赤帝龍 2



 赤帝龍はイシュルの心へ話しかけてきた。

 その低い獰猛な声は心身のすべてを侵し、その内側を反響しながら後へと抜け消えていく。

 大精霊との会話に少し似ているが、より強く広がる、力の漲る感じがあった。

 ……この地で長い間待った甲斐があった。これでおまえを喰らい、風の魔法具を我がものと成すことができる。

 長い時を生きた龍は人と同じ、あるいはそれ以上の知恵を持つようになる、という伝承があったが、イシュルは龍のその知能、思考の在り方は人間とはだいぶ違ったものだろうと考えていた。

 だが意外なことに、赤帝龍はしっかりとイシュルとの意志疎通をはかってきた。赤帝龍は知能はもちろん、ひとの理解できる思惟を持っていた。つまり人の考えることを赤帝龍も理解できる、ということだ。

 それは赤帝龍が人の持つような欲望を持つこともあり得る、ということだ。

 こいつは俺の風の魔法具をねらっていた。

 そのために人里まで出て来てクシムに居座ったのだ。

 イシュルもフゴに向かう道程であの火球の夢を見るようになってから、その可能性を考えていた。

 赤帝龍がクシムに居座る理由はイシュルの持つ風の魔法具を彼から奪うため。風の魔法具を持つ者を己の許へおびき寄せるため。——そのことを考えることはイシュルにとっては辛い、できれば忌避したいことだった。

 イシュルは全身に力を溜め、あらためて気合いを入れていく。

 赤帝龍に悟られようとかまわず上空に空気を集め、じわじわと特大の高圧の空気塊をつくっていく。一部を風と成して自らの周囲に吹き下ろし、気温の上昇を抑え、周りに漂い続ける霞を少しずつ晴らしていった。

 さきほど放ってきた大火炎はかるい挨拶がわりだったのか、今の赤帝龍は獰猛さも魔力もひっそりと静め、こちらの心の中に殺気や怒気も伝わってこない。

 こいつは戦いをはじめる前に、とりあえず今は俺と話をしたがっているようだ。

 やつは俺を待っていた、と言った。

 これからやつの話すことはおそらく、俺の肺腑をえぐるような内容になるだろう。

 大精霊が戻ってくるまでの時間稼ぎどころではない、俺にとってもう戦いははじまっている。

「おまえは俺のために、俺の持つ風の魔法具のために、わざわざ巣から出てきて人里まで降りてきたというのか」

 ……おお、その通りよ。ふふ、おまえたちと話すなどとは滅多にないこと。人は小さく弱いが、頭が良い。こうして人と話すのもまた格別……。

 今まで何千人という人間がおまえに近づいてきたろうに。随分と勝手なことを言うではないか。

 みな問答無用で戦いをしかけてきたからか?

 神の魔法具を持つ者でないと会話する気はないということか。

「おまえのいるところは銀鉱だ。おまえがここに居座ると人間が困ると知っていてわざとやったんだな」

 ……そうだ。人間は光る物が好きであろう? ここに我が居座れば、風の魔法具を持つ者もおびき寄せやすいと思ったのだ。

 これで間違いない。

 イシュルは唾を飲み込んだ。背筋を熱いものが走り、足が震える。

 こいつが、こいつが。すべての元凶だったのだ。

 赤帝龍が人里に降りてきたために、クシムに居座ったために、ベルシュ村が全滅することになった。

 そしてこいつが人里に降りてきたのは俺が風の魔法具を持っていたからなのだ。

 すべての悲劇は、俺が風の魔法具を得た時からはじまったのだ。


 イシュルは天を仰いだ。

 灰色の空は彼の起こした魔法で、高空の雲も目に見える速度で動きを早め、彼の頭上に集まってきている。それはやがて大きな渦となっていくだろう。

 ……だめだ。

 今は堪えろ。絶望も悲嘆も、今は許されない。

 イシュルは顔を再び赤帝龍に向けた。

 やつが人里に現れたのは、確か俺がエリスタールで商人見習いをはじめた頃だ。シエラから赤帝龍出現の噂話を聞いたのがその頃だった。そして、王国の東部に魔獣の出没が増え出したのはそれより少し前のことになる。赤帝龍がおのれの巣から人里へ、西へ向かいはじめたのがおそらく同じ時期だろう。

 それは俺がベルシュ村を出ようと考え、風の魔法具で日々練習を重ね、より大きな魔法を使うようになった頃ではないか。

「おまえには遠くからでもわかるのか。風の魔法の発現を」

 赤帝龍はやや顎を下げ、グルグルグル、と思わずのけぞるような大音量で、獣そのもの呻き声をあげた。もしかして笑ったのか? いや、こいつにとってはちょっと喉を鳴らした、くらいにしか過ぎないのか。

 ……そうだとも。小僧、おまえにはわからんか? 我には巣で寝ていても、ちくちくと感じることができたわい。数えきれないほど陽と月が巡った昔にも一度、我は風の魔法を感じ、人里に降りてきたのだが……。

 なんだと?

