほん」
イシュルはわざとらしく咳払いすると、本題に入った。
「この城にいる三日間ほど、俺の身辺警護をしてほしい」
ヨーランは微笑を浮かべたまま、黙って頷いた。
「特に夜間、俺が寝ている間と、毒見もしてほしいんだ」
「いいよ。毒見とか、ぼくはあんまり得意じゃないけど」
ヨーランシェはそう言いながら、左手の人差し指で弓柄をとんとんと叩いた。
「まかせて」
その日の夕食、リフィアがひとりで食え、と言ったとおり、イシュルは割り当てられた客室でひとりでとった。給仕には辺境伯家の使用人が男女ひとりずつ、ふたりついた。
食事はもちろんそれなりに豪華なものだったが、ふたりもつくのは過剰に思える。メイドの方がイシュルの傍につき、男の方は扉側にやや離れて立っていた。飲みものなど追加のオーダーに備えたものであろうが、イシュルには監視されているような感じがして、久しぶりの御馳走も充分に味わえなかった。
……それは大丈夫。毒物の感じはしないよ。
イシュルが新しい皿に手をつけようとすると、精霊の声がイシュルの脳裡に微かな反響をともなって聞こえてくる。
イシュルはヨーランシェに、常人はもちろん、魔法使いにも感ずかれないよう、姿や気配を消して自身の周囲を警戒してもらうことにした。精霊は自ら姿を現そうと思わない限り一般の人間には見えないが、魔法使いや神官、つまり風や火など五系統の魔法具を持つ者、リフィアのような無系統でも強力な魔法具を持つ者にはふつうに見ることができる。
ヨーランはそういった者たちからも姿や気配を隠せる、ということだったので、それを常態として自身の警護をお願いした。ふたりの会話も、イシュルの方からは口の中で呟くかたちにして他の者が傍にいても聞かれないようにした。
食後は同じ使用人に大きな共同の浴室に案内されひと風呂浴び、その後は自室にランプと蝋燭を手配してもらい、リフィアの覚書に目を通した。
イシュルはリフィアの書いた書面には直接筆を入れることはせず、辺境伯家で発行する債券の利率の設定や、クシム復興に参入する商人の選定には縁故に偏らず、相見積をとったり計画書を提出させ優劣を競わせること、資金の運用、借入や担保など全般に関し信頼のおける外部の助言者を、アルヴァの商人ギルドや、辺境伯家と長年取引のある商人の中から数名ほど選出すること等を別紙に書き添えた。
「じゃあ、俺が寝ている間の護衛、たのむよ」
イシュルは就寝時、ベッドの上から精霊に話しかけた。
「わかった」
暗い寝室の中、天蓋を背景にヨーランシェの姿が浮かびあがる。
「いいんだね?」
精霊の確認してきたことは昼に召還した時にふたりで話し合ったことだ。暗殺者が現れた場合、殺さずに眠らせるなり、城内を彷徨わせたりしてくれ、とイシュルがヨーランシェに頼んだのだった。
「ああ。それであきらめないで再び襲ってくるとしても、眠らせるなり迷わせるなりをまた繰り返してほしい」
イシュルはベッドに横になったまま笑みを浮かべて言った。
「もし万が一、きみの魔法が効かないやつが現れたら俺を起こしてくれ。俺が直接始末する」
精霊が微笑み返した。
「イシュル? イシュル!」
少女らしい甘い声音に男っぽい少し乱暴な感じ……。
「お早う」
イシュルは上半身を起こすと目をこすった。
「寝坊だぞ」
ベッド脇のカーテンからリフィアの顔が覗いている。
そこにはやさしげな、そしておそらくはイシュルを愛おしむような表情も垣間見えた。
……ふむ。久しぶりにいいベッドで寝たせいか、寝過ごしてしまったらしい。
眠っている間も問題はなかったようだ。ヨーランから起こされることもなかった。
「今日はわたしの母上と弟に挨拶してもらう。いいな」
リフィアが表情をあらため固い口調で言った。
なるほど。仕方ないか。正直あまり顔を合わせたくはないんだが。
イシュルはベッドから出ると目を見はった。
リフィアが僅かに頬を染め、顔を逸らしている。
彼女は光沢のあるシンプルな白い裾の長いワンピース、ドレスに身を包んでいた。色味的には何かポイントが欲しいところだが、彼女の銀髪と相まって清廉な輝くような美しさがあった。
「わたしだってお城ではこういう服装はする。する時はする」
