道化




 フゴは村と呼ぶには戸惑いを感じる、随分と大きな集落だった。

 わずかな木々の緑を背負った岩山を背に、手前に伸びた山麓にへばりつくようにして、多くの家々が蝟集している。そこには石造りの大きな建物もちらほらと見えた。

 イシュルたちの歩く街道はフゴの街区の手前で右側、東南方向に道が別れ、その道沿いにも民家が散在している。右に伸びる道はクシムに直接接続している筈だ。道沿いの民家の間にはところどころ、丸太が積み上げられているのが見える。

 クシムの銀の精錬には灰吹法が用いられている。クシムの銀鉱は規模が大きいだろうから、燃料として多くの木材を消費していたろう。赤帝龍が現れるまでは。

 右に伸びる道のその先、南東の空は雲と濛気に覆われ、微かな山並みがかろうじてうかがえるほどでしかない。おそらく、あのぼんやりとした山の稜線の向こう側に赤帝龍がいる筈だ。

 イシュルたちは街道をそのまま直進し、フゴの街中に入った。道は揺るやかな坂道となって途中細かく左右に曲がり、岩山の麓まで続いている。

 早朝から煙るように降っていた霧雨はイシュルらが街中に入った当たりでやみ、今は村全体を上から押さえつけるようにして、灰色の重たそうな雲が広がっている。

 隊商とは街中に入ってすぐに別れることになった。フゴは賞金稼ぎの村だ。飲み屋や娼家も多く、彼らはその店々にアルヴァから運び込んだ食料雑貨を卸しているということだった。

「ハンターギルドに直行するから」

 マーヤが独り言のように言う。

「ハンターギルドはどこにあるんだ」

「一番奥」

 あっそう。つまりこの道の行き止まり、岩山の真下あたりか。

「イシュルは今からわたしの従者」

 マーヤが顔を向けてくる。

「ああ、はいはい」

 俺たち別働隊、というより俺の存在は辺境伯やリフィアには秘密だものな。公式には。

 イシュルは後ろの荷馬にちらりと目をやった。

 荷の中に厳重に梱包された巻紙が幾つかあるのはわかっている。それはおそらく国王か、少なくとも大公の命令書や布告書、それとも密書の類いだろう。

 マーヤには別働隊だけでなく、王家もしくは大公家の使者としての役目もある。

 前回の討伐では辺境伯が仕切ったようだが、今回は王家側がハンターギルドでフゴに滞在する賞金稼ぎを集めて、傭兵部隊を編成することになっている。

 マーヤはそのギルド長に王命を伝達し、フゴの村長や、クシムから避難してきたクシム代官らにその件を布告する事になる、多分そういった感じだろう。

 マーヤはこの時点で正式に王家からの使者、ということになり、表に顔を出すことになる。裏の顔の別動隊の指揮官、俺に対する目付、俺と大公家との連絡係、はそのままに。

 別働隊と言ってもそれはこちら側の呼称でしかない。宮廷魔導師を含む総勢四名。それに荷馬が一頭、など、俺のことを知る者以外、誰も赤帝龍討伐隊本隊に対する“別働隊”などとは思わないだろう。

 以前にマーヤは、わたしたち別働隊は辺境伯やリフィアには秘密だ、と言ったが、はっきり言ってしまえば、俺の存在のみを秘密にできればいいのだ。

 フゴでの俺の表向きの身分はマーヤの従者、ということになった。


 いつの間にか後ろの荷馬の蹄が乾いた高い音を立てるようになった。

 イシュルたちの歩いているフゴ一番の目抜き通りは石畳の道に変わっている。

 辺境の村ではあり得ない事だが、クシムの銀鉱山の存在が大きいのだろう、フゴにも長年、辺境伯家をはじめ各所から相当な金が落とされてきたに違いない。

 道の両側にはどこで知ったか、外に出てきた夜の商売の女たちの姿がちらほら、店の前で掃除をしたり、積み上げられた木箱などを運び入れたりしている下女ら使用人たちが、仕事の手を休めてこちらをじろじろ見てくる。

 ハンターらは腐るほどに見飽きているのだろうが、マーヤのいかにもな魔法使いの格好が目をひいているのか、あるいは今の状況で外からやってくる新顔の賞金稼ぎがめずらしいのか。

 街には彼女ら以外にあまりひとのいる気配がしない。住民の往来もまったくない。

 イシュルは感知の輪を目一杯に広げ、周囲の気配に注意を向けた。周りの建物にも皆無とは言わないが、あまり多くのひとのいる気配はない。

 沿道に佇む女たちの無遠慮な視線の中、道を登り続けて行くと、やがて正面の岩山の頂に石造りの砦が見えてきた。背の低い塔がひとつ見えるが、一部が崩れ落ち、ところどころ黒く焼け焦げているようだ。

「あれは火事じゃないよな」

 イシュルは指さしてマーヤに尋ねた。

「火龍の仕業」

 やはりそうか。

 マーヤは以前からフゴの状況を誰かからか聞いていたのか、砦の方に無感動に目をやり、至極当然のごとく言ってきた。

「こんな大きな村、っていうか街にも襲ってくるのか……」

「近いからね」

 赤帝龍がか。

 いくら龍種でも、多くの人が住み、小さくとも石造りの城塞があるようなところには近づかない。彼らも馬鹿ではない。いくら餌が豊富だとしても、襲えば手痛い反撃を受けるような場所にはふつうは近づかない。

 それなのに火龍はあの砦を襲ったのだ。もうフゴは街中でさえ安全な場所がない状態に陥っている。

 岩山の麓まで続く道は、行き止まりで左に直角に曲がっていた。その角の突き当たりに石造りの階段があり、その上にハンターギルドがあった。ギルドは真新しい丸太で造られた、高床、一階建ての奥に長い建物だった。急場凌ぎで建てられて、まだそんなに時間が経っていないようだ。以前の建物は火龍の襲撃にあい、焼失したのかもしれない。

