魔法具屋
「イシュル?」
マーヤが呼んでいる。
イシュルはただ呆然と、その場に立ちつくしていた。
実際はほんの僅かの間だけだったと思う。だが自分にとってはその場に立ったまま、随分と長い時間が経ったように感じられた。
森のざわめき。父とポーロの大きな背中。あたりを舞う火の粉。燃え上がる魔女の家……。
夜中にひとり、掌で風の渦をつくりだした。
それはとても長い時間。
まるであの森の魔女の家の前に立った時から、今この瞬間までの、何年間もの時間。
マーヤが呼びかかけてくれなかったら、どうなっていたろう。
マーヤが戻ってきた。
彼女の顔に浮かんだ、意味ありげな微笑み。
彼女は言った。
「鋭いね、イシュル。もう“迷いの結界”に気づいたの?」
朽ち果てた城壁に挟まれた細い道をふたりで歩いていくと、やがて左側の壁が途切れ、左手に今までより少し広めの空き地が現れた。
そこには真ん中に、四角い石積みの大きな建物があった。窓はない。建物の上部は角張った凹凸の壁、城壁から続く矢狭間になっていた。奥の城壁と連結しているわけだが、城塔と呼ぶほどの高さはない。上郭部の曲輪みたいなものだろうか。四囲の壁はところどころ、濃い緑の蔦で覆われている。
建物の正面、真ん中には小さな入口が開いていた。扉はない。中は真っ暗だ。
マーヤはその入口に向かって歩きだした。
「迷いの結界は、結界を張った術者が認めたひとしか、奥に進めない」
歩きながら、マーヤの説明が続く。
あの後、「迷いの結界?」と、思わず反問したイシュルに対し、マーヤは特に驚くこともなく、イシュルの無知を笑うでもなく淡々と説明をはじめた。魔法具屋のまわりには、常時“迷いの結界”が店主によって張られているのだという。
「だからわたしから離れない方がいい」
なるほど。
さっきの異様な感覚は、自分が風の魔法具を持ち、魔力を感知できるようになったから、というよりむしろマーヤと離れたのがその原因、だったのかもしれない。
「結界に入った人が誰か、術者にはわかるようになっているのか?」
「そう」
マーヤは、うむ、という感じで大きく頷く。
「どういう風にわかるんだろうな?」
「えっと。わたしは持ってないからよくわからない」
「……」
ああそう。自慢げに頷いたくせに。
その頷く仕草、可愛いからぜんぜん許すけどさ。
俺が風の動き、空気の流れに対して感じるのと似たようなもんだろう、おそらく。
もともとが科学の領域ではないのだ。論理的に説明できるものではない。
建物の入口の前まで来たが、マーヤは何のためらいもなく入っていく。中は真っ暗で、足許もおぼつかない感じだ。
イシュルは入口の手前で立ち止まり、中に入るのを一瞬躊躇したが、マーヤと離ればなれになるわけにもいかず、ひとつため息を吐くと彼女に続いて中に入っていった。
空気の動きがあれば、中の広さや状況も何となくわかるのだが、迷いの結界の効果なのか、今ひとつはっきりと知覚することができない。
屋内はもちろん真っ暗だったが、入って正面奥、思ったより近くに出口があった。外の景色が明るく光って見える。
目をしばたくと、その先にあるものがはっきりと見えてきた。何かの建物の扉が正面に見えている。
マーヤに続いて真っ暗な空間を抜け、外に出る。
周りを城壁に囲まれ、地面は一面下草で覆われている。
正面には城壁と同じような石積み、蔦のからまった、それこそ童話に出てきそうな平屋の、赤い洋瓦の家が立っていた。扉の両側にはガラスのはまった十字型の木枠の窓がひとつずつ。
古城の中の、場違いな一軒家。
さきほどの既視感が甦ってくる。魔女の家にそっくりだ。レーネの家に。
レーネもここと同じように、辺りの森に“迷いの結界”を張っていたのだ。
イシュルは今さらのように気づいた。
扉の前に立ったマーヤが振り返る。
「ここが魔法具屋だよ」
「ああ」
無理に笑顔をつくる。
「なんかわくわくするな」
マーヤはイシュルの強ばった笑顔に気づかないのか、あえて気づかない振りをしてくれたのか、うんうん、と得意げに大きく二度頷くと、おもむろに扉を開いた。
キ、キーッと扉の軋む音、中は思ったより薄暗い。
