山河
イシュルはリフィアの問いに何も答えず、彼女を一瞥しただけですぐ首を横に向け、視線をそらした。
「しっかりつかまってろよ」
イシュルはそれだけ言うと、着地しようとしていた山の峰の方を見やり、握っていた彼女の手を離すと、彼女のからだを横にまわし、ふたりが横並びになるような体勢で高度を上げ、夜空を滑るように飛んだ。
リフィアの周りには風の壁をつくって、また下に落ちたりしないよう安定させる。
周囲の山々は大陸の東側を覆う大山塊の西の端で、それほどの標高ではない。イシュルは山頂付近の木々の切れ目になっている場所に着地し、リフィアからからだを離した。何気に彼女に対し月を背負う位置に立ち、リフィアを見つめた。
「くっ」
リフィアは地面にひとりで立つと顔をしかめ、左足の足首あたりを摩った。
「足を捻ったか……」
そして小さな声で呟く。
「は?」
武神の矢の持ち主が? 捻挫ですか?
「どう、して?」
イントネーションが思いっきりおかしくなってしまった。ちょっと情けない感じになってしまった。
リフィアはこちらをきっ、と一度睨みつけると、「ふんっ」といった感じで顔をつんと横に向け、またこちらに顔を戻すと、今度は少し沈痛な表情になり、俯いて項垂れた。
ふーむ、凄い勢いで自己完結している……。
この女は頭がいいとは聞いていたが、案外面白いやつかもしれない。
イシュルがちょっと引き気味に、無表情を取り繕ってリフィアを無言で見つめ続けていると、彼女はこの妙な空気に耐えきれなくなったのか顔をあげ、目を怒らして言ってきた。
「そんなことはおまえの知ったことではない! 王家の犬が」
ああ、そう言えばこいつの反応が面白くておざなりにしてしまったが、この女はもう俺の正体を知っていたんだったな。
それなりに距離のある谷間を、まるで精霊のように飛んでいたのだ。かなりの風の魔法の遣い手でマーヤの従者、ということであれば、事前に王家の使者に風の魔法具を持つ者が同行している、という情報を持っていれば、その二点を併せて考えれば誰でも簡単に俺のことを特定できてしまうだろう。
「おまえに俺の情報を教えたのは誰だ? おまえの父親か」
イシュルはちょっとすがめになってリフィアに質問した。
「そんなことはおまえの知ったことではない! それよりここはどこだ? どしてわたしと、お、おまえがこここ、ここにいる」
何噛み噛みになってやがる。
夜なのに、顔が真っ赤なのが丸わかりだぞ。
さっき俺に助けられて、ばっちり空中で抱き合い見つめあってしまったからか。月の光がきれいだった……。惚れたか、俺に。
まぁ、実際はちょっと照れているだけだろうけど。武を嗜み、討伐隊の指揮官だからと言ったって、所詮は大貴族のお姫様育ちなんだろうし。
イシュルは右手をすっと伸ばし、指差し言った。
「向こうの山の先がクシムだ」
そして今度は左手をすっと伸ばし指差して言った。
「あそこには湖がある。今は飲み水がないんだ。あそこで水を補給しようと思ってな」
弄り甲斐のありそうなやつだが、今はそんな場合ではない。
イシュルはリフィアを鋭い視線で睨みすえた。
「助かったのは俺とおまえだけだ」
リフィアの顔つきがさっ、と変わった。
「大きな山崩れがあってクシム川周辺は土砂に埋まっている。谷間は一面泥で覆われフゴには大回りしなければ戻れない。現地には泥水以外水がない。その泥水も危険な場所にしかない」
土砂に遮られた川の水が泥水になって溜まっていたが、あそこへ徒歩で近づくのは危険だ。
「ク、クシムの南街に輜重を残してある……、そこに行けば」
リフィアは動揺している。月の光に照らされて彼女が震えているのがよくわかる。
そりゃそうだろう。生き残ったのがふたりだけ、というのなら彼女の指揮していた部隊はどうなったのか。
「いい感じで燃えてたぞ。赤帝龍の吐いた炎で、火が山の下にも回ったんだろう」
「くっ……」
彼女は下を向き、ぶるぶる震えて悔しそうにした。
リフィアには、戦闘時にクシムの山の尾根に布陣した主力が、赤帝龍の吐いた火炎に全滅していく様子が見えたのではないか。あの時、山が崩れて立ちのぼった大きな土煙の中で、赤帝龍が吐いた火炎の最初の煌めきはリフィアの倒れていた山の向かいの山、塹壕の掘られた銀鉱のある方で起きたように見えた。
しばらく俯き震えていたリフィアは突然、はっと顔を上げ、最も重要なことを聞いてきた。
顔が青白い。月光のせいだけじゃないだろう。
「……そ、そうだ、赤帝龍はどうした? まだあそこに居座っているのか?」
可哀想に。
銀山の麓に残してきた輜重がどうなったかもわからず、つまり状況把握も中途にあそこで気を失ったのだろう。
そして部隊は全滅。
まだ見た目の俺とたいして変わらない歳だろうに。
こいつの父親は俺の復讐の対象だが、彼女自身に罪はない。
「やつは巣に帰ったみたいだな。相当な深手を負っていたから、自分の巣までたどりつけたとしても、しばらく人里まで降りて来ることはないだろう」
