面倒ごと


 

 

 まるで噴火する活火山のように強大な赤帝龍と戦ったかと思えば、次はただの村人か。

 イシュルは左手薬指にはめたベルシュ家の指輪に小指を曲げてそわすようにして触れた。そして用心深く、部屋の外の気配に注意を向けた。

 イシュルの浮かべていた笑顔はあっという間に感情が抜け落ち、仮面のように彼の顔にへばりつく、形だけのものになった。

 こいつらはいい。この部屋の外に誰か俺を見張っているやつがいないだろうか。例えば俺が風の魔法を使うか注視している者がいないだろうか。

 俺がうっかり尻尾を出すのをじっと待ち構えている者が。

「何ニヤついてやがる。このガキが」

 樽に座ってる男は大層ご立腹だ。

 イシュルは向かいの男を無視して辺りを探る。

 いた。ひとり、少し離れたところでじっと動かない者がいる。

 イシュルは部屋の右端にある扉に目を向けた。その扉の向こう、母屋の方に不審な人物がいる。

 扉の奥は廊下が続いている。その者は廊下に立っているようだ。

 ふむ。

 俺を監視している者が影働きの者なら、すぐ外側の壁や屋根の上に姿勢を低くし張り付くようにして潜む、あたりがパターンだと思うんだが。相手は素人さんだろうか。

 どのみち、風の魔法を派手に使う必要はまったくない。指輪の魔法と、四肢に僅かにアシストをつけるくらいで充分だろう。指輪の魔法はもっと近く、あるいは直接見なければ、魔法使いでもたやすくそれとわかるものではない。

「ふふ」

 イシュルは周囲の状況を把握すると、やっと正面を向いて樽に座る男に顔を合わせた。

 唇の片側がくいっ、と上がる。

 ほんと、微笑ましいくらいにかわいいやつらだ。同じ状況ならベルシュ村の若者たちだって、似たようなことをしたろう。ただ、扉の向こうに控えているやつはちょっとだけ気になるが。

 樽の男の眸が左右に振られた。

 両側からイシュルの肩や腕を押さえ込もうと、周りにいる男たちが左右からイシュルに飛びかかってくる。

 ベルシュ家の指輪が効いている。男たちはイシュルの肩をつかまえることができず、イシュルの前後で姿勢を崩し前のめりになって交錯した。

 イシュルは発動しようとする早見の魔法を切ると、微かに風のアシストをつけてスピードを上げ、目の前を倒れ込む男の頭を踏みつけかるく跳躍し、土間に転ぶ男たちを飛び越え樽に座る男のすぐ目の前に立った。すかさず右足で樽を横から蹴飛ばし、ついでに座った男の足を払う。

 耳障りな音を立てて樽がばらばらに壊れ、男が尻餅をついた。

 尻餅をついた男も、後ろで四つん這いになった男たちも、動かなかった残りの者も、みな口をあんぐり開けて呆然としている。

 加速や早見の魔法具持ち、武術に心得のある者ならいざ知らず、村の男たちにはほんの一瞬の出来事のようにしか見えなかったろう。

 イシュルは土間に尻餅をついた男を見おろして言った。

「おまえら馬鹿もたいがいにしろよ? 今時分フゴに残っているハンターがどんなやつらか、おまえらでもちょっとくらいは見当つくだろうが。俺にいらぬ手間かけさせんなよ」

 イシュルはいかにも賞金稼ぎらしい、少し荒んだ口調で言った。

「俺は辺境伯さまに会って賞状もらって、礼金をたんまり弾んでもらえばそれでいいんだ。おまえら皆殺しにして逃亡、なんて真似はさせないでくれよ? なあ?」

 イシュルが言った賞状とは王や領主らから出される感状のようなものだ。今回は辺境伯息女を救ったことに関する感謝状に、金品などを謝礼として贈与した書面が足されたものになるだろうが、男爵位や騎士爵位をもつ辺境伯家の一族や家臣、近隣の領主家に仕官する時には有力な推薦状がわりにもなる。

 大金と仕官。イシュルの言ったことは、賞金稼ぎなら誰でも夢見る当たり前のことだった。彼が荒んだ口調で凄んでみせても、周りの男たちにどれだけ恐怖を与えられたか疑問だが、その言った内容には充分な説得力があった。

「さてと」

 イシュルは部屋の中の男たちを見回した。

 イシュルに睨まれた部屋の端にいる男がふたりばかり、怯えて壁に立て掛けてあった農具を手に取る。

 イシュルが視線をはずした隙に、正面の男が立ち上がった。

 ふたりの目線の位置が逆転した。今度はイシュルが見上げる側になる。男の顔からは動揺の色が消えつつある。

 まだやるのか。

「おい、おまえたち。何をしている」

 そこで部屋の右端にある扉が開かれ、これも若い男が顔を出した。

 さきほど廊下に佇んでいた男だ。どこかで見た顔……そうだ、村長の息子だ。長男か?

「……」

 場に一瞬、変な空気が流れる。一応バツの悪そうな感じもあるが。

「あんたは、御息女さまを助けたとかいう……」

 村長の息子はイシュルの方に顔を向けた。

「何があったか知らないが、村の者に手を出さないでもらえるかな」

 ふん。何を言ってやがる。この茶番を仕組んだのはおまえだろう。

 ずっと様子見していて、ばたばた音がしたからここら辺で、って感じで割って入ってきたんじゃないのか?

「な、何がおかしい! ……こ、このことは御息女さまに報告させてもらうからな。今晩は夕食をともにすることになってるんだ」

 露骨な侮蔑をふくんだイシュルの笑みに、村長の息子は敏感に反応した。

「ぷふ」

 イシュルは思わず吹き出した。下を向いて笑いを堪える。

 それは面白い。こんなことリフィアに話すって? それ、薮蛇になるだけだぞ。

 こんなことで俺を貶め、リフィアから引き離そうとしたのか。

 なんてつまらない、姑息な企みなんだ。

 イシュルは笑いをなんとか抑えると顔を上げた。その眸に僅かに冷徹な色が差す。

 いや……、問題はこいつが、仕込みけしかけた村の若者たちの誰かを俺に殺させて、大事にして捕縛するか、逃亡させようとまで謀っていたかどうかだ。もしそうなら、ただの悪ふざけで済ますわけにはいかない。悪質に過ぎる。

