月夜
白に近い無色の空、明るく深く曇った空。
この空をはじめに見たのはいつだったか。
あの時、俺は三歳くらいだったと思う。当時は両親と家族三人、大きな団地に住んでいた。あの時、俺は母といっしょに近くのスーパーに出かけた。
そのスーパーはかなりの大きさで、俺は買い物の途中で母とはぐれ迷子になってしまった。それから自分がどのように母を探し、どれくらいの時間迷っていたか記憶にない。
母と会えたのは団地に隣接する大きな公園の広場だった。公園の周りは視界が開け、その向こうには同じ形の団地の建物がたくさん並んで立っているのが見えた。俺はわーん、わーんと盛大に泣いていた。
あの時の空が今の空だ。
あの時の母の影。
「××××××? ××××、×××××××××?」
あの時、母は何と言ったのだろう? はっきりと憶えていない。はっきり聞きとれなかったのかもしれない。たぶん激しく泣いて悲しくて、興奮していたろうから。
上からこちらを覗き込む女の影。そのシルエットはまるで娘のように若い。
あの頃は確かに母も若かった。
お迎え? お迎えがきたのか。
「××××××××××。××××、××××××××××××××××××××」
いったい何を言ってるんだ? 耳がやられているのか、よく聞こえない。
でもこれで両親と、ルセルに会える。メリリャにも会える。
「××××××、××××」
ん? 母さん? ああルーシの方か。ふたりめの俺の母さんだ。
そうか。俺は……。
「……イシュルさま」
最後に柔らかい、艶のある声がなぜか、すぐ耳許で聞こえた。
何?!
イシュルは飛び起きた。
「げっ、げほ」
口に砂が入っている。目が痛い。
イシュルは咳き込んで口から砂を吐き出した。
目をこすると剥がれ落ちるように土塊がぽろぽろ落ちていく。痛い……。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
肺に冷たい空気が流れ込む。
からだが痛い。筋が痛い。喉が痛い。喉がからからだ。
イシュルは立ち上がった。
あの女は? どこへいった?
そうだ。視界の隅を覆っていた黒いものは土だ。土か。
辺りを見まわす。
目の前に、頂から山裾にかけて大きくえぐり取られるように形を失った山、右手に続く尾根。背後も山だ。
俺は谷底にいる。
「はぁ、はぁ、水だ。水が欲しい」
息が荒い。今ごろ気づいた。とにかく水だ。
イシュルは腰にぶら下げていた水筒をさぐった。ない。
「はぁ、はぁ、くそっ」
どこかで落としたか。
イシュルは辺りを見回まわす。
地面は一面、山肌も真っ黒な焼け焦げた灰や土で覆われている。ひとの、草木の影ひとつない。
「あった!」
内側に家畜の内蔵を貼った木製の水筒が、自分の倒れていた場所のすぐ近くにころがっていた。
手に取りがぶ飲みする。
水が喉を通っていく。からだ中に染み込んでいくのがわかるようだ。
イシュルは水筒の水を一気に飲み干した。
手の甲で無造作に口許を拭い、水筒を革のベルトに括りつける。
呼吸が落ち着き、全身の痛みが少しだけ和らぐ。意識が鮮明になってきた。切れ切れだった記憶がゆっくりと繋がれていく。
辺りを何気なく見回すと、水筒の落ちていたすぐ傍に剣が土に刺さっていた。
イシュルは腰を折り、剣に手を伸ばした。
この握り……。
剣の刃は途中から折れていた。
父さん……!
