フゴへ、点景、あるいは魔獣殺し 1
「いかがしたかな、イシュル殿」
イシュルが呆然として無言でいると、精霊の方から話しかてきた。
前に偶然子どもの精霊を呼び出した時は名前はない、とかいえないとか言っていたが、彼のような大人?の精霊はまた違うのか。精霊にも位階のようなもの、上下があって、まだ幼い精霊には名前がないとか、ひとには言えない、表に出せないのだろう。
あまり詳しくはないが神話など伝承に登場する大精霊は名前のある者もいた筈だ。
「あんたは俺の名を知っているのか」
俺の名を知っているのならわざわざ剣殿、なんて呼ばなくてもいいのに。
「むろん。我はイヴェダさまの側近くにて主を守護する者、貴公のことはよく存じておる」
重厚な声音だ。大公城の練兵場で戦ったボリス・ドグーラスに似ている。この精霊からも彼と同じ生粋の武人、という感じが伝わってくる。見た感じ相当強そうな精霊に見える。
だが、その強面な外見に反してそれほど強い魔力は感じられない。
目の前に浮かぶその精霊は夜の静けさを一切かき乱すことなく、淡い月の光を浴びてむしろひっそりと、静かに空中に佇んでいる。
大公城の練兵場で戦った時、風の宮廷魔導師のカリン・エドヴァールが召還した精霊は、これでもか、といった感じで強い魔力を発していた。あれは通常でない、戦闘状態だったからだろうか? あるいはこの目の前の精霊はより精緻に魔力をコントロールしている、ということになるのだろうか。
しかし、イヴェダさまの側近く、か。ふふ。
それは確かに女の精霊の方がぜんぜん、絶対にそっちの方がいいだろうが、ここは文句は言えまい。この偉丈夫は間違いなく大精霊だ。しかも側近く、というのなら大精霊の中でも相当上の方なのではないか。
俺は大物を引き当てたのだ。
「それで……」
な、なんだっけ? 名前がよくわからなかった。カルル…アル、くそ、わからん!
「すまない、名前をもう一度教えてもらえないだろうか? さきほどはせっかく口上いただいたが、よく聞きとれなかった」
「おお、人間にはちとわかりにくかったか。我が名はカルリルトス・アルルツァリ」
「カルリリトアリル…?」
「カルリルトス・アルルツァリ」
「カルルリルト、スアララ」
「……もう良いぞ。剣殿。カルで良い、カルで」
「す、すいません」
武人の大精霊は腕を組んだまま、幾分肩を落とした。
ちょっと申し訳ない気分だ。
「で、カル殿は、ひとが呼ぶところの大精霊、ということでいいんだろうか」
しかも、こういうことを直接本人に聞くのは失礼に当たらないだろうか。
「いかにも、それでよかろう」
大精霊はまた胸を張り、力強く頷いた。
大丈夫そうだ。彼に気を悪くしたところはない。自分には魔法全般、細かい因習などはもちろん、礼儀に関することなど常識的な事もわからないことが多い。
しかし良かった。これで目の前の精霊が大精霊であることが確実になった。
「それは凄い」
なら今ここですぐに契約すべきだ。喫緊の課題がある。事態は差し迫っているのだ。
「なら、カル殿、こちらとしては貴殿と正式に契約を結びたい」
イシュルは態度をあらためて目の前の浮かぶ大男に呼びかけた。
「契約!?」
しかし、武人の大精霊は意外な反応を示した。腕組みを解き、顎が上がって唖然としている。
な、なんだ? 何か拙いこと言ったか?
「むう……」
精霊は一瞬の驚き、動揺から立ち直ると、降ろした両腕を握りしめ、何か苦しそうに黙り込んでしまう。
「なにかまずいことでも……」
どういうことなんだ? 何か問題でもあるのか。
イシュルはそれ以上問いただすことができない。周りの空気が急に重くなった。武人の大精霊からは、イシュルのどんな追及も拒絶するようかのような冷たく固い気配が漂ってくる。
両者の間に重い沈黙が流れた。
「……すまんがイシュル殿と契約することはできない」
空中に浮かぶ大男は何かの気配を探るように顔を少し左右に振り、むっつりとしばしの間考えこむと、重い口を開いた。
「!?」
なぜなんだ。
「なぜ……。俺じゃ、役不足とか、そういうことなんだろうか」
「……いや、そうではない。理由は、言えぬ。わからん……」
精霊の男は随分と歯切れの悪い感じで言ってきた。
「ど、どうして」
なぜだ? 何が起きている。大精霊を問題なく召還できた筈なのに、なぜ契約できないのか。何か足りないものがある?