まず目に飛び込んできたのは、天井から吊り下げられた布、マントや鎖、縄、大きな鳥の羽を束ねた団扇のようなもの。祭祀にでも使うのか、見慣れない木の管を組み合わせた楽器のようなもの。それにベルムラの方のものだろうか。異国情緒満点のお面の数々。
確かにこれだけいろいろなものが吊り下げられていれば室内も暗くなるだろう。
マーヤに続いて中に入ると奥の方から声がした。
「いらっしゃい、嬢ちゃん」
老婆の声だ。
マーヤは無言でとことこと奥へ進んでいく。部屋の中央は様々な布や服が積み重なったテーブル、木製の展示台? 木箱のようなものが互いに密着して置かれている。壁際には棚に小さな壷やガラス器、銀製の燭台や香呂の類い、いわくありげな人物の小さな肖像画などが立て掛け、並べられている。
思わず手にとりたくなるのをぐっと堪える。不用意に触らない方がいいだろう。手で触れれば、魔法具かどうかはだいたい判断がつくのだが。
見たところは、ちょっと変わった古道具屋、といった感じだが、場所が場所だけに怪しさ満点な雰囲気は確かにある。ただ、何かの魔力を感じたり、何か危険な気配を感じたりとかはない。
マーヤの後を店の奥へと進むと、吊り下げられた雑多なものの影からさきほど声をかけてきた老婆が現れた。
老婆は粗末な小さなテーブルを前に、肘掛けつきの幾分大きな椅子に埋もれるようにして座っていた。
「今日は、お婆さん」
マーヤの挨拶に老婆がこちらに顔を向けてくる。
鉤鼻に薄い唇、痩せこけた頬。二重の青い目はこちらに焦点が合ってない。目が悪いのかもしれない。
「ああ、よく来たね。そこなおひとが昨日嬢ちゃんがいってた子かい」
「そう。イシュルっていうの」
「よろしく、婆さん」
とりあえず声をかける。
「いつだったかレーネが亡くなったと聞いたが、まさかこうしてあの魔法具の持ち主に会えるとはねぇ」
マーヤはそのことも話したのか。それより、レーネを個人的に知ってるような口ぶりだが。
「婆さんはレーネを知っているのかい」
「いやいや。わたしゃレーネより百歳は若いよ」
老婆はかぶりを振って言った。
「若い頃は西の方にいてね。直接会ったことはないよ。あの頃はわたしのところにもレーネの噂がたくさん流れてきてねぇ」
それは残念。この婆さんも若いころは魔法使いだったんだろうか。
レーネより百歳は若いといっても相当年齢がいってるだろう。迷いの結界もこの老婆が張っているのだろうし、そもそも魔法具を扱う商いをやっているのだ。ただの年寄りなわけがない。
イシュルはあえて店の中をじっくり見渡し、老婆に言った。
「魔法具屋なんてものがあるなんて想像もつかなかったよ。で、どんな魔法具があるんだい?」
店内に溢れかえるさまざまな売り物。だが、それはがらくたとは言えないまでも、おそらくそれほどたいしたものではないだろう。直接手で触ったり持ったわけではないので半ば勘、漠然したものでしかないが、店内に置かれているものからこれは魔法具だ! と確信できるような感じを受ける物は存在しない。
「ほうほう、まだお若いのにねぇ」
老婆の顔に笑みが浮かぶ。マーヤも横でめずらしく、ニヤリとしていた。
やはり周りにあるものは賑やかし、目くらましの類いなのだ。
老婆は座ったまま、身をよじると奥の方に手を伸ばし、真っ赤なサテン地の布で覆われた板状のものを出してきた。
布の上には指輪が四つ、載っている。
銀のリングに石のついたものがふたつ。残りのふたつは金のリングで細かい彫刻のなされたものと、翡翠のような石でできた半光沢の濃い緑色のシンプルなリング。
老婆はそれを目の前のテーブルの上に置くと言った。
「今あるのはこれくらいだね。大物はしばらく出てないねぇ」
大物か……。
イシュルにはこれまでの経験から、魔法具の種類や位階のような事柄に関して、おおまかにだがわかってきたことがある。
魔法具はまず、大きくふたつの種類に分類できる。ひとつは中下級貴族や神官、古い家柄の土豪、富商などが持つ魔法具、ふたつめはマーヤなど宮廷魔導師や魔法使いが持つ魔法具。
ひとつめの魔法具は指輪やペンダント、あるいはその石、宝石などが多く、どちらかといえば受動的な、自身の姿や気配を消したりあやふやにしたりする、所有者の身を守ることに役立つタイプ、もしくは自身の動きを加速するだけの単能、特化型のものだ。無系統で、呪文詠唱の必要がない。