イシュルは最後まで思い出した。
「そうだ。赤帝龍はどうした? くそ、父さんの剣が」
まだ思考が混乱している。
イシュルは父の形見の剣を握りしめ、肩を震わした。
崩れた山に黒く焼けただれた土。誰もいない谷を時折風が鳴り、頂からこぼれ落ちる砂の音が微かに聞こえてくる。
谷底にイシュルの嗚咽する声が響いた。
「……赤帝龍はどこだ? どこに消えた」
涙を拭うとイシュルの表情は険しいものになった。
父の折れた剣を右手に持ったまま、谷から山稜がなだらかに消え広がっていく、北東の方へ歩いて行く。イシュルの進む先に見える山並みからは、まるで狼煙のように幾筋もの薄黒い煙が立ち上っていた。
間違いない。あれは俺が赤帝龍の吐いた火炎を吹き飛ばしたものだ。
俺はあの後、赤帝龍の脳を破壊しようとして……。
失敗して、やつの頭から落ちて、死んだのではなかったか。
なぜ生きている。
さっきの女、あれは夢ではなかったのか。
……イシュルさま。
そうだ。あの感じ、あれは主神ヘレスだ。おそらく。
あいつが俺を蘇らせたのか? まさか。
くそっ、あの女は何を言っていたんだ? 何かとても大事なことを言っていたようだが、何も思い出せない。
「なぜ俺を生き返らせた」
足許の土は乾いている。辺りは山から崩れおちた土砂で埋まり、所々、大小の岩が露出している。この土砂の下にはクシムの山を挟んだ北側の集落があった筈だ。そして赤帝龍が居座っていたのだ。
イシュルはふと東側の空を見た。
空は一面、相変わらず薄い灰色の雲で覆われたままだが、辺りをただよっていた霧や霞はきれいに払われ視界は遠くまで広がっている。
その東の山並みの連なりの影に、空を飛ぶ赤帝龍の小さな後ろ姿があった。
赤帝龍は、山の頂にぶつかりそうな低さを喘ぐように飛んでいた。
赤帝龍は長い尻尾と首を下に垂らし、今にも落ちそうな心もとない感じで東へ、山奥の方へ飛んでいた。時折、下に垂らした首から黒いものが落ち、それが地上に落ちて火を発し辺りを燃やしている。
赤帝龍の首から血が滴り落ち、それが地上で燃えているのだった。その炎は山の尾根が重なり底に消えていく谷間を赤く照らし、赤帝龍の後を追うように点々と続いていた。
やつにまだ空をと飛べるほどの力が残されていたのか。
「いや……、あれもヘレスが何かしたのだ」
イシュルは胸に手を当てる。
俺の風の魔法具は奪われていない。それはすぐにわかる。
心身ともにまだ充分な魔力を使える状態ではないが、感知能力に衰えはない。
感知範囲ぎりぎりにある山並みを渡る、遠く吹く風。赤帝龍の火炎で乾いた背後の山肌を、嘗めるように吹く風が砂をさらさらと巻き上げる繊細な感じ。両者ともにはっきりと感知できる。いや、それどころかあそこ、あの無数の光が四方に走る場所、そことの繋がりができているのを感じることができる。
あそこが精霊界なのか、精霊界が天国のような場所だというのなら、とてもそんな感じには思えないのだが、あそこからまだあやふやだが、風に特化した魔法、というより魔力なのか、それそのものを引っ張り出すことができるようになったのは確かだ。
イシュルは東の空を弱々しく、地上すれすれに飛んでいく赤帝龍の姿を擬視した。
あの赤帝龍の大きさからするともう、かなりの距離がある。
今なら、この体調でもやつと戦って勝てるかもしれない。向こうも相当に衰弱しているだろう。だが、あいつに追いつく前に、今のなけなしの体力も集中力も、魔力も使い果たしてしまうだろう。
仕方がない。
やつが自分の巣に帰るのなら、とりあえず人の住む地に被害が及ぶことはない。今はあいつを殺すことはあきらめよう。
だがいずれ、あいつが巣に閉じこもっていようともかならず仕留めに行ってやる。やつが人類を滅ぼそうとしているのなら見過ごすことはできないだろう。
やつから火の魔法具を奪うことは、今の俺にとってまだそれほど重要なことではない。まだ他の神の魔法具を何者が持ち、何処にあるのかもわからない状況だ。自分にはまだ風の魔法でさえ、たくさんの知らないことがある。他の魔法具を手に入れ充分に活かす余裕はない。
今はまだ、やつとの激闘か死からの再生故か、心身の消耗で魔力もほとんど枯渇した状態だが、万全な状態に回復すればいったいどこで会得したのか、やつの使った神の御業、大魔法“バルヘルの炎環結界”を破る自信もある。大精霊、カルリルトスがやったように。
しかし、あれだけ強大だった赤帝龍があのざまか。
イシュルはかるく息を吐いた。
あいつの話したこと、五つの神の魔法具のこと、そして今回の戦いの総括は、これから自分の中で充分に考え思索を重ね、消化しておかなければならない。
