フゴへ 1




 どこに隠れていたのか、街道の先の方から大公騎士団の騎馬が六騎現れた。騎士たちは皆同じ赤いマントをなびかせ、全身を銀色に輝く甲冑で固めている。

 よく手入れされた美しい馬体。騎士の整った姿勢。それよりも乾いた馬蹄の音の連なりに、人馬一体となった彼らの並々ならぬ伎倆が伝わってくる。

 騎士団の騎馬に前後を守られ、あの強そうなガントレットの男と執事を乗せて、大公の乗る馬車がイシュルのすぐ目の前を通りすぎて行く。

 跪き頭を下げたイシュルのすぐ横に、マーヤの神妙な面持ちの横顔がある。彼女は眸を開けたまま、何の色もなくただ地面を見つめている。大公が去っていくと彼女は静かに立ち上がり、同じように立ち上がったイシュルの横顔を見上げ、その眸の色をざわめかした。

「イシュル、どうしたの?」

 マーヤが心配そうに聞いてくる。

「顔が真っ青だよ」


 あれから、イシュルはしばらく自身の動揺を抑えきれず、ヘンリクとまともな会話さえすることができなかった。

「……」

 ヘンリクはそんなイシュルを、まるで我が子を見るような慈愛のこもった目で見つめてきた。その眸には揶揄や侮蔑や皮肉の、濁った色が微塵も感じられなかった。

「無理することはない。娘から聞いているよ? きみはペトラに、まず赤帝龍の力を計るために戦ってみる、と言ったそうじゃないか。城を出るときに娘につかまってしまってね。うれしそうに話していたよ。きみは凄いと」

 ヘンリクが慰めるように言ってくる。

「わたしもきみの考えに賛成だ。きみはまだ若いのに素晴らしい。ベルシュ家は小なりとも、歴代当主はなかなかの傑物ぞろいだと以前耳にしたことがあるが、きみにもその血が受け継がれているのかもしれない」

 人誑しだ。こちらの心を掴みにかかってきているのだ。

「次の出陣ではわたしも出ることになるかもしれない。その時には是非、再びきみの力をかしてくれたまえ」

 ご親征か? いよいよ王族自らご出陣だ。

 今度こそは戦力の逐次投入をやめろよ。

 そんなことを皮肉たっぷりに考えるもうひとりの自分がいる。

「もしきみとマーヤが失われたら、娘がどれだけ嘆き悲しむだろうか。正直、そんなことはわたしには堪えられない」

 ヘンリクは他にも何事か、どうでもいいような話を続け、最後にペトラとマーヤを出してきて、止めをさすようなことを言ってきた。

 イシュルはそれに、引きつった笑みを向けることしかできなかった。

 大公を前に、最後は無様な姿を晒してしまったかもしれない。

 晩秋の枯葉散る、フロンテーラ郊外での秘密の会見。最後は彼の独壇場と化していた。

 バルヘルの火の魔法具の話をしてきたのも単なる忠告だけでなく、こちらの動揺を誘い、依頼心、依存心をかきたたせ、自分自身を彼の掌中におさめようとはかっていたのではないかとさえ、邪推したくなる。

 だが、俺の動揺は彼の感じたことと少し違う。

 もちろん赤帝龍と戦うのは恐ろしい。死ぬことになるかもしれない。

 その恐ろしさが段違いに大きくなってしまった。

 イヴェダの風の魔法具があるのなら当然、バルヘルの、火の魔法具があって然るべきだった。他の水の、地の、金の魔法具も。今まで、自分はそんなことにさえ思い至らなかった。考えもしなかった。

