赤帝龍 1



 その日の午後、マーヤから説明を受けるとイシュルは再びギルド前の広場に向かった。

 赤帝龍討伐部隊の出陣するところを見ておきたかったからだ。背後の岩山の手前、山稜の上にあるギルド前の広場の南側から、彼らの出陣する様子を見渡すことができる。

 広場にはイシュルと同じ考えの、たくさんの野次馬たちが集まっていたが、イシュルが近づくと、皆遠慮して隙間を明け、一番前まで難なくたどり着くことができた。しかも、皆、イシュルから少しからだを離している。

 あの五匹の火龍が襲ってきてから二日、すべての火龍を一瞬で屠った大精霊の噂が村の者たちの間に広まりつつある。精霊は一般の人びとには見えなくても、魔法使いなら大抵は見ることができる。大精霊を召還した大魔法使いがイシュルたち一行にいる、という噂は彼ら、賞金稼ぎの魔法使いたちから広まっていった。イシュルのこの村での表向きの身分はマーヤ付きの従者だが、彼らにとっては王家の大魔導師さまの従者、ただの下僕ではすまされない。世慣れた賞金稼ぎたちの中にはイシュルがその問題の人物かもしれない、とうがった見方をする者もいた。

 リフィアに早々に目をつけられてしまうのも、これではしょうがないな。

 イシュルは、街道を、統制のよくとれた隊列を組んで粛々と進んでいく辺境伯軍を見ながら、小さなため息をひとつついた。

 あの時は大精霊を召還したが、自分で直接始末しても結果に変わりはなかった。それはそれで凄い魔法使いがいるぞ! という噂は村中に広がったろう。自分が動かなければ村は大火事で全滅するだけ。五匹の火龍が襲ってきた時点ですべてが詰んでいる。

 ただ、いい事もあった。さきほどのマーヤの話では、あれから王家の傭兵募集に応じる者が急に増えだした、ということだった。

 今回の赤帝龍討伐には大精霊を召還できる、伝説級の魔法使いが参加することがわかった。それは傭兵部隊への参加を迷っていた賞金稼ぎたちにとっても、参加に前向きになれる大きな理由となったろう。今目の前で展開している重厚な軍容の討伐隊の存在もその理由のひとつといえるだろうが、とりあえずは傭兵部隊にある程度の人員が揃う目算が立って、マーヤはほっと胸をなで下ろしたろう。王家の面子もあるだろうし、その威光が削がれるような結果になれば、彼女の宮廷における立場も悪くなるかもしれない。

 まぁ、マーヤのことはともかく、王家のご威光など俺にとってはどうでもいいことだが。

 そんなことを漠然と考えていたイシュルの表情が突然、引き締まったものになる。

 周りで見ていた者たちからも言葉にならないどよめきが上がった。

 辺境伯家騎士団、王家宮廷魔導師と護衛の騎馬隊に続いて、リフィアが単騎で街道に姿を現した。問題は直後に背後のテントの群れから姿を現した、荷馬車に乗っているものだ。

 その荷台には、まるで見せつけるようにして長さが十長歩(約六〜七メートル)近くもある大きな矛が裸で載せられていた。刃先が鋭く尖った幅広で、柄が極端に短く、刃が以上に長い。いや、柄の部分に握りがなく、金地が露出していた。矛というより剣か。大矛から柄を外した刃の部分のみ、といったらいいだろうか。大精霊、カルリルトスの持つ得物に形がよく似ていて、彼の矛よりも大きい。

 あんな物をいったいいつ造ったのか。あんな大きな物をつくる工房がアルヴァにあるのか。いずれにしても焼きを入れてあるのは先端部のみ、あとは単に削り、研いだだけだろう。当然切れ味など関係ない。

あんな物につけられる柄などない。あのまま直接手に持ち使用するのだろう。武神の魔法具を持つ剛の者が力まかせに刺し、突き入れ、ぶち当てる武器だ。

 その剣は鞘はもちろん、布も巻かれず、裸でその不気味な灰色の肢体をさらしている。

 討伐隊がフゴに到着した日、リフィア達が途中で分離して街中に入ってきて以降、後に続く部隊の行進は見ていない。だが、駐留する部隊の周囲にあんなわかりやすい、大きな物はなかった。

