出発



 翌日、イシュルは終日、フゴへの出発準備に費やした。

 靴やナイフ、父の形見の剣の手入れをし、買い出しに出かけて新しい厚手のマントや衣類、内側に豚か羊の胃袋を貼った木製の水筒を手に入れた。そしてその後、フルネやセヴィルから聞き出した、市中にあるという書店に行ってみた。

 昨日マーヤから聞き忘れたので、商会のひとたちでも知っているだろうと、結局彼らに聞く事にしたのである。

 彼らにフロンテーラに本屋さんがあるか、と質問すると、予想はしていたがやはり少し困った顔をされた。

 イシュルにもなんとなくわかってきたことだが、一般の商人や農民には、専門的な書籍になるとほとんど需要がなく、まともな市場が存在していないのだった。彼らにはそれらを読みこなす読解力がないし、また読む必要もない。希少で高価なものだから購入することもできない。それは田舎に限らずここ、フロンテーラにおいても変わらなかった。

 だからまともな本屋はないし、一般に公開されている文庫、図書館もない。貴族や富裕層、知識層向けに商売をしている業者はいるらしいが、フルネやセヴィルも彼らの名前や住まいは知らなかった。

 どんな本でも構わなければ、と教えてもらったのが、街の商店や問屋などが集まるベーネルス川北岸の、紙問屋などがいくつか固まっている一画、だった。その辺りには紙を売りながら書籍を売ったり、代筆業を営む店があるという。

 イシュルは一端家に戻って買い出した品を置いてくると、その紙問屋の集まる一画に向かった。川の北側の、緩やかな丘の間を南北に走る大通りを幾つか横ぎり、昨日の魔法具屋のあった、街の西の端の丘が見えはじめたあたりにその一画があった。

 辺りは街の商業地区のはずれで、道端に荷車や木箱が無造作に置かれていたりもするが、人通りも少なく落ち着いた感じがする。

 イシュルはその道沿いの店を訪ね歩き、三件目でそれらしい店を見つけた。

 店の中は巻紙が多く、端の方に幾つかの本があった。奥に引っ込んでいるのか、店の者の姿は見えない。

 店の奥の棚に並べられた本は、読み書きや計算の教本、聖堂教の聖典、フロンテーラ周辺の紳士録などが主で、とても魔術書などありそうな感じがしない。

 まぁ、こんなもんだよな。

 予期していたこととはいえ、イシュルはかるい失望感を覚えざるを得なかった。

 魔術書以前に、店に置いてある書籍の貧弱さにいたたまれない気分になる。ファーロの書斎の方がよほど充実していた。

 巻紙の方は、過去に大公家や王家から出された、特定のギルドや住民に対する布告書や公示書の類いが大半を占めていた。

 イシュルは大きくため息を吐いた。

 そこへ奥の方から店の方へ向かってくるひとの気配を感じた。店に姿を表わしたのは小太りの頭のはげ上がった壮年の男だった。

「いらっしゃい、お客さん」

 おそらく店の主人であろう男は愛想笑いを浮かべて言ってきた。

「代筆かい? それか何か探し物でも?」

 イシュルは少し考え、言った。

「そうだな……、クシム周辺の絵地図とか置いてないか?」

 もう魔術書はあきらめた。なら、他に欲しいものがある。

 明日、マーヤの方で用意してくるだろうが、自分用にもひとつ持っていた方がいい。

 しかし、そう考えて言ったイシュルのひと言に、店主が軽い恐慌状態に陥った。

「へ? いやいやお客さん、クシムの地図なんて、そりゃご禁制ですって」

 男はその広い額に汗を浮かべて両手をばたばた振ってくる。

 ああ、なるほど。そういうもんだよね。

「ああ、そうだよね。すまんすまん、ちょっと商用で、フゴの方へ行くことになってね」

 イシュルはしらけきって男の慌てふためく姿を見やった。

「お客さん……」

 店主は上気したままの顔で言った。

「あんな所に行くのかい? 危ない橋は渡らない方がいいよ」

 フロンテーラの街の者でも、今のクシム周辺がどうなっているか、知らない者はいないだろう。

「……」

 まったく言葉もない。

 イシュルの顔に自嘲の笑みが浮かんだ。 


 イシュルは帰り道を力なく、とぼとぼと歩いていく。

 大通りに出ると、ひとや馬の曳く荷車の往来も多く、辺りは喧騒に満ちていたが、今のイシュルの感慨にはほど遠く、自分だけがどこか違う場所にいるように感じられた。

 魔術書がそう簡単に入手できないであろうことは、わかっていた。それより今日、なんとか本屋と呼べそうな店に行ってみて実感したことがある。

 それは魔術書自体を個別に入手するのは、おそらくどこへ行っても不可能だろうということだ。

 軍事上は当然の処置とは言え、こちらからすればたいして正確でもない、実用性のあまりない絵地図でさえ、その図示された内容によっては非公開にされてしまうのである。

 需要が少ないとはいえ、書籍類も庶民には縁遠い存在で入手が困難なものばかりだ。禁書になっているわけではないとしても、為政者側によって半ば意図的に、被支配層には入手しずらいよう仕向けられているのではないか。

 このような状況でより秘匿性の高い魔術書なら、いったいどんな扱いを受けることになるのか。

 それこそ魔術書なぞ門外不出、同門の弟子くらいしか閲覧できず、魔術書自体は一番弟子にしか相続されないのではないか。一子相伝、魔法具と同じ価値があるような代物なのだ。きっと。

 今も憶えているレーネの、魔法使いの家の中にあった魔術書らしき分厚い本の数々。あれは宝の山だったわけだ。

 昨日の魔法具屋はどうだろうか。魔術書類も取り扱っていたりするのだろうか? 