 その夕食とやらの時に、とっちめてやるか。

「それはいいじゃないか。お姫さまにあることないこと、がんがん盛って話しちゃえよ」

 イシュルが、俺もその夕食にごいっしょさせてもらうことになっている、と話を続けようとした時、屋敷の表の方で気になる気配がした。

 馬だ。

 村長の息子も屋敷の表の方でざわつくのが伝わってきたのか、廊下の方を振り向いている。

「早馬か」

 イシュルは呟くと、無言で男たちに背を向け、引き戸の方へ歩きはじめた。戸の前を塞いでいた男がイシュルに睨みつけられて、部屋の端の方に退く。

 イシュルはつっかい棒を蹴飛ばすと外に出た。

 誰も声を上げず、引き止めなかった。

 早馬は街道をアルヴァの方から来た。これは見過ごせない。

 イシュルの顔が厳しいものになる。

 とりあえず街道の方、屋敷の表側に行ってみるか。

 ちらちらと寒々しい落葉樹の混じる木々の下を歩いていく。村長宅の母屋の方からは、人のせわしなく動く気配が伝わってくる。

 木々の間に街道の道筋が見えてきたあたりで、頭上でひとの動く気配がした。

「イシュル……、イシュル……」

 母屋の二階の窓からリフィアが身を乗り出し、小さな声で呼びかけてきた。片手には巻紙が握られていた。


 二階のリフィアの部屋はイシュルの部屋より広く、ベッドもなかなか立派なものが置かれていた。部屋にふたつある窓は田舎ではめずらしい、歪みやくすみの少ない大きめな板ガラスが使われた、立派なガラス窓になっていた。

 部屋の中は、机やベッドの上に広げられた紙が何枚も散らばり、どれもみな何事か、細かい字でびっしり書き込まれている。

 イシュルは手近の紙を手にとって眺めた。

 美しい筆致でびっしり書かれた文面は、クシムの山頂でイシュルがリフィアに話したことに関する、彼女の私的な覚書のようだ。

 その書き出しには、まず最初に戦死者遺族の名簿制作に取り掛かるべし、各遺族の暮らし向きを調べ把握し云々、などと書かれてあった。

 リフィアはイシュルを自室に招いて引き入れると、後ろ手に素早く部屋の扉を閉め、彼の前に回り込んで言った。

「おまえに教えてもらったことを忘れないためにな。文章にしてまとめていたんだ」

 リフィアは頬を染めていた。視線は少し恥ずかしそうに、あたりを彷徨っている。

 真面目なやつだ。

「それはご立派」

 イシュルはリフィアに聞こえないよう小さく呟くと、彼女に顔を向けた。

「で、アルヴァからの知らせは何と?」

「ああ。それより早馬がアルヴァから来たなんて、良くわかったな」

 微笑みを浮かべイシュルを見つめてくるリフィアに、イシュルは真面目な顔をして言ってみた。

「風の吹くところ、俺にわからぬものはない」

 リフィアは一瞬、目を丸くして驚く。

「そうか……、まさしくイヴェダの剣恐るべし、だな」

 クシムを離れるときに、イシュルがあっさり猟師道を探し出したことを思い出したのか、彼女は驚いた顔をすぐにひっこめ、真面目な顔つきになって頷いた。

「おまえがこの部屋でくしゃみをした、とか、書き物をしていて伸びをした、とか、何でもわかるぞ」

「なっ!」

 リフィアの顔がとたんに真っ赤に染まる。

「ああ、嘘。冗談だよ。早馬の件はたまたまだ。なんとなく勘で言ってみただけさ」

 イシュルは笑って、まぁまぁ、とリフィアをなだめるように両手を振った。

「う〜」

 リフィアが両肩を怒らせ、言葉にならない可愛い呻き声を出す。

 楽しいなぁ。こいつを弄るのは。

「で、アルヴァからの知らせは何と?」

 イシュルはまた真面目な顔になってさきほどの台詞を繰り返した。


「なんだと!」

 家令からの知らせで辺境伯がアルヴァを離れ、今ノストールにいる、という話をリフィアから聞いたイシュルは、思わず大きな叫び声をあげた。

 イシュルに弄られてちょっと拗ねた感じだったリフィアが、目を見開きびっくりした顔になる。

 まずい……。しかしレーヴェルトめ。まさか俺から逃げたのか。もう俺の情報が伝わって……。

「いきなり大きな声を出して……どうした、イシュル?」

 リフィアは片手を胸に当ててイシュルを窺ってくる。

「あっ、いや。あ、あれだ。ひょっとして聖王国の件じゃないのか?」

 イシュルは引きつった笑みを浮かべ取り繕うように言ったが、リフィアはイシュルの反応をどうとったのか、我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。

「そうだ、まさしくその件だ」

 ノストールは王国最南端の、オルスト聖王国とアルサール大公国の国境に近くある頑強な城塞都市だ。当地を治めるクベード伯爵家の居城がある。聖王国の西北の要衝、テオドールとも近い。

 リフィアは「当家の家令が書いた書状だ」と言って、左手に持っていた巻紙をイシュルに差し出してきた。

「政変だな。ビオナートが近々、退位するそうだ。聖王家や宮廷の主だった者に内示されたらしい」

 イシュルはリフィアから巻紙を受け取り広げると、紙面を嘗めるようにして読みはじめた。

 家令が書いたという文面は簡潔明瞭で、リフィアの言ったことの他、五日ほど前に聖王国国王の退位に関し、急遽ノストールでクベード伯爵とフロンテーラから大公の使者、さらにアルサール大公国からの使者を交え会談が持たれることになり、主(あるじ)も参加することになったこと、この書簡がゾーラに届く頃はちょうどその会合の最中であろうこと、姫君の書簡はノストールに滞在する父君に転送した、と書かれてあった。

 そして、リフィアの書簡を辺境伯が読めば、すぐにアルヴァへ帰還の途につくのではないか、との家令の私見が追記されていた。

 辺境伯がアルヴァを離れたのは俺とは関係ない、ということか。

 イシュルは緊張を解いた。

 とりあえずは良かった。だが……。

「……ということはリフィアの父君がアルヴァに到着するのは何日後になる?」

 アルヴァ、ノストール間は徒歩なら八〜十日ほどだ。馬車なら四日くらいか。

 リフィアの書簡を携えた早馬がノストールへ着くのに二日強、ということは……。

「七、八日後ほどだな」

「そうだろうな」

 なんかリフィアはうれしそうだ。何がそんなにうれしい。

「明日午後に、到着する輜重隊とともにここを出発したとして、アルヴァに着くのに三日とちょっと、父上が帰城されるのはそのさらに四、五日後、ということになる」

 そんなにか。俺にとってはアルヴァ城は敵地のようなものなんだぞ。まぁ、辺境伯本人が城にいないのなら、城内で俺にとってまずい動きはほとんどないだろう、と考えられなくもないが。