 今まで隠していたのだ。それをいきなり曝けだしてきた。

 イシュルはその大矛、いや大剣を目を凝らしてじっと見つめた。

 リフィアはあれを使って赤帝龍と戦うのだ。彼女の持つ魔法具、武神の矢ならあの凶暴な馬鹿でかい武具も充分に使いこなせるわけだ。

 あれは俺に見せつけているのだ。おまえなど必要ないと。自分が赤帝龍をしとめると。

 面白いじゃないか。

 イシュルの顔に獰猛な笑みが浮かんだ。


「なぁ、マーヤ、せっかくお茶が入ったんだ。ちょっと休もうぜ」

 イシュルはマーヤの部屋、村長宅では最も良い客間で、単純だがなかなか品のある彫刻のされた背の丸い椅子に腰を前にずらし、足を伸ばし、だらしなく座っている。

 彼の前には縁に同じ彫刻のなされた楕円のテーブルと椅子が一脚。テーブルの上には古めかしいティーセットがひと揃いある。

「お茶、さめちゃうよ」

 マーヤはイシュルに背を向け部屋の端にある机に向かって、王家か、大公家か、何処かへの書簡をしたためている。もうあれから二日経ち、重要な相手へはすでに出して終わっている筈なので、今は実家や同僚、宮廷の友人、知人あたりに宛てた手紙を書いているのかもしれない。

 リフィアの行った赤帝龍の偵察結果をなるべく多くの関係筋、知人に報せておけ、というイシュルの忠告に従ってか、マーヤは暇を見つけてはせっせと報告書、手紙の類いを書き綴っていた。

 イシュルといえば時々、わずかな魔力で自身のアシストや防護の練習をするくらいで、こうしてマーヤの部屋に顔を出しては机に向かう彼女に茶々を入れたりして、日がな一日、のんびりと過ごしていた。

 今も村長宅の使用人にお茶、ここフゴではかなり高価かもしれない——を入れてもらい、仕事に励むマーヤを誘惑している。あれから火龍の襲撃も、辺境伯の手の者と思われる暗殺者も現れていない。

「んー」

 マーヤが気のない返事をしてくる。イシュルの誘惑も案外に威力がない。

 先日のマーヤの説明によれば、傭兵部隊の出発は本隊の出発より三日後になる、ということだった。それは赤帝龍討伐隊本隊がフゴに到着した日に開かれた軍議によって、リフィアから要請された。

 彼女はクシムに向かう街道の途中に流れる川、ベーネルス川の支流のひとつで単にクシム川と呼ばれる——を渡河するに当たって以前からある橋を補強する必要がある、赤帝龍に見つからぬよう、赤帝龍の南側を大きく回り込み、クシムの市街地から北上接敵するため、傭兵部隊と攻撃時間を合わすためにも時間的猶予が欲しい、等の主張をし、マーヤはそれを認め、傭兵部隊出発日時は本隊出発日より三日後早朝とする、と定められたのだった。

 リフィアの要請理由は最もなものだが、三日後、つまり二日間の猶予のうち、少なく半日〜丸一日は塹壕を掘る時間に当てているのではないか。土系統の魔導師、ドレート・オーベンもいるし、赤帝龍の南側の山稜の、反対側斜面の土壌にもよるだろうが、山全体がひとつの大きな岩山、とかでない限りは半日程度でもそこそこの深さの塹壕は掘れるだろう。あそこら辺の山の高さは、周囲の山並みから判断した限りそれほどでもない。麓のクシムの市街地や鉱区からなら、二百〜三百長歩(約百三十〜二百メートル)くらいだろう。部隊の行軍に障害となる高さではない。

 彼女の部隊は三日前の夕方早くにフゴを出立した。本来なら今日の夕方からこちらも出発すべきなのだが、マーヤは明日昼前に出発すると決定した。傭兵はあれから百名近くも集まっているが、それでも別働隊と言えるほどの戦力ではない。マーヤは本隊の赤帝龍攻撃開始時に多少遅れてもいい、いやわざと遅れようとしている。傭兵部隊は形式的に参加するだけ、はっきり言ってしまえば戦況、戦果確認するマーヤの盾代わりと見るべきだろう。もちろん、例えば本隊、赤帝龍ともに疲弊し、代わりに赤帝龍に止めを刺させる絶好機に到着する、そんなことになれば積極的に攻撃をしかけ手柄を横取りする、本隊が全滅し、赤帝龍が健在なら俺が出る、そこらへんは臨機応変に対処するつもりだろう。