 それも望み薄な気がする。もし店にあったとしも、今はないねぇ、などととぼけられなそうな気がする。昨日の赤帝龍の話ではないが、あの老婆を驚愕させるような物を用意しないと、あるかないかも明かしてはくれないだろう。

 それでも魔術書を手に入れたいのならどうしたらよいか。

 後は盗むか、誰か風系統の魔法使いの弟子になるしかない。

 王都はだめだな。宮廷魔導師は駄目だ。

 宮仕えでない、流しの魔法使いを探すしかないが、やはり基本的には宮廷魔導師の方が実力は上だろう。

 実力がありそうな流しの魔法使いなら、王都ラディスラウスより、聖王国の都、エストフォルの方がいそうだ。あそこには神学校があると聞いている。魔法を使う神官を教育する施設もあるだろう。それにあそこには聖堂教会の総本山、主神殿がある。そこから魔法具が生み出されているのだ。エストフォルの方が、ラディスラウスより魔法に関してはいろいろな面で一段上、と考えてよい。

 赤帝龍を倒すか撃退し、辺境伯を殺ったら、当初の予定どおり聖王国に行くか。

 それで、向こうの山岳地帯でハンターでもやってしばらく金を稼いで、現地に流しの魔法使いがいたら仲良くなってみるとか……と、それより先に、赤帝龍とどう戦うか、考えておくのが先だな。

 陽が傾きはじめたフロンテーラの市中、大通りを歩くイシュルの姿が人混みの中に消えて行った。


 


「達者でな、イシュル。おまえの活躍を祈っているぞ」

「元気でね。無理しちゃだめだよ? 自分の命が一番大切なんだから」

「そうだ、進退の見極めはしっかりとな。おまえなら大丈夫と思うが」

「……、……」

 泣きっぱなしのフルネさんに抱きしめられてからだが痛い。

 みな、自分がこれからどこに向かうか、何と戦うことになるか知っている。ただ別れを惜しむだけでない、彼らのやさしい心遣いが身に染みる。

 翌朝、フロンテーラ商会のおなじみの面々とも、お別れの時がきた。

 大公城の南門はかなり距離がある。セヴィルたちとの別れは夜明け後間もない、まだ辺りに夜の薄闇が漂う時刻になった。

 明けの空に庭の大きな椎の木が黒々として、イシュルたちを見おろしている。

 フルネがやっとイシュルを解放すると、セヴィルが苦笑を浮かべながら小さな革袋を差し出してきた。

「選別だ。金はいくらあっても悪いことはないからな」

「ありがとうございます。セヴィルさん」

 イシュルは遠慮せずに受け取った。かわりに懐から同じような小さな革袋を取り出しイマルに手渡す。

「なに?」

「お金が入ってます。ポーロさんに渡してもらえませんか」

 イマルの目が大きく見開かれる。中には最後の金貨が一枚入っている。

 イマルは革越しの感触に違和感を覚えたのか、袋の紐を解き中を確かめた。

「ええっ、金貨?」

 イシュルは驚いているイマルに微笑んで言った。

「大丈夫、変なお金じゃないですよ。村のために使って欲しいんです」

 まぁ、実は悪党から奪った金なんだが。

「うん。ありがとう、イシュル。父さんにかならず渡すよ」

 イマルが金貨の入った革袋を握りしめ、大きく頷いた。イマルの眸に光るものがある。

「いつかかならず村に帰ります。商会にも顔を出しますから」

 イシュルが三人の顔を見渡して言った。

 うんうん、と頷くフルネ。

「月が変わったら、わたしたちもエリスタールに戻ろうと思うの」

「雪が降り始める前には戻らないとな」

 セヴィルはそう言うと、今までずっと片手に持っていた巻紙を渡してきた。

 高そうな羊皮紙に、金糸で編んだ飾り紐で結ばれている。

「これは……?」

 マーヤに渡してほしい、ということだろうか。

「読んでごらん。かまわないから」

 イシュルは飾り紐を慎重に解き、巻紙を広げる。

 巻紙には、この者、予の懇意なるフロンテーラ商人につき、格別の便宜をはかるべく云々、と書かれてあった。エリスタール王家代官宛で、下にはアンティオス大公、つまりヘンリク・ラディスのサインと、王家の紋章の印が押されていた。

 これは凄い……。

 セヴィルの顔がめずらしく、にんまりとだらしなく笑み崩れている。

 これを手配したのはマーヤとペトラだろう。そろそろエリスタールに王家から代官が派遣される頃合いだ。ブリガール男爵家が実質滅んだ後も、この巻紙ひとつで以前にも増して、その新任代官といろいろな取引を行うことができるわけだ。

 いや、以前にも増して、どころではないだろう。間違いなく地元の同業者よりも有利な立場に立てる。

「先日、くだんの魔導師どのにいただいてな」

 セヴィルがふふ、と声に出して笑い出した。

「商人たるもの、ただでは転ばん、というわけさ」

 辺りにみんなの笑う、明るい声が響き渡った。


 

 

 ベーネルス川を南に渡り、街中の道を大公城に突き当たるまで歩く。それからは城壁に沿ってひたすら南下していく。右手に石造りの家々が立ち並ぶ、人気のない静かな道をしばらく歩くと、行く手にアルヴァ街道が見えてくる。そして朝の街道を行き交う、人々や荷車の喧騒が聞こえてくる。

 街道に突き当たると左に曲がり、少し歩くと大公城の南門に着く。 

 門の左右を固める大きな櫓、開かれた門の前にマーヤたち数人と、背に荷をくくりつけた馬が一頭、ずいぶんと小さく固まって見える。近づくと、その中には幾人か、見知らぬ人物が混じっていた。

