驟雨




「イシュル、あれは何?」

 翌日、よく晴れた午後の昼下がり。

 肩越しにマーヤがあれから何度目かの質問をしてきた。

 昨夜に火龍二匹をまとめて殺った時、イシュルが使った魔法のことだ。

 あれは素人レベルでしかもほんの僅かだが、前世の工学的な概念を感覚的に取り入れて、いくつもの魔法を組み合わせて構築したものだ。まさか、それを正直に話すわけにもいかず、「さあ」「なんとなく」「うーんと」などと言葉を濁してごまかし続けた結果、今だに彼女らのきびしい追及が終わらない事態となってしまった。

「イシュルさん、わたしにもお、教えてください」

 振り向くとじーっと見つめてくるマーヤの眼(まなこ)の後ろに、さらに大きな眸で見つめ、こちらにくっつくようにして後ろをついてくるニナ。

 イシュルは横を向き、ため息をつくと、遠くを見つめて言った。

「あの魔法は革新的なものだ。今、世界が変わろうとしているんだ、ぼくの手で。あれは人智を越えた真の天才にしかわからない魔法なんだよ」

 マーヤがイシュルの背後から威嚇するように杖を構える。

「ごまかしちゃだめ」

「なんだよぉ。ちょっと言ってみたかっただけだよ、冗談だろ」

 イシュルは彼女の杖を恐れて腰を振ってからだを捻り逃れようとする。そもそもマーヤを背中におぶっているのだから、何の意味もないが。

「もう!」

 ニナもなぜかイシュルの正面に回り込もうと左右に動きまわる。

 ほっぺたを膨らました彼女の顔はめちゃくちゃ可愛い。

 後ろで馬を曳くアイラはそんな彼らをにこにこして見ている。彼女の年齢からすれば弟や妹らが戯れているように感じられるのかもしれない。

 マーヤとニナの追及がなかなか厳しいのはもっともな理由がある。ひとつは規模や威力が凄かったのはもちろん、複数の魔法が同時に発動しそれが機械的に組み合わされた、今まで見たことがないタイプの魔法だったこと、さらに従来の魔法とあまりに違うために、彼女らが禁忌に気を使う必要がないと考えているからだ。

 魔法使いなら誰でも使える、あるいはよく知られている魔法ならともかく、特別な術や業、例えば切り札や必殺業、秘技の類いとなると、魔法使いは他人のその魔法に触れることはしない。それは昔からの礼儀であり処世のためでもある。もし無理に知ろうとすれば大きなしっぺ返しを喰らうことになりかねない。

「まぁなんだ、真面目な話、昨日の魔法のことについては詳しく話しても意味はないな。説明してもすべては理解できないと思う。誰にもわからないことだよ。きっと」

 イシュルはひとしきり彼女らと戯れると真面目な顔つきになって言った。最後の方はひとり言のような小さな呟きになった。

 この世界の人間にピストンやファンの基本的な構造、気圧や揚力などの話をしてもしょうがない。話が迂遠になるだけなく、おまえはいったい何者なんだ、と向けられる疑惑の目がよりきびしくなってしまうだけだ。

 マーヤたちはその呟きを聞くと押し黙り、以後聞きただすようなことはしてこなかった。


 夕方近く、一行は間道沿いの村、ルドルと呼ばれる集落に到着した。

 途中から道が少し広くなり、森林が割れ視界が開け、人里が近づいているのをおのずと知ることができた。

 ルドルの集落規模は数十戸ほどだが、以前から魔獣の襲撃に備えたものか、近隣ではなかなか目にしない、古風な環濠集落となっていた。家々は掘りと柵を巡らした環濠に集中し、その環濠は三ヶ所に分散して造られ、その間に小川が一筋、小さめの麦畑が広がっていた。

「環濠集落か……」

 村の手前でイシュルが小さな声で呟く。

「かんごう?」

 マーヤが質問してくる。

「いや、国境近くでもないのに、しっかり掘りを巡らしている。やはり魔獣が多いからかな?」

 あぶないあぶない。

「イシュルは学者さんだね」

 セーフだ。たぶん。

 王国をはじめとする大陸の言語は、大別するとふたつ、難度別に二段階あるといったらいいだろうか。子どもや庶民が使う、表音文字を主体にわずかな表意文字が組合わさったもの。貴族や神官、学識者や富商などが使う表意文字の割合が多くなったもの、の二段階である。見た目の文字の形など視覚的にはかなり違うが、文法も含め基本的な構造は日本語とよく似ている。

 イシュルは幼い頃、ファーロの書斎に入り浸っていたので、この世界の知識階級が使う難度の高い方の言語をそれなりに読み書きできる。

 この世界に“環濠”という単語があるかはわからないが、それに対応する表意文字を組み合わせれば、“環濠”という単語をつくりだすことはできる。

 こういう、あるかどうかもわからないような言葉をイシュルが口に出せば、周りの者は音の感じで何となく意味がわかるが、今まで見聞きしたことのない難しい言葉だと判断するわけで、マーヤのようにイシュルは学者だね、というような反応を示すことになる。

「麦作よりも狩猟と山菜や茸の採集の方が主だと思うが、周囲の大小の河川では砂金が採れると聞いたことがある」

 イシュルとマーヤの会話が聞こえていたのか、アイラが教えてくれた。

 村の入口には木造の門があり、今は開いていたが、脇には槍を持ったなかなか屈強な体つきの若者がひとり立っていた。

 若者が近づいてくる。

「魔法使い、か? まさか」

「フゴに向かう賞金稼ぎさ。一晩泊めてくれないか」

 若者の誰何にイシュルが前に進みでて言った。

 マーヤをおぶったままだったのがいささか格好悪かった。




 暗黒。

 その中心に赤く燃える球体がある。

 球体の表面は炎がうごめき、揺らぎ覆っている。音がない世界。

 太陽だろうか? マーヤの火球? 業火。冥界からの炎だろうか。いや、あの話では青い炎、って言ってたな。

 この光景、前にも見た気がする。いったいどこで……。

 ぴしゃっ、と顔に冷たいものがかけられる。

「!!」

 反射的に飛び起きてしまった。

 水か? 誰かに水をかけられた?