「待て、……それは二百年前のことか?」

 ……人間の暦のことなどよく知らん。だがあの時は途中から風の魔法具の閃きを感じることができなくなってしまった。それで我は仕方なく巣に帰ることにしたのだ。

 二百年前の赤帝龍の出現。それはレーネが原因だった。彼女が村の森の奥で風の神の神殿を見つけて、風の魔法具を入手し魔法を使いはじめたのは確かにその頃だ。

 途中で赤帝龍が見失った、とはどういうことなのか。

 イシュルは視線を鋭くした。

 それは……。

 レーネが宮廷魔導師の弟子になるべくベルシュ村から王都に向かった、より西に移動して、赤帝龍から離れていったから、ということではないだろうか。つまり赤帝龍の感知範囲からレーネが外に出て行ったから、赤帝龍は途中から風の魔法具を見失った。

 レーネが王国北東部のベルシュ村に帰ってくるのは年老いてからだ。彼女は年老いてから、大きな風の魔法を使うことはなかったろう。少なくとも俺が生まれてからは魔女の森で竜巻が吹いたりとか、そんなことはなかった。しかも彼女は魔女の森に住みはじめてから、迷いの魔法具を使って闖入者を拒み、外部の者から自らの存在をあやふやなものにした。 

 赤帝龍はレーネが王都へ向かって以降、俺が風の魔法具を繁雑に、大規模に使いはじめるまで長い間、風の魔法を感知することができなくなった……。

 いや、何かがおかしい。

 赤帝龍の巣とベルシュ村、王都の距離関係はどうなのか。王都ラディスラウスとベルシュ村の直線距離は千五百里弱(スカール、約千km)、クシム周辺からだと二千里くらいか。ベルシュ村周辺から赤帝龍の巣までの距離がどれくらいあるのかわからないが、とても二千里では済まないだろう。それでは尺が合わない。赤帝龍の巣からベルシュ村の距離で風の魔法具の発動を感知できるのに、クシムや聖王国の東部あたりまで出てきて、レーネのいた王都での風の魔法具の発動は感知できない、というのおかしい。赤帝龍の感知範囲はどうなっているのか。

 そうだ。おかしいのだ。

 そもそもなぜ、赤帝龍はこのクシムに留まり、俺のいたベルシュ村やエリスタール、フロンテーラまで直接足を伸ばすことをしなかったのか。

 赤帝龍なら人の街など、人の軍隊などなんの問題もなくいくらでも踏みつぶしていけるではないか。

 何かあるのだ。

 やつがここら一帯から、西方へ行けない理由が。

 だからやつは銀鉱山のあるクシムに居座り、自らを囮にして、風の魔法具の所有者が討伐にやって来る可能性に賭け、ここ半年近くも待っていたのだ。

 イシュルは赤帝龍を鋭く睨み据えた。

「おまえ、何か隠しているな。なぜここから先、西に動こうとしない」

 俺がフゴにいる間だって襲おうと思えばそれもできたろうが、フゴには銀鉱山はない。村人が避難できれば後は自分自身も逃げてしまえばよい。

 だが、それがフロンテーラやアルヴァ、王都だったら? 風の魔法具を持つ者をおびき寄せるのなら、かならずしもクシムである必要はないのだ。 

 ……ふむ、人と話すのもあまりに久しぶりで、ちと浮かれてしまったわ。喋りすぎたらしい……。

 やはりそう簡単には理由を明かさないか。

 ここで話が終わってしまってはまずい。このまま話し続けて、もう少し時間稼ぎをしたいところだ。

 大精霊が戻ってくるのにはもう少し時間がかかるだろう。

 それにこいつにいろいろと聞きたいことがでてきてしまった。

「おまえは火神バルヘルの魔法具、火の魔法具を持っているんだろ? それに加えてなぜ風の魔法具まで欲しがる?」

 イシュルは笑みをつくって赤帝龍を挑発した。

「それだけ馬鹿でかい図体になって、まだ強くなりたいか? 強欲なやつめ」

 赤帝龍はやや首を下げた。その顎がわずかに開く。赤帝龍のその爬虫類の眸にはなんの表情も現れない。

 赤帝龍は怒りを見せなかった。それどころかイシュルを嘲笑った。

 ……ハハハハ、おまえは何も知らぬとみえる……。

 その眸が僅かに見開かれる。

 ……よい、どうせおまえは死ぬのだ。殺す前に情けをかけてやろう。

 赤帝龍が話しはじめた。

 イシュルは微かに息を吐いた。

 うまく乗ってきてくれた。赤帝龍がこちらの挑発に怒り出せば、戦闘がはじまりかねない危険性もあった。

 ……火神や風神の魔法具以外にも水、土、金の魔法具があるのは存じておるな?

 赤帝龍はそこで言葉を切った。赤帝龍の目が大きく見開かれる。

 ……小僧、それが全部揃えばどうなると思う?