 だが、それだけではない。それですまされない問題がある。

 それは神の魔法具すべてが、何かの因縁で深く結びついているのではないかと、心の奥底から沸き上がる何かによって、気づかされてしまったことだ。

 心の中を荒れ狂う疑念と恐怖。

 はっきりとしてきた、はっきりとわからないこと。

 古代ウルク王国と神の魔法具にはどんな関係があったのか。いや、そんなこととはまったく違う次元の何かか。

 ヘンリクが赤帝龍に火神の魔法具をからめて言ってきたひと言、

「気をつけろ」

 この言葉をここ数日でどれだけ耳にしてきたろうか。みな心のこもった暖かいひと言だった。

 だが、それとは正反対の嘲りと挑発をこめて、その言葉を俺に、最初に投げかけてきた者がいなかったか。

 その姿に俺の罪を背負わせてやってきた者。

 それはメリリャ。

 いや、彼女に化けた月神、レーリアだった。

 冥府と運命を司る女神だった。


「大丈夫だ、マーヤ。行こう、クシムへ」

 立ち上がったイシュルは前を向いたまま言った。

 神々の考えていることなどわかるはずがない。こちらでどうにかできるものではない。

 自分の信じる道を、思う道を行くしかない。

 クシムには何があるのだろう。

 風の魔法具と火の魔法具、赤帝龍と面を突き合わせた時、何が起こるのだろうか……。

 イシュルの目は遥か遠くの東の空を見つめた。


 夕方、まだ陽の残るうちに一行は城塞の街、バーリクに到着した。

 街道を行くと、畑や牧草地と農家が散在する牧歌的な風景の中に、いきなり高い城壁を二重に張り巡らした城塞都市が出現する。城塞は街道を喰わえ込み、その川縁に橋塔を備えた武骨な橋を吐き出していた。

 街の規模はそれほどでもない。エリスタールやオーフスあたりよりもよほど小さい。大きな門をくぐり、城塞の外郭部に入ると、予想に反して街道沿いは宿屋や飲み屋がひしめく、宿場町の様相を呈していた。

 街中の狭くなった道は人や荷車でひしめき、賑やかだ。

 主に大公家の城兵とその関係者が住む、静かな街かと思ったが、ここからフロンテーラまでの半日あまりの距離を考えると、この狭い街に宿屋が蝟集し、実質宿場町となってしまっているのも納得がいく。

 マーヤはもう宿泊先を決めてあるのか無言で街の中をぐいぐい進んでいく。荷車の類いはともかく、通行人はみなマーヤの姿を見るとぎょっとして道を譲るので、混雑する道を進むのも案外に楽だった。

 マーヤは内側の城壁も越え、三つの城塔を備える城主の居館近くに立つ立派な建物の前まで来ると、皆に向けていった。

「ここ」

 イシュルとマーヤは個室、アイラとニナは同室。夕食時に宿屋の一階にある食堂に集まって皆で食事をとり、旅の打ち合わせをした。

「やたらと高級なところだな。ここ」

 イシュルがマーヤに話しかける。

 中は落ち着いた質のいい調度品で整えられている。壁際にかけられたランプの柔らかく控えめな光が室内を満たし、客もまばらで静かで落ち着いた感じは実際、街中の食堂、という雰囲気ではない。

「そう?」

 マーヤはイシュルの言をあっさり流すと、食器のかたずけられたテーブルの上にフゴまでの道のりを描いた絵地図と、クシム周辺の同じく絵地図を広げた。

 貴族や富商専用の宿というわけだ。

 イシュルは絵地図に目を落としながらそう心の中で呟いた。

 まず、フゴまでの道のりを描いた絵地図から見ていく。

 絵地図にはフロンテーラからアルヴァ、クシムやフゴ周辺までが描かれている。フロンテーラからアルヴァまではやや北寄りだが、ほぼ真東に伸びるアルヴァ街道が、アルヴァからクシムへは東北へ伸びる道が描かれていた。クシムの北西、すぐ近くにフゴがあり、クシムとフゴの間を流れる川がアルヴァの手前でベーネルス川に合流している。この川がニナが言っていたクシム周辺を流れる川、なのだろう。だが彼女が同行するのはフゴまでなので、はっきり言って彼女の水の魔法に何ら役立つようには思えない。

 ただこの地図に描かれていない小さな川が、周辺のいたるところでたくさん流れているのは間違いないだろう。

「しかし凄まじいな」

 思わずため息混じりに呻く。

 何が酷いといって、問題の間道、がである。マーヤの言っていた“間道”は、誰が見てもそれとわかるような感じで、後から付け足して描かれてあった。それもかなり乱雑にである。