 ギルドの前には道より一段高くなったところに、まるで城塞の曲輪のような石畳の広場があり、そこに多くのハンターたちがたむろしていた。

 これから村の外に出て警戒にあたるのか、魔獣の襲撃に備え待機しているのか、かなりの人数が集まっている。

 イシュルたちが階段を登りその広場に姿を現すと、ハンターたちの集団はさぁっと左右に割れ、道をつくった。

 皆無言でイシュルたちを見つめてくる。その視線には露骨な敵意こそ感じないものの、一種独特な緊張感がある。

 この空気の感じ。どうやら彼らにも、赤帝龍の討伐が再び行われるその期日が迫ってきているのが、知られているらしい。彼らがギルドの前に集まっていたのも、その件が関係しているのかも知れない。

 後ろからニナが恐がっているのが伝わってくる。アイラもかるく緊張している。彼女は一応周りの者たちを警戒をしているのだろう。この時期にフゴに居続ける賞金稼ぎは他に行くところがないか、金に困っているのか、あまりよろしくない事情を抱えた者たちだと相場が決まっている。

 そして何より、彼らの向けてくる緊張感をはらんだ視線には、こちらが辺境伯家か、その上の大公家の使者かと察した上での、非難めいたものが込められているようにも感じられた。前回の赤帝龍討伐で、傭兵部隊は全滅しているのだ。

 前を行く先頭のマーヤはさすがというのもおかしいか、周りに何も誰もいないかのように振る舞い、いつものごとくゆったりとした歩調で先へ進んでいく。

 イシュルはおかえしとばかりに、無遠慮な強い視線を両脇の賞金稼ぎたちに向けた。

 両脇にはそれぞれ二十数名くらい、圧倒的に男が多く、ゴルンをさらにガラ悪くしたような屈強な大男と、引き締まった体つきの俊敏そうな中背、あるいは小男とに二分される感じだ。みな似たような革鎧を着けていて、得物は持っていたりいなかったり。その中にぽつんぽつんと弓や杖を抱えた女たちが混ざっている。杖を持っているか、焦げ茶のローブを着込んでいる者は魔法使いだろう。中にはフードを深くかぶり、性別や年齢もわからない不気味なやつもいる。

 両脇の集団の奥の方に何人か、こちらをじっと見るわけでもなく、あたりにちらちらと視線をやっている男たちがいる。一応集団にうまく溶け込んでいるように見えるが、彼らが王家から派遣されている影働きの者たちかもしれない。

「ひっ、ひゃああああ」

 マーヤが広場の奥、ギルドの建物の手前まで来た時、突然左手の集団の奥の方から叫声が上がった。

 誰かから蹴り飛ばされたのか、集団の中から奇妙な格好をした中年の小男が、転げるようにして手前に飛び出してきた。

 男は赤白の縞の丸首のシャツ、ピンク色のタイツを履いていた。全身、薄きたなく汚れている。

 男は道化だった。

 おそらくクシムの歓楽街にでもいたのだろう。この男もフゴに避難してきたのか。

「いゃあいゃあ」

 道化はよろよろとだらしなく立ち上がり、奇妙なイントネーションで大声をあげた。

 髪の毛はぼさぼさ、顔も汚れている。口からは涎をたらしていた。目はこちら側の誰も見ていなかった。その濁った眸にはおそらく男にしか見えない、何かが映っているのかもしれない。

 男は以前は太っていたのかもしれない。今は痩せてしまい、薄汚れた彼の衣装はぶかぶかだった。そのままでは落ちてしまうのか、タイツの腰回りには縄が巻かれてあった。

 男の首が横に曲がる。右手が上がりどこかを差し、左手は下がり掌をぱたぱたと動かしている。

 こいつ、……狂ってやがる。

 これがまさか、本来なら王侯貴族に気の効いた口上を行う道化師たちの、正規のポーズだとでもいうのか。

 イシュルは目をわずかに窄め道化を見た。後ろのニナとアイラは呆然として声も出ない感じだ。マーヤはいつものごとく、目の前の道化をただ無表情に見ている。

 この男に何があったのか。目の前の道化は狂人だった。狂った道化だ。

 道化は横に向けた首をひねり回した。

「やっと来た!」

 男の声は甲高く細く、しわがれていた。涎が下へ伸び地面の方までたれていく。

「これでそろった! 馬と鹿とが、馬と鹿とが。ひっ、ひゃははははは」

 道化はそこで腹をかかえて笑いだした。

 馬と鹿とだと? どこかで聞いたようなことを言いやがる。

「マーヤ、行こう」

 イシュルはマーヤの後ろから小さな声で言った。

 狂った道化など。たちが悪すぎる。何の冗談か。

 マーヤが歩き出し、笑い狂う道化の横を通り越していく。

 続いてイシュルがその横を通り過ぎようとした時、道化は突然笑いを止めた。

 道化の放心したような無表情。

 誰も動かず、誰もしゃべらない。

 辺りに突然、凍りつくような静寂が舞い降りた。道化が変わった。まるで別人のように。

 道化はイシュルに顔を寄せてくる。

 道化が囁いた。


 風に火

 欠けた月に、火に土に水

 次にくるのは誰だ

 それがもし太陽なら

 風よ、風よ、おまえはどこへ吹く


 何!?

 道化は顔の表情を凍りつかせたまま、まるで予言のような、何かの詩篇の一節のような台詞を吐いてきた。

 囁き終わると道化は白目をむき、口から泡を吹いて仰向けに倒れた。後頭部から下へ突っ込むようにして倒れ込んだ。

 あわを吹いたまま痙攣している。

 イシュルが呆然としていると、集団の奥の方からひとの群れをかきわけ、さきほどイシュルが王家の影の者ではないかと見立てた男たちのひとりが飛び出してきて、その男は無言で、何の表情も見せずに倒れた道化の襟首をつかみ、そのまま集団の中に引きずっていった。

 空気が戻った。時間が動きだす。

 まわりの賞金稼ぎたちが小声でぼそぼそと何か話しはじめる。

 イシュルには彼らが何を言っているのか、はっきり聞き取とることができなかった。そんなことはどうでもよかった。

 レーリアか。

 いかにも月神がやりそうなことじゃないか。

 くさい演出しやがって。

 だがイシュルは心の中で毒づきながらも、狂った道化の囁きを、あの男の言ったことを、しっかりと記憶に留めておくことにした。そうせずにはいられなかった。




 木の扉を開くと左手に長いカウンターが奥へ向かって伸び、右側には粗末な椅子やテーブルが疎らに散らばっていた。カウンターの手前に賞金稼ぎの男がひとり、奥に地味な感じの男がふたり、いた。