イシュルが言葉もなく呆然としていると、リフィアはたまらず、言いわけするように言ってきた。
「きれいだ。リフィア」
イシュルのストレートなひと言にリフィアは顔を真っ赤に染め、全身をコチコチに固めた。
ボン、と彼女が照れて赤面し、白煙の立ちのぼる絵柄が一瞬、見えたような気がした。
その後、城内のイシュルと同年輩の使用人の服を手配したのか、上は白いシャツに紺色の小さなスカーフ、下は黒いズボン、という服装に着替えて辺境伯夫人と嫡男に面会することになった。上着を着るように言われたが、イシュルは気が進まず、礼儀にもとることだがやんわりと断った。流しの賞金稼ぎという立場なのだ。少しくらい礼儀に反してもどうということはない。
夫人らとの会見は、城の内郭部を東西に分断する水堀を渡った西側にある天守の建物内で行われた。南側の回廊を西の方に歩いて水堀を渡ってすぐ、回廊の内側に大きな城館があり、建物の西側はさらに大きな天守と接続していた。
家令のルマンドの案内で城館の両観音の扉を開けて中に入るとそこそこ大きなホールがあり、中央に奥へと向かう数段の低い階段があった。その階段を登り中二階ほどの高さの中央の廊下を奥に進むと、
再び小さなホールがあり、その東側に薄いベージュのドレスを着た中年の婦人とこぎれいな服装の十歳くらいの少年が立っていた。ふたりの周囲には少し離れて数人のメイドたちが姿勢を正して立っている。
イシュルは家令の口上で辺境伯夫人に紹介された。ルマンドがリフィアを救ったアレクの活躍を話す間、イシュルは右手を胸に当てて左膝を立てて跪いた。ここは辺境伯夫人に対する礼式をとるのなら右膝を立て左手を胸にやるべきだった。だがイシュルはあえて辺境伯家の次期当主である嫡男、リフィアの弟であるモーシェを主とする礼式をとった。
「面をあげられよ」
家令の声に顔を上げると中央の夫人と右にモーシェ、その左にリフィアが立っていた。
「娘を救っていただいて感謝しています。アレクとやら」
夫人は満開の笑顔だった。モーシェに対する礼式をとったのが効いたのかもしれない。隣でリフィアも微笑んでいる。
「ははっ」
イシュルはそれらしく畏まって返事をすると頭を下げた。
辺境伯夫人は王都のテュべラーク公爵家の出だった筈だ。夫人は明るい金髪の整った顔立ちで、その笑顔にイシュルを見下すような冷たいものは微塵も感じられなかった。
「ぼくからもありがとう、アレク殿」
続いてモーシェから言葉があった。まだ声変わり前の高い柔らかい声だ。
「ははっ」
イシュルは再び顔をあげ、モーシェには微笑みを浮かべて答えた。
モーシェは母と姉の中間のような銀髪が少し混ざった明るい金髪、そして姉に負けない美貌の少年だった。
この子もあと何年かすれば俺を親の仇とねらうようになるのか。
イシュルの胸に苦いものが湧いた。
その後夫人らと二、三言葉を交わし、辺境伯の家族との会見が終わった。
会話の際、終止穏やかな空気を醸し出していた辺境伯夫人のイシュルを見る目に一瞬、冷たい、彼を値踏みするような、警戒するような色が浮かんだのをイシュルは見逃さなかった。彼女もまた王国の名門貴族の女なのだった。あるいは母親としてリフィアのイシュルに対する態度に何か感ずるものがあって、イシュルを見る目に一瞬厳しいものが混じったのかもしれなかった。
家令のルマンドやメイドたちは夫人たちに着いていき、その場にはリフィアとイシュルだけがとり残された。リフィアはにこにこしてなぜかとても上機嫌だった。
イシュルはリフィアに声をかけた。
「リフィア、忙しいところ申し訳ないが、簡単にでいいからお城の中を案内してくれないか? せっかくだから白亜の回廊を一周してみたいな」
リフィアの笑顔が大きくなる。
「わかった。イシュルのために特別に時間をあけてやろう」
辺境伯家の使用人ではなく、できればリフィアに城内を案内してもらうこと、それはイシュルが当初から考えていたことだった。辺境伯本人をノストールからアルヴァに到着する寸前で襲撃する計画に変更はないものの、城内の様子を知っておくことは必要なことだ。そしてリフィアに案内させた方がより多くの情報が得られるだろう。
