森をゆく


 

 

「何をしている!」

 イシュルがズボンを脱ごうと手をかけたところで、後ろから鋭い声がかけられた。

 イシュルの目の前には湖が広がっている。今日は少し風があるせいか、小さな波が岸辺までゆったりと打ち寄せてきていた。

「うん? 水浴びするんだけど?」

 イシュルがリフィアに振り向いた。上半身はすでに裸だ。

「ばっ」

 リフィアは両手を自分の顔の前に掲げて、何だか変な感じでぶんぶん振り回している。

 彼女は焚き火の横に座っていた。焚き火の炎が彼女の手の動きに合わせてゆらゆら揺れている。

「なんだ? 見なきゃいいだろうが」

 そこでイシュルがにやつく。

「それともまさか見たいのか? リフィア。俺の」

「そ、そ、そんな、ことあるかぁ!」

 リフィアは立ち上がった。目が赤く光る。焚き火の炎が大きく揺らめいた。

「あっ。まずい……」


「ふぅ、なんだか知らんがいい運動になった」

「……」

イシュルの向かいには焚き火をはさんでリフィアがいる。

 リフィアは足を揃え膝を立てて座っている。両腕で足を抱え込み、膝の上に顔をのせ、頬を赤く染めてふてくされている。

「おまえが悪いんだ」

 リフィアは上目使いに睨んできた。

 いや、それは全面的に認める。確かにまずい発言だった。セクハラだよね? 自覚はある。

 だが、おまえも軍の指揮をとり、男ばかりの兵らと行動をともにしてきたわけだろう。以前から騎士らとさんざん稽古もしてきたんだろう。男の裸なんて見慣れているだろうに。

「おまえも水浴び、しておいた方がいいぞ。ぜったい見ないようにするから」

 彼女は濡れた髪に手をやった。

 相変わらず険しい表情だ。

 さっきはやばかった。彼女は興奮して眸を赤くすると、いきなりこちらに飛びかかってきた。まさか本気で向かってくるとは思わず、対応が遅れた。

 彼女は魔法具が発動すると眸が赤く光る。そして瞬間的に閃光のような激しい魔力を周囲に放つと、彼女を中心に輪刀のような鋭く平らなリング状の魔力の煌めきが現れる。そのリングは水平に回転でもしているのか、魔力をせわしなく点滅させた。見るだけで、感じるだけでその凶暴な恐ろしさが伝わってきた。

 リフィアの姿が消えた瞬間、俺は本能的に空へ、湖上へ逃れた。早見の指輪が反応した時、リフィアは湖面を蹴って、そう、なぜだかわからないが地面のように蹴って跳躍し、俺の足首を掴もうとしていた。彼女の背後の水面には大小の波紋が絶妙のバランスで描かれていた。

 早見の指輪が起動しても、彼女の動きはなんとか目で追えるようになっただけで、ちっとも遅く感じられなかった。

 だがヘレスでいいのか、幸運の女神は俺に味方した。彼女が掴んだのは俺のズボンの裾だった。こちらの動き出しがほんの僅かだが早かった。彼女の跳躍はあと一歩、いや爪の先ほど遅かった。

 俺は間一髪で空に逃れ、リフィアを風の魔法の壁に閉じ込めた。あの精霊界らしき空間から直接引っ張り出した、風系統の魔力の塊だ。赤帝龍の火炎を何里(スカール、約六〜七百m)も先に吹き飛ばした力、大精霊カルリルトスが火神の結界を潰した力と同じものだ。

 彼女の足下には壁をつくらず空中に浮かした。しっかりした足場がなければ彼女の怪力も充分には発揮されない。さすがのリフィアも、その壁を破ることはできなかった。

 彼女が捕まえたのは俺ではなく俺のズボンだった……。

 まぁ、そんなわけでその後さらに怒り狂った彼女と、俺のズボンをめぐってかるく水遊び、とういか凄惨な駆け引きが展開されたわけだが。

 俺だってズボンは返して欲しかった。それもできれば暴力はなしで、平和的に、穏便に返してもらえたら良かった。ズボンの下には膝上まで裾のある、紐で結ぶ生成りの下着をちゃんと履いていたし、真っ裸というわけではなかったのに。リフィアはなんであんなに怒っていたのか。