ツアフのしていた刺青の魔法陣のようなものも、ひとつめの魔法具に属すると言えるだろう。
ふたつめの魔法具は杖や大きな玉、武具類などで、どちらかといえば能動的、風・火・水・地・金の五系統に属し、呪文により複数の種類の魔法を発動できるタイプ。使いこなすには魔法に関する専門的な知識が必要になる。
自分の持つ風の魔法具もふたつめに属するが、次元の違う特別な存在だと言えるかもしれない。魔法具の常態としては形がなく、所有者の心身と一体化している。そして同じく所有者と一体化する魔法具、系統外だがいくつもの魔法を発動し、それがかなり強力なものだと思われる辺境伯の長女が持つ魔法具、“武神の矢”も特殊な、例外的な存在だと言える。昨日のマーヤの話では赤帝龍と戦うには力不足、ということだったので、能力的には風の魔法具と比較するとやや劣るものかもしれない。
老婆の言う大物、とはふたつめの種類に属する魔法具のことを指しているのだろう。
そしてテーブルの上におかれた四つの指輪。これらの指輪はひとつめの種類に属する魔法具、ということになる。
「この指輪はそれぞれどんな魔法の力を持つのかな」
イシュルは屈んで指輪を仔細に眺めながら言った。決して自分から手を出して触れるようなことはしない。
「一番左の青い石の指輪が守りの指輪、二番目の薄い水色の石の指輪が命の指輪……」
そこで老婆がひと息いれる。
イシュルはすかさず質問した。
「守りの指輪、とは? どういう魔法具なんだ?」
老婆とマーヤ、ふたりの間になんとなく変な空気が漂う。
そんなことも知らないのか、というのがふたりの思っていることだろうか。
この世界の魔法に関する知識の欠如、それは特にマーヤには知られたくなかったことだが、ここはそれをごまかすより、今目の前に出されている四つの指輪がどんな魔法具なのか知ることの方が重要だろう。仕方がない。
「俺は魔法に関する知識が偏っていてね。知らないこともたくさんあるんだ。婆さん、すまんが教えてくれないか?」
「……そうかい。だいぶ耄碌してたんだろう、確かレーネは火事で死んでしまったんだっけね? そのころはあんたも、風の魔法具を譲り受けて間もなかったろうしねぇ」
老婆はそう言って気の毒そうな顔をした。
どこをどういう風に話が伝わったのか。彼女は俺がレーネの弟子で、レーネの死により充分な教えを受けられなかったと思い込んで同情しているのだ。レーネの死の直後、火事になったのは事実だが……。
ちらりと横目でマーヤを見る。
目線を合わせてこない。表情も変わらない。そもそもマーヤは、王家は、どこまであの時のことを正確に掴んでいるのやら。ヴェルスが知っていたことは辺境伯にも伝わっている。やつは自分の都合の良いように話を付け足し、改ざんして辺境伯に書簡を出していた。俺がレーネから、彼女が死ぬ前に風の魔法具を継承していたとでっちあげたのはヴェルスだ。その書簡の内容を王家、つまり宮廷魔導師らも把握している可能性は高い。
そしてこの老婆のように、多数の魔法使いとやりとりをするような立場の者にも、同じような内容が伝わっている可能性が高い。
そもそもこの店自体に疑わしい点がある。この店のある場所、この土地の所有者は今も大公家、いや王家ではないのか。
「別に気にかけてもらう必要はないさ。もう何年も前の話だ。仕方がない」
微笑んでみせる。ただし感情を消した、むしろ酷薄な感じに。
老婆の話を否定せず、だからといってはっきり肯定もしない、見た者を惑わすような表情で。
「イシュルはまだ子どもだったけど、レーネがもう自分はこの先長くないと思って、風の魔法具の継承を急いだの」
マーヤが口をはさんできた。それもいつもと違う、はきはきした早い口調で。
「レーネが焼け死んだのはその時だったんでしょ? 魔法具を継承した時に何があったの?」
こいつ……。なりふり構わずしかけてきた、ってことか?
俺と老婆のやりとりを聞いていて我慢できなくなったか。
マーヤの言ったことはヴェルスのつくり話と符合する。
問題は彼女の質問があまりに露骨すぎるということだ。物言いといい、マーヤらしくない。
昨日と同じか。背後にいるやつにせっつかれているのか?