辺境伯家の居館を出ると、回廊を右に曲がる。曲がるとすぐに大きなホールが現れた。天井が高い。城の天守と思われた建物の中心はこの大きな広間だったのだ。何本もの柱が高く天井まで伸びて支えている。
「ここが謁見の間だ。ここで時々舞踏会などの祝事も催される」
「なるほど」
……あんまり感じないかな。
ヨーランシェの声がイシュルの心の中に響いてくる。
ヨーランには自身の警護の他に、機会があれば城内に魔法的な仕掛け、例えば迷いの魔法など何かの結界が施されていないか、探るように頼んであった。彼は謁見の間に特に怪しい気配は感じない、と言ってきたが、それはこの場所を警戒すべきだとの疑念を持ったことの裏返しでもあった。端から問題がなければ彼は何も言ってこない。
謁見の間の奥は数段の階段があり少し高くなっていて、そこは濃い赤色の絨毯が敷かれ、真ん中にぽつんと赤い座面の金色椅子がひとつ置かれていた。遠目には繊細な感じで華奢に見えた。その奥の両脇には絨毯と同じ色の赤い厚地の幕が、中央には辺境伯家の紋章が描かれた大きな旗が垂れ下がっていた。ホールの端の方には数人、床や柱を拭いている家人の姿があった。
続いてふたりは回廊の西側に出た。
回廊の西側も連続するアーチの間から眼下に外堀と城壁、幾つかの建物や木々が見えた。その先にはアルヴァの街が広がっている。
回廊の北側に向かうと、東に曲がる回廊の角、その外側に建物があった。観音開きの重厚な扉が回廊に面している。
「ここが父上の執務室だ」
とリフィア。
……。
ヨーランシェのかるく緊張した感じが伝わってくる。
何かあったか。
イシュルの疑問が伝わったか、ヨーランが短く答えてきた。
……後で話そう。
回廊の南側にまわると、その内側には辺境伯家の上級の役人たちが働く政庁があった。下級の事務方の者たちは外郭部にある建物で仕事をしており、北側の回廊は何人かのひとの行き来する姿が目につく。外郭部に降りる階段は内郭を中央を走る堀の脇にしつらえてあった。
堀を渡ると回廊の内側にほどほどの広さの庭園が現れた。
リフィアは庭園の中へイシュルを誘(いざな)った。
葉を落とした寒々しい木々の混じる庭園には、ちらちらと冬に咲く花々の姿も見える。頭上の冷たい空気に澄んだ青い空が高い。中央には石造りの池があり、奥に水の精霊をモデルにしているのだろうか、壷を持ち上げた女性の石像がある。壷の口は斜め下を向いていて、そこから水が出るようになっているのだろう。おそらく城内の塔など、建物の高所にある雨水管から集められた水があの壷から出るようになっているのではないか。今はここ何日か晴れた日が続いているせいか、水は出ていない。池の水は暗く沈み水面には落ち葉がちらちらと浮いている。
リフィアは池の前で立ち止まり、イシュルに礼を言った。
「わたしの書いた覚書を見てくれてありがとう。イシュルが別紙に書いてくれたことはとても役立つ内容だった」
辺境伯夫人との面会に向かう前に、イシュルはリフィアから預かった覚書と自分の書いた別紙の注意書きを渡したのだった。彼女はメイドを呼んでそれを自室に運ぶようにいいつけたが、メイドがやって来るまでの間にイシュルの書いたものにかるく目を通していた。
リフィアは池の水面に目を落とし独り言のように言った。
「エリスタールでブリガール家に仇をうった風の魔法具を持つ少年は、幼いころから周りから神童と呼ばれ、ひと並外れた知恵の持ち主だったと、誰かから聞いたことがある。だからおまえの話を聞いても、商いのことをあまり詳しくないわたしは不思議とは思わなかった」
リフィアは顔を上げてイシュルを見つめてくる。
「でも、いくらなんでもおまえはおかしすぎる。おまえの知識は中海の商人だって誰も知らないようなことではないだろうか。……おまえの師は誰だ? あのイヴェダの剣、レーネか、それともベルシュ家のご当主殿か」
イシュルは唇を僅かに歪めた。
「まぁいいじゃないか。俺がおまえに教えたことの幾つかは、商業の進んだ中海の都市国家ではすでに行われているだろう。まだこちらの方に伝わってきてないだけだ」
イシュルは薄笑いを浮かべたまま話を続けた。