「まぁ、いいではないか。イシュル。当家で少しばかりゆっくりすれば良かろう」

 リフィアがにこにこして言う。

「……そうだな」

 またリフィアに城内でつきまとわれ、城外へ連れ回されるのか……。

 いや。待てよ。別に辺境伯が城に到着するまで待つ必要はないんだ。やつがアルヴァへ帰る途上で襲撃してもよいのだ。

 さすがに辺境伯家当主の移動だ。兵力が枯渇しているといっても、騎馬の十や二十騎は護衛についているだろう。だが素早くやれば、どんな仕掛けがしてあるかわからない城内よりも、むしろ安全確実に辺境伯を殺せるのではないか。

 釣り天井はともかく、もし城内に迷いの魔法具みたいなものがあれば、こちらは手が出せなくなるかもしれない。

 ただ、以前の俺ではない。釣り天井を完全に止めるのも、迷いの魔法の結界を壊すのも今ならできるとは思うが。

 だが城内にどんな仕掛けがあるか不明な以上、アルヴァへの帰途をねらう方が安全、確実だろう。

 やつがアルヴァへ到着する半日ほど前、アルヴァの市街地に入る直前、俺が城を抜け出したことにリフィアたちが気づく前、気づかれても何も対応できないタイミングでやる。そしてむしろ夜間よりも昼間がよろしかろう。夜間だと宿泊先の土豪の屋敷などに滞在しているわけで、本人を探し出して確認するのが難しい。昼間なら街道を行く騎馬隊と馬車を探すのは簡単だ。馬車が複数あってもたいした問題ではない。屋根をいっせいに吹き飛ばして、当人の乗る馬車を特定、辺境伯本人に名乗り上げ、ベルシュ村の件で殺すとひと声かけて後はばっさり、だ。こちらが例えばその馬車に同乗して、周囲に風の魔法の壁を立てれば、周りからの干渉は受けないで済む。

 完璧じゃないか。

「どうした、イシュル?」

 やや顔を俯け考え込むイシュルに、リフィアが不審な面持ちで声をかけてくる。

「わが城に滞在するのはいやか? 別に気後れすることなどないぞ。わたしがいいように計らってやる」

 俺が考え込んでいるのはそっちの方じゃないんだが。それにおまえの取り計らい、っていうのも嫌なんだよ。

 ……まぁいい。ここは前向きに考えよう。城の外で辺境伯を襲撃できるのだ。状況は好転した、と考えてもよかろう。

 なら、次の議題だ。

「ビオナートが退位するということだが、わざわざリフィアの父さんまで呼び出される、ってのはどうなんだろうな」

 クベード伯が対聖王国の、前線での旗頭であるのはわかる。さらにその上の、ラディス王国東南部全域の旗頭である大公家が使者をノストールに寄越すのもわかる。だが、クシムで苦境に立っている辺境伯家の当主までわざわざ呼び寄せられる、というのが合点がいかない。

「アルサールだな」

 リフィアが顎に手を当て考え込むようにして言った。

「アルサール大公国の御使者がそこそこの大物なのだろう。アルサール大公の一族とかな」

 リフィアが話を続ける。

「聖王国国王退位の情報はおそらくアルサールからもたらされたものなのだ。向こうは時期を見て、今後の情勢によっては攻め込みたいんだろうな。聖王国に」

「……なるほど」

 そこでリフィアが皮肉な笑みを浮かべる。

「父上はアルサール大公国の御使者に対する政治上の配慮で呼ばれたのだろう。後は大公家の御使者とともに、アルサールの軽挙妄動を諌めるのがその役目であろう。もちろん、聖王国のより詳しい内情をアルサール大公国の使者殿から引き出すということもあるだろうが」

「そうか」

 大変だね。貴族やご領主のみなさんは。

「だが、聖王国国王の退位、というのがとても気になる。まだ情勢が詳しくはつかめないから何とも言えないが」

 リフィアが笑みを引っ込め真面目な顔つきになって言った。

「院政かな……」

 イシュルが小さな声で言った呟きをリフィアは聞き逃さなかった。

「いんせい? それは何だ」

「ああ、つまりビオナートは引退しても自身の政治力を宮廷に残そうとしているんじゃないかな。まだ老齢ではないし。国王を別に表に立てて裏で非公式に動くのなら、聖堂教会の掣肘を受けずにやれることも多いだろう。本来は自らの王権が盤石の間に、自らの望む者を王にして王統の安寧をはかる、という事例が多いかと思うが」

「なるほど。確かにそういう王位の継承のやり方は、多くの国々でも前例のあることだ」

 リフィアはまた顎に手を当てて考え込む。

「だが、ルマンドの書状には、ビオナートが次の国王を誰に決めたのか、その点に関しては書かれていない」

 ルマンド、ルマンド・ブランはリフィアに手紙を書いてきた辺境伯家の家令の名前だ。書面の最後に本人の著名がある。

 最も重要な情報なのに書かれていない、というのはつまりまだその情報が得られていないのだ。

「案外、まだ決めてないんじゃないか? 聖王国の王様は」

「うむ。自分の力がまだ充分な状態で、ふたりの王子に競わせる、というのが彼のねらいであるかもしれない」

「一歩間違えば内乱になるが? 聖都で戦(いくさ)が始まってしまう」

「つまりビオナートは聖堂騎士団や宮廷魔導師らを完全に掌握している、ということだ。なら後はふたりの王子の政治力、宮廷工作が中心になる」

「多数派工作、だな。より多くの貴族や官吏を自分の派閥に集めた方が勝ち、ということか。聖堂教会はどうなんだ? やはり介入してきたりするものなのか」

「いや、それこそ内乱一歩手前、みたいな状況にならなければ介入はないだろう。そういうことをすると、後に禍根を残す場合もある。前例もあることだろうし、教会はその点を充分に承知しているだろう」