「夢だ」

 そうだ、以前も夢の中で見た光景だった。同じ夢を見たのだ。

 イシュルは寝ていた藁の上から上半身を起こし、水で濡れた顔を手で拭った。

 上を見る。何もない。誰もいない。暗闇に屋根の梁がうっすら見えるだけだ。

 ふむ……。

 と、突然左手の方、厩の外の隙間から空気を押しのけ、何かが飛んでくる気配。

 時間が止まる。視界の左隅ぎりぎりのところに投げナイフが二本、かなりの速度で近づいてくる。

 厩の外にはひとの気配がある。

 イシュルは風を集めてナイフの軌道を逸らしにかかる。同時の頭を前の方へ、お辞儀をするように下げる動作に入る。

 イシュルが早見の魔法を切ると、カカン、とナイフがイシュルの後頭部から背中をかすめ奥の板壁に刺さった。

 馬が一頭もいない空の厩、その壁や柱を風が吹き抜ける音が響いた。ナイフの軌道を少しでも逸らすことができた筈だ。

 イシュルは飛び起きると厩の外へ走り出る。

 ナイフを投げた者の、暗闇にぼんやりした背中が村の広場に向かっている。魔法は使っていないようだが、かなりの早さだ。

 イシュルは風を集めると全身をアシストして追跡に移る。

 刺客か。誰だ?

 ルドル村の者か。

 あの後、イシュルたちは村長(むらおさ)の長男だという男の計らいで女たちは村長宅に、イシュルはひとり離れの厩で寝ることになった。村にはポーロのような屈強な体格の男しか居ず、老人や女子供はアルヴァ街道沿いの街や村に避難させているのだという。赤帝龍がクシムに現れてから火龍をはじめとする魔獣の出没が一気に増加し、並の魔獣なら充分に防ぐことのできるルドル村でも危険な状況になったためだ。

 その結果、村内の家々の多くは扉や窓に木板や丸太が打ちつけられ、今は使えない状況になっていて、村に残った男たちも村長宅など幾つかの大きな家に集まって寝食を共にしているのだという。そういうわけで一行の女性陣はなんとか村長宅に部屋を都合してもらい、イシュルは空いている厩で一晩過ごすことになったのだった。

 暗殺者は音も無く村の広場を横切ると、村の出入り口、間道に面した門の方へ向かっている。

 早い。

 村の外へ向かうのなら村人ではないのか。

 イシュルはスピードを上げその背中を追う。

 相手は門の側までくると、門扉を支える大きな柱に何かを突き刺し、それを足場に柱の上まで素早い身ごなしで飛び上がり、その向こうに消えた。

 まるで忍者だ。この世界にも影働きする者、ゲームでいえば盗賊やレンジャー、俗に猟兵と呼ばれるような職種に該当するものがある。

 あいつはそれだろう。影の者、はじめて見た。

 イシュルはそこであきらめず、風をつかって自身も一気に門を飛び越え、暗殺者を追った。

 暗殺者は間道沿いには逃げず、その南に広がる草原を奥の森の方へと走っていく。

 イシュルは難なく門を飛び越えると速度を上げ、その距離をつめていった。上空に風を集めることも忘れない。

 草原を吹きすさぶ風にその者が足を止め、振り返ってイシュルの方を見た。振り返るときに後ろに縛った長い髪がひるがえった。

 女か。ならルドル村の者ではないな。

 野宿と違い、環濠集落の中の家屋に宿泊するのだ。こちらの警戒も緩くなるし、あのようなスキルの持ち主なら侵入も容易いだろう。はじめからルドル村近くに潜伏してこちらを狙っていたのではないか。

 女は逃げるのをやめ、イシュルの正面にからだを向けてきた。

 無言でイシュルが近づくのを待っているようだ。

 もう逃げられないと観念したのだろう。

 まぁ、その方が助かる。何か魔法的な罠を張っている気配も感じないし、あまり村から離れたくない。

 もう月齢は朔、新月に入った。辺りは星の明かりだけだ。女は村の男どものような格好をし、髪が長い事以外、顔かたちや年齢はよくわからない。

 イシュルは途中からスピードを落とし、ベルシュ家の指輪に触れ、女を見つめながらゆっくりと近づいていった。

 この場で殺すのは簡単だが、その前にいろいろと聞きたいことがある。

 イシュルがお互いに声が通る距離まで女に近づいた時、彼女はすっと右手を差し出した。突き出された拳には黒いごつ目のガントレット。

 黒いガントレット? 一瞬、大公の護衛についていた黒づくめの壮年の男の姿がイシュルの脳裡に浮かぶ。

 女の構えたガントレットから何か黒いものが射出された。

 それはもの凄い早さでイシュルに向かってきた。イシュルは風を集め、その黒いものの前に壁をつくった。黒いものが壁に突き当たって四方に広がる。何かアメーバのようなもの。それは風の壁に押し戻されそうになりながらも、黒い色を落とし半透明のようになって壁をすり抜け、一部を触手のように伸ばしあっという間にイシュルの胸を突き刺した。

 早見の魔法が効かない!?

 イシュルは避けることもできなかった。ベルシュ家の指輪も効いていない。

 それはその触手を縮めながらイシュルに近づき、まるごと溶け込むようにしてイシュルのからだの中に入っていった。

 くっ!