 まるで人のような動きだ。細い瞳孔がさらに縦に伸ばされ張りつめる。 

「それは……」

 まさか。

 イシュルは今まで、出くわした神々らしき者たちの姿を思い浮かべた。

 ……五つの神々の魔法具を集めた者は太陽神に導かれて同じ神々の列に加わるとも、ありとあらゆることを可能にする万能の力を得るとも言われている……。

 赤帝龍の顎が開かれ、自らの鼻先をなめるような炎が吹き出す。赤帝龍が興奮している。

 なるほど、そういうことか。

 イシュルは目の前に降ろす風を強め、赤帝龍から流れてくる熱気を吹き飛ばした。

 ……確かに凄い話だ。今世でも前世でも幾度となく耳にしてきた、神話と英雄の物語。

 世界を成す五元素すべての神の魔法具を手にすれば、確かにそんな奇跡も起こるかもしれない。

 なんと胸躍る……そう、陳腐な話ではないか。

 イシュルの顔が歪んでいく。

 イシュルは顔を俯かせ、身を震わした。

 そんな、そんなことのために、俺は家族を失い、メリリャを失い、故郷の人びとを失ったのか。

 復讐し、ひとを殺し、罪を背負ってきたというのか。

 神がなんだ。万能の力がどうしたというのだ。

 イシュルは俯いたまま、涙を流し、笑いはじめた。

「ははははっ、くっくっくっ」

 上体を反らし、再び空を見上げ笑い続ける。

 白い、薄い灰色の空に彼の哄笑が響き、彼の魔法に吹き荒れる風の音に、かき消されていく。

 俺ははめ込まれたのだ。この世界の神々に。

 風の魔法具を得たからか?

 それとも前世の記憶と意識をもって生まれ変わった転生者だからか。

 こんな馬鹿馬鹿しいことのために。

 あの道化め。馬と鹿とはよく言ったものだ。まったくその通りではないか。

 ……何がそんなに可笑しい。貴様、神々を愚弄するか。

 今度は赤帝龍の目が細められる。まるで人のような動き。肌に感じられる熱気が少し増したような気がする。

 「くっくっくっ、いや、別に愚弄などしてないさ」

 だがイシュルは笑いを止められない。

 これが神の魔法具のからくりか。

 ……この話にはまだ続きがある……。

 赤帝龍はイシュルの哄笑に一瞬怒気を表わしたが、すぐに気を静め言葉を続けてきた。

 ……太陽神が五つの神々の魔法具を集めた者を新たな神にするとき、万能の力を授けるとき、その時に、ある“神”が現れるという……。 

イシュルは笑いをおさめた。

かわりに赤帝龍を見つめるイシュルの眸に猜疑と揶揄の色が浮かぶ。

「なんだ? それは」

 ……その“神”に名はない。その“神”は太陽神の請願を受け、太陽神に、五つの神々の魔法具を持つ者の願いをかなえる許しを与えるのだ。

 主神ヘレスのさらに上に、人に知られぬ神がいた、ということか。

 そんなことは別に俺にとってどうでもいいことだが……。

「主神、ヘレスは創造神だ。ヘレスが神々の中で一番えらいんじゃないのか?」

 ……その“神”が太陽神に世界をつくることを許したのだ。その“神”がはじめにまず世界の雛形をつくり、この世界の器をつくったのだと言われている。その雛形にそって太陽神が天地を創造したのだ。

 ほう? 単純な創造神話ではない、聖堂教では公にされていない話がでてきた。

 その“神”とは……。 

 イシュルは微かに歪んだ笑みを浮かべた。

「おまえはその話をどこで仕入れた?」

 ……ふむ。おまえと同じ、人間に聞いたのだ。遥かな昔にな……。

 赤帝龍の表情の薄い顔はその鼻先を、イシュルにじっと向け続けている。周囲を覆う靄がイシュルの吹き込む風に押されて少しずつ赤帝龍の背後を流れていく。

 赤帝龍の話が続く。

 ……我が風の魔法具の存在を感じとったあの時より遥かに昔のことだ。ある時、我が寝床にしている火山の麓の窪地で安穏と惰眠をむさぼっていると、なんと、人間がひとり訪ねてきた。

 その者はウルク王国の神官だと名乗り、我に贄を捧げた。そして、王宮の諍いに破れ仲間とともにこの地まで逃れてきたが、長い逃避行に疲れ、しばらくの間この地で休みたいと話し、我の近くに住む許しと、周囲に徘徊する魔獣を我が力で遠ざけて欲しいと乞い願ってきた。

 その者は、もし願いをかなえてくれるのなら太陽と月が百回巡るごとに贄を捧げる、と言ってきたが、我はその者たちが寄越してくる贄に興味がなかった。我は贄を捧げる必要はない、かわりに我が許に知恵のある者を寄越し、面白い話をきかせろ、と提案した。まわりの火龍どもに人のような知恵はない。我は知恵のある者、我にない知識を持つ者との会話に飢えていた。その者は我が望みを了承した。

 それから我は火龍どもに命じ、辺りの魔獣を追い払ってやった。その者たちは太陽と月が百回巡るごとに我が許に話をしに来た。神々の魔法具の話はその時にウルクの神官が教えてくれたものだ。