「何か、用意しなければならないのか? 血? 俺の血が必要とか? それとも何かの符とか、他に魔法具とかが必要になるんだろうか」
よくわからない。よくわからないので思いつくまま口に出して問いただす形になってしまう。
「いや……、そんな必要はないんだが……」
精霊は相変わらず歯切れが悪い。
本人も理由があまり良くわからない感じだ。
どういうことだ。
イシュルは全身の血がさーっと下がっていくような感じがした。喉がからからに乾く。何か大失敗してしまった時、何か不可解な、自分ではどうしようもないことに見舞われた時に感じる動揺、いやほとんど恐怖に近い。
こんなことってあるか。
イシュルは下から大精霊に鋭い視線を向けた。
レーリアか? 月神が邪魔しているのか? いや、これは風の神の領分だ。そんなことまではできないだろう。ならイヴェダが……。
風の神は未だ自分の前に姿を現したことはない。
「イヴェダ神に会わせてもらえないだろうか」
もし、風の神に会えるのなら聞かなければならない。どういうことなのか。
「いや、それは」
大精霊は目に見えて狼狽した。
ぎくっと、背筋を緊張させて、びっくりした顔をしている。
「それは……無理だ」
カルリル…も、ほんとうに辛そうだ。
確かに、そう簡単に神さまなんぞに会えるわけがないのはわかるが。だが納得がいかないじゃないか。
赤帝龍と戦うのに、大精霊がいるのといないのとではまるで違った状況になるのではないか。
「俺はこれから赤帝龍と戦わなきゃならないんだ。どうしてもあんたらの力が欲しい。なんとかならないだろうか」
もう正直にこちらの事情を話すしかない。目の前の精霊の反応によっては彼らの、神々が一枚噛んでいるのか、その思惑もわかるかも知れない。
月の女神レーリアの忠告か、挑発か、あんな事があった以上、やはり今回の件も何か関係しているのではないだろうか。神々どうしの領分が違うなどと、こちらの判断で安易に決めつけるべきではないのかもしれない。それとも赤帝龍が火の魔法具を持っていることと何か関係があるのだろうか。
「ほう……」
狼狽し、苦しそうにしていた目の前の大精霊の様子が変わった。
「なら、やつと戦う時に再び我を呼び出せばよかろう」
大精霊はまた両腕を組んだ。自信と落ち着きを取り戻したようだ。いや、それどころか殺気というか、闘争心みたいなものさえ伝わってくる。
「無理に我と契約する必要はないぞ、剣殿」
そ、そうか。とりあえず、赤帝龍と戦う時にまた召還すればいいのだ。
……よかった。
イシュルは思わず安堵の吐息をついた。
言われてみれば簡単なことだ。無理に契約する必要はないのだった。
「だが、契約した方が良いのは確かだ。我々を呼ぶのにわざわざそなたらの呪文詠唱、というやつをやる必要はないし、契約者の魔力が尽きない限り、我々もひとの世にとどまって力を振るうことができる。契約者との絆ができ、いろいろとひとの世でできることが増える」
イシュルはがっくり肩を落とす。
そういうことはあるか。やはり。
「だが、心配は無用。我もその時には全力で戦おう。やつの強さは我もだいたい存じておる。剣殿とともに戦えばなんとかなろう」
おお、力強いお言葉が。
だが……。
「あんたは赤帝龍が俺と同じように、火神バルヘルの火の魔法具を持っているって知っているのか」
このことは聞いておかねばならない。
「さぁ、知らんな。そんなことは」
はっ? それでいいのか?