「絶対だぞ。絶対に見てはならん。見たら殺す」

「大貴族のご令嬢さまがそんな野蛮な言葉を使ってはいけません」

「うっ」

 彼女の視線がきつくなる。頬の赤味が増す。

 ほんとに弄り甲斐のあるやつ。

 他人にからかわれた経験がないのだ。

「どうせずぶ濡れになっちゃったんだからさ。さっさと身を清めて服を乾かせよ。風邪引くぞ」

「……わかった」

 リフィアは上目遣いに唇を尖らした。

 イシュルはたまらず鼻を押さえる。

 このっ。おまえみたいな滅茶苦茶凄い美少女にそんな顔されると、やばいんだよ。こっちが。

 大丈夫だ。鼻血は出てない。


 イシュルは湖面に背を向け、マントを羽織って焚き火にあたっている。向かいの木々の枝には、いっしょに洗ったシャツやズボンなどが干してある。

 今日の天気は薄曇り。弱いが日差しはある。洗濯には可もなく不可もなく、といったところだ。

 もちろん湖の水は冷たかった。

 背後からは湖面に立ち、浮き沈みするひとの気配と微かな水の音。

「振り向くなよ!」

 後ろからリフィアの叫ぶ声が聞こえる。さきほどから定期的に同じ台詞が繰り返されている。

 おまえもか。おまえも見るな、見るなと言いつつ、ほんとは見て欲しい口か。

 もちろん見ない。絶対に見ないけど。

湖から上がったリフィアが髪の水気を取り、マントを羽織る音がする。気配が伝わる。

「もういいぞ」

 何気に振り向いたイシュルは打ちのめされた。

 暴発はしなかった。耐えた、耐え切ったと思った。だがその瞬間、無情にも鼻の穴から鼻血が一筋、つーっと流れ落ちた。

 リフィアは濡れた髪を後ろにまとめ、ポニーテールにしていた。それももの凄かったがまだいい。

 問題は湖面を反射する光を後ろから浴びて、マントで覆われた彼女のからだのラインが、その布を透けてくっきりと浮かび上がっていたことだった。

 逆光をよく通す白いマントが、彼女の肢体の流れるような曲線を清らかに、同時に官能的に浮き上がらせていた。イシュルは夢の中にいるような気がした。

 鼻血は垂れっぱなしだった。




 夜、焚き火の火を絶やすぬよう、交代で眠る。

 魔獣への警戒はリフィアが対処できるからいいとしても、そろそろ冷え込みがきつくなってきたので、夜間は通しで焚き火の暖をとる必要が出てきた。

 今日の夕食はイシュルが湖で獲った魚を食べた。

 イシュルは湖面に広範囲に風をぶつけ、湖の水をすくうようにして空中に盛大に吹き上げ、空中に浮かんだ魚を「つかみ」取って湖畔まで運んだ。近くに釣り人でもいれば激怒されるような、力まかせの荒々しいやり方だった。

 目につく大きな魚は鱒が多く、イシュルが捌いた。

 焚き火の向かいにはリフィアがマントに包まって横になっている。彼女が先に睡眠をとる。

 リフィアは眠らず、揺らめく炎ごしにイシュルの顔をじっと見つめている。

「た、確か昨日、王家の宮廷魔導師で死んだのは四名、と言っていたな。それは……、わたしの軍とともに行動したボリス殿ら四名、ということでいいのだろうか」

 彼女の眸に炎の揺らめきが映っている。その揺らめきはなぜか少し不安げで、弱々しい。

「なんだ? それがどうかしたか」

 イシュルは彼女から視線をはずし、炎に目をやった。

「そ、その……、エーレン殿はご無事だったのだろうか」

 ん? こいつがフゴを避けたのは、マーヤと顔を合わせたくなかったからではないのか。リフィアはマーヤの消息を知らなかったのか。俺は何も言ってなかった?

「あ、ああ。俺のすぐ横にいたからな。マーヤは歩くのが遅くてな。傭兵隊の最後尾からもだいぶ遅れていた」

 もうリフィアが気を失った後の話を駆け引きに使う意味はない。イシュルはその後の顛末を、赤帝龍との会話の内容や赤帝龍が使った火神の炎環結界、主神ヘレスらしき者と会ったことを省いて話した。

「……そこで剣が折れた。俺はその直後気を失った。長い時間ではなかったと思う。気がついてクシムの北側の谷に出た時、東の山影に低空を飛ぶ赤帝龍の姿を見た。やつは苦しそうだった。何かの拍子に地上に落ちてもおかしくないくらい、ふらふらと飛んでいた。やつのからだから滴り落ちた血が地上に落ちて燃えていた」

