フゴへ 2



 二日目。

 昨夜は間道の傍を流れる小川の川縁で野宿し、夜明けとともに出発。まだ人里からそれほど離れていないせいか、夜間は各自交代で見張りについたが魔獣に襲われることはなかった。

「……」 

 イシュルの表情が険しいものになる。

 午後になり、昨日と同じくマーヤをおぶって歩き出して、まだそれほど時間も経っていないのに。

 気づくと背中の荷物が急に重くなっていた。決して腕が疲れてきたから、ではない。

 こつん、こつん。

 そしてマーヤの、おそらくおでこあたりが、自分の首筋に規則的に当たりはじめる。

 こいつ……。

 寝やがったな。

 イシュルが後ろを振り向くと、マーヤはやはり寝ていた。それでも魔法の杖を落とさないところはえらい、のだろうか。

 ふと、馬を曳きながら後ろを歩いていたアイラと目が合う。

 アイラがにっこり微笑んできた。

 さらにその後ろ、馬の右側を歩いていたニナも笑みを浮かべている。だが、その顔が少し物欲しそうに見えるのは気のせいだろうか。

「ふぅ……」

 イシュルは前を向くと小さくため息をついた。

 マーヤはイシュルの背中で寝たまま。その後もみな無言で歩き続け、やがて陽が西に傾き、辺りには微かに夕闇の気配が感じられるようになってきた。

 そろそろ野宿する場所を決めたいところだが、できるなら小川や湧き水など、水のあるところがいい。

 この辺一帯はベーネルス川をはじめとする大小の河川による、クシムやフゴなどの山系から広がった大規模な扇状地の一部と見なすことができ、地下水が豊富で湧水が多く、従って小川や池も多く間道沿いでもよく見かける。

 もう少し歩けばそれらにも行き当たるだろうと思い、アイラたちに相談しようと振り向いた時、進行方向の左手、間道の北西の方に、こちらに近づいてくる獣の群れを感じとった。

 距離は三百スカル(三百長歩、約二百メートル)近く。左側やや後方だが、振り向いた分早めに気づけたのかもしれない。今ごろから夜間は、向こうの位置はこちらから見て風下になる。

 獣の群れは思ったよりも早い動きで近づいてくる。もうこちらに狙いを定めているようだ。ただの狼か赤目狼かどちらかの群れ。おそらく八匹。

 一瞬立ち止まってねらいをつけると、狼たちの上空、木々の上で加圧した空気球を幾つもつくり、がんがんぶつけて始末する。

 薮の奥の方から乾いた破裂音が微かにしてきた。

 アイラは訝しげに音のした方を見ている。

ニナは大きな眸をさらに大きく見開いてこちらを見ている。

「い、イシュルさん、凄いですね」

「いや」

 たいしたことはしていない。

 アイラはニナに「イシュル殿が魔法を使ったのか?」などと質問している。

 これではっきりした。ニナはあの魔法具の店主いわく、“大物”の魔法具は所持していない。おそらくベルシュ家の魔法具など、あの魔法具屋で見せられた“小物”の方、無系統単能型の魔法具を持っているのだろう。

 以前、ベルシュ家の魔法具、その時はペンダントだった——をファーロから奪って持っていたブリガール、やつの前でそれなりの魔法を使ったが、ブリガールに魔力そのものを見て、感じて驚き恐れる風は見られなかった。つまり、やつはこちらの魔力を感知していなかった。

 “小物”の方の魔法具の所有者は、こちらがよほど大きな魔力を使うか、本人が魔法具を発動している時か、あるいは両方が同時に起こっている状態でも、魔力の発現をあまり感知することができないのではないか。

 イシュルはそこで、ぽかん、と後ろから何か堅いものでいきなり頭を叩かれた。

「あいた」

 振り向くと今まで眠っていたマーヤが起きていた。

 まさか魔法の杖で叩いたのか。

「なんだよ、いきなり。痛いじゃないか」

「イシュルひとりでかたづけちゃだめ。ニナもわたしたちも練習できない」

 マーヤの尖った小さな唇と丸い目が可愛いらしい。細い眉毛がくん、と上がっている。

「へいへい」

 このっ、ひとにおぶってもらってる分際で。えらそうに。

 その後運良くすぐに、ニナが近くに泉がありそうです、と言い出し、間道から北側に少し入ったところで湧き水の出ているところを見つけ、うまく野宿に適した場所を確保することができた。