リフィアの眸が大きく見開かれた。
「あ、あの化け物を、まさか」
イシュルは視線を緩めずリフィアを見つめる。
こいつを助けたのなら、絶対確認したかったことがある。
「おまえたちが破れた後どうなったか教えてやってもいいが、その前にあの山崩れ、おまえらが何かしたんじゃないか? それを先に教えてもらおうか」
イシュルの質問にリフィアは下唇を噛み締め俯いた。
「おまえが赤帝龍を倒した……、いや撃退したのか」
リフィアが顔を上げる。
「それならそれで詳しい話は不要だ。山崩れの件は教えてやる。だがその前にわたしをクシムに戻してくれ。この目でしっかりと見なければならぬ。我が軍の、兵らの死を……」
リフィアの双眸が閉じられた。
真っすぐ正面を向く顔、引き締められた口許。皺が刻まれる眉間。
敗軍の将の無念の表情とはこういうものか。
部隊の指揮官として、負け戦となった戦場跡をしっかり確認しておきたい、あるいは兵を弔いたいと思うのは至極当然なことだろう。リフィアは己の傷心を抑え込み、自分の知りたいことよりも知らなければならないこと、自らが最も重要と考えることを取捨選択して、交渉の対象を切り替えてきた。
「まぁ、いいだろう。だが水の補給が先だ。途中で山鳥でも獲って、飯も食わねばならない。いいな?」
どうせフゴに戻るのだから、もう一度クシムを経由してもさして遠回りではない。
「わかった……」
リフィアは力なく頷いた。
「じゃあほら」
イシュルは背中を向けて屈んだ。
「おぶってやるから。足を捻ってるんだろ? 夜明けまでには湖に着きたいからな」
明るいうちに水を飲み、飯を食い、仮眠をとっておく。今はまだここら辺も魔獣は出ないと思うが、赤帝龍が去れば火龍もいなくなる。いずれ近いうちに他の魔獣もこの地域に頻繁に姿を現すようになるだろう。今から警戒しておいて損はない。
しかしなんでこいつが足を挫くなんてことになったのか。それも気になるが。
「ぐっ……」
リフィアが逡巡する。片手をイシュルの方に上げ半歩ほど前に出たが、そこで止まってしまった。
まったく……。だが待てよ。
イシュルは立ち上がって彼女の方に再び向き直った。
「おまえさっき俺のことを王家の犬、と言ったな? 悪いが俺は王家に仕えてなどいないぞ」
「え……?」
リフィアが少し驚いた風でイシュルを見つめてくる。
「俺は、赤帝龍討伐に力を貸す報酬がわりに、ブリガールによってほとんどの者が殺された故郷の村の復興を、王家にお願いしたのさ」
王家の黙認を受けた、もうひとつのこともあるがな。
「なっ、……」
「とりあえず赤帝龍を撃退することはできた。王家との契約はこれで終わりだ」
主神ヘレスの干渉があったらしいことは言わない。誰にも話せない。
「そ、そうなのか……嘘ではあるまいな?」
「こんなことで嘘をついてどうする。王家はあるいは、赤帝龍討伐の役目を負わせるかわりに、城まで壊し爵家を滅ぼした俺の罪を温情をもって帳消しにした、というふうに喧伝するかもしれない。だが、俺にとってはベルシュ村が廃村にならなければどうでもいい話だ」
「むう……」
まぁ、リフィアの持つ疑念もわからないではない。
俺が栄爵など一顧だにしない人間だということを彼女は知らない。王国だろうとどこだろうと、そんな変わり者などそうはいない。
だがそれよりも……。
イシュルは彼女の僅かな表情の変化も見逃すまいと、視線の先をリフィアの顔に貼付けるようにしてねめつけた。
イシュルはリフィアに対して月を背に逆光となる位置に立っている。周りの暗さからイシュルの鋭い視線はリフィアにはわからない。
自分が王家に仕えていない、男爵家を滅ぼした、という話は彼女からあることを引き出すための“振り”、に過ぎないのだ。
リフィアはずばり、こちらのねらいどおりの話を出してきた。
「そ、そうか。おまえは……、いや、ブリガール男爵の暴虐は男爵家の旗頭であった当家にもその責任の一端がある。わたしからも辺境伯家の者としてお詫びしたい」
リフィアは表情を改めるとイシュルに頭を下げてきた。
「貴公がエリスタールでやった敵討ちのことは存じている。貴公の罪とは王家に対してのこと。わたしはそれは貴公の家門と郷土を想う心の表れで、賞賛すべきことと思っている」
貴公、ねぇ……。
辺境伯家は旗頭として、ブリガール男爵家に対する軍事上の命令権を王家から仮に与えられているだけで、当然授爵や封土に関してその権限を持っているわけではない。リフィアは、ブリガール男爵のベルシュ村での行為をある種の軍事行動と捉え謝罪し、一方でイシュルのやった敵討ちに対して処断する立場にない、むしろ個人的にはイシュルの復讐を賞賛する、と言ってきた。
彼女の言は、その誠実な性格がうかがえるものだが……。やはりこれは彼女が、辺境伯がブリガールに出した書簡のことを知らなかった、ということでいいのか。
