リフィア



 ハンターギルド前の広場にイシュルたちがいる。

 あれから、夜になって雨が本降りになったが朝には止み、今は雲の切れ間に時折、太陽が顔を出すほどにまで天候が回復している。僅かでも太陽の姿を見るのは何日ぶりになるだろうか。

 長い間、肌にまとわりつくようにして存在していた湿り気が急速に薄れていくのがわかる。ギルド前の広場には所々水たまりができていて、陽を浴びてきらきら輝いていた。

 空を見上げ、雲の間から顔を出す太陽を見ると、なんとはなしにリフィアの姿が思い浮かぶ。

 イシュルは太陽の光に目をすぼめた。

 ふん。あいつが“太陽”だからか?

 だからこの地に何日かぶりに太陽が顔を出したとでも?

 イシュルは顔を降ろし、広場の南側、山裾の向こうに、クシムへ向かう街道の道なりに点々と並ぶ辺境伯軍のテントの群れを眺めた。

 多角形の白やグレー、カーキ色の大きな軍用テントが、散在する家々や木々を避けるように幾十と設営され、その周りにはたくさんの木箱や樽が積み上げられ、動き回る兵士たちと、軍馬や荷車で覆われている。

「昨日のリフィア、凄い美人だったね。イシュルも見たでしょ?」

 マーヤがイシュルのすぐ横にきた。彼女の目は眼下のテントの群れ、その中心にあるひときわ大きな白いテントに向けられている。

 そのテントのてっぺんには辺境伯家の、白地に赤と黒の絵柄の大きな旗がはためいていた。あそこにリフィアがいる筈だ。

「後で昨日あいつと話した内容、聞かせてくれよ」

 イシュルはマーヤの問いを無視し、逆に自分の要求を伝えた。

 昨日のマーヤと、リフィアやボリス・ドグーラスら宮廷魔導師の会見では、赤帝龍討伐に関する単なる連絡事項により突っ込んだ内容が話し合われた筈である。つまり軍議が開かれたのだ。

「イシュルさん、駄目なんですからね」

 今度はイシュルの横、マーヤの反対側にニナが来て言った。

 いったい何が駄目なんだ。

 確かに彼女の美しさはエルリーナに負けないくらいだったが。

「そうそう」

 マーヤが相槌をうつ。

「……」

 イシュルは戦況の不利を悟って、さっきから気になっていたことを彼女らに質問してみる、つまり話を逸らすことにした。

 赤帝龍討伐隊のテントが並ぶある一点を指さし、彼女らに問いかける。

「あれ、あそこに積んである鉄の槍だか鉄杭みたいなもの、あれはなんだろう?」

 リフィアのテントからさほど離れていない、街道のすぐ脇に数両の荷車が並んでいて、その荷車にはおそらく合わせて百本近くはあるだろう、長槍ほどの太さと長さの鉄杭が積み上げられていた。その他にもたくさんの木材と、おそらく鋤や鍬を積んだ荷車が周囲に散在している。

「昨日の話ではリフィアは何も言ってなかった」

 と、マーヤ。

「なんでしょう。ほ、他にもたくさんの丸太や角材、農具まであるし。現地で、と、砦でもつくるんでしょうか」

 ニナも真面目な口調でになって言った。

 ニナはこの旅の終わり頃から、訥弁もだいぶ少なくなってきた。

 ほとんど赤目狼ばかりだったが魔法を実地に使う経験を積み、イシュルが教えた魔法の練習も人知れず続け、彼女も自分自身にだいぶ自信が持てるようになってきた、からかもしれない。

「ああ。それは聞いたよ」

 マーヤがニナの質問に答えた。

 リフィアとの会見が終わった後、ボリスからの使者がマーヤに接触してきて、丸太や角材の準備に関しての報告があったという。

「赤帝龍のいる南側の山の、頂の反対側斜面に壕を掘るんだって。その穴に木材を当てて補強するみたい。赤帝龍の火炎対策だね」

「ほう」

 それは塹壕じゃないか。赤帝龍の火炎に対しどれだけ有効か疑問だが、理にかなったやり方なのは間違いない。戦闘中、赤帝龍が火炎を吐けば兵は塹壕に退避し、あるいは最初から塹壕に潜み、槍を投げたり矢を射かけたりするわけだ。リフィアの発案なのか。ただ、やつに気づかれないようにそこまで接近し塹壕を掘ることができるだろうか。