 その中からひとり、明るいオレンジ色のワンピースを着た少女がこちらへ駆け出してくる。

 あでやかな金髪をなびかせ、走る姿も慎ましい、美しい少女だ。

「イシュル〜ぅ」

 イシュルはあやうく転びそうになった。

 なんだよ! ペトラかよ……。

 その少女はペトラだった。普段着、なのだろうか。ちょっといいとこのお嬢さん、といった感じだ。白いドレス姿の印象が強く、イシュルはペトラとすぐに気づけなかった。

 一瞬ちょっとときめいてしまった。凄い損した気分だ……。

 ペトラはイシュルの傍まで駆けてくると、彼の左腕をとり、しっかりと抱きしめた。

 青い眸を輝かせて見上げてくる。顔がすぐ真下だ。近い……。

「お早う、イシュル! 久しぶりじゃな」

 つい二日前に練兵場で顔を会わせてるだろうが。しかも恋人でもなんでもないのに抱きつくな。

「……おはよう」

 イシュルがけだるそうに答える。

「なんじゃ、これから赤帝龍討伐に出陣するというに」

 ペトラが唇を尖らす。

 はいはい、可愛いよ。

 イシュルが脱力して苦笑を浮かべると、ペトラはイシュルの腕を離し、ちょこん、と一歩離れてイシュルの前でスカートの裾をつまみ上げ、首を横に傾け腰を少し引いてポーズをとった。

 朝の陽にきらめく金髪が揺れる。

「どうじゃ。かわいいじゃろ」 

「ああ」

 確かに可愛いよ。しゃべらなきゃな。

 イシュルは頷いて、いろいろと端折ってごく簡潔に答えた。

 まぁ、彼女はこれはこれで、出発前に俺のことを元気づけようとしてくれているのかもしれない。おそらく、たぶん。

 ペトラはイシュルの手をとり前へ、城門の方へ引っ張っていく。

 城門の前には、遠くからでもわかったいつもの格好のマーヤ、先日練兵場で魔導師らと戦った時ペトラに付き従っていたふたりの女剣士、立ち姿の美しいメイド服を着た初老の女性、荷馬の影に隠れるようにして立つ焦げ茶のローブを着た少女、五人の女たちがいた。

「おはよう」

 マーヤが声をかけてくる。

 少し眉間に皺がよっている。機嫌があまりよろしくない感じがする。

「おはよう、マーヤ」

「クリスチナ」

 イシュルが笑顔でマーヤに挨拶を返すと、ペトラがメイド服の女性に声をかけた。

 ペトラがイシュルに向かって手短かに彼女を紹介する。

「妾付きのメイド頭じゃ」

 クリスチナと呼ばれたメイド長は、両手に捧げ持っていたトレイの上に被さっていた布をとり、無言でイシュルの前に差し出してきた。銀製のトレイの上には、折り畳まれた渋い赤紫色のサテン地の布の上に、美しい青色とクリーム色のアラベスク風の模様が施された小さな布袋が載っていた。

「中には金が入っとる。これから旅先で何かと物入りじゃろ」

 ペトラがつんと顎をあげて言った。

 ふむ。

「ありがとうな、ペトラ。遠慮なくいただくよ」

 イシュルは笑顔をつくり、クリスチナにかるく会釈してトレイの上の小さな布袋を受け取った。

「かわいい袋じゃないか」

 イシュルは受け取った布袋を目線の位置まで持ち上げて見ながらペトラに言った。

 布袋は銀糸で編んだ繊細な紐で縛ってある。

「おお、そうじゃろう? 妾が選んだのじゃ」

 つんと澄まし顔をしていたペトラがうれしそうに顔を向けてきた。

 そんな顔してたから、たぶん誉めてもらいたんだろうな、と思って言ったんだよ、ペトラ。

 ペトラも女の子だもんな。

「では気をつけて行ってまいれ。そなたとマーヤに随行するのは妾付きの正騎士アイラと魔導師のニナじゃ。後でマーヤに紹介してもらうとよい」 

 にっこりしていたペトラはすぐ顔つきをあらためると、またつんとした澄まし顔になって言った。

 そしてイシュルの袖をつまむと皆から離れた方に引っ張って行く。

「無理をしてはいかんぞ。そなたの命がいちばん大事じゃ。赤帝龍にかなわぬと思ったら逃げてしまえばいいのじゃ」

 視線を逸らして、小声でしゃべりはじめたペトラが途中から顔を上げ、こちらをしっかり見つめてくる。

 眸にはうっすらと涙が光っていた。

 なかなかの破壊力だ。

「大丈夫。負けそうになったらすぐに退く」

 イシュルは真面目な顔つきになって言った。

 彼女には伝えておきたいことがある。

「赤帝龍とまともに戦って生き残った者は誰ひとりいないんだろ? やばそうならすぐに撤退して、またおまえの元に戻ってくるよ。その時に戦った時の状況を報告するから、相談にのってくれ。対策してからもう一度やつに挑む」

「おお、わ、わかった」

 ペトラは感動した面持ちで大きく頷いた。

 イシュルの考えていたこと、それは赤帝龍と戦ってみて、とても勝てないようだったらすみやかに退き、一旦フロンテーラまで戻って、マーヤでもペトラにでもお願いして、無理矢理にでも風の魔術書を手配してもらうことだった。

 まだ伝聞だけで、赤帝龍の強さがはっきりとはわかっていないのだ。先の辺境伯の討伐隊も主力は全滅し、戦って生き残った者の報告など、正式なものは何ひとつ伝わっていない。

 もし現状で赤帝龍に勝てないのなら、もう四の五の言ってられない。その時は自分の秘密にしていること、魔法に関する知識の欠如、も話すべきことは話して、魔術書を無理にでも手配してもらうしかない。最悪、風の魔法を遣う王国の宮廷魔導師の誰かに、弟子入りする必要もでてくるかもしれない。

 面子の問題もあるが、そんなことより村の復興と引き換えに赤帝龍討伐を約束したのだ。辺境伯への復讐に対するお目こぼしも、非公式にだが得ることができた。この世界でも契約の持つ意味は重い。たやすく反故にはできない。