 マーヤが席を立ち、イシュルの前の椅子に座った。

「リフィアは勝てるかな」

 マーヤが少しぬるくなったお茶を飲む。

 マーヤには当然、リフィアが出発時に見せてきた大剣のことは話してある。王家の影働きの者たちからも仔細な報告がされているだろう。

「さあな」

 確かにリフィアがあの大剣を振るい、例えば赤帝龍の頭部を串刺しにでもすれば、やつを殺すこともできるかもしれない。

 だが、赤帝龍が火炎を吐く前にそんなことができるだろうか。

 やつが巨大な火炎を吐けば、周囲の空気は当然高温になる。塹壕に退避しても皆火傷を負い、肺をやられるだろう。大気中の酸素が大量に消費され不完全燃焼が所々で頻発し、一酸化炭素中毒による死者も大量に発生するかもしれない。

 赤帝龍と戦うにはやつの吐く火炎をどう防ぐか、どうかわすかが鍵なのだ。

「やつの吐く炎はもの凄いんだろ? たとえ塹壕を掘っても無理だろうな。やつが巨大な火炎を吐く前に、リフィアがあの大剣で致命傷を負わすことができるかどうか、そこで決まるだろう」

 マーヤの眸に力がない。反応が薄い。

 彼女もいろいろと考えているのだろう。

 そこでイシュルは窓の方に目をやった。何の偶然か、リフィアがフゴを去ってからこの二日間、また曇ったり雨が降ったり、天気が悪くなってしまった。以前の天候に戻ってしまった。

「月だ。月が見たいな」

 イシュルが突然、突拍子もないことを言い出した。

「へ?」

 今度はさすがにマーヤが反応する。

 彼女の眸が大きく見開かれた。


 フゴでの最後の夜、曇ったままの夜空を一瞥するとイシュルは窓の鎧戸を閉め、幾分豪華になったベッドに寝転がった。

 今は村長宅の使用人部屋で起居している。

 イシュルは仰向けになって、真っ暗な空間を見つめた。長い時間が経つにしたがい、少しずつ目が慣れ、古い木板で覆われた天井の様子が微かに見えるようになってきた。

 今は月齢も満月に近い。曇っていても、外にはぼんやりとした月の明かりがある。その光が鎧戸の隙間から漏れ出て、室内をほんの僅かに照らしている。

 水たまりに映ったリフィア。風の波紋にその姿がかき消された。

 あれからイシュルはずっと考えていた。

 精霊たちの使う魔法。あれは精霊界、いわば神々の領域から持ち込まれたものだ。魔法使いたちが呪文を唱えて発現する魔法もそれに近い。

 もう科学や物理などの常識を捨てて考えないといけない。だが、まだ前世で培った知識や考え方を活かすことができる筈だ。

 風の起こした波紋にかき消された、水面に映ったリフィアの像。

 それをどう考えるか。

 科学から離れ、意味や概念、想像と空想の海に思考をめぐらしていく。

 風が水鏡の中の彼女の姿を消し、空に浮かぶ雲を消したのなら、それはその世界を変えたということだ。

 風の風圧が水たまりの水面を動かしたために、光の反射の方向が変わった……などとは考えないことだ。

 風は空気の動きだ。今まで、自分は風の魔法を前世の、科学的な知識、常識に頼って使ってきた。それは中途半端な知識、多分に独りよがりな常識だったかも知れないが、今まで充分に役立ってきたと思う。自分だけが持つ武器だった。

 だが魔法はそれだけじゃない。風はリフィアを消し、雲を消した。

 水に映った月。

 水に映った月は斬れない。

 前世では武道や禅に関する故事として登場する、水と月の話だ。

 だがこの世界では斬れる。

 魔法を使えばいくらでも斬れるのだ。

 風とは何だ?

