甘い時間 1
リフィアはイシュルの笑顔を見ると、眸の赤い色を消し、かわりに頬を赤く染めた。
心なしか幾分恥ずかしそうに、視線をイシュルからそらす。もう凶悪な魔力の煌めきは消えている。
「その、戻ってきたらイシュルがいなかったから。そうしたらこちらの方でおまえの魔力を感じたのでな。その、心配で……」
リフィアは言いながらイシュルに再びちらりと視線を向けるとまたすぐに逸らし、形の良い鼻をつんと横に向けた。
「ああ。ありがとう、リフィア」
イシュルは今まで彼女に向けたことのない、満面の笑顔になってしっかりと礼を言った。
イシュルにはリフィアに聖王国のことなどをいろいろと話してもらい、情報を得たいという下心がある。
「くっ」
リフィアはそんなイシュルの思惑などわかる筈もなく、三たびイシュルの顔を見ると、何かに打ちのめされたようにうなだれ、恥じらいと喜びと何かに抗うような表情を、まるで回転する万華鏡のように美しくせわしなく見せてきた。
「……で、魔獣はどこだ? 逃がしたのか。気配がないな」
だがリフィアはすぐに表情をあらため、真剣な視線を周囲に彷徨わせた。万華鏡が回転するようなめまぐるしい表情の変化も、消え失せてしまった。
「いや、魔獣じゃなかった。相手は聖王国の猟兵だった。つけられていたんだ。俺のことを監視していたらしい」
彼女からの情報が欲しい。イシュルはさきほどの一件をリフィアにありのままに話した。赤帝龍がクシムに居座った理由のひとつ、赤帝龍がクシムから西方へ、あるいは南から西に広がる聖王国へ動こうとしなかった話をのぞいて。
「……そうか」
リフィアは小さく呟き、ひとつ頷いた。
あの影働きの女が、討伐隊や俺が赤帝龍と戦っていたのも見ていたらしい、との話にもリフィアはほとんど動揺を見せなかった。
有力な隣国であれば監視をつけるのも当然、ということは彼女にも充分にわかるのだろう。
「しかし、イシュルを亡き者にしようなどと……。姑息なことを考えるものだ」
いや、そちらの方が気になるのか? それはどうなんだろう……。
「あの猟兵が言っていた、いずれ周辺諸国にも伝わる、ってのは何だろうな」
最も重要な疑問、といったらこれだろう。
「今すぐ思いつくことは聖王国内部の政変、あるいは内乱か、外征だな」
リフィアは間髪を入れず答えてきた。
頭の回転の早いやつ。
だが見立ては俺と同じで、誰でも考えることだ。というか、それくらいしか理由が思い浮かばない、とも言える。
「ただ、今の段階では何も断定できん。情報を集めるにも確認するにもアルヴァに着いてからだな」
リフィアは歯切れ良く言い足してきた。
アルヴァに着いてから、か……。
「それじゃ、道を急ぐか。まずはゾーラへ」
言いながらリフィアに背を向け腰を下げる。
「あ、いい。いいんだ。足の具合も良くなってきたから、これからは自分で歩く」
振り向いて彼女を見ると、リフィアは少し恥ずかしそうに、
「久しぶりに魔法具を思いっきり使ったら、痛みがほとんどなくなったんだ。捻った足首に魔力が流れたのが良かったのかもしれない」
と言った。
なるほど。そういうこともあるかもしれない。
それからはイシュルがリフィアの手をとり、倒れた木々を越え、彼女のつくった“道”を猟師道の方へ戻って行った。
リフィアはイシュルと手をつなぎ、時にからだをあずけながら、ずっと頬を染め顎をつんとあげ、イシュルと顔を合わそうとしなかったが、機嫌はすこぶるよく、まんざらでもない感じだった。
猟師道に出てからはゆっくり歩き、リフィアとさきほどの話を再開する。
「オルスト聖王国の政情は中央も地方も比較的安定している。国王、ビオナートが不例であるとかの話はアルヴァを出る直前まで耳にしていない。心の臓の病などで突然死、ということはあるだろうが……、ただ、ふたりの王子は同腹で不仲ではないものの、王位をめぐっては互いに譲らずそちらの方の確執が絶えない、とはよく聞く話だ」