いや、違うかもしれない。王都にいる彼女の師? 先輩や上司? 彼女の上にいる宮廷魔導師たちの意向かもしれない。
これは面白いかもしれない……。
マーヤの質問は完全に自爆行為だ。
彼らも、ヴェルスの話の信憑性に疑念を持っているのだ。
イシュルは横目でちらっとマーヤの顔を盗み見、顎に手をやり、彼女の質問にどう答えるか、話していいものか、考える風を装った。目の前の老婆の表情に変化はない。
王家、一部の宮廷魔導師たちにはヴェルスのつくり話の信憑性を検証する、充分な知識があると思うのだが、どうもそうではなかったらしい。自分を殺すことによって、風の魔法具を奪えることを知っているのではないかと、今まで彼らを警戒していたのだが。
昨日聞いた、自分と同じ魔法具をからだの中に宿した、辺境伯息女の魔法具継承のやり方、その内容に関しては当然彼らも、特に王家の者は知悉しているだろう。
風の魔法具とヴェルスのつくり話、武神の矢。
おそらく、ヴェルスのつくり話と武神の矢の継承には、何か無視できない相違点があるのだ。
火事になったこと? それとも、ヴェルスは確か、レーネが剣を形づくって俺に授けたとか言っていたよな。そこらへんだろうか。
武神の矢の継承方法と一致しないヴェルスのつくり話、そしてそのつくり話が正確なものなのか確信が持てない、彼ら王家や宮廷魔導師たち。
王家は、宮廷魔導師たちは疑心暗鬼にとらわれているのだ。
マーヤの強引すぎる質問はその焦りが生み出したものではないだろうか。
もちろん、それは彼女個人の探究心の強さから出たものかもしれない。
王家の宮廷魔導師たちだって、魔法に関して互いに秘密にしていることはたくさんあるだろう。何でもかんでも知識や情報を共有しているわけではないから、彼らをひとからげにして結論を出すのは危険だが……。後でマーヤにそれとなく、かまをかけてみるか。
「どうだったかな? まだ子どものころだったし、とても緊張してたからあまり憶えてないんだ」
イシュルは自分の顎に当てていた手を降ろして言った。
マーヤがぶるっと全身を震わせる。
「……話がそれてしまったね。婆さん、守りの指輪の説明、たのむよ」
マーヤの顔を一瞬だが、殺気を込めて睨んでやった。
残念だが、こちらとしてはレーネが死んだ時に何が起こったか、事実を教える気なんかこれっぽっちもない。彼女ら王国の枢要な者たちには是非とも、虚実ごちゃ混ぜにした情報をいつまでも大事に持って、悩み、迷い続けてほしい。事は自分の命に関わることなのだ。あの時の真相を知られるわけにはいかない。俺を殺せば風の魔法具が手に入るかもしれない、などと知られるわけにはいかない。
「おお、そうじゃった」
老婆はイシュルのマーヤに向けた殺気に気づいたのか、引きつった苦笑を浮かべた。そしてイシュルから見て一番右の、青い石の指輪を指差して言った。
「この守りの指輪は、何者かから攻撃されたり、怪我をしたときにその度合いを緩めてくれるんじゃ。魔法を射たれた時もだいたい効くの」
だが老婆の視線は指輪を捉えているようには見えない。なぜだか指輪が見えて、いるらしい。
「この指輪は指にはめておくだけで効く」
「な、なるほど……」
つまり、ひとや魔獣と戦う時でも、ふだんの生活で怪我をした時でも、この指輪をはめていればその時受けた物理的? なダメージを緩和してくれる、ということなんだろう、おそらく。
「どれくらい緩和してくれるのかな」
「まぁ、ほどほどじゃろうの。この手の指輪の効き目はみなそこそこ、といったところじゃ」
それはどうだろうか。例えば心臓に達するような一撃を受けた時に、それがそのまま心臓に達するのか、その手前ですむのかでは、当然結果が大きく違ってくる。まさに名前のごとくお守り程度の魔法具なのかもしれないが、生死を分けるような状況では大きな効力を発揮する魔法具だ、と言えないこともない。
前世のゲームや、実際の武器や兵器の性能のように、なんでも数値化されていて、見る、調べることができればわかりやすいんだが。
「となりの命の指輪は、一回こっきりじゃが、何かで死にそうになった時に、おのれの命を守ってくれるものじゃ。その一回を使い切ると石が砕け散っておしまいじゃ」
「!!」
おそらく母の、ルーシのしていた指輪と同じものだ。
胸の中を冷たいものが流れる。
母さん、ルセル……。
「ふむ、どうしたかの?」
思わずからだを硬直させてしまったイシュルに、老婆が焦点の合わない眸を向けてくる。