 その者たちとの会話はしばらくの間続いたが、いつの間にか誰も訪れて来なくなった。おそらく皆死に絶えたか、他の地へ移っていったのであろう……。

 イシュルは表情を変えず赤帝龍を睨んだ。

 古代ウルク王国か。とんでもない相手に、つまらぬことを吹き込んでくれたものだ。

 それが千年近く経って、この有様だ。

 こいつは俺を殺し、風の魔法具を手に入れた後、残りの魔法具も自分のものにしようとしているのだ。

 万能の力を得るために、新たな神になるために。

「おまえは他の神の魔法具が何処にあるか、誰が持っているか知っているのか?」

 ……ふふ、それを知ってどうする? おまえは我が話を嘲笑ったではないか。おまえが知る必要はなかろうが。

 今度は赤帝龍がイシュルを嘲笑するように言ってきた。

「そうもいかないだろう? おまえの存在自体が人にとっては災厄だからな。おまえの野望を野放しにはできん」

 神の魔法具を持つ者どうしの諍い、魔法具の奪い合い。 

 俺以外に人間の、世界中の人びとの中に神の魔法具の所有者がいないのなら、俺にこいつを斃す義務がある、と言えないこともない。

 俺には残りの魔法具を集める気なんてさらさらないが、赤帝龍を殺せば多くの人びとが救われることなる。

 それは、俺の持つ風の魔法具に巻き込まれる形で命を落とした多くの人びとに対する、確かな贖罪となるだろう。

 フゴの村で暮らす人びとの姿を見てしまった。

 討伐部隊本隊の全滅も確実だろう。周囲にひとの動く気配をまったく感じない。

 そして傭兵部隊も全滅。マーヤは今、どんな思いを抱いているだろうか。

 俺はあれから弱くなった。

 心の内に負った消えない傷が、自分の身の回りの弱き人びとの苦しみと死をどうにも看過できなくさせている。もうベルシュ村のような悲劇は二度と、自分の身の回りで起こって欲しくない。俺は堪えきれない。

 なら見知らぬ者の死はどうでもいいのだろうか。

 討伐隊の兵士たち、リフィアの死に痛痒はほとんど感じていない。

 理性ではそれが自分勝手な、独りよがりな考えであることはわかる。だがひとの心は理性だけで動いていない。

 なんとかこの場で決着をつけるべきだ。

 こいつを少しでも早く殺すべきだ。そうすればフゴの村人も、俺自身も救われる。

 イシュルは左右の手を強く握りしめた。 

 ……我からすれば人間こそが災厄よ。人は寄って集まれば思わぬ力を発揮する。この地より西方には多くの人間がいる。もしその多くの人間どもすべてが力を合わせれば、我を打ち負かすことさえ可能であろう。ましてや火龍どもなど。

 赤帝龍の目が見開かれる。

 ……我は五つの神々の魔法具すべてを手に入れ、神に請うのだ。人間をすべて討ち滅ぼして、この地上に我が眷属の楽園を築く。永久に続く火龍のみが繁栄する楽園をな。その力を手に入れるのだ。

 イシュルの顔がより真剣なものになる。

 そうか。

 そうなのか。

 それがこいつの望みなのだ。

 俺はこいつの野望を笑えない。俺がこいつと戦う理由も同じなのだ。

 もし、俺が五つの神の魔法具すべてを手に入れたら、万能の力を、神のような存在になったらどうするだろう。

 俺の望みは小さなものかもしれない。だが、それは俺にとってはかけがえのないものだ。

 家族の死を、メリリャの死を、村の者たちの死をなかったことにする。時間を巻き戻すか、彼らの、村全体の復活か。

 いや……、もし万能の、神の力を手に入れたなら、もとの世界に、あの事故の前に戻ることさえできるかもしれない……。

 イシュルの心を複雑な想いが揺さぶる。

 どれが、どれもが正しい、自分の一番望むことなのかもわからない。

 ただ、もし五つの神の魔法具を手に入れたなら、神々に問いただしたい、言いたいことがある。

 俺をどうしてこの茶番に巻き込んだのか。

 俺をこの苦悩と悲劇に放り込んだのはなぜなのか。

 神々は人の世で起きたことに関心など持っていないかもしれない。

 神々は人の世に何の力も及ぼそうとは考えていないかもしれない。

 神々は俺の運命、ひとりの人間の運命などにいちいち介入しないし、興味も持たないかもしれない。

 だが、月神は俺を嘲笑ったのだ。

 メリリャの姿まで見せて。

 イシュルは顎を引き赤帝龍を睨みつけた。

 ……ふふふ、感じるぞ。おまえの魔力を。我が頭上を覆う風の唸りを。さあ、今度は我におまえの話を聞かせろ。おまえはどうして風の魔法具を手に入れた? おまえの望みはなんだ?