イシュルの聖王国の最近の政情はどうなのか、との問いに対し、リフィアはすらすらと答えた。
イシュルにとって特に目新しい内容ではなかったが、「アルヴァを出る直前まで耳にしていない」とのリフィアの言には領境を聖王国と接する故か、なかなか生々しい感じがある。
「なるほど。聖王国国王の歳は今、五十くらいかだったか」
「いや。まだ四十代だ。ふたりの王子は二つ違いで二十代半ば、くらいだな」
ふたりの王子の年齢は男なら、強い野心を抱く頃合いだと言える。まわりの者から焚き付けられるなどという影響も受けにくくなる、目の前に掴みとれる大きな権力があるのなら、自らの意志で獲りにいこうと考える年齢だ。次の王は誰になるのか、父親は何を考えているのかと気を揉みはじめる年齢でもあろう。
そして、父親もまだ衰えるには早い歳だ……。
「ふたりの王子は危険な年頃だな。ビオナートは次の王を兄弟のどちらにするか、決めていない、ということか」
「決めることができない、とも言える。選ばれなかった側がどんな動きをするか、予断を許さない状況になる恐れがある」
そこまできな臭い状態になっているのか。
「……で、外征だとすると、ここ、辺境伯領もやばいんじゃないか」
リフィアの率いた討伐隊全滅の報はまだ聖都までとどいていないだろうが、今のアルヴァがからっぽであることはすでに知られているだろう。
「そこは抜かりはない。ここ十日ほどはわからないが、我々がアルヴァを進発する時点では、聖王国側で聖王家や諸候の怪しい動きはないとの報告を受けている」
当然、辺境伯家だってそれくらいの手配はするか。
「だが、確かに今回の赤帝龍討伐で軍主力は壊滅、二回連続の敗北で当家にはもうまとまった戦力はない……」
当然のごとくリフィアの表情は厳しいものになる。
「心配ないだろ。おまえがいれば」
さきほどの、あっという間に森の中に出現した広い道。あれでもまだまだリフィアの全力ではないだろう。彼女はまさしく一騎当千だ。
リフィアとやりあうにはまとまった兵力が必要だし、たとえ複数の魔導師でも対抗するのはきびしいだろう。彼女の魔法具には少し自分の風の魔法具と似たところがある。反応の早さと、有無を言わせぬ大きな魔力の発現に、似た印象を受ける。
「それに聖王国が王国の辺境伯領に侵攻すれば、王家より先に、待ってましたとばかりにアルサール大公国が動くだろう」
リフィアは厳しい表情のまま頷いた。
もともと聖王国は、辺境伯領に強い領土的野心を抱いているわけではないのだ。
リフィアは今は自分の真横を歩いている。細い猟師道は里に近づくに従い、道幅が少しずつ広がり、凹凸が少なく歩きやすくなってきている。
「聖堂教会の意向もある。王国、しいては辺境伯領に対する聖王国の侵攻はない、と判断して差し支えないだろう」
イシュルも少し難しい顔になって言った。
聖王国の東は山、南は土豪や小部族が点在し、水棲の魔獣や蜥蜴人(リザードマン)が跋扈する湿地帯。そこは、アルサール大公国の南部から西に中海沿いに割拠する都市国家群との均衡地帯でもあり、聖王国には中海の都市国家との関係を悪化する気はない。
つまり今のところ聖王国に外征の目はない。
「なら決まりだな。聖王国の」
「イシュル」
リフィアは立ち止まり、鋭い声でイシュルの言を遮ってきた。
リフィアは真剣な目でイシュルをじっと見つめてくる。
「イシュルはもし……今、聖王国がわが領に攻めてきたら、わたしといっしょに戦ってくれるだろうか」
リフィアの真剣な表情。眸に灯る光が強く、微かにまたたく。
「ああ、かまわないが」
イシュルは短くひとつ、頷いた。
聖王国の侵攻の可能性は少ないだろう。だがもしそうなると、辺境伯を殺すのは後回しにせざるをえなくなるかもしれない。