 そこでリフィアは首をひねった。

「ただ、まだ何か裏があるような気がするんだが……」

「ん?」

「いや、いいんだ。なんでもない」

 リフィアは静かな色あいの青い眸でイシュルを見つめ、首を横に振った。


「俺の質問に答えろ。嘘ついたらただではすまさないぞ」

 その日の夕食後、イシュルは同席した村長の息子を屋敷の照明のとどかない廊下の端まで連れていき、尋問をはじめた。

 村長の息子を魔力の壁で囲み、空中に持ち上げ圧迫した。彼は中空で動くこともできず、額に油汗浮かべ、顔面を蒼白にしてがちがち震えていた。

 リフィアや村長、村長夫人らとともにした夕食でイシュルは、賞金稼ぎとはとても思えない、誰も見た事もない不思議な品のある仕草で出された料理を食べていった。

 大陸では煮物、スープ料理が多い。それを通常、スプーンと二股のフォークを使って食べる。肉や魚がメインの時には木製の柄がついたナイフがつくことがある。

 イシュルは背筋を伸ばし、無音でスープをすくい、肉を切り分け、口に運び咀嚼した。当然、イシュルは王家や貴族の礼儀作法を詳しく知っているわけではない。要するに彼は前世の洋食を食べる要領で、改まった席でコース料理を食べるような具合で村長宅の夕食に臨んだのだった。

 すべてはイシュルの向かいに座る村長の長男に向けたパフォーマンスだった。

 村長の息子はイシュルが同席すると知って激しい動揺を示したが、イシュルの食べる様子を目の前で見せられ、呆然と目を見開きさらに動揺の色を濃くした。

「イ、いや、アレク。その作法はどこのものか。……なんだかとても洗練されているように感じるんだが」

 隣に座るリフィアもすこしびっくりしたのか、思わずイシュルと言いそうになって、彼にからだを向けて聞いてくる。村長も村長夫人も、少し驚きの表情を浮かべてイシュルを見ていた。

 イシュルとしては、以前にメリリャをはじめ多くの人たちに指摘されてきた、前世の現代日本人の仕草を思いっきり出して見せただけだ。

「それよりもリフィアさま。村長殿の御嫡男が、あなたさまにお話したいことがあるそうです」

 イシュルは鋭い視線を村長の息子に向けて言った。

 それは俊敏をもって鳴る、王都の宮殿に繁雑に出入りする官吏たちでさえも口にしないような、無感情で冷たい口調だった。

「あ、は、い、いや……」

 村長の息子はとたんに顔を青ざめ、ぶるぶる震えだした。

「ん? どうされたかな。具合でも悪いのか」

 何も事情を知らないリフィアが、首をかしげ村長の息子に声をかける。

「ヤヒム、どうしたの?」

 村長夫人が息子に声をかける。ヤヒムとは彼の名だ。

 ヤヒムは歯をがちがちさせて、答えることができない。

 イシュルは机の下から村長の息子の足を蹴飛ばした。

 ほら、早く言えよ。リフィアにチクって見せろよ。

 もし、おまえが村の若者たちを俺に殺させよう、などと考えていたのなら……。

 イシュルはその一点に固執し、怒りを漲らせていた。


「おまえが俺を嵌めるために、あの部屋にいた村の男たちをけしかけた、そうだな?」

 その後、ヤヒムの不調で夕食会は早々にお開きになった。

 イシュルは村長夫婦がヤヒムから目を離し、リフィアを捕まえて食卓の脇で立ち話をはじめた隙をついて、ふらふらのヤヒムを介抱するふうを装い捕まえ、照明の届かない廊下の暗がりに連れてきたのだった。

 ヤヒムは青白い顔を必死に、何度も何度も横にふった。彼の足は宙に浮いている。

 イシュルは魔法の風の壁の圧迫を強めた。

「ひ〜」

 ヤヒムは小さく呻き声をあげる。

「違うのか? おまえが仕組んだんだよな? 俺、嘘ついたらただではすまさないっていったよな?」

「はっ、はっ、や、やりました……」

 今度はヤヒムは必死に、首を何度も縦にふった。吐く息が荒い。

 これじゃ、まるで俺が無理矢理言わせてるみたいだな。

 イシュルは風の壁を消した。ヤヒムは壁に背中をあずけたまま、下へずり落ちていく。腰が抜けたのかそのままべったり廊下に座り込んだ。

 イシュルはヤヒムの髪の毛をつかみあげ、憔悴してぐったり頭を垂れていたヤヒムの顔を上向かせた。

 その大きく見開かれた怯える眸をじっとのぞき込む。

「それで、あいつらを俺に殺させて、俺を逃亡させて姫さまと俺を完全に引き離そうとした、ってのがおまえがねらっていたことだろう?」

 イシュルはむしろその顔から怒りの色を消し、ヤヒムの眸がしっかりとイシュルの顔を捉えるのを待ってから言った。

「ち、違う……ただ、あんたを懲らしめてやろうと思って」

 ただのやっかみ、嫉妬みたいなものだったのか。それとも辺境伯家の息女に悪い虫がつくのを憂いてやったのか。

 俺のことをただ懲らしめようとしただけなら、ただのやっかみだがな。

「おまえは同じ村の者の命をダシに使ったんだ。俺にあいつらが殺されてもかまわなかったんだろ?」

「ち、ちがいみゃす!」

 村長の息子は必死な形相で抗弁してきた。

「噛むなよ」

 イシュルはせせら笑った。

「俺がその気になればあの土間にいたやつら全員、あっという間に殺すことだってできた。俺は赤帝龍が近くに居座って、火龍がしょっちゅう襲ってくるようなところにいたんだぜ? あんなところにいる賞金稼ぎがどんな連中か、おまえにだってわかるだろう。そんなやつを相手に、素人の村の若いやつらを使ってけしかけるなんて、それがどういうことかわかるよな?」

 イシュルは真面目な顔になって言った。

「同じ村のやつらなのに。おまえの幼なじみだってあそこにいたんじゃないか? あいつらの命はおまえにとってそんなに安いものなのか?」

 村長の息子の顔に暗い影が差していく。

 おまえには、俺の失くしたものがまだたくさんあるじゃないか。それは一度失うと、もう二度と戻ってこないものなんだぞ。

 イシュルはヤヒムから手を離した。

「おまえがそんなんじゃ、おまえの家も、この村の行く末も危ういな」

 イシュルは廊下にへたり込むヤヒムから背を向け、暗い廊下を歩きだした。

 床の微かに軋む音が鳴る。奥の明るい辺りからまだ談笑しているのか、リフィアたちの話す声が小さく漏れ聞こえてくる。

 小さく絞って目立たぬようにしたが、リフィアは俺が魔法を使ったことに感づいたかもしれない。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 イシュルはふりむきざま、