 衝撃と恐怖に一瞬、頭が真っ白になる。

 体内を、内蔵を触るぞわっとする感覚。

 イシュルは猛烈な吐き気に襲われ、思わず片膝をつき、胃の中のものを吐き出した。

 内蔵が暴れている。

 まずいっ、これはまずいぞ。

 イシュルは胃の中のものを戻しながら、危機感に心を凍りつかせた。

 その時、全身が一瞬、猛烈に熱くなった。からだの内側を刺すような高熱が這いまわる。

 すると一気に、からだの中からわき上がる不快感が消え去っていった。

 黒いものがイシュルのからだから吹き出し、焼けるようにして宙に消えていく。

 魔法具だ。

 からだの中の風の魔法具が働いたのだ。きっと。

 イシュルがはっ、として顔を上げると、すぐ目の前まで女が迫っていた。女はガントレットでイシュルをなぐろうとしたのか、何か他の正体不明の魔法を使おうとしていたのか。だがイシュルが彼女を見た瞬間、女のガントレットがばちん、と大きな音を立てて割れ、吹っ飛んだ。黒いものすべてが消え去るのとほぼ同時だった。

「!!」

 女がびっくりして後ろへ飛びさがる。

 彼女はおのれの右腕をさすりながら一瞬その腕に視線を落とし、再び顔を上げこちらに向き直った。

 女の全身から危機感が伝わってくる。

 攻守逆転。

 近くで見る女の顔はまだ若く、暗くてはっきりとしないが整った容貌に見える。

 イシュルは風の壁に彼女を閉じ込めた。


 女の周りで風が渦巻く。

「ううっ……」

 女は手足を動かそうと身を捻り、振るわしている。風の音を通して女の呻きが微かに聞こえてきた。

 イシュルは女のもがく姿を見つめながら、嘔吐いて目の端に溜まった涙を拭い、自分の胸に手を当てひとつ大きく息を吐き出した。

 さっきの黒いものは何だったのか。最初は風の影響を受けていたが、途中からは非物質化、実体をなくして風の壁を通り抜けてきた。素早い動きだったのに早見の魔法が効かなかった。おそらくベルシュ家の指輪による撹乱も効いていなかった。

 あの禍々しい感じ、悪霊の類いだろうか。この世では精霊がいるのなら悪霊もいる、ことになっている。もちろん、聖堂教や神話やお伽話、ひとの噂で聞いたことがあるだけで、今まで実際に見たことはなかったが。

 あの黒いものが悪霊の類いだったのなら、砕け散ったガントレットは悪神、邪神や悪しき魔を統べる神、荒神バルタルに関係する魔法具ということになる。ちなみにバルタルは聖堂教では火神バルヘルの弟とされている。今まであまり聞いたこともない、まったく見たこともない、めずらしい魔法具だ。

 多くの魔法具は無系統、あるいは武神イルベズの武の系統、それに五元素の系統で占められている。

 イシュルは足許に散らばるガントレットの破片をひとつ拾い上げた。革の上に一部鉄と木を組み合わせた、少し凝った造りのようだが特にめずらしいと言えるほどのものではない。壊れてしまった以上、もうこのガントレットがどんな魔法具なのか確かめるすべはない。

 イシュルは風の壁に閉じ込めた女に再び目をやった。

 女の、苦渋の中に敵意のこもった目とかち合う。その双眸に星の光が映り込んでいた。

 こいつに直接聞けばいいのだが。

 多分この女は何もひと言もしゃべらないだろう。たとえ拷問したとしても。こいつはプロの殺し屋だ。

 明日マーヤにでも聞いてみるか。

 次はこいつを殺すかどうかだが。

 プロの殺し屋だとしても相手はまだ若い女だ。

 この女の魔法具はもうだめになってしまった。もはや自分にとってたいした脅威ではないし、むやみにひとを殺すのも寝覚めが悪い。

 イシュルは女を中心に頭上に大きな風の渦をつくった。

 風の派手にがなり立てる轟音に女が不安そうに上を向く。

 そこでイシュルは風の渦から空気球をいくつかつくり、女からいくらか距離をとって彼女を覆っていた風の壁を消した。

 女がイシュルに顔を戻し、腰に差していたナイフに手をやり足を一歩踏み出そうとする瞬間、女の足許に空気球を一発炸裂させる。

「きゃっ」

 女が思わぬ黄色い叫び声を上げ後ろに吹き飛んだ。

 地面に仰向けに倒れ込み、顔に手を当て咳き込んでいる。目鼻に土埃が入ったのだろう。

 イシュルは女の頭上で残りの空気球をぐるぐる回し唸らせ威嚇した。女は残る片手を地面につき、上半身を僅かに起こして腰をずらしながら必死になって後ずさっていく。

 イシュルは女の後退に合わせてゆっくり歩を進めた。空気球も同様に移動させていく。

 イシュルは歩きながら女に声をかけた。

「おまえの主は誰だ? 誰に雇われた?」

 たとえこの女が何もしゃべらないとしても、これだけは聞かずにおれない。聞いておかねばならない。

「言わないと次はお前の頭を吹っ飛ばすぞ」

「……誰がしゃべるものか」

 女は覚悟したのか、片手で顔を拭いながら立ち上がると短く言った。

「ひと思いに殺せ」

 はじめてまともにしゃべった女の声は思ったよりも若く、可愛かった。

 彼女は顎を引き、こちらを睨みつけ、両肩を怒らせ緊張しているようだ。だが敵意はあっても前ほどの殺気は感じられない。

 彼女にはもう有効な攻撃手段が残されていないのだ。

「……」

 なんというか、こんなものか。

 イシュルは気がそがれ、微かに肩を下げる。

 こいつの主か雇い主だか、一番可能性が高いのは辺境伯だろう。

 彼女はただ単純にこの場所まで逃げて来、この場所でもう逃げられないと観念したわけではなかった。厩でひとり寝ていた俺の暗殺に失敗した後、ここまで誘い込み、宮廷魔導師であるマーヤたちと確実に分断してから必殺の切り札を使ってきた。