「……本音を言うと、今回は威力偵察みたいなものでもいいと思ってる。アルヴァで編成される本軍のやつらには申し訳ないが」

「いりょくてい、……さつ?」

「実際に戦ってみて、相手の強さや戦い方を調べることだ。相手の戦力を実地に把握したらすぐに退く。ただの偵察じゃない」

「そ、そうか。イシュルは頭が良くて物知りじゃの」

 素直に感心していたペトラの顔に、意地の悪そうな色が浮かぶ。

「そんなこと、誰から学んだのじゃ」

 前世で。専門家でも何でもないがな。

「そんなことはどうでもいい。戦(いくさ)で相手の戦力や戦法をあらかじめ知っておくことはとても重要だろ?」

 ペトラがそうじゃな、と頷いた。

 彼女はこちらに頷いてみせると目を晒し、少し俯き加減になった。

「……」

 急に黙り込む。

 何だろう? 彼女の質問をごまかしてしまったから、ちょっと機嫌をそこねてしまったか。

 ……いや、ちょっと違う。心ここにあらずというか。

 彼女は俯けていた顔を上げると、ちらりとマーヤの方を見、またイシュルに顔を向けてきた。

「それから……」

 彼女にはこちらに伝えたい大事なことがまだあったのだ。

「わかってる。マーヤのことだろ? 何があっても、彼女のことは絶対守ってみせる」

 そもそも今回、彼女が本隊からはずされ俺の目付役になったのは、彼女が火の魔法使いだからだろう。赤帝龍と戦うには相性が悪い。

 赤帝龍と戦う時には彼女はあまり役に立たないかもしれない。彼女の安全には配慮しなければならない。

「うん。ありがとう、イシュル」

 ペトラの顔に笑みが浮かんだ。


 それからペトラは、マーヤとふたりで向かいあって少し何事か話し、メイド頭と、お付きのもうひとりの女剣士を伴って城内へ去っていった。

 途中で振り返り、片手を突き上げるようにして、たのんだぞ〜、などと叫んだのは彼女のご愛嬌か。

「じゃあ、イシュル、ふたりを紹介するね」

 ペトラの姿が見えなくなると、マーヤが声をかけてきた。

「アイラ・マリドと申す。よろしく、ベルシュ殿。先日の模擬戦は素晴らしいものだった。感服致した」

 マーヤの視線を受けると、ペトラに妾付きの正騎士、と言われていた女剣士が自ら名乗ってきた。

「こちらこそ、マリド殿」

 相手は二十歳前後か。大陸ではもういい大人、と見なされる年齢だ。イシュルも態度をあらため、それらしく応対した。

「イシュル殿とお呼びしても?」

 女剣士は微笑みを浮かべて聞いてくる。

「もちろん。ぼくもアイラさんと呼んでも?」

 くだけた感じで返すと、彼女は笑みを深くして頷いた。

 マーヤの紹介によると、彼女はペトラ付きのもうひとりの女剣士、リリーナとは姉妹で、妹の方だそうだ。

 彼女らは大公家に代々仕える騎士爵家の一族で、ふたりとも幼い頃から剣術に天賦の才を示し、大公の目にとまってペトラの護衛役として、特別に召し抱えられたのだという。

 先日の練兵場で見た時と違い、今のアイラは長い金髪を後ろにまとめ、茶色の革鎧に装飾の地味な剣を腰に差し、いかにも流しの傭兵、賞金稼ぎのような格好をしていた。

  何らかの思惑もあるのだろうが、ペトラは自らの護衛役、側近をわざわざこちらの護衛に差し出してきたわけだ。

 イシュルはにっこりと愛想笑いを浮かべながらも、それとなく彼女の身につけているものを観察した。おそらく彼女も系統外の攻撃か防御系の魔法具を身につけているに違いない。ペトラの護衛をしているくらいだからそれは確実だろう。

「もっとこっちにきて」

 マーヤが荷馬の影に隠れている少女に声をかける。

「は、はい!」

 ブルネットの癖のない髪を後ろに束ね、大きな青い目をした少女が、おどおどとした感じで馬の影から出てきた。

 ローブを縛った紐に細いにび色の金属性の杖、ステッキを差している。その先端には布が被さり縛り付けてあった。おそらく杖の先端には宝石の類いがはめられているのだろう。ふくらみ具合からかなり大きな石かもしれない。

「この子の名はニナ・スルース、つい先日、正式な宮廷魔導師になったの」

「い、イシュルさん、よ、よろしくお願いします!」

 訥弁の少女は背筋を伸ばし、緊張した面持ちでイシュルに頭を下げてきた。

「よろしく、ニナ」

 ひとつ頷き、やさしい感じの笑みを浮かべてイシュルが挨拶を返す。

 ニナと呼ばれた少女は歳はイシュルとたいして変わらない感じだが、まだ新人の魔導師ということなのか、全身をガチガチにしてかなり緊張しているようだ。もともと人見知りで控え目な性格なのかもしれない。

「彼女は王国には珍しい水の魔法使い」

 ほう……。

「だ、大丈夫です! わたし、頑張ります! あ、あと、みなさんのお世話も、う、馬の世話もわたしがやりますから!」

 ニナは力が入って叫ぶように言ってくる。

 まぁ、馬の世話など誰がやってもいいのだが。昨日の、従僕がつくという話はそれが彼女だったということか。

 マーヤの後輩、部下? になるのだろうが、随分と高級な従僕だ。

「彼女はなかなかの水の精霊と契約してる」

「なるほど」

 王都の南西には、アルム湖と呼ばれる大きな湖がある。そこには水棲の魔獣も出没するはずで、水系統の魔法使いなら、彼女はそちらの方に配属されるのが妥当な筈だが。

「わたしたちがクシムにいくことになったので、先日、王都からあらたに宮廷魔導師が何名か派遣されてきた。彼女はそのうちのひとり」

 マーヤの話によると、ニナは本来フロンテーラに残って、マーヤたちの抜けた後の王領の警備、付近に出没する魔獣退治を担当する予定だったが、彼女はまだ宮廷魔導師としてひとりだちして間もなく、本人の性格も相まって充分に実力を発揮できないと不安視され、自信と経験をつけさせるために、今回いっしょにフゴまで同行することになったのだという。

「昨日話した護衛と世話役がアイラとニナのふたり」

 フゴに到着した後、ふたりはすぐにフロンテーラに戻ることになっている。クシムに近づけば当然火龍をはじめ出没する魔獣が増えてくるので、行きしにはそれを皆で退治してニナに実戦を体験させ、帰りはアイラとともにふたりで魔獣を退治してさらに経験を積ませながらフロンテーラに戻る、ということだった。

「イシュルに力になって欲しい」

「ああ? うん……」

 よくわからんが。どういうことだ?