 マーヤがカウンターの手前の賞金稼ぎの男に声をかけ、しばらく小声で何かごとか話すとその男が奥の部屋に消え、かわりにギルド長が出てきた。

 ギルド長は壮年の男で長身。小柄なマーヤは仰ぎ見るようにしてギルド長に声をかけた。

「わたしはラディス王家西宮の宮廷魔導師、マーヤ・エーレン」

 王家の宮廷魔導師は王宮の西宮か北宮に詰める。あくまで慣例である。西宮に詰める魔導師は外事、北宮は内事を担当すると言われるが、厳密な区分けがされているわけではない。

「此度はラディス王国国王の使者として参った」

 マーヤはそこでひと息おき、下からギルド長を見上げた。相変わらずの澄まし顔だ。

「クシム代官と村長を今すぐこの場に呼びなさい」


 夕方の薄暗くなったハンターギルドの室内に、窓からの明かりが逆光となって、数人の男たちの頭を垂れ神妙に立つ姿が浮き上がって見える。

 マーヤが彼女の魔法の杖をイシュルに渡してきた。

 イシュルはマーヤの右斜め後ろに跪き、それを恭しく受け取る。

 イシュルはマーヤの従者の役をつとめている。

 マーヤの左斜め後ろには同じくアイラが控え、大きな巻紙を抱えている。彼女は続いてマーヤに恭しくその巻紙を手渡した。

 マーヤは巻紙を広げると彼女の目の前で右手を胸に当て俯く三人の男たち、ギルド長、辺境伯家クシム代官、フゴ村長に向かって国王の布告を読み上げた。

「……ラディス王国国王たる予、マリユスⅢ世は宮廷西宮の魔導師マーヤ・エーレンを予の代理人としてフゴに遣わし、当地の……」

 国王の布告書には、王家や時候にかかわる修辞に満ちた定形文の後、マーヤを国王の代理人とし、フゴの現地ギルドにて傭兵を募集し、マーヤを指揮官とする赤帝龍討伐傭兵部隊の編成にギルド長が尽力すべきこと、フゴの取り次ぎ(フゴ村長のこと)、辺境伯家代官は国王代理人に対し格別の便宜をはかるべしと書かれてあった。文末の著名は国王と大公ヘンリク・ラディスの連名となっている、過剰ともとれる強烈なものだった。

 大公の著名は、大公家が王国中北東部の旗頭の辺境伯の、そのさらに上の旗頭であるという位置付けだからだろうが、あるいはマーヤと、ひょっとするとイシュルの両名を慮った故であるからかもしれない。影にペトラの強い働きかけがあったのかもしれなかった。

 続いてマーヤは別の巻紙を広げ、赤帝龍討伐の王命を読み上げはじめた。相手が討伐に直接参加しないからなのか、何故か最も重要なものが後回しにされている。

 まさか大公の著名まであるとはな。

 あの抜け目のない感じのお父さん、娘にはやたら甘さそうだったものな。

 イシュルは跪いたまま、マーヤの読み上げる王命を聞き流して、あの父子の姿を脳裡に浮かべていた。

 狂人の道化のことはとりあえず頭の隅に追いやることにした。

 神々と狂人、彼らの考えていることのいったい何がわかるというのか。

 翌日、国王の布告書の写しがギルド前の広場に掲げられ、午前と午後の二度、ギルドの事務員によって読み上げられた。

 

「すまないねえ。魔導師さまの従者さまだというのに、こんな粗末なものしか出せなくて」

 ガタつく木のテーブルの上には、何かの野菜クズが申しわけ程度にしか入っていないスープと、固いパンしかない。

 向かいには老夫婦、横に三歳くらいの双子、と思われる男女の子ども。

「いえいえ。いいんですよ」

 イシュルは愛想笑いを浮かべると、目の前のスープに手をつけず、子どもたちの方へ押しやった。

「ふたりで仲良くわけて食べな」

 イシュルは双子に微笑みかけて言った。

 昨日あてがわれた部屋に置いてある旅装の中には、まだ干し肉が幾分か残っている。自分は後であれをかじればいい。

「ありがとう」

 女の子は微笑んで、舌足らずな感じで礼を言ってきた。

 男の子はなぜかからだを硬直させ、泣きそうな顔になっている。人見知りなのか、イシュルのことが恐いのかもしれない。

「おお、すいませんな。従者さま」

「おありがとうございます、従者さま」

 イシュルは礼を言ってきた老夫婦に無言で微笑んでみせた。

 目の前の老夫婦は村長に仕える使用人だった。

 昨日はあれから、マーヤたちは村長本宅に移り、マーヤの従者であるイシュルは本宅にもう空いている部屋がないので、その使用人の住む本宅の裏手にある粗末な家に部屋を与えられることになった。

 村長宅はお屋敷と呼べるほどの大きな家だったが、クシム代官と事務方、その使用人がすでに多くの部屋を占拠し、イシュルに手配する空き部屋がなかったのである。マーヤは当然のごとくクシム代官に命令して部屋をひとつ空けようとしたが、イシュルが事前にそれを止めた。

 宮廷魔導師で、しかも王命により国王の代理人となったマーヤの従僕であれば、ひょっとすると王家にたいして陪臣であるクシム代官より位が上かもしれなかったが、イシュルにとってはどうでもいいことだったので、部屋の手配を断ることにしたのだった。