 イシュルは父の形見の剣を抜いてリフィアに見せた。

「この剣は父の形見なんだ。折れてしまったからといって、捨てることはできない」

 リフィアの顔は、イシュルの話が大精霊を召還してマーヤをフゴまで退避させ、戻ってきた大精霊とともに赤帝龍と戦いはじめた段になると、驚愕の表情で固まってしまった。

 イシュルは何となく話を違う方向へ持っていきたくて、父の形見の剣を見せたのかもしれない。

「それは……」

 イシュルに何か言いたかったのか、その驚愕した表情をあらためリフィアは律儀に起き上がろうとする。

 イシュルはそれを押し止めた。

「もう寝ろよ、リフィア。明日は陽が出たらすぐに出発するぞ」

「ああ。イシュルの父君のことは、そのあの」

 父君、ねぇ……。

 イシュルは自ずと険しくなる表情を隠しもせず、黙りこんだ。

 イシュルは在りし日の家族を、失われたと知った時のことを思い出した。

 リフィアも神妙な面持ちで黙りこむ。

 彼女も多くの兵を失い挫折した。今のリフィアにはイシュルの気持ちが幾分なりともわかるのだろう。

 ふたりの間には火のはぜる音以外無音の、静かな時間がしばらくの間続いた。

「それで、あの……」

 リフィアはまだ眠る気がないようだ。

「なんだ?」

 少し不機嫌なイシュルに対し、リフィアは珍しく少しおどおどして不安そうにする。

「そ、そのイシュルは、エーレン殿のこと、マーヤ、と呼んでいたな」

「それが?」

「あ、いや」

 どぎまぎするリフィア。首をすくめる。

 彼女の口許が包まったマントの中に隠れる。

 ふーん。女の子っぽいところもあるじゃないか。おまえが聞きたかったのはまさかそのことか。

 イシュルは心の中で悪い笑いを浮かべた。

「気になるか?」

「……」

 リフィアの眉間に皺がよる。

 一度隠れた口許がマントの下から出てきたら、そこで終わりだ。彼女が上半身を起こしたらもう手遅れだ。

「俺とマーヤの関係が」

「気になどしていない!」 

 リフィアの口許がマントから出てきた。

「リフィア。俺はおまえのことも、リフィア、と呼んでるじゃないか」

「うっ……」

 リフィアの口許が引っ込む。炎の明かりを浴びていてよくわからないが、彼女の顔は赤くなっている筈だ。

「まぁ、マーヤとは苦楽をともにした仲だからな。いや、うーん……」

 おっと、また出てきた。目が真剣だぞ。

 イシュルは顎に手をやりながらすっと顔を横に向け、リフィアを横目に流し見た。それがいけなかった。

 リフィアのからだがピクっと震える。

 やばい!

「ふん! もういい!」

 リフィアは叫び、思いっきり不機嫌な顔つきになると、からだを回しイシュルに背を向けてしまった。

 あ、あぶなかった……。

 イシュルは唾を飲み込む。

 リフィアを弄るのはいいが、命がけだな。

 皮肉と悪戯心と、やさしさと。イシュルはなんとも複雑な笑みを浮かべると、彼女の背に向かってやさしく言った。

「おやすみ、リフィア」

 リフィアの背が丸く、縮こまった。


 

 湖面に満月からやや欠けた、青白い月が映っている。湖の小さなさざ波が、月の輪郭をちらちらと揺らしている。もう虫の鳴く季節ではない、深々と冷え込む冬の静かな夜だ。

 イシュルは細かく揺れる月の輪郭をじっと見つめた。

 そこからは聞こえる筈のない、さざ波の月を刻み揺らす不可思議な音が、湖面を吹き渡る風を通じて微かに響いてくるような気がした。……きっとそれは小さな小さな、風の囁きと似た音だ。

 イシュルは湖からリフィアの方に目を向けた。焚き火の火に照らされる彼女の背中からは、彼女が深く安定した眠りに落ちているのが感じられる。

 昨日のリフィアはほとんど寝れなかったようだ。しきりに寝返りをうち、時々泣いているのか肩を振るわしていた。

 クシムに彼女を連れて行き、そこで彼女にもう一度湖に寄り、フゴには向かわずゾーラに行きたい、と提案された時、イシュルは何も言わずに彼女の言に従い湖に向かった。

 確かに、熱い吐息とともに耳許で囁いてきたリフィアの誘いは強烈な破壊力があったが、イシュルはべつにそれだけで彼女に唯々諾々と従ったわけではない。

 リフィアを助け、フゴによらずにそのままアルヴァに直行する考えは、彼女を助け出した時に一度検討したことだ。あの時イシュルは、そのやり方では自身の正体を知られずに辺境伯に近づき、殺すことは難しいと考え一旦放棄した。

 だが、彼女のイシュルに対する傾斜具合で、うまくいきそうな見込みが出てきたと彼は考え、彼女の提案を受け入れてみることにしたのだった。

 この先、嘘に嘘を重ねていくことになるが……。

 イシュルは手許の木の枝を取り上げるとふたつに折り、焚き火の火にくべた。

 ほんの少しだけ魔法を使って火に風を吹き込む。焚き火から細かい火の粉が舞い、夜空に昇って消えていく。

 ……つまりだ。俺はイシュルでもマーヤの従者、ケイブ・ステンダでもなく、傭兵部隊でたまたまひとりだけ生き残った賞金稼ぎとして、赤帝龍が去った後リフィアを運良く見つけて救い出し、辺境伯家からのご褒美目当てにアルヴァまで怪我をした彼女を送り届けた少年、となるわけだ。そして、辺境伯息女である彼女を救出したお礼と報賞を受け取るために、辺境伯候レーヴェルト・ベームそのひとから直接拝謁を賜ることになるわけだ……。

 俺が賞金稼ぎになるにはリフィアの協力が必要だ。俺が自身の正体を偽ることを彼女に了承させなければならない。

 今彼女は大きな苦悩を抱えている。そしてそれを克服するために、新たな目標を彼女に植え付けたのが俺だ。彼女がクシムの山頂で絶望していた時、あの時はただ彼女自身のために、と思ってやったことだが、おかげでリフィアは俺に対して好意を持ちはじめているように思える。

 そんな彼女の心につけ込み、俺を賞金稼ぎの少年として正体を偽ることを認めさせるのだ。彼女がこちらの提案を受け入れる見込みは充分にある。

 なぜそう判断できるか、それは俺が正体を偽る理由のひとつにある。赤帝龍を撃退したことで、王家はあらためて俺の実力に瞠目したろう。ペトラに王家や他家、他国には仕えない、とはっきり言ったことで、王家は今まで露骨な、あるいは強引な勧誘はしてこなかった。だが赤帝龍による王国の危機が去り、俺の実力に対する評価をあらたにしたのなら、これからどんな手段を使って俺を手に入れようとしてくるかわからない。