 間道からはずれ、薮を掻き分けしばらく歩くと、周りを木々で覆われた小さな空間に、澄んだ水を湛えた池が見えてくる。

 近づいて水面を上から覗き込むと、木々の間のまだ明るい空が映りこみ、上から降り注ぐ光が反射して明るく輝いている。水面に雲がゆっくり流れていくのが見えた。

 ニナには契約した精霊が水場を時々教えてくれるらしい。便利なものである。

 みんなで夕食の準備をはじめたところで、また獣の群れを感知する。方向もさっきと同じだ。動きが速い。おそらく赤目狼だろう。さっきかたづけた群れの片割れか。たまたま少し離れていた生き残りが襲ってきた、という感じだろう。

 こちらには馬が一頭いる。彼らの鼻腔には人よりも馬の匂いの方が刺激が強かろう。人より馬の方がよほど食い出がある。

「くるぞ。さっきと同じ方向だ」

 マーヤたちに指さして教えてやる。

「全部で四匹。たぶん赤目狼だ。距離は二百長歩」

 空気球でいちばん後ろの一匹だけ始末する。残りは逃げずに向かってくる。

「一匹だけかたづけた。残りは各自一匹ずつだな」

 マーヤが杖を構える。ニナもステッキを引き抜き、頭を覆う布をとった。大きな青く輝く宝石がはまっている。アイラは剣を抜き、彼女らより数歩前に出た。

 イシュルは木に繋いである馬の傍により、首をなぜて落ち着かせてやる。

すぐに狼たちの、草を踏み掻き分ける音と荒い呼吸音が聞こえ出した。

 マーヤが無詠唱で、構える杖の頭上に小さめの火球を生み出した。前方のアイラが腰を一段下げる。

 ニナが小さな声で、早口で呪文を唱えだした。

「我が水神フィオアよ……我(わ)にみ、みましが恵みたる掌中の珠を、あ、あたえたまえ……」

 ニナが捧げ持つ杖の宝石に一条の光が走ると、その上の空間が揺らぎ水ふわっと現れてくる。その水は、またたく間に全体をゆらゆら揺らしながら球体になって形が安定した。

 ほう……、マーヤが生み出した火球の水版みたいなものか。

 そして彼女の詠唱。こちらが考えていたのとだいたい合っているようだ。聖堂教の聖典をもとにした古語を使い、魔法具の属性に応じた神への呼びかけから始まる形式。

 だが、以外だったのはあんなにカミカミでも魔法が発動しちゃうことだ……。

 と、薮の中から先頭の一匹が飛び出してきた。アイラのほぼ正面に白く輝く大きな物体。高く早い。赤目だ。

 アイラが素早く左にからだを開くと、剣を斜め上から袈裟斬りに赤目狼にぶち当てた。続いてもう一匹。頭を出した瞬間にマーヤの火球が走る。

 アイラの剣が赤目狼の肩口に当たった瞬間、すぱん、と赤目の首もとと、胴体がきれいに両断される。どういうわけか血もあまり飛ばない。早く、もの凄い力だ。

 マーヤの火球が当たった赤目狼は空中で全身を火に包まれ、ぼーっと火の激しく逆巻く音を出して落下する。

 いってんぽ遅れてニナの斜め前に最後の赤目狼が姿を現す。ニナが水球を当てようとして、その水球は赤目狼の手前で形を失いはじけ飛んだ。

 ええ!? まずいっ。

 イシュルは素早く馬から離れ、二、三歩前に出た。

 突然周りの音がすーっと遠ざかり、目に見えるすべての物が固まる。

 早見の指輪が魔法を発動する範囲に、赤目狼やアイラが入ったのだ。

 空中でからだをひねり、ニナに向かって飛びかかろうとしていた赤目狼が、高解像度のスローモーション動画のようにゆっくりと動きだした。

 その赤目狼にのけぞるようにして固まったニナ。

 ニナを襲おうとする赤目に早くも反応を示しはじめるアイラ。アイラの動きはさすがというか、赤目狼のそれより幾分早く感じるくらいだ。