五つの神の魔法具を得て神になるのか、無窮の力を得るのか、そして以前のベルシュ村を復活させて、家族や村人たちの生を取り戻すのか。
だが本当にそれでいいのか、それが一度死んだ彼らの救いになるのだろうか。俺にはわからない。
一方で神々が俺の行動に介入してくる理由、この世界の神々である彼らについて、自分の転生に関して、疑念を抱かずにはいられなくなった。それを彼らに問いただすことができれば、何をすればいいのか、わかるような気がする。
主神ヘレスは死んだ、少なくとも瀕死の状態だった俺を、復活させたのだ。
俺には他の魔法具を集める気なんかさらさらない。今もその気持ちは変わっていない。
だが、俺はいずれ嫌でも他の魔法具を探し、集めることになるだろう。神々がおそらくそれを望んでいるのだ。彼らは俺が魔法具を集め、奪い合うゲームに参加することを望んでいるのだ。
俺が彼らのゲームの盤上の駒のひとつなら。
それなら俺は、五つの神の魔法具を集め力を得て、その盤をひっくり返してやろう。
そして俺は彼らに問うのだ。
俺の転生も、風の魔法具も、ベルシュ村のことも、赤帝龍のことも、すべておまえらの仕業なのかと。
もしこれらのことが彼らの遊興だというのなら、俺は彼らに戦いを挑む。彼らを懲らしめるために。神々にまったく歯が立たなくてもかまうものか。あるいはそれが神殺しになってもかまうものか。
……イシュルさま。
あれはヘレスが言ったのだろうか。なぜ「さま」などと尊称をつける。
もし、他にも何か理由があるのなら、それを知りたい。
何の因果も関与もないというのなら、俺は自分のからだを引裂いてでも、すべての神の魔法具を破壊する。ふたたび新たな神の魔法具が生み出されることになり、自分のやったことが意味のないことだとしても。
そうなのだ。
俺と赤帝龍、神の魔法具によって人生を壊され命を無くしたすべての者たちのために、自分自身のために、俺はおのれの考える正義を貫き贖罪を果たす。
イシュルはどこまでも続く山並みの果てに、小さく消えゆく赤帝龍の姿を長い間見つめ続けた。
赤帝龍が地平線の果てに消えるまで。
霧雨が降りはじめた。
イシュルは近くの岩に腰を降ろしひと息つくと、左手遠方に広がる泥で覆われた谷底を見渡した。
これからどうするか……。
右手奥の赤帝龍がいた谷間は、討伐隊、イシュルとの戦いで赤帝龍が幾度となく吐いた火炎のせいか、足許の土も山の斜面も黒く焦げつき、しっかり乾いていたが、左手のフゴまで続く谷は、傭兵部隊を飲み込みイシュルとマーヤを襲った土砂に埋まり、水気を多分に含んだ泥濘で見渡すかぎり覆われている。奥の方はクシム川が塞き止められて早くも大きな水たまり、即成の淀んだ池ができあがっていた。
とりあえず一旦、フゴへ戻るか。
手許に食料はない。マントの下に背負っていた薄く小さな背負い袋の中には塩を入れた袋と、ペトラやセヴィルからもらった金に、火打石と下着が一着分だけ、水筒の水ももうほとんど残っていない。ちなみにベルトに金具でしっかりと留めていたナイフは無事だった。
目の前の谷を流れていたクシム川は土砂に埋まり、姿形もない。付近に小川や泉もない。水は早目に入手しないと危険だ。
マーヤの状態も気になるし、一旦フゴに戻るのが一番良いのだろうが、谷を挟んだ向かいの山まで空を飛ぶ魔力が今の状態では心もとない。
だからといって、雨も降ってきたしこの低地に居続けるのも危険だ。ちょっと辛いが再び南側の山を登って、討伐隊の兵らの遺体に混じって塹壕の中で一晩休み、体力に精神力、つまり魔力がある程度戻ってからフゴに向かうのがいいだろう。
よし。
イシュルは立ち上がると、討伐隊が布陣していたフゴを南北に分断する山を、歩いて登りはじめた。
山裾には露天掘りや掘削などによって銀の採掘が行われていた筈だが、それとわかるもの何も残っていない。
時々上から流れ落ちて来る砂と足場に注意しながらゆっくりと歩みを進め、イシュルは山稜の頂近くで周囲を見渡した。まだ全身に疲労感や痛みが残っているが、気分は悪くない。
辺り一帯の表土は黒く染まり、よく見ると槍のような棒がいくつか塹壕らしき溝から飛び出しているのが見えた。
辺りを微かな風が舞い、細雨と混じり合う。
イシュルはふと、谷の反対側の、大きく崩れ落ちた山の尾根の方へ目を向けた。
えぐり取られるように山の頂から崩れ、山の形を失った大きな凹み。あれがイシュルたちと傭兵部隊を襲った大規模な土石流のもとになったは間違いない。おそらく討伐隊本隊との戦闘中に赤帝龍の尻尾が直撃したのだろう。
赤帝龍め……。ん?