「イシュルは大人だね」

 マーヤは不服だったのか少し不満そうに言ってきたが、別に辺境伯家側と波風を立てぬよう気を配ったわけでもない。

 要は王家の面子も辺境伯家の面子も、イシュルにとってはどうでもいいことなのだった。

 その後、その夜にイシュルは従者として村長本宅のマーヤの部屋に呼ばれた。

「リフィアの本隊は明後日にはここに到着する見込み」

 部屋の中ではいったいどちらが主従なのか、マーヤがイシュルに報告する形になった。

「それからここフゴに輜重隊と連絡役を置いて、数日中にクシムに向かう筈」

「なるほど。それまでに傭兵はどれくらい集まるかな」

「やっぱりあまり集まらないと思う。よくて数十人、王家の密偵をいれても……」

 マーヤは王家の密偵を合わせても五十人くらい、と言った。

 ふむ。

「それでは横槍どころか牽制も無理だな。偵察や討伐の結果確認に使った方がいい」

「うん」

 マーヤはひとつ頷いた。

「ニナやアイラさんはいつ帰るんだ」

 彼女たちも今晩はこの村長宅に泊まっている。

「リフィアの本隊がフゴについたら。討伐部隊の様子を見てからフロンテーラに帰る」

 そろそろ大公や王家に、討伐隊本隊のアルヴァ出陣時の部隊編成や士気などの報告が届こうか、という感じだろうが、多少時間のずれがあろうと報告する者が複数いた方が、当然状況判断を正確に行うことができる。

「わかった」

 イシュルが頷くと、マーヤは笑みを浮かべてイシュルのすぐ側まで寄ってきた。

「イシュルの寝泊まりしている部屋は粗末でしょう? ごめんね」

 マーヤはイシュルを見上げてきた。

「リフィアがクシムに向かうまではのんびりしていて。護衛をつけて見張らせるから」

 辺境伯が差し向けてくるかもしれない暗殺者を警戒させるわけか。

 確かに旅の疲れがまったくないわけではない。短い間だが適当に休ませてもらうか。

 そう考えたイシュルだったが、そううまくは事が運ばなかった。せっかくのマーヤの心遣いも、無駄になってしまった。


「……息子夫婦はあれからアルヴァに出稼ぎにでていてね」

「わたしらが孫たちの面倒をみてるのさ」

 固いパンをもぐもぐとやっているイシュルに老夫婦が彼らの事情を話してくる。

「今はこんなことになってしまって、わしらにはろくな食べ物もまわってこない」

 老人が肩を落とし嘆息する。

 辺境伯の前回の討伐失敗でクシムは街も鉱山も火事にあい全滅状態、クシムへ供給していた木材も需要がなくなり、食い扶持を失ったフゴの若者たちは集団でアルヴァに出稼ぎに出ていったのだという。周辺は火龍をはじめとする魔獣の出没も増え、物資の輸送が滞るようになった。

「もう知ってると思うけど、もうすぐ辺境伯さまのご息女を総大将とする討伐隊が来るから。今度の討伐隊には王家の宮廷魔導師も参加してるんだ。次はきっとうまくいくよ」

 これくらいのことはもう村の者も知っているだろう。いささか無責任な物言いだが、イシュルにはそうやって肩を落としている老人たちを慰めるほかなかった。

 それから薪を割るという老人の仕事を代わりに買ってでて、村長宅の裏手の使用人の家のさらに裏手で、イシュルは斧を振り上げ薪割りにいそしんだ。

 今日も雨は降らずとも白い雲が空全体を覆い、薄ら寒く感じる日だ。

 イシュルは薪を割りながら、眼下に広がる光景にちらちらと目をやる。

 山麓覆う家々の北側、下の草地に掘建て小屋が幾つも並び、その周囲をボロを纏った者たちが数名、丸太を立てて周囲を覆う柵をつくっていた。

 柵は完成間近で、もう少しで四囲を完全に覆うことになる。彼らが小さな櫓に登って大きな小槌で丸太を打ち込む、タン、タン、という音が、イシュルの薪を割る音と偶然、何度か重なった。

 おそらく彼らはクシムから逃れてきた鉱山奴隷、囚人たちだろう。自分たちを閉じ込めるための柵造りをやらされているのだ。

 何と皮肉なことか。

 イシュルは斧を振りかぶった。

 いや、違うか。あれは彼らを魔獣から守る柵でもある。

 薪がきれいに真っ二つに割れた。

 

 これくらいでいいか。

 イシュルは割った薪を集めようと腰を屈める。

 使用人の家の横には薪を干し積み上げてある小屋がある。

 さきほどからその小屋の裏にひとの気配があった。

 マーヤが護衛をつける、と言った晩から、イシュルの周囲でひとりかふたり、時々ひとの気配を感じるようになった。

 小屋裏のひとの気配もそうかもしれない。

 イシュルは薪を左手にいくつか抱え、斧を右手に使用人の家の方に歩き始めた。

 ん?

 少し違和感がある。

 小屋の裏手にいる者は、イシュルが横切るすぐ側にいるようだ。その者のまわりの空気に微かな緊張感が漂う。イシュルの護衛についている者たちと少し感じが違う。

 これは……殺気か。マーヤの手配した者ではないかもしれない。

 イシュルは抱えていた薪をそっと地面に降ろすと斧を力を込めて握り、ベルシュ家の指輪に手を当てた。歩幅をかえずに、怪しまれないようにその者の側まで再び歩きはじめる。

 ……面倒な。

 魔法を使って殺すのは簡単だが、現時点ではマーヤが手配した影の者か、そうでないのか断定できない。

 イシュルが薪小屋を通り過ぎた瞬間、それがどちらかはっきりした。

 小屋の影で男がすでに、剣を上段に振りかぶっていた。イシュルに向かってまっさかさまに振り下ろしてきた。

 時間が止まる。

 踏み込みが甘い。ベルシュ家の指輪の効果だろう、男の剣先はイシュルにとどかない軌道を描いている。

 イシュルは内心ほくそ笑むと男の肺を「つかみ」にかかった。時間をあまりかけられない。肺を潰してやる。

 早見の魔法のおかげで、動きの早い対象にも魔法の照準を合わすのが楽になった。

 !!

 そこで突然、頭上にもうひとつ、使用人宅の屋根の上から飛び降りてくるものの気配が現れる。それは何もないところからいきなり現れ出てきた。

 何!?

 二人目がいたのか! 目の前の男は囮? だがどうして気配がつかめなかった?