 すべてがゆっくりと動きはじめた世界で、自分の知覚と意識だけが正常な時を刻んでいる。

 まず、風を集め赤目狼の前面に集中する。やつを風圧でいったん後ろに吹き飛ばす。

 だが、すべてが遅くなった世界では自分のからだを動かすことはもちろん、自らの魔法の発動も遅くなる。

 それでも風の動きはそこそこの早さでニナと赤目狼の間に集まりはじめた。

 すべてが止まったようにさえ見える時間。

 これ以上やることはなくなった。

 自分の発動した魔法、アイラの動きと赤目狼の動き、すべての結果が明らかになるのは、いったいどれくらい先になるのか。

 早見の魔法の効果はいつ切れるのか、そういえば大事なことを魔法具屋の婆さんから聞くのを忘れていた。

 いや、あの婆さんが何も言わなかった、話題にしなかったということは……。

 イシュルは左手の中指にはめた早見の指輪に意識を向け、切れろ、終われ、と念じた。

 瞬間、音が、周りのすべての気配が戻ってきた。

 赤目狼の前に集束していく風の渦。

 だが、アイラの動きも早かった。

 急に吹き始めた風の中、彼女はからだを素早く反転すると横から赤目狼に斬りつけた。瞬間、赤目狼の胴体が真っ二つになる。それは時が戻れば電光が閃くような早さだった。

 イシュルは自分の魔法をキャンセルし、ニナと赤目狼の間につくった風の壁をそのまま上空に逃がした。目に見えない壁が大小の風の渦となって大空に消えていく。

 これで早見の指輪の効力も実地に試すことができた。今回はたいして役に立たなかった感じだが、やはり複数の相手、加速の魔法を遣う相手と戦う時には有効に使えるだろう。

「あわわわ」

 ニナの後ろ姿が目の前でぶるぶる震えて、彼女の動揺が伝わってくる。

 視線を右にやると、マーヤの火球にやられた赤目が全身を真っ黒焦げにして、草の上にその無惨な姿を横たえ、薄く煙を上げていた。

 火球はそれほどの大きさではなかったのに、火力は異常なほど強力だ。さすがは魔法。これくらいの大きさの火の球ならこれくらい燃える、とかの見当がまったく合わない。やはり何か尋常でない力が働いているのだ。風の魔法具を持つ自分が言うのも変な話だが。

「ニナ、だめでしょ」

 マーヤがニナに声をかける。

「もっと集中しないと」

「は、はい! すいません……」

 ニナはしょんぼり、というよりあたふたしている。

 ニナは自信のあるなしの前に、あがり症で慌てん坊なんだろう。本番に弱いタイプ。そういう子だろう。

 イシュルはちらっとニナを見るとアイラの方へ寄っていった。アイラは剣の刃についた血糊を丹念に拭き取っていた。

 とりあえずニナは置いといて、アイラに聞きたいことがある。

「アイラさん、さっきはお見事でした。凄い力ですね」

「いや。それよりイシュル殿には早速わかったしまったかな?」

  凄い膂力だ。剣術の達人だとしても、どちらかと言えば細身のアイラの体格で、あんな簡単に赤目狼の胴体を真っ二つにできるものではない。二匹目の時はスピード重視で踏ん張りも足りず、腰も浮いていたような感じに見えた。

「力の魔法具ですか」

 アイラは黙って頷いた。

「わたしが武神の力、姉上が疾き風の魔法を遣う。極めていくとどちらも似通っていくがな」

「なるほど」

 それは言えてる。どちらの魔法も体力やら筋力やらにかかわるものだ。力が強くなれば、場合によっては早く動けるようになるだろうし、早く動くには、力もある程度必要になる。