イシュルの眸がその崩れた山の窪みに吸いつけられる。よく見ると、針のように細く長い鉄の杭が幾つも崩れた土砂や岩の間に刺さって、突き出ているのが見える。
その鉄杭の幾つかは、その先端部だろうか、途中から木の根のように四方に枝分かれしていた。
どういうことだ?
よく見ると凹みから露出している鉄杭のほとんどすべてがみな枝分かれしているようだ。山崩れの衝撃だろうか、その枝分かれした部分が折れ、曲がって、ひしゃげて複雑な形になっていた。
鉄杭……。
あれはリフィアが使い道を秘密にしていた鉄杭ではないか?
蛸の足のように四方に足を伸ばし変形した鉄杭、あれはまさかボリス・ドグーラスがやったのではないだろうか?
彼は金系統の魔導師だ。鉄杭の変形などたやすく行えるだろう。
金の魔導師ボリス・ドグーラス、土の魔導師ドレート・オーベン。それにリフィア・ベームの武神の矢。
禿げ山の連なり、連日の悪天候で緩んだ地盤……。
まさか、あの山を崩したのは……。
イシュルは思索に沈み、山の凹みからその周囲に視線を彷徨わした。
右手の山の尾根に、人工的な曲線を描く小さな半円状のものが突き出ているのが見える。
何だ?
目を凝らしたイシュルに、そこから微かな煌めきが起こる。
魔法?
イシュルは思わず土を蹴った。
生存者か。宮廷魔導師の誰か、生きているのか?
空を飛び、向かいの半円状の突起物に向かう。
イシュルは着地すると片膝をつき俯き、しばらく何かに堪えるようにそのまま動かずにいた。
苦しい……。
からだの奥から喉へ、突き上げてくるような苦痛と激しい目眩にじっと堪える。
無理をした。まだほとんど魔力を回復できていないのだ。空を飛ぶのはこの状態ではかなりの負担になる。
イシュルは深呼吸を繰り返し、何とかからだの変調をやり過ごすと立ち上がった。
すぐ左側に半円状に広がる歪んだ鉄の板。その影に黒焦げになった全身鎧の騎士の数名の死体が重なっていた。その隙間から見える銀色の何か。
イシュルは苦労して手前の騎士の死体をひっぱりずらし、その隣の死体を仰向けにひっくり返して奥へどけた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
騎士らの遺体は炭化していて、水分が失われ軽くなっている筈だが、全身鎧の重さは失われていない。それどころか所々溶け変形し、関節部などが癒着していて思うように動かせず、万全でないイシュルの体力をさらに奪った。
その下の窪みには、汚れひとつないきれいな軍装のリフィアが眠るようにして横たわっていた。
「……リフィア」
周囲に散乱する真っ黒に焼け焦げた遺体、半円状に広がる鉄の板のすぐ裏側に、その板をささえるようにして、片膝をついたまま焼け死んだ、おそらくボリス・ドグーラスの遺体があった。
変形した鉄の板は、討伐本隊がフゴを出陣するときにリフィアがこれ見よがしに見せつけてきた、あの特大の鉄の剣だった。剣の両刃の片側は半分ほどが地面に埋まり、露出したもう片刃はドーム状に引き伸されていた。
赤帝龍の火炎を防ぐために、ボリスが盾がわりに変形したのだろう。
「まさか生きているのか」
イシュルはリフィアの側により、彼女の手首を取り脈を調べた。
人も鉄も土も岩も、真っ黒に焼け焦げた中、リフィアだけが傷ひとつなく、その輝くような美しさを保っていた。まるで名のある工匠のつくった人形のような、不思議な美しさだった。鎧も下に敷かれた白いマントも、焼け焦げた跡ひとつない。
武をよく嗜むというわりには異様に細いリフィアの手首、そこからは確かに一定の間隔でイシュルの指先を押し返してくる脈があった。リフィアは生きていたのだ。