 どうすれば、何を考えれば、何を感じればそこに届く。

 五匹の火龍が襲って来た夜に見た、真っ暗な空間に浮かぶ大火球の夢。もうあれを最後に見ることはなくなった。

 やつは待っているのだ。俺がやってくるのを。




「マーヤ?」

「ううう」

「頑張れ、マーヤ」

 先を行く傭兵部隊の姿が霧にかすみはじめている。

 フゴを経って二日目の早朝。

 雨は降っていないが周りは朝霧に覆われ、視界は良くない。北東にはフゴの方まで伸びる山並み、反対側の南東には赤帝龍のいる山並みの影がうっすらと見える。おそらくその右真横、一番近くに見える山影の麓あたりに廃墟と化したクシムの街並がある筈だ。

 マーヤは出発する前日の夜に傭兵募集を打ち切り、ギルドに応募者の名簿を提出させて、百名ほどの応募者を半分ずつ、二つの小部隊に分けて、王家の影の者から二名を選出し、その部隊の指揮をとらせた。マーヤ自身はイシュルとともにその二部隊の最後部を行くことにした。

 フゴ出発後、討伐隊本隊が補強したクシム川に架かる橋を渡ってしばらくは同隊と同じ道を行き、途中から東方向、山奥の方へと伸びる猟師道に入った。

 マーヤは、リフィアがしつこく勧めていた討伐隊本隊の後方をそのまま追尾することはせず、手前で東に折れて、赤帝龍の真正面に出る進路を選んだのである。

 彼女は討伐隊本隊の戦況を確認しやすく、状況により横から支援攻撃もできる位置どりをとろうとしていた。

 そしてフゴを出発して二日後の早朝、猟師道に入ってからすぐ、マーヤが落伍しはじめた。

 前日にクシム川の補強された木橋を渡った時、川は茶灰色に濁っていた。水量もそれほど多くなかった。周囲の山は、もとからクシムの銀採掘による山林の伐採で禿げ山が多く、辺境伯家による第一次討伐時の大火災で、一部行われていた植林を含む残存する山林も綺麗に焼失した。

 イシュルたちの目にした川の汚れはクシムから出る鉱山の廃水ではなく、連日の悪天候により上流で山崩れ、土砂崩れが頻発していることをうかがわせた。

 赤帝龍の正面に出る猟師道に入ってしばらく行くとそのことが明らかになった。道は周囲の山々、上流方向から崩れ、流れ落ちてきた土砂に覆われ、泥濘となって歩行に困難を極めるようになった。

 辺りは焼け残った木の幹が泥の中からまばらに姿を見せるだけ、遠方は霧に覆われ緑の気配はまったくない。いや、動植物の、生き物の気配がまったくない、冥界の入口のような様相を呈していた。

「マーヤ、おんぶしてやるぞ。これ以上遅れるとまずい」

「大丈夫。頑張る」

「……」

 イシュルは顔を、一生懸命歩くマーヤから前方に向け、先を行く傭兵部隊を見た。

 前方を行く部隊が感知できる間はこのままで行くか。

 イシュルは小さくため息をついて、歩を緩め、しばらくマーヤと並んで歩いた。

 マーヤも本番前で気合いを入れているのかもしれない。フゴに向かう間道を歩いている時とは違い、彼女の強い意志を感じる。一応は。

 赤帝龍までまだ距離はある。イシュルの感知にはもちろん、赤帝龍の方からは何らの動きも感じられない。だが、もうリフィアがいつ攻撃をはじめてもおかしくない時間帯にさしかかっている。

 そろそろ攻撃がはじまるかな? と、イシュルがマーヤに話しかけようとした時、地面が微かに揺れた。

 すこし間を置いてさらに大きな振動。地面が揺れる。

 地震か?

 イシュルとマーヤが不安そうに顔を見合わせる。

 ふたりとも無言だ。

 そして激しい地鳴り。

 ふたりにドドーンと大きな音が響いてきた。

 尋常でない空気の振動、ざわめき。

「リフィアがはじめたのか」

 イシュルは小さく呟くと東南に見える、薄い山並みの影に目をやった。

 何だ?

 何かやな感じがする。大量の空気がこちらに押し出されてくる感触。地面の振動が続いている。

 これは……。イシュルはそれが自分の感知範囲に触れた時、とっさにマーヤを引き寄せ抱きしめ、風を起こして飛び上がった。

 早く!早く!