 イシュルはニナに小言を言っているマーヤに声をかけた。

「とりあえず場所、移動しようか。ここに長い間いるのは危険だ」

 あたりには物の焼け焦げた匂いも立ちこめているが、血と内蔵と、獣の匂いもきつくなってきている。これから夜になれば、他の魔獣がたくさん寄ってくるかもしれない。

 それからしばらく先に進み、水場はないが、草地の少し開けた場所に出たので、その端の木々を背にしたところで休むことにした。

 食事をとると、見張りを残して皆早々に寝に入る。夜間はそれなりに冷え込む季節になったので、真ん中に焚き火をし、その周りにおのおの厚手のマントに包まって横になる。

 最初の見張りはニナ、次はアイラ、イシュルと続き、最後がマーヤだ。

 イシュルは横になると眠らないようにし、アイラとマーヤの寝息が安定してくるとそっと起き出して、焚き火から少し離れたところで草むらに腰を降ろし、星空を見上げていたニナの隣に座った。

「へっ?」

 ニナが小さく声をあげる。

 イシュルは口に人差し指を当ててみせ、笑顔をつくった。

 焚き火の明かりが後ろから、寄り添うふたりの細長い影をつくりだした。

 炎の小さな瞬きが、ふたりの影を大きく揺るがせ、まるで草の上で踊っているかのように見せている。

 イシュルはその影を見つめながらニナに話しかけた。

「夕方のあれは、失敗しちゃったね」

「はい……」

 ニナが俯く。

「ニナはあがり症なんだ」

「あがりしょう?」

「ひとと面と向かって話さなきゃならないときとか、いざというときにもの凄く緊張してしまうことだよ」

 彼女の訥弁はそのせいだろう。それは魔獣と戦う時にも影響している。

「そ、そうですね」

 彼女がかすかに口を歪ませる。自嘲が彼女の顔に浮かぶ。

「多分、今までずっと、君の周りの人びとは直せ直せと、口うるさく言ってきたと思う」

 赤目狼と戦った後、マーヤもニナに同じようなことを注意していた。確かにそう言うしかないのはわかるのだが。

「でも、こういうことは自分で直そうと思っても、そう簡単に直せるもんじゃないよ。それはきみ自身が一番よくわかってるんじゃないかな」

 ニナが無言で頷く。

「だから、無理して直そうなんて考えなくてもいいんだ。気にする必要はないんだよ」

 イシュルは頭を上げ、ニナの横顔を見つめて言った。

「あ、ありがとうございます。イシュルさん。じ、実はわたしの師匠にも、同じようなこと言われました」

 ニナがイシュルに顔を向けて笑みを浮かべて言った。

「イシュルさんが、ふ、ふたり目です」

 その後、ニナは師匠の話をはじめた。ニナの師匠は女の魔法使いで歳はまだ三十過ぎ、弟子を持つ宮廷魔導師では若い方だという。

「へへ、凄い美人さんですよ」

 彼女は王都に詰める宮廷魔導師で、アルム湖と王都を行ったり来たりしているのだという。ちなみに王都とアルム湖の間はそんなに距離はない。短期出張を繰り返すような感じだろう。

「さっきの話だけど、まだ続きがあるんだ」

 イシュルはニナの師匠の話が一段落すると言った。

「確かに自分の性格の欠点を無理に直そうとする必要はない。だけど、それとちゃんと向き合っていかなきゃならない。自分自身と向き合っていかなきゃいけない」

 イシュルはニナの目をじっと見つめた。

「無視することはできないんだよ。逃げることはできないんだ。生きている間はずっと、多分一生、つきあっていかなきゃならない」

 ニナの目が見開かれる。その眸に星の瞬きが映りこんだ。

「ずっと向き合っていれば、何かがわかるかもしれない。何かが変わるかもしれない」

 ニナが微笑んだ。

「はい」

 

「大事なことは、それと戦って押さえ込むことじゃなくて、それを受け入れて、自分の一部なのだと認めることなんだ。ひとの心の形はそう簡単には変えられない。気を張って早く直そう、などと思わなくていい。でも、完全にあきらめてもいけない。それのそばに居続けて、なんとなく見て、さわって、感じて、考え続けることが一番いい方法かもしれない。そして」 

 イシュルは掌をニナの前に差し出し、小さな風の渦をつくった。

 昔、同じことをやった憶えがある。

「自分の使う魔法に聞いてみるんだ」

 イシュルは掌の上の風の渦を上へ上へと伸ばし、空の方へと消していった。

 ひとの心と魔法はつながっている。

「魔法使いが遣うような魔法は、魔法具だけでも、呪文だけでも、神の力でも、完成しない」

 ニナの眸に映る星が瞬く。

「自分の心のうちにあるものを引き出さないとだめなんだ。師匠にも似たようなこと言われなかった?」

 ニナが黙って頷く。

 イシュルは掌を握りしめた。

「それは自分と向き合うことだ。きみの弱い心と向き合うことと同じだ」

 イシュルは風を吹かした。

 背後の木々が微かにざわめく。

「その弱い心の奥底に、その向こうに、魔法の深奥がある」

 背後の風の音がイシュルとニナに回り込んでくる。

「その深奥をつかみとれれば、きみはきみの弱さもつかみとることができるかもしれない」

 イシュルはまた掌をニナの前にかかげた。

 その掌の上にふたりに回り込んできた風を集め、同じような渦をつくってみせた。


「ニナは水で同じようなことができる?」

 イシュルはニナの手をとり、彼女の掌をもう片方の手で指さして言った。

「詠唱はなしだ」

「えっ、そ、それは無理です。水がないと」

 そこでイシュルは彼女の掌を降ろして説明をはじめた。

「多分、どんな水の魔術書にも書かれていないと思うけど」

今日の夕方、赤目狼と戦う時にニナが唱えた詠唱。そこから考えられることは、魔術書も聖堂教の聖典、つまり教義をもとにした世界観に基づいて書かれているだろう、ということだ。

「水は万物の源、っていう言葉があるんだけど、知ってる?」

 ニナの顔に驚きと困惑の表情が広がる。

「万物は主神ヘレスさまがお、おつくりになったのでは」

「もちろん。水は万物の源、っていう考え方は正しいとは言えない」

 イシュルはわずかに皮肉の混じった笑みを浮かべる。

 ここで宗教論や、目に見えない水分がどうだ、水の分子がどうだ、などと話してもしょうがないし、話すべきではない。

「でも、ある意味完全に間違っている、とも言い切れないんだ。ニナは人間のからだにどれだけの水の量が含まれているか知ってるかい?」

「……ひと、にですか?」

「そう。例えば血液、血にも水は含まれている」

「あっ、それはわかります。わ、わたしはできないけど、み、水の魔法使いで、怪我して血が流れ出るのを止めることがで、できるひとがいます」

「ああ、そういう魔法使いもいるだろうね。聖堂教の神官が遣う治癒魔法にもあるかもしれない」

「そうですね」

「血にも水が含まれているのなら、ひとのからだのなかにも水があることになる」

 ニナがはい、と頷く。

「実はひとのからだの半分以上は水でできているんだよ。動物も魔獣も、植物も、およそ生きとし生けるものすべてのからだの中には水が含まれている。割合の多い少ないの差はあるけどね」

 そしてイシュルは片手をあげ中空にかざして握る仕草をしてみせた。

「目には見えないけど、空気の中にも小さな水の粒が隠れている。空気中の水の多い時は霧みたいにひとの目にも見える。雲にも水は含まれている。それはわかるよね?」

「は、はい。雨は雲から落ちてくるから……」

「大地の、土の中にも水が含まれている」

「はい、そ、それはわかります。わたしのお師匠さまはじ、地面から水を吹き出させたり、泥沼にかえたりできます。わ、わたしはちょっとしかできないけど、契約しているわたし、しの精霊も、お師匠さまと同じくらいできます」

「それは凄い魔法だね」

「はい!」

 ニナは元気に返事をした。

 イシュルは慌てて人差し指を口に当てて、しー、とやった。

 この世界では一般的なジェスチャーではないが、一応伝わる。

「ご、ごめんなさい」

「だから、この世のものの多くに水が含まれている、水は万物の源、ということになるんだ」

「なるほど」

「地面の中から水を取り出せるんなら、空気の中からも取り出せるんじゃないかな。ひとのからだから流れ出ようとする血を止めることができるのなら、からだの中の血の流れを止めることもできるんじゃないかな」

 イシュルが歪んだ笑みを浮かべる。

「地面や空気から水を取り出すことができるんなら、ひとや魔獣のからだの中からも取り出せるんじゃないかな?」

 一瞬間をおいて、ニナの眸が驚愕に大きく見開かれる。

「人間でも魔獣でも、木や花でも、そのからだから水を抜きとってしまえば、かならず死を迎えることになる」

 イシュルは手を伸ばして小さな白い花を咲かした草を手折り、ニナに渡した。

「この草から水を抜き取って、この花を枯らしてごらん。何か役立ちそうな呪文があるのならそれを唱えてもいいから」

 イシュルは真面目な顔になって言った。

「この草の茎や葉に流れる目に見えない水を感じて探してみるんだ」

「は、はい」

 ニナが頷く。

「やってみます!」

 イシュルも笑みをつくって頷きかえすと、急に真顔になってニナから顔を逸らし、おもむろに立ち上がった。

 無言で草原の奥へと歩いていく。

「イシュルさん? どこへ?」

 後ろから声をかけてきたニナに、イシュルは振り向いて言った。

「ちょっと用を足してくる。後で見せて?」

「あっ、は、はい。す、すいません」

 ニナが、ぎゃふん、といった感じで首をすくめた。


 イシュルはゆっくりと歩を進め、ニナからそこそこ離れた辺りで後ろを振り向き彼女を見た。

 ニナは俯き加減に両手で魔法の杖を抱え、地面に向けて何かやっている。

 さっき手渡した雑草を地面に置いて、呪文を唱えるか何かしてイシュルに言われたとおり、草から水分を抜き取ろうとしているのだろう。

 水は万物の源、と最初に唱えたの古代ギリシャの哲学者ではなかったか。おそらくこの世界でも、どこぞの学者がすでに同じような学説を立てているかもしれないが、人びとは大昔から聖堂教の教えにどっぷりつかっている。聖堂教会自体は異端を露骨に弾圧したりはしないが、それ以前に、聖堂教の教えに反するような思想や学問は、この大陸では人びとの間に広く浸透していくことはないのだ。

 イシュルは前を向き、再び草原を歩きはじめる。

 草原には風もなく、下弦の月の淡い光が降り注いでいる。

 イシュルはひとりほくそ笑む。

 是非とも神々に聞いてみたいものだ。

 おまえたちはこの世界の成り立ちをどこまで知っているのか、と。

 イシュルは草原を弧を描くように歩き続け、ニナや眠っているマーヤたちの間に木々をはさみ、視界を遮るところまで来ると立ち止まり、夜空を見上げた。

 だが、まずは目前の危機に対処することが肝要だ。

 赤帝龍とどう戦うか、いろいろと考えているが、まずはひとつめ。今この場で風の大精霊を召還し、できれば契約するところまで持っていきたい。フゴに到着するまで独りになる時間も少ないだろうし、召還は誰にも見られたくない。やれる時に、なるべく早くやっておいた方がいい。

 イシュルは目を閉じ、一度息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。

 そして自らの記憶を遡っていく。風の記憶を。心の記憶を。

「イヴェダよ、願わくば我(わ)に汝(な)が風の大精霊を与えたまえ、この長(とこ)しえの世にその態を発したまえ」

 たぶん正確な呪文ではないだろう。だが定形に拘る必要などないのだ。

 脳裡に一瞬、麦穂の匂いが、そして乾いた風のかすかな湿り気が漂うと、次の瞬間、爆発的な光彩が閃き後方へ流れていく。

 同時に頭上で風が渦巻き、空間が裂けて何かが吹き出してくる。

 裂けて?

 と、イシュルが思う間もなく、それはやがてひと固まりに集束していき、中空でひとの形になった。

 月の柔らかい光を浴びて白く輝く、半透明の大きなひとがた。

 それは、幅広の大きな矛を手前の中空に刺し立てて両腕を組んで立つ、古めかしい南方の様式の入った強靭そうな鎧を纏った、ひとりの偉丈夫だった。

「我が名はカルリルトス・アルルツァリ、剣殿のお召しにより只今参上」

 野太い声がエコー付きで、頭の中をがんがん響きわたる。

 かるるあるる? ……な、何? 剣殿? イヴェダの剣のことか? しかも、さ、参上とはこれはまた……。

 イシュルは呆然とその中空に浮かぶ偉丈夫を見上げた。

 滅茶苦茶強そうだけどさ……。


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