これが武神の魔法具の力か。
現状から何が起きたか大雑把にでも推理するなら、おそらく赤帝龍が火炎を吐くのが想定より早すぎた、強力すぎたため、リフィアは赤帝龍を攻撃できず、彼女を赤帝龍の火炎から守るため周囲にいた騎士たちが、いっせいに彼女に飛びかかって彼女を押し倒し、ボリスがリフィアの大剣をドーム状に変形させて盾がわりにし、赤帝龍の火炎の直撃から彼女を守った、そんなところだろうか。
リフィアが自身の魔法具を発動していれば、全身鎧を着込んだ数人の騎士に飛びかかられたとしても、たやすく跳ね飛ばすことができたのではないかとも思われるが、そのへんはよくわからない。
半円状に広がる鉄の板の外側は、さきほどの赤帝龍との激戦もあって、もう形のはっきりした兵の遺体は残っていない。辺りは土砂が崩れ飛び、降り積もってひとの遺体や武具など形のあるものは消えていた。こちら側の山には塹壕が掘られていないようだが、リフィアや王家の宮廷魔導師、騎士団の一部など少数の部隊が布陣していたらしい。
ボリスがこの有様なのだ。他の魔導師たちもみな死んでしまったろう。直後にイシュルたちがさらに激しい戦いをはじめてしまい、多くの者が遺体も残らない悲惨な結果となってしまった。
イシュルは厳しい表情でリフィアの顔を覗きこんだ。
彼女は辺境伯の家臣や直属の部下だけでなく、ボリスらからも慕われ、人望があったらしい。
だが、しかし……。
イシュルが彼女の首の下に腕をまわし、彼女の上半身を起こそうとした時だった。
いきなりリフィアの目が、かっ、と見開かれた。その眸が赤く光った。
うっ。
イシュルは思わずのけぞる。
なんだ? 一瞬の魔力の煌めき……。
その光りはすぐに消え、眸から力が失われると彼女はまた瞼を閉じて気を失った。
「さっき感じた魔力と同じだな」
まさか武神の矢は、彼女が意識を失ってもその効力を発揮し続けていたのか。
それに直撃ではないとしても赤帝龍の火炎から完全にその身を守りきったのだ。なるほど恐るべき魔法具なのかもしれない。
ただ同時にリフィアが意識を失っているのも、武神の矢が彼女の精神力を大量に消費しつづけた結果だろう。
イシュルは彼女の頭側にまわり、彼女の背中の下に両腕を差し入れ両脇にからめて彼女を窪みから引っぱりだした。
そして彼女の、篭手と膝下の鉄板を張られたブーツ以外の肩、胴、腰回りのスカート型の甲冑を外していった。甲冑を外していく段階でリフィアの上半身を起こし、腰を浮かしと、彼女のからだをさんざんに動かしたが、リフィアが意識を取りもどし目醒めることはなかった。
最後に彼女の白いマントを着け直すと、リフィアは先日フゴのハンターギルドにマーヤを訪ねてきた時と同じ格好になった。
イシュルは続いてリフィアの上半身を起こし、自身の背中にもたれさせ、彼女を背負い上げた。
イシュルが立ち上がる時、リフィアは微かに呻き声を漏らした。
マーヤよりもはるかに重い……。
リフィアは同じ年頃の女性の平均より背が高く、同じく男性の中ではごくごく平均的なイシュルの背丈にちょっと低いくらいだ。しかも鎖帷子を着込んでいる。
だが重いからといって鎖帷子を脱がすわけにもいかない。鎖帷子の下は肌着だろう。
「またおんぶ行脚か」
イシュルはフゴまでの間道でマーヤをよくおんぶしていたことを思い出し、ため息をついた。
待てよ。
細雨の降り続く中、山の峰にリフィアを背負って立ったイシュルはふと首を南西の方へめぐらす。
そうか。リフィアは玉だ。
イシュルはついで周囲を見渡す。