 目の前が巨大な真っ黒なもので覆われる。

 宙を飛ぶイシュルの足許を土砂の奔流が流れていった。

 イシュルは固まるマーヤを抱きしめ、どんどん高度を上げていく。

 前方を進んでいた傭兵部隊は音もなくあっという間に飲み込まれた。彼らの気配はもはや微塵も感じられない。

 土石流、山崩れだ。赤帝龍が暴れたのか。

 とんでもないことになった。

「杖を離すなよ」

 イシュルはマーヤに声をかけると土砂の流れてきた方とは反対側の、北東側の山並みに向かった。

 空中から視線を赤帝龍のいる方に向ける。

 視線の先は濃い灰色の煙で覆われている。

 イシュルは灰色の空を飛んで、北東側の山すじの頂に着地した。

 マーヤを降ろす。

 下の方に目をやると、所々霞のかかった大きな谷の底を土石流がクシム川に流れ込み、飲み込んでいくのが見えた。

 とてもじゃないがあそこへ下りて行くのは無理だ。徒歩で赤帝龍のいる山側には行けなくなった。

 マーヤは震えていた。

「よ、傭兵部隊は? ……わ、わたしが」

 マーヤが震えながらイシュルを見上げてくる。

「わたしの、わたしの……」

 まずい。

 イシュルはマーヤを抱きしめた。

「違う! おまえは関係ない。違うから」

 土石流に巻き込まれた傭兵部隊の進路、それを決めたのはマーヤなのだ。

 リフィアの助言を無視して……リフィアの助言?

 マーヤは呆然と目を見開きイシュルの腕の中で震え続けている。

「落ち着くんだ。山崩れは誰がおこしたんだ? おまえとは一切関係ないぞ」

 イシュルはマーヤを強く抱きしめた、真心を込めて。

 必死だった。

 マーヤの恐れは俺の罪と同じものではないのか。

 その時、イシュルの視界の端で何かが光った。

 空を魔力が駆け上がっていく。

 イシュルが振り向くと、赤帝龍のいる方、霧と煙の立ちこめる先で赤く光るものがぱっと音もなく広がっていくのが見えた。それは周囲一帯に広がっていく。煙の固まりの中に小さな雷光が幾つも走る。

 火炎だ。赤帝龍が炎を吐いたのだ。

 なんという大きさだ。赤とオレンジ色の煌めきが南東の山々を覆っていく。

「イシュル……」

 マーヤがイシュルの腕の中で見上げてくる。

 あまりのことに彼女の震えも止まっていた。

 あれは、あれでは討伐隊は……。

「イヴェダよ、願わくば我(わ)に汝(な)が風の大精霊を遣わしたまえ……」

 イシュルは呪文を唱え、大精霊を呼び出す。

 曇り空にカルリルトス・アルルツァリの勇姿が形を成していく。

 彼は視線を赤帝龍の方にやり、言った。

「いよいよだな。剣殿」

 イシュルは彼の言を無視して言った。

「まず先に、この娘をフゴまで連れて行ってくれないか? できるだろ?」

 大精霊がマーヤの方に目をやる。

「ほう。あの火龍を葬ったひとの街にか?」

 イシュルは頷くとマーヤを持ち上げ、大精霊に差し出した。

「よし」

 大精霊が近づきマーヤに手を差し伸べ、彼女を片手で抱き上げた。

 大精霊は、この世に完全な実体として存在しているわけではない筈だが、なぜかマーヤをちゃんと腕の中に抱え込む。

 マーヤが暴れてイシュルに手を差し出した。

「だめ、いっちゃだめだよ。イシュル。死んじゃうよ? いっしょに帰ろう。だめだよ」

 イシュルは大精霊に抱きかかえられたマーヤを見上げ、首を横に振った。

 これから先は死地だ。おまえは足手まといなんだよ。

 ペトラとの約束がある。それを破るわけにはいかない。おまえが死ぬのは俺だって嫌なんだよ。

 イシュルは顔を大精霊に向けた。

「マーヤをフゴまで運んだらすぐに戻ってきてくれ」

 イシュルは赤帝龍のいる方を指差す。

「俺はあそこにいる。隠れるか逃げまわっていなすか、なんとか時間稼ぎしてるから、あんたは空から突入しながら例の風の刃をやつに叩き込んでくれ。そこから戦闘開始だ。カル殿は牽制。俺が頃合いをはかって強力な風の魔法を撃ち込む」