「イシュルはイヴェダの剣を持っているだけではない、魔法の使い方が天才的」

 マーヤ曰く、往路ではこちらの戦い方を見せるだけでなく、ニナに何か指導できるようなことがあったらしてほしい、という。

「そういわれてもな」

 ニナの方に目を向けると、ニナはまた頭を大きく下げて言ってきた。

「お、お願いします。い、イシュルさん!」

 おどおどしつつも、なかなか必死な感じだ。

 彼女は自分の力に自信がないのだ。でもやる気はありそうだった。

 水の魔法か……。

 自分が水の魔法具を持っていたら、どう使うだろうか?

「ほ、本当は海とか川とか、雨が降っている時がいちばん、お、お役に立てると思うのです、でも、クシムの方は川も流れているし、わ、わたしの精霊はどこでも呼び出せます!」

 ニナは力んで言った。

 周りに水がなくたって、水の魔法は有効に使えるだろう。特に対魔獣、人と戦うのなら。

「まぁ、いいだろう。力になれるようなら、そうするよ」

 イシュルはニナに安心させるように微笑んでみせた。

 緊張して、力みきっている彼女が可哀想だ。

「あ、ありがとうございます」

 ニナはまたイシュルに頭を下げてきた。


「ところでマーヤ、おまえはその格好でいいのか」

一行はアルヴァ街道を東に向かって歩いている。左側には大公城の城壁、右側には木々に囲まれた家々が点在する、気分の安らぐ美しい風景が続いている。

 マーヤのいつもの格好、黒い大きなマントに大きな魔法使いの杖、この格好ではあまりに目立ち過ぎる。アイラとニナは一応はそれらしい服装をしているのに。

 この街道は逆方向に向かえば、王国南部をやや斜めに縦断してアルサール大公国に至る。アルヴァとフロンテーラ、そしてアルサールとつながる有力な街道である。早朝でも人馬の往来が多く、イシュルたち一行とすれ違う者はみな、マーヤにちらちらと視線を向けてくるのだ。

「大丈夫」

 マーヤは顔を前に向けたまま言った。

 目線も合わせてこない。

 何が大丈夫なんだ?

「この先、バーリクでベーネルス川の北岸に渡る。そこからは間道に入るから」

 ここから徒歩で半日ほどの距離にフロンテーラと同じく王領のバーリクという街がある。アルヴァ街道はバーリクでベーネルス川の南岸から北岸に渡り、アルヴァまでそのまま川沿いに伸びている。

 バーリクには石造りの立派な橋が架かっていて、アルヴァとフロンテーラの往還には陸路ならどうしてもその橋を渡らねばならない。当然バーリクには橋を防衛、街道を遮断する城塞がある。

 マーヤの言う間道とはバーリクの北岸から伸びる、アルヴァ街道の裏街道に当たる。アルヴァには直接向かわずやや北の方へ伸びていて、アルヴァの手前で、アルヴァの他にクシムやフゴ、フゴの北方の山沿いに点在する集落に道が幾つもに枝分かれしていく。

 当然ひとの往来も少なく、途中に大きな街はなく村も少ない。間道に入ればおそらくすぐに、それから先もずっと人気のない森や草原を行くことになるだろう。人目も気にする必要がなくなるかわりに、魔獣も頻繁に出没することになる。

 辺境伯の監視の目も弱まるだろうし、まとまった人員を投入してこちらの妨害やあるいは捕縛するようなことも、やりにくくなる。辺境伯が実際にそこまでやるかどうかは別として。

「だがな……」

 イシュルはひとり呟く。

 魔獣と戦うことが増えるのはいいとしても、問題は野宿が多くなる上に道が悪い、ということだ。雨でも降ったらさらに悲惨なことになる。剣士であるアイラは問題ないとしても、マーヤやニナは大丈夫なんだろうか。

 マーヤからはまだ、辺境伯本隊の出陣、攻撃日などの具体的な話は聞いていない。それは王家からの増援である魔導師らがアルヴァに到着してから決められるのだろうが、彼らより早くフゴに到着しておいた方がいいのは間違いない。

 なんだかなぁ。

 イシュルは心の中でぼやく。

 この世界の文明、科学技術の発達具合ではしょうがないことなんだろうが、彼らのように、国政や軍事に携わる連中でも、のんびりしているというか、行き当たりばったりのおおまかなところがあって、二十一世紀の日本人である前世を持つ自分にはどうしても大きな不安を感じて、やきもきしてしまうことが多い。