彼女がそのことでごまかし、嘘をついているようには見えない。彼女は辺境伯が風の魔法具捜索の命令を出した可能性には思い至らないのだろうか。いや、命令を出したことは容易に想像できても、その内容があれだけ強硬なものだとは思ってもいないだろう。誰だってそう考える筈だ。ブリガールが功を焦って暴走したと。
後はリフィアがどれだけ自家の家政にタッチしていたかだが……。
まぁ、リフィアのこの感じからすると、辺境伯がブリガールに出したあの書簡の内容はまったく知らない、と断定しても大丈夫だろう。
この堅物ぶり、というか生真面目さなのだ。知略に優れる、との話も聞くが、後ろ暗い陰謀を好む気質ではないのだろう。年齢的にもそうだ。見かけと精神年齢がかけ離れた俺とは違う。
それにこの、なんの身分もない俺にわざわざ頭を下げてくる実直さ。
大貴族の御令嬢よろしく、もっと身分の上下に拘るようなやつかと思っていたが、ここら辺が兵に慕われる所以なのだろう。討伐隊がフゴに到着した時、行進していた兵士らの気合いの入った表情が思い浮かぶ。
ただこいつは俺がベルシュ家の一族だと知っている。大伯父は何も教えてくれなかったし、俺は田舎の出だからあまりわかっていないのかもしれないが、王国東部の人びとにとってベルシュ家は単に田舎の土豪、一ヶ村の取り次ぎというだけでなく、かつてイヴェダの剣、レーネという大魔法使いを輩出した、ウルク王国のころから続く特別な古い家だ、との認識が一般にあるようだ。
彼女の改まった態度はそれが理由なのかもしれない。
イシュルは、リフィアが顔を上げると彼女と目を合わすことなく、背を向けて腰を下げた。
リフィアの謝罪を無言で流した。いったいなんと返せばいいのか。
「さぁ、早くしろ。夜が明けてしまうぞ」
「あ、ああ」
リフィアはかるく左足を引きずりながらイシュルの傍まで来ると、彼の背中にからだをあずけた。
身を硬くしている。
イシュルは彼女をおぶって、山を下っていった。
イシュルは全身にかるくアシストをつけると、夜にもかかわらず巧みに草木の隙間を選び軽快に歩みを進めた。
夜の山中であろうと風の魔法の探知能力があれば、どうということはない。
「……」
リフィアのかるく感嘆するふうが伝わってくる。
「その、貴公のご両親は……、ベルシュ家の者はどうされた?」
リフィアが後ろからイシュルの耳許に話しかけてくる。
しかし、耳許にこの固い口調でこの甘い声音。なんとかして欲しい。
「みな死んださ」
イシュルは歩みを一瞬止め、彼女に答えた。
「そ、そうか……」
リフィアはイシュルの背中で、身をより硬くした。
「おまえの篭手、貸してくれないか」
夜が明ける頃、湖に着いた。
リフィアは岸辺に跪き、湖の水を手ずから何度もすくって喉を鳴らして飲んでいる。
本人はおくびにも出さなかったが、相当に喉が乾いていたのだろう。
「ん? どうしてだ?」
リフィアが後ろに立つイシュルに振り向いた。
彼女の背後には昇りつつある朝日が顔を出し、空と湖面を赤く染め上げている。
「水を一回煮沸してから飲む。湖の水をそのまま飲むのはあまりからだに良くないぞ」
リフィアの視線がきつくなる。
この世界の人間は免疫力が高いのか、それとも人間に害をなす細菌が少ないのか、目の前の湖の水は見た目清らかに澄んでいるし、衛生上のことを気にかける必要はないのかもしれないが、イシュルはそのまま飲むのは嫌だった。それに少なくとも水筒に入れる水は一回煮沸しておく必要がある。
「しゃふつ……、煮立てるのか。それでなぜ篭手が必要なんだ?」
煮沸、とうのはあまり一般的な言葉ではないらしい。
「その長手部分をひっくり返して水をすくって、そのまま火にかける」
リフィアの篭手はピカピカの鉄製だ。ひっくり返すとカマボコ型になるが、手首の方へ曲線で窄まっているので少量の水ならすくうことができる。裏地に布か革が貼ってあるなら、できれば剥がして使いたい。
「なんだと?」
リフィアの視線がますます厳しいものになる。
この堅物が。
イシュルは水筒を取り出し、彼女の前で振ってみせた。
「鍋とか何もないんだ。水筒に入れる水は一度火を通しておいた方がいい。おまえもそれくらいわかるだろう?」
リフィアが唇を尖らした。
なんだ。可愛い顔もできるじゃないか。
その後、水筒に入れる水もなんとか確保し、イシュルが朝方湖畔近くで獲った山鳥を一羽、羽をむしって捌き木の枝に刺し、塩をふりかけ焼いて食べた。そしてその場で仮眠をとった。
「心配するな。もうわたしは自分の魔法具を発動できると思う。危険なものが近づけば殺気ですぐに起きることができる」
仮眠をとる前、魔獣や狼などを警戒して、精霊を召還しようとしたイシュルにリフィアが言ってきた。
湖の周りは深い木々の緑で覆われている。その間に葉を落とした落葉樹が僅かに散見された。赤帝龍が居座ったせいでここら辺も魔獣など大型動物の個体数は減っているだろうが、この湖は彼らの水場になっている筈である。湖畔で休息をとろうとしているイシュルたちと鉢合わせする可能性も考えておかないといけない。
「足は? 大丈夫なのか?」