「このことは誰にもしゃべるなよ。その方が身のためだ。村のためだ」

 と、村長の息子を脅しつけた。




 そして翌日。

 なぜ俺はまた昨日と同じ場所にいるんだ……。これは何の因果か。

 イシュルは昨日と同じ、ゾーラ村の若者たちに呼びつけられた村長宅の裏手の土間にいた。

 目の前には口髭を生やし、日に焼けた男が立っている。どっしりした顎にいかつい頬骨が目につく、いかにも軍人肌の男。銀色に鈍く光る鎧を着込み、紺色のマントを垂らしている。左胸には辺境伯家の紋章が浮き彫りされていた。

 その斜め後には従者なのか、薄汚れた非正規の革鎧を着た青年が立っている。

 銀色の鎧の男が言った。

「わたしはカレル・ヴィストと申す。きみがアレク君だね?」

 野太い、戦場や教練で焼けた声だ。

「リフィアさま救出の件ではたいへん感謝している。きみのことはわが主にも、わたしからも直接お伝えしておこう」

 男がかるく片手を振ると、後ろに控えていた従僕がこぶし大の布袋をイシュルに差し出してきた。

「単刀直入に言おう。きみに対してリフィアさまはずいぶんと心を許しておられるようだ。きみにもわかると思うが、それでは当家として少々外聞が悪い。これは礼金だ。申し訳ないが、きみはここで我々と別れ、アルヴァへともに行くのをやめてもらえないだろうか。もしわが主の賞状が欲しいというのなら、後日アルヴァに訪ねてきてほしい。わたしが誓って主に取りはかろう」

 男にイシュルを侮ったり、驕れる風はまったくない。男は真摯な態度でイシュルに今すぐ立ち去れ、リフィアの前から姿を消せ、と言ってきた。

 なるほど、こうきたか。

 男は辺境伯家第二騎士団副団長、フゴに残置された後方部隊の長だった。 


 当日早朝、フゴから帰還する討伐隊残置部隊の先触れが一騎、ゾーラ村に到着した。

 残置部隊は昼前にはゾーラ村に到着する、ということだった。

 リフィアは村長に命じ、水や塩などの補給物資の供出と、村の者たち総出で、部隊の兵らに振る舞う昼食の準備がはじまった。。

 村長宅の門前には大小の鍋が並べられ、スープなどの汁物が調理されはじめた。見た目炊き出しそのものだ。これらはおそらく、リフィアが独断でゾーラ村の賦役を減免するなどして、かわりに実施させたものだろう。あるいは今回の戦役で、前々から取り決められていたことかもしれない。前日村長と打ち合わせがある、と言っていたのはこの件だろう。

 フゴから帰還してきた残留部隊はゾーラで小休止した後、午後にはアルヴァに向けて進発、今夜は付近の川側などで野営、三日後朝にはアルヴァに到着する予定になっている。

 イシュルは村長宅から街道沿いにアルヴァ方向に離れ、アルヴァへ向かう者の見張りもかねて、道の脇に生えた木の幹にもたれかかり、時々街道の前後に目をやること以外はのんびりと過ごしていた。

 しかし、たいした間もなくイシュルを探していたリフィアに見つかり、村長宅の方へ連れ戻された。

 リフィアは嫌がるイシュルに、強引に右腕をからめてきた。

「おまえを輜重隊の指揮官に紹介する。当家の第二騎士団の副団長だ」

 リフィアの頬が少し赤い。

「ええ? やだよ。あんまり目立ちたくないって言ったじゃん」

「そうはいかんだろう。おまえはわたしの命の恩人なんだから」

 リフィアのからめてきた腕に力が入る。

「部隊はまだ到着してないじゃないか」

 リフィアは、イシュルがその時姿を隠し、逃げるのではないかと危ぶんだのだろう。

「おまえの魂胆なんぞお見通しだ。往生際が悪いぞ、イシュル」

 リフィアにめずらしく意地の悪い笑みが浮かぶ。

 彼女はイシュルの魂胆を読んで先に動き、イシュルを拘束しにかかってきたのだった。

「あっ、ちょっと用事を思い出した!」

「だ・め・だ」

 リフィアがイシュルをぐいぐい引っ張っていく。

「ふふふ」

 なんだかリフィアは楽しそうだ。彼女の顔から笑みがこぼれていた。

 村長宅と、その前に集まっている村人たちの姿が近づいてくると、イシュルはからめていた彼女の腕から自分の腕を無理やり引っこ抜いた。

 リフィアが目を怒らせてイシュルを睨んでくる。

「人前で恥ずかしいだろ」

 イシュルがそう言うとリフィアは、はっとした顔になり、その表情のまま顔を真っ赤に沸騰させた。

 ちょっとくらい気づかってくれよ、お姫さま。

 イシュルはそんなリフィアを思いっきり眇で睨んだ。

 だがリフィアはへこたれなかった。彼女は開き直ったのか、「わたしから離れたらまた手をつなぐからな」などとイシュルを脅し、結局、輜重隊が到着するまでイシュルを側に控えさせ、離さなかった。 

 

 輜重隊は予定どおり昼頃にゾーラ村に到着した。

 街道をクシム方面より、道の脇に生い茂る木々の間から最初に騎馬が十騎ほど、空に辺境伯家の旗が一旒、姿を現し、その後を徒歩兵が二十名ほど続いた。

 徒歩兵の後には軍用の大型の荷馬車の車列が延々と二十両近く続き、しんがりには数騎の騎馬と十名ほどの徒歩兵がついていた。部隊にはその他、武装していない者もけっこうな人数がいて、みな空いた荷馬車に乗っていた。彼らは今回の戦(いくさ)で雑用等で雇われた、一般の領民たちかもしれない。

 部隊の先頭が村長宅の門前まで来ると、騎馬兵は皆いっせいに下馬し、門前でひとり前に出ていたリフィアの前に殺到した。凄い勢いだった。みな彼女の前で跪き、左手を胸に当て頭を下げ、おいおいと男泣きに声を上げて泣きはじめた。後方の徒歩兵、槍兵にも跪き泣いている者がいた。

 しばらく経つと、リフィアに最も近いところに跪いていた騎士がひとり立ち上がり、リフィアと立ち話をはじめた。その騎士は中年の筋骨たくましい男で、なかなかの威風があり、おそらくこの部隊の指揮官だと思われた。