 まさか上のやつは魔法具を……。

 二人目はイシュルの視界からは見えない。

 イシュルは二人目の肺もつかみにかかった。下から風をお起こし、二人目の全身に当てるようにする。

 頭上の者の落下してくる、その剣のゆっくりと振り下げられていく動き。

 大丈夫だ。

 このままなら剣先は俺に当たらない。

 早見の魔法を切る。

 イシュルは斧を降ろし持ったまま棒立ちになった。

 前と上、ふたつの剣はイシュルをかすめ空を切った。

「ぶっ」

 ふたりの暗殺者が口から血を吹き出す。イシュルの起こした風がひゅっ、と音を立てて血煙を空に吹き上げた。

 イシュルの前後を、なすすべもなく倒れ落ちていくふたりの男たち。

 吹き上げられた血の一部がイシュルの頭上に落ちてきた。

 血の味がする。

 くそっ。

 イシュルは地面に倒れたふたりの男に目をやり、怒りに身を震わせた。

 

「片方はきっとクシムにいた聖堂教会の間者だね」

 マーヤがふたりの男の死体を見おろして言った。

 口調に冷たいものが混じっている。

「金が欲しかったか、辺境伯家の者にばれて、人質でも取られて無理強いされたとかでしょう」

 と、マーヤの横に立つアイラ。

 ニナは顔を青くして使用人の家の戸の前に立っている。板戸はしっかり閉められていた。老夫婦とまだ小さな子どもたち、彼らにこれを見せるわけにはいかない。

 イシュルの感知にひっかからなかった男は、エリスタールの傭兵ギルド長で情報屋を兼業でやっていた二重人格の男、ツアフと同様に左腕に魔法陣のような刺青を入れていた。

 イシュルはあの後、怒りを堪え手早く二人目の男の身をあらため、その刺青を見つけた。それから屋内にいた老夫婦にこちら側にけっして出て来ないよう声をかけ、同時に村長本宅へマーヤを呼びに行ってもらった。

 その後はちょっとした騒動になり、アイラとニナも駆けつけ、マーヤ側の手の者でクシム代官側の者を近づけないよう遮断、その手の者のひとりからマーヤに、イシュルの護衛についていた男が殺されていたという報告がなされた。

 その男もおそらく片方が囮になり、姿や気配を消せる方が奇襲をかけるという、イシュルの時と同じ手口で殺されたのだろう。

 イシュルは今回の暗殺者に聖堂教会の者がからんでいたのかと思い、背筋の凍るような心持ちになったが、その刺青を見たマーヤとアイラはたいした驚きも見せずに、その男がなぜ今回のイシュル暗殺に加わっていたのか、その事情を簡単に推理してみせた。

 クシムのような重要地区には、他国からの間者が長期間常駐する場合がある。その地に定住し、職を持ち、時にはそこで結婚して所帯を持つこともある。

 家庭を持てば怪しまれることも、監視されるリスクも下がる。が、それが大きな足枷になる場合もある。

 刺青の男はアイラの言うとおり、個人的なことで金に困っていて、今回のクシム周辺の混乱に乗じて本職外の仕事に首を突っ込んだか、辺境伯家に正体がばれて家族を人質に取られ従わされていたのか、

そういう推理が成り立つことになる。過去にも同様の事例が数多くあった、ということだろう。

「教会にも聖王国にもイシュルを抹殺する理由がない」

 マーヤが言う。

「イヴェダの剣を持つ者の取り扱いには、聖堂教会も神経を使う筈」

 と、アイラが続ける。

 そこらへんのことはイシュルにもわかる。聖堂教会も聖王国も、神の魔法具を持つ者を味方につけたいとは思っても、自ら進んで敵にしようとは思わないだろう。相手は自らの信仰する神々の強い恩寵を受けた者、とも考えられるからだ。特に教会の方は、本音ではなるべく関わりを持ちたくない存在と考えているのではないか。たいした理由もなしに暗殺の片棒をかつぐなどあり得ない話である。

「頭にきた」

 その台詞はイシュルではなくマーヤのものだった。

「ペトラと大公さまにもう一度手紙を出す」

 マーヤがむすっとしている。頬が膨らんでいる。

「お、おう」

 イシュルの方が逆に気圧される勢いだ。

 今朝方には王家やペトラにフゴ到着までの報告書や、私信の類いは送っているだろう。それを間もないのに追加で出す、と言っているわけだ。

 マーヤの全身からは、じわじわと怒りのオーラみたいなものが滲みでてきているのが感じられる。

 王家の影働きの者がひとり殺されたし、ここ、フゴでこんなことをされちゃあ、確かに黙ってはいられないよな。

 ただ、辺境伯を黒幕と断定できる物的証拠は、現時点で何ひとつないが。

 イシュルがそんなことを考えていると、マーヤがイシュルをまっすぐ見つめてきた。

「もし万が一、イシュルが赤帝龍と戦って死んだとしても、辺境伯は何とかするから」

 マーヤは言った。イシュルを見つめてくる眸に強い色がある。

「その時は王家の方で始末するから」

 それからイシュルには、ふたりひと組の護衛が常時二組、つくことになった。


「あの、従者さま、何があったんで……」

 その日の夕食時。

 老夫婦は怯えた声でイシュルに委細を聞いてきた。

 あれから、王家の手の者で暗殺者の死体が処理され、まわりの血糊も丹念に拭き取られた。イシュルは村長本宅の蒸し風呂に入れさせてもらった。

 老夫婦らは何があったか、直接には何も目にしていないだろうが、ただならぬ雰囲気と血の匂いに、彼らにとってとても恐ろしい何かが起こったことは充分に察しているようだった。

「い、いや、大丈夫ですよ。はは。お気になさらず」

 イシュルは小さくなって、微笑んでみせた。笑みが引きつってしまったのは確実だ。

 イシュルの隣に座る双子の子どもたちがまだ幼くて、何もわかっていなさそうなのが幸いだった。

 イシュルは穴があったら入りたい、いたたまれない気持ちになった。

 日々の生活に苦労し、真面目に生きている老人たちを巻き込み、怯えさせてしまうとは。この小さな家には幼児もいるのだ。

 もし彼らを巻き込み、怪我を負わせたり命を奪うことになったら……。

 このことはイシュルの良心をちくちくと、今も抱え続ける苦悩を強く刺激した。

 ベルシュ村のような惨劇は絶対に繰り返したくない。

 絶対にただじゃおかない。

 そもそも自分がここに滞在したのが原因だ。当てつけと言われてもしょうがない部分もあるかもしれない。相手も必死なのはわかる。だがそれでも問答無用で殺す。

 イシュルは必死のつくり笑いを老夫婦と子どもたちに向けながら、傷んだみすぼらしい食卓の下で、拳を固く握りしめた。



 