 心に何かがたん、と当たる感じ。

「俺のことなんかおまえに話してもしょうがない。たいしたことじゃないさ。それこそおまえが知る必要のないものだ」

 西の空高く、異様な速度で急降下してくる。

 それはまだ言葉になってない。

「おまえに生きていてもらってはこちらも困るんだよ。これから死ぬやつに何を話すんだ? 俺はおまえに情けなんかかけるほどの存在じゃない」

 巨大な、凄まじい大きさだ。

 赤帝龍も気づいたのか、西の空の方へ微かに首をめぐらす。

「勝負だ、赤帝龍!」

 イシュルは赤帝龍に向かって叫ぶと横に飛んだ。

 ぱっと見ではわからなかったが、下方の黒く焼けただれた地表に窪みの影が見える。あれはおそらく討伐隊が掘った塹壕。

 イシュルはその窪みに身を沈めた。素早くからだを丸め、両手で頭を覆う。自身を覆っていた空気の壁を変形させ蓋をするように頭上にかぶせた。

 いきなり激しい爆音。山が揺れる。

 頭上を黒煙がもの凄いスピードで吹き流れていく。

 イシュルとの打ち合わせ通り、大精霊が高空から特大の風の刃を撃ち込んだのだ。

 そして何か異様に高く大きい物がせせり立つ気配。

 イシュルは顔を上げ、黒煙の向こうに目を凝らす。何か、とても高い、尖塔のようなものが立っている。

「!!」

 イシュルは本能的な恐怖を憶え、塹壕から身を吹き飛ばした。

 塹壕の黒い壁が流れはじめる一瞬、目の前を黒焦げになったひとの顔、眼球の溶け落ちた虚ろな眼窩と視線が合う。まるで死神と目が合ったようだった。討伐隊の兵士の死体が目の前にあったのだ。

 直後、赤帝龍が尻尾を叩きつけてきた。

 空にそそり立つ巨大な尖塔の影は赤帝龍の尻尾だった。

 爆発音と赤帝龍の咆哮が重なる。山が崩れ吹き飛ぶ。

 大精霊の巨大な風の刃を受けても健在なのか。

 イシュルは空を横っ飛びにからだを丸め、襲ってっくる爆風と飛び石から身を守る。

 早見の指輪が起動する。イシュルに高速で向かってくるもの、それが小石程度の大きさぐらいになると早見の指輪が反応しはじめる。イシュルはその度に早見の魔法を切った。魔力の消費はそれがたとえ小さなものでも、必要なければこまめに抑えていかねばならない。

 この強烈さ、まずいぞ。

 イシュルは宙に浮いたまま、赤帝龍とは反対側の山の南側にまわり込む。

 地上で戦うのは危険だ。

 魔力を、精神力を余分に消費するが空中戦でいくしかない。

 イシュルは山の斜面をすれすれに飛ぶ。

 山の影、黒煙の底から赤帝龍が空へ伸び上がるようにして姿を現していく。真っ赤な鱗がもの凄いスピードで頭上を流れていく。

 赤帝龍が立ち上がったのだ。

 赤帝龍は立ち上ると、からだを後ろへひねりながら火炎を空へ吐き出した。

 炎の巨大な柱が大精霊へ向かって突き出される。大精霊はイシュルが立っていた南東の山頂側へ回り込もうとしていた。

 イシュルは上空で固めていた紡錘形の空気球を一発、赤帝龍の翼の付け根あたりにぶち当てる。

 爆音とともに、辺りをうごめく黒煙の中にきらきらと赤い煌めきが舞う。

 粉砕された赤帝龍の鱗だ。

 赤帝龍の吐いた火炎が揺れて大精霊から逸れていく。

 赤帝龍の怒りの咆哮。

 あれでもだめか。火龍なら姿かたちがなくなるほどの威力なのに。

 イシュルは大精霊とは逆方向、尾根の斜面を赤帝龍の背後の方へ飛びながら舌打ちした。

 大精霊の風の刃も俺の空気球も、やつの皮膚に傷をつけるぐらいの打撃しか与えられない。

 イシュルは山の影から赤帝龍の背後に飛び出した。

 空高く設置した渦巻きを全力でかき回す。

 後先考えずに魔力を注ぎ込み上空から空気を集め続ける。

 ……高位の精霊か。ちょこまかと鬱陶しい!

 赤帝龍の罵倒が心に響いてくる。

「喰らえ!」

 赤帝龍の正面に占位した大精霊が数本の風の刃を叩きつける。

 おっと。

 このままではこちらも大精霊の放った風の刃に巻き込まれかねない。イシュルは赤帝龍の背後から横っ飛びしながら離れ、大精霊の攻撃に合わせるように赤帝龍の頭にほぼ直角に空気球を突き落とした。

 激しい爆音の連続、辺りをさらに黒煙が覆い赤い煌めきが舞う。その黒い煙の中、赤帝龍の全身を下から這い上るように魔力の光が走っていく。

「逃げろ!」

 イシュルは大精霊に向かって叫びながら、以前から考えていたことを実行する。

 赤帝龍の正面の空気を丸つかみし、上空に集めた風の渦に吸い込ませ、赤帝龍の周囲を風の壁で覆った。赤帝龍の前面の空気、酸素を思いっきり減らす作戦だ。

 それでも赤帝龍は巨大な火炎を吹き出した。

 大精霊は赤帝龍が火炎を吐く瞬間、イシュルとは逆方向、逆時計回りに身を横滑りさせていく。

 赤帝龍が首を巡らして大精霊を追う。だが赤帝龍の顎を飛び出した巨大な火炎は途中から急にその火勢を弱め、細くなっていく。

 大精霊は逃げ切った。

「お見事!」

 カルリルトスが声をかけてきたが、イシュルの顔つきは厳しいものだった。

 やはりか。

 赤帝龍の吐く火炎の源は魔力そのもの、精霊が使う魔法と同じなのだ。この世の空気、酸素を必要としないのだ。だからやつから周囲の酸素を奪っても火炎をなくすことはできない……。