「そういえば、本隊に合流するご同僚の方々はいつアルヴァに出発したんだ?」

 イシュルはマーヤの横を歩きながら、からだを上から被せるように傾け声をかける。

「昨日」

「昨日? いつ頃に?」

「昼過ぎ」

 なるほど。それは俺たちが西の橋の城門のところで待ち合わせて、ちょうど落ち合ったあたりだ、ね。

 彼らが出発するところ、他にどれくらいの兵力が随行したのか、荷駄もどんな具合だっか、是非見たかったのになぁ。

「別にイシュルに隠すつもりはなかったよ」

 特になんの屈託もなくマーヤは言う。

 だがどうなんだ? こういう秘密主義的なところだけは妙にしっかりしてるのが、ちょっといらっとくるんだが。

 どうせ出発する一行には、大公家との連絡役をつとめる辺境伯家の使者とかも混じっていたんだろう。そんなやつらと俺を引き合わせたくなかったんじゃないか。

「フゴまでと、クシム周辺の絵地図は当然持ってきているんだろうな」

「うん」

「後で見せてもらうからな」

「うん」

 マーヤが顔を向けてきて微笑む。

「口が尖ってるよ」

 誰のせいだと思ってやがる。

 イシュルは口を尖らしたまま振り返って、後ろを歩くアイラに言った。

「アイラさん、バーリクで一泊するんでしょ? その時にこれからの旅程について、地図を見ながらみんなで打ち合わせしましょう」

 アイラが黙って頷いた。その顔には苦笑が浮かんでいる。




 街道を進み大公城の城壁が途絶えると再び、城の西側と同じ石造りの大きな建物が道沿いに並ぶ、賑やかな街並が出現する。

 大公城の東側にも川の南岸沿いにフロンテーラの市街地が続いていた。ベーネルス川からアルヴァ街道への中継地として、こちら側にも多くの商店が集まり、フロンテーラの市街のひと区画を形成していた。

 ベーネルス川の北側を走るアルヴァ街道を、そのままフロンテーラ街道と接続させれば交通の便もよかろうに、わざわざバーリクで川の南岸にねじ曲げ、大公城のすぐ南側を通しているのである。

 明らかに軍事上の処置だろうが、そのためにこの辺りにも賑やかな街が出来た、というわけだった。

 その街中の雑踏もしばらく行くと静かになり、街並の家々もまばらになる。周囲には木々や畑が目立つようになってくる。

 先頭にイシュルとマーヤ、今はアイラが馬を曳き、馬の横にニナが付く、という形でのんびりと街道を歩いていく。

 やがて人気のない道の先に、平服の剣士がふたり、道端に並んで立っているのが見えてきた。ふたりは揃って裾の長い上着に、長剣を腰に差して同じような格好をしている。ふたりとも背をすっと伸ばし、姿勢がいい。

 こちらが近づいても目線を向けてこない。ずっと来た道の方を見ている。大公家の者だろうか。

 いぶかりながらも一行の誰も声をかけず、無言で彼らの前を通り過ぎると、今度は行く手にブナの木だろうか、道端の落葉樹が固まって生えている辺りに、二頭立ての馬車が止まっているのが見えてきた。

 高くなってきた陽光が紅葉を透かし輝かせて、木々の中に佇む馬車と、彫像のような美しい二頭の馬を上から照らしている。

 馬車の前部に横に並んで座る、ふたりの地味な平服姿の御者も微動だにしない。

 怪しい。

 あの美しい広葉樹の木々の間には、他に複数の人の気配がある。

 近づくと、馬車の前には両脇にふたりの男が立っていた。

 向かって右側は黒の上着にグレーのズボン、背をピンと伸ばし立っていて、人形のように動かない初老の男。左側は屈強そうな壮年の男で、黒いマントに黒の上下、足許は軍用の革製のブーツ、胸から胴にかけて黒っぽい鎧をつけていた。両腕を組んでこちらを見ている。異様なのは男の両腕にはめられたゴツい篭手、ガントレットで、何かの模様がレリーフ状に浮いて見える。

 これは……。何事かが起きようとしているのか?

 左側のガントレットの男。あれはただ者ではない。

 となりを歩くマーヤを横目で見るが、その無表情な顔つきにはなんの変化もない。

 後ろを振り向いてアイラとニナの顔を見る。

 ふたりもまるで彫像のような無表情で、こちらに目線を合わそうとしない。

 は? 何? これはどういうことだ?

「おいマーヤ、あれはなんだ? 何がどうなっている? おまえ何か知ってるだろう」

 歩きながらマーヤに声をかける。

「大丈夫」

 マーヤは前を向いたまま、それだけしか言ってくれない。

 ええ? おい、なんだ。やだぞ、面倒ごとは。

 ……などと内心恐々としているうちに、馬車の、ふたりの男の目の前まで来てしまった。

 右側の初老の男が上品な笑みを浮かべてこちらに近づいてくる。黒い上着は裾が下に伸び、まるで燕尾服のようだ。上着の中は同じ黒いチョッキに白いシャツ、執事だ。この世界ではじめて、見た目前世そのままの、いかにもな執事を見た。

「イシュルさま、こちらへどうぞ」

 初老の執事は腰を屈め、右手を馬車の方へ伸ばして誘ってきた。

マーヤを見る。無言。

イシュルは誰かに助けを求めるようにして目線を左右にせわしなく振った。その視線が馬車の前、左側に立つ黒づくめのガントレットの男のそれと合ってしまう。

 短く刈り込んだ銀髪に鷲鼻。ガントレットの男はイシュルと目が合った瞬間、片方の眉をぴくっと上げると微かに笑みを浮かべてきた。

 はは、なんて恐ろしい。

 イシュルは執事に勧められるまま、無言で馬車の方へ歩いていく。

 馬車の中にはひとの気配がある。

 執事が思わぬ身軽さでイシュルの前を横切り、馬車に寄ると扉を開けて、馬車の前に跪いた。

 馬車から、赤茶色のしゃれたライン、仕立ての上下できめた、四十がらみの金髪の優男が出てきた。

 桃色のスカーフがなかなか嫌味な感じだ。

 執事が跪いたまま言った。

「ヘンリク・ラディス大公殿下にあらせられます」

 ガントレットの男が右手を胸に当て腰を屈める。後ろでマーヤたちがいっせいに跪くのがわかる。

 これはまずい……。

 イシュルも跪こうとすると、いきなりその両肩をがっしと掴まれた。

 はぁ?