 没落したブリガール男爵家の生き残り、親戚筋にこの女を雇うような力も金もあるとは思えない。

「まぁ、いい。おまえは生かしておいてやる。帰っておまえの主か雇い主に告げろ。何をやっても無駄だとな。おとなしくしておいた方が身のためだ、と」

 まぁ、ここは首を洗って待っていろ、とでも定番の啖呵を切って、もっと強い脅しをかけたいところだが……。

 相手が辺境伯と確実に決まったわけではない。

「行け。俺の見ている前で去ね」

 イシュルは黙り込んで睨んでくる女に向かって言った。女の頭上で回している空気球を思いっきり唸らせる。

 女はイシュルに向けていた強い視線を一瞬緩めると、さっと横を向き目をそらせ、無言で身を翻し草原を駆けていった。

 女の姿が闇に消えた。草原の奥の森へ消え去った。


 村に戻ると、広場の村長宅の前にニナがひとり、佇んでいた。

「だ、大丈夫ですか。イシュルさん……」

 ニナが声を潜めて聞いてくる。

 そういえば、寝ている俺に水をかけて起こしてくれたのは彼女の精霊、エルリーナだろう。

 周りは男ばかりだし、ニナは独自の判断でエルリーナに見張りを頼んでいたのかもしれない。

「うん、ありがとうニナ。きみの精霊にもお礼を言っといてくれ。助かったよ」

 ニナは、俺がエリスタールで暴れたことは知っていても、俺が辺境伯を狙っていること、辺境伯がそれに気づき手を打ってくる可能性があること、それらのことは知らないだろう。

 王家が俺の復讐を黙認していることは最大級の極秘事項だ。書面化したわけではないし、いざとなれば確たる証拠もなく、この件が外に漏れても王家はいくらでも言い逃れはできるだろうが、ごく限られた者以外、誰にも知られないようにすることは当然の処置だ。

「この夜のことは、ニナの知る範囲でマーヤやアイラに話してもかまわないけど」

 イシュルは何か聞きたそうにしているニナを遮るように言った。

 アイラもただ単純にペトラの護衛役だけをしているわけではないだろう。軍事、諜報面では彼女の側近としても仕えているに違いない。彼女もこちらの辺境伯に関する事情を知っている可能性がある。

「俺個人の事情だから、詳しいことは教えられない。ニナは知らないでいた方がいい」

「えっ、……は、はい」

 ニナは少し不満そうだ。だがそれは彼女が俺のことを心配してくれているからだ。

「ごめんな、ニナ。でもきみを巻き込むわけにはいかない」

 イシュルはニナに身を寄せて囁くように言った。

 星の瞬きのように、ニナの眸がかすかに揺れた。



「ふむふむ」

 マーヤが草地に屈んで、昨日のガントレットの破片を拾って確かめている。

「何かわかったか」

 マーヤが横に立つイシュルを見上げてきた。

「何にも」

 こ、こいつ……。

 翌日、イシュルたちはルドル村の者に一晩宿を借りた礼をいい、市価の倍近い金を払って幾ばくかの干し肉、硬く焼いたパン、芋類などを分けてもらい、村を出た。

 イシュルは村の門を出るとすぐ昨晩女と戦った奥の草原にマーヤを誘い、向かう途中で事の顛末を詳しく説明した。アイラとニナには断わりを入れて荷馬といっしょに間道で待ってもらっている。

 マーヤは憮然としているイシュルを尻目に、何食わぬ顔で他の破片も調べ続け、のっそり立ち上がるとイシュルにとことこと近づいてきて言った。

「イシュルの見立てで合ってる」

 マーヤが言うには、昨日イシュルを襲った黒いものは悪霊の類いで間違いないらしい。確かに非常にめずらしいものだが王国でも同様の魔法具を持つ者はいるという。

「……魔法具というよりは呪具、といった方がいいかも」

「荒神バルタルの魔法具だからか?」

「そうだね」

 マーヤは頷くと話を続けた。

「イシュルのからだの中に入り込んで、たぶん内蔵を喰らおうとしたか、頭の中を襲って廃人にしてしまおうとしたんだけど、イシュルのからだの中の風の魔法具に返り討ちにされちゃったんだね」

 昨日のからだの中で起こった感覚を思い出す。確かにそういう感じだった。

 自分はあの時、自身の魔法具を使ってあの黒いものを殺そうと明確に考えてはいなかった。魔法具の方でまるで生き物のように、自動的にあの黒いものを排除したのだ。

「悪霊とその器はふたつでひとつだったから、悪霊が消え去った時点で器も形をなくした、と思う」

 と、マーヤは話を続けたが、相変わらず言っていることが今ひとつわからない。あの壊れたガントレットが単に封印していたわけではない、というのはわかるが。あの黒いのがあの女にコントロールされていたのは確かだ。

 あれだ、魔法のランプに少し近いと言えるかもしれない。ガントレットに封じられた悪霊、魔はその所有者の命令に従う。ガントレットを破壊するか、魔を殺す、消滅させれば両者互いに壊れ、あるいは消えてしまう、そんな感じだろう。