マーヤも、さっきのひと睨みが効いているのか、少し遠慮気味にイシュルの顔を見つめてくる。
「いや……、何でもない」
イシュルは顔に手をやり、口許を隠すようにして頬から顎のあたりをかるく押さえた。
「この命の指輪じゃが、ちょっと小難しいところがあってな。何というか、確実に死んでしまうような大怪我を一瞬で負ってしまうと、うまく働かないんじゃ」
老婆は一端指輪の方へ向けた顔を再びイシュルの方に向けてきた。
「ああ、なるほど」
イシュルは頷いてみせる。
「だいたいわかるよ。即死してしまうような時は効かない場合があるってことだろう。例えば一発で心臓をやられたりとか、首を刎ねられたりとか」
「おお、そうじゃな。その通りじゃ。即死、というんじゃな」
老婆は目を見開き大きく頷いて、さも感心しているような仕草をした。
次の細かい彫刻の金のリングは自分の姿や気配を消すことのできる指輪、ツアフの刺青や、おそらくドレートが持っているものと同じものだった。
「ただこの指輪にも難点があっての。おのれを隠そう、隠れようとしなければ効力を発揮せぬ。相反する行動をしようとすると解けてしまう。要するに身を隠したまま剣を振るったり、魔法を射ったりはできないんじゃ」
なるほど。つまり、何か能動的な動きをすると、魔法が強制的にキャンセルされてしまう、ということか。
基本、諜報活動向けの魔法具なんだろうが、待ち伏せや逃げる時にも有効なわけで、諜報に携わる者以外にも使い道がないわけではない。
……ただなんというか、よくできた話だ、と言えなくもない。
「なるほどな。それはもっともな話だ。おのれの姿を消したまま、なんでもできるのならほとんど無敵になってしまう」
前に聞いたゴルンの話に出てきた、ブラカのなんとか大公だったか、そいつの持っていた魔法具とある意味似ている。絶対不敗、無敵になれる魔法具なんてないのだ。有力な魔法具にも何か欠点、いや落とし穴がある。
絶対不敗といえば、それに一番近いのは神の魔法具、ということになるのだろう。
「ほほ。そうじゃの。魔法具とはそいうもんじゃ。最後の指輪も」
と、老婆が説明した緑色のシンプルな形の指輪は、早見の指輪といい、まわりの動くものが遅く見え、感じられるようになる、つまり、知覚のみに作用する加速の魔法具、というものだった。
だが、この指輪の能力はそれだけ。“疾き風の魔法具”と言うのか、加速の魔法のように、自身が早く動けるようになるわけではない。
「……じゃが、それでも槍剣を遣う者には重宝するようじゃ」
それはそうだろう。今の俺にとってはこの指輪がいちばん使い出がありそうだ。相手の動きをより早く知覚できれば、槍剣をふるう者には絶大なアドバンテージになりうる。それは魔法を遣う者も同じだ。
「すばらしいじゃないか」
イシュルは緑色の指輪から目を離し、老婆に顔を向けて言った。
「この早見の指輪の値は? いくらするんだ?」
場の空気が変わった。
マーヤと老婆が顔を見合わせる。
「ん?」
まずい。また何か変なこと言ったか?
マーヤが怯えから立ち直ったのか、やさしげな微笑を浮かべ言ってきた。
「まぁ、お金を払って買うこともあるとは思う」
「ほっほっほっ」
老婆が声をだして笑う。
「まわりからは魔法具屋と呼ばれておるからの。確かにそうじゃな」
老婆が両手をかかげ広げて、
「これくらいの大きさの壷に金銀財宝をいっぱいつめ込んで持ってきてくれれば、どれかひとつ、ふたつ、売ってもよいかの」
と言った。
「……」
そうなのか。そういうものなのか。なんとなくわかる気がする。
「これらの魔法具には値はついておらんのじゃ」
老婆は言った。
「何か他の魔法具と交換か、何かとても珍しいもの、そうじゃな。たとえば赤帝龍の鱗とか牙とか持って来てくれたら、この指輪四つまとめて交換してもよいわい」
マーヤと店主の老婆、そして自分。
ちょっと白けた空気。
場に流れる空気が弛緩している。
いや、それは俺だけか。さすがに今手持ちの金、小銭を合わせても金貨二枚に満たない金額、で買えるような代物ではないと思ってはいたが……。
店の前に飾られているまがい物? の類いはともかく、本物の魔法具は、まともな値がつくような物ではないのだ。
“大物”の魔法具ならそれこそ一国一城と同じ価値がある、ということになるんだろう。
ちらりとマーヤの持つ杖に目をやる。彼女の魔法具もそれぐらいの価値がある、ということか。