「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。お忍びだからね」

 顔を上げると大公の顔が目の前にあった。あのペトラの父親の顔が。


 髭は生やしていない。人懐っこい、くだけた感じの表情だ。足を組み、扉の窓枠に肩肘をついてその手で傾けた頭をささえている。

 その青い双眸は、いたずらっぽい感じの光を宿してイシュルを無言で見つめている。

 対するイシュルはやや背筋を伸ばし、腹に僅かに力を加えるようにして、表情を面にださず黙って座っている。

 別にコチコチに凝り固まってまで緊張する必要はない。たまたま顧客の大手企業の役員と面会する機会があった、とでも思っておけばいい。その程度の気構えでいいだろう。しかも今回、こちらから先方に媚を売らなければならないような事由はない。

 ふたりは馬車の中で相対して座っていた。

 イシュルは特に挨拶もせずに黙って、相手の出方を待つことにした。何か気の効いた、しかも礼儀にかなった台詞などとても浮かばない。

 まさか、何か時候の挨拶みたいなものでもやらないといけないのか?

 それにこれは面白いシチュエーションだ。大都市の郊外で、馬車の中での密談。季節は晩秋。これが俺が俺でなかったら、貴族か政治家か、あるいは妙齢の美しい貴婦人、とかであればまるで映画のワンシーンのようだ。

 イシュルが黙っていると、目の前の男は組んでいた足を崩し、上半身をイシュルに寄せてきた。

「わたしのひとり娘が君にいたってご執心でね」

 大公の顔に、いかにも困ったことだ、というような自嘲気味の笑みが浮かぶ。

 いきなりご執心、などと言われてもな。

 まさかそれで気になったからわざわざ俺に会いに来た、とでもいうのか?

 しかし、……軽い。これが王族か。いくら風の魔法具の所有者だからといって、なんの身分もない農民の子に対しこれでいいのか。

 身分に似合わぬペトラのあの狂躁ぶり。この親にしてこの子あり、ということでいいのだろうか。

 ちょっと違うかな。

 軽いのはともかく、この男のくだけた態度は、こちらに対して娘の友人として接しているのだ、ということを言いたいのだろう。

 台詞の内容がそのまま、そのことを表わしている。

 ただ「ひとり娘」、といういい方にきな臭いいやな予感がしないでもないが。

「わたしもいろいろ思案を重ねてきたわけだが、娘のことを思うとね」

 娘の友人だからお目こぼししたんだぞ、と? 恩をきせているのか、それとも脅しているつもりか。

「ひょっとして緊張しているのかな? だとしたら申し訳ないことをした。いきなり、だったからね。この場はほんとうにお忍び、君は何も気にかける必要はない」

 イシュルが黙ったままでいるのが気になったのか、大公の方から取り繕うようなことを言ってきた。

 恩をきせ、あるいは脅した上で、早く何かしゃべってみろ、って言っているわけだ。

 イシュルはなんの感情も込めずに微笑んで、言った。

「ありがとうございます。大公さまにそのように気遣っていただくなど、まったく恐れ多いことです」

 堅すぎず、柔らかすぎず、どうでもいいようなことを口にする。

「どうかお構いなく。できればこの後のことも」

 だが最後の台詞に爆弾を仕込む。

 一瞬、ヘンリクの顔に笑みが消えた。

「で、なんのお話でしょう?」

 笑顔をすこし抑えて、ヘンリクを正面から見つめる。

 イシュルもからだを前にお越し、両足の上に肘をおいて手を組んだ。

 笑顔を完全に消すことはしない。相手の目をただ見つめる。別に無理に敵対する気はない。おもねる気がないのはもう相手もわかっただろう。

「なるほど……たしかに娘が騒ぐわけだ」

 ヘンリクは微笑んだ。

「そうだね。率直に話そう。君のいうとおり、つまらぬ駆け引きを続けてもしょうがない」

 ヘンリクはかるくため息を吐いてみせると言葉を続けた。

「きみたちは今回、アルヴァには寄らずクシムに直行すると聞いている。赤帝龍が討伐されればきみもアルヴァに立ち寄ることになるかもしれない」

 なるほど。目の前の男の言いたいことがなんとなく予想がついた。しかしちっとも率直じゃない気がするんだが。

「その時にはぜひ、アルヴァ城の白亜の回廊を見ておくといい。わたしも、レーヴェルトが跡を継ぐときに一度訪問しただけなのだが、あれはなかなかのものだ」

 ヘンリクが目線を強くしてくる。

「あれが失われることになるのはちょっと惜しい」

 ヘンリクの言葉が続く。

「きみはなかなかの正義漢だと娘から聞いているが……」

「ぼくが狙うのはベーム卿だけです。他には手は出しませんよ。辺境伯家の他の者は関与してないですよね?」

 イシュルはヘンリクの言葉を遮り、核心部分をずばり率直に話した。

 大公は辺境伯家の衰退を単純に望んでいるわけではないのだ。現当主の死により、辺境伯家により強い影響力を行使できるようにしたい、できれば自ら直接統制下に起きたいのだろう。

「……だから、殿下にも渡りに船のことをお願いしたいんです。ベルシュ村の生き残りによる復讐によってベーム卿が殺されたこと、ベーム卿が風の魔法具探索の強硬な命令を出していたことを世間に広く伝わるように手配してほしいんです」

「……」

 ヘンリクは厳しい目つきになってイシュルを見つめてくる。

「ぼくの願いを受けていただけるのなら、城を壊したり、城兵を巻き込んだり、何か策を弄して復讐の名乗りを派手に喧伝する必要はなくなる」

 どうせリフィアも赤帝龍討伐で死ぬだろう。レーヴェルトが死ねば、後はまだ幼いリフィアの弟が辺境伯家を継ぐことになる。

 城を破壊したり、城兵を殺戮したりしなければ辺境伯家のこれ以上の衰退は防げる。ヘンリクは王都をうまく抑えることができれば、辺境伯家に対してかなり強い影響力を持てるだろう。それがうまくいけば、次の王位継承争いには非常に有効な武器のひとつとなる。