 だが、その火勢を抑えることはできる。空気中の酸素がやつの吐く火炎を巨大化させているのもまた確かなのだ。

 赤帝龍が怒りの咆哮を上げる。 

 ……ふん。小癪な。

 辺りの空気を振るわす巨大な咆哮と同時に、赤帝龍の声が響いてくる。

 イシュルは大精霊の方へからだを向けた赤帝龍の正面へ向かった。

 もうかなり精神力を消耗している。早くも集中力や思考力の摩耗を感じる。肉体の疲労はそれほどでもない筈だが、全身が正体不明の痛みと虚脱感に覆われつつあるのを感じる。

 そろそろ決着を着けねばならない。

 イシュルは赤帝龍の正面、クシムの鉱区のある山並みと接続する東南の山頂に飛び降りた。

 カルリルトスはイシュルからやや離れた右斜め上空に浮いている。

 ……そろそろか。逃しはせんぞ。

 赤帝龍の上半身は所々鱗がはがれ落ち、薄く細い煙を上げていた。傷口からは、黒っぽい血がちょろちょろと燃えながらしたたり落ちている。大精霊とイシュルの攻撃により赤帝龍も無傷ではいられなかったのだ。

 だが、致命傷を与えた、というにはほど遠い。

 赤帝龍はひと呼吸、からだを動かすことも、火炎を吐くこともなく静かに佇むと、頭を天に向け、その顎からいきなり巨大な咆哮を上げた。

 その叫びは空高く広がり、イシュルの方に大きな衝撃は来ない。赤帝龍の全身から魔力が周囲にほとばしった。

 何か空間がずれるような感覚が一瞬、周囲の山々から巨大な火柱が無数に立ちのぼる。

 火柱は赤帝龍を中心に円を描くように立ち上り、つながって巨大な炎の壁になった。

 赤帝龍とイシュル、大精霊を、周囲の山々を巨大な炎の壁が円形に覆う。

 炎の壁の輪の直径はかるく二十里(一里=約六〜七百メートル)はあるだろう。炎の壁の高さも一里以上はある。

 こいつ……。

 これが人と龍種の、器の違いか。赤帝龍はイシュルの遣う風の魔法より遥かに巨大な魔法をつかってきた。

 周囲を覆う火壁の影響か、イシュルが上空で絶えず空気を集め、風を起こしていた魔法が揺らぎ、その力を失っていく。

「まずい……」

 大精霊が呻いた。

「これはただの炎の壁ではない。結界だ」

 ……火神バルへルの炎環結界……。

 最後は大精霊の言葉にならない呻きがイシュルの心の中に響いてきた。

 結界? 炎の壁が円環、立体的に力を及ぼしているということか?

「……これは神の御業だ。イシュル殿、これで最後だ」

 大精霊はそうイシュルに言葉を向けてくると、大矛を片手で捧げ持ち、頭上で大きく一度円弧を描くように振り回した。

「ふん!」

 空が割れたような気がした。何かが降りて来る。

 どん、と音にならない何かの衝撃とともに、周囲を覆っていた炎の壁がきれいに消失する。後には薄い煙がたなびき、それもすぐに消えた。同時になぜか、見渡すかぎりの空に、山裾に漂っていた靄が、赤帝龍の周囲に所々立ちこめていた黒煙も吹き消された。