精霊はこちらの重要な質問をあっさり流した。彼らにとって重大事ではないのか? 知る必要もない、ということなのか。
「だが案ずることはない。たとえやつが神の魔法具を持っていようがかまわぬ。面白そうではないか」
大精霊がふっふっふっ、と笑う。まさに精悍極まるといった感じだが……。
「カル殿はどれくらい強いんだ? 俺はまだ大精霊を召還して何かと戦ったりとか、大精霊が魔法を使うのを見たことがないんだ」
「そうなのか?」
精霊が首を傾ける。鎧の影に隠れた半透明の眸がこちらを見つめてくる。
「ああ」
「そうだな……確かにやつが火の魔法具を持っているのなら、我ひとりではとても太刀打ちできまい。だが、余程の魔獣、大魔法使い相手でも遅れをとることはない」
そうか、そうだろうな。だいたいの強さはわかった。
「ただ我らはひとの世で破れさろうと、関係ないからな」
このひと言が余計だった。
いや、イシュルに基本的な、ある意味当たり前のことを気づかせた。
彼らはふだん精霊界にいる、向こうの存在だ。こちら側、ひとの世に召還された状態はあくまで仮のもの、だから魔力を使い果たすなり、戦い負けて消滅しても、彼らは元の世界に戻るだけだ。本当に消滅、死ぬわけではない。おそらく魔力が溜まればまたこちら側に来ることができるようになる、といった感じだろう。
……つまり、この目の前の大男の精霊にとって、赤帝龍と戦うのはいわばゲームのようなものなのだ。練習試合のようなものなのだ。
案ずることはない、との頼もしい発言も、単に彼の立場で言ったことに過ぎないのだ。
ただそんな彼らを非難するわけにもいかない。彼らにとってこちら側、ひとが住む現世は外界、よその世界だ。こちら側の世界の事情に疎く、あれこれ気にかけたりしないのも仕方がない。
これが契約でもすれば契約した人間との結びつきが深まり、事情も少しは変わってくるのだろうが……。
「そうだな」
イシュルは少し間をおいて、わずかな落胆とともに言った。
「ではイシュル殿。あの増長した火龍と戦うとき、他の者と間違わずに我を呼んでもらうために、貴公と我の間で何か符丁を決めておきたいが」
「符丁?」
合い言葉みたいなものか。
「うむ。通常は呼び出す時に我が名を唱えてもらえばよいのだが……」
「カルルリル、アル……」
「もうよい」
大精霊は少し怒って、悲しそうに遮ってきた。
「す、すいません」
だが、彼の名を正確に覚えるのは大変だぞ……。筆記具の類いも今は手許にない。
召還者が契約するときに、精霊に名を与えるというのは案外これが理由になっていないか?
名のある精霊はみなこの男のように長ったらしい覚えにくい名前なんだろう。きっと。
「まぁ、そういうことでもっと簡単な何かで決める必要があるのだ」
「ごもっとも。ではカル・アルとか……短くするのはどう?」
「それでは契約することになりかねんな」
そうか。新たに名を与えるのとほとんど同じ意味合いになってしまうものな。
イシュルは顎に手をやり首を傾け考えこむ。なんとなく流し見た夜空に下弦の月が輝く。
「じゃあ、“下弦の月の盟約に従いて汝(な)を召還せん”って一文を、召還呪文に入れ込むのはどうだ」
「おお、よろしいではないか、それでよかろう」
大精霊は少し機嫌を直して頷いた。
「それで、赤帝龍と戦う前に他の件で呼んでもかまわないかな」
「うむ、かまわんが。ただ今回はいわば貴公と仮の契約をしたようなもの。あまり長く続けると良くないような気がするので、今回の件はあの生意気な火龍と戦うまでの期限としよう」
「了解した」
仮契約ね。言われてみればごもっとも、か。
しかし、大精霊は赤帝龍という言葉を使ってこない。精霊たちからやつは嫌われているのか。 “赤帝”なんて大それた名前を使いたくないのか。
大精霊はこちらに頷いてみせ、少し微笑みを浮かべた。
「ではまた会おう」
そして別れの言葉を言うとあっさり、またたく間に夜空にかき消えた。
後にはほんの小さな風のざわめきだけが残された。身を微風が洗うように流れていく。
洗練されている、といったらいいのだろうか。大精霊は静かに去っていった。
イシュルはその場で肩を揉み、眉間を押さえた。
上げ下げの激しい会話の内容だったからか、大精霊を呼び出したために少し多めに魔力を使ったせいか、少し疲れがある。
イシュルは夜の草原を、野宿をしているみんなのもとへ引き返した。
とりあえず強そうな大精霊といっしょに赤帝龍と戦う目鼻がついたのはいいとして、契約を拒否されたのはなぜだろうか。不可解な疑問が残る。
夜露に濡れ、柔らかくなった草を踏みしめながら、イシュルは精霊の見せた辛そうな表情を思い起こした。
彼は何か理由を知っていたのだろうか。それとも知らないことに苦しんでいたのだろうか。
彼はその理由を自分に教えることができずに苦しんでいたのだろうか。つまり、誰か、何かによって語ることを禁じられていた?