「この前、大公さまの護衛についていたおじさん、いたでしょ? あのひとも同じような魔法具をもってる。片方は武神の魔法具、もう片方がそれだと思う。そう言われてる」

 あの両腕にごっついガントレットを装着していた黒ずくめの男か。加速や力が増強されるタイプの魔法具と、バルタルの呪具を持っているということか。

「あのひとの名前は? どんなひとだ?」

「名はドミル・フルシーク、一代限りの名誉男爵で、直臣貴族フルシーク子爵の次男か三男坊だった筈」

 直臣貴族とは、都市貴族とも呼ばれ、その名称どおり王家直属の家臣だった者で、王都に居住し、その周辺に小さな領地を持つか、王家から直接俸禄を受け取っている。王国内の領主たちのように独自の兵力をほとんど持たず、経済力も劣るが、「直臣」なので位は高く、その多くは宮廷に出仕し、強い権力を持っている。ただ王国内の封建領主たちも、その過半は王家の家臣だった者たちで占められているが。

「で、あの男も宮廷魔導師か」

「そう」

 誰かの魔導師の高弟になれば、その師の持っている魔法具を継ぐか分け与えられることもあるだろうから、貴族の次男でも三男でも、もともと魔法具を持っていなくても関係はないだろうが、しかし、だ。

「彼が、王国でも似たような呪具を持つ者のひとり、ということか。しかし物騒な話だ」

 精霊を召還すれば対抗できるのだろうが、昨日の女はおそらく無詠唱であの黒いものを出してきた。

「そうだね。あれはわたしの杖と少し似ている」

 マーヤの杖、火の魔法具で呼び出すあの炎でできた精霊は名はベスコルティーノといい、正確にはマーヤの契約精霊ではなく、魔法具と契約しているというか、魔法具と結びついた精霊だという。

「ただこの杖に封じられているわけではないから、召還する度に呪文を唱えないといけないし、契約精霊のように、四六時中意志の疎通ができるわけではないの。ちょっとはできるけど」

 そういうわけで、マーヤは他の火の精霊と契約しにくいのだ、といった。

「無理に、ごり押しすれば契約できるとは思うけど。前に他の精霊を召還して契約しようとしたら断られた」

「そうなのか。……って、え?」

 待てよ。それは俺の場合と、よく似てないか?

 ……だとしたら、俺の風の魔法具にも、もう契約状態にあるような精霊がいるんだろうか。

 だが、その精霊を呼び出すことができなかった、ということは。

「マーヤの火の精霊を召還するのには何か特別な召還呪文があるの?」

「うんうん、ふつうの呪文に彼の名前を入れるだけ」

 マーヤがとぼけた表情で頭を横にふりふりした。

「そうなのか……」

 イシュルはがっくり肩を落とした。

 俺の場合は何か特殊な召還呪文が必要なのかもしれない。いや、それ以前にベスコルティーノのように、自分の魔法具と結びついている精霊の名前がわからないとどうしようもないのか。

 マーヤはこれで終わり、といった感じで間道にもどりはじめる。

 イシュルはその横顔を見て、唐突にあの日のことを思い出した。マーヤと魔法具屋に行った帰り、彼女はイシュルに何か含みのある感じで、精霊との契約は急がなくてもいい、みたいなことを言ったのだ。

 それはこのことだったのか。

 魔法使いと精霊の関係にもいろいろな例がある、ということなのだろう。

 イシュルは先を歩くマーヤの小さな後ろ姿を見つめた。

 草原を横から柔らかい風が吹き抜ける。彼女の黒いマントが波打つように揺れた。

「……」

 と、待った! まだ聞きたいことがあった!

 飛ぶように走ってマーヤの横に並び、マーヤの顔に思いっきり顔を寄せる。

「な、なに?」

 マーヤがびっくりして、どぎまぎして立ち止まった。頬が赤い。

 これはニナたちに聞かれたくない。イシュルはマーヤの耳許に、小声で囁くように言った。

「昨日俺を殺そうとしたのは、辺境伯の手の者かな?」

「むっ……」

 マーヤが固まった。彼女の細い形のよい眉がぴくぴくと上下に動いている。

 ちょっと近づきすぎたか。

「それはわたしにもわからない」

 マーヤは顔をそらして、頬を膨らまし唇を尖らして言った。

 そもそも彼女に辺境伯への復讐や、本当にそうなのかもわからない彼との暗闘について相談するのはお門違いなのだ。彼女にとっては迷惑以外の何ものでもない。

「でも、あんな魔法具を持った暗殺者は、たとえ辺境伯でもそんなに用意できないと思う」

 それでもマーヤは真摯に答えてくれた。目線を合わせてこないが。

「そうか、そうだよな」

 僅かだが安堵感が胸のうちに広がる。マーヤの機嫌が悪いが。

「ごめんよ、マーヤ。いろいろと相談にのってくれてありがとう」

 ここはしっかり謝って機嫌を直してもらわないと。

 イシュルは思いっきり笑顔で、今度はさっきより距離をあけてマーヤに謝罪し、礼を言ったつもりだった。だが実際は彼女にさらに顔を近づけていた。気持ちが前のめりになった。

 マーヤが顔を真っ赤にして、魔法の杖をぶんぶん振りまわしてきた。


 


 目の前に垂れ下がった濃いみどりの葉、常緑樹だろうが種類はわからない。

 その葉を水がわたり、下を向いた葉先に少しずつ溜まっていき、やがて雫となって落ちていく。

 その繰り返し。背景にはしとしとと小雨が降り続いている。

「雨脚がもう少し弱くなったら行きましょう」 

 後ろでアイラがマーヤに話しかけている。

「イシュル殿、その時は」

 今度はイシュルに話しかけてきた。

 イシュルは微かに顔を横に向けると無言で頷いた。

 ルドル村を発ったその日の午後から天候が悪化、空が徐々に雲に覆われ、夕方から雨が降りはじめた。それからはずっと曇りと小雨が繰り返す日々が続いた。

 旅程は遅れ、予定より一日遅れで間道沿いの二つ目の村ベスカに到着、それからさらに丸一日遅れでアルヴァに向かう間道の別れ道を通過し、そして今日、フロンテーラを出発して十五日目に、間道の次の別れ道を右に入ったところで雨脚が強くなり、一行は道端の大きな木の下でみなで固まり立ったまま、悄然と雨宿りをしている。