 イシュル、起きて。

 空が騒がしい。ざわざわする。

 イシュル。

 うるさい。いったい何なんだ。

「イシュル、起きて」

 マーヤの声だ。

 イシュルは飛び起きた。粗末なベッドがぎしっと不穏な音を立てる。

 目の前にマーヤがいる。足許まで白い。マーヤは寝間着に魔法の杖を持っていた。彼女の頭上に小さな火の玉が浮かんで辺りを照らしている。彼女の魔法か。

「ん……、マーヤ、お早う、じゃなくて。かわいいじゃないか……」

 眠い、昼間のごたごたの疲れが溜まっている。

「ちゃんと起きて。イシュル」

 意識が覚醒していく。外が騒がしい。

 イシュルは感知の輪を広げた。

「えっ」

 何か大きなうごめくもの、それが複数。地を這う、動き回る多くのひと。

「火龍か!」

 イシュルはベッドから降り、側に立て掛けてあった父の形見の剣を差し、椅子にかけておいたマントを羽織った。

「うん。何匹か、街を襲ってきたみたい」

 イシュルは一瞬マーヤの顔を見つめる。

「よし。俺がやるから。マーヤはアイラさんと、ハンターたちを誘導して後方に配置してくれ。ニナには消火を。こんな家が密集している街で大火事になったら大変だ」

「わかった」

 イシュルは言い終わると同時、マーヤの返事を待たずに部屋の東側にある小さな鎧戸を開け、そこから身をひるがえして屋根の上に飛び上がった。

 使用人の家は平屋で視界が悪い。屋根伝いに二階建ての村長宅の屋根に飛び上がり、南西に細長く広がるフゴの街を見渡した。

 街全体が喧騒と混乱に包まれていた。曇り空だが月齢は満月に近づいている。夜空はぼんやりと明るい。やや離れた下の方に火龍が五匹、ほぼ横並びに街中の大きな家を選んで取りつき、火炎を宙に吐き、咆哮をあげ辺りを威嚇していた。

 イシュルは思わず目を見張った。

 火龍が五匹もか。

 家々の間からは人びとの叫び声、もう火がついて、燃えはじめている建物もあった。空には精霊らしきものが二体、夜空を飛びまわりなら風の小さな刃と火球を火龍に向かって投げつけている。きっと昨日の賞金稼ぎの中に混じっていた魔法使いの精霊だろう。場所が場所だけにそれなりの実力がある者もいるらしい。

 そしてよく見ると、家々の間からは火龍に複数の矢が射かけられているのが見える。火龍に飛んでいく小さな矢の、ひゅんひゅんと風を切る音が周りの騒音に混じって微かに聞こえてくる。

 その家々の間から突然、土と岩の固まりがひとつ宙を飛び、火龍にぶち当たった。

 土、地の魔法使いもいるのか。

 と、今度は左手からがしゃん、と音がして大きな槍が火龍めがけて飛んでいく。大弩弓だ。射ち出された場所はハンターギルドの辺り。ギルドの周囲にはしっかりバリスタが配置されていたらしい。

 しかし、皆、いろいろと頑張っているようだが状況は芳しくない。火龍が五匹もいるのだ。

 精霊たちの魔法は、火龍にかるくかすり傷程度の打撃しか与えられていないようだ。土の魔法も同様。

土と岩の固まりは火龍に当たって爆発するようにはじけたが、相手を一瞬たじろがせただけだった。

 バリスタから放たれた槍は距離がありすぎたためか、火龍の硬い鱗にかるくはじかれ夜空の闇に消えていった。

「イヴェダよ、願わくば我(わ)に汝(な)が風の大精霊を遣わしたまえ、下弦の月の盟約に従いて汝(な)を召還せん」 

 イシュルは状況を確認するとかるく息を吐き、召還呪文を唱えて大精霊、カルリルトス・アルルツァリを呼び出した。

 イシュルの前の空間、騒がしいフゴの街の夜空に歪みが生まれ、微かな風がイシュルの周りを吹き流れていく。

「カルリルトス・アルルツァリ、お召しにより参上」

 大精霊はいつかの決め台詞で颯爽と登場した。

 一瞬、いちばん手前の火龍がイシュルの方に注意を向けてきたが、彼らの正面上空にきらっと光がきらめき、火が生まれ渦巻き炎でできた龍が現れた。マーヤの精霊、ベスコルティーノだ。そしてそのやや後方にエルリーナがその美しい姿を現す。

 いいタイミングだ。火龍の意識がうまく彼らの方に逸れた。

「俺は防御にまわる。あいつらをまとめて片づけてくれ」

 イシュルは大精霊に指示を出した。この時点で、赤帝龍と戦う前に自分が直接表に出るのはあまりよくない気がする。この後も何があるかわからない。自分自身の魔力もそれなりに温存しておきたい。

 赤帝龍は近くにいるのだ。

「ふっ。おまかせあれ」

 カルリルトスは大矛の切っ先を一旦下げると、ニヤリと笑って火龍の方へ向き直った。その場で大矛を両手で持ち、空高くかかげる。

 今宵の大精霊は機嫌がいいらしい。火龍が五匹だ。彼にとっても相手に不足はなかろう。

 イシュルも後方で風を集めはじめる。

 キキーンガガガッ、と派手に周りに響き渡る火龍の咆哮。人びとの動き騒ぐ音。イシュルの起こす風鳴り。

 ベスコルティーノが火龍に負けない火炎を吐き出す。

 その中で、空高くかかげられた大矛の前に、五本の巨大な風の刃が音もなく現れた。

 どこかで、何かが流れ、動く感じ……。

 巨大な風の刃は以前に牙猪の群れを一瞬で屠ったものとおそらく同じものだ。それが今回は縦方向に五本、等間隔できれいに並び立っている。

 それは夜空に微かに発光し、巧緻を極めた制御でおそるべき魔力を内包しているのが感じられた。

 ……美しい。

 それは火龍の方へ静かに加速しはじめた。

 それは後ろに小さくヒュン、という音を残して五匹の火龍に次々と命中し、すべての火龍をあっという間に真っ二つに、きれいに両断した。

 夜空に吹き上がる、ところどころ火を発する黒い血。胴体を縦に両断された火龍の死体が山麓の、街の下の方へ落ちて木々にぶつかり土を滑る音を最後に、辺りは奇妙な静寂に包まれた。