 それに辺境伯の死がベルシュ村の生き残りによる復讐だった、自分が辺境伯を殺したということであれば、レーヴェルトの死に王家が直接噛んでいると疑われることはない。

「わかった。君の提案を飲もう。きみがブリガールに続き、辺境伯に対して復讐したと喧伝すればよいのだね? 君の願いを受け入れよう」

 ヘンリクは真面目な表情で言った。

「ありがとうございます」

 イシュルは座ったまま一礼すると、それでは、と馬車を降りようとした。

 赤帝龍の討伐成功が前提になるが、事後、アルヴァ城で討伐隊の生き残りに対する叙勲式や慰労の宴などが催されるだろう。部隊が全滅していれば慰霊式になる。自分がその場に招かれる可能性はほとんどないが、その式なり宴なりに乱入して、辺境伯の非違を参加者の面前で糾弾し、その場で辺境伯を誅殺してしまおう、という腹案は持っていた。

 辺境伯がブリガールに風の魔法具探索の命令を出したのは、赤帝龍がクシムに居座ったからだ。赤帝龍討伐に関する何らかの行事が行われるのなら、それは辺境伯を糾弾するのにうってつけの場となるだろう。

 王家の方で工作して辺境伯誅殺の理由を世に広めてくれるのなら、もうそれを行う必要はない。もちろん当人のご面相を確認してからになるが、こちらのやりやすいタイミングで、辺境伯をただ殺すだけでよくなった。

 こちらも願ったりかなったりなのだ。余計な手間をはぶけることになった。

「待ちたまえ」

 腰を浮かしたイシュルの肩にヘンリクの手がかけられた。

「まだきみに話しておきたいことがあるんだ。いいかな?」


 車内の豪華な椅子に深く腰かけ、ヘンリクが遠くを見るような表情をした。

「わたしがちょうどきみくらいの歳の頃だ」

 また何か迂遠な話がはじまるのか。

 イシュルはヘンリクの顔を力なく見つめながら、口許まで出かかったため息を押し殺した。

「王都の宮殿には歴代の国王がつくった書庫がいくつかあってね。わたしは暇をつくってはそこに入り浸っていた」

 そこでヘンリクは遠くにやっていた目線をイシュルに戻す。

「そんなある時、ウルク王国のことが書かれた昔の文献を見つけてね。ちょっと気になる記述を見つけたのだ」

 ウルク王国とは、現在のラディス王国の東半分くらいからオルスト聖王国のあたりにあった古代王国だ。

 ウルク王国に関する歴史書か……。まぁ、確かに俺も読みたいが。

 日がな一日、書庫にこもってさまざまな文献を読み漁る生活。それもなかなかいい。やっぱり王家に仕えてしまおうか。

「そこには、おそらく一千年ほども昔のことだとして、今のアルヴァにほど近いところにあった火の神の主神殿に、一匹の火龍が迷いこんできたという事件のことが記されていた。神官たちは当時、聖魔法と呼ばれていた魔法でその火龍を撃退しようとしたが、火龍の強力な反撃で全滅、神殿にも被害がでたそうだ」

 ウルク王国の神殿に火龍? 何の話だ?

「聖魔法というのは、名前が違うだけで今の魔法とほとんど違いはないとされている。当時の神殿に仕える神官たちには、火龍など一撃で倒せるような強力な魔法を使える者もいた筈だが、あえなく全滅してしまった。その時火の神の主神殿に迷い込んできた火龍は、ウルク王国の兵士たちに追われ、瀕死の状態だったらしい。それが急に考えられないような強さを発揮した」

 ヘンリクの話し方に素がでてきているような気がする。

 彼の趣味、好きな分野なのだろう。

 思えばヘンリクは少しエクトルに似ている感じがある。エクトルおじさんを少し明るく、図太く狡猾にしたような感じだ。

 ただ、彼の話の内容はとても良くない方向へ向かっている気がする。

「その迷いこんだ火龍はこの時、かのレーネが古代ウルク王国の風の神の神殿跡で、風の神イヴェダから風の魔法具を授けられたのと同じように、火の神、バルヘルから火の魔法具を授けられた、あるいは神殿にあった火の魔法具を偶然手に入れたのではないかと、その書の著者は推測している」

 イシュルの心の中に冷たいものが流れだす。それなのにからだは逆に熱くなっていく。

 それはつまり……。

「瀕死の状態だった火龍が、突然考えられないような強さを示すなど、他には考えられない、とその書の著者は述べている」

 ヘンリクはそこでわずかに笑みを浮かべた。

「ちなみのその文献は今から百五十年ほど前に書かれた物だ。著者は当時王家の庇護を受けていた王都の学者だった。ちょうどレーネが活躍してい頃だね。今度兄にたのんでその書物を探し出してもらい、取り寄せてもらおうと思うんだが」

 王都の宮殿にいるヘンリクの兄とはずばり現国王、マリユスⅢ世のことだろう。王宮の書庫から書物を外に出すのはそれほど大変なことなのだ。

「今、その書物に書かれていたことでとても気になっているところがあってね。もう一度目を通しておきたいんだ」

 ヘンリクの笑みが歪む。

「その書には確か、火神バルヘルの、神の魔法具を得たその瀕死の火龍が、後の赤帝龍になったのではないかと書かれていた」

 彼は確かに神の魔法具、と口にした。

 以前に赤帝龍が姿を表わしたのは二百年ほど前のことだ。

 ヘンリクの双眸がすーっと大きくなってこちらにせまってくる。

「気をつけなさい。赤帝龍はきみと同じように、神の魔法具をその身に宿しているかもしれない」  

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