「それは塹壕だろう。過去の攻城戦で使われたこともあったんじゃないか」

「……す、凄いですね。イシュルさん。塹壕、って言葉、はじめて聞きました」

「イシュルは案外に学者」

 なんだよそれは。

 マーヤがイシュルの質問に答えてくれた。

「確かに、篭城側に魔法使いが何人もいて、攻城側が城に接近するのに壕を掘った、ということは過去に幾度となくあった」

 まぁ、そうだろう。篭城する魔法使いはいわば飛び道具、大砲みたいなもんだ。攻城側にとって塹壕は有効だろう。

「まぁ、篭城側に土系統の魔法使いがいたら、それほど接近はできないだろうがな」

「うん。でも攻城側に地の魔法使いがいたらとても楽」

 辺境伯軍には地の魔導師、ドレート・オーベンがいる。

「そうだな。ただ赤帝龍に気づかれないように近づいて、そんな作業をする暇があるだろうか」

「うーん。多分、赤帝龍に攻撃とかしなければ大丈夫かもしれない」

「それは?」

「火龍も、ひとだけだったらあまり襲ってきたりしいない。火龍が襲うのは家畜とか食い出があるもの。赤帝龍から見れば、人間は蟻みたいなものだろうから、たくさんの人が近づいても攻撃してこないのなら、無視するかもしれない」

 なるほど。人間だって蟻の行列を見つけたからといって、それをわざわざ踏み散らしたりはしない。

 いささか都合の良過ぎる考え方にも思えるが、討伐隊が廃墟と貸したフゴの街中から、赤帝龍の南側にある山稜の南側の山麓から進出する、つまり赤帝龍を山並みで挟んだ反対側から進出し、その頂上付近の赤帝龍と反対側斜面に塹壕を掘るのなら、赤帝龍がその動きに気づいたとしても何も行動を起こさない可能性は充分にあるのではないか。

 人間だって、自分の家の庭で蟻が地面を掘って巣作りをはじめたとしても、何か特別まずい事がなければ無視して放っておくだろう。

「そうかもな」

 イシュルは頷くと、再び鉄杭を積んでいる荷車の方を指差して言った。

「で、あの鉄杭、というか鉄槍? に関しては何か説明があった?」

「うんうん、それに関しては何も。リフィアが秘密にしてるんだと思う」

 マーヤがいつもの可愛い感じで首を横に振った。

 リフィアはまさか、あの鉄杭を自身で赤帝龍に向かって投擲でもするつもりなんだろうか。彼女の魔法具、武神の矢を持ってすれば、その腕力ならば、それも可能かもしれない。赤帝龍の鱗を破ってあの鉄杭を突き刺すこともできるかもしれない。

 だが、赤帝龍の目とか喉とかを狙わなければ、あまり効果はないだろう。あの鉄杭が赤帝龍のからだに刺さっても、やつにとっては小さな針が刺さったようなものだ。やたら赤帝龍を刺激するだけで、致命傷を負わすことはできない。何かの牽制に使うのだろうか? だがそれならそれで、やつが人間のような痛覚を持っているかどうかはわからない。

 部隊に同行する魔導師ボリス・ドグーラスは金、金属系統の魔法使いだ。鉄杭を赤帝龍に差した後、彼の魔法でその鉄杭をさらに体内奥深くへ伸ばしていく、蛸の足のように四囲に広げて滅茶苦茶に運動させ赤帝龍の表層部を破壊していく、そのようなことを考えているのだろうか。だが、赤帝龍は火の魔法具を持つ、持たない以前に龍種の持つ、それもその肉体に見合った強大な魔法を全身に巡らしているだろう。火龍はただ火炎を吐くだけではない。おそらく飛行や防御面でも補助的な魔法を働かしている筈である。胴体に比した翼の面積からすればあんな簡単に空は飛べない。一般の動物である爬虫類と比べても、あの鱗の強度、肉体の強さは度はずれたものがある。ボリスの魔力を赤帝龍の体内まで及ぼせるか、はなはだ以て疑問であると言わざるを得ない。