 この道を行けば、いよいよアルヴァからクシムへと向かう街道に接続し、道幅も広がりだいぶ歩きやすくなる筈である。

 天候が悪化してからは懸念していたとおり間道が泥濘に覆われ、以後、一行の特にマーヤやニナにとっては難渋を極める道程となった。イシュルもマーヤをおぶる時間が長くなり、しかも小雨の時には一行が濡れずに歩けるよう、風の魔法を使って雨粒を飛ばしながら歩くことになったので、疲労がより蓄積することになった。

 アイラがイシュルに頼んできたのもその件だった。雨脚が少しでも弱まればイシュルの魔法を使って、少しでも歩く時間を増やして遅れを取り戻さなければならない。

 ベスカ村でもあまり休養はとれなかった。ベスカもルドル村と同様で、幾人かの男たちしか村には居ず、雨の中、とりあえず屋根のあるところで一晩寝ることができたことで良しとしなければならなかった。

 だが天候不純で魔獣は影を潜め、間道沿いにほとんど姿を見せなくなったのは良かったかもしれない。

 目の前の葉先に溜まっていく水滴。その小さな世界に泥と暗い色の木々、イシュルたちがいる。

 あれから、辺境伯からと思われる刺客の襲撃もない。

 次にあるとしたらフゴに到着してからになるだろうか。だが、フゴには王家の影の者、工作員が複数いるし、マーヤがフゴに避難している辺境伯家のクシム代官と面会した瞬間、フゴの最上位者は実質、彼女になる。

 実際には辺境伯がフゴで自分に手を出すことはかなり難しいだろう。フゴに王権が及んでいる状況で俺に手を出せば、殺してしまえば、辺境伯は王国側からより厳しい報復を受けることになるかもしれない。赤帝龍討伐に失敗することになれば、その報復は影に日向にさらに過酷なものとなるだろう。

 俺を殺しても、殺さなくても結果はたいして変わらないわけだ。

 イシュルはうすい笑みを浮かべた。

 葉先から水滴が落ちそうになる。そこでなぜか、水滴はその形を保ったまま葉先から離れ宙を浮き、空高く昇って雨の斜線の重なりに消えていった。

 降り落ちる雨にあらがうように、微かに風が上へ向かって吹いていた。




 さらに二日後、アルヴァからクシムへと向かう街道に入った。アルヴァ街道ともクシム街道とも呼ばれている街道だ。道には荷車の通行が多いのか轍ができていた。

 天気は曇り。白く深い雲の下、その轍を踏んで黙々と歩いていく。この道を半日も歩けばフゴへ向かう別れ道が現れる。そこを左に行けばフゴまではもうひと息、丸一日ほどで着く筈だ。

 クシム街道を歩きはじめてしばらく、後方から早い、しっかりした足取りで歩く数人の男たちが追い越していった。みな革の鎧に剣や弓、槍をかかえていた。これからフゴでひと稼ぎしに行く、賞金稼ぎのパーティ、といった風に見えた。

 その男たちのひとりがイシュルを追い越していく時、おんぶしていたマーヤに無言で小さな巻紙を渡していった。

 先をいく男たちの屈強な背中が重い。

 あの男たちは王家で影働きする者たちなのだ。

 マーヤがその巻紙を読み、後ろから無言でイシュルに差し出してきた。

 そこには乱暴な走り書きで、昨日の日付でリフィア・ベーム率いる赤帝龍討伐部隊本隊がアルヴァを進発した、とあった。

 その日の夕方、そろそろフゴへ向かう別れ道かというところで、前方、木々の間から男たちが十人近く、跳ねるようにして飛び出してきた。みな午前中に追い越していった影働きの連中とよく似た格好をしている。ハンター、賞金稼ぎだ。

 男たちは小走りでこちらに近づいてくる。

 イシュルは背中でうとうとしているマーヤを降ろした。

「ん」

 マーヤが眠そうに目をごしごしこすっている。

 背後ではアイラが馬の手綱をニナに渡し、イシュルの前に出てきた。剣の柄に手をかけている。

 男たちはそんなイシュルたちに目もくれず、足早に通り過ぎていった。

「おまえら、先行くのは危険だぞ」

 通り過ぎる時、最後尾の男だけがひと声かけてきた。

 男たちは遠くアルヴァの方へ去っていく。

 なんだ?

 大きな魔法の杖を持つ黒ずくめのマーヤにもたいした反応は示さなかった。

 一同、首をかしげながらもそのまま歩き続ける。男たちの飛び出てきたところまで来ると、そこにフゴへ向かう別れ道が伸びていた。道端の木々に隠れて見えなかったのだ。

 幾分道幅が狭くなった別れ道に入ると、木々の向こうからキキーンと、甲高い魔獣の鳴き声が聞こえてきた。

 火龍だ。間違いない。あの特徴的な鳴き声の高音部分がここまで響いてきているのだ。

 鳴き声の感じからすると少し距離がありそうだ。自分の感知にもひっかかってこない。とにかく街道の先の方なのは間違いない。

「ニナ!」

 マーヤがニナに声をかける。

「俺がやる。先に行くから」

 アシストをつけて全力で走りだす。

 左の方、北へ緩やかにカーブする道を走っていくと、後ろから大きな魔力を感じる。振り向くとエルリーナが空中を追いかけてくる。空を滑るように飛び、こちらとの距離をどんどんつめてくる。空を飛ぶ姿まで精美を極め神々しいまでに美しい。