イシュルがリフィアの足許を指差して言うと、
「魔法具が発動すれば、何の問題もない」
イシュルの問いにリフィアがにっこり頷いた。
確かに武神の矢が発動すれば、捻挫どころか骨折していてさえ、まともに動けるようになるのかもしれない。彼女の肉体は異常に強化され、常人の領域にない状態になるのだろう。
彼女がイシュルにはじめて見せた笑顔は素晴らしいものだったが、なぜか獰猛な感じがそこはかとなく漂い出ていた。
陽は西に傾き、山々をオレンジ色に染め上げている。
昨夜から晴天が続き周辺の靄はきれいに取りのぞかれ、遠く地平線の遥か彼方まで、どこまでも続く山並みの頂がくっきりと見える。遠くの山にはその頂に雪をかぶっているものもあった。降雪のあった山の頂は夕日にピンク色に輝き、視界を覆う色彩をより美しく深くし、見る者の目を楽しませた。
赤帝龍が去って、やっとこの地にも自然のありのままの、清浄な時が訪れたのだ。
イシュルはなんとなくそんな感慨を抱いた。
イシュルの前には白いマントを紅く染めて、地に踞み両手をついて泣いている少女がいる。
イシュルたちは今、討伐隊本隊が布陣したクシムの銀鉱がある山稜の向かい、赤帝龍の居座った谷を挟んだ反対側の峰に立っていた。
ふたりの目の前には鉄でできた歪な半ドーム状の覆いと、ボリスや辺境伯軍軍の騎士たちの死体がころがっている。イシュルが昨日、リフィアを見つけ助け出した場所だった。
ふたりは湖のほとりで仮眠をとった後、またこの地に戻って来た。
目の前に広がる抉りとられた山について討伐隊が、リフィアが何をしたのか教えてもらうかわりに、イシュルが彼女の希望を受け入れこの地に連れて来たのだった。
イシュルはリフィアを背負い、湖畔から風のアシストをつけ、時に大きな跳躍も混ぜながら昨晩よりもより早く、同じ夜にイシュルの背から落ちたリフィアを拾い上げた谷間も、さらに長距離を一気に飛び越え、またたく間にクシムの銀鉱がある山稜に降り立った。
はじめはイシュルの動きにびっくりしたリフィアも、やがて目の前を流れ変転する景色に慣れ、その迫力に少しだけ愉快な気分になったのか、「凄い!」、「わわわわっ」などと小さな歓声を上げた。
しかし、イシュルの背から降り、自ら真っ黒く焼け焦げたクシムの山頂に立つと彼女はその笑顔を消し、顔を真っ青にした。
「あの塹壕はおまえの発案か」
イシュルは赤帝龍のいた谷間とは反対側の斜面に掘られた塹壕を指差して言った。
黒く焼け焦げた山稜の頂を、人の肩ほどの深さの壕が途切れ途切れに長く視界の先の方まで続いている。
「ざんごう? 壕のことか?」
イシュルに振り向いたリフィアの眸は赤く充血していた。声が微かに震えている。
「そうだ」
リフィアはイシュルから視線を外し塹壕の方を見て言った。口調はしっかりしている。
「あれはわたしが兵らに命令して掘らしたものだ。過去の大きな攻城戦では、篭城する魔導師対策に攻城側が壕を掘ったという記録がある。オーベン殿にも力を貸していただいた」
地の魔導師、ドレート・オーベンか。やはりやつを使ったか。
彼女もマーヤと同じようなことを言ってきた。大公の、若い頃に王家の書庫に入り浸っていた話といい、こういう文献、書物に容易く接することができるところは、彼女ら貴族を素直に羨ましいと思える。
「そうか。赤帝龍に気づかれる不安はなかったのか?」
リフィアの顔はこちらからは見えない。
「それは物見に出てもらったルブレクト殿の報告を聞いた時に、やれる、との確信を持った。壕を掘ったのは夜間で、物音を立てずに細心の注意を払ったが実際、赤帝龍は気づかなかった。いや気づいていたが無視したのかもしれん」
リフィアはこちらに背を向けたまま、淡々と語った。
ここまでは俺が考えていたこと、マーヤが言っていたこととほぼ一致している。
「それじゃ」
イシュルは右腕を上げ、谷を挟んで向かいの崩れた山の方を指差し言った。
「あの山崩れ、あれは赤帝龍か、おまえたちがやったのか、説明してもらおうか」
リフィアが振り向いた。その顔には頬に一筋の涙のあとが見える。
「あそこら辺だ。我が軍が赤帝龍と戦った時にわたしがいた場所だ。あそこへ連れて行ってくれるか?」
リフィアも腕を上げて指差した。
彼女が意識を失い倒れていたところだ。リフィアは山の頂に浮かぶドーム状の小さな影を指差した。
イシュルが降ろすと彼女は捻挫した足を引き摺り、前の方、焼け焦げたボリスがささえる鉄のドームの方へ歩み寄った。
「おまえを守るためにみな頑張ったらしいな。ボリスたち宮廷魔導師たちとは面識があった。彼らは惜しいことをした」
リフィアがきっ、とイシュルの方へ鋭く振り向いた。その眸には今度ははっきりと涙が浮いている。
イシュルの物言いは、彼女にはなんの気持ちもこもっていない、他人事のような口ぶりに聞こえたろう。今の彼女には少し刺激して、怒りの感情を持たせるくらいが調度いいかもしれない。
目の前のリフィアは厳しい視線を送ってきているが、イシュルには彼女がまるで、指の先で手折れる小さな花のように弱々しく儚げに見えた。