彼女から杖を奪うのはとても簡単そうなのだが、きっと何か仕掛けがあるのだろう。最初に特定の呪文、つまりパスワードみたいなもの、を唱えなければ魔法具として機能しないとか、魔法具の本体は別にあって、手に持つ杖は魔力の出力を担っているだけだとか。
「で、あんたはこの翡翠の指輪、早見の指輪じゃが、これがお気に召したわけかの」
老婆が目を細め笑みをつくって、場を取り繕うようにイシュルに話しかけてきた。
「そうだな。それとは別に、あればいいな、と考えていたものがあるんだ」
実はどうしても早めに手に入れておきたいものがあった。
「それは何かの」
「毒見の指輪、みたいなもんはないかな」
自分にとって一番恐いもののひとつは毒を遣われることだ。
「おお、それはよく出回る品じゃ。じゃが今は手持ちがないの」
老婆はうんうん、と頷きながら答えた。
彼女の背後に目をやる。彼女の座る後ろには、折り目のついた濃い赤茶の布が上から垂れ下がり、途中で柱に縛りつけられている。部屋を仕切るカーテン、があるのだが、その奥が真っ暗で何も見えない。その奥に部屋、何かの空間があるのはわかるが、迷いの結界の影響か、広さや、どんな形なのか、何があるのかわからない。
イシュルは老婆の奥にあるものを探ろうと、魔力の感覚を意志的に先に伸ばそうとして、止めた。
奈落だな。とても危険な感じがする。
カーテンの奥に垣間見える暗闇。そこからは何でも知ろう、探ろうとするな。この世には知る必要のない、知らなくてもいいものがあるのだ、と訴えかけてくるような気配が感じられた。
「じゃあ、しょうがないな」
イシュルは老婆に視線を戻し言った。
「婆さん、今日はいろいろと勉強になったよ。ありがとう」
イシュルがそう言うと、老婆は首を横にふり引き止めてきた。
「いやいや、待ちなされ」
老婆は翡翠の指輪、早見の指輪を取り上げ、イシュルの前に差し出してきた。
「今日は挨拶代わりじゃ、特別にこれをあんたに譲ろう」
えっ?
「あんたは特別じゃ。あんたのような者は他にはおらんじゃろ。いつか何か珍しいものを手に入れたら持って来ておくれ。だからこれはその時の前払いと考えてくれればよい」
イシュルが早見の指輪を受け取る。
一種の営業? 初期投資? まぁ、コネをつくっておきたい、ということなんだろう。
「ありがとう、婆さん。それじゃ遠慮なくいただくよ」
イシュルは指輪を受け取り、左手の中指にはめた。
濃緑色の翡翠の指輪はしかし、触っても指にはめても、特に何も感じられない。
「これの使い方は?」
「ふむ、なかなか説明が難しいのじゃが」
老婆は顎に手をやりさすりながら言葉を続けた。
「おまえさんの身長よりふたまわりほどの距離の中に、もの凄く早く動くもの、おまえさんに向かって動く危険なものが入ってくると、自然と時の流れが遅くなって、おまえさんが見、感じるものすべてがほとんど止まって見えるようになる。自分の動きもそれに合わせて遅くなるがの。もちろん心の中の動き、ものを考える早さは変わらん。前もって呪文を唱えたりとかは必要ないんじゃ」
「なるほど……」
身につけるだけで常時発動する、パッシブ型の魔法具ということか。
「こちらから遅くなれ、遅く見せろ、と念じても、呪文を唱えても意味がない、ということだな」
「左様じゃ」
「疾き風の魔法を使った者の動きはどう見える?」
老婆は薄く笑った。
「わたしもよう知らんが、たぶんその魔法がどれくらい強いものかで見え方が違ってくるじゃろう」
マーヤとふたり、店を出るときに老婆が声をかけてきた。
「そうそう、わたしの双子の姉がエストフォルに同じような店を出している。何かいい品があったらそちらに持ち込んでもらってもええぞ」
エストフォルとはオルスト聖王国の都だ。
イシュルは頷くと、老婆の奥に見える暗闇に目をやった。
「毒味のことだけど」
店を出て、来た道順をそのまま逆に歩いていると、マーヤが声をかけてきた。
「なに?」
「イシュルは精霊を呼び出せるよね?」
「ああ」
イシュルの横を歩いていたマーヤは立ち止まってイシュルを見上げてきた。
「精霊にお願いすればいい。ほんとは水の精霊が一番だけど。風の精霊もなかなか」
「精霊が教えてくれるのか?」
「そう。契約している精霊がいれば、危ない時はいつでもその精霊が教えてくれる」
「ほう……」
「イシュルは契約精霊がいないよね」
「ん? ああ……」
そんなことがわかるのか?