「これ、まさかマーヤが後から付け足して描いたりとかしてないよな」

 アイラの肩がぴくっと震える。

 彼女が犯人か? と思ったらどうも笑いをこらえているらしい。

 ニナの方に視線を向けると、こっちは顔を青くしている。

「ひどいね。イシュル」

 マーヤが怒った。ほっぺたを膨らましている。

「わたしじゃないよ? そんなこと言うなら見せてあげない」

「あーごめんごめん、ほんとにごめん」

 マーヤがこんなに感情を表に出すのはめずらしい。

「実は、その」

 アイラが言いにくそうに話しはじめる。 

「地図を用意させたペトラさまが皆の前で、その」

 あー、あいつがまた何かやらかしたのね。凄いことやっちゃったのね。

 もともとこの絵地図には間道が描かれていなかったのだ。

「まぁこんなもんじゃろう、と御自ら羽ペンで……」

「わたしは止めたんだよ」

 と、頬を膨らましたマーヤ。それで余計に怒っていたのか。

 止めた側だったのに、犯人扱いされちゃな。しかもその犯人はペトラだし。

「でも、イシュルが困るじゃろうが、とかいって」

 いや、そんなこと言われても。俺のせいじゃないよね?

「いや、ほんとに凄まじい」

 イシュルはまた同じようなセリフを吐いてこの場をごまかした。


 しかし、ペトラが引いた線は、よく見ればいいかげんだと単純に切り捨てるほど酷いものではなかった。ご本人はそれなりに考えて描いたみたいで、なかなかどうして理にかなったもののように感じられる。

 アルヴァ街道の北側を、街道と適度に距離をとりながら山や丘の間をうねうねと通り、途中にあるベスカとルドルど書かれたふたつの集落を結び、まずアルヴァの手前で二股に、その先でクシムへの街道とつながる二股の道がそれらしく描かれている。

「まぁ、そんなに間違ってはなさそうだな」

 イシュルは絵地図から顔を上げると三人の顔をみた。

 アイラは困ったような苦笑、ニナは引きつった苦笑。

 マーヤはまだ怒っているのか、わざとつん、と目をそらしている。この感じなら大丈夫か。

 三人とも肯定の返事をはっきりとはくれなかったが、否定もしてこなかった。

「ふたつの分かれ道では最初が左、次が右か」

 アルヴァからクシムへ行く街道は特に名は決まってなく、引き続きアルヴァ街道と呼ばれたり、クシム街道と呼ばれたりしているらしい。ちなみに絵地図にはなんの記載もない。間道の二つ目の別れ道を右に行き、この街道に出て、すぐに左に別れる細い道を行くとフゴに到着する。

「フゴまでは何日くらいかかる?」

「二十日ほど。アルヴァまでは十五日、とされている」

 と、アイラ。

「途中で村が二ヶ所か……、けっこうきびしいな。明日は街の市で、塩、干し肉、葉物の塩漬けや芋の類いを余分に買い込んでおこう」

「途中には絵地図に描かれてない小さな集落もあると思う」

 マーヤはちゃんと顔を向けて言ってきた。

「魔獣が増えてるから、今はどうなってるかわからないけど」


 続いてクシム周辺の絵地図を見る。

 クシムは、東側に広がる大山岳地帯から西に伸びてきた山脈の、さらに枝分かれした山稜のひとつ、その山稜が平野部に消える辺りにあった。アルヴァから徒歩で五日、北東方に位置する。

 絵図によると鉱区はその山稜にあるようで、その周囲をコの字状に覆うような形で複数の集落が存在している。

 フゴはそのクシムから西北に徒歩で一日半、クシムの抱え込む山稜と、河川の流れる扇状地を挟んだ反対側の山稜の山麓部にあった。

 フゴはクシムを補うように発展してきた大きな村で、クシムで消費される木材の切り出しや加工が村の主たる産業、ということになるが、王国東部では最有力のハンターギルドがあり、賞金稼ぎのハンターたちのための宿屋や飲み屋なども村内に多く存在した。クシムの傭兵ギルドが鉱山で働く囚人、鉱山奴隷たちの監視や一部管理を中心に行っているのに対し、フゴのギルドは街道沿いや周囲一帯に出没する魔獣を狩る業務が中心だったので、一般に傭兵ギルドよりもハンターギルドと呼ばれることが多い。