 その夜の明け方、イシュルは大きな火球の夢を見た。

 フゴに向かいはじめてからたびたび見るようになった火の夢。暗黒に浮かぶ火球は今やイシュルの視界いっぱいに広がり、その表面の様子を仔細に見ることができるまでになっていた。

 火球の表面は宇宙に浮かぶ太陽を間近で見たらこう見えるかもしれない、といった風で、細かい炎の無数の奔流が渦を巻き、まるで何かの生き物のように火球の底から頭をもたげ、消えてを繰り返していた。

 中には花が咲くように四方に炎をまき散らし消えていくもの、虫のようにのたうち這いまわるものもある。

 その奇態な炎の様相を見続けたイシュルは気分が悪くなり、目の前の映像を剥ぎ取るようにして無理矢理目を覚ました。

 上半身を起こし、額を拭う。うなされていた筈だが、汗はそれほどかいていなかった。

 鎧戸の隙間から白い光が漏れている。もう朝になっていた。

 イシュルはベッドから足を外に出し、ベッドに腰掛ける体勢になった。顎に手をやり中空を見つめる。もうしっかり目は醒めていた。

 やつだ。赤帝龍の仕業に違いない。

 何かのメッセージだろうか。やつは俺の存在に気づいている、見ているのか。

 「いや……」

 イシュルはひとり呟いた。

 赤帝龍、だけじゃない。赤帝龍じゃないかもしれない。バルヘルの、火の魔法具が俺を呼んでいるのかもしれない。


 外は相変わらず白い、灰色の空で覆われている。それに加えて今日は朝から細かい霧雨が降っていた。

「この時期は毎年こんな天気が続くんですか?」

 朝の食卓で、イシュルは老婆の方に声をかけた。夫の方はまだ姿を見せない。

「そうさね。でも今年は特にひどいね」

 老婆は声を潜めていった。

「赤帝龍が居座っているからだ、って村の者は噂してるよ」

 老婆の話によると、赤帝龍からはひとが近づけば火傷してしまうような熱がたえず出ていて、それが山の霧を例年よりも深くし、曇りや雨の日を増やしているのだという。

「へぇ、そうなんですか? そりゃすごい話ですね」

 まさか。

 イシュルは老婆に話を合わせながらも、その話は眉唾だと切って捨てようとした。

 だが、赤帝龍が本当に山のような大きさなら、その全身から絶えず高熱を発散し続けているのなら、周囲の気候に何らかの影響を及ぼすこともあるかもしれない。赤帝龍の周りでは常に空気が膨張し、上昇気流が発生しているのではないか。

 だが、フゴの周囲ではそれほど強い風は吹いていない。積乱雲も見ない。毎日空を雲が覆っている。

「今日はお爺さんはどうしたんですか?」

 イシュルが朝食を食べて終わっても老人が姿を見せない。

「ああ、ほら、昨晩魔導師さまが火龍をやっつけてくださったろう? それでうちの爺さんも、ね」

 老人も街の者といっしょに、朝早くから火龍の鱗をとりに行っているのだという。

「久しぶりにこの子たちにも御馳走できそうだよ」

 火龍の鱗は数枚でもあればいい値がつく。

 老婆が脇に座って、まだ朝食をもぐもぐ食べている双子に目をやった。

 それからほどなく、イシュルはマーヤの自室に呼びだされた。


 マーヤは曇った小さなガラス窓に目をやった。

「午後には討伐隊本隊が到着する」

「いよいよだな」

 イシュルが頷くとマーヤが細かいことも説明してくれた。

「本隊は輜重をふくめて一千強、と聞いている。辺境伯家第二騎士団が主力で、他に弓兵と大弩弓の部隊。それに王家の宮廷魔導師を護衛する大公家の騎士団から百騎」

「ふむ」

「部隊は村の南側の草地、街道沿いに陣を張り、そこから出陣するみたい。リフィアと辺境伯家の騎士団長、わたしと同じボリス・ドグーラスら宮廷魔導師はここ村長宅までわたしに会いに来る」

「なるほど」

 作戦の打ち合わせか、国王の代理人に伺候する、といったところか。

 そこでマーヤはため息をひとつつくと、言った。

「昨日の五匹の火龍退治、きっとリフィアに追及される。ドグーラスさんたちには正直に話せるけど」

 火龍五匹を瞬殺したのだ。前代未聞の事だろうし、進軍中の討伐隊本隊にも報告が行ってるだろう。

 リフィアが頭がいい、というのなら、彼女の追及もなかなか厳しい、かわしにくいものになるかもしれない。

「そりゃたいへんだな、マーヤ」

 イシュルはわざと他人事のように言った。

「ん〜」

 マーヤが口びるをかわいらしく尖らす。

「ふふ、でもリフィアも俺のことをそろそろ耳に入れてるんじゃないか?」

 王家の側では今まで隠してきたことだが、彼女はもうここ、フゴまで至近の距離まで近づいてきている。昨晩の五匹の火龍がまたたく間に退治された件と同様、王家がエリスタールで暴れた風の魔法の遣い手を引き込んでこの地に乗り込んで来ているようだ、程度の情報がもう本人にもたらされている可能性は高いのではないか。

 ただ俺が辺境伯を狙っていることまでは知らないだろう。そういう事は親としては娘には秘密にしておきたいことだ。やつの書簡にはベルシュ家の者を拷問にかけても風の魔法具の在処を聞き出せ、村の者にも強硬な手段をとってかまわない、といったことが書かれていたのだ。