 ニナはエルリーナを召還したのか……。

 エルリーナの強さは火龍と比してどれくらいの強さだろうか。同じ系統だとはいえ、マーヤの火の精霊、ベスコルティーノは火龍とほぼ互角の戦いをしたものの、最後は破れている。

 エルリーナを前面に出すのは危険だろう。こちらも大精霊を召還してもいいのだが、せっかくだからちょっと試したいことがある。

 緩やかに曲がるカーブが終わると街道は直線になり、視界が開けた。だいぶ先の方で火龍が何かを襲っている。

 エルリーナが追いつてきた。走る速度を上げる。目を凝らすと火龍は横倒しになった荷車に取りついて、荷を漁っているようだ。フゴへ向かう隊商を襲っているのだろう。荷に食糧、大量の干し肉とか家畜でも積んでいるのだろうか。

 対象が感知範囲に入ってきた。荷車が数台、左手の森の中に複数の人の気配。

「待って!」

 スピードを上げて先に行こうとする精霊に叫ぶ。

 エルリーナは速度を緩めこちらを振り返ってきた。

 良かった。他の魔法使いの契約精霊とは会話ができない筈だが、とりあえずこちらの声は伝わるようだ。

「水球をふたつ、つくって欲しいんだ。俺のお願いはきけないかな?」

 一旦立ち止まり、彼女に声をかける。

 彼女に話しかけながら火龍に対し反対側、自分の背後の空に風を集めはじめる。後方、「手」のとどくぎりぎりのところに数十の渦巻きを設置、魔法の効かない外側からも風を集める。火龍のいる側で派手にやれば逃げてしまうかもしれない。

 エルリーナは轟音をたてはじめた空の方に目をちらっとやると口に手を当て、お上品に驚いて見せるとすぐに手を降ろし、こちらを見て微笑んで頷いてくれた。

 顔を少し横に傾けて頷くその仕草が美しい。笑顔が美しい。すべてが美しい。思わずにやけそうになるのをぐっとこらえる。

「その水球を俺に貸してくれないか」

 彼女はまた微笑んでくれた。

 彼女の微笑みと同時に彼女の背後、火龍のいる側に直径一長歩(スカル、約六〜七十センチ)ほどの水球がふたつ、背景の景色をゆがめながら音も無く現れ出る。

「ありがとう。俺の前に出ないで」

 イシュルは水の精霊に礼を言うとふたつの水球を風で「つかみ」、前へ走りだした。

 火龍はイシュルが五百長歩を切るあたりまで近づくと、荷を漁っていた頭をめぐらし、イシュルの方を見て鋭い咆哮をあげた。

 地鳴りのような低い音と、キーンと空気を震わす高い音がイシュルに噛みつくように響いてくる。

 火龍の全身を魔力が走り、首の付け根あたりに集中していく。火龍が火炎を吐く前兆だ。

 イシュルは走りを緩めず前方に空気を集め板状に、特大の矛の形に固めていく。

 火龍がその顎を開き炎を吐いた。イシュルは自らに迫ってくる火炎を風の矛で、逆袈裟にすり上げるようにして斜め上に払った。

 火龍の炎が曇り空に反り上げられ消えていく。

 イシュルは周りの空気に圧力をかけて、エルリーナから受け取った水球を紡錘形にすぼめ、まず一発目を加速し、龍の頭部に見舞った。イシュルの周りを、その後方を飛ぶエルリーナの周りを、風の激しい轟音が駆け抜けていく。

 火龍の頭部が揺れ、頭の半分ほどが吹っ飛ぶ。水球はほとんど形を崩さずその向こうに消えていく。

 二発目で火龍の首から上が無くなった。

 火龍は首から黒いものを吹き上げ、地に伏した。

 当然、気体よりも液体の方が強い貫通力を生み出せる。

 イシュルは立ち止まり、背後に浮かぶ水の精霊に振り向いた。

 にっこり笑って、

「これでおしまい」

 一瞬、エルリーナの眸に妖しい光が走ったように見えたのは、きっと彼の錯覚だったろう。


 となりの焚き火では商隊の男たちが酒を飲み交わし笑い声をあげている。

「過去に例がない……」

 マーヤが焚き火の炎を見つめながら呟く。

 マーヤの目は真剣だ。

「や、やっぱりそうですよね……」

 とニナ。

 アイラはさっきから笑顔を浮かべながらただひたすら酒を飲んでいる。無言である。

 となりの人の輪とくらべてイシュルのいるこちらは静かである。まるでお通夜である。

 まぁ確かに、火龍を一匹、簡単に葬ってしまったからな。

 イシュルは重い空気を醸し出すマーヤとニナを醒めた目で見つめた。

 イシュルが火龍が葬った後、マーヤたちが追いついてきたが、彼女が火龍の死体を見てイシュルに言った最初の言葉が、「イシュル、いったい何をしたの」だった。

 途中、戻ってきたエルリーナから事情を聞いたニナが顔を青ざめると、心配したマーヤが声をかけて……という流れで、イシュルがエルリーナのつくった水球を使って火龍を斃した、つまり今回は精霊だが、魔法使いが発現した魔法に、別の魔法使いが別の魔法を重ね合わせたことを、マーヤが知ることとなった。

 彼女はそれを問題視したのである。

 通常、同じ系統の魔法を使う魔法使いどうしでも魔法の“重ねがけ”はできないのだという。イシュルはそれを、水と風という違う系統で、しかも精霊相手にやってみせたのだった。

 そう言われても返答に困るんだが。

 イシュルはマーヤの問いに言葉をにごし、道を塞いでいる火龍の死体をはじめ、事後処理を先にしようと提案し、その場をごまかした。

 その後、森の奥に逃げていた商人たちを呼び戻し、横倒しになった荷車をみんなで、特にアイラの力で引き起こし、火龍に食われた一部の馬や積んでいた子牛の死体を処理したり、散乱した荷物をまとめたりと、忙しく立ち働き、商人たちから事情を聞いたりした。