「ニナ、塹壕のこととあのたくさんの鉄杭のこと、ちゃんと大公さまにお伝えしておくんだぞ」

 イシュルはニナに言った。

 大公はともかくニナ自身のために念を押しておく。

「はい」

 ニナは上目づかいにして神妙に頷いた。

「イシュルにもわからない?」

 マーヤが聞いてくる。

「ああ。例えばあの鉄杭を赤帝龍の目に刺して、ボリスの魔法でその奥の脳まで届かせれられれば、あるいは致命傷を負わすことができるかもしれない」

「おお」

 マーヤとニナの感嘆の声がハモる。

 彼女ら、この世界の魔法使いには伝統として魔法の使い方が固定化されているせいか、そういう複合的、応用的な使い方を発想する能力に欠ける部分がある。

「凄いです、イシュルさん」

 と、ニナ。

「ひょっとすると、リフィアたちで赤帝龍を斃すことができるかも」

 とはマーヤ。

 ふたりとも感動している感じだが、さきほど考えたことが問題になる。

「でも、赤帝龍の体内にまでボリスの魔法が通るか、たぶん無理だと思う」

「……」

 イシュルの言にマーヤもニナも無言で肩を落とした。

 彼女たちにも思い当たる節があるのだろう。なんとなくわかるのだ。

「イシュルなら?」

 マーヤが気を取り直して聞いてくる。

「俺でも無理だろうな」

 例えば赤帝龍の肺腑を潰す、とかはすでに考えたことだが、やつが火の魔法具を体内に宿しているのならそれも見込み薄だろう。それにもともと、やつのからだの大きさから考えれば、全身の臓器にもなんらかの魔力がかかっていると見るべきだろう。でなければ通常の生物の筋組織や骨格で、山のように大きい、とされるやつのからだの大きさを保てるわけがない。

 赤帝龍の全身にその巨体を保つ強力な魔力が巡らされている、と考えるべきなのだ。赤帝龍がもとは火龍で、火の魔法具によって巨大化したのなら、その魔力こそ火の魔法具からもたらされたものだと言えるのではないか。それではこちらの魔力がやつのからだの内部まで通るか微妙だ。

 一か八かの攻撃方法を選択することは控えるべきだ。

 イシュルが沈思しはじめ、マーヤとニナも黙り込む。

「ニナ殿、馬を連れてきましたぞ」

 寡黙になった三人に、広場の下の道の方からアイラの声が聞こえてきた。

 アイラの声が明るく弾んでいる。

 イシュルとマーヤはニナとアイラ、ふたりのフロンテーラへの帰還を見送りにここ、ハンターギルド前の広場に来ていた。ニナは馬を連れて来るアイラを待っていたのだった。


 ニナとアイラの一行には王家の影働きの者、三名の護衛がつく。みな騎乗している。彼らの馬にはニナとアイラの旅装も載せられているようだ。アイラがニナの騎乗する馬を村長宅から連れてきたのだった。