「で? 説明してくれよ」
イシュルは、無言で睨みつけてくる彼女に情け容赦なく山崩れの説明を求めた。
俺の態度に怒りを向けることで気持ちをしっかり保てるのなら、それでいいじゃないか。
この戦場の有様は、いくら領主家の者であろうと、討伐隊の指揮官であろうと、十五、六の少女には厳し過ぎる。
リフィアはイシュルから視線を逸らし、また前を向くと静かに語りはじめた。その声音には彼女の見せた表情とは裏腹に、なんの怒りも感じられなかった。恐れごまかし、自身に対する憐憫も韜晦もなかった。ただ微かな悲しみだけが感じられた。
「戦闘開始の前夜、向かいの山で兵が壕を掘りはじめると、わたしたちは反対側のこちらの山に移動した。そして赤帝龍の眠っていた谷とは反対側の山麓の方へ降りて行った。そこでわたしは武神の矢を発動し、オーベン殿の指示に従い、兵らに持たせた鉄杭を山の斜面に何十本と打ち込んでいった」
リフィアは前方下方の抉りとられた山の凹みに視線をやった。
イシュルは小さくため息を吐いた。
嫌な予感が的中した。いや、ひょっとしてと思っていた、予想していたとおりだった。目の前の山崩れ、傭兵部隊を飲み込んだ土石流はリフィアたちがやったのだ。
「その後、オーベン殿が地中に埋まった杭をさらに内側へと移動させ、ドグーラス殿が鉄杭を幾つにも枝分かれさせて、その先端を四方に伸ばしていった。山肌に打ち込んだ杭の数が多く、ふたりには苦労をおかけした。明け方には山を一気に崩す準備がととのった」
リフィアは感情を抑え、淡々と話を続ける。
山頂を吹く微風が彼女の長い髪をわずかに揺らしている。
それにしても複数の魔法が発動したのに、赤帝龍は気づかなかったのだろうか。いや、気づいたとしても無視したのだろう。やつにとってはその程度のものだったのだ。千名近くの人間が近づいても無視したのと同じだろう。
「それから朝までおのおの仮眠をとり、日の出二刻後に攻撃を開始した。ルブレクト殿が物見に出た時、ルブレクト殿が眠っていた赤帝龍に最も近づいた時刻がそのあたりだった」
「攻撃発起が山崩れか。山を崩して、寝ている赤帝龍を土砂で埋めようしたんだな?」
リフィアが振り向いた。彼女の双眸からは険がとれていた。今度はイシュルが鋭い視線を向けた。
「そうだ。オーベン殿はさすがに土の魔導師なだけあって、山のどこに杭を打ち込み、地中の岩を砕き、どの箇所に魔力を流せば崩せるか、よくわかっていた。しかも連日の悪天候で水気を吸った禿げ山だ」
「……おまえが全部考えたのか」
イシュルの厳しい表情は変わらない。
対するリフィアは気圧されるように少し首をすくめた。イシュルの態度は完全に詰問する側のものだった。
「そうだ……」
リフィアは俯き、力なく答えた。
おまえは俺が次に何を話すか、わかっているんだろう。頭がいいんだろうからな。
「おまえはこのことをボリスら宮廷魔導師に堅く口止めし、自軍の兵らにはもちろん、王家の使者であるマーヤ・エーレンにも秘密にしたな」
イシュルはさらに目を細めた。リフィアだけでない、彼の顔からも血の気が引いていく。
なぜリフィアは秘密にしたか。俺が同行している情報を掴んだのも理由のひとつかもしれない。彼女が恐れたのはマーヤが反対し、王家側が作戦の邪魔をしてくることだ。そして赤帝龍討伐の功を奪われることだ。
ボリスたちにすべてを明らかにしたのはフゴを出発した後かもしれない。だがいずれにしろ、彼らも秘密を守り、リフィアに全力で協力したろう。赤帝龍討伐の要(かなめ)となる、誰もが勝てるかも、と思えるような作戦案だ。彼らだって功をあげ、死にたくはなかったろう。
「マーヤに秘密にする一方、おまえは彼女に傭兵部隊の進路に対して意見した。おまえはわかっていたんだ。あの山を」
イシュルは眼下の崩れ、抉りとられた大きな窪みを指差した。
「あの山を崩せば赤帝龍を埋めるだけでなく、大量の土砂が雨で地盤の緩んだその周辺の山裾をも崩し、やがてはクシム川下流の、橋や街道も埋めてしまうことを」
イシュルは腕を降ろしリフィアを睨み据えた。
「おかげで傭兵部隊は全滅だ。おまえが殺したんだぞ」
傭兵達は赤帝龍と相見えることもなく、土石流に飲まれて消えた。
リフィアの能面のような顔が両手で覆われていく。その顔が消えると彼女は腰を落とし地べたにへたり込んだ。
しくしくと泣く少女の声がイシュルの足許から這い上がってくる。
イシュルは遠く、傭兵達の消えた辺りに目を向けた。
「泣くな。まだ話は終わってない」
イシュルは彼女の手をとり無理矢理立たせた。
山の崩れた方を顎でしゃくり厳しく冷たい口調で言った。
「あれが崩れた、それからどうなった? 気をしっかりもって、ちゃんと話すんだ」
リフィアは顔を上げた。
イシュルに気をしっかり持て、と言われたためか、彼女は涙を流しながらも一度だけ、はっきりとイシュルの目に視線を向けてきた。そして自らが倒れていた場所に顔を向けた。彼女は少し間を起き、涙をこらえようとして、そして話しはじめた。