 イシュルはこれ幸いと、横に並んでいた村長らの後ろ側に、身を隠すようにして回り込んだ。

 しかし大の男たちのあの泣きっぷり。リフィアは随分と周りから慕われているらしい。赤帝龍との戦いで部隊がどうなったかわからず、物見を出して部隊の全滅を確認したあたりで、リフィアがゾーラから出した書簡が届けられた感じだろうか。絶望の中に灯った小さな、いや大きな光。確かに彼らにとってリフィアとの再会は感激もひとしおであろう。

 たぐい稀な美貌に明朗闊達、頭脳明晰、そして武神の矢を持つ王家の血を持つ者。彼女が周囲から偶像視されるのもむべなるかな、当然のことなのだ。

 残りの騎士たちも立ち上がり、後ろの方にいた徒歩兵もリフィアを囲むように集まってきた。するとその兵らを掻き分け、変わった格好の者たちが三名、姿を現した。その三人はまだ若い女たちだった。メイド服の上に剣帯を巻き剣を吊り下げ、茶色いマントを羽織っている。

 彼女たちはなんの遠慮もなく騎士たちを押しのけリフィアの前に来ると、崩れおちるようにして跪き、これもまた激しく泣きはじめた。女たちにはリフィアも腰を落とし、彼女らの肩を抱き慰めいたわった。

 武装したメイドたちはリフィアの身の回りを世話するため、フゴまで同行していたのであろう。リフィアを神のごとくあがめているのは男たちばかりではなかった。

 むしろああした女の子たちの方が、強烈で盲目的だったりするよね。……ある意味倒錯的と言ってしまってもいいかもしれない。

 などとイシュルが気の抜けた視線を遠く明後日の方へ向けていると、リフィアがイシュルを呼ぶ声が聞こえてきた。

「——クシム銀山の向かいの山頂で、意識のなかったわたしを助け出してくれたのが、これなるアレクと申す者だ。あとは手紙に書いた通りだ」

「はっ」

 輜重隊の指揮官と思われる男がリフィアに頭を下げ、気合いの入った口調で返事をする。

「アレク、いつまでも跪く必要はないぞ。苦しゅうない。立って、もそっと近う寄れ」

 くっ、もういいから。俺、跪いたままでいいから。

 イシュルはリフィアに呼ばれると、顔を俯け、素早い動作で彼女の斜め後ろまで進み出、跪いた。目立ちたくないイシュルだったが、まさかこのような場で断ることもできない。

 そして今は彼女のターンだった。リフィアはイシュルに、立って周りの者にしっかり顔を見せろ、と言ってきた。 

 イシュルは無言で立ち上がった。周りには指揮官と思われる男を筆頭に騎士たち、メイドたち。みなイシュルを見つめてくる。

 そこで突然、イシュルは右肘を掴まれリフィアの横へ引っ張られた。

 イシュルの肘を取ったのはリフィア自身だった。

 不審な色を漂わす指揮官に、驚きの色を隠さない騎士や兵たち。露骨な殺意を向けてくるメイド陣。

 リフィアだけがとびきり上機嫌だ。

 おまえ、これ、俺を弄っているつもりなのか。それとも天然か。いずれにしろ俺の肘を掴んで引き寄せるなんて、こんな場でなんて恐ろしいことしてくれたんだ。

 特にメイドの女の子たちの目。あれ、やばすぎるだろ……。

「アレクと申します。以後、お見知りおきを」

 イシュルは誰の顔も見ず目も合わせず、視線を遠くに固定してかるく会釈した。

 村長の長男が仕組んだ一件があった。この時は、自分に凶悪な視線を向けて来るメイドの女の子たちが、同じような何かをしでかすのではないかと不安を抱いた。

 だが、その予想は間違っていた。


 リフィアがイシュルを辺境伯家の者に紹介した後、輜重隊はゾーラ村で小休止することになり、村の方で用意した暖かいスープやパンなどが兵らに振る舞われた。

 リフィアはメイドたちにつかまり、「お召しかえを」「湯浴みを」「御髪をすいてさしあげます」などと、村長宅の方へ連れ込まれていった。

 イシュルは村人や兵隊らで溢れる街道沿いの混雑から抜け出し、村長の屋敷の裏を回って家々の影を伝い、山の方へ向かった。適当に距離の離れたところで、生い茂る木々の影から空へ上がった。

 街道に集まる人びとからぎりぎり見えない高さまで上がると、イシュルは意識を集中し、街道の南西方向、アルヴァ方面の道筋を中心に、その両側の畑や草地、雑木林も含めた視界の及ぶ範囲すべてに、あの領域に「手」を伸ばし、風の魔法の壁を細かい柱状に無数に分割し、上空からいっせいに「降ろした」。

 十里(スカール、約六〜七百m)近く先まで、街道の両側の一里幅くらいの範囲に、細かい風の魔法の柱が無数に突き刺さり、あるいは立ち上る状態になった。広域に展開した分、風の魔法の柱の魔力は薄れ、弱くなっている。

 イシュルは後頭部にかるい鈍痛を、胸に一瞬つかえるような圧迫感を感じた。

 大丈夫。これくらいならまだまだ許容範囲だ。

 もし、この地上に立った無数の風の魔力の柱を、より強力なものにしたらどうなるだろう。硬い金属や岩などは無理だとしても、多くのものは突かれ押しつぶされ、あるいは切り刻まれることになるだろう。しかもこれは他者の魔法を通さない……。

 いや、今はそれどころではない。視界の先に展開した無数の風の魔力の柱、そこに当たり、通過する者がいないか、意識を集中しよう。

 イシュルはフゴから帰還した部隊に辺境伯家の影働きの者が紛れていないか、その者がイシュルの顔を知っていて彼の正体に気づき、辺境伯に知らせるためにアルヴァに向かわないか、調べようとしたのだった。

 リフィアの身分差を考えない強引な紹介のせいで、輜重隊のほとんどの者に顔を憶えられてしまった。あの中に、イシュルを知る辺境伯家の影働きの者がいればすぐに行動を起こす筈だ。そしてその者が街道を通ってアルヴァに向かうかはわからない。その者が猟兵であるなら、昼間に行動するなら街道を避け、森や薮伝いに移動しようとするのではないか。

 有力な魔法具を持つものなら気づかれてしまう恐れもあるが、そんなことで四の五の言ってられる状況ではない。

 イシュルは右腕を前に差し出し、掌を下に指を伸ばし広げた。

 無数の風の魔力の柱から伝わる感覚。

 それは異界から突き出し、あるいは伸び落ちて来て、指先に、いや、意識の外縁部へと繋がっている。以前にも経験した無数の突起、あまりにも複雑なものに触れた感覚に心の内がおののく。