 彼らは帰りはアルヴァ街道を使う。イシュルがいなければ、無理にひとの少ない裏街道、間道を使う必要はない。 

 ニナは乗馬ができるのか……、何か負けた気分だ。

 イシュルは広場を降り、アイラの許に向かうニナの後ろ姿を見ながらそう思った。

 いよいよニナとアイラ、ふたりともお別れだ。

「アイラさん、今まで苦労をかけました。帰りも気をつけて」

 マーヤとニナが別れの挨拶を交わしている間、イシュルはアイラに声をかけた。

「いや、こちらこそ。イシュル殿」

 アイラはそこで声をひそめて言ってきた。

「赤帝龍を倒したら、是非フロンテーラに主を尋ねてきて欲しい。ペトラさまも喜びましょう」

 ペトラか……。

「え、ああ、いつか。と、とりあえず手紙はすぐにでも出します」

 イシュルの答えは少ししどろもどろになった。

「イシュルさん」

 マーヤとの別れの挨拶が終わったのか、ニナが横から声をかけてきた。

「おお、ニナ!」

 なぜかイシュルのテンションが急に上がる。

 イシュルは近づいてきたニナの両手をとり、自分の方へ引き寄せ強く握った。

「あっ、イシュルさん……」

 ニナの頬が真っ赤に染まる。

「エルリーナに、エルリーナによろしく伝えてくれ。またいつかかならず会いにいくと。できればふたりきりで逢いたいと」

 イシュルは情熱的な眸をニナに向けた。

「かならず逢いにいくから……だからまぁ、ニナにもまた会えるかな」

「……うう、酷いです。イシュルさん」

 ニナがちょっと涙目になる。

 そこで突然、後ろから何か硬いもので思いっきり殴られた。

 イシュルは強烈な痛みに、思わず座り込んで頭を両手で抱えた。

 マーヤが魔法の杖で全力で撲ってきた。

 ほんのちょっと、ちょっとだけふざけただけなのに。


 坂道を馬上のニナとアイラが去っていく。

 彼女らの姿が坂の下に消える直前、ふたりは振り向いてイシュルたちに向かって手を降ってきた。

 ニナには別れしに、彼女だけに聞こえるよう、声をひそめて話しかけた。

「あの魔法の訓練は続けてる?」

 ニナに教えた、生物から水分を外に抜き出す魔法のことだ。

「は、はい」

 彼女は笑った。

 きっと秘密の練習はうまくいっているのだ。

 それともイシュルが、ニナに教えた魔法を忘れずに声をかけてきてくれたのがうれしかったのか。

 彼女の微笑みは眩しいくらいに輝いて見えた。


 彼女たちの姿が視界から完全消え、イシュルたちが広場を去ろうとしたとき、入れ違いに思わぬ人物が坂道の下の方から姿を現した。

 彼女は長い銀髪を微かになびかせ、坂の傾斜の先から頭から顔、上半身、そして全身と、徐々にその光り輝くような姿を現した。

 リフィアは意外なことに徒歩で、供も連れず独りで来た。

 彼女がギルド前の広場に登ってくる。

 彼女の出で立ちは昨日とほとんど変わらず、白いマントに膝上まで丈のある銀色の鎖帷子、明るいグレーのタイツに光沢のある鉄板の縫い付けられたブーツ、ブーツとお揃いの篭手、腰に細身の剣。一千以上の軍勢を指揮する司令官の正規のものとは言えない。

 銀色に輝く鎖帷子は彼女のために特別にあつらえられたもののようだ。彼女の均整のとれた身体のラインを自然な感じで浮き立たせている。そこに卑猥なものは微塵も感じられない。

 リフィアは広場にマーヤがいるのを認めると、微かに笑みを浮かべ彼女に近づいてきた。

 マーヤの横にいたイシュルは素早く彼女の斜め後ろに回り込むと、女性の貴人に対する礼式である右膝の方を立てて跪いた。頭も顔が真下を向くまで下げる。

 昨日の馬上のリフィアの姿が目に浮かぶ。あまり彼女と直接顔を合わせたくない。

 自分だって同じような境遇だが、数日後にはほぼ確実に彼女は命を落とすことになる。昨日は仇の娘とはいえ、彼女のその美しい容姿とその待ち受ける悲劇に、思わず心を持っていかれそうになった。いや、持っていかれた。

 なによりリフィアのあの真摯な、真っすぐ前を見つめる眸を見てしまったのがまずかった。

 だが、それは今の俺にとって無用なことだ。

 彼女との接触は少しでも避けた方がいい。

「これはお使者殿、ちょうど良かった」

 頭上でリフィアの声がした。

 はじめて耳にするリフィアの声は外見どおりの、柔らかく透きとおった、少し甘さを感じるほどの声音だった。ただ口調には武人らしい堅さがあった。柔らかく甘い少女らしい声と、武人のような硬く突っ張った口調。その相反するものの同居が言葉にならない愉悦となってイシュルの脳髄を刺激してくる。