……わからない。
大精霊をいくらでも呼び出し、契約だってできる力を与えられている筈なのに、なぜそれができない?
何かの制約をかけられているのか?
主神ヘレス、月の神レーリア、そしてイヴェダ。
どうしてもそこに神々の何かの思惑が、力が働いているような気がしてならない。
微かな月と星々の明かりに、横からゆらめく焚き火の明かり。ニナの姿が見えてくると、彼女は立ち上がってイシュルのもとへ駆けてきた。
彼女はうれしそうな笑みを浮かべ、萎れた一本の草花をイシュルにかかげてみせた。
「見てください! イシュルさん。わたし、できましたよ!」
イシュルはその場でニナと向き合い、彼女の顔に思いっきり顔を近づけた。
どぎまぎするニナ。
だがそれくらい動揺して、緊張してもらうくらいで調度いい。
彼女は草花から水分を抜き取ることができたのだ。
教えて間もない、僅かな時間で。
彼女はこの先、恐ろしい力を手に入れるかもしれない。
「よくできたね。ニナ。でも自分で教えておいてなんだけど、おめでとう、とは言わないよ」
うれしそうだったニナの顔が固まる。
「今日の、この魔法の成功は誰にもしゃべっちゃだめだ。きみの師匠にもだ」
イシュルは厳しい表情になって言った。
「これからこの魔法の練習をする時は、誰にも見られないようにしなさい。俺に助言を求める時は周りにひとがいない時、耳がないと確信できた時だけだ。もちろん俺も誰にもしゃべらない。ヘレスの名にかけて誓おう」
「へっ……」
ニナが呆然とした顔になる。
「なぜだかわかるかい? ニナ」
ニナはいやいやするように首を振った。目尻に涙が溜まっている。
彼女はただ魔法ができた、イシュルに誉めてもらえる、喜んでもらえるなどと考えていただけだろう。それがいきなり教えられた側から掌を返すような態度を取られているのだ。
可哀想だが、しょうがない。
「この魔法をもっと早く、あるいは大きな規模でできるようになれば、前に話したように人や魔獣を簡単に殺せるようになる。きみに自信を持ってもらおうと思ってこの水の魔法の使い方を教えたんだけど」
この魔法の使い道は対人、対魔獣にとどまらない。木造の建築物や、状況により大きな建物の基礎、その地盤をいっきに脆弱化することも可能だろう。
イシュルは話を続けた。
「ニナがこの魔法を自在に使えるようになったら、きみは王国でも最高の“暗殺者”になれる」
本当は人でも動物でも体内の血流を止めてしまう、どこかの部位に急激に偏らせてしまう、それだけで簡単に殺せてしまう。
ニナの涙に濡れた眸が大きく見開かれる。口はあんぐり開いたままだ。
「なんとなくわかるだろ? もしそうなったら、それを王家の人間に、他の魔導師たちに知られてしまったら、どうなるか」
生物や物質の水分を自在にコントロールし、無理矢理抜き取ることができたらどうなるか。応用範囲は広いだろう。だが、そこまで彼女に教えることはしない。いずれ彼女が自分で気づく可能性も高いだろうが。
「……はい」
彼女が小さく声に出して頷いた。
「きみは彼らにいいように利用されるだろう。王国の長い歴史で、記録に残されていないものも含めばけっこうな数になるんじゃないか? 王家や宮廷で暗殺されたひとや不審死したひとは」
ニナが黙って頷く。
「ニナにもわかるだろう? 暗殺者という者は大抵悲惨な死を迎える。権力の座にいる者たちのいろいろな秘密を知ることになるからだ。とても幸せな人生や平穏な生活はおくれないだろう」