「で、このクシャクシャもあいつの仕業か」

 イシュルがうんざりした口調で言った。

 絵地図には、クシムの北部、山稜の北側に、クシャクシャと羽ペンで幾重にも○らしきものが描かれた箇所があった。

 このクシャクシャ印が何を意味しているのか、それはよくわかるんだが。

「ふふ」

 マーヤが声に出して笑う。

 アイラは相変わらずの苦笑、ニナの笑みは今度はほんとうにおかしそうだ。

 赤帝龍が居座っているらしいクシャクシャ印の北側には、すぐ傍までまた別の山稜がせまっていて、背後は南北の山稜の間が狭まり、標高も高くなっているようだ。

 つまり赤帝龍は、山と山に挟まれた谷の出口に近いところに陣取っていることになる。

「なかなか、守りやすいところに陣取っている、と言えなくもないが……」

「うん」

「そうですね」 

 マーヤとニナが同意を示す。

「赤帝龍は破格の強さ。そんなことは気にしていないかもしれませんな。どんな動物も魔獣も、寝床には周りを塞がれた狭いところを好むというから、赤帝龍もその習いにしたがっただけかもしれない」

 アイラは、また別の意見を言ってきた。

「そうかもな」

 イシュルは呟くように言うと、マーヤに顔を向け質問した。

「赤帝龍はメシはどうしてるんだろう? ずっと同じところにいるんだろ?」

「眷属の火竜に餌を持ってこさせてる、みたい」

 それで人里まで下りてきて家畜を襲ったりしてたのか。

「イシュルは、龍の巣って知ってる?」

 マーヤが聞いてきた。龍の巣? 初耳だ。

「ずっとひ、東の山奥に大きな火山があって、赤帝龍はそこに巣をつくってす、住んでいるそうです」

 ニナが割って入ってきた。

「ほう。それで……」

「赤帝龍は何千年も生きていて、半神のような存在」

 マーヤが話を引き継ぐ。

「だから、食べ物をあまり食べなくても、生きていけるといわれている」

「す、巣にこもっている間は、火山の火と熱があ、あればそれで生きていられるそうです。」

 言い伝えで、本当かどうかわからないですが、とニナがつけ加える。

 昨日の大公の話からすると、赤帝龍は千年とちょっとくらいの年齢だと推測できるのだが……。

 それよりも、“半神”という言葉が気にかかる。山村に住む者たちからは神のようにあがめられている、というのは以前から知っていたが、神の魔法具と長い間一体化していると、そういうような、つまり人や動物とは違う、食物を摂らなくても生きていけるような存在になっていくのだろうか。

 とりあえず、寿命が伸びるのは人も龍も同じのようだ。レーネは二百年以上生きていた。

 いや、まだ赤帝龍が火の魔法具を持っているか、確定したわけではない。あれこれ推理しても意味がないか。

「どうしたの? 難しそうな顔をして」

「いや、なんでもないよ。絵地図の方はありがとう。もう大丈夫。次にマーヤたちが何を持ってきたか教えてくれないか」

 何か足りないものがあれば、明日食糧とともに購入しておく必要がある。

 イシュルはマーヤに笑顔をつくって言った。



 