 イシュルの魔法が復活する。彼の頭上で霧散しはじめていた、巨大な空気塊が再び形を成していく。

「我はもう人の世に留まることができぬ。イシュル殿、後はなんとか凌がれよ……」

 大精霊が上からイシュルを見おろしてくる。その姿が空に溶けるようにして薄れていく。

「健闘をい……」

 大精霊、カルリルトス・アルルツァリは姿を消した。


 赤帝龍の背後に霞んでいた北側の山並みがその姿を現した。いや、かつて山並みだったものが。

 それは大きくえぐり取られ崩れ去り、もう山の形を成していなかった。

 傭兵部隊を飲み込んだ巨大な土石流はあの山が崩れて起きたのだ。赤帝龍の仕業か。

 ……まさか我の魔法が破られるとはな。しかもやつめは封までしていったようだ……。

 赤帝龍が視線をイシュルに向けてくる。

 ……だがこれで小癪な邪魔者はいなくなった。貴様は我が火炎で充分にしとめられよう。

 赤帝龍がその顎を開く。

 これで決着をつけてやる。

 イシュルは全身を強ばらせた。上空の圧縮した空気塊にさらに力を加え、球状に圧縮していく。今までやったことのない、魔力をすべて使いきる勢いで。

 周囲にドーム上に展開していたフアン替わりの風の渦巻きまでも、その一点に集中させ埋め込んでいく。

 大空が甲高い悲鳴を上げた。辺りに寒気を誘うような異様な気配が満ちる。

 赤帝龍の大きく開かれた顎の奥、魔力の充満した喉の奥に赤い炎が形を成しはじめた瞬間。

 イシュルは上空の空気球を赤帝龍の顎の中に叩き込んだ。

 同時に自らのからだを吹っ飛ばし、山稜の南側、クシムの廃墟の方へ山肌をかすめるように急降下させていく。

 頭上で今までにない大爆発が起こった。山頂の影から大爆発した火炎が吹き出し、黒い土煙が吹き出す。周囲の大気が、地面がびりびりと振動している。

 やったか?

 イシュルの考えた策のもうひとつは誰でも考えつくような単純なことだった。赤帝龍が火炎を吐く瞬間、その顎に濃密な炎が発生する瞬間に合わせて、その規模に見合った巨大で高圧の空気塊をぶつけ、赤帝龍の制御不可能な急激な燃焼と爆発をその口腔内で起こすことだった。

 戦いに詭道はない、単純、合理的に考えて確実にできることをする、のが彼の思考の基本だった。

 イシュルはクシムの市街地近くまで一気に降下すると、地面に降り立った。足許は黒い灰と土の混ざった泥濘になっている。

 イシュルの眸はぎらつき、下瞼にはくまが浮いていた。

 山の斜面の岩が露出する、足場のしっかりしたところを選びながら跳躍を繰り返し、再び山頂まで登っていく。

 もう空を一気に飛び上がる気力は残されていない。

 この攻撃で大量の魔力を使ってしまった。もう限界にきている。

 これ以上魔法を使うことをしたくなかった。精神の疲労で魔法を使うことも、赤帝龍と戦うことも、生きることにさえ嫌気がさしていた。

 赤帝龍に動きはない。やつにもう、強大な魔力の存在を感じない。

 イシュルは山頂に立った。

 くそっ。

 正面に、赤帝龍の顎が大きく縦に開いて待ち構えていた。

 距離は百長歩(六〜七十メートル)もないかもしれない。

 炎の閃きがイシュルの正面に広がっていく。

 赤帝龍は大きなダメージを受けたかもしれない。だが赤帝龍は死んでも、火炎を吐くことさえできないほどの致命傷も負っていなかった。

 待ち構えていたのか。俺が来るのを。

 その炎にはもう以前のような大きさも勢いもない。だが俺を殺すのには充分だ。

 イシュルの立つ山頂、足許の石が崩れ、背後の傾斜へころがり落ちようとしている。

 イシュルに後方、空へ逃げる力は残されていない。

 大怪我覚悟で山裾へ落下していくことを選ぶか。

 イシュルは正面から近づいてくる赤い炎の壁を見ながら、素早く足許の小石を蹴り上げた。

 間近に迫る赤い炎に照らされ、小石の黒い影が空中に止まる。

 早見の魔法が起動したのだ。なけなしの魔力を使って、目の前の危機をどうやって脱するか、イシュルは考え、判断する時間を最後に得ることを選んだ。

 周りの空気の動きが止まり、音が消えゆく、止まったように見える時間。それでも赤帝龍がおそらく渾身の力を振り絞って吐いた赤い火炎は、相当な早さでイシュルに迫ってくる。

 目の前に広がる炎の壁、あれが自分に到達する前に、熱せられた空気が俺の目を肺を、全身を焼くだろう。

 早見の魔法とはなんと残酷な。

 止めればその瞬間死に至る。止めなければ、じわじわと死にゆく苦痛に身をゆだねればならない。

 おそらく最善手は背後の山裾に身を翻し、ころがり落ちることだろう。だがそれでもこの火の壁から逃れることは不可能な気がする。

 人が斜面を転がり落ちる速度などたいしたことはない。ほぼ確実に、周囲に広がりこぼれ落ちた火炎に巻き込まれてしまうだろう。

 火炎の壁の向こうに自分の知覚できない不可解な空間を感じる。

 おそらくあまりの高温に大気がプラズマ化しているのだろう。気体でないのなら自分に知覚はできない。

 やはりもっと早く逃げるべきだったか。

 所詮は人と龍。同じ神の魔法具を持っていても、大精霊の力を借りても勝つことは不可能だったのだ。

 だが、もう悔やんでもしょうがない。

 今、俺の命は消えようとしている。

 結局わからなかった。水月を斬る力を直に掴みとることはできなかった。

 風とはなんだ?

 俺はこの世界で、どう生きて行こうとしてきた?

 ……喪われた家族を想う。

 両親を、弟を、彼らの悲しみを。

 俺はただみんなといっしょにいたかっただけだ。

 商人になって、ハンターになって、旅に出て離れていも、どこにいても、ずっといっしょだと思っていたのに。村は平和だった。それが当たり前のことだと思っていた。

 広がっていく炎。

 ゆっくりと進む時の流れに、何となく自分の触覚の先に、恐ろしい熱が触れはじめているのが感じられる。それをはっきりと知覚した瞬間。それが俺が死ぬ時だ。

 すぐそこまで迫ってきた死を前に、俺は今どんな顔をしている?