いや、辺境伯本人が出陣するのなら戦陣でどさくさに紛れて殺す。城に留まるのなら本人の周りが手薄な状態になるだろうから、殺りやすくなるだろう。戦(いくさ)の途中で辺境伯が死ねば、辺境伯軍は混乱状態になるだろうが、どんな戦勢になろうと、俺ひとりでどうにでもできる。今なら万単位の兵力の軍勢でも殲滅できる自信はある。戦場なら多数の魔導師とでもやりあうのは楽だ。大公城でボリスらと戦った時は彼らを殺さぬように気を使ったのだ。力まかせにやれるのなら、相手が魔導師でも一般兵とたいした違いはない……。
イシュルが首肯してみせても、リフィアの固い表情は変わらなかった。
彼女の喉が鳴る。
「い、イシュル、あの」
リフィアは一瞬俯いてイシュルから視線をはずすと、すぐにまた顔を持ち上げイシュルを見つめてきた。
彼女の眸の輝きが激しく揺れる。
「イシュルはゾーラ村に着いたら、ど、どうするんだろうか? 故郷に帰るのか? それとも……」
おまえが聞きたかったのはそのことか。
さて……、ここで彼女に名を偽り、アルヴァへ同道する話を持ちかけるべきだろうか。
「さあな。村にはしばらく帰れないだろう。王国内に留まればまた何か面倒ごとに巻き込まれるだろし、他国へ行くかな?」
イシュルの眸に探るような色が現れる。
リフィアの出方を見よう。
「そ、それなら……」
リフィアはイシュルの探るような表情にもまったく気づかず、固い表情のまま顔を上気させて言った。
「イシュルはわたしの命の恩人だ。だ、だから、わたしといっしょにアルヴァまで同行してくれないだろうか。父にも話して、当家から正式にお礼をしたい」
そして呟くように付け足した。
「だめかな?」
「……」
イシュルは内心、ほくそ笑んだ。
ふふ、彼女から言い出してきたか。
「そうだな。リフィアの父さんにでも会って、少しばかり礼金でももらっておこうか」
「ああ、そ、そうだな。もちろん、お礼はする」
リフィアは笑顔になると、ぶんぶんと首を縦に振った。少し挙動不審に思えるほどだ。
「イシュルはお金に困っているのか? ならわたしが……」
「いや。それは大丈夫だ」
イシュルはリフィアの言葉を遮り言った。
「金に困ってるわけじゃないが、当分は根無し草の生活が続くだろう。金は少しでも多く持っていて損はない」
まだセヴィルさんからもらった金も、ペトラからもらった金も手をつけていない。当分は遊んで暮らせるくらいの金はある。
「そうか……」
リフィアが笑顔を引っ込め少し俯き加減になる。
彼女はイシュルがどこにも仕えない、と言ったことを思い出したのだろう。
「それにせっかくだから王国の東の古都、アルヴァの街も見ておきたいしな」
すっと顔をあげたリフィアに、イシュルは笑顔を浮かべ言葉を続けた。
「ただ、リフィアにお願いしたいことがあるんだ。俺が風の魔法具の所有者であること、つまりイシュル・ベルシュであることを隠しておきたいんだが……」
「わかった」
リフィアは胸をはって大きく頷いた。
「確かに王家からの勧誘は鬱陶しかろう。イシュルの気持ちはわからぬでもない」
イシュルは自分が傭兵部隊に所属していた賞金稼ぎの少年で、たまたま運良く生き残り、赤帝龍が去った後唯一の生存者であるリフィアを救出した、という前から考えていたでっちあげをリフィアに了承させた。理由はもちろん、王家からの監視や勧誘から逃れるため、だ。
イシュルは表情を緩め、にこにこしながら心の中では舌を出した。
……完璧に計算どおりだ。単純なやつめ。いや、おまえのその明朗さは美徳だよ。
「だが、このことはリフィアの父君、辺境伯本人にも内緒だ。悪いが俺にとっては王家も辺境伯家も似たようなものだ。おまえの父さんだって、予に仕えよ、なんて言ってくるかもしれないからな」
本当はそんなことはないがな。やつは俺を恐れている。フゴで襲ってきた方の刺客は聖王国の者ではなく、辺境伯の手の者ではないか。
「……わ、わかった」
リフィアはとたんに表情を曇らせ、今度は不承不承に頷いた。
「名前はどうする? まさかイシュルのままではまずかろう」
リフィアが少し不機嫌な感じで聞いてきた。
イシュルはそんなリフィアをなだめるように、より笑顔を深くして答えた。
「ふむ……、じゃあ仮の名は“アレクト”。アレクでいい」