 フロンテーラでペトラにはじめて会った時、あいつは眠り薬を使って、その間に彼女との既成事実をつくって、などと冗談を言っていたが、もうこれからはそれをくだらない笑い話と、そのままですますことができない状況になるだろう。

 本当は俺自身、フゴに戻りたくない気持ちはあった。傭兵部隊の全滅に打ちのめされたマーヤのフォローをしなければ、という思いはあったものの、報告書を書いてくれだとか、クシムの状況確認に同行してくれだとか、何かと理由をつけられてその後もだらだらとフゴに留め、引き止められることになるのではないかとの懸念があった。その間に何らかの工作をされたらたまったものではない。相手は国家、王家という大きな組織なのだ。フゴから解放された後も、アルヴァまで監視をつけられ、辺境伯を殺ったところで、こちらの知らない何らかの魔法を使われて捕縛される、なんてこともあるかもしれない。

 俺は俺をからめとろうとする王家の手から逃れなければならない。そのためにゾーラ村に到着、人里に戻ってきた以後は自身の正体を偽る。それはまず最初にやらなければならないことだ。

 もちろん、王家は何も動かないかもしれない。俺を怒らせれば、俺の不興を買えば、王国に赤帝龍がクシムに居座ったのと同じような、大きな災厄を招くことになりかねないからだ。

 だが、このことを話せば、つまり王家から距離を置くために身を隠したいと言えば、リフィアはひと肌脱いで、俺に協力してくれるのではないか。赤帝龍討伐の一件からも、彼女が王家に大きな不審と嫌悪感を抱いているのは確かだ。

 この世界には当然写真なんてない。似顔絵つきの手配書も見たことはない。十五、六の中肉中背、髪は明るめのブラウン、童顔の少年。賞金稼ぎにしたって貧しい家の次男、三男ならそれくらいの歳でやっているやつは珍しくない。リフィアが呼び寄せると言っていたフゴに残留する部隊に、俺がマーヤの従者をやっていたと知る者はいないだろう。名前を偽った以上は、魔法を派手に使ったりしない限りばれることはないのだ。

 あとはフゴにいたと思われる、辺境伯の影働きの者たちの動向だが……。

 彼らのひとりでもフゴから帰還する残留部隊に同行していたら、その者がリフィアを無視し、辺境伯に直接俺の正体を報告するとなると、かなりまずいことになる。

 ただフゴには王家の影働きの者たちもいる。彼らが、俺を殺そうとした辺境伯に激怒したマーヤの命を受けて、フゴにいる辺境伯家の影働きの者たちをすでに始末している可能性はある。

 このことばかりははっきりと状況が掴めない。ゾーラ村に着いたら、何か手を打っておく必要がある。

 リフィアを助けた賞金稼ぎの少年として、辺境伯本人と直接会う。このやり方にはいくつかの不安もあるが、大きな利点も存在する。他のどんな手段を選んだとしても、なんらかの大きな問題は存在するのだ。

 ……だが、これはいささか卑怯なやり口かもしれない。彼女の好意を利用して彼女の父を殺す、騙すことになるからだ。俺はメリリャを騙したヴェルスと似たようなことをしようとしているのかもしれない。

 弁解するのならヴェルスと違う点がひとつだけある。俺が罪のない、あるいは弱き者をただひとりとして殺していない、辺境伯を殺すのにも、関わりのない者の命は奪いたくないと考えていることだ。

 辺境伯を殺してしまえばリフィアは俺に騙されたと思うだろう。彼女はさらに大きな傷を負うだろう。だが、それで辺境伯にたやすく近づけるのなら、躊躇うわけにはいかない。

 大公から釘をさされたから、ということとは関係なしに、辺境伯殺害は他の関係ない人びとを一切傷つけず、城を派手に壊したりなどせずに、できるだけシンプルに、スマートにやりたい。

 でなければ俺の復讐の正義が成り立たない。

 リフィアにつけ入る時点で正義もクソもないのかもしれないが、関係ない者を巻き込み犠牲にするわけにはいかない。他に時間をかけずに辺境伯本人を確認し、本人に接近する策は俺には今は考えつかない。

 時間をかけた結果、アルヴァに滞在する期間が長くなれば、辺境伯本人も王家も予想のつかない動きに出、難しい対応を迫られることになるかもしれない。それはそれで避けなければならない。

 イシュルは大きく息を吐くと、揺らめく炎ごしに眠るリフィアの背中を見つめた。

 リフィア。

 確かにおまえには俺の家族の死、ベルシュ村の件に関して罪はない。だが、おまえも辺境伯家の、辺境伯本人の娘だ。おまえがどんなに傷つこうが、苦悩を深めようが、巻き添えで誰かの命を奪うくらいなら、俺は躊躇しない。おまえを利用すれば辺境伯に直接会える可能性が高いのだ。可哀想だがおまえを踏み台にさせてもらう。

 昨日の夜は彼女から債券とは何だ、年金とはなんだ、と質問攻めにあった。彼女はやる気をみせていた。どうせ辺境伯はこの世からいなくなる。おまえは俺の言ったことを実行するだろう。

 せめてそのことだけは彼女の慰めになれば、と思う。

「ごめんな。リフィア」

 イシュルは彼女の背中に向かって囁くように言った。

 焚き火の炎のゆらめきがイシュルの沈んだ表情を赤々と照らしている。火の粉が昇って夜空に溶け込んでいく。


 翌早朝、湖畔を出発。

 南西方向にある山をリフィアを背負って一気に飛び越え、南西方向、ゾーラ村方面に流れる谷間の小河川を発見。その谷間を流れる川の近くに降り立つ。

 その後、イシュルは自身の探知範囲いっぱいまで前方に風を吹かし、獣道、猟師道のようなものがないかを探った。川の傍を付かず離れず、里の方へ下っていく人の歩く道はよくあるパターンだ。

 間もなくイシュルはその道を見つけ、後は魔力を温存するため徒歩を中心に、谷間を続く小さな道を下っていった。

 そろそろ山鳥など獲っておかないとな。と思った時だった。

 左斜め後方、二百長歩(スカル、約百三十m)以上の距離を開けて、こちらを追尾してくる気配を感じた。

 最初は赤目狼あたりかと見当をつけ、たいして気にする必要もないと、しばらく何もせず歩を進めたが、その気配は途中消えたり現れたり、非常に小さく不安定で不自然なものだった。

 魔獣ならもっとはっきりと感じとることができる筈だ。

 リフィアは俺の首周りにしっかり両腕をまわしている。首の前で交差された彼女の手の指先が、俺の鎖骨あたりに当たっている。彼女の頬が俺の耳のあたりに押し付けられている。

 そして彼女の涎が俺の肩から首の付け根あたりに垂れていた。リフィアはしっかり寝入っていた。

 こいつといいマーヤといい……。

 だが今はこいつがおとなしくしてくれた方が都合がいい。

 イシュルは背後に遠く浮かぶその気配に集中した。

 それはイシュルにとって夜の海を照らす灯台のように感じとれた。

 灯台から出る光が夜の空を回転している。それは視界の向こう、灯台の影に移動すると消えて見えなくなり、また百八十度回転して真向かいにくると視界の上を通り過ぎ、幻惑されるような感じで見えにくくなる。そしてその光の筋は上空の方へ角度を上げ、さまざまな仰角、ときには俯角になって回転しながら空や海を四方八方に照らしはじめる……。

 いや、方向が逆だ。その光の筋は、あの精霊の住む異界からこぼれ落ちてくる魔力の流れだ。それが真っ暗な闇の一点に向かって途切れ途切れに、光の筋のように流れ込んで、つながっている。

 イシュルは立ち止まって左手、後方へ顔を向けた。


 尾行されている。

 これは魔獣なんかじゃない。明らかに人だ。相変わらずこちらの感知に引っかかったり、消えてしまったりとあやふやなままだ。

 もう昼は回っている。異変に気づいてから対象は付かず離れず、ずっとこちらを追尾してきている。

 早速か。いったいいつから張りついていたのか。

 相手は辺境伯か。こちらにはリフィアがいる。俺に手を出したくても出せない状況か。

 だが、俺の方も相手に手を出せない。相手が辺境伯の手の者ならリフィアの前では行動を起こしにくい。もちろん、相手が辺境伯の手の者だと仮定しても、その者とリフィアが互いに面識があるなどほとんどあり得ない話だろうが。だが万が一、ということもある。

「ん……」

 イシュルの背が強ばったせいか、リフィアが目覚めた。

「お早う。リフィア」

 イシュルが肩越しに声をかける。

「ふぇっ」

 リフィアは変な声をあげると、じたばたと暴れだした。

「あああ、す、すまん。わたしは」

「暴れるなよ」

「ご、ごめん」 

「まぁ、おまえも疲れているだろうし、俺の背中で眠っても構わんがな」

 マーヤでもうすっかり慣れてしまっている。リフィアの方が重いが。風の魔法のささやかなアシストも、恐ろしいほどに上達した。冗談ではなく本当に。

「……ごめん」

 後ろからリフィアの神妙な声がする。

「あ、あの、一度降ろしてくれないか」

 今度は遠慮がちな声。

 イシュルがリフィアを降ろすと、彼女は少しもじもじして言った。

「あー、あの、ちょっと、行ってくる」

 トイレか。

 フゴに向かう道中、マーヤたちは「ちょっと待って」「見ないでね」「ごめんなさい」みたいな感じでそれほど恥じらう風もなかったが、こいつはなぜか妙に恥ずかしがる。

 見ていて面白いんだが、こちらも妙な気分になるからもじもじするのはやめて欲しい。

 美少女がそっちの方で恥じらう姿。ある意味非常にやばい。

「そういう時はな、ちょっと花を摘みに、って言うんだ」

 おそらくこの世界ではない言い回しを教えてやる。

「花を摘む、か。……イシュルは物知りだな。上品ないい方だ」

 イシュルは微笑を浮かべうなずいた。

「ここで待ってるから、行ってこいよ。花を摘みに」

 これはチャンスだ。

 イシュルはもうこの時、左後方から尾行してくる存在に注意を集中していた。

 リフィアが用を足している間に速攻でかたをつけてやる。

「ああ。すまん」

 リフィアはかるく左足を引きずりながら、右手の草むらを掻き分け、下に流れる谷川の方へ降りていった。

 彼女の気配が目の前の草木を越えへ川の方へ離れて行くと、イシュルは数歩ほど後ろに下がり、いきなり空へ飛び上がった。

 空中でからだを捻り、消えたり現れたり、あやふやな目標に正対して向かう。森の中を行く、なんてことはしない。空中から一気に突入、奇襲をかける。

 目標の存在感をはっきりと感じた瞬間、風の魔力の壁を対象の周囲に「降ろし」、蓋をする。

 赤帝龍との戦闘で得た新たな力、あの空間から風の魔力を直接「こちら」へ移動する能力だが、それはまだ風そのものにして吹かすこと、「壁」や「爆発」、従来のおのれ自身から沸き上がる魔力と練り合わせ、合体させていく以外のことができないでいる。

 他のもっと多彩なことをやれるようになるには、やはり呪文を、つまり魔法の術、業を覚えないといけないのだろう。

 全身の周りを流れ去る風、からだに密着させるようにして展開した風の覆い。目の前に木々の緑がせまってくる。冬の重い緑の壁だ。

 その木々の隙間に上から入り込み、風の魔力の蓋の上に降り立つ。

 魔力の蓋は完全な透明で、表面は少し沈む感じだ。だがその下は堅く、いや、堅いというより何も通さない芯のようなものが感じられる。

 イシュルは下を見た。木々の間から落ちる陽の光に照らされて、女がひとり、佇んでいた。

 その女は長い黒髪を後ろに縛り、地味な茶褐色の上下に焦げ茶のマント、ありふれた賞金稼ぎ、ハンターそのものの格好をしていた。

 そして、左腕にあの、黒いガントレットを装着していた。




「おまえ……」

 イシュルは怒りを込めた、底冷えのするような鋭い視線を女に向けた。

 あの時は新月の頃で暗い夜だったが間違いない。ルドル村で俺を襲ってきた猟兵の女だ。またあのガントレットをしている。あの時は右腕にしていた筈だ。今度は左……。

 イシュルは喉を鳴らした。

 あの荒神バルタルの魔法具、をふたつもか。俺が甘かったのだ。

 女はイシュルを見上げ一瞥するとすぐに顔を逸らした。その姿が一瞬ぼやけ、背景に溶け込むような感じになる。だが、その揺らぎはすぐに掻き消え、安定した姿形に戻ってしまう。

 女はイシュルを見上げ言ってきた。

 あの夜と同じ、整った顔立ち。派手さはないがなかなかの美貌。

「駄目ね。隠し身の魔法が効かない。外にも出れないし、これは結界かしら」

 女の顔には笑みが浮かんでいる。

 こいつ、何ニヤけてやがる。今自分がどんな立場かわかっているのか。

 この前の殺気がまったく感じられない。もっと真面目そうなやつだったと思ったが。

 それに隠し身の魔法が効かない、か。

 それはこの女を囲ってる壁の影響だろうが、その前のあの不安定な感じはなんだろうか。以前はまったく探知できなかった筈だが……。

 だが今は、それよりもこいつが何者なのか、だ。こいつは辺境伯とどういう関係にあるのか。

「袖をめくって見せろ」

 女はわざとらしく困った顔をして見せた。

「それはだめなの」

 イシュルの眸がさらに細められる。

「ならいい。そのガントレットはもらっておくぞ」

 もう荒神の魔法具は恐くない。あの黒いやつはこの風の魔法の壁をすり抜けることはできないだろう。なんとなくわかる。この壁は弱い風、空気や音は通すが、強風や物体は通さない。そして他者の、あるいは異系統の魔法も通さない。火神の結界を押さえつけたのだ。

「待って!」

 イシュルの殺気が伝わったのか、女ははじめて焦りを見せた。

「わたしを見逃してくれない? きみ、わたしたちのこと、何も知らないでしょう?」

「いや、どうでもいい。おまえは問答無用で殺す。あの時、ルドル村で見逃してやったのはおまえの雇い主だか主に、これ以上俺にちょっかいを出すな、と伝言してもらうためだった」

 イシュルがにやりとする。

「どうやらそれはまったく意味がなかったようだからな。おまえを生かす意味ももうないだろ?」

 女が両手を振り上げぶるぶる振りまわす。ガントレットの黒い色が目にちらつく。

「ちょっと待って。あれはわたしの妹なの。ね? いろいろと教えてあげる。きっとあなたのためになるわ。だから」

 妹? そうか。何かあの時とは違う、違和感を感じたのはそれだからか。

「じゃあ、話してみろ」

 まぁいい。適当に情報を聞き出したら後は殺す、それだけだ。

 辺境伯家だか、裏の世界の何かの暗殺組織だか、その程度のことならどうせたいしたことない。

「う、うん。ま、まずわたしはあなたの監視をしていただけ。あなたを殺そうとか、そんな命令は受けてないの」

「ほう、それで?」

「妹の時はね。あなたを傷つけるか殺してもよかった、というか、その……」

 よくわからん。こいつ、辺境伯の手の者ではないのか?

「もっとわかりやすく、整理して話せ。じゃないとすぐに死ぬことになるぞ」

「あっ、はは。わ、わかった、わかったから」

「早くしろ」

 イシュルは周囲の警戒を強める。他にこの女の仲間がいないか、リフィアもそろそろ戻ってくる筈だ。

「わたしたち姉妹は紫尖晶の聖堂の」

 女はかるく息を吐き出した。

「神官よ」

 紫尖晶の聖堂?

「おまえは聖堂教会の者か。誰かに雇われたのではないのか」

 辺境伯とは関係ないのか?

「正確には聖王国の方ね。聖都には聖堂教の総本山、“大聖堂”の他にも無数の神殿や聖堂があるわ」

 聖堂教会の内部では聖堂は神殿のひとつ上のもの、という位置づけになっているが、基本的には両者とも同じものだ。聖堂教の総本山である主神殿、つまり“大聖堂”の直轄する神殿のことを、聖王国や聖堂教の者は“聖堂”と呼び、“聖堂”は聖都エストフォルにしかない。

 おそらく通常の神殿にさらに別の役目、機能を持たせたものが“聖堂”と呼ばれているのではないか。そんなニュアンスだ。

 現在の聖堂教は、ウルク王国の滅亡後生き残った一部の神官らが、各地に散逸したウルク王国の神々の彫像や聖具、魔法具などを収集した聖堂を、現在のエストフォルに建てたことから興ったとされる。

 それまでは、主神ヘレスをはじめとする神々を信仰する宗教に特定の名称はなかった。一部でただ単に神教、とだけ呼ばれていた。

 ちなみに聖王国または聖堂教の総本山に、神の魔法具があるかどうかはわからない。怪しいと言えば怪しいが、神の魔法具を持つとはっきりわかるような大魔法使いや神官が、あの国に過去も今現在も現れていないのは確か、と言える。もちろん過去にその者がレーネのように大活躍した、と言うような記録も残っていない。あるいは公開されていない、だけかもしれないが。

「わたしたちの表の身分は尖晶聖堂の神官、実体は影働きする猟兵よ」

「その紫尖晶というのがおまえたちの組織の名か」

「そう」

 ふむ……、これはまずいな。なかなか面白そうな話じゃないか。こいつらは辺境伯とは関係なかったのか。

 聖都の神殿の名称は通常、過去の聖人の名や、その神殿のある場所の地名がその名になることが多い。あるいは特定の神を中心に祭っていればその神の名で呼ばれる。石、宝石などの名前はめずらしいかもしれないが、石の名前の他に、花鳥風月、天候気象に関わるような名称もあった筈だ。

「で、今は監視するだけなのに、なぜルドル村では俺を殺そうとしたんだ? 説明しろ」

 俺を殺そうとした、ということは俺の風の魔法具をねらった、ということだろうか?

 だが、それならもっと大物が、多人数で出張ってくるのではないだろうか?

 それとも、こいつらは例えば神の魔法具を運搬する方法とか、とんでもないことまで知っているのだろうか。

 レーネの死体から出てきた、あの白い蛇の映像が脳裡をかすめる。あの蛇の顎から剣が出てきたのだ。

「……それは、赤帝龍にもう少し長い間クシムにいて欲しかったからよ。わたしたちよりずっと上の方々がそう判断したわけ。でもあなたがあの化け物をやっつけちゃったから、あなたを傷つけたり殺したりする意味がなくなってしまったの」

 どうも違ったらしい。この女が嘘をついていなければ、だが。

 聖王国や教会のやつらはまさか、俺を殺せば風の魔法具が手に入る可能性があることを知らないのか。

 赤帝龍は確か、俺を喰らって手に入れる、みたいなことを言っていた……。

 ただ単純に王国の国力を、聖王国と接する辺境伯家の弱体化だけがねらいだったのか?

「なぜだ? 赤帝龍が聖王国側に移動する可能性もないわけではないし。単に王国の弱体化をねらっただけなのか?」

「赤帝龍は聖王国には来ないわ」

 ほう……。

「それは重大発言だな」

 女は薄く笑った。

 こいつらは赤帝龍がクシムに居座った理由を知っているらしい。いや、クシムから西に出てこない理由を知っている、というべきか。

 赤帝龍ががクシムから西に出てこなかった理由。それは聖王国にある、ということなのだろうか。

「今、わたしたちの国はちょとまずい状態になっているの。だから、赤帝龍にはもうしばらく居座ってもらって、ラディス王国を牽制してもらいたかったわけ。でも、これからはあなたに張り付いている余裕もなくなるわね。きっと」

 自国の防衛ために赤帝龍を牽制に使おうとしたのか。……なかなかあくどいことを考えるものだ。

 だが、その聖王国では何が起こっているんだ?