 リフィアがなかなかの軍略、知略を持つとしても、俺とたいして変わらない歳の、純真なお姫さま育ちの娘に、自分の命令した血なまぐさい陰謀を知られたくはないだろう。

「まぁ、詳しくは明かせないが、切り札のひとつやふたつくらいは持っているんだ、戦況が悪ければ支援する、ぐらいの感じで答えておけばいいんじゃないか。立場上、マーヤが臆することはないんだ。適当にあしらっておけばいい」

 マーヤは王家の使者、代理人なのだ。リフィアの方からは何も強制できない。昨日の火龍の件で突っつくくらいがせいぜい、関の山だ。

「うん」

 イシュルのかるい助言に、マーヤは納得、といった感じで頷いた。

「ただ、昨日の火龍の襲撃は、赤帝龍の仕業のような気がする。五匹同時というのは異常だ。やつはさぐりを入れてきたのかもしれない」

 マーヤの顔つきが強ばる。

「それって……」

「そうだ。やつは俺の存在をすでに感じとっているのかもしれない」

 最近毎晩のように見る夢のことも気になる。やつの方から先手を打って威力偵察を仕掛けられたのかもしれない。

 襲ってきた火龍は皆殺しにしたし、たとえ生き残って逃げられたとしても火龍自体にヒトほどの知能はない。戦いの詳しい状況は伝わっていないだろうが、五匹の火龍が全滅したことで少なくとも俺がフゴに来た、いることの確認はとれたかもしれない。

「……」

 マーヤはしばらく沈思する風だったが、急に話題を変えてきた。 

「……えっと、あの、昨日の事、手紙、出したから」

 手紙とはイシュルを暗殺しようと、つまり王家のやることを妨害しようとしてくる辺境伯を、大公やペトラに弾劾する内容のものだろう。ひと言でいえば告げ口の手紙だ。

「あ、ああ。ありがとう、マーヤ」

 イシュルがとまどいながらも礼を言うと、マーヤがとことことイシュルのすぐ傍まで寄ってきた。

 じっとイシュルを見上げてくる。

「でも、死んじゃだめだよ。イシュル。絶対」

 昨日マーヤは、もしイシュルが赤帝龍と戦って死んでも、辺境伯をそのままにはしない、と言ってきた。

 マーヤはイシュルに、後顧の憂いがなくなったからといって、無理して死に急ぐようなことはしないで、と言ってきているのだ。

 昨晩の五匹の火龍の襲撃が赤帝龍の仕業ではないか、と聞いて余計に心配を募らせたのだろう。

「わかってるさ。心配するなよ、マーヤ」

 イシュルはマーヤの頭をくしゃくしゃとやると笑顔で言った。

「大丈夫さ、俺は負けない」

 ありがとう、マーヤ。


 白地に赤と黒で、左右のドラゴンが捧げ持つ盾、盾には太陽と月が描かれている。

 霧雨の中、街道の先に辺境伯家の旗が見えはじめると、イシュルは街を南下し、クシムに向かう街道と、街の中心を奥の岩山まで通る道の両方を見渡せる、程よい高さの二階建ての家の屋根に登って、赤帝龍討伐本隊の軍容を見させてもらうことにした。

 屋根の上に上ると、少年がふたり、先客がいた。街の者もハンターたちもみな、沿道に出てきて、イシュルのように建物の上に登って、辺境伯軍を間近に見ようと集まってきていた。

「よう。俺にも見させてくれよ」

 イシュルは先客の少年らにひと声かけると屋根の上に屈み街道に目をやった。

 討伐隊は騎士団の一隊と旗持ちを先頭に、一糸乱れず、完璧な行軍でイシュルの前に姿を現した。

 兵士たちの表情も引き締まり、疲労や怯懦の色は一切見えない。

 ほう……、士気は高そうだ。

 イシュルの眸にもひやかしの色が消え、真面目なものになる。

 最初の一団が目の前を通り過ぎると、宮廷魔導師のボリスを先頭とする一団が本隊と別れ、左に曲がって街の中に入ってきた。

 武人肌で堂々としたボリスの後には風の魔法使いのカリン・エドヴァール、ちょっと嫌味な口を聞いていたドレート・オーベンら、以前大公城の練兵場でイシュルと戦った連中が続く。護衛の騎士が数騎、文官も含まれている。

 そしてその次に白馬に白いマントをなびかせ、銀色に輝く鎖帷子に略式の鎧を着けた美しい少女、直後に彼女の護衛か、重装騎兵が六騎、と続いた。

 イシュルはその少女に目を奪われた。

 横でいっしょに見ていた少年たちが息を飲む様子が伝わってくる。

 あの可憐な少女、あれがリフィア・ベームか。

 その少女は細雨の中、長い銀髪を後ろに流し、周りを一顧だにせずただ前だけを見つめ、堂々と馬を進めていた。

 整った目鼻立ちに雪のような白い肌、光り輝く豊かな銀髪。まるで彼女だけに、そこだけに太陽の陽が降り注いでいるように見えた。

 その時、イシュルは唐突にあの狂った道化の囁きを思い出した。

 風に火……それがもし太陽なら……。

 風に火、とは俺と赤帝龍のことだろう。後はわからなかったが、太陽、とはリフィアのことなのか。

 だが違う。

 彼女の見た感じは太陽というよりは、むしろ月、に近い感じがする。

 イシュルの顔に皮肉な笑みが浮かんだ。

 あれは辺境伯の娘ではないか。

 俺の前に現れた狂った道化。

 俺だってやつとたいして変わりはない。馬と鹿の片割れだ。

 俺がもし神々に操られた道化だというのなら、赤帝龍も、おまえもそうだ。リフィア。

 お前も道化だ。数日後には馬と鹿のもう片方にすり潰される、もうひとりの道化だ。

 イシュルは眼下を通り過ぎていくリフィアをじっと見つめた。視線を離すことができなかった。

 彼女がイシュルの視界から消えると、彼はぐったりと肩を落とし、頭を落とし、長い間微動だにしなかった。

 降り続く細雨がイシュルに寄り添うように、霧のように舞った。


 

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