「マーヤはそういうこと、わかるのかい?」
たとえ特定の精霊と契約していようと、召還しなければ第三者にはわからない筈だ。
「イシュルの場合はなんとなく」
「なぜ?」
「イシュルだったら大精霊と契約できるでしょ」
マーヤの眸がひときわ大きくなったような感じがする。
「契約した精霊はわざわざ召還しなくても、意志の疎通くらいはできる」
だから、例えば食べ物に毒を盛られたり、寝ている時に襲われそうになったりすると、大抵は精霊の方から教えてくれるのだという。
なんて便利な。
「大精霊だったら、契約者と心の中でちょっとやりとりするだけでも、魔法使いならわかってしまう時があると思う。気配が凄いだろうから。イシュルからはそんな気配は感じなかったから」
それで俺がまだ精霊と契約していないと考えたわけか。
だが凄い精霊と契約していると他者に知られてしまう可能性がある、というのはどうなんだろう。
間違いなく威嚇にはなるだろうが。
「風の精霊だったら、毒を調べるのも得意だろうし」
なぜ、風の精霊だと毒見が得意なんだろうか。
イシュルはマーヤの顔を漠然と見つめながら考えた。
そうか。考えてみれば納得できないこともない。
ほとんどの食べ物にしろ飲み物にしろ、当然まわりの空気と接し、ものによっては蒸発したりして空気中にその成分の一部が混ざり込んでいるわけだ。精霊に毒物の知識があるのか知らないが、その空気中に混ざり込んだ、あるいは空気と接している箇所から、ひとにはない鋭敏な感覚や勘みたいなもので、異物感や何かの悪意の痕跡、みたいなものを察知することは簡単にできるだろう。
精霊とは神の世界と、現実の世界の自然の中に介在し、ひとにも接触、介入してくる不思議な存在なのだ。
昨晩イシュルに、かなり強そうな風の精霊をぶつけてきた金髪の女魔導師カリン。あの時の光景が目に浮かぶ。
大精霊と契約できれば、普段の生活で自分の身を守るだけでなく、何かで戦わなければならない時にも、圧倒的な戦闘力を手に入れることができるだろう。
ぜひとも赤帝龍と戦う前に大精霊を呼び出して契約したいところではあるが……いかんせん精霊を呼び出すことはできても、「大」という名のつくような凄い精霊を呼び出す確信が持てない。契約自体は召還した精霊に「名」を与えればできると思うんだが。
「まぁ、そ、そのうちな」
もうマーヤにはこちらの魔法に関する知識が薄弱であることは知られてしまっている。だが、どうしてもあやふやな返答をしてしまう。
マーヤが視線を逸らし、前に向かって歩きだした。
「そうかも。確かに急がなくてもいいかも」
マーヤの横顔がそう呟いた。
朽ちた城壁の間を抜け、丘の西の端、迷いの結界による違和感を感じたあたりまで戻ってきた時、イシュルは後ろを振り向いた。魔法具屋のある方を見た。
一瞬、脳裡に魔法具屋の正面の絵が浮かんだような気がした。
蔦のからまる石造りの家。正面中央に木の扉、両脇に十字の木の枠のガラス窓、童話に出てくるような家。その周りが黒く覆われ、やがて遠のいていき、最後は周りが真っ黒に塗りつぶされ、少し目を離してピンホールから覗いたような、あやふやな小さな姿になって消えていった。
頬を風がなぜていく。
結界から抜けたのだ。
「イシュル?」
マーヤが数歩先で佇んでいる。
「いや、なんでもない」
よく考えてみれば、魔法具屋が結界を張るのも道理にかなっている。あの店は途方もない価値のある物を扱っているのだ。
確かに迷いの結界のような、類似するような手段を講じておかなければ危険きわまりない。
レーネも衰えた自分を守るため、平穏な隠遁生活を守るために同じような結界を張っていたのだろう。普段は村人や、ベルシュ家に縁のある者しか結界の中に入れないようにしていたのだ。
「マーヤ」
イシュルがマーヤに声をかけた。
「あの魔法具屋は王家、大公家と何か関係があるのか」
この場所にある、という時点でそこらへんがとっても怪しい。
「直接はないよ。ただ王都の魔導師ギルドと」
そこでマーヤが首を横に傾け考える風をする。
「契約? 提携? しているの」
「魔導師ギルドだって!?」
イシュルが思わず大声をあげる。
そんなものがあるのか。
「うん。宮廷魔導師の組合。宮廷魔導師とその弟子しか入れないよ」
マーヤがかるく微笑んだ。
「そうか」
「ここらへんでは王都とエストフォルにしかないと思う」