 イシュルは足許の水たまりを見つめた。そこには陽の反射に縁取られたマーヤとリフィアの姿が映っていた。

 水の鏡の中のリフィアがマーヤに話しかける。

「急で礼を失するかと思いましたが、エーレン殿にどうしてもお伝えしたいことがあってまかりこしました」

 リフィアがマーヤにかるく会釈する。

「ひとり?」

 マーヤは相変わらずだ。相手が誰だろうとその舌ったらずな物言いは変わらない。

「はい。ひとりの方が気楽でよい」

 鏡の中のリフィアが微笑む。

「用向きは?」

 マーヤめ。

 上位者としてそこはまず、相手の労をねぎらうのが先だろうに。

 いささか無礼とも思えるマーヤの言い方にリフィアは気を悪くした風もなく、微笑をたたえたまま言った。

「昨晩、物見をだしまして」

 何!? まさか赤帝龍に偵察を出したのか。

「赤帝龍の?」

「はい。昨日あれから早速、ルブレクト殿にお願いして」

 ブレンダ・ルブレクトだ。大公城で戦った時、俺が風の壁に閉じ込めた加速の魔法を使う女剣士を使ったのだ。

「なるほど」

 マーヤが頷く。

 確かに彼女の魔法は偵察にも役立つ。それほど長時間は使えないにしても、接近と離脱の要所に疾き風の魔法を使えば、相手が相手だけに非常に効果的だろう。赤帝龍は図体がでかくその強さははかりしれないだろうが、素早く動きまわるような相手ではない。しかも彼女なら魔法に関する見立てもできるだろうから、ただの騎士を出すよりも有効だ。将校斥候、というわけだ。

「ルブレクト殿は今朝方赤帝龍に接近して偵察、途中から馬を飛ばしてさきほど戻られた。で、エーレン殿」

 リフィアが笑みを深くしてマーヤを見る。

「赤帝龍は何をしていたと思われる?」

「ん?」

 一瞬惚けた表情になり首をかしげたマーヤに、リフィアが続ける。

「寝ていたそうです。首を胴に寄せ丸くなっていたそうです」

 リフィアは笑みを浮かべたままさらに続けた。

「やつの大きさもおおよそつかめました。地面から背びれの生えた背中までの高さがおおよそ六十長歩」

 リフィアは、ルブレクト殿が周りの踏みつぶされた家屋と見比べて推量した数字です、とつけ加えた。 

 赤帝龍が寝ていた、というのなら六十長歩(スカル、約四十メートル)という数字はやつの胴体の厚みがそれくらいはある、ということだ。それなら……。

 リフィアの笑みが微かな自嘲を含む皮肉なものになる。

「翼を広げれば一里近くにはなりましょう。やつは朝靄の立ちこめる中、火龍より濃い赤色の鱗で全身が鈍く輝いて見えたとか。ルブレクト殿によれば強い魔力は感じなかったそうですが、全身の鈍い輝き、というのは魔力と関係しているかもしれない。それに赤帝龍に近づくと肌を刺すような熱さを感じた、ということです。やつに触れただけで火傷してしまうか、燃えてしまうかもしれません。けだし赤帝龍という大仰な名も間違いではない」

 翼を広げれば一里(約六百〜七百メートル)弱なら、頭から尻尾の先までは一里半近くになるのではないか。立ち上がればどう少なく見積もっても二百長歩(約百三十メートル)以上の高さになるだろう。首を伸ばせば当然もっと高くなる。

「そう、ありがとう」

 マーヤがリフィアに礼を言った。

 リフィアがブレンダ・ルブレクトを使って偵察を行ったことは的確な判断だった。ブレンダの偵察で得た情報には、昔から赤帝龍について言われていた事の事実確認でしかない、では済ませられない、より具体的な事柄が含まれていた。

 当然、この情報、赤帝龍に関する知識も我々関係者が全員死んでしまえば、全滅したためまともな情報を残せなかった前回の討伐部隊と同じことになってしまう。後でマーヤに頼んで文章にして記録してもらうのがいいだろう。報告の宛先は大公でもペトラでも、俺の考慮することではない。