イシュルはニナの目尻に指をそっとそわせ、たまった涙をぬぐった。
「だから、この魔法は誰にも知られちゃいけない」
ニナは微かに恥じらう表情を浮かべ、微かに微笑む。
「それはとても重要なことなんだ。この魔法を誰にも知られないようにすれば、きみはこの魔法をきみ自身のためだけに使うことができる。誰にも知られなければいざという時、最高の切り札にもなるだろう。自分が絶対絶命の危機に陥った時、どうしても勝たなければならない時、そのことがきみの命や大切なものを守ってくれるだろう」
イシュルは微笑みを浮かべた。
「それはきみに大きな自信を与えることになる」
イシュルは彼女の頬のラインを指先でなぞった。
「この魔法は自分を守るために使うんだ。誰か、何か大切なものを守る時に使うんだ」
ニナの顔に喜色が浮かぶ。
「そのためにこの魔法を秘匿するんだ。いざという時のために。魔法具の原点だね」
はい、と頷くニナにイシュルも頷いた。
ほんとうはこんな魔法を教えずに彼女に自信を持って、希望を持って欲しかった。
だが、魔法使いは強くなければ生きていけない、生き残れない。望むと望まざるとにかかわらず、何かと戦い、殺し合うのが魔法使いだ。魔法は武器なのだから。
強い武器を持っていなければ自信も希望も関係ない。生きていけないからだ。
「もうこれ以上俺が教えることはないかな。今日はこれでおしまい。俺はもう寝るよ」
イシュルはニナから離れ、その身を彼女の正面からずらしていく。
「おやすみ、ニナ」
「あ、はい。おやすみなさい、イシュルさん。あ、ありがとうございました」
ニナは夢から醒めたような、幾分惚けた顔をしていた。
イシュルはニナから背を向け、皺になったマントがおかれた自分の寝床にもどる。
でも、ニナ。
将来、きみがこの魔法を自在に使えるようになった時、きみの魔法の秘密を知るただひとりの俺を殺そうとした時、もしそんな時がきたら、俺はその前に容赦なくきみを殺すよ。
魔法の秘密とはそういうものだ。
強くなれ、と望んで教えた秘密なのに。
強力で希少な武器、その秘密は絶対に分かち合うことができない。
望むと望まざるとにかかわらず、何かあれば戦い、殺し合うのが魔法使いなのだから。
翌日の昼過ぎ。
イシュルは先頭を行くマーヤの、やや斜め後ろに位置して間道を歩いていた。
そろそろ伯爵令嬢が「おんぶー」とかのたまう時間だ。
イシュルはマーヤの方、特に彼女の足許の方へちらちらと目をやる。
確かに、イシュルはマーヤの前を歩いても、彼女の疲れ具合を察知することができる。彼女の足許の空気の、微妙な乱れ具合に意識を集中し続ければ。
だが、さすがにそれを長時間続けるのも疲れるし馬鹿らしい、肝心の周囲の警戒もおろそかになる、で、今の位置取りでふつうに彼女の歩調を目で見てチェックしている。
「なに?」
マーヤの顔は前を向いたまま。いつもの無表情で声をかけてくる。
そちらからは俺の目の動きなど見えない筈のに。勘の鋭いやつめ。
「いや、なんでもない」
しばらく無言で歩き続ける。
後ろではアイラとニナがあれから、明け方に襲ってきた赤目狼の話をしている。あの時はニナの放った水球が赤目の頭部を見事直撃し、その赤目狼を昏倒させた。
「なに?」
しばらくすると、またマーヤが聞いてきた。
「ん? なんでもないよ」
マーヤからは今度は少しいらついた感じが伝わってくる。