 ……いない。あやしい動きをする者はいない。

 心の端を揺らす微かな風、ものたち。

 季節のせいか、動き回る小動物も少ない。魔獣などましてをや、だ。

 イシュルは魔法を解くと、地上に降り、村長宅の方へ戻った。

 この魔法を長時間行使するのは疲れる。後で精霊を呼ぶか。マーヤにお使いを出したナヤルルシュクはもうすでに精霊界に帰っているだろう。契約でもしていればそんなことはないんだろうが、召還した精霊でも遠く離れてしまえばその存在を感じとることができなくなってしまう。遠話のようなこともほとんどできない。赤帝龍と戦いはじめる時、カルリルトスが強い魔力を発したために、彼が近づいてくるのがかなり遠い距離からわかったことと、そろそろ着くぞ! みたいな意味の、はっきりした言葉にならない知らせを受けとった経験はあるが、あれは例外的なことと考えるべきだ。

 精霊を召還しても、こちらの与える命令の内容によっては、その精霊がこちらの命令を達成できたか確認できなくなる、その精霊がまだ人の世界に留まっているのか、精霊界に帰ってしまったのかわからなくなってしまう、ということが起こりうるわけだ。やはり精霊との繋がりが強くなる“契約”は重要なのだ。

 部隊の兵や村人の集まっている表の方へ戻ろうと、イシュルが村長宅の裏手から街道側へ顔を出した時だった。

 真向かいに、薄汚れた革鎧を着けたひょろっとした青年がひとり立っていた。

「さがしましたよ、アレクさま」

 青年は控え目な笑みをつくって言った。

「わたくしは辺境伯家のさる方の従僕をしております。主がアレクさまとお話がしたいそうで」

 青年は村長の屋敷の裏手の、ある場所を指差した。

「あそこに主があなたさまを待っております」

 そこは昨日、村の若者たちに呼びつけられた部屋だった。


 さて、これはどうしたものか……。

 目の前に立つ中年の男、辺境伯家騎士団の副団長は相変わらず、落着いた態度で、こちらを真面目くさった目つきで見つめてくる。

 まさか、この男は俺がベルシュ村のイシュルで、ブリガールと同様に辺境伯を誅殺しようとしていること、すべてのいきさつを知っているのだろうか?

 いや、もしそうならこんなことはしてこないだろう。

 例えば騎馬隊を突出させ、到着予定日より早く夜間に到着、まず先に秘密裏にリフィアの身柄を確保し、さっさとアルヴァに送ってしまう。それから村長宅を囲って火をつけて家まるごと、寝ている俺自身を焼き殺す。

 もし俺の正体を知っていれば、この男は騎士団の幹部だ。それくらいのことはやるだろう。

 それにしてもこの男のやり口。さすがに世慣れたいい大人、昨日のガキどもとは違う。俺に対して侮るような態度を微塵も出してこないところが、またなんともやりにくい相手だ。

「……」

 しかし困ったな。

 イシュルはとりあえず、副団長の提案を飲むか飲むまいか、思案している風を装った。

 この男の提案。それは、リフィアのいわば客人としてすんなりアルヴァ城内にもぐり込めるという、最も重要なこちらのねらいを潰してしまう、ということだけではない。問題なのは、後で辺境伯の賞状、つまり仕官の推薦状も取り次ぐとしたことで、その提案を断るこちらの理由も無くしてしまっている点にある。

 この副団長さんも、姫さまから悪い虫を取り除く、アルヴァに帰還するリフィアの評判に傷がつく恐れのあるものは前もって排除しておく、それを裏で内々に遺恨なく済ましてしまおうと、単純に考えているだけなんだろうが。

 それでこちらの進退も見事に封じられてしまった。

 何かうまく断るいい理由がないだろうか。

「アレク! どこだ!」

 イシュルが悩んでいると、部屋の外からリフィアの呼ぶ声が聞こえてくる。

 またバカでかい声で。

「うっ……」

 副団長がまずい、といった感じで動揺する。

 リフィアがこの部屋に近づいてくる。

 助かった……。素直に彼女にこの場をおさめてもらおう。

 イシュルはリフィアにこの場所が知れるよう、わざと風の魔法を発動した。

 イシュルの真上、屋敷の上空に風の渦が立ち上る。微かに屋根の軋む音がした。

「ここか!」

 部屋の引き戸が開かれ、リフィアが姿を現した。

 イシュルは間をおかず、その場に跪いた。

「おお、アレク……、うん? カレル、なぜそなたがここにいる」

 リフィアが不審な目を副団長に目を向ける、そしてその視線が従者が手に持つ金の詰まった布袋に移動した。

「カレル・ヴィスト! これはどういうことか」

 頭のまわるリフィアのことだ。この場の状況をまたたく間に理解したらしい。

「お待ちください! 御息女さま」

 イシュルはそこで声を張り上げた。

「ここは姫君にどうしても、いちはやくお伝えしたいことが。恐れながらわたくしめに先に」

 そこでイシュルは顔を上げリフィアの目をじっと見つめた。

「内密にお話する時間をいただけまいか」


「まず最初になぜ、俺を探していた」

 イシュルは同じ土間でリフィアとふたりきりになった。

 リフィアはイシュルの言上を受け入れ、副団長らに席をはずすように言い、イシュルとふたりきりで話す方を優先させた。

 リフィアの眸が赤く灯り、顔を僅かに横にふる。

 うすい魔力の煌めきがリフィアから立ち上る。周囲のひとの気配を探っているのだ。

「近くにひとはいないな」

 イシュルも大丈夫だ、というふうにリフィアに頷いてみせた。

「……さっき、村の南の方で尋常ならざる魔力を感じたものでな。おまえが何かしたのかと思って来たのだ」

 リフィアはその眸から赤い光を消すと再びイシュルに顔を向け言った。

「そうか。ちょっと試したいことがあっただけだ。たいしたことじゃない」

「そうなのか?」

 不審がるリフィアにイシュルは笑みを浮かべて言った。

「お付きのメイドさんらにきれいにしてもらったのか? こんなに美しいリフィアははじめてだ。おまえの銀髪の輝きはまるで、夜に瞬く無数の星々の光が集い、踊っているようだ」