「それでルブレクト殿が赤帝龍のそばまで近づいた時ですが、やつは眠っていたせいか、まったく何の反応も示さなかったそうです。もの凄い鼾で、ルブレクト殿はやつの大きさや熱さよりも、そちらの方に肝をつぶしたとか」

 リフィアはそこで口許に手の甲をかるく当て、ふふ、と笑った。少しだけ、貴族の娘らしい仕草が表れた。

「昨日の軍議では出立は明日、とお話したが、今夕に早めることにしました。今日はこのまま雨も降らぬでしょう」

「そう、わかった」

「それで、一時のお別れのご挨拶も、と」

 そこでリフィアは突然、マーヤに向かって右足をかるく曲げ腰を屈めると頭を下げ、右手を胸に当てると口調をあらため、宣言するように言った。

「我が軍がかならず赤帝龍を討伐し、国王陛下の御心を安んじ奉らんことをここに誓って申し上げる」

 リフィアの銀色の髪が一筋、肩からこぼれ落ちた。

 彼女はマーヤを国王の代理人と見立て、型通りの出陣の言上をしてきた。

 昨日の両者の打ち合わせが軍議の体裁だったのなら、その場でも似たようなことが成された筈なのだ。

 だがリフィアはなんの意図があったか、こんな非公式な場で再び? だろうか、やってきた。

 水の鏡に映った頭を下げたリフィアの顔、その影になった眸が自分の方を見ていたように思えたのは、俺の気のせいだろうか。


 リフィアの言上で場はこれでひとくぎりついた、といった感じになった。

 彼女が広場を去ればこの一幕も終わりか、と思ったとき、リフィアが仕掛けてきた。

 さっきの彼女の視線、やはりあれはこちらの思い違いではなかったようだ。

 水たまりに映った彼女が今度ははっきりとこちらに顔を向けてくる。

「……それで、さきほどからそこに控える者は、エーレン殿の従者ですか」

 きたか……。

「ん? そう」

 マーヤの返事は相変わらず。表面上、何の動揺もうかがえない。

「昨日の軍議の折には姿を見かけなかったが」

 当たり前だろう。従者ごときが軍議の場に控えるなど、前線の、戦場での軍議ならともかく、通常はあり得ない話だ。

 こいつはもう知っているのだ。俺のことを。

 さっきの言上もわざとやってみせたのだ。国王を安んじるのはおまえではなくわたしだと。

 マーヤは答えない。無視して流すつもりだ。もちろん俺もそうだ。従者ごときが主人を差し置いて直接答える必要などない。

「エーレン殿の従者はまだお若そうだ。名前はなんと申されるのかな」

 まだ続けるのか。リフィアめ。ずいぶんと露骨に探りを入れてきてるじゃないか。

 いや、この口調。マーヤも含めたこちら側をからかっているのか?

「む」

 マーヤがつまる。彼女を困らすのも可哀想だ。

「ケイブ、と申します」

 少しだけ頭を上げ答える。リフィアの顔を見たりはしない。貴族の従者の細かい作法など知らないし、たとえ知っていたとしても作法を守る気などさらさらない。

 ケイブとは英語でcave、洞窟、などの意味だ。偽名を名乗らなければならない場面もあるだろうと、前から考えていたのだ。

「……それで、家名は何と申される。エーレン家の従者であれば家名もおありでしょう」

 リフィアはさらに踏み込んできた。

 頬が熱くなるのを感じる。こいつ、非礼だろうが。マーヤを差し置いてこちらに直接聞いてくるとは。

 今度はしっかり顔を上げてリフィアの目を見て答えた。

「ステンダ、と。ケイブ・ステンダと申します」

 家名の方もなんとなく考えておいた。ちょっと危なかった。

 洞窟に、逆さ読みでダンテス。俺の家名は逆さ読みだよ。姓名ともにただのしゃれだ、リフィア。

 別に孤島の洞窟で財宝を見つけた、というわけじゃない。それとも風の魔法具が財宝に相当するのか? 虎穴で得た、というところか。この世界であの物語を知る者などひとりもいないのはわかっている。ただ、遊びで辺境伯家の者に偽名を名乗るのなら、俺にとって悪くはない名だろう。