だがそれがなんだ。おまえは少しでも長く、自分の足でしっかり歩けばいいんだ。
さらに無言で歩き続ける。
やがて道の先、左右の視界が開け、道の両側に草原が現れた。遠くに見える山の稜線が随分と近く、大きくなってきた。青く薄く、霞んで見える。
「イシュル」
マーヤが立ち止まって振り返ってきた。
わたしの足許をちらちら見るのはやめろ、いいかげんにしろと言いたいんだろう。
イシュルはそれを手を上げて遮り、視線を草原の左前方に彷徨わせた。
「何かいるな」
「へ?」
マーヤはつり上げていた眉を下げると、素の顔に戻ってイシュルの見ている方を見る。
イシュルはマーヤに構わず前の方へ走り出した。
間道の左側、周りを木々に囲まれた草原、その奥の方にいた。小悪鬼、コボルトの群れだ。ぱっと見数十匹はいる。木の枝を乱雑に組み合わせた小さな家のようなものもある。
コボルトの周りの草はそんなに踏みしだかれた感じがない。おそらくこの小さな空き地のような草原に移ってきて、それほど時間は経っていないだろう。
向こうもこちらに気づいたのか、キーキー騒いで混乱しているようだ。興奮して、黒っぽいぼろぼろの剣や槍を振り上げ、辺りを走り飛びまわっている。こちらを恐れているのか、すぐに襲ってくる様子はない。
ひとがた、か。見た目が人間に似ているから少し苦手なんだよな。殺すのが。
距離もあるので慌てることはない。魔法も発動せずぼーっと見ていると、マーヤたちが追いついてきた。
「小悪鬼か」
アイラがひと言。コボルトはけっこうな数がいるが、彼女も落ちついたもので剣も抜かず、まるで他人事のように見ている。
まぁ、相手はコボルトである。あれだけいても、彼女ひとりで問題なく片づけられるだろう。ただそうなればかなり凄惨な場面が展開されることになるだろうが。
「ニナ、精霊を」
マーヤはコボルトの群れの方を一瞥するとニナに命令した。
おお、いよいよニナの契約精霊のお出ましか。やつらは人里に出ると物を盗み、おんな子どもをさらったりして悪さをする。どのみち皆殺しにしなければならない。
「は、はい」
ニナは返事をすると、魔法の杖を構えることもせず、いきなりひと言、
「エルリーナ!」
と、精霊の契約名らしき女の名前を叫んだ。
するとニナの前の空間が歪んだように見えはじめ、細かい波のようにぶれはじめるとそこから魔力が四方に直線的に放射された。
契約精霊の召還は呪文を唱える必要がないのだ。ただ契約するときに名付けた精霊の名を呼ぶだけでいいらしい。ニナが人前でその名を大きな声で叫んだということは、契約精霊の名を秘匿する必要がないということなのだろう。
魔力の放出がおさまると細かい波の像がひとがたに変形していき、クラシックで、まるでドレスのような華麗なローブを身にまとった妙齢の女性が現れた。
後ろへ波打つようにうねる豊かな長い髪、調和のとれた額から首筋までの完璧なライン。それは半透明に光り輝く美しい精霊だった。武具や杖の類いは持っていない。両手に複数の腕輪をはめている。
精霊は前方の光景を見て薄く笑みを浮かべると、何を感じたのか頭をめぐらせ、横から呆然と見ていたイシュルを見た。
正面から見おろしてくる、柔和な美しい顔。彼女はイシュルに微笑むと、片目をつぶって見せた、そのように見えた。
その瞬間、目の前で何かが光り、炸裂した。
やられた。
ウインク? この世界で? いや見間違いか。しかしなんて素敵な……。
こん!