「マーヤ?」

「ん〜」

 バーリクの市場で予備の縄やマント、食糧など必要な物を買い求め、ベーネルス川を渡って間道に入った初日、イシュルはいきなり無用な困難に突き当たることになった。

「マーヤ?」

「もう歩けない」

 馬一頭、あるいは人がふたり、かろうじて並んで歩けるほどの凹凸の激しい道を半日あまり。

 マーヤが早くもへたってしまった。

「さっきみんなで休憩したばかりじゃないか」

 道端に座り込んでしまったマーヤに話しかける。

「マーヤ殿はエーレン伯爵家のご息女ゆえ。イシュル殿、どうかここはご寛恕いただきたく」

 アイラが横から、お堅い感じで甘いことを言ってくる。

 ニナは少し離れた後ろの方で心配そうにこちらを見ている。

 ニナもまたひと休みしましょう、とでも言い出しそうな顔をしていて、マーヤを気遣っているのがわかる。

 あたりは木々の間に草地がちらほら、森、というほどではなく、見た目なんの面白みもない薮が延々と続いている。

 道が悪く、視界も狭く変化がない。気が滅入って疲れも溜まりやすくなるのも、わかるような気がする。

 いっしょに街中を歩いていても、マーヤは歩くのが遅かった。からだがちっこいのもあるが、もとが伯爵家のお嬢様だから、というのもあるだろう。確かにフゴへの道行きがどうなるか、体力的にちょっと心配はしていたんだが……。

 まさか間道に入って初日でこれか?

「ほら」

 イシュルはマーヤに手を差し伸べ、彼女を引き起こした。

「ん〜」

 マーヤは立ち上がると右手に魔法の杖を持ったまま、両手をこちらに突き出してきた。

 万歳でもしてるんですか?

「ん〜ん〜」

 マーヤは突き出した手を振りながら唸っている。

「なに」

 なんとなく何をして欲しいかわかったので、わざと突き放すように言ってやる。

 アイラはもちろん、ニナだってまだまだ全然普通に歩いてるんだぞ?

「おんぶ」

 子どもかよ!


「そういえば大公さまの紹介状、ありがとうな」

 肩越しに、背におぶっているマーヤに声をかける。

 セヴィルに見せられたヘンリクの直筆サイン入りの紹介状、というより推薦状になるのか。その件のことである。

 大公との会談では、後半、あの爆弾発言をされてそれどころではなくなり、本人に直接礼を言うことができなかった。

 ただ、彼も毎日多くの書類にサインしているだろうから、セヴィルに用意した推薦状のことをいちいち憶えているかわからないが。

「ん?」

「セヴィルさんに、手配してくれたろ?」

「ああ」

 マーヤの口ぶりに少しぞんざいな感じがするのは気のせいか。

 マーヤめ。らくちんか? 俺はその分つらいんだがな。

 あれから、結局しばらくの間、マーヤをおんぶして歩くことになってしまった。

 馬をもう一頭手配してもらえばよかった。乗馬は苦手だし、マーヤは乗れないっていうし、どうせ本隊は徒歩兵が主体だから行軍は遅くなるだろうし、ってことで、荷馬を一頭のみ用意して、こちらも歩きで行こう、ということになったのだが、マーヤがこうも早くにへたるとは予想もしていなかった。

「ペトラと大公さまにもよろしく言っておいてくれ」

「わかった。でも、あれはもとから商会のひとと約束してたことだから」

「ん?」

 イシュルが肩越しに顔を向ける。

「最初は警戒して、何も話してくれなかったんだよ」

 何も話してくれなかった、とは俺に関することか。

「セヴィルさんがか?」

「商会のひと、みんながね」 

 セヴィルらは最初、イシュルのことに関していろいろと聞き出そうとするマーヤを警戒して何もしゃべろうとせず、マーヤは例の大公の紹介状をはじめ、いろいろと取引も持ちかけたがそれでも話そうとせず、イシュルのやったエリスタール城破壊や男爵殺害の罪を見逃すと確約してみせて、やっとそのふさいでいた口を開き、イシュルのことに関して話すこと、情報提供に応じたのだという。

「それからもイシュルはやさしい子だ、頭のいい子だ、ってそんな話ばかりだったよ」

 フロンテーラに着いてセヴィルたちと再会した時、彼が語ったことと少し話が違う。

「セヴィルさんは、エリスタールの状況を教えてもらうかわりに俺のことを話したと言っていたんだが……」

 イシュルが呟くように小さな声で言うと、マーヤが笑って言った。

「ふふ……、それもわたしが譲歩したの。大公さまの紹介状と同じ」

「そうか、そうだったのか」

 セヴィルとの取引条件にする以前に、俺が王家に仕えるか赤帝龍討伐に協力するなら、男爵殺害やエリスタール城破壊の罪を問わないという方針が、マーヤや大公、王家の間で少なくとも検討はされていた筈だ。