 商人たちはアルヴァからフゴへ食料雑貨類を売りに向かっていた商隊で、フゴへの輸送は危険だが、その分フゴでは高く売れるし、辺境伯家からも奨励金が出るので、多数の傭兵を雇って今までフゴとアルヴァ間を何度か往復して稼いでいた。しかしさきほどは運悪く火龍の襲撃に会い、傭兵たちが我先にと逃げ出してしまい、荷を捨てて逃げるわけにもいかず、森の方へ一旦退避して、様子を見ていたのだった。イシュルたちとすれ違った賞金稼ぎの一団は、その逃げ出した傭兵たちだろう。

 その後商人たちはイシュルらに同行を願い出、マーヤがそれを認め、この先フゴまで同道することになった。商人たちは火龍の鱗を取りたがったが、龍の鱗を剥がすのには金槌や鑿、鉈など職人が持つような道具が必要になる。

 イシュルが今はあきらめ、フゴで道具を揃えてアルヴァに戻るときにしたらどうか、と説得し、商人らも納得したが、アイラを含めても十人ちょっとでは、道を塞ぐ火龍の死体を道端まで移動することができない。この先、放置された火龍の死体がどうなるかわからないが、仕方なくそのままフゴへ向かうことになった。

 商人たちは知っているかわからないが、後から来るリフィア率いる討伐隊本隊がどうにでもしてくれるだろう。

 その時は「リフィアにやらせればいい、本隊が少しでも遅れた方が助かる」と、マーヤがめずらしく悪い顔でイシュルにだけ聞こえるように呟いた。

 その後商隊は生き残った馬で荷車を曳けるよう荷を整理し、イシュルらとともに日暮れまでいくらか歩を進め、ともに野宿することになった。

 それで夕食時には当然のごとく、お礼として商隊から酒や肉が振る舞われることになったわけだ。

 ちなみに、商人たちの方からイシュルら一行をフゴまで雇う提案はしてこなかった。イシュルたちの実力、マーヤやニナの格好と人となりから、ただの賞金稼ぎでないことは誰でもすぐにわかる。

「イシュル、そろそろ説明を」

 マーヤが焚き火から目を離し、イシュルをまっすぐ見つめてきた。

「と、言われてもな」

 魔法の重ねがけができたこと、それはおそらく自分の使う魔法と、マーヤたち、この世界の魔法使いや精霊の使う魔法に、基本的な違いがあるからだろう。おそらく彼らは魔法具と己の知識と意志で、「外」から魔力のみならず魔法を「持ってくる」。魔法の術や業が定型化されていて、こちらの世界で発動する時点でほぼ完成された状態なのだろう。だから他の魔法を重ねがけしたり、大きく弄りようがないのではないか。

 先日、牙猪を倒すのに使った大精霊の使った魔法、あのバカでかい風の刃が典型的な例だ。あれにさらに何かできるとしたら、自分の使う自由度の高い魔法でないと無理だろう。いや、厳密に言えば自分の使う魔法はこの世界では魔法の術、とはいえない代物なのだ。

 マーヤやニナの使う魔法でも、無詠唱で発動できる術であれば、多少の自由度はあるのかもしれない。

「前に、二匹の火龍をしとめた時と同じさ。俺は既存の魔術と違う考え方で魔法を使っている。だからあんなことができたんだろう。説明できることじゃない」

「……わかった」

 マーヤが頷いた。だが完全に納得した感じではない。

「過去の戦争では、同系統の魔法使いを集めて攻城戦とかやったこともあるんだろ?」

 イシュルが逆にマーヤに質問した。

 強力な魔獣と戦う時でも、条件が整えばそういうことは幾度となく行われてきた筈だ。

「うん」

 マーヤの話では、過去に攻城戦で火の系統の魔導師を集中して、火攻めなどを実施した例があるという。魔導師たちが同時に複数の火球を敵城内に投射して攻撃する、などということが以前から幾度となく行われてきたのだ。

「ひとりの魔導師を相手に、同系統の魔導師をふたり当てて戦う、というのは基本戦術」

「そりゃそうだろうな」

「でもイシュルのやったことは今まで誰も成功したことがないこと」

 マーヤが目を見開いてイシュルを見つめてくる。

「今まで試した人もほとんどいない筈」

「イヴェダの剣は神の魔法具だ。……それでいいだろう?」 

「おおっ」

「か、神の魔法具」

 アイラとニナが声をあげる。

 彼女らにも、神の魔法具、という言葉は初耳だろう。ここは煙に巻いてごまかそう。これ以上の追及は困る。

「神の魔法具……」

 意外なことに、マーヤは今度は心の底から納得したようにうんうんと、なんども頷いた。

 マーヤの反応は、この世界の魔法使いとしてはおそらく妥当なものなのだろう。

 だがな。

 今もニナは人知れず練習しているんだろうが……。

 イシュルはニナにこの世界ではまだよく知られていない、水に関する知識を教えた夜のことを思い出した。

 この世界の魔法使いにも、今までにない、新しい魔法を使えるようになる素地はしっかりと存在しているのだ。


 翌日から、フゴへの街道は明らかに勾配の度合いを増していき、長い坂道を歩き続けることになった。

 道の両側の森はやがて疎林に変わり、視界の開けた草原の割合が増えてきた。

 行く手には今や、空を覆うようにして深く高い山並みが、視界の続く限り広がって見えた。

 二日後、霧のような細かい雨が降る中、背景に山を背負ったフゴの街並が、その山並みの中から浮き出るようにして姿を現した。


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