イシュルがめずらしくだらしない顔をしていると、マーヤが魔法の杖でイシュルの頭を打ってきた。マーヤの頬が膨らんでいる。
「精霊相手にニヤニヤしない」
イシュルが頭を摩りながらマーヤに振り返る。顔がにやけたままだ。
「ごめん……ふふ」
イシュルがマーヤにだらしない顔を向けている間に、水の精霊は周囲に滲みでるような魔力を発散させ、空中をすーっと滑るようにコボルトの群れの方へ飛んでいった。
精霊はコボルトらの手前で静止すると、その後ろ姿から右手が横に差し出され、手首が少しだけ下げられた。
たったそれだけだった。
突如、騒ぎまわるコボルトの群れの地面から四本の水柱が立ち上り、それが崩れて辺りの草原が水で覆われていく。
間欠泉か、原油が吹き出すとこんな感じに見えるだろうか。
コボルトはキーキーと騒ぐまま、水の奔流に飲み込まれたいった。
イシュルはひとり道からはずれ、コボルトのいた草原の側まで歩いていった。
辺りには掘り起こされた土に濁る沼が広がっている。水面にはたくさんの草木が浮いているが、コボルトの死体はひとつとして浮いていない。彼らは水で掘り起こされた土砂にでも巻き込まれて、沼の底に沈んでいるのだろうか。
エルリーナと呼ばれた華麗な精霊は、さっさとコボルトの群れを葬ると、その場でこちらの方に振り返り、ニナに向けて微笑みを浮かべて少しだけ腰を屈めると、すーっと背景の緑と空に溶け込むようにして消えていった。
消えていく瞬間、こちらに意味ありげな流し目を向けてきたように思えたのは気のせいだろうか。いや、きっと気のせいだろう。
相手は精霊だ。どうせかなわぬ恋なのだ。
「ばかだね、イシュル」
イシュルが間道の方に戻ってくるとマーヤは、イシュルの顔を見て容赦なく言ってきた。
イシュルの顔は上気しながらも、誰が見てもそれとわかる恋の苦悩をその顔貌に表わしていた、ように見えた。
アイラは何が可笑しいのか口許をぶるぶる振るわしてそっぽを向き、ニナはただ唖然としてその大きな眸を見開き無言で、つまり、こんなひととは思わなかった、という風にしてイシュルを見つめていた。
「イシュル、見たらひどいからね」
「イシュル殿、みなまで言わずともわかると思うが」
「あ、あ、あ、あのあのあの」
なにが見たら酷いだよ。見るかよ。見ねぇよ。
なんちゃって、ほんとは見てほしいのか?
あれからしばらく行くと、一行はめずらしく間道を横切る小川に突き当たった。
コボルトたちがいた草原を抜け、道の両側に少しずつ背の高い木が増えてきたと思ったらいきなり道が途切れ、目の前をそこそこの水量の川が現れた。
橋は架かっていない。道は川の流れの中に消え、川向こうにその道筋を再び現し先へと続いている。
イシュルは川縁に立って左右を見渡した。上流も下流も、両側から川の上に被さるようにして木々が続き、遠くの方まで見渡せない。
橋もないし、渡れないほどの水量、川幅ではないので、季節によっては川が枯れ、川筋が消えてしまうのではないかと思われるが、川底や周囲には大小の石も多く、何とも言い切れない。
大陸の中北部は明確に雨期と呼べるものはないのだが、そこそこ大きな石も混じっているので、この川により水量の多い時期があるのは確かだろう。
イシュルたちはやや南の川下の方へ下り、適度な大きさの石の散らばる浅瀬から川を渡った。
水はなかなかの透明度で、清流と言ってもいいくらいだ。
イシュルはマーヤたちに川で水浴びしてからだを洗おうと提案した。一行の女性たちも賛成し、まずイシュルが見張りをし、女たちの方から先に川に入ることになった。
イシュルは、「冷たい!」「きゃっ」などと黄色い声をあげる女たちのかしましい声を背中越しに聞きながら、水浴びをする女たちに背を向け、川縁の石の上でひとりさびしく膝を抱え座っていた。
先にたっぷり水を飲み、そばの木につながれた馬の尻尾が虫を追い払ってでもいるのか、ふらっ、ふらっと振られている。見方によっては膝の上にだらしなく顎を乗せ、俯き下限のイシュルを元気づけている、いや、小馬鹿にしているようにも見える。
イシュルはさきほどのニナの呼び出した美しい精霊、エルリーナと、昨晩自分の召還した大精霊を思い浮かべていた。
別に不満があるわけではないのだ。断じて。
昨日召還した大精霊、カル…なんとかには確かに圧倒的な強さを感じた。見た目しかり、魔力を垂れ流すことのない静かな佇まいにもむしろ只ならぬ気配を感じた。
だがエルリーナのあの美しさはどうだ。