 セヴィルたちの小さな抵抗がまさか、王家の方針を決めるきっかけになったりはしなかったろう。

 だがそれとは別の面で、マーヤの話の内容は予想外だった。

 マーヤとセヴィルたちの間で交わされた意外な駆け引きの内容、商会のひとたちはそんなことをおくびにも出さなかった。

 セヴィルは自ら悪役になって、自分の情報を、エリスタールの情勢を知るための取引材料に使った、という話しかしてこなかったのだ。

「まぁ、わたしもイシュルはいい子だってわかってたけど」

 マーヤが得意そうに言う。マーヤの話は続いている。

「なぜ?」

「ラジドで最初にわたしと会ったときのこと憶えてる?」

「ああ」

 エリスタールから逃げてきたセヴィルからベルシュ村の凶報を聞き、村に引き返そうとした時か。

 彼らと別れた後、マーヤが追いかけて来たんだったな。

「あの時、イシュルの顔はほんとうに辛そうだった。でも何か決意を秘めているような感じだった」

 得意げだったマーヤの声音が沈んだ感じになる。

「もうすでに、商会のひとからベルシュ村とイシュルの事情を少しだけ、聞いていたし」

 あの時、マーヤは俺が風の魔法を使えることをすでに知っていたろう。

 マーヤが背中越しに顔を近づけてくる。

「あの時のイシュルの姿を見て、何も感じないなんてありえない」

「そうか?」

 相変わらず、今ひとつわかりずらい物言いだ。

「だからペトラにも、大公さまにも、イシュルのことを商会のひとから聞いたまま、話した」

 マーヤの声音が再び明るくなっていく。

「頭が良くてしっかりしていて、真面目でやさしくて、辛いことにも挫けないひとだって」

 それはいくらなんでも過大評価だろう。

 イシュルはマーヤに向けていた顔を正面に戻した。

 その双眸から自然と涙がこぼれ落ちる。

 セヴィルやイマル、フルネ、そしてマーヤにペトラ、自分のことを気遣ってくれた彼らの真心が自分を救ってくれたのかもしれない。最後には彼らの気持ちが、大公にまでつながていったのだから。それがなければ、赤帝龍と戦うとかベルシュ村の復興とかそんな話以前に、もっと早い段階で王家から国を追われるか、殺されてしまっていたかもしれないのだ。

 ベルシュ村復興の約束やエリスタールの一件のことなど、これまでの王家のある意味破格ともいえる対応は、自分が風の魔法具の所有者だから、特別な力を持っているから、という理由だけではなかったのだ。

 マーヤに王家がこちらを裏切れば、辺境伯への復讐の邪魔をすれば、王城を襲撃してやると凄んだ時、彼女はどう感じたろうか。

 俺だって必死だった。自分を守るために。村の生き残り、商会の面々、彼らに害が及ばぬように。だが、自分の知らないところで、俺自身も彼らによって、凄んで見せたマーヤやペトラによって守られていたのだ。

 俺は独りではなかった。俺はすべてを喪ったわけではなかったのだ。

 涙に視界が歪んでいく。

 ひとを想う小さな心の、やさしさのなんと偉大なことよ。

 心のうちに、今まで接触してきた神々らしき者たち、まだ見ぬ強大な赤帝龍の朧げな姿が浮かんでくる。

 先に待ち受ける困難と、自身を覆う消すことのできない不安がある。

 それを乗り越えるために必要なもの。

 自分の身のまわりの、身近な人びとの心根を、いつでも、いつまでも忘れぬことだ。

 それがこの先、困難に立ち向かうための大きな力となっていくのは間違いないのだから。

 鬱鬱とした草木に挟まれた小道の先。

 イシュルの前にひとはいない。

 背中にマーヤの温もりと重みを感じながら、イシュルは涙を流し黙々と歩き続けた。

 

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