 室内は薄暗い。部屋の中の僅かな光がすべて、彼女に集まっているように見えた。

「なっ、そ、そんなこと……」

 リフィアの顔が真っ赤に染まり、目が泳ぐ。彼女の顔からぼっ、と湯気がでそうな勢いだ。

「おまえがご、ごまかそうとしてるのは、わかっているんだからな」

 まぁ、確かに下手くそな吟遊詩人のような台詞だった。話をごまかそうとしたが、あまりにわざとらしくてうまくいかなかったかな。ちょっとからかってやろう、という邪念があったのが敗因だ。

 だが彼女が美しい事実は変わらない。変わりようがない。

「それはそうと、副団長さんを厳しく叱るのはやめておけよ。あのひとはおまえのためを思ってやってるんだからさ」

 イシュルは本題に入った。

 俺絡みで辺境伯家の内部でゴタゴタを起こしてほしくない。

「わ、わかってる……。でも、イシュルはどうなんだ。あれはおまえの誇りを傷つける行為だった」

 リフィアはまだ照れて、うれしそうだ。動揺している。

「そんなことはどうでもいい。とにかく、ほどほどにな」

「仕方がない。おまえの頼みをきいてやる」

 リフィアはそっぽを向いて、何かを糊塗しようと、台詞だけは強気なことを言ってくる。

「それよりも、だ」

 イシュルはやや真剣な表情になって言った。

 これが一番言いたかったことなのだ。

「おまえが俺を立てて、客人として遇してくれるのはうれしいが、ちょっとそれが過剰に過ぎる」

 リフィアを刺激しないよう、言葉を慎重に選んで話す。

 リフィアがイシュルに顔を向けてきた。

「副団長はおまえに得体のしれない賞金稼ぎ、悪い虫がつくのを恐れて、ああいうことをしてきたんだ。もう少し人前では気を使ってくれ。俺はただの賞金稼ぎだ。人前ではもっとぞんざいに、他人行儀に扱ってもらいたい。じゃないとアルヴァに着いてからも、俺は同じような目に合わされ続けることになる。おまえの家の家臣らも騒ぎを起こすかもしれんぞ」

 リフィアは一部の領民たちだけではない、辺境伯家の偶像でもあるのだ。この村の若者たちが昨日、この部屋で起こしたようなことが城の中でも起きるかもしれない。副団長はそのことをも見越していたのかもしれない。

「それは……、わかった。わたしの配慮が足りなかった。わたしのせいでイシュルが辛い目に合ったのなら謝る。すまなかった」

 リフィアの表情も真面目なものになった。だが唇をとがらし、少し不服そうにしている。

「でも、イシュルが……。わたしは……」

 リフィアは少し俯き、イシュルから視線をはずした。

 そのまましばらくの間、彼女は無言でその場に佇み、じっと何かを考えているようだった。いや、何かに堪えているようにも見えた。

 ほんの僅かな時間、薄暗い殺風景な土間に静寂が訪れる。

 そしてリフィアは突然、顔を上げた。

「でも……わたしは!」

 その眸にはそれまでなかった、強く激しく瞬く煌きがあった。

 イシュルは思わず喉を鳴らした。

 リフィアがイシュルに近づく。

 手が伸びて、イシュルの胸に指先が触れる。

 リフィアの顔が近づいてくる。

 リフィアは決意を固めたのだ、おそらく。こんな時に、こんな場所で。

 イシュルは彼女をじっと見つめながら、彼女の肩に手をかけた。

 とてもやさしく。彼女を愛おしむように、そっと。

 だがそこには彼女を拒絶する意志が、巧妙に隠されていた。

 彼女はそれに気づかない。彼女の動きが止まった。

 冴えた、むしろ青白いほどの顔色だったリフィアの頬に、朱が差す。

 その時、イシュルは唐突に、リフィアをはじめて見た時のことを思い出した。

 霧雨の中、騎乗でフゴの街路を進んで行くリフィアの横顔。あの時感じた同じ悲しみがイシュルを襲ってきた。

「俺は……」

 そうか。もうあの時から、俺は……。

 あの時は彼女の、目の前の少女の絶望的な行く末をただ悲しい、と感じただけだと思っていた。

 踏ん張れた、と思ったのに。

 ……俺は愚かだ。

 

 辺境伯を殺して復讐を遂げるのに、リフィアに近づくのが最も手早く確実だと思った。それは間違いではない。こちらは辺境伯の面体を知らない。アルヴァの街にも城にも縁がない。長い時をかけて、アルヴァの街に溶け込み、街の噂を日常の生活の中で自然に耳にするような立場にならなければならない。歓楽街で聞き込みなんかするのは危険だ。もしできるのならツアフのような情報屋を見つけたい。そこまでしてはじめて、辺境伯候レーヴェルト・ベーム本人の外見と行動を知ることができるのだ。大貴族が庶民の前に顔を見せるような機会はそうそうあることではない。

 城の中にもぐり込んで調べるのにも、辺境伯家の影働きの者に知られずに城内の配置を、辺境伯の寝室や執務室を特定しなければならない。本人の面体がわからなければ、さらに困難をともなうことになる。城内の使用人を捕らえて聞き出すなんてことは危険すぎる。ましてや影武者など立てられれば万事休すではないか。

 だからフゴのあの戦場跡でリフィアを見つけ、彼女に取り入り辺境伯に直接会うチャンスが目の前に現れたのなら、それに飛びつくのは当然のことなのだ。たとえリフィアをだまし、彼女を傷つけることになろうとも。

 そう思った。そうとだけ思った、筈だった。

 だがその時すでに、俺の心の中にもうひとつ、理由がなかったか。

 俺はいったい何をやっていたのか……。


 だが俺は止まるわけにはいかない。

 瞬間、メリリャの顔が脳裏に浮かぶ。

 メリリャのことを思い出す時、それはいつも彼女の悲しい顔だ。自分がベルシュ村を出た時の。

 俺は同じ失敗を再び、繰り返えそうとしているのか。

 ……いや。リフィアはメリリャにはならない。

 そんなことはわかっている。

 でも俺は、やはり愚かだ。


「リフィアさま~」

「リフィアさま!」

 イシュルが悲しい微笑みをリフィアに浮かべようとしたとき、近くで遠くで、リフィアを呼ぶお付きのメイドたちの声が聞こえてきた。

 彼女たちの気配が近づいてくる。

「そろそろ出立だな」

 リフィアは恥ずかしそうな笑顔で、イシュルを見上げてきた。

 

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