 俺は今、小さな子どもと同じだ。

 死んでしまった家族を想って、半泣きで半笑いで、ただ恐れあきらめその瞬間を見つめている。

 愛しきひと。

 この苦しみもいっしょに燃えていくのだ。

 燃え尽きたなら、後は風になればいい。

 空遠くどこまでも吹いていけばいい。

 己の屍を越え、故郷を越え、世界の果てまでも越えて。

 ……!! ああ……、わかったぞ。


 風が吹いた。

 その場所で。


 おまえは何を望む……。

 誰かの声が遠くで聞こえる。

 俺は、俺は……!

 視界が消えた。

 もう死に片足を突っ込んでいるのか、自分はおそらく生の、自我の境界の縁に立っている。境界の向こうは光が反転し曲折する、細かく大きなものが絶えず流れ落ち、昇る空間。

 そこに大きな影がさした。

 その時、俺は何かを叫んだ。

 風が肌をなぜる。

 最後に、悲しく美しいしらべをのせて、風が鳴ったような気がした。

 火炎が到達する。


 魔法具が裂けた。

 からだが裏返る。

 手が届く、そこへ。

 俺はさっきまで脅え、泣いていた筈なのに今はなぜか、赤子のように笑って、はしゃいでいた。

 それを手にとり投げつけた。


 視界を覆っていた緋色の揺らめくベールが吹っ飛ぶ。

 風でない風が吹いた。すべてを崩し彼方へと運ぶ風が。

 気づくと正面に、赤帝龍が目や口や鼻、全身の鱗と鱗の間から黒い血を吹き出し、細くたなびく白煙を上げ、佇んでいた。身動きひとつせず、頭を下げている。

 ……グググクッ、ウウウウ……。 

 赤帝龍の弱々しい、苦悶の呻きが聞こえてくる。

 その頭や顎は所々無惨に裂け切れていた。

 やつの吐いた火炎はその遥か後方に吹き飛ばされていた。

 千切れた炎は龍の背後、遥か遠くの山のつらなりに、点々とどこまでも続いていた。

 イシュルは赤帝龍に向かって呟くように言った。

「あの炎はおまえの葬列だ」

 もうこいつに首を巡らす力は残っていまい。だがそれでもかまうものか。

 おまえに死を宣告するのはこの俺だ。

 俺は「力」を得た……。

 だが、イシュルはそこでがっくりと片膝を地面についた。


 恍惚は一瞬だった。

 もう何も力は残っていない。だが、あとひと突きでこいつに止めをさせる。

 もう考えることさえも鬱陶しい。全身を激しい痛みが襲う。神経が悲鳴を上げている。

 眼下には頭をゆっくりと下げていく赤帝龍が見えた。

 やつにもう意識は残っていないだろう。やつのからだから発散される熱も、魔力ももう感じられない。

 イシュルは最後の力を振り絞って地を蹴った。

 空へ高く飛び上がり、赤帝龍の頭に向かって突っ込む。

 もう外側に風を起こす必要はない。自分自身が風になればいいのだ。

 イシュルは父の形見、エルスの剣を抜いた。

 赤帝龍の頭頂部には大きな裂け目ができている。

 あの中に父の剣を突き刺し、自ら全身をやつの脳髄に叩き込んで暴れまくってやる。

 中身をぐちゃぐちゃにしてやる……。

 イシュルの意識が消えようとしている。

 父さん……。

 イシュルは赤帝龍の頭に剣を突き刺した。裂け目に剣が食い込んでいく。

 だがそこでいきなり剣が折れた。

 何か固いものが当たる感覚とともに、両腕から激痛がイシュルの全身を駆け巡った。

 ぐ、くっ。

 骨か?

 赤帝龍の頭の大きな裂け目、だがその下の頭蓋骨まで裂けてはいなかったらしい。

 イシュルは赤帝龍の頭から滑り落ちていった。

 落下しながら、何か固く大きなものに何度かぶつかる衝撃。

 イシュルの意識は途絶えた。




 どれほどの時が経ったのか。

 視界いっぱいに灰色の空間が広がっている。周りは黒い何かの欠片で覆われている。

 空か?

 俺は死んだのか。

 からだの感覚がない。からだを動かしたくない。動かせば何か恐ろしいことを知ってしまう気がする。

 やがて明るい灰色を背景に若い女の影が現れた。

 その女はイシュルに近づいてきた。

 視界の下の方から最初に顔を見せ、やがて全身を現した。

 女は肩にかかるほどの長さの髪と、薄いローブを風に、微かにはためかせている。

 風? 何も感じないな。

 女の顔は逆光に黒い影となっていて誰なのか、何なのか、よくわからない。

 だが彼女がこちらを見ているのは確かだ。

 女の影はイシュルに向かって話しかけてきた。

 

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