「なんだ? それは」

「それは……。今は言わなくてもいい? どうせ、いずれ近いうちに表沙汰になるわ」

 女はこちらから視線をそらし、遠くを見る風にした。

「おい」

「ごめんなさい。すぐに周りの国々にも広く知れ渡ることになる。でもたいしたことじゃない、よくある話よ」

「ずいぶんと思わせぶりだな」

 いったい何なのか、さっぱりわからん。なんだか知らないが、こいつの話でむしろ謎が増えたような気がする。

「おまえは俺が赤帝龍と戦っていたのも見ていたんだろう?」

 女が黙って頷く。

 ……やはり殺すしかないな。

 だが聖王国は力のある国だ。彼らが自国の国境からほど近い位置で起こった、あの戦いを監視、情報収集しようとするのも当然、当たり前のことだとは言える。

 うっ。

 そこで突然、視覚の向こうに、水平になった光輪のイメージが浮かびあがる。

 何気に目を向けた先、左奥の森で魔力が立ち昇った。俺とリフィアがさっきまでいた場所だ。

 続いて、どーん、がさがさ、と木々が揺れ、派手に倒れる音。

 リフィアだ。花摘みが終わってこちらに気づいたらしい。俺の魔法を感じたか。

 しかし凄い。森の木々を力まかせに倒してこちらに向かってきている。

「リフィアが向かってきてるみたいだな」

 女の顔色がさっと変わる。

「お願い!」 

 ここまでやって来たリフィアの前にいきなり若い女の死体……。俺が簡単に人を殺すやつ、と思われるのも嫌だな。

 特に辺境伯と顔をつきあわす前には。

 それにこの女が聖王国の者だとすると、今はむやみに殺すのはやめておいた方がいいかもしれない。

「おまえの妹か? おまえにもあの女と同じことを言わせてもらおう。おまえの上の者に言っておけ。俺に監視をつけるな。俺のやることを邪魔するな、と」

「わ、かったわ」

 リフィアがもの凄い音を立てて近づいてくる。荒々しい空気の振動が辺りを覆う。

「おまえ、主神ヘレスがどんな顔してるか、知ってるか?」

 赤帝龍との戦いの後現れた女の影。エリスタールの貧民窟にあった神殿で出会った、若い女神官。あれは同一人物だ。人物、という表現が正しいかは置くとして。

「へっ?」

 女が今の状況も忘れて、きょとんとする。

「もし、俺の言うことがきけなければ戦争だ。おまえの国と俺とでな。そう伝えておけ」

 女が唖然とした表情のまま、こくこくと首を縦にふった。

 イシュルは壁のひとつを消した。




 実際は相打ち、といったところだが、傍から見ればイシュルが赤帝龍を退けたように見える。イシュルはクシムの地に無傷で残り、赤帝龍は大きな傷を負い東の山奥へと逃げていった。

 これは大陸諸国の王や領主たちを瞠目させることになるだろう。その者たちはかつてのイヴェダの剣、レーネを凌駕するような存在が現れた、と思うだろう。そのイシュルからの脅しはルドル村の時よりもはるかに強力なものとなって、聖王国の国王や聖堂教の大神官らを震え上がらせるだろう。

 ただ、このことで聖王国には行きずらくなってしまった。

 辺境伯を殺したら、聖王国東部の山岳地帯に行ってハンターをやりながら、実力のある風の魔法使いを探す、伝手を得て聖都あたりで、風の魔法を正式に学ぶ糸口を掴むのが次の目的だった。

 彼らは、とりあえず赤帝龍と戦う以前は俺を殺すことに躊躇しなかった。確かマーヤたちは、聖王国や聖堂教は俺の存在を煙たがるだろうが、危害を加えるようなことまではしないだろうと言っていた。

 聖王国の連中は俺を殺そうとしてきたが、マーヤたちの見立てが完全に間違っていた、とも思えない。

 赤帝龍をクシムに居座らせ、ラディス王国を牽制するために俺を殺すか傷つけて足止めした方がいい、とやつらが考えるようなことが、聖王国の内部で起きている、起きつつある、それはやがて他国にも明るみになる。というのがあの女の言ったことだ。

 それは何だろうか?

 政変、内乱、外征、あるいはなんらかの凶事が起きたのか。

 彼らがもう俺の動向に構っていられないという状態なら、逆にむしろ聖王国に潜入する絶好の機会、といえるかもしれない。だが俺の入国を知ればそんな状況でも、俺に対する警戒を強めるかもしれない。

 ……聖王国に行く当初の予定は取りやめるべきなんだろうか。

 そして神の魔法具の継承に関する謎は深まるばかりだ。そのことで一定の知識を得なければ他の神の魔法具を探しだしても、手に入れることはできないかもしれない。風の魔法具のように、自らの肉体と同化することができないかもしれない。

「イシュル! 大丈夫か。魔獣でも出たか?」

 目の前にリフィアが仁王立ちで立っていた。

 目が赤く光っている。彼女の背後には、さきほどまでいた細い猟師道から一直線に、広い道ができあがっていた。

 木々が左右に倒れ吹き飛ばされている。地面が掘り起こされ、空に土煙がたなびいている。恐ろしいことに、倒された木々からはいくつもの白い煙が細く高く立ち上っていた。

 あの煙は彼女が木々をなぎ倒し、蹴り上げた時の摩擦によるものではないだろうか。

 ちょうどいい。今目の前に、神の魔法具に近いものをその身に宿し、俺よりも聖王国の事情に詳しい人物がいるではないか。

 彼女に聞いてみよう。

 イシュルはリフィアににっこり、笑みを向けた。

 




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