北東の山奥の方、谷間には山崩れによってできた土砂にクシム川が塞き止められ、黒く濁った大きな水たまりができている。フゴへ向かう東側のルートは空を飛ばない限り全滅だ。空を飛んで北東側の山稜に渡りそのままフゴに向かうのも、雨で地盤の緩んだ禿げ山づたいになる。向かいの山を降りてクシムの市街を抜け、フゴに戻るのも、行きしに通ってきたクシム川にかかる橋は、おそらく土石流に飲まれて渡れないだろう。そうなると、フゴに戻るのはアルヴァへ直接向かう街道に出て、さらに南に大回りしなければならない。しかも街道の周囲はしばらく禿げ山ばかりで、山崩れを警戒しながらになる。
イシュルは再び南西の方角に目をやった。
南西の方は、草木の焼けた裸の山並みが消えていく谷間の向こう側に緑があり、さらにその山稜の向こう側には細雨に霞んでいるものの、小さな湖があるのがはっきりと見てとれた。
目前の谷間を越えてしまえば、後は禿げ山よりは安全な木々の生えた山になり、ほど近いところには湖があり、水を補給できる。谷間を空を飛んで越えてしまえば、あの湖まで一日もかからないで行けるだろう。
フゴより近く、安全に行ける。
「そしてあの湖まで行くのなら、その後は山火事にやられなかった山間部をそのまま南西へ、街道に当たるまで歩けばいい」
イシュルの顔に悪い笑みが浮かぶ。
「クシム街道に出てしまえば、アルヴァは目の前だ」
俺が、リフィアの護衛を買って出て、直接アルヴァまで運んでしまえばよいのだ。
彼女は衰弱している。彼女には護衛が必要だろう。
俺がベルシュ村の生き残り、ブリガール男爵家を滅ぼした少年だとばれなければ、リフィアといっしょにアルヴァ城内まで入れるかもしれない。
俺は辺境伯家にとっていわば娘の命の恩人になるわけだ。
「ふふふ」
イシュルは視線を遠くわずかに南に振り、アルヴァの方へ向け、小さく声に出して笑った。
リフィアを背負って、向かいの討伐隊本隊が布陣していた山麓へ向かい、予定どおり手頃な塹壕に入って雨をやり過ごすことにする。
塹壕の中で雨を避け、しばらく休息をとる。
彼女も俺も、今の体調で雨に長時間当たるのはまずい。それに仮眠をとれば体力も魔力も早く戻せるだろう。
黒く染まった荒々しい土の壁に背中を預け腰を下ろす。壕の右側、少し離れたところに真っ黒に焼け焦げた兵の、数体の遺体が折り重なっているのが見える。斜め向かいには人形のようなリフィアが座っている。地面に降ろしたときにかるい呻き声をあげただけで相変わらず意識が戻らない。というより眠っている。
リフィアは顔を横に傾け、その整った顔に銀色の髪が一筋流れ落ちている。
彼女の顔を見ているだけでここがどこか忘れ、夢の中にいるような気分になってしまう。
さて……、さっきは彼女を使ってアルヴァ城、有名な白亜の回廊の城にうまくもぐり込めるのではないかと算段したわけだが。
実際にはなかなかそううまくはいかないだろう。
まず、リフィアが俺が風の魔法具の所有者だと感づいている可能性がある、ということがひとつ。
リフィアがマーヤを訪ねて、フゴのハンターギルド前の広場に来た時、彼女はマーヤの従者でしかない俺に家名まで聞いてきたが、俺の偽名に特に怪しんだ様子はなかった。
フゴを襲った五匹の火龍を瞬殺した者が誰か、王家は風の魔法具を持つ者をフゴに連れてきたのか、
リフィアはあの時俺がその者かどうか探りをいれてきたが、俺が当人であるかどうか、確信は得てはいないなかったように思える。
ただもしマーヤの従者、ケイブ・ステンダで押し通せたとしても、アルヴァへ向かう途中で魔獣に遭遇するかもしれないし、飯も食わなきゃならない。あの湖で水を補給したら、周囲の森で野鳥でも獲ることになるだろうが、自分には魔法を使わないととても無理だ。アルヴァへの道中は山中を行くとはいえ、あの湖からなら五、六日ほど。短い期間だが、木の実や山菜、茸だけで凌ぐのはちょっとつらい。採取するのも時間がかかる。遅かれ早かれ王家の使者とともに行動していた風の魔法を遣う者、つまりおまえがエリスタールでブリガール男爵を殺し城を壊した男か、という話になる。これがふたつ目。