「それに大きな街の商家や商人ギルドにはなかなか頭の切れる聡い人たちもいる。俺みたいなことを考えているひとはこの世にもたくさんいるさ。みなギルドの慣習や身分に阻まれて実行に移せないんだろう」
「それはそうかもしれんが……」
「俺はエリスタールでは商人見習いをやっていたんだ。将来は商いをしながら世界中を見てまわろうと思っていた」
リフィアは目を大きく見開いてイシュルを見た。
「世界を見て回る……」
なぜかその頬に朱が差す。
「冒険の日々か。風の魔法具があれば何者も恐れることはない。うらやましいな。わたしもいつか……」
リフィアの声は最後は呟くように小さくなって消えた。
周りの木々の緑が暗く重い。冴えた青空とのコントラストが絶望的なほどだ。ここは大地にしっかりと縛りつけられている。
「その商いの知識を見込んで、イシュルにはお願いしたいことがあるんだ」
リフィアが少しはにかんだ様子を見せて言った。
「もしよかったら、当家の食客としてしばらくの間アルヴァに滞在し、わたしを助けてくれないだろうか」
リフィアは言い終わると急に顔を真っ赤に染めた。彼女の眸の光が揺れている。
イシュルはほんの瞬間、異常に緊張するとすぐに全身の力を抜き、ほがらかな笑顔を向けた。悲しい笑顔を。
「……考えておくよ」
リフィアにはイシュルの悲しみがまだわからない。感じとれない。
「ありがとう。今ここにわたしがこうしてあるのも、すべてイシュルのお陰なんだ。ほんとうに、……ありがとう。イシュル」
それでもリフィアは、イシュルの返答が彼女の意に添わないものであることを察した。
それでも彼女は、満面の笑みで、真っすぐイシュルに感謝の気持ちを伝えてきた。
大地が持ち上がる。高い空が落ちてきた。
イシュルは苦悩の渦に飲み込まれた。
ルセルの、母の髑髏がこちらを見ている。そしてリフィアの笑顔。
メリリャの胸から剣の刃が突き出される。リフィアの銀色の髪がなびく。
父はどこへ行った。
焼け落ちたベルシュ家の家。無人の村。豊かに実った、苅る者のいない麦畑。
麦穂が風に揺れる。
「城の西の端にあった建物。あれがいちばん怪しかったよ。でも詳しいことはわからないんだ」
ヨーランの美しい顔は常に薄く微笑をたたえている。
「この地は地下にいわくありげなものがたくさん埋まっているらしい。その有象無象がぼくを邪魔してくる」
ここアルヴァの地には昔、ウルク王国の都があったと言われている。
地中に埋まる神殿や神具、魔法具。有象無象と言うのなら、無数の神官どもの魂、と言ったところか。
「仕方がないな」
辺境伯の執務室が一番怪しい、というのは最もなことだ。
イシュルもヨーランシェに笑みを向けた。
もう大丈夫だ。おのれの心を苛む、彼女の笑顔は駆逐した。
「……そういえば彼女、きみの後ろ姿に一瞬、赤い眸を向けてきたよ」
「へぇ」
それは気づかなかった。
俺が彼女に背中を見せたのは彼女の後について白亜の回廊を一周し、自分の滞在する賓客用の屋敷の手前で彼女と別れた時だろう。
「あの人間にしては美しい少女は、なかなか強そうだね」
ヨーランシェの表情に変化はない。
「そうか? ヨーランとどちらが強い?」
「……ぼくの攻撃を彼女なら凌げるかもしれない。でも同じように、彼女の攻撃はぼくには届かない」
彼はその形の良い顎に手をやり少し考えて言った。
「それよりも、彼女がきみに向けたあの赤い眸が面白かった」
ヨーランが一度逸れた話を引き戻してきた。
「面白かった?」
イシュルの声に精霊は意味ありげな視線を向けてくる。
「あれは欲。所有欲。拘束、ひとりじめ。……邪念だよ」
ああそう……。
かるく悪寒がしたが、気にかけちゃいけない。
「きみの得意そうな分野じゃないか、ヨーランシェ」
イシュルがからかうように言うと、精霊の笑みが深くなる。
「彼女の気持ち、ぼくもわかるような気がするな。きみはとてもかわいらしいから」
ちょっ、やめて。
イシュルは殺意を込めてヨーランシェを睨んだ。
「ははは」
精霊は笑って姿を消した。
イシュルはひとり大きくため息をついた。
やつにからかわれた。しかし、俺が召還する精霊はどうしてこう、一癖も二癖もあるやつばかりなんだ?
アルヴァ城滞在三日目、朝食後、イシュルが部屋で書架から取り出した辺境伯家史を所在なげにめくっていると、リフィアが飛び込んできた。
「イシュル、父上から早馬で手紙が届いたぞ」
リフィアが少し興奮している。
「ん?」
イシュルが顔を向けると、リフィアが笑顔になって言った。
「父上の手紙に書いてあったんだ。ビオナートの企みが読めたぞ。新王の即位は来年の秋の収穫祭の時に発表される見込みと書いてあった」
聖都エストフォルで行われる秋の収穫の祭には大陸の多くの国々から巡礼者が集まってくる。聖王国にとっても聖堂教会にとっても重要な祭典だ。
「それと新しい総神官長もだ」
リフィアが得意げな顔つきで言った。
「それはまさか……」
イシュルの呟きにリフィアが頷く。
「ビオナートはふたりの息子たちに王位を争わせ、自身はその間、聖堂教会に工作をしかける。王位争いに負けた方を総神官長にする気なのだ。わたしが怪しいと睨んでいたのはこのことなのだ。今の総神官長はもう七十を越えている。いつ引退してもおかしくない歳だ」
リフィアが胸を張った。
彼女が以前に、この件で何か気に懸かる様子を示したのはそういうことだったのか。
「なるほどな」
聖堂教会の総神官長には、叩き上げの大神官だけでなく聖王国の王族がなることもある。前例はある。
イシュルは大きく息を吐いた。
「総神官長は大神官たちの入札(いれふだ)で決まるのだったか」
「そうだ。だがあんなものは時と場合によってはただの儀式にしか過ぎん」
まぁ、そりゃそうだ。選挙の前に候補者どうしでさまざまな駆け引きがあるのだろう。候補にあがる者がひとりしかいないのならその時点で決定だ。
「おまえの動向にも気を配る筈だ。ビオナートはなかなか欲深いことをやろうとしている」
リフィアが言った。
「そうだな」
聖都の王宮や大聖堂の内部ではしばらくゴタゴタが続きそうだ。だが、今はそれどころじゃない。
「で、おまえの父君は予定通り帰ってくるのか?」
何気にイシュルは一番気にかかっていることをリフィアに質問した。
「ああ、父上は早ければ明日夜、明後日の昼ごろには帰城される」
リフィアは上機嫌でイシュルに軽口を叩いた。
「母上もモーシェもおまえのことを気に入っているみたいだ。父上にも粗相がないようにな」
翌早朝、イシュルは夜明け前に起床し、城を発つための準備をはじめた。アルヴァへ到着する前に着ていた賞金稼ぎ、ハンター風の服装に着替え、剣やナイフを装備、マントを羽織った。
そろそろ行くか。
イシュルは窓の外に目をやった。まだ辺りは薄暗い。
これから街道をノストール方面にアルヴァ近郊まで出向き、辺境伯を襲撃する場所を探して待ち伏せする。辺境伯がリフィアに出した手紙によれば、辺境伯は今日の夕方から明日早朝にアルヴァ近郊に達するだろう。
もちろんリフィアとはひと言もなく別れることになる。
許せリフィア、そしてさよならだ。
イシュルが窓を開け、外に飛び出ようとした時だった。
屋敷の内に、とぎれとぎれな光線が立ち上った。
隠れ身の魔法?
「ひとが来る。……まだこの部屋にいる方がいいかもしれない」
ヨーランシェが姿を隠したまま声をかけてくる。
「どうして?」
「勘」
勘、ねぇ。とにかく異常事態か。相手は刺客か。
イシュルは窓枠から手を離し、寝室から書斎を抜け、出入り口の扉のある小間の方へ向かった。
イシュルが扉の前に着くと同時にノックの音が響いた。
殺気は感じられない。相手はひとりだ。途中までおそらく、隠し身の魔法を発動していた。
イシュルが「どうぞ」と声をかけると扉が開かれ、家令のルマンドが姿を現した。
東側の窓から薄明るい光を浴びて、家令の姿が青黒い闇から浮かびあがる。
「アレクさま、当主がお呼びにございます」
ルマンドはイシュルの服装を見ると、ほんの少しだけその細い鋭い目を見開いた。
「レーヴェルトさまはご予定より早く、本日夜半にご帰城されました。わが主はあなたさまを至急、召すようにと」
イシュルの眸が驚愕に見開かれる。
やられた。
先手を打たれた。辺境伯は途中から馬車を捨て、自ら騎乗してアルヴァまで全速で帰ってきたのだ。
俺の正体を知っていたのか。
イシュルは家令を睨んだ。
こいつも俺の正体を知っていた? 隠し身の魔法を使ったのはこいつだ。
屋敷の周りにひとの気配はしない。
イシュルは頷くと冷たく言い放った。
「わかった。すぐにお会いしよう」
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