小さな細い道を、木漏れ日が斜めに差すようになった。
ふたりは横に、時に前後に並んで歩き続けた。イシュルはリフィアの捻った足を思って、そのままゆっくり歩き続けた。
「リフィアは、あの女の言っていた“紫尖晶”に関して何か知っているか」
イシュルがリフィアに語りかける。
あの女の言う事が嘘でないのなら、紫尖晶なる組織は聖都の尖晶聖堂にある、聖王国隷下の影働き専門の工作機関、ということになる。
リフィアはどこまで知っているだろうか。
「紫尖晶の名は耳にしたことがある」
横を歩くリフィアが前を向いたまま、話をはじめた。
「聖堂教会の聖堂に石の名がつく場合は大抵、魔法、魔法具と何らかの関係がある。魔法具には水晶などの宝石類がとても多いからな。紫尖晶は魔法具持ちで構成された、聖王家の影働き専門部隊だ」
「聖堂教会にも同じような組織があるよな」
あの二重人格だったツワフは、元は聖堂教会の秘密組織に所属する工作員だった。
「もちろん」
「聖王国と聖堂教会でその手の組織に違いはあるんだろうか」
リフィアはイシュルを見て、そんなことも知らないのか、といような目で睨んできた。
「任務が少し違ってくるだけだ。あとは同じだな」
「……そうか」
聖堂教会の聖堂内にありながら、聖王国の王家、国益のために働く組織、紫尖晶にはそういう面倒な背景がある。
聖王国と聖堂教会の地理的な関係はイタリアとバチカンに似ているかもしれない。聖堂教会は主神殿を中心に、聖都エストフォルに隣接する形で教会領を持っている。もちろん聖王国内にも教会領は散在する。
だが聖王国と聖堂教会の歴史的、政治的な関係は、イタリアとバチカンのそれとはだいぶ違う。両者はほとんど対立することなく、長い間緊密に結びついていきた。
聖王国は聖堂教会、その主神殿を守護するために設立された聖堂騎士団から興った国である。そのため古くから両者の役割ははっきりと分かれていた。教会は基本とする神事に加え神殿の維持建設、布教と信徒の保護、聖王国は教会の軍事、政治面での保護と支援である。もちろん聖王国は国家であるから当然、他に通常の国事を抱えている。聖王国と聖堂教会はある程度の政教分離が成された状態で成立し、その関係を維持してきたと言える。
だが、これが両者の種々の組織の実際の所属や人事となると、かなりあやふやとなる。
紫尖晶がそのいい例と言えるだろう。“紫尖晶”は聖王国王家隷下の諜報組織であるのに、聖堂教会の尖晶聖堂内にある。構成員の過半は聖堂教会の神官で、いわば教会から出向しているようなものである。だが逆に、例えば聖王国の下級貴族や領民出身の猟兵で、神官の身分を仮に与えられている者も多くいる。
ここら辺の事情が、紫尖晶をはじめとする聖王国のさまざまな組織やその任務を複雑なものにしている。
紫尖晶は聖王国の国益のために動いている、といってもその内部の者には教会の神官が多数含まれ、聖王国自体がそもそも聖堂教会の軍事、政治面を支援する立場にあるので、実質、聖堂教会の任務を重点に動く場合も少なからずあるだろう。それが聖王国の国益に反する場合だってあるかもしれない。
リフィアが任務は少し違うがあとは同じ、と言ったのはその組織としてのあやふやなところをさしているのだろうが、事情が複雑なだけに、あまりそのことに神経を尖らしてもしょうがない、ということも同時に言っているのだろう。
それに加えて、ラディス王国と並ぶ力のある国である聖王国と、聖堂教会とが合わさって、結果、両者が大陸で最も強い力を持ちその権勢を意のままに振るっている、というわけでもない。
聖堂教会にとって最も大切なものは自らの信仰と神殿、信徒であり、極端ないい方をすれば聖王国はそれを補完する道具でしかない。神殿や信徒はほぼ大陸全土に存在している。聖王国と敵対するアルサール大公国の大公も、聖王国と良好な関係とは言えないラディス王国の国王も、聖堂教の信徒なのである。
聖王国自体は周辺国に対して強い領土的野心を持つとしても、聖堂教会を無視して自国の国益だけで動くことはできないのだ。
「イシュルが聖王国を気にする必要などない。その猟兵の女、とやらを脅してやったんだろ? それで充分だ。赤帝龍と互角に戦えるイシュルを恐れぬ者など、この地上にはおらん」
リフィアはイシュルから視線をはずして前を向き、独り言のようにつぶやいた。
「聖王国が聖堂教の御旗をかかげるということは、同時に聖堂教会にも縛られる、ということだ」
ん〜、うまい。うまいな。
イシュルはイワナやヤマメを木の枝を削って刺し串焼きにし、むしゃむしゃ食べていた。
ふたりは夕方から谷川に降り、川端で川魚を獲ってそのまま一夜を過ごすことにした。
「イシュルは魚が好きなんだな。とてもおいしそうに食べる」
リフィアも楽しそうにしている。
元は日本人だからな。前の世界じゃ天然のイワナやヤマメなんて、そうそう食べられるもんじゃなかったんだぞ。
生まれ変わってこの地で育って、今まで何度も食べてきたわけだが、このうまさに飽きはこない。
「うん。そう言えば……」
イシュルは川魚を食べ終わるとその串を焚き火の中に入れ、あらたまった様子でリフィアを見た。
「ちょっと聞きづらいことなんだが、リフィアにまた教えてほしいことがあってな」
今は彼女もくつろいでいる。こういう時に聞いてみるのがいいかもしれない。
「なんだ?」
リフィアに笑顔が浮かぶ。柔らかい笑顔だ。
「実は、魔法具のことなんだ」
リフィアの眸をのぞき込む。
「俺とおまえの」
リフィアの顔から笑顔が消える。焚き火の火がぱちぱちと鳴った。
どこかで夜鳥の鳴く声がする。
「俺とおまえの魔法具には似ているところがある。どちらも自身のからだの中に取り込まれている、ということだ」
「……」
リフィアは無言のままだ。
「禁忌に触れることだということはわかっている。俺に話せることだけでいいんだ」
「イシュルはどうなんだ? イヴェダの剣、確かレーネと申したか。おまえは自身の魔法具をかの大魔法使いからどのように継承した?」
「それは……」
こちらが言い淀む感じになると、リフィアは笑みを浮かべてきた。
「その時は火事になったのであろう。わたしもその秘事を耳にしている」
ヴェルス→辺境伯のラインで知ったわけか。
「イシュルが風の魔法具をレーネから継承した時、その前後に何か事故が起きたのであろう」
場が緊張する。今俺はどんな顔をしているだろう。やはりこの話はしない方がよかったか。
「いや、わたしはその時のことを詮索する気はないぞ」
リフィアは笑みを引っ込め、いやいやと、緊張した空気を払うように手を振った。
「風神の魔法具という途方もないものなのだ。何が起きてもおかしくはない。そのような魔法具はこの世に現れ出るのも、誰が手にするかも神の御心次第なのだ、とわたしは考えている」
リフィアは俺を見つめ、静かに話を続ける。
「それが昔、なぜレーネが手にすることになったか。そして今、なぜおまえがそれを持っているのか。わたしにわかることはおまえたちがベルシュ家の一族で、古代ウルク王国の神官の出だ、ということだけだ」
リフィアはまた笑みを浮かべた。
「わたしの“武神の矢”の継承にも他人に漏らせぬ秘儀はある。だがそれを秘すことが最重要、というわけではない。それ以前に、継承には王家の血筋であることが絶対的な条件として存在するからだ。秘儀の内容を知ろうとも、王家の血筋でなければ継承は不可能だ。結局は“血”が重要なのだ。このことは巷でもよく知られていることだ」
リフィアは風の魔法具の継承に関しても“血”が重要だと考えているようだ。だがそれではレーネの言動や赤帝龍の言ったことと辻褄が合わない。
「だがな、イシュル。わたしは武神の矢の継承には他に、より重要なものがあると考えている」
リフィアの笑みが大きくなる。
「なんだ? それは」
「それは、“愛”だ」
「!?」
は? あ、愛、だと? ……そんなバカな。
「なんだ? びっくりして」
い、いや、だって。
「“血”の継承とは、つまりは親と子の愛情だ。わたしの場合は祖父だったが」
そうか……。なるほど、そういうことはあるかもしれない、な。確かに。
王家や貴族などというのは跡目争いをはじめ、常に内部で権力争いをしているかのような印象があるが、もちろんそんなことばかりではない。
リフィアは真面目な顔になって言った。
「実はわたしの魔法具の継承には必要な呪文がある。その呪文は定形ではない。定形である必要はない。ただ、魔法具を渡す相手に対してかならず、祝福と愛情の意が込められねばならなぬ」
そしてリフィアは「秘密なことなのに、ちょっとしゃべり過ぎてしまったかな」と小さく呟き、微笑んだ。
彼女の笑顔は眩しく、輝くばかりに見えた。
ほんの小さな、微笑みの筈なのに。
翌日の昼下がり、今イシュルはリフィアを背に抱えて歩いている。
彼女の左足の捻挫はだいぶ具合がよくなているようだが、まだ丸一日連続で歩かせるのは無理がある、と判断した。
なるべく早めにゾーラ村に到着しておいた方がいい。なら自分が彼女をおぶって、時々魔法を使って移動すべきだ。遅れれば遅れるほど、王家や辺境伯に赤帝龍との戦いやクシムの情勢が伝わり、こちらに対してなんらかの対策がなされ、動かれる時間を与えることになる。ただ、急ぎすぎても良くない。ゾーラ村の者やフゴの残留部隊の者たちに不自然に思われない程度にしなければならない。例えば徒歩で五日間かかる行程を二日で走破した、などということになれば、負傷した者をかかえてどうしてそんなことができるのか、という話になる。
昨晩のリフィアは饒舌だった。
彼女は彼女の魔法具、武神の矢のことについても話してくれた。
「わたしの魔法具には呪文がない。呪文を唱える必要がない、とも言える」
リフィアはイシュルの顔をしっかり見て話を続けた。
「自分が使いたい、いや、戦いたい、戦わねばならなぬと思えば発動する」
「ほう」
確かに風の魔法具と少し似ている。
怒ったり興奮したりしても発動するよな、などと茶々を入れることは決してしない。ちょっとやりたいが。
「例えば怪力を発揮したいと思うだけでも、武神の矢の持つ魔法の能力のすべてが発動する」
「なるほど」
加速や硬化、直感や知覚の鋭敏化なども同時に発動する、ということだ。
「呪文がない、というのは、武神の矢には他に魔法がない、ということだ。精霊の召還もできない」
「なるほど。……でもいいのか? そんなことまで話してしまって」
「別に構わん。古くから王家に伝わる魔法具だ。知っている者は知っている。それに」
リフィアに獰猛な笑みが浮かぶ。
「知られたからといって、たやすく破られるものではない。生半可な魔法ではわたしを止めることはできんぞ。赤帝龍やおまえは特別だ」
彼女は昼に森を切り開いて広い道をつくってしまったわけだが、あれが良かったのか、クシムでの敗北、挫折から少し自信を取り戻せたようだ。
赤帝龍に俺が追加された理由は、赤帝龍と俺が互角に戦ったことよりも先日、湖上で風の魔法の壁で彼女を閉じ込め、彼女の力を完全に封じ込めたことの方が大きいのではないか。あれは力のある魔導師でもそう簡単にできるものではない。大精霊が使っていた魔法と同質のものなのだから。
「そういうことでわたしに魔法の師はおらん。強いてあげるなら死んだ祖父になるか。魔術書もそれほど詳細に読んではいない」
「……そうか」
辺境伯家には当然、何冊かの魔術書もあるだろう。
「確かにイシュルの魔法具も、わたしの魔法具と少し似ているかもしれん」
リフィアには赤帝龍との戦闘の概略を話してある。その話から彼女はそう感じたのだろう。彼女も俺と同じようなことを考えている。
「力まかせでなりふり構わないところがな。だが、かの風の大魔導師レーネは多彩で巧緻な魔法も使ったらしいぞ」
見透かされてるかな? 俺があまり風の魔法に精通していないことを。
だが、レーネが多彩な魔法を使ったとは、いい事を聞いた。