いつか風の大精霊と契約できる日がきたら、かならず彼女に負けない美人さんとしてみせる。契りを交わしてみせる。
イシュルはひそかな決意を心の内でかためると、顔をあげた。さきほどまでちゃらんぷらんに振られていた馬の尻尾が上下にバタバタと動きはじめる。馬のからだの前の方に目をやると、耳をせわしなく動かし、前足を動かして落ち着きをなくしている。
イシュルも異常に気づいた。
川の上流、かなり先の方に、木々の枝葉に半ば隠れるようにして、灰色のまるっこい、団子のお化けみたいなものが数匹、川縁に身を寄せ合って水を飲んでいた。
ごろごろと動く灰色の大きな団子たちの間から、きらっと何か光るものが見える。牙だ。かなり大きく長い。
……あれはなんだ。
と、後ろの女性陣が急に静かになり、つぎの拍子にはばしゃばしゃと激しい音を立て急いで川から出、無言でからだを拭き、服を着込む気配がした。
「イシュル、牙猪!」
あれは牙猪と言うのか。
イシュルが立ち上がると、杖を持ったマーヤが横に並んだ。
ふとマーヤを見ると、彼女は珍しく黒マントを身につけていない。
膝丈の赤茶のズボンに同色のベスト、白いブラウスにはワインレッドのスカーフ、ちょっとボーイッシュな感じだ。
マントの下はこんな服装をしていたのか。いいとこのお嬢さんというよりお坊ちゃま、だな。
「かわいいじゃないか。マーヤ」
「……っ、それどころじゃない。あれは怒らすと怖いよ」
マーヤは頬をそめながらも怒った顔で言ってきた。
「強敵ですな」
アイラが後ろから近づいてくる。
「牙猪はああ見えてもからだが異様に強固で硬く、怒るともの凄い勢いで突進してくる」
振り向くと彼女はもう鎧までつけていた。
「あわわわわ」
ニナはまだ焦げ茶のローブをあたふたしながら着ようとして、あまりうまくいってない感じだ。
「やり過ごすか」
イシュルは前を向いてマーヤに声をかける。
牙猪の群れは大きな団子のようなからだを寄せ合いながらもぞもぞと、まだ川の水を飲んでいて、こちらに気づいているのかいないのか、よくわからない。
団子を数えると全部で六個。
「あれ全部で突進してきたら大変」
と、マーヤ。
川縁で大小の石がごろごろしている上に両側は木々が密集している。足場が悪く狭いからそれほど気にする必要はなさそうだが、あいつらをやり過ごすにはその鼻先をかすめて間道にもどらなければならない。それともしばらくここでじっとしているか。
「やる」
マーヤが決断した。
「ここで待っていてもいいけど、出会った魔獣はなるべく退治したい」
なるほど。あんなのがひとの村の近くで暴れたりしたら大変だもんね。
「あれ、肉食じゃないんだろう?」
「肉食? ……ああ、でもひとも襲うよ。牙猪はなんでも食べる」
まぁ、魔獣、だろうからな。今のところ、やつらはこちらを無視しているのか、こちらを襲おうという感じは伝わってこないが。
「じゃあ、俺がやろう。まとめて処分する」
イシュルはそう言うとマーヤを見る。
昨日あたりから魔獣の出没頻度もぐんと上がってきた。怒らすと手強い相手なら俺が相手をした方がいい。今夜もどんな魔獣に襲われるかわからない。魔力量で自分に劣るマーヤたちは今はなるべく温存しておいた方がいいだろう。
「うん、いいよ」
マーヤが同意した。
風の魔法で直接やるのもいいが、どうせなら……。
昨日の召還では契約できなかったのだし、ニナの契約精霊の召還も間近で見れた。今さら他人に隠す意味はないだろう。
「イヴェダよ、願わくば我(わ)に汝(な)が風の大精霊を遣わしたまえ、下弦の月の盟約に従いて汝(な)を召還せん」
イシュルは目を閉じ昨日の大精霊の姿を思い浮かべ、呟くような小さな声で、しかし心を込めて自作の召還呪文を唱えた。
脳裡で白い光彩が爆発する。
目の前の空間が歪み砕け、辺りを僅かに風が渦巻くと、それがひとがたになる。
昨夜の大精霊、カルリルトス・アルルツァリが姿を現した。
「!!」
マーヤたちが息を飲む。
「凄い……」
後ろで誰かの呟き。
大精霊は昨日とまったく同じ姿、バカでかい矛を自らの手前に刃を下にして突き立て、両腕を組んで悠然とその巨体を空中に浮かべている。
「これは風の大精霊、カルリルトス・アルルツァリ!」
マーヤが驚嘆に、叫ぶようにして言った。
はああああ!?
おまえ、なぜ知ってる! じゃなくて、なんでそんなになめらかにやつの名を言えちゃうんだ!
おまえ、口べただったよね?
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