「ステンダ……、珍しい名」

 リフィアは目を僅かに見開き、俺の顔をじっと見つめながら小さな声で呟くように言った。案外に真顔だった。そこに揶揄する表情はなかった。武人らしい、男っぽい口調ではなく、年相応の少女の呟きだった。

 リフィアはそこで何を思ったか、はっと気を取り直すとマーヤの方に視線を向けた。

 俺はまた頭を下げ、目の前の水溜まりを見つめる。

「そういえばエーレン殿、王家の方で編成される別動隊の件だが」

 リフィアの顔にまた微かな笑みが現れる。

「昨日はどのような進路をとるか未定、とのお話であったが、ぜひ、フゴの街の南から赤帝龍の南側にある山稜を目指す、我が軍と同じ進路をとられるようお願いしたい」

 やはり討伐隊本隊はそのルートで行くのか。

「その理由は」

 マーヤにしては鋭い口調だ。

「それは昨日もお話した通り、今はお答えできない」

「……」

 マーヤは目線をリフィアからそらして無言。けっこう頭にきている感じだ。

 彼女の気持ちは、なら、こちらはこちらで勝手にやらせてもらう、そちらの指示は受けない、といったところか。

 しかし、リフィアはなぜ秘密にする。相手は龍だ。作戦の漏洩など気にする必要はないだろうに。

 リフィアはやや苦笑気味になって俺の方を見てくる。

「仕方がありません。エーレン殿の方にもいろいろと事情があるように」

 水たまりの鏡越しにリフィアが俺を見ている。笑みが大きくなった。

 リフィアはそちらにも秘密にしていることがあるじゃないか、俺の存在はどうなんだ? と言ってきているのだ。いや、俺がいるからすべては話せませんよ、と言っているのか。

 リフィアは、赤帝龍の首は渡さないぞと言っているのだ。

「当方にも、事情がございます」

 お許しを、と言ってリフィアがかるく頭を下げる。リフィアは頭を下げながら水たまりに映った俺を見てきた。水たまりの鏡越しに俺に目線を合わようとしてくる。

 まずい。気づかれたか。

 なぜか俺は彼女と視線を合わすことに脅えを感じた。

 そこへ背後から風が吹いてくる。

 水溜まりに映るリフィアの像が風に揺らぎ、乱れていく。風が水面に小さなさざ波を立てたのだった。

 もう彼女と鏡を通して視線が合うことはない。

 救われた……。

 ただ目線をはずせばいいだけなのに。今まで覗き見していた後ろめたさのせいか、思わず動揺してしまった。

 いや、後ろめたさだけじゃない。目が合った時、彼女がどんな表情をするか、自分の何かを見透かされるのが怖かったのだ。

 何か、とは何だったのだろう。

 しかし、いいタイミングで風が吹いてくれた。

 風が吹いて、像が乱れた。風がふいたから水の鏡に映る世界が変容し、壊れた。


「ふう……、わたしはきらい」

 坂をゆっくり下っていくリフィアの背中を見つめてマーヤが言った。

 少し風が出てきた。リフィアの白いマントと銀髪が横に揺れている。

「まぁ、そうだろうな」

 ふたりとも少し似ているところがある。頭がよく、真面目なところとか。だがその在り方がまるで違う。

 マーヤは控え目で表にださない。気まぐれなところもあるかもしれない。リフィアはまっすぐで隠すことをしない。

 猫と犬だな。

 イシュルは坂の下に消えていくリフィアの後ろ姿から目を離し、マーヤに顔を向けて言った。

「さっきのでだいたいわかったけど、昨日の話し合いの内容、聞かしてくれるか」

「うん」

 イシュルとマーヤはギルド前の広場から村長宅に戻っていく。今晩からイシュルも村長宅に起居することになる。

 イシュルは広場を去り際、さきほどの水たまりに目をやった。

 風がかるく吹いているせいか、光りの具合か、水たまりに形のあるものは何も映っていなかった。空の雲とその切れ間にちらちらと見える青空が、さざ波の中に溶けていた。

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