ベルシュ家の屋敷にはレーネに関する記録は遺されていなかったし、彼女が現役で活躍していた頃のことはまだあまり知らない。自分が現時点で知っていることは、彼女が王都の南西にあるアルム湖やその西に広がるブレクタス山塊で魔獣退治に、王国の北西で対峙する連合王国との、当時の度重なる戦役で大活躍した、ことくらいだ。王国の魔法使いやハンターたちだったら、それくらいのことを知っている者は今でもたくさんいるだろう。以前から考えていたことだが、レーネのこともいつか詳しく調べなければならない。
そしてレーネが多種多様な風の魔法を使った、というのなら、やはり従来から存在する風の魔法をしっかり学ぶ必要がある、ということだ。
「ありがとう。リフィア」
イシュルは小さな声で言った。
おまえの話はためになったよ。
「ん?」
リフィアは目を僅かに見開き、首を傾けた。
美しく、かわいらしい少女だ。
リフィアは相変わらず両腕をイシュルの首にしっかり巻き付け、大胆にからだを密着させている。
彼女の顔がイシュルの肩にのかっている。彼女は寝ている。
イシュルはからだの上下を抑えつつ、なるべく早く歩くように努めた。
今日はよく晴れたのか、谷川の方からの明るい日差しが木々の間をすり抜けて、イシュルたちを照らしている。
早歩きで猟師道を歩いていくと、木々の影とその間から差す陽が目まぐるしく、くるくると交互に入れ替わってイシュルの目を幻惑してくる。だがイシュルはそれをうとましく感じたりはしなかった。
むしろその軽快さに心地良ささえ感じた。山が低くなり人里が近づき、森の様相が変わってきている。それが日差しと影をやわらかくしている。
イシュルはその光と影のコントラストに身をゆだねた。
「おまえの頭をかち割って」
「それはからだの中にある」
「おまえを殺せば、その力は手に入る」
「おまえを喰らい、風の魔法具を我がものと成す」
これらはかつてレーネや赤帝龍が言った言葉だ。
森の魔女に殺されそうになってからもうだいぶ時が経ち、あの老魔法使いの言ったすべての言葉を憶えているわけではない。だがあれが一生忘れることのできない出来事であったのは確かだ。
「誰が手にするかも神の御心次第なのだ」
「おまえたちはベルシュ家の一族で、古代ウルク王国の神官の出だ」
そしてリフィアの言ったこと。
リフィアの言ったこともないがしろにするわけにはいかない。
少しずつだが神の魔法具の継承、いや、奪い方を見極める判断材料となるものが集まってきている。
だがこれだけではまだ、確かな答えはだせない。
今推測できることは、神の魔法具を奪い合うのならそれは互いに殺し合うことになるだろう、ということ。
そしてそこに加わった新たな要素。それはその争奪戦に参加する条件に、“血”や、“神の意志”が関係しているかもしれない、ということだ。
そして今のところ、神々が見、指すゲームの盤上にリフィアの言った“愛”と呼べるようなものは、その欠片さえ窺えない、ということだ。
だが、彼女の魔法具の継承に親子の愛情と祝福が必須だという話は、自分にとってけっして小さくない慰めとなるものだった。それは今まで自分がまったく知ることのなかった、魔法と魔法具の見せた意外な一面だった。人と人の間には時に愛情を紡ぎ、積み重ねて魔法を伝承してきたこともあったのだ。
それは人間のさまざまな知恵や知識が、幾世代もの間受け継がれ守られてきたことと何ら変わるものではない……。
今さらか。そんな当たり前のことを今さら知ったのか。俺は。
それは、とても大切なことだ。
自分の歩んできた厳しい境遇に、その思いを曇らせてはならない。忘れてはならない。
だが……。
これから先も、その魔法具と愛をめぐる話が、俺自身に係ってくることはないだろう。
歩を進めるごとに視界を光と影が交錯する。それはいつまでも、どこまでも続くように感じられた。
翌日昼過ぎ、ふたりはゾーラ村に到着した。
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