 イシュルは言いながら、いつぞやのように空いっぱいに風の渦巻きを設置し、上空にいっきに風を集めはじめる。

「ほう……」

 大精霊は空に顔をめぐらし、かるく感嘆の声をあげた。

「わかった。すぐに戻ってこれよう」

「ああ。マーヤをたのむ」

 イシュルは身を翻すと空へ飛びあがった。

「イシュル!」

 後ろからマーヤの叫ぶ声が追いかけてきた。

 ここで逃げるわけにはいかない。

 あの巨大な火炎の渦の中に、おそらく討伐部隊は全滅したろう。リフィアの生死も定かではない。おそらく彼女は失敗したのだ。

 威力偵察? そんなもので終わらせるわけにいくものか。退くことなどできるものか。

 俺にもやつを斃さなきゃならない理由がある。

 喪われた両親、弟の魂の安住の地までなくすことはできない。生き残った村人のために、死んでしまったひとたちのために、今度は俺が力を尽くさねばならない。

 馬と鹿とか揃うのだ。神々は何を望むのだ。

 ここで退いては、それでは神々の貌を見ることはかなわない。


 イシュルは赤帝龍の方へと飛びながら自身の四肢に幾重にも高圧のアシストをつけ、さらに自身の周囲全体を高圧の空気の膜で覆った。

 そして上空から集めた風を赤帝龍の方へと吹き込んでいった。

 赤帝龍の火炎で熱せられたあたりの空気が冷えていき、赤帝龍の周囲を覆う煙や霧が吹き飛ばされていく。

 イシュルの飛び、落下していく先に赤黒い塊が姿を現す。

 赤帝龍はその長い首を持ち上げイシュルを見上げてきた。

 そして、ゴゴゴギャーン、という雷鳴のような壮大な咆哮を上げた。

 音の衝撃が空に広がっていく。

 周囲の空気がビリビリと振動するが、イシュルのからだまでは届かない。自身を防御していなければ鼓膜を破られるような音量だった。

 そして赤帝龍の全身を魔力が走る。

 やばい。

 イシュルは思いっきり自分自身のからだを風で吹っ飛ばした。

 からだが真横に吹っ飛んでいく、その背後を大火柱が駆け上がっていった。赤帝龍が炎を吹いたのだ。それは空高く、雲を引き裂きその先まで登っていった。

 イシュルは空中でからだを捻り込み、赤帝龍の南側の山嶺、南東の奥の方に着地する。

 辺りは山並み全体が黒く焼け焦げ、南側下方のクシムの市街地にも火が見えた。

 山の麓のクシムの市街地には討伐隊の多くの馬や荷、荷馬車が残されていたろう。それが燃えているのだ。

 おそらくイシュルの着地した辺りにも布陣していたであろう討伐隊は、黒く焼け焦げた地表に飲み込まれその姿を消してしまい、状況がわからない。皆全て焼け、溶け落ち形を失ってしまったとでもいうのか。

 地面から熱気が伝わってくる。辺りからは所々、細く白い煙が立ち上っている。

 ここからでは遠方にはまだ靄がかかっていて、一瞥しただけでは周囲の状況がはっきりわからない。

 くそっ、最悪の入り方だ。

 リフィアはいったい何をしていたのか。

 あの土砂崩れはいったい何だったのか。赤帝龍は何のダメージも負っていないようだ。

 目線を下にやれば、靄の中からやつの折り畳まれた巨大な翼の先端が、こちらへ浮き上がってきている。

 赤帝龍の背後に立ったイシュルに、赤帝龍がのっそりと首を向けてくる。

 山の上に立つイシュルよりも高い位置に伸び上がるやつの頭。

 真っ赤な鱗で覆われ、その顎からは白い煙が幾筋も立ち上り、巨大な牙が飛び出している。

 そしてこちらを見おろしてくる爬虫類の目。黄色の地の中に縦方向に黒い筋が浮き出ている。

 やつは俺の心の中へ話しかけてきた。

 ……待っていたぞ。人の子よ。風の魔法具が来るのを。

 


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