「魔導師ギルドがか?」
「そう」
魔法具屋の老婆が、姉も魔法具屋をやっていて、その店がエストフォルにある、と言っていたが、姉の店は聖王国の魔導師ギルドの庇護を受けている、ということになるわけか。
「イシュルも王国の宮廷魔導師になればいいのに」
マーヤが笑みを大きくし、顔を近づけてきた。
「いろいろ便利だよ?」
そんなことになれば、こちらも便利使いされるんだがな。
しかも、だ。やつらはこちらの力だけでなく、風の魔法具の継承の秘密も手に入れたがっている。
それで思い出した。
マーヤに言っておきたいことがあったのだ。かまをかけてやろうか、とは思ったが。
「マーヤ、さっきの、俺の風の魔法具、神の魔法具がどうやってレーネから譲渡されたか、って話だけど」
他人に向かってはじめて“神の魔法具”という言葉を口に出した。
正面からきちんと話そう、そうすべきだ。
「おまえも、王国に仕えているのだからいろいろと役目もあるんだろうが」
マーヤが少し顎をひいた。目だけをこちらに向けてくる。
「マーヤなら、これは触れたらまずい、というような禁忌な事柄をいろいろとわかってる筈だ。そうだよな」
マーヤは返事をしない。でも変わらずこちらを注視し続けている。
「ことは風の神のご意志にかかわることだ。むやみに探ろうとすると、大変なことになるぞ」
彼女の態度を見るに、俺では鎌掛けなど無理だろう。ならはっきりと言うしかない。言っていることにごまかし、嘘偽りがない、とは言い切れないが。
「わかったよ。伝えておく」
マーヤは頷いた。
伝えておく、か。
彼女のやさしさだろうか。ひと言つけ加えて、頷いてくれた。
大事なひと言を。
丘の上にはもう子どもたちの遊ぶ声はしない。
西日が横から直接当たってきて、心地よい暖かさを感じる。
マーヤと丘を下る途中で、フロンテーラの南側の市街を眺めることができた。
街の南側は貴族や神殿、役人たち住む区域だ。東の方に大公城が見える。水堀と城壁、曲輪が複雑に重なり、中央の木々に囲まれたあたりに、赤い屋根と明るい灰色の石造りの宮殿が見え隠れしている。
城の構造自体は、江戸時代の平城に近似しているかもしれない。
ふたりはその後、言葉少なに丘を降り、イシュルは昼に待ち合わせた、西の橋の城門までマーヤを送って行った。
薄暗くなった城門前で、イシュルはマーヤに今日の礼を言った。
「今日は魔法具屋に連れて行ってくれてありがとう」
左手中指にはめた指輪を彼女に掲げる。
「うん」
マーヤはいつもの無表情で頷くと、
「二日後、明後日に南門に来て。フゴに出発するから」
何気に重要なことをいってくる。
南門へはこの先、南の方へ城壁伝いにひたすら歩いていけばたどり着く。アルヴァを経由し、目的地のフゴやクシムへと続く街道に面している筈だ。
「時間は?」
「明けのひとつ刻」
夜が明けてから約二時間後、になる。大陸では一日を二時間ずつ、十二に区切って時刻を表わす。
この世界でもおそらく一日の長さは変わらない。体感的には、だが。
その体感、にしても、完全に別世界に生まれ育ったわけだから、判断の基準にはならないかもしれない。
「わかった」
その後旅に必要なもの、マーヤに随行する護衛や従僕などに関して簡単に話をして別れた。
別れしに、イシュルはマーヤにぐん、と顔を寄せて言った。
「これからいっしょに死地に飛び込むことになるんだ」
マーヤは最初、少しびっくりした表情をしたが、すぐにしっかりと、イシュルに目を合わせてきた。
「俺のわがままかもしれない。だけど王家だの宮廷魔導師だの、そんなこととは関係なしに、ふたりでお互いに信頼しあえるようになりたいんだ」
マーヤの眸を見つめる。
「お互いの命がかかってるんだ。とても大切なことなんだよ。つまらない駆け引きなんかどうでもいい。俺はマーヤを信頼する。ね? だからマーヤも」
「うん。ありがとう、イシュル」
マーヤはめずらしく、こちらの言葉を遮ってきた。
そして頷いて、にっこり笑ってくれた。
「しまった!」
滞在先、セヴィルらの仮住まいへと帰る道すがら、イシュルは突然、ひとり大きな声で叫んだ。
右手には、夕日を映したベーネルス川の川面が静かに揺れている。
魔術書だ!
書店があるのか、どこにあるか、マーヤに聞くのを忘れていた。
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