「……そ、それで、山はうまく赤帝龍のいる谷側に崩れ、赤帝龍を土砂で覆った。山全体が激しく揺れた。山の土は雨で湿っていたが、周りはもの凄い土煙で覆われて……、赤帝龍が首を胴体の側に埋めるようにして寝ているのは確認していたから、やつの頭まで土砂で埋まったのは確実だと思った。山の崩れ具合、土砂の広がり、土煙のあがり具合からしっかり手応えを感じた」
リフィアの喉が鳴る。
「山が崩れれば激しい土煙で視界が効かなくことは予想していた。わたしは、あらかじめ風の魔法で土煙を吹き飛ばすようエドヴァール殿にお願いしていた。エドヴァール殿は精霊も召還して死力を尽くしてくれたと思う。だが土煙は容易に晴れなかった。赤帝龍がどうなったか、みな顔を腕で覆い、屈んで土埃を避けながら谷底の様子をうかがっていた。それはほんの少しの間だった。その時に土煙の向こうに大きく長い黒い影が浮かんだ。わたしは咄嗟に自分の魔法具を発動した。だが視界がはっきりせず、様子見してしまった」
リフィアはまた、腰をすとんと落とし地面に踞み込んだ。
「わ、わたしはその時赤帝龍に首にとりつき、やつの頭に剣を刺さなければならなかった。おそらくあれが絶好機だったのだ。その黒い影が向かいの山に火を吹いた。大きな轟音が響き、向かいの山が真っ赤に染まった。轟音に混じって兵らの悲鳴が聞こえたような気がした。わたしは呆然として我を失った。足ががくがくして、全身が震え出した。後は……目の前が真っ暗になって、終わりだ。わたしは気を失ったのだ、きっと」
彼女は両手を地につき、かきむしり叫んだ。
「わたしは! わたしはあの時怖じ気づいたのだ。わたしが臆したせいでみな死んでしまった。わたしはあの時やつと戦わないといけなかった。わたしのせいだ! わたしが……うっううう」
背中が震えている。
イシュルは彼女の背中を見つめた。その奥にはボリスがリフィアの大剣の刃を伸ばしてつくった、ドーム状の即席の鉄の盾がある。
おそらく赤帝龍が火炎を吹いた時、彼女が激しく動揺したために魔法具が充分に働かない状態になったのだろう。やつの火炎が谷を一周しはじめたところで、周囲の騎士たちが彼女に飛びかかって窪みに押し倒し、おのれの身を犠牲にして彼女の上に覆い被さった。リフィアの左足の捻挫もその時のものだろう。
目の前の少女はこれで途方もなく大きな十字架を背負うことになった。深く重い苦悩を抱くことになった。
おまえの苦悩は……いや、俺以上か。俺と少し似ている。
そして、そんなおまえから俺はおまえの父親を奪おうとしている。おまえにさらに深い悲しみを背負わそうとしている。
大陸の慣習では敵討ちを果たした相手に対する敵討ち、つまり重敵討(かさねかたきうち)はけっして推奨はされないが、違法とまでは見なされない。
俺が辺境伯を殺せば、リフィアは間違いなく挑んでくるだろう。その時は彼女の望むまま相手をするしかない。なるべく殺さずにすますことができればいいのだが……。
しかし、この少女の知略は評判どおりのものだった。自分の能力、派遣されてきた宮廷魔導師の能力、現地の地形と状況を、おそらく最上のレベルで組み合わせ作戦を立ててきた。
この世界の魔法使いは、魔法を応用的に使用したり他の魔法と組み合わせたり、などということにあまり意を払わない。昔から伝わる魔法の術、業を知り、忠実に実行すること、その威力を高めていくことに精魂を傾ける。そこをリフィアは、自身とボリスらの魔法を組み合わせ間接的に使用して、山をまるごと崩すという大魔法と同じレベルの事をやり遂げた。
赤帝龍にくらべればリフィアもボリス達も、千名に近い兵力も、とるに足らない小さな存在だ。人に対して絶対的な存在だった赤帝龍を、もしかしたら斃すことができるかもしれない、そんな状況にまで持ち込んだのだ。
いや。だがしかし、もっと深読みができないだろうか。派遣された宮廷魔導師の人選は、まるでリフィアが考案するであろう作戦を見越して選ばれ、派遣されたかのような気がしないでもない。あとはクシムの地勢を知っていれば……。
宮廷魔導師の人選が要請によるものならば、黒幕は辺境伯か大公。王宮でされたものならば、それだけの知者が王都にいる、ということになる。
いやいや、それはやはり考えすぎか。マーヤも含めれば、派遣された魔導師の系統は王国には少ないという水を除いた四系統に、加速の魔法を使う女剣士。とりあえずはどんな状況にも対応できるような標準的な人選だった、と考える方が自然だ。
リフィアに目をやる。彼女はまだ泣いている。
いずれにしろ彼女は塹壕も山を崩す作戦も自分で調べ、考えたと言ったのだ。
あと一歩、というところまでいきながら、傭兵部隊も巻き込んで討伐隊は全滅。生き残ったのは彼女だけ。
敗軍の将、ひとりだけが生き残ってしまった。これは彼女にとってどれだけ屈辱的なことだろうか。
この潔癖な性格なのだ。どれだけのものを彼女は背負い込むことになるのだろう。
イシュルは西の空を見た。遠く、フロンテーラ、王都のある方向だ。太陽が地平線にかかり、その陽が南北に長くどこまでも広がっている。
清廉潔白な少女。それが本物ならせめて彼女に生きる糧を与えてやろう。父親を奪うかわりに。
イシュルは夕日から目をそらし、リフィアに近づき彼女の肩に手を置いた。
「リフィア」
はじめて彼女の名を呼ぶ。
リフィアが振り向く。その顔は涙のあとで汚れている。
「聞いて欲しいことがある。おまえはこの後も辺境伯家の者として生きていかなければならない。おまえはこの敗軍の責を負わなきゃならない」
リフィアがイシュルを見つめてくる。彼女は何も言わない。
「だから、おまえは償わなければならない。死んでいった者たちのために」
「何を……」
リフィアが囁くように言う。
「償う方法はある。死んだ者たち、その遺された家の者、家族にしっかり補償するんだ」
「ほしょう……?」
「そうだ。戦(いくさ)で功をあげたが死んでしまった家臣であれば、その家を継ぐ者に恩賞を与えることもあるだろう? 継ぐ者がいなければ養子を世話してやる。兵らの家族にも金を渡してやれ。食うに困る者がいれば仕事を世話してやれ。困っている者がいればおまえが助けるんだ」
リフィアの眸が大きく見開かれる。
「兵士らまで……」
「そうだ」
この考え方はこの世界ではまだ一般的ではない。下層の兵らは領民から賦役として集められ課せられるものなのだ。領主家に仕える者も下層の者は死んでも、遺族がいる場合でも何も補償されないことが多い。領主家に勤める一般の兵士らは、貧農の次男、三男坊などが大半を占める。死んでしまえばそれでおしまいだ。
「誠意と慈悲をもって、おまえを慕っていた家臣や兵士らの遺族に償え。身分の上下にかかわりなくだ」
戦死者遺族や傷痍軍人に対する補償がはじまったのは近代国家が成立してからだろう。英国かフランスあたりがはじめたのではないだろうか。
この世界はそういう時代ではない。領主と領民、貴族と庶民の関係は、近代国家と国民の関係とは違う。
それを覆すことは容易ではないし、変革に早急に取り組む必要もないと思う。この世界ではなぜか作物全般の生育が良く、飢饉の起こる頻度が少ない。領主の課税が領民の大きな負担となることが少ない。支配者と被支配者の決定的な対立が起きにくいのだ。だが、領主が領民に対して土地の所有や公事仲裁、わずかばかりの治安を保証するかわりに、あとはただ搾取するだけの関係を、少しでも変えて踏み込んでいくことはそれなりに意義があるだろう。
領主が家臣や領民のためにより尽くすことを、善行と考える感覚はこの大陸の人びとにもある。リフィアに近世以降の考え方をほんの少しだけ教えて、使命感を植えつける。それが少しでも彼女の生きる希望につながればいい、と思う。
「たくさんの金が必要になる。赤帝龍討伐の軍費で辺境伯家も苦しいだろう。クシム銀山の復興にも金がかかる」
「あ、ああ……」
リフィアが呆然とした表情であいまいに頷く。
「クシム銀山の上がりの何割を王家に納めている?」
「そ、それは……」
「まぁ、いい。領内やフロンテーラ、王都の豪商を集めて、銀山の一部を担保に金を集めろ。領内の辺境伯家の直領はどれくらいある? それも担保にしろ。騎士団の再編は後回しだ。城にある美術品も金になるものはすべて売ってしまえ。それでも金が足りなきゃ城も担保に入れてしまえ。領民を対象にした債券の発行も検討しろ。少額でも広く集めれば大金になる。とにかく金をかき集めろ」
イシュルはわざと早口でまくしたてて、リフィアに言葉を挟む隙を与えないようにした。
勢いだ。勢いでたたみかける。
「クシムの復興には街にあった神殿を大きくしたい、とか言って聖堂教会からも余分に金をださせろ。金が足りなければ遺族への補償は分割して年金制にすればいい。家人や事務方を集めて補償や復興、金策のための専門の部局を設置して業務を効率化しろ。家内全般、古い慣習や無意味な行事を廃して出費を抑えろ。おまえの父親にねじ込め。な?」
ねじ込む必要はなくなるだろうが。
「あ、あ、あ、いや」
「俺の言ってることがわかるか?」
「だいたいは……」
リフィアは自信がなさそうに頷いた。目を丸くしている。
辺境伯領は他領とは違う。王国内外でも最大級の銀山があるのだ。莫大な借金を抱えようが、銀の採掘が続く限りいつかかならず返せる。
「後は王家だな。宮廷魔導師が四名、命を落としている。何か言ってくるぞ? おまえの父親がなんとかするだろうが、まぁ、銀山の収益の王家の取り分を少し増やすなりして追及をかわすしかないな」
イシュルはリフィアの肩に置いていた手を上げた。
指先はだらりとさがったまま、手を上げた先には泥濘で覆われたクシム川の流れていた谷がある。
イシュルは魔法を使った。
あの領域から、自分の中から魔力をからめていく。
泥濘で覆われた谷に、緩やかな曲線を描く細い溝が刻まれていく。溝から巻き上げられた泥や岩が細かな粒子となって空に吹き上げられ、東の山奥の方へ飛んでいく。
イシュルはかつてクシム川の川筋があったと思われる位置に、風の壁を鑿(のみ)のような形にして打ち込み、盛り上がった両脇の泥を風で刻んで吹き飛ばした。
イシュルの魔法は谷の遥かな先の下流の方まで、視界の続く限り延々と発動し続け、谷に新たな川筋を刻んでいった。
イシュルの魔力による感知半径に大きな変化はない。だが、赤帝龍と戦った末に得た新たな力によって、彼が発動する魔法の有効半径は以前より爆発的に拡大した。以前はその半径は五百〜六百長歩(スカル、約三百〜四百m)ほどだったが、今は視力を主とする、五感の及ぶ範囲の限界まで広がっている。
イシュルは体調が復調に向かい魔力が復活してくると、そのことを自然に感じとった。夕日に照らされ、山の影が斜めに走るクシム銀山から見る周囲の景色。その視界の及ぶ先までイシュルは魔法を使うことができるようになった。
「すごい……」
リフィアは山間に展開する雄大な魔法の静かな展開に、小さく感嘆の声を漏らした。
もう彼女は泣いていなかった。
イシュルは続いて、溜まった土砂で塞がれた、上流の大きな池のような水溜まりの方に手をつけた。
新たにつけた川筋に落ちるように泥と岩の壁に穴を穿ち溝をつけ、周囲の泥と岩の壁が一気に決壊しないよう押さえつけ、溜まった川の水が少しずつ流れ落ちるように調節した。
塞き止められていた水が新しい川筋に流れ込み、下流の方へ静かに流れていく。
このまま放置すれば、川の水を塞き止めていた泥の壁はいつか決壊し、鉄砲水が、再び土石流が発生するのではないか。
フゴからは状況を確認するために、すでにマーヤらが南側か北側から大回りしてこの地に向かっているかもしれない。彼らの安全のためにも、イシュルはどうしてもこのことをやっておきたかった。
イシュルは、泥と岩で覆われた谷に新たな川筋をつくり、溜まった水を流してやることで再発するかもしれない災害を未然に防ぎ、同時に新たに得た風の魔法の力を試したのだった。
夕日に暮れなずむクシムの山河を、魔法の風が静かに吹き抜けた。
「……あとは周囲の山々で植林を進めるんだな」
イシュルはリフィアに、独り言のように言った。
そして座り込んでいる彼女の前に回り込み、手をとって立たせた。
イシュルは彼女の目を見つめて言った。
「もう泣くのはおしまいにしよう。悔恨と悲しみを糧に前へ進むんだ」
俺がしてきたように。誰もがしてきたように。
リフィアの眸に再び涙が浮かんだ。彼女は歯を食いしばって耐える。
「な? リフィア」
リフィアは頷いた。
とうとう涙が一筋、こぼれ落ちた。小さな雫が彼女の頬を伝う。
それでもリフィアはイシュルをまっすぐ見つめ続ける。
唇が震え、笑顔をつくろうとする。
「ありがとう。イシュル」
「さて、ではフゴに戻るか」
イシュルは視線をフゴのある山並みの方へ向けた。
と、イシュルの視界の端にリフィアが両手を差し出してきた。
「ん?」
イシュルがリフィアに顔を向けると彼女は少し恥ずかしそうにしている。
「……おんぶ、……してくれ」
リフィアは少し笑みを浮かべ、だがなぜか苦しそうに息を吐いた。最後の方は声が小さくてよく聞こえなかった。
リフィアの顔は夕日を浴びて真っ赤だ。たぶん夕日のせいだ。
イシュルは無言ですぐに背を向け、屈んだ。
おまえはマーヤか? 言われたこっちの方が恥ずかしい……。
自分の顔が熱くなる。自分の顔が赤くなっているのがわかる。
凄まじい破壊力だ。いろんな意味で。
イシュルはどうにもいたたまれない気分になった。
リフィアをおぶって土と岩だけの山稜を南西の方へ歩いていく。足場の悪そうなところは魔法のアシストをつけ、ひょいひょいと軽快にジャンプしてやり過ごす。
このまま山の峰伝いに南西に進み、木々が茂りだした辺りで、北東方向に曲がり、フゴを目指す。そんな感じで行くか。
イシュルがフゴへ安全に行けるルートを考えていると、リフィアのイシュルの肩を掴む力が急に強くなった。
ちょうど塹壕が掘られたクシムの銀山の峰のつらなりにさしかかった辺りだ。
「フゴに行くのは嫌なんだ。もう一度湖に寄りたい」
リフィアの声は小さかった。イシュルの耳許に熱い吐息がかかる。
「それからは森の中を小川を探しながら南に行こう。数日も行けばゾーラという村に行き当たると思う。そこからフゴへ使いを出して留守部隊を呼び寄せる」
イシュルは左手、南の方に視線を向けた。
谷の向かいの山の向こうに昼過ぎまでいた湖が見える。湖面が調和のとれたグラデーションの、赤から紫へ変わる夕空を映している。
「その方がフゴまで大回りするより近いかもしれない。道中も安全だ。きっと」
リフィアが両腕をイシュルの首にからめてきた。リフィアの額がイシュルの首筋に当たる。
彼女は囁いた。
「お願いだ、イシュル……」
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