つまりいずれにしろ、遅かれ早かれ、アルヴァへ向かう道程で俺の正体が特定される可能性が非常に高いということだ。
彼女は俺が辺境伯を復讐の対象として狙っていることは知らないだろう。だから彼女に俺の正体がばれても問題はない。だが、それが父親である辺境伯に伝わるととてもまずいことになる。
なんとかアルヴァ城内に入るまで、辺境伯本人に娘を救出した者の情報が伝わらないようにしないといけない……。
赤帝龍と戦うまで、俺は辺境伯の手の者と思われる刺客に二回襲われている。辺境伯はマーヤと行動をともにする少年の正体を知っていた、ということだ。ならマーヤの従者だ、という情報が辺境伯に伝わってもまずいことになる。
なかなか難しいか。
傭兵部隊の全滅にショックを受けていたマーヤのことも心配だし、もう丸一日ほどこの場で休んで、より大きな魔力の回復を待って、フゴに直行した方がいいかもしれない。リフィアはフゴで留守部隊に引き渡せばよい。
魔力が回復すれば東北側の山並みまで一気に谷を飛び越え、その後も山の峰沿いに跳躍を繰り返していけば、山崩れに巻き込まれる危険性は少ないだろう。リフィアを背負っていても問題はない。
「ただ水がない」
塹壕の影の下でイシュルは小さく呟く。
もちろん食料もないが、水なしでここで一日半、フゴまで高速で移動して半日、二日間水分を摂れないのはきつい。それで魔力や体力が回復するだろうか?
ならさっき山頂で見た湖まで行き、水を補給し、野鳥を獲って山菜などより栄養のある物を食べる。心身ともにより良い休養が取れるだろう。
それからフゴに向かおう。湖はフゴとは方向がほぼ真逆で大回りになるが、仕方がない。
肉を食おう。肉を。
イシュルはそこで思考を止め、心身を弛緩させた。
細雨が土に落ちる微かな音さえ聞こえそうだ。
イシュルはすぐに意識を手放し眠りに落ちた。
イシュルが目を醒すと夜になっていた。目の前の土壁に塹壕の影が水平に刻まれている。
「ん?」
塹壕から顔を出すと、空は晴れ渡り、月が出ていた。月齢は満月を過ぎたあたりだ。周囲は明るい。
「凄いな」
昼ならピーカン間違いなし、だろう。
まさかな。
イシュルは今だ目を醒まさないリフィアに目を向けた。
リフィアを背負い風の魔法でかるくアシスト、塹壕からすっと飛び上がる。
まだからだに痛みも疲れも残っているが、だいぶ状態はよくなった。
イシュルは南に伸びる山稜を、湖に向けて歩き出した。辺りは草木が一切なく、まるで月面を歩いているかのような不思議な気分になる。そして空を見るとその月が煌々と光っている。
「ふふ」
イシュルはかるく笑うと足許に気をつけながら慎重に歩を進めた。
王家も辺境伯家も当然のように、赤帝龍との戦いが満月の頃になるよう部隊の動員や編成、移動、その他人員の配置などを行ってきたのだ。夜戦そのものを想定したわけではなく、夜間の行軍、接敵を容易にするためだろう。そこら辺の基本はさすがにしっかりしている。
イシュルは、谷間を挟んだ向かいに木々の生えた山肌が見えてくると、眠り続ける後ろのリフィアにちらっと目をやり、空を飛んだ。
もう周囲の風を激しく呼び込むようなことはしない。空に浮き移動する意志とイメージを想像して、魔法具を通じて繋がったあの場所から魔法の風を引っ張ってくればいい。それでとても自然な感じに、ほぼ完成された魔法が発動される。発動後は自分でコントロールする。呪文詠唱の必要はない。おそらく、呪文を使えばより複雑な固定化された術や業が発動することになる。
後ろにリフィアがいる。あまりGや風圧をかけぬよう速度を上げず、ゆっくりと谷の上空を滑るように飛んでいく。
月の光が夜の空を広がってイシュルたちを包むように照らしている。夜の湿り気を帯びた柔らかい風がイシュルの頬をやさしくなぜていく。
今までもあの場所、あまり精霊界という感じがしないのだが——神々の領域とはつながっていて、魔法具を通して魔力が自分の心身に溶け込むようにして流れ込んできていたのだと思う。だがこちらにそれを認識しようとする考えがなかった。そこまで感じられなかった。感じようとしなかった。
かつてラジドで、火龍とマーヤが戦っていて彼女が火の魔法を使うのをはじめて見た時、自分は前の世界の常識を、科学の領域を、その境界を飛び越える感覚を知りたい。その先を見てみたい、と思った。
赤帝龍と戦い死にそうになった時、奇しくもそれを体験したわけだが、それは確かに超常的なものではあっても、過ぎてしまえば、夢おどるような楽しいことと、それですまされるようなものではなかった。まだまだわからない、神々もからんだ新しい謎もでてきてしまった。
あの体験、あの感覚をどう考え思うかは、これから自分で決めていかなければならないのだ。
なぜなら、あの新しい世界に自分を連れていった、つなげてくれたものは自身の感情と記憶と感覚、自分自身の積み上げてきたもの、他ならぬ俺自身だったからだ。
目の前に広がる山に繁る木々が夜目にもはっきりと見えてくる。
吹く風は相変わらず柔らかくやさしい。
ふとイシュルは下を見た。
谷底は以前は川が流れていたろうに、今はクシム側の禿げ山から流れ落ちた土砂で埋まっている。
「え? ……うわ!」
イシュルが下を見ていると、リフィアが目を覚ました。
いきなり空中で目覚めたせいか、びっくりして暴れ出す。
「お、おい」
魔法を使ったのがまずかったか。
リフィアの両腕が振り回される。
がつん、とイシュルの側頭部に肘打ちらしきものが。続いて背中に決定的な膝蹴り。
リフィアがイシュルの背中から離れ谷底へ落ちていく。
イシュルは反動で少し上に浮き上がる。
まずい!
イシュルは頭を下に、急降下を始めた。
あれだけ深い眠りだったのに。
リフィアは背中を下に落ちていく。
彼女の銀色の髪が花開くように宙に広がった。
イシュルは急降下しながら彼女の下に風を集める。
リフィアの眸が赤く光った。魔力が広がる。
武神の矢の発動だ。もう大丈夫だ。あの魔法具が発動すればこの高さから落ちても、かすり傷ひとつ負わないんじゃないか。
と、イシュルの安堵も一瞬、リフィアの眸の赤い光が何度か瞬くと消えてしまう。
げっ。
まだ回復していないのか。
イシュルはスピードを上げ、差し出されたリフィアの腕をつかんだ。
リフィアが見ている。
下に集めた風を固め降下速度を殺していく。
イシュルはリフィアを引き上げ片手を彼女の腰にまわし、しっかりと抱きとめた。
「あっ……」
リフィアが吐息を漏らす。
イシュルとリフィアの顔が近づいていく。
リフィアは目を見開き無言でイシュルを見つめた。
月の柔らかい光が彼女の顔に紗をかける。イシュルは月光に浮かぶリフィアの顔の美しさに、しばし言葉をなくした。
ふたりの影が月夜の谷間に浮かびあがる。
リフィアは何かに憑かれたようにイシュルを見つめ続けた。
「おまえは……エーレン殿の……」
彼女はイシュルに向けて囁くように言った。
「いや。おまえは風神の剣